――ピチャン。
 草の葉の雫が水中へと落ちた。水面に波紋が広がり、そこに映っている景色を波打たせる。ため池には幾重にも連なる青い青い山が波打っていた。波紋は広がるにつれ、だんだんとその勢いを失い、池の前でうずくまる少女を映しているあたりで消えてしまった。
 帰りたい……こんなところは嫌い。元いた街に帰りたい。
 少女はこの場所に越してきてからというものいつもそんなことばかり考えていた。




●六尾稲荷



「ノゾミ、来週パパの実家に引っ越すことになったから準備をしておきなさい」

 ノゾミが父親からそんなことを言われたのは二、三週間くらい前のことだ。学校から家に帰ってきたら、この時間にはいないはずの父、そして母がキッチンのテーブルに座って対峙し、ものすごく深刻そうな顔をしていた。何があったのかと問うと、父親は一言、「実家へ帰って家業を継ぐことにした」と、言ったのだった。
 かくしてノゾミ一家は越してきた。父の実家は何もないところだ。東西南北どこを見ても広がるのは青い山ばかり。その山に囲まれたその中にこれから彼女らが暮らす山里があり、その中は田畑ばかりだった。そして、住まう場所は木造の古い家で玄関は土間だった。かろうじて電話とテレビはあるものの、テレビのチャンネルは三つしかつかない。周りにあるものといえば、農作物の直売所がいくつかと駄菓子屋が一軒だけ。おまけに学校も遠かった。通学に一時間以上かかるなんて、ありえないとノゾミは思う。
 さらに悪いことになかなか友達ができなかった。三軒先にタイキという親戚の男の子が住んでいて、引っ越してきた時に紹介されたのだが、これがとんでもないわんぱく坊主で、ノゾミとはそもそもソリが合わなかった。いや、他の子どもたちに関してだってそうだ。もともと運動が得意でない都会っ子のノゾミは田舎の子どもたちのパワーについていけなかったのだ。

 季節は初夏、セミの啼く声が山里全体に響いている。ノゾミはぼんやりと池を眺めていた。浅い部分に字が下手な人が書いたような音符の形をしたオタマジャクシが群れて、水面の底にある何かをつついている。

 ノゾミにとっての悩みの種はそれだけではなかった。祖母のカナエのことである。カナエときたらいつもやたらとうれしそうな顔をして怖い話をノゾミに聞かせてくるのだった。

「夜は早く寝なければいげないよ。そうしないと夜廻るが来るよ。夜廻るは黒い衣を着て、髑髏の面をづげでてな、夜寝ない悪い子はあの世へさらって行っでしまうんじゃ。気を付げなくてはいげないよ」

 祖母は、そんな具合にノゾミに怪談話を聞かせて、「ひっひっひっひ」と笑うのである。
 ノゾミはもちろん幽霊なんて信じていない。けれども、寝る前に夜廻るの話を思い出すと怖くて怖くてたまらなくなるのである。それだけではない。猛スピードで一本道を追いかけてくるという貉の話、夕暮れ時の学校に現れて子どもをさらっていくというという振り子を持った妖怪の話、夜中に泣き叫ぶような声が聞こえるという話……祖母の怪談話は、無駄にバリエーションに富んでいた。
 祖母カナエの怪談好きは近所でも有名で、新参者のノゾミが近所で名前を聞かれ答えると、いつも祖母の話になる。そして、近所の人はいつもこう言って失笑するのである。

「ああ、この前引っ越してきたカナエさんのお孫さんってあなただったの」

 それを聞くたびにノゾミは、なんだかとても情けない気持ちになるのだった。祖母のせいで自分までそう見られると思うと嫌で嫌で仕方なかった。祖母がそんな話ばかりしているから、三軒先に住んでいるタイキだって会うたびに祖母を槍玉に挙げて自分をばかにするのだ。

