昔むかし、今はポケモンと呼ばれる者たちが今より人に近かった頃のお話です。
 秋津国の南に豊縁と呼ばれる土地がありました。
 四季を通して温暖で、豊かな緑と豊かな縁を成すその国を人々は豊縁と呼んだのでございます。

 しかしながら、この頃の世は乱れておりました。
 有力な豪族であった二氏がこの豊かな地のあちこちで争っていたのでございます。
 栄えた都が水に押し流されたり、村々から火の手があがったりいたしました。
 都からは様々な文化が、村々からはその年の収穫物が失われてゆきました。
 ことにそうして日々の糧を失った身分の低い者、女、童(わらべ)達は悲惨でありました。
 乳が出なくなった母の子は死を待つより他ありませんでした。
 母を失った子は飢える他ありませんでした。

 さて、とある都に近いとある村もまた、炎が田を舐めました。
 多くの童が命を落としました。多くは飢えて死にました。
 村には小さな神社がございましたが、神の名を書いた札や書物は焼け焦げ、すでに神主の姿はありませんでした。
 そうして、ここにも一人の童がおりました。
 住む家を失い、母をも失ったその童は、社の下で雨と風を凌ぎながら、けれど多くの童達と同様に死を待っていたのでございます。
 着古し汚れた粗末な衣、虱(しらみ)の沸いた髪、乾いた虚ろな瞳。
 彼は床に皮と骨ばかりになった痩せた身体を横たえて、めったに動きません。
 もはや食べ物を探し彷徨う力も残されておりませんでした。
 そうして何日かが過ぎました。
 何度かの蒸し暑い昼が過ごし、同じ数の夜になりました。
 そうして、何度目かの夜を迎えた時、神社に誰かたずねる者がありました。
 村は荒れ果てておりましたが、月だけは美しいそんな晩でした。
 山賊かもしれません。
 役人かもしれません。
 死体を焼く仕事の卑しい身分の者かもしれませんでした。
 けれど、身体を横たえたまま童は動きません。
 入ってきたものが何者であろうとも、盗まれるようなものを持っておりません。抵抗したり、逃げたるする力ももはやないのです。
 ゆったりとした動作でその人物は入って参りました。
 かすれた視界に映ったのは、山賊でも役人でも、死体焼きの者でもないようでした。
 真新しいものではありませんが美しい衣を羽織っております。
 白い肌は月夜に照らされて、青白く見えました。
 ああ、ついに「迎え」が来たのかなあ。童はそんな事を思いました。
 入ってきた男はすっと手を伸ばすと、童の頭を撫で、語り掛けました。
「名はなんというんだい?」
 落ち着いた、優しい声でした。
「千代丸……」
 童は弱々しいながらも名を告げました。
「君のお母さんやお父さんは?」
「おっとうは戦に行ったまま帰って来ない。おっかあは痩せて死んだ。おらに食べ物を与え続けて、自分は食わないから先に死んでしまった」
「そうか……可哀相に」
 男は懐から飴玉を取り出すと童の口に入れてやりました。
「ああ、うまい。甘くてうまい。おいらこんなうまいものはじめて食った」
 童は言いました。
 同時になんだか急に体が軽くなったような気がいたしました。
 両の手で童の頬に触れ、顔を近づけて男は言いました。
「私のところへおいで。私のところに来ればもうお腹をすかせることも無い。その飴よりももっともっと甘くておいしいものを食べさせてあげよう」
「ほんとう?」
「ああ、本当だよ」
「じゃあ、連れて行っておくれ」
 男は童の返事を聞いてふっと笑みを浮かべました。
 そうして童を抱きかかえると自らの屋敷に連れ帰ったのです。

 男の屋敷は村近くの都にあって、彼は自身を下級の貴族であると言いました。
 彼の屋敷には、彼があちこちから連れてきたというたくさんの童たちがおりました。
「千代丸、千代丸じゃないか」
 童の中から知った声がいたしました。
 それはかつて村でいっしょに遊んだことのある童の一人でした。
「おまえもここに来たのか」
「ああ、あの人が連れてきてくれた」
「そうか、そんならもう心配要らないよ。兄様は優しいし、毎晩お腹いっぱい食べさせてくれるよ。もうお腹をすかせなくていいんだ」
 そういって友達は笑いました。
「さ、こっちに来て遊ぼう」
「遊ぼう」
「遊ぼう」
 童達が口々にそう言って、童を誘いました。
 振り返ると男が行っておいでよという風に笑っていました。
 大勢の童達に袖をひっぱられながら彼はここに来てよかったと思いました。

