風、一陣
(豊縁昔語より)





 昔、豊縁に新緑の国と呼ばれた場所がありました。
 学問が栄え、豊かな国でありました。
 山が多く、樹の緑が燃えるこの国には、春には美しい桜がたくさん花を咲かせます。
 国を治める領主も、民も、桜の名所に出かけていって花を愛で、楽しんだのでございます。


 さて、この国に領主の寵愛を受ける一人の女がおりました。
 女の名をユヤと申しました。
 彼女はここより東にある「赤」の都に住む有力者の娘で、この国に嫁いできたのでございます。
 今、この国の主である領主は「赤」の出身。先の戦にて勝鬨を上げ、この国の主に収まったばかりでした。

 領主は三人の側室を迎えました。
 一人は自らが新たに治めるこの国から、もう一人は隣の国から、そしてもう一人が本国たる東の赤の都からでした。
 今の領主は国を平定したばかり。悪く言えば余所者でございました。
 早くから国の者達を懐柔したいと考えていた領主は、まずこの国の女と交わりました。
 また外交のことを考え、隣国の女を迎えました。
 そしてこの国より東にある本国のつながりも重くみて、最後にユヤと契りを結んだのです。
 三人の側室には三者三様のよさがございましたが、見目美しく、和歌を嗜み、舞の上手であったユヤは特にかわいがられておりました。
 しかしながら都育ちであるユヤはこの国のことがあまり好きではなかったようです。
 文化も考え方も信仰する神様も違うこの国には染まりきれずにおりました。

 季節は春、日に日に暖かくなってきております。
 三分咲きだった桜は、五分になり七分になろうとしております。
 ユヤに生まれ故郷からの文(ふみ)が届いたのはそんな頃でした。
 使いの者から文を受け取ったユヤは驚きました。
 届けられた文は母の加減が悪い、という内容だったからです。
 もともと病気がちの母ではありましたが、ここのところは特によくないというのです。
 文の最後は、今一度会いたいという母の切々たる想いが書き付けてありました。
 こうなるとユヤはもう母のことが心配で心配でなりません。
 そこで、さっそく夫である領主に帰郷の許しを請いに行ったのでございます。

 そんなユヤの姿をどこから見守る者がございました。
 それは豊縁の諸国を流浪する旅人でした。
 春の訪れに誘われるようにして、ついこの間この国にやってきたのです。
 故郷を持たず、流浪の旅をする一行を率いる頭領であった彼は、ひとたび跳躍すれば、誰よりも高く飛びあがり、遠くまで見渡せる目を持っていました。
 ですからユヤのことも、屋敷から遠く離れた樹の上から覗き見ておりました。
「ずいぶんとあの娘のことが気になっておられるのですね」
 隣に座って見ていた、身体の小さい小姓がひやかします。
「この国に来てからずっとです」
「五月蝿い」
 頭領はぶっきらぼうに言います。
「まぁ無理もございません。美しい女子ですものなぁ」
 頭領が睨みつけてきましたが、小姓は気にする様子もありません。
「今は桜の季節にございますれば、あの娘も花見に出かけましょう。そうしたらもっと近くでお目にかかれますよ」
 と、小姓は続けました。

 さて、娘のほうに話を戻すと致しましょう。
 まず領主の答えは否でありました。
 故郷の母に会いに行く為、暇を願い出たユヤに領主が返した返事は冷たいものでした。
 暇(いとま)はならぬ。それが領主の答えでした。
 なぜかと問うユヤに対し、領主は今は大事な時期なのだと言って聞かせました。
 自分は今この国を平定し、新しく側室を迎えたばかり。
 迎えたばかりの側室が早々に国に帰ってしまうとあっては格好がつかないと言うのです。
 ましてやユヤは本国から迎えた側室、ユヤが帰ってしまうとあっては、厳しい周りの目は領主と本国の関係をそのように見るかもしれません。
「近々花見の宴がある故、同行するように」
 そう言い残して、領主はその場を去りました。
 今一度母に会いたいというユヤの願いは聞き入れられなかったのです。