 水面に映る風景が少しばかり赤みがかってきた。もう家に帰らなくてはとノゾミは立ち上がる。すると視界が広くなり、ため池全体が見渡せた。
 その時、ノゾミはため池の中心に妙なものが浮かんでいるのに気が付いた。それはサッカーボール大の丸い生き物だった。ぱっちりと開いた丸い眼がこちらをじっと見つめている。
 ――とんでもなく大きなオタマジャクシ、ノゾミにはそんな風に見えた。
 大きなオタマは、しばしノゾミの様子を伺うと、身体を翻し、葉っぱの形のような尾ヒレを見せてボチャンと水の中へと消えて行った。
 ノゾミは波紋の残るため池をしばし呆然と見つめていたが、にわかに背中がぞくっとするのを感じた。それに気が付いたときノゾミはもう一目散に走りはじめていた。
 何? なに? なんのなのあれは……! ノゾミは思い出しちゃいけないと思いながらも祖母の怪談話を反芻していた。ああ、なんてタイミングが悪いんだろう。ノゾミが走っていたのはまっすぐに伸びる一本道。祖母いわく、貉が通る道。そこはそいつの縄張りで、そいつは一直線の道をどこまでも追いかけてくるという……。もう、いやだ。こんなところ。おばあちゃんのばかぁ! ノゾミは涙ぐみながら一本道を走りとおした。
 一本道が終わり、ノゾミは足を止めた。貉は曲がるのが嫌いだから、一本道を過ぎれば大丈夫と聞いていたからだ。ぜえぜえと肩で息をし、呼吸を整えて歩き出す。そして、そろそろ家かという頃、ノゾミの視界に鳥居が入ってきた。稲荷神社である。稲荷神社と言っても都会のすみっこにある小さなものではなくて、かなりの大きさがあると聞いている。現に鳥居は大人数人分の高さがあり、その後ろには石段が続いていた。石段は山のずうっと上に向かって伸びており、その先にあるであろう神社はまったく見えない。そこの神様に元いた街に帰れるようお願いしたいところだったが、神社は遥か山の中だ。とても怖くて行けるわけがない。祖母の怪談話を聞いた後では尚更である。ノゾミは鳥居の前まで歩いてきた。すると、石段の二、三十段目あたりにちょこんと座る小さな獣が目に入った。
 それは、赤茶色の子犬のような獣だった。その姿はとてもかわいらしく、緑色の瞳をしていて、頭にカールしたふさふさの毛が生え、尾の先も同じようにカールしている。それが六又に分けられていて、その様子は学校の音楽室に貼られている音楽家の髪型みたいだった。獣は一心に神社のある方向を見つめている。

「あなた、どこのワンちゃん?」

 ノゾミは声をかけてみたが、獣は彼女を一瞥しただけで、すぐに視線を戻してしまった。

「もうすぐ暗くなるよ。どこの子か知らないけど早く帰るんだよ」

 ノゾミはそう言って鳥居から離れていった。
 獣はまだ神社の方向を見つめていた。



「仕事の具合はどんだ」

 カナエが夕食の漬物をつまみながら訊ねる。

「まだまだだよ……機械の操縦はむずかしいし、昔は親父に手伝わされたもんだけど、ここを出てずいぶん立つからね、もうくたくただよ」

 地酒の入ったグラスを片手に、ノゾミの父は疲れた声で言った。そして、一升瓶からグラスに酒をどっと注ぎ、ぐいっと飲み干す。顔はすでに真っ赤だった。あまり強くはないらしい。

「……くそ、部長め、俺をあっさりと捨てやがって! いままで会社のために尽くしてきた俺をなんだと思ってやがる……」

 酔いが回りはじめたのか、ノゾミの父はいつものセリフを吐く。実家に帰ってきてからもうずっとこんな調子だった。
「人様を恨むもんでね」と、カナエが言う。

「恨むなだって。あんな理不尽な扱いを受けて恨まずにいられるか」
「人様恨むと影坊主さ出るぞ。影坊主はなぁ、恨みや妬みが大好きなんじゃぞ。人様さ恨むでねぇ。恨みにばかり囚われておると影坊主に生気さ全部とられちまうだぞ」

 祖母はまたそんな話を始めた。父とこの話題になると決まって影坊主である。

「影坊主は黒いてるてる坊主がツノを生やしたような物の怪でなぁ、家の軒下さ並ぶんだぁ」

 ノゾミはそんな話を聞きながら、茶碗に残ったご飯の最後の一口を口に入れ、席を立つ。
 食事部屋を出たノゾミはまだ片付いていない荷物の中から動物図鑑を堀り出した。ページをめくっては、その中に記載されている動物たちのイラストを確認する。ノゾミは気になって仕方なかったのだ。夕暮れ時、ため池で見たあの大きなオタマジャクシの正体が。
 両生類のページを眺め、調べる。そして判った。あれの正体は大きなウシガエルのオタマかと考えたが、いくらなんでもサッカーボール大の大きさになんかならない、という事が。
じゃあ、あれは一体なんだったのだろうか? ノゾミは悩んだ。