 次の日の夜になりました。
 男は屋敷の童達を連れ出しました。
「どこに行くの?」童が尋ねると、
「食事に行くんだ」と別の童が答えました。
「行く場所は日によって違うんだ」とまた別の童が答えました。
「この前のはよかったなぁ」
「ああ、あの大きい公家屋敷か。あれはすごくよかった。あそこで食べたのは甘かったねぇ」
 童達は口々にそんなことを言いました。
 どうやら、男は童達をいろんな場所に連れていってそこで食事をとらせるようなのです。
 するとふと、向こうから僧職と思しき人物が歩いてくるのが見えて、童達は一斉に男の後ろに隠れました。
「どうしたの?」
 と千代丸が尋ねると、
「あの人、怖いんだ」
 と童の一人が答えました。
「僕達の事、あまりよく思っていないみたい」
「兄様にもなんか冷たいし」
「もっとも、兄様は気にしていないみたいだけど……」
 道の向こうから見えた僧職とおもしき男もこちらに気がついたようでした。
 すると童を連れた男が先に挨拶しました。
「今晩は、天昇上人(てんしようしようにん)。今宵も月がきれいですね」
「…………また数が増えたな」
 僧職の男はぼそりと言いました。
「ええ。私が足を運べるほどに近い場所でまた村が燃えました」
「………………その童は新入りというわけか」
 男の背中からちょこっと顔を出して、見ている童を見て、彼は言いました。
「そう、この子は千代丸と言うのです。かわいい子でしょう」
 男は千代丸の角の付いた頭を撫でて言いました。
「……なぜ人のまま死なせてやらなかったのだ」
「この子が望んだことです。天昇上人」
 くすりと笑って男は言いました。
「あなたはそういう目でこの子達を見るけれど、人であるということはそんなに高尚なことなのでしょうか。各地の神を殺して回り、村々を焼いたり、都を沈めたりして、童達を飢えさせる人という存在が? それならばいっそ、そんな形など捨ててしまったほうがよほど幸せではないでしょうか。そうは思いませんか?」
「…………」
「私は貧乏な下級の貴族ですから、大勢の童達を救う力はありません。でもこの形にしてしまえば、飽咋(あきぐい)にしてしまえば、何十でも何百でも養うことが出来ます。戦火は様々なものを奪いますが、確実に増えるものがあります」
「恨みと怨み」
「そう、それがこの子達を満たしてくれます」
 男は満足げにうっすらと笑みを浮かべました。
 上人はぎゅっと拳を握りました。
 かつて国を追われたこの僧に飢えた童達を養うだけの力は無いのです。
 彼はただただ自分の無力を呪いました。
「……飽咋になればもう飢えて苦しむこともありませんから。では」
 そういい残すと、童達を従え男はその場を去ってゆきました。
 一方の千代丸はわけがわかりません。彼は心配げに男を見上げました。
「大丈夫だよ」
 再び千代丸の角のついた頭を撫で、男は言いました。
「君は最近まで人だったから、感覚が混乱しているだけ。すぐに慣れるからね」
 そのとき彼は気がつきました。
 自分がもはや地に足をつけていないこと。手足がなくなって、角を生やした首とひらひら風に揺れる衣だけが宙を舞っていることに。
 そうして彼は三つの色が光る目で確かめました。
 一緒にいる童達もそんな自分と同じ姿をしていることを確かめたのです。
「人が生み出す恨みや怨みは飴玉より甘いんだ。君もきっと気に入るよ。さあ、行こう」
 男はそう言って、都の路地を歩いてゆきます。
 その後ろを何十もの黒い影達が連なってついてゆきました。

 世は乱れておりました。
 荼毘(だび)を生業とする者が、神社に転がった首の無い屍のところに案内されたのは、それから間もなくのことだったと言います。