キィ…と音を鳴らせながらドアが開いた。
部屋の住人が帰ってきたのだ。
住人は部屋の奥にいる同居人に今帰ったという挨拶をした。 「ただいま」 部屋の奥から同居人が返した。 「タダイマ」 ●オウムがえし 「ただ一言、私を恋人と呼んで下さい」 「タダヒトコト、ワタクシオコイビトトヨンデクダサイ」 「すれば新しく洗礼を受けたも同様」 「スレバアタラシクセンレイオウケタモドーヨー」 「今日からはもう、たえてロミオではなくなります」 「コンニチカラワモウ、タエテロミオデワナクナリマス」 「おお、光輝く天の使よ、もう一度口を利いて下さい」 「オー、ヒカリカガヤクテンノツカイヨ、モウイチドクチオキーテクダサイ」 住人が何か言葉を発すると同居人はそれに続いて同じ音を返すのだ。 だから同居人は住人が出かけるときは「いってきます」に対して「イッテキマス」。 住人が帰ってきたときは「ただいま」に対して「タダイマ」。 そう返すのだ。 祖父が亡くなったとき、住人は祖父が飼っていた同居人を引き取った。 赤いとさかに長い首と長いくちばし、羽は茶色くて、それとは別にふさふさの羽毛が肩のあたりを覆っている。 立派なオニドリルだった。 ニックネームやら性別やら、性格やらいろいろがわからないので、祖父に聞かなくてはいけないと思ったが死人に口なしだった。 仕方がないのでニックネームを新しくつけようと思っていたら「オニゾー、オニゾー」と声を発した。 性別はいまだに彼なのか彼女なのかわからない。 ニックネームからすると彼なのかもしれないが、この自分の祖父が性別をわかっていたかどうかはあやしかった。 性格は一緒に暮らしていればそのうちわかるだろうと思った。 ポケモンバトルでもオウムがえしで有名なオニドリルは言葉を返すほうのオウムがえしも得意だ。 言葉を返すのはもちろん、何度かオウムがえしした言葉なら、誰かが言わなくても自らの意思で声にすることができる。 だから以前、祖父が教えたらしき言葉をときどきうわ言のように繰り返す。 「オイ」とか、「ハラヘッタ」とか、「バーサンヤ」とか。 祖父の生活ぶりが目に浮かぶようだった。 それでも祖父が教えたものはたいした数ではなかった。 それにくらべると、今の主人である売れない役者は目の前でで台詞の練習をする。 その甲斐あって語彙は自然と膨大な量になっていった。 ヒマなときは覚えた言葉を口にするのだが、その今まで覚えた言葉を意味なく並べて声に出すものだからしばしばとんでもない文章になった。 「バーサンヤ、オー、ヒカリカガヤクテンノツカイヨ、ハラヘッタ」 まったく…意味がわかっているのかいないのか。 おそらく後者のほうだと主人は思った。 売れない役者である部屋の住人は、自分の出かけているときは窓を開けておいた。 同居人はは昼間は外を飛び回ると夕方には帰ってきた。 そして夜になると部屋に用意された止まり木で体を休めながら主人の台詞に耳を傾けるのだ。 「こんな生活をしていて空き巣に入られたらどうするんだ」 と、言う人もあったが、どうせ盗まれるようなものは何も無かった。 鳥の主人は、あるときは敵の家の娘に恋する貴族であった。 「おお、光輝く天の使よ、もう一度口を利いて下さい」 「オー、ヒカリカガヤクテンノツカイヨ、モウイチドクチオキイテクダサイ」 またあるときは銀河を走る列車に乗った少年だった。 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ」 「カムパネルラ、マタボクタチフタリキリニナッタネエ」 そしてまたあるときは研究に情熱を注ぐ科学者であり、あるときはポケモンマスターを目指す少年であった。 「すばらしい!いままで見た中で…」 「スバラシー!イママデミタナカデ…」 「ゲットだぜ!」 「ゲットダゼ」 「………」 「………」 こうセリフがころころ変わるのは鳥の主人が毎度オーディションに落ちるからだ。 そのたびに鳥の語彙は増していった。 ついに覚えた言葉をつなぎ合わせて、意味のわからない奇妙な物語を口ずさむようになった。 それでも鳥の主は練習を続けた。 くる日も、くる日も言葉を紡ぎ続けた。 くる日も、くる日も鳥は言葉を返し続けた。 くる日も、くる日も… 「ただいま」 「タダイマ」 「いってきます」 「イッテキマス」 「ただいま」 「タダイマ」 「いってきます」 「イッテキマス」 月日は過ぎていった。 鳥の主人はチョイ役には参加するようになったものの、いっこうに望む役を取ることはできず、 どんどん表情暗くなっていくように見えた。 あるとき主人は親友の才能に嫉妬する主人公のセリフを練習していた。 脚本を見ながら主人は言った。 