「なんじゃノゾミ、勉強しておるんか」

 いつの間にかノゾミの背後に夕食を終えた祖母、カナエが立っていた。

「ホウ、知らない生き物でもおったか。ここには都会にいない生き物もたくさんおるでな」

 大きなオタマジャクシがいたの、とノゾミは答える。ウシガエルかね、とカナエが聞いた。

「ううん、もっと大きいの」
「もっと?」
「サッカーボールくらい」
「なに、サッカーボールくらいってえと、西瓜くらいかね」

 そこまで言うと急にカナエが真剣な顔付になる。そして、しばらく考えた後、

「ノゾミ、そりゃあ水神様じゃ」

 と、言った。

「水神様はなぁ、水の神さんじゃ。水のあるところにはたいてい住んどる。水神様にはいろいろあってなぁ、大きな魚の形をしとるもん、貝の形をしとるもん、水の植物の形をとるもんもおるんじゃ。水神様は徳を積むと、大きゅうなっていっていってな、中には滝を昇って龍になるもんもおる。そして、恵の雨を降らして、田畑を潤しでくださるんじゃ。けれんども、怒ると恐いんじゃぞ? 水を粗末にすると、洪水を起こしたりしよるんじゃ」

 そして最後にこう付け加える。

「水神様だけでないよ、いろんなところにいろんな神様がおってそこを守っとるんじゃ。土地の神様は大事にせんといかん。でないと、その土地や土地の者によぐないことが起りよる。土地の神さんは大事にせにゃいかん」

 そこまで、語ると祖母は満足したのか「ひっひっひ」と笑いながら部屋を去って行った。去り行く祖母の背中を見送りながら、よかった今日は怖い話じゃなかった、とノゾミは思った。そして、ああいう話もできるんじゃないかと少し見直したのだった。
 再び図鑑を眺め、やっぱりあのオタマはいないとノゾミは思う。では祖母の言うように水神様なのだろうかと考え始める……が、ノゾミはぶんぶんと頭を振って、水神様なんて本当にいるわけないじゃない。きっと図鑑には載ってない種類なのよ、と思い直した。だいたい池で水神様を見たなんて言ったら三軒先のタイキに何て言われるか……。ノゾミはぱたんと図鑑を閉じた。やることがなくなって畳に寝そべる。外からリーリーと虫の鳴く声が聞こえた。
 そういえばあの子はどうしているだろう? 天井を見つめながら、ノゾミはいつのまにかあの稲荷神社に居た赤い獣を思い出していた。あの後、ちゃんと帰ったのだろうか、と。
 ノゾミはぱっと起き上がり、再び図鑑を手に取ると犬科のページを開いた。けれどあの獣をその中に見出すことはできなかった。再び図鑑を閉じ、また寝そべる。天井を見つめながら、やっぱり犬だよね? でも載っていないなぁ。ああ、もしかしたらキツネかなぁ。キタキツネの仔にも似ているし……などと思案した。そして、

「あの子かわいかったなぁ。また会いたいなぁ」

と、呟いたのだった。



 三軒先に住んでいるタイキは、ノゾミの祖母であるカナエの妹の孫にあたる。つまりノゾミの又従兄弟だった。ノゾミたちが引っ越してきたとき、その両親にノゾミとをよろしくなどと頼まれたのだが、ノゾミときたら走るのは遅いし、木に登る事はできないし、とても野山を一緒にかけるような遊び相手にはならなかった。
 もちろんタイキは彼なりに努力した。共通の話題を持とうと、ノゾミの祖母であるカナエの話題を会うたびにふっかけたのだ。
 実は彼自身、例の怪談話を聞いて育ってきたクチで、それを彼に聞かせていたのはノゾミの祖母カナエの妹であるタマエであった。ただ、タマエの怪談好きはカナエと違ってあまり有名ではなかった。それというのも、タマエには、カナエと違っていつも話を聞いてくれる孫がいたから、他人にはそういった話をしなかったのである。
 タイキの算段では、ノゾミにカナエの話題を振る→怪談話に花が咲く→実はタマエ婆ぁも……という展開にもちこめるはずだった。タイキはタマエの話が大好きだったし、その話に登場する物の怪たちのことを考えるたびにわくわくした。そして、どちらかといえばそれらの存在を信じているほうだった。けれど、タイキの周りの友達は、そんなものは居ないと言って相手にしてくれなかった。
 タイキは考えた。同じ怪談好きの祖母を持つノゾミならば、自分の気持ちをわかってくれるのではないか……と。だが、当初の思惑は大きく裏切られ、ノゾミはタイキとすれ違っても知らんぷりするようになってしまったのだった。
 都会の女子はわからん。俺の何が気にくわなかったんじゃろうか、とタイキは思った。

