遠い昔、まだポケモンが今より人に近かった頃、今はホウエン地方ミナモシティと呼ばれるあたりを治めている領主がありました。
 彼は芸術を愛し、振興する政治を行っておりました。
 だから領主の城のある海に近いその都は多くの絵描きや仏師が暮らしていたそうです。

 領主は特に絵が好きで、一匹のドーブルを召抱えておりました。
 春には淡い色の桜の花を、夏には青々と茂る緑を、秋には色付いた紅葉の赤を、四季折々の様々な色で掛け軸や屏風に絵を描かせました。
 彼は決してドーブルに無理強いをしませんでした。

「じきに暖かくなるから春の絵を描いて欲しい」

 と、軽く注文をつけるだけで、あとはドーブルの好きに描かせたのです。

「承知いたしました」

 と、ドーブルは答えます。
 そして彼は好きな色を使い、好きなように絵を描いたといいます。
 そのようにして描かれた絵はとても生き生きとしていたそうです。
その絵の素晴らしい出来栄えを目の当たりにして、ドーブルを神聖視する絵師も数多くあったそうです。
 彼は昼間は絵を描き、夜は絵師達との談義に花を咲かせておりました。
 ドーブルは幸せでありました。



 ところがある時、都が水害に遭いました。
 突如として都を襲った水は職人達をおぼれさせ、仏像や絵がたくさん流れ出しました。
 するとどこからか船に乗った一団が現れて、またたくまに城を取り囲んでしまったのです。
 水害に見えたそれはこの海から来た者達の仕業でございました。
 突然の急襲に領主はなすすべもありませんでした。
 彼は泣く泣く都を明け渡し、ついに自害してしまったのです。
 そうして、新しくドーブルの主となったのは城を取り囲んだ軍勢の頭でありました。

「我ら一族は昔から海の神を信仰しておる故、今後は青色にて絵を描くように」

 新しい主はもうドーブルの好きなようには描かせてくれませんでした。
 春も、夏も、秋も、ありません。
 どんなに四季が移り変わっても使う色はいつも青ばかりでした。
 枚数を重ねるたびに彼の描く絵から生気は失われていきました。
 すっかり絵を描くのがつまらなくなってしまったドーブルはだんだんと無口になってゆきました。
 ついに領主が何か絵を所望するとうなづくだけで、何も語らなくなったのです。


 ある時、今の領主が言いました。

「二月の後、我らが一族の長が城に参るゆえ、丁重にお迎えしたい。天守閣に大きな屏風を用意したいがどのような題材がいいだろうか」

 すると、珍しくドーブルが口を開きました。

「大海原を背に千の鴎(かもめ)を描くのはいかがでしょうか。鴎は海の神が眷属、千もの鴎が出迎えましたならきっと親方様もお喜びになりましょう」
「ふむ、それはよい。さっそくかかれ」

 領主が許可したのでドーブルはさっそく絵を描き始めました。
 長い長い屏風にいくつもの波が立つ大海原を絵筆で描くと、今度は自身の尻尾に持ち替えました。
 そうして今度は鴎を描き始めました。一羽一羽丁寧に描いてゆきました。

「まるで生きているかのようだ」

 その鴎の素晴らしい出来栄えに領主は感嘆の声をあげました。
 描かれている鴎はまだ一桁を超えません。
 けれどこれが千もの数になれば、さぞかし壮観であることでしょう。
 これを前にすればきっと長は満足してくれるに違いありません。
 一方のドーブルは、お褒めの言葉をもらったにも関わらず再び無口に戻り何も答えませんでした。
 朝も、昼も、夜も、彼は黙って、屏風に鴎を描き続けました。

 一月の後に鴎の数は三百を超えました。
 さらに半月後には八百を数え、長がやってくる三日前には残り十羽ほどになりました。
 そうしてついに長のやってくる日になったのであります。
 日がてっぺんに昇った頃に待ち人はやってきました。

「鴎は千になったか」

 と、領主はドーブルに尋ねました。

「九百九十九羽まで描いてございます」

 と、ドーブルは答えました。

「何、終わっていないのか」

 と領主は怒りましたが

「残りの一羽は親方様がいらした時に仕上げるのがよろしいかと思い、とってございます」

 と、ドーブルが答えると

「なるほど、それも一興よの」

 と、領主は上機嫌になり、天守閣を降りてゆきました。

「ささ、こちらへどうぞ」

 領主は丁重に挨拶をすると、城の中に長を招き入れました。

「うむ」

 長は乗っていた獣から降りると、門をくぐって、城内に足を踏み入れました。
 その時でした。
 どこからか突然、ばさばさ、みゃあみゃあ、とあわただしく何かの騒ぐ声が聞こえてまいりました。
 領主と長が驚いて、声するほうに見上げたのは空の先。
 そこにはたくさんのキャモメが羽を広げて旋回しておりました。
 あっけにとられて空を見つめる間にもキャモメ達は数を増やしてゆきます。
 よくよく見ると、キャモメ達のその出所は、屏風のある天守閣のように見えました。

「……まさか」

 領主と長が天守閣に登ると、屏風が残されておりました。
 しかしそこには波打つ海原以外、何も描かれてはいませんでした。
 それは、描かれた鴎がすべて飛び去った後の屏風であったのです。

「待ってくれ、待ってくれ」

 領主は天を仰いで必死になって叫びました。
 けれど、先ほどのキャモメ達は空高くに吸い込まれてゆきます。
 そうして、もう二度と戻ってくることはありませんでした。

「絵師を、絵師を呼べい!」

 領主は小間使いにドーブルを呼んで来る様命じます。
 しかし、彼はもう城のどこにもいませんでした。
 いつの間にかドーブルの姿も忽然と消えてしまっていたのであります。
 主君の前で大恥をかいた領主は、その日のうちに作者のドーブルを探す触れを出しました。
 けれどもついに彼を見つけることはできませんでした。


 ドーブルは自らの出す体液を用い、身を削って絵を描くといいます。
 きっとあのドーブルは千の鴎の中に自分自身をすべて移してしまったのだろう。
 そうしてどこか自由に絵が描ける場所を探しに飛び立ったのだろう。
 かつて、ドーブルと交流のあった都の絵師達はこのように噂したそうです。