 桜はいよいよ旺盛に花開きました。
 人々は重箱にごちそうを詰めて出かけ、桜を見上げて花と酒を楽しんでいます。
 人々が思い思いの場所で楽しむ桜の咲く山を緩やかな坂道が二つに分けています。
 そこを輪の模様のある赤い駱駝(らくだ)の引く牛車が通ってゆきました。
 領主の花見の一行でした。
 山上の、古くからこの国にある寺社で宴を催そうというのです。
 牛車の簾の間からは山にかかるうっすらと紅の入った白が垣間見えます。それは皆桜であって、まことに美しい光景でした。
 ですが駱駝の引く車に揺られ道を行くユヤの心は重く沈んでおりました。
 故郷で自分を待つ母のことばかりが気にかかっていたからでした。
 車の横では、都からユヤの迎えに来た使いのアサガオが歩いておりました。
 領主がユヤに帰郷の暇を許さなかった為に帰ることもままならず、宴に同行していたのです。
 母の命はもう長くは無いのだ。
 ユヤはそのように感じておりました。
 都からわざわざ侍女のアサガオが迎えが来た、それが何よりの証拠でした。

「どうやらあそこで花を見るようですね」
「そのようだ」
 牛車と列成す一行の様子を高い樹の上から眺めながら、旅の頭領とその小姓は語りました。
 それにしても気になるのは娘の元気のなさです。
 せっかくの花見日和だというのに塞ぎこんでいるのが頭領の目から見てもわかりました。
「少し様子を探って参れ」
 頭領は小姓に言いました。

 やがて一行は牛車を降りると、宴の席へとつきました。
 寺では何人もの従者が領主の到着を待っておりました。
 優雅な琴の音が響き始き始め、きらびやかな衣装を纏った侍女たちが集まった男達に酒をついで回ります。
 桜を見上げての宴が始まりました。
 今の領主がこの国を治めてからはじめての花見です。
 領主は宴の席へ呼んだ者達に次々に声をかけ、日頃の働きを労って回りました。
 そして、民の様子はどうだろうか、今年の作付けはどうだろうか、あの役割にはあの者がどうだろうか、などと話を聞いたり、自らの様々な意思を伝えて回ったのでした。
 咲き誇る桜を背景に女達の舞う姿を見て、来客たちは皆楽しそうにしておりました。

 一方のユヤはとても宴を楽しむ気分にはなれません。
 宴が盛り上がる中、ユヤの姿はアサガオと共に同じ寺の仏前にありました。
 ユヤの目の前に立っているのは、この国の主が今の領主に変わる前からある古い古い彫像でした。
「ずいぶん古いようですけど、おかしな形をしておりますこと。やはりこの国は変わっておりますねぇ」
 と、ユヤと同じように都育ちであるアサガオが言います。
 それは彼女達の故郷の神とはまるで違う形をしておりました。
 慣れ親しんできた信仰とは異なる教えの象徴がそこにあったのです。
 けれど、いつのまにかユヤは仏前に手を合わせていたのでした。
「どうかあの方が暇をくださいますよう」
 と彼女は願いを口に致しました。
 色が違うとか、形が違うとか、そんなことにはこだわっていられませんでした。
「お願いです。母がこの世を去ってしまう前に今一度、顔を見たいのです」
 彼女は続けます。
 たとえどんな色の神であっても、母を想う気持ちであれば、通じる気がしたのです。
 ユヤはなんとしても、一刻も早く母の元へ行きたかったのでございます。
「アサガオや、私は悪い側室ですね」
 と、ユヤは言いました。
「母会いたさにこうして名も知らぬ異形の神にまで願をかけてしまいました。こんなことでは私を送り出した父上に怒られてしまいます」
 そう続けて苦笑致しました。
 本当は彼女にもわかっていたのです。
 自分の夫は、まったく色の異なるこの国を、信じる神も考えも違うこの国を一刻も早くまとめようとしているのです。
 そのことに必死なのです。
 先の戦で片腕とも呼べる部下を失い、様々な犠牲を払って、彼女の夫はこの国に入りました。
 今日の宴席には元来からこの国にいた者達もたくさん呼ばれています。
 彼らから見れば侵略者たる自身の夫は、もしかしたら殺されるかもしれない危険を背負いながら、この国をまとめようとしているのです。
 そこを妻たる自分が留守にするわけにはいかないのです。
 本当はわかっているのです。
「参りましょう、アサガオ」
 彼女は身を翻すと、宴の席の大広間へと戻ってゆきました。
 自分達をそっと見守っていた小さな影には気がつきませんでした。