「……つまらん」

 タイキは駄菓子屋で仕入れたイカ串をくちゃくちゃと噛みながら、お気に入りの木の上で時間を潰していた。視線の先にはまっすぐ伸びる一本道。祖母タマエからそこには貉が出ると聞いていた。
 そんな風にしていたら、タイキの視界になにやら一目散に走るものが飛び込んできた。ノゾミである。なんだかずいぶん必死に走っているように見える。

「なんじゃノゾミのやつ、その気になったら早う走れるでないか」

 と、タイキは呟いた。
 ノゾミは一本道の終わりまで来ると、足を止めぜえぜえと肩で息をしていた。そして、ほどなくして歩き出すと、今度は稲荷神社で足を止めた。
 おや、とタイキは思った。ここの角度からはよく見えないのだが、そこに何かがあるらしかった。きれいな石でも見つけたんじゃろうか、とタイキは思った。
 そう、あれはかれこれ二週間くらい前のこと。タイキは学校帰りに近くの川原で遊んでいた。その時、流れの中に光るものを見つけたのだ。水底から拾い上げてみるとそれは赤い石であった。ほのかに透き通り、炎がちらちらと踊るような、そんな輝きを放っている。

「きれいな石じゃあ……」

 タイキは喜んでそれを持ち帰り、それからの数日間、肌身離さず持ち歩いていた。ところが、ちょっとそのへんに置いて、少しばかり目を離した隙にどこかへいってしまって、そのまま出てこなかった。惜しいことをした、とタイキは思った。
 タイキは猿のようにするするっと木を降りると、稲荷神社へ走った。到着したとき、すでにノゾミの姿はなかったが、代わりにタイキはあの赤い獣を見つけたのだった。



 山里の朝。まだ空気が少しばかり冷える中、朝食をいつもより早めに終えたノゾミは家を飛び出し、稲荷神社へ急いだ。鳥居がある場所に向かって走る。それは、いつも登校するときの足取りとはあきらかに違っていた。
 ほどなくして、稲荷神社の鳥居が見えてきた。ノゾミはスピードを緩めるどころか、さらに加速させた。いったいノゾミのどこにそんな元気があったのか、いままでのノゾミを知る人ならば首を傾げたかもしれない。ノゾミはあの獣が無事に帰れたかと案ずるのと同時に、一方でまだあの神社に留まっていなものかと期待していた。
 ついに鳥居の前に到着した。ノゾミは手を膝に置いてしばらくぜえぜえ言っていたが、やがて呼吸が整ったらしく膝から手を離すと石段を見上げた。
そして、ノゾミは目を丸くした。期待した者と予期せぬ者が互いに存在していたからだ。
 赤い獣はまだそこにいた。そして、そこには一人の先客が、三軒先に住む又従兄弟のタイキの姿があった。こともあろうに、赤い獣と同じ段に腰掛けて腕組みをしている。タイキはノゾミが自分に気が付いたことを確認すると

「ようノゾミ、たぶん来るんじゃないかと思っとった」

 と、言った。ノゾミはなんだか不機嫌そうな顔になってタイキを睨みつける。

「そんな顔せんでもええだろ。俺もこいつに会いに来たんじゃ」

 タイキは赤い獣のほうに目をやる。

「大丈夫じゃ、近づいたって逃ぎゃあせん。もっとも、触らせてはくれんのじゃがな」

 獣はぺろぺろと身体をなめ、毛づくろいをはじめた。タイキは獣に触れようと手を伸ばす。すると、獣はひらりとタイキの手をかわし、石段のニ、三段上に退避した。だが、タイキを怖れてはいないようで逃げる様子もなかった。

「にしても変わった犬じゃのう。なぁ、おまん種類知らんか。こんな田舎じゃ、柴犬となんだかわからん雑種しかおらんのじゃ。おまんが住んでおった都会のほうならいろんな犬がおるんじゃろう?」

