●黒狐のコート


 昔、イッシュ地方の北の方に十数の部族が住んでおりました。
 彼らはそれぞれに祖たるポケモンがおりました。
 今でこそ姿も考えも人間のそれですが、遠い昔にポケモンと交わっていたのでごくまれにポケモンに近い者が生まれることもあって、かつて祖がそうであったように山の中へ帰っていくものもありました。

 さて、ここにゾロアークを祖とした部族があり、そこにクリストフという若者がおりました。
 クリストフは今どきの生まれの若者達とは違い、大変毛深く生まれました。
 赤黒い髪の毛の生え際は首を伝って背中のはじめくらいまでありますし、爪は黒々として鋭いのです。
 犬歯は同世代の誰より尖っていますし、金色に光る眼の周りは相手を威嚇するように赤く染まっていました。
 その姿は祖であるゾロアークを彷彿とさせたのです。

 そんなクリストフも人並みに成長し、そろそろ嫁を貰おうかという歳になりました。
 けれどもすっかり人間となって祖の血が薄まってしまった一族の女達は彼を怖れ、誰もクリストフのところには嫁ぎたがりません。
 絶望したクリストフは長老のところへ行くとこう言いました。

「長老、私はかつて私の曾お祖父さんの弟がそうであったようにポケモンに戻って山で暮らそうと思います」

 長老はクリストフを止めましたが、彼の決意は変わりません。
 このまま人の男として認められないまま、集落で孤独な一生を過ごすくらいなら、いっそ人間を捨てて獣となり、野山を駆け回ったほうがましのように思われたのです。
 長老はしかたなくポケモンになる方法を彼に教えました。

「太陽が昇っている時間が一番少ない冬至の日、朝一番に山脈で一番高い頂上に行くように。そこで降る雪は特別だ。お前に触れるたび、お前の人間の部分を溶かしてしまうだろう」

 それを聞いたクリストフは冬至の前日の夜に山を登っていきました。
 雪道を歩いていると、途中何人かの若者と出会いました。
 彼らは一様に異様な姿をしていました。
 ある者はクリストフと同様に毛深く、ある者には角が生え、ある者の腕には羽毛が、ある者には鱗がありました。
 クリストフは悟りました。
 この者達は自分と一緒なんだ。
 みんな人になる事が出来ずにそれぞれの集落を出てきた者達なのだと。
 彼らは互いに励ましあいながら、吹雪の山を登りました。
 特にクリストフと仲良くなった毛深い男は、彼が寒さに震えていると自分が羽織ているコートを貸してくれました。
 クリストフは遠慮しましたが、男はいずれ山頂で脱ぎ捨てるのだから良いのだと言って、クリストフに毛皮のコートを着せました。
 そう、雪を十分に浴びる為に、彼らは山頂で服を脱がなければいけないのです。

 やがて空が白み始め、山頂が見えてきました。
 東の空から光が差すと同時に彼らは我先にと走り出しました。服を脱ぎ捨て山頂へと殺到します。
 冷たい風が吹いて空からキラキラと輝く雪が舞い、彼らの身体に触れました。
 するとどうでしょう。
 彼らはみるみると人としての輪郭を失い、ある者は獣の姿になって走り出し、ある者は鳥の姿になって飛び立ち、ある者は蛇の姿になって雪道を這いました。
 クリストフも後に続こうと山頂に走りました。

 ところが。

 毛皮のコートが脱げません。
 山頂でコートを脱ごうとしたクリストフは、それが身体にぴったり張り付いて、ちっともとれない事に気がついたのです。無理やりにはがそうとしてもまるでコートは意思を持っているかのように抗うのです。

 そうしているうちに風が止みました。
 もうすっかり山頂には日が昇り、みるみる雲が逃げて青い空が広がっていきます。
 するとさっきまで散々に彼に抗っていたコートの毛皮が、右の袖、左の袖、前、後ろと、縫い目に合わせて、ばらばら剥がれ落ちていくではありませんか。
 そして、剥がれ、雪の中に落ちた端切れのそれぞれに大きな黒い尻尾が生えたものだからクリストフは腰を抜かしました。
 尻尾の生えた端切れがくるりと翻ると、黒い小さな狐のポケモンになりました。
 それはゾロアでした。
 一族が祖とするゾロアーク、その成獣になる前の姿です。
 クリストフが毛皮のコートだと思っていたもの。それは複数のゾロアが化けて集まったものだったのです。
 くききっとゾロア達は笑うと、彼が来た雪道を来たの方向へ走り出していきました。
 待て、とクリストフが振り返ると、その方向にはコートを貸した男が立っていました。
 男はにやりと笑うと、服を脱ぎ捨てるような動作をとります。
 するとどうでしょう。男の姿はもはや人ではありませんでした。
 黒い毛皮に赤黒く長いたてがみ、金色の瞳に眼を強調する赤い模様。前足と後ろ足には鋭い爪。
 それはクリストフの部族の祖たるゾロアークの姿そのものでした。
 ゾロアークはクリストフにもう一度笑いかけると、ゾロア達を長く豊かなたてがみの中に隠し、颯爽と走り去って行ったのです。
 クリストフはしばらく呆然としていましたが、再び空を見てはっと我に返りました。
 すっかりと日は昇り、空は晴れ晴れとしていました。
 もう山頂の雪が吹かない事を知って、クリストフは慟哭しました。

 自分は人間になれなかった。
 かといってポケモンになることも許されなかった。
 祖であるゾロアークに直接その烙印を押されてしまったのだ、と。

 みんな私を置いていってしまった。
 人間にもなれず、ポケモンにもなれず、私は一人取り残されてしまった、と。

 クリストフはとぼとぼと山を降りていきました。
 生き恥を承知で集落に戻ろうか。
 それともどこか遠くへ行って一人隠れ住もうか。
 いっそ山頂に戻って身を投げてしまおうか。
 さまざまな考えが頭をよぎりました。
 けれど結局戻る他はありませんでした。

 彼は少しでも戻る時間を長くしたくて、行きとは回り道をしました。
 そうして少し急な雪道を歩いている時に樹氷の影に誰かがうずくまっているのを見つけました。
 近寄ってみるとそれは女で、しくしくと泣いているではありませんか。
 一体どうしたのかとクリストフは尋ねました。
 女は言いました。

 自分は見てのとおり、祖たるレパルダスの姿を強く残している。毛深く、耳の形もおかしくて嫁に行けなかった。いっそ人の部分を捨てポケモンになろうと、冬至の日の朝に雪を浴びようとやってきた。
 だが、登山の途中に何者かに襲われ、足を怪我をしてしまった。
 山頂に行き着く事もかなわなず、ポケモンになる事もできず、おめおめと集落に戻る事もできない、と。

 そこでクリストフは言いました。
 それなら私の所にきてほしい。
 私のような者の所よければ嫁に来てほしい、と。
 女は頷きました。
 クリストフは女を背負うと意気揚々と集落に戻っていきました。


 クリストフが集落に戻って以降、もう冬至の日に山頂に昇る者はいなくなった。
 部族の間ではそのように伝えられているという事です。