 寺の大広間から見える桜は今こそ盛りと満開です。
 酒宴の席には鼓の音が響き、杯を手にした男達の視線は、満開の桜、そしてその下で舞うユヤへと向けられておりました。
 舞の得意なユヤに夫たる領主が一曲所望したのです。
 ユヤはそれを快く引き受けました。
 それが妻たる自分の役目と考えたのでございます。
 琴の音が流れるようにして響き、笛の音が染み渡ります。
 ユヤは衣を翻し、今まさに扇子を大きく広げ、舞を締めんと致しました。
 その時です。

 突然、一陣の大きな風が吹き抜けました。

 思わず目をつむってしまう程の強い風でした。
 それは大広間を一巡するようにして吹き抜けました。
 まるで意思を持ったような風でございました。

 強風が通りすぎてユヤはそっと目を開きます。
 すると大広間から見える桜の樹の花の花弁が風に巻き上げられて、ひらひらと散っていく様が目に入ったのでした。
 領主も、大広間で酒を酌み交わしていた者達もしばしその様子を呆然と眺めておりました。
 まるで目の前で雪が降っているのかと見紛うほどに、それはそれはたくさんの花びらが舞い散っていたのです。
 花びらがひとひら、またひとひら、ユヤの足元に舞い落ちました。
 唐突に、ユヤの目から涙が溢れました。
「アサガオ、筆と短冊をここへ」
 ユヤは静かに言いました。
 そうして使いのアサガオから筆と短冊を受け取ると、彼女はさらさらと何かを書き付けたのでございます。

"いかにせん都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん"

 和歌の得意なユヤはそう書き付けて、領主に渡しました。
――貴方と離れるのも辛いですが、今は東にある母の命が散ってしまうことが惜しいのです。
 ユヤはそのように母への想いを詠ったのでした。
 彼女は舞い散る桜の花の中に、今まさに命散らさんとする母の面影を見たのでありました。



 遠くから見守る旅人達の目に、急ぎ山を降りていくユヤとアサガオの姿が入りました。
 その軽やかな足取りから、ついに彼女は暇を手にしたのだと、彼らは確信いたしました。
 きっと急ぎ故郷に戻るつもりなのでしょう。
 後ろからはまだ宴の華やかな楽奏が聴こえて参ります。
「それにしても白髭様、少々やりすぎではありませんか」
 頭のてっぺんから木の枝を生やした鼻の高い小姓が言いました。
「仮にも貴方様は樹の化生なのですから少しは加減をしてください。せっかく桜が半分以上散ってしまったではないですか」
 そのようにいさめる小姓の横には、彼より一際大きな身体をした頭領の姿があります。
「五月蝿い。こういう時の加減がわからなかったのだ」
 大きな顔から突き出た長い長い鼻、にょきりと生えた長い耳、全身に白い毛皮を纏ったような姿をしたそのポケモンは、扇のような、楓の葉のような形をした自ら手を見てそう答えました。
 娘とその侍女の姿が遠ざかってゆきます。
 彼らはしばしの間その姿を見守っておりました。


 東路さして行く道の。やがて休ろう逢坂の。

 関の戸ざしも心して。明けゆく跡の山見えて。

 花を見捨つるかりがねの。それは越路われはまた。

 あずまに帰る名残かな。あずまに帰る名残かな。


 かつてこの豊縁には、あまたの色があり、あまたの神々が住んでおりました。
 ユヤはそれを「異形の神」と呼んでおりましたが、もしかするとこの白髭という大天狗もそんな「異形の神」のうちの一人だったのかもしれません。
「羨ましいものよのう。あの娘には帰ることの出来る故郷があるのだ」
 そのように白髭は呟きました。

 風が一陣、春の山を吹き抜けてゆきました。















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出典:能演目より「熊野(ゆや)」



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