 ノゾミはあいかわらずタイキのほうを睨みつけ黙っていた。タイキはちょっと困ったような顔をして、頭をぼりぼりとかいた。そして、

「実はな……、夕べ図鑑でこいつのこと調べたんじゃ」

 と言った。すると、ノゾミの表情が変わった。

「でも、なーんも載っておらんかったのじゃ。こいつのことはなんも」
「…………」

 ノゾミは口を開かなかった。だが、さっきとは話を聞く態度が明らかに違っていた。

「図鑑にも載っていないほどめずらしい種類なんじゃろうかのう」

 タイキはあごに手を当てて、赤い獣じっと見つめる。

「……き、キツネ……じゃないかな」

 そこで初めてノゾミが口を開いた。タイキは少し驚いた様子だったが、すぐに、

「キツネか。なんでそう思う」

 と、聞き返した。

「その、顔が似ているし……その、稲荷神社にいるから」
「なるほど、そう言われて見れば、キツネっぽい顔をしておるかもしれんのう。なんや髪型がプードルみたいじゃけど、そういうキツネもおるのかもしれん」

 そして、しばらく腕組みして考えると、
「そうじゃ、こいつなんちゅうキツネかわからんけども、俺らで名前をつけるのはどうじゃ」

 と、言った。

「名前?」
「うむ、いつまでもこいつって呼ぶのもどうかと思うしのう」
「う、うん」

 二人は獣に目を向けて、一生懸命名前を考えはじめた。なんだか暑っ苦しい視線が自分に向けられているのに気が付いて獣は首を傾げる。二人の間にしばしの沈黙が訪れた。


「――ロコン」


 沈黙を破ったのはノゾミだった。

「ロコン?」
「ほら、あの尻尾、カールしてる部分が六あるじゃない。それにキツネのコンを足してロコン」
「なるほど、そりゃあいい。それで決まりじゃ! 今日からこいつの名前はロコンじゃあ!」

 タイキはその名前が気に入ったらしく、一際大きな声を張り上げた。



「この前、駄菓子屋のばっちゃんが漏らしておったんだがの、最近ちょっと目を離した隙に菓子をくすねていくやつがおるらしいんじゃ」

 学校帰り、駄菓子屋で仕入れたお気に入りのイカ串をかじりながらタイキが言った。
 あれから、ノゾミとタイキはみるみる仲良くなった。学校の登下校を共にするだけでなく、学校帰りの駄菓子屋で一緒に買い食いをしたりなど、一緒に遊ぶようになった。あいかわらず野山をかけるのは苦手だったけれど、前より少しマシになった気がする。そして、あの稲荷神社の鳥居の前に朝と夕にあのロコンに会いに行くのが彼らの日課となっていた。

「お菓子を?」
「そうじゃ。それでどこの悪ガキじゃとっちめてやる思って、駄菓子屋のばっちゃん物陰に隠れて様子を見とったそうなんじゃけども」
「それで、見つかったの」
「見つかったには見つかった。じゃけども、それはどこぞの悪ガキではなかったんじゃ」
「じゃあ、何だったの」
「鴉じゃ」
「鴉!」

 ノゾミは妙に感心した。自分が以前住んでいた街も鴉がゴミを漁ったりしていたが、駄菓子屋の菓子をくすねるとはあまり聞いたことがない。肝のすわった鴉もあったものだ。

「で、菓子は袋に入っているもんも多いじゃろ、さすがに開けるのが面倒なんじゃろうな、埃がつかんように上に紙かぶせて並べてあるだけの菓子が盗られやすいんだそうじゃ」
「鴉も考えているんだね」
「おかげでこいつは今のところ被害ゼロじゃけどな」

 タイキはかじっていたイカ串をかざして見せた。すでにイカはついていなかったが。

「これはプラスチックケースに蓋閉めて入ってるけえ、鴉も盗れないらしいんじゃ」

 そんな会話をしながら二人は、家への帰り道を進んでいく。もちろん、この後はロコンのところに寄るつもりだった。二人が歩く両サイドには水田が広がっていた。その水田は山里の四方を囲む青い山々を映している。やがて水田にポツ、ポツ、と音が響き始め、小さな波紋がいくつも連なった。雨である。