「お前には、オレの気持ちはわからないよ」 オニドリルはいつものように返した。 「オマエニワ、オレノキモチワワカラナイヨ」 「そう、わからない…」 「ソー、ワカラナイ」 「ああ、せめてお前が相手の台詞を言ってくれたらなぁ」 「アー、セメテオマエガアイテノセリフオイッテクレタラナア」 「お前は気楽でいいよな」 「オマエワキラクデイイヨナ」 「俺の言ったことをただ返すだけ」 「オレノイッタコトオタダカエスダケ」 「台詞っていうのは…」 「セリフッテユーノワ」 「キャッチボールなのに」 「キャッチボールナノニ」 「お前に…俺の気持ちはわからない…」 お前に俺の気持ちはわからない。 それはたしかに脚本に書かれていた台詞だった。 だがいつのまにか脚本の台詞は同居人への言葉にすりかわっていたのだった。 同居人がそれに気が付いているのかいないのかはわからなかった。 だが同居人は変わらず言葉を返した。 ――返し続けた。 「オマエニ、オレノキモチワ…」 …… ………それから、 それから、何が起こったは想像に難くない。 重要なのはこの夜以来、オニドリルは言葉を口にしなくなったということだ。 あの奇妙な物語も、語られることは無くなった。 「ただいま」 「いってきます」 「ただいま」 「いってきます」 「ただいま」 「いってきます」 「ただいま」 「いってきます」 …… … 日は月に変わった。月は年に変わった。年は人を変えた。 以前はまったく相手にされなかった男も望む役を取って生きていくことができるようになっていた。 住む場所はきれいな場所に変わった。オニドリルのエサや止まり木もいいものになった。 ただ、変わらなかったこともある。 オニドリルの性別がいまだに不明であるということと、 以前売れない役者だった男はいまだにオニドリルの前で練習し、オニドリル男の台詞に耳を傾けたということ。 それは変わることがなかった。 だが、オニドリルが言葉を返すことはついになかった。 いまや人気俳優となり、演技も上達した鳥の主に新しい仕事が舞い込んだ。 男は仕事を引き受け、練習を確実にこなしていった。 だがあるシーンだけ演出家のお気に召さないようで、何度もやり直しをさせられた。 何度も何度も。 ついに他のシーンはほぼ完璧となり、残す課題はそのシーンだけになった。 男がオニドリルの前で練習するのもひたすらそのシーンだった。 オニドリルの前でいくどとなく同じ台詞を言った。 きっとあのころならすっかり覚えられてしまい、鳥の語る奇妙な物語のレパートリーに加えられたことだろう。 昔を回想しつつ男は繰り返した。 目の前のオニドリルを相手役に見立てて何度も同じ台詞を。 「大丈夫、大丈夫、きっとうまくいくよ」 「大丈夫、大丈夫、きっとうまくいくよ」 何度言ってもしっくりこなかった。 違うんだ。こんなんじゃないんだ。 男はオニドリルに向かって何度も語りかけた。何度も、何度も。 「大丈夫、大丈夫、きっとうまくいくよ」 「大丈夫、大丈夫…、きっとうまくいくよ」 「大丈夫…、大丈…夫、きっと…きっとうまくいくよ」 「…きっとうまく…うまく…」 大丈夫、大丈夫、きっとうまくいくよ。 台詞とは反対にとてもうまくいきそうになかった。 まったくもって皮肉な台詞だ。 オニドリルの前で特訓は続いた。 だが日を追うごとにかえってだめになっていくようだった。 言えば言うほどにうまくいきそうになかった。 今や立派になったオニドリル用の止まり木の下にうずくまって男は言った。 「ああ、せっかくここまで来たのに…やっぱり僕はだめな奴だったのだろうか」 オ二ドリルは何も言わなかった。 「君がオウムがえししていたころがなつかしい。あの晩…僕は、君にひどいことを言ったね。それ以来、君はしゃべらなくなった。君のせいじゃないのに、僕が未熟だっただけなのに…ごめん、ごめんよ…僕が悪かったよ…」 「…い、…だよ、…か、何か…言ってくれよ…」 オニドリルは無言のままだった。 無意味に日付は変わっていく。 結局、演技を完成できぬまま舞台初日はやってきた。 男は朝早く起きて出発の準備をした。 出発の時刻はまもなくやってきた。 生気のない目をしながら男は力なくドアノブを握った。 ゆっくりとふりかえるとオニドリルに言った。 「…いってきます」 オニドリルは無言のままだった。 男は背を向けドアを開いた。 完成はできなかった。けれど逃げるわけにはいかなかった。 男は言った。 たぶん脚本の台詞としてではなく、自分と、自分の背中を見つめるオニドリルに向かって。 「…大丈夫、大丈夫、きっとうまくいくよ」 「…クヨ」 「ダイジョウブ、ダイジョウブ、キットウマクイクヨ…」 オニドリルが返した。 |