「! 雨じゃあ」

 タイキが言った。空を見上げる二人をよそに次第に雨脚が強まっていく。

「ノゾミ、行くぞ」

 タイキがノゾミの腕を引っ張った。

「行くってどこに行くの」
「雨宿りに決まっとる。この近くに雨しのげる場所があるでな」

 タイキはノゾミの手を引き、走り始めた。水田の水面を二人の影が横切って行った。



 雨が降り続いている。屋根に溜まった水が時折、糸が垂れ下がるようにその建物から滴り落ちていく。その様子を五体の地蔵がじっと見つめていた。かなり昔に作られたものらしく、その体のあちらこちらに苔が生えていた。

「ハックション!」

 地蔵堂で、その場に相応しくないクシャミをしたのはノゾミだった。風邪でも引いたかとタイキが訊ねると、大丈夫だとノゾミが答えた。「それにしても雨止まんのう」と、水の滴り落ちる地蔵堂の入り口を見てタイキが言う。すると、ピカっと雷が光った。「きゃあっ」とノゾミが叫ぶ。「なんじゃ、ノゾミは雷がだめなんか」と、タイキ。頷くノゾミ。
 雨はなかなか止む気配がない。また雷が光った。ほどなくしてゴロゴロと音が聞こえてくる。

「知っとるかノゾミ、雷が落ちるところには雷獣がおるんじゃ。タマエ婆ぁが言っておった」
「カナエおばあちゃんは、雨は水神様が降らすって言ってた。怒ると洪水を起こすんだって」
「そうか、タマエ婆ぁと似たようなこと話しておるんじゃなぁ。でな、特に徳の高い雷獣は雷神様と呼ばれておってな、雷雲を従えて、各地を走っているそうじゃ」
「それなら、このへんは山ばかりだから越えるのが大変なのかもしれないね」
「そうかもしれんのう。そうじゃ、雷と言えばなぁ、一ヶ月くらい前、向こうの山の神社に雷が落ちての。タマエ婆ぁが言うには、雷獣が屋根の上で昼寝でもしとったんじゃという話なんじゃが……とにかくずいぶんと燃えてしまったらしいんじゃ。それで近々、俺の親父が修理しに行く予定だったんじゃ……親父は大工じゃきに。ところが、神社の修理に行こうって時に屋根から落ちて骨折してしまってのう。しかも治りが悪いんじゃ。他に直そうゆうもんもおらんでな、未だに神社はそのままになっとる。タマエ婆ぁは土地の神さんは大事にせにゃあかんと言っておったのに、嘆かわしいことじゃ」
「それ、カナエおばあちゃんも言ってた。土地の神様は大事にしなさい。でないと悪いことが起きるって。…………うちのお父さんもね、勤めてた会社クビになっちゃったの。だから、農業やるってこっちに戻ってきたんだけど、なかなか馴染めないみたいで毎晩お酒ばっかり飲んでる。弱いくせに」
「そうか。おまんも苦労しておるんじゃのう」

 タイキが鞄から紙袋を取り出して、食うか、と言って中からイカ串を差し出した。うん、と返事をしてノゾミがそれを受け取る。

「ねぇ、ロコンどうしてるかな」
「こんな雨じゃあ心配じゃのう」
「うん……」

 雨は、まだ降り続いている。

「そうだ、せっかくだからお父さんのことお願いして行こうよ」地蔵を見てノゾミが言う。
「そうじゃな」とタイキは答え、二人は地蔵に手を合わせた。

 バサバサッ。

 二人の右斜め上から羽音が聞こえてきたのはそんな時だった。二人がなんだと思って、その方向を見上げると、そこにいたのは一羽の鴉だった。けれどその姿はどこか奇妙であった。
 少々曲がった形の嘴、ぼさぼさの麦わら帽子を被ったような頭、その下から覗く赤く光る陰気な目――この特徴にタイキは聞き覚えがあった。それに気が付いた時、タイキは

「あーーーーーーーーっ、おまんは!」

 と、声を上げていた。何事かと驚くノゾミを尻目にタイキが

「駄菓子屋のばっちゃんが言っておった菓子泥棒はおまんじゃな!」

 と、言った。

「えッ、どういうこと?」
「さっきは話し忘れたけどなぁ、駄菓子屋のばっちゃん曰く、そいつはけったいな鴉だったらしいで。なんや目は赤く光っとるし、麦わら帽子かぶったような頭しとったそうじゃ」
「それじゃあ……」
「そうじゃ、こいつが盗人の正体じゃ!」
「カカァ?」

 奇妙な鴉は最初、タイキの声に少し驚いた様子だったが、ぶるぶるっと羽を震わせ水を掃った。そしてじっとノゾミのほうを見つめる。二人はノゾミの手が握っているものに視線を落とした。ノゾミの手に握られていたのは、イカ串。

「……まさか」
「カァ!」
「だ、だめだぞ! これはノゾミにやったんじゃ!」

 タイキは鴉の前に立ち塞がりとうせんぼうをした。

「カカァ……」

 鴉はなんとも残念そうな顔をした。けれどもイカは諦めたらしく、地蔵堂の天井の柱をぽんぽん飛び乗って移動すると、隅のほうをごそごそと漁り始め、何かを取り出した。その取り出した何かを見てタイキはさらに驚くことになる。
 鴉が取り出したのは――赤く光る石だった。二週間ほど前にタイキが拾ったきれいな石。いつのまにかどこかへ行ってしまった石。

「おまんじゃったのかぁああああああああああああああ!」

 タイキの絶叫があたりにこだました。



「コラ待てこのクソ鴉!」

 タイキは地蔵堂を飛び出し、奇妙な鴉を追い始めた。ノゾミも遅れをとりながらタイキを追いかけていた。鴉は嘴に石を挟み、余裕しゃくしゃくの顔をしてゆうゆうと飛んで行く。いやに低空飛行だった。明らかに楽しんでいる。

「アホー」
「誰がアホじゃボケェ!」

 一方のタイキはブチ切れている。そして完全に遊ばれていた。それにしてもタイキと鴉の速いこと速いこと。さすがに田舎っ子のパワーは伊達じゃない。

「ちょ……、タイキ待ってよ!」

 ノゾミはなんとか追いつこうとがんばるが、すでに息も切々だ。ノゾミがやっとの思いでため池の前を通りすぎたころ、すでに一羽と一人は貉の一本道の向こうであった。そこで鴉は上昇する。ついに山の林の中に入って見えなくなってしまった。

「ちっくしょう! おぼえてやがれ!」

 一本道の向こうからタイキの遠吠えが聞こえてきた。その頃には雨も止み、貉の一本道のあちこちに水溜りができていた。

「はぁ、はぁ、あのクソ鴉め、今度会ったらただじゃおかん……」

 タイキは半分魂が抜けたような顔をして言った。走りっぱなしで、しかも叫んでばかりいたのだ。無理もない話だった。一本道の終わりで合流した二人は稲荷神社へと向かう。
 神社の鳥居が見えてくると、ノゾミは駆け出した。疲れきって、ちょっと待てよと言うタイキに対しノゾミは、早くしなよ、ロコンが待ってるよ、と言って聞かない。しょうがないやつじゃのう、とタイキは少し笑顔になった。
 だが次の瞬間、鳥居の前まで来たノゾミの顔が凍り付いた。異変を察知したタイキは駆け出す。ノゾミが石段に駆け寄った。タイキがノゾミのところに到着したとき、ノゾミの腕の中にいるロコンが目に入った。
 ロコンは、傷だらけでびしょ濡れだった。



「ばあちゃん、おばあちゃぁあん!」
 ノゾミの泣き叫ぶ声が聞こえて、祖母のカナエは家を飛び出した。家の表門からノゾミとタイキが駆け込んで来る。

「どうしたんじゃノゾミ」
「ロコンが……、ロコンが……!」

 ノゾミは目にいっぱい涙をためていた。その腕には赤い獣。びしょ濡れで傷だらけ。その目は閉じられている。カナエは獣に手を触れる。獣の鼓動はまだ脈打っていた。

「とにかく中へ入るんじゃ! タイキ、おまんは裏から薪を持ってこい。湿っていないやつをめいっぱいじゃ!」

 カナエはノゾミを土間の台所へ入れると、タオルを放り投げ、拭いてやれと言った。タイキの持ってきた薪で火をガンガンと炊く。うちわで風が起こるたびにかまどがばぁっと燃え上がった。そして、たいしたことはできんけども、まずは暖めてやることじゃ、と説明した。農作業をサボっていたノゾミの父親が「何しておるんじゃあ」と言ってからんできたが、「おまんはすっこんどれェ!」とカナエが一喝したら、すごすごと引きさがっていった。
 ロコンのがすっかり乾いたころ、次は傷の消毒じゃなと、カナエが救急箱から消毒液を取り出し、蓋を開けた。消毒液のにおいが立ち込める。
 その時、ロコンがぱっちりと目を覚まし、起き上がった。

「ロコン! 起きて大丈夫なの? 傷の手当てがまだだよ」

 ノゾミが聞いたが、ロコンは差し伸べられた手をひらりとかわすと、タタッと駆け出した。

「待って!」

 ノゾミが追いかけようとしたその時、ロコンが驚くべき行動に出た。ロコンは突っ込んだ。こともあろうにかまどの中に。
 ノゾミ、タイキ、カナエ、その場にいた三人は一瞬何が起こったのか理解できなかった。かまどの中は炎がゴウゴウと勢いよく燃えたぎっている。普通の生物なら大火傷である。
 ところが、ほどなくして炎が消え、その中からロコンが何事もなかったかのように姿を現した。三人は呆気にとられる。驚いたことにロコンの身体には傷ひとつ付いていなかった。ことのほか毛艶がよくなった気さえする。まるで炎から力を貰ったかのようだった。

「……こ、こりゃあ、おったまげたァ」

 カナエは目を丸くして、けれども、とても感慨深そうに言った。そして、

「おまんら、このキツネっこさどこで拾っできたんじゃ」

 と聞いた。
「……近くの稲荷神社で」
「なに、近くというと六尾稲荷か。……ははぁん、なるほどのう。読めてきたぞい」

 カナエはニヤリと笑った。それは怪談話をするときのあのうれしそうな顔だった。
 ロコンが駆け出した。戸の前まで来るとノゾミとタイキをじっと見つめる。ついていってやれ、とカナエが言った。
 一匹と二人は戸の外へと飛び出した。稲荷神社の方向へロコンが走る。すでに日は沈み、空には青白い月が出ていた。



 稲荷神社の石段を登るのは三つの影。ロコン、そしてノゾミとタイキだった。つい最近まで、あんなに行くのが怖かったノゾミ。けれど今は、不思議と怖いとは思わなかった。

「なぁ、ロコンの傷、何にやられたんだと思う」

 石段を登る途中、タイキがノゾミに訊ねた。

「わからない。でも、ロコンはこの上に行きたがっていて、そこにいる何かに……」
「そうじゃな、もしかしたら、毎日上にいるやつに挑戦しておったのかもしれん」
「でも、勝てなかった。だからいつも鳥居の前に戻ってきていたってこと?」
「うむ、それに今日の雨じゃ」
「雨……」
「おまんもさっき見たじゃろ。ロコンが炎で傷治すところ。つまりあいつの力の源つうのは炎なんじゃ。つうことはだな、水に弱いっちゅうこっちゃ」
「雨でロコンの力が弱くなった……それでひどくやられちゃったんだね」
「うむ、そう考えると……イテッ」
「! どうしたの? イタッ」

 石段を進むノゾミとタイキに上から何かが落ちてきた。しかも、今の落下を合図にしてどんどん落ちてくる。落ちてきたものをノゾミが拾い上げ確認した。それはこの時期だとまだ青い木の実だった。

「……ドングリ?」
「風か?」

 そんなノゾミたちの会話をよそに落ちてくるドングリの量がどんどん増える。まるでバケツの水をひっくりかえしたみたいに降り注ぐドングリ。立ち去れ、近寄るな、と言うようにざわざわと木々が鳴った。二人は反射的に腕で顔を覆い守る。

「こりゃあ、落ちてくる量がおかしいぞ!」

 そのとき、二人の上空をゴウッと明るい炎が照らした。ドングリが灰になって飛散する。

「ロコン!」

 石段の上段でロコンが大丈夫かといった具合に二人を見据える。炎はロコンが放ったらしい。間を置かずに、口から炎の弾を二つ、三つ空中に向けて放つ。
 ジュワッ! 何かが焦げるような音がした。次の瞬間、二人の目の前にボトン、ボトンと何かが落ちる。それはメロン程の大きなドングリだった。そして、それがすっくと立ち上がったものだから二人はぎょっとしてしまった。背中や帽子を焦げつかせたドングリ達は一目散に逃げていく。一匹は石段の途中ですっ転ぶとそのまま転がり落ちて行った。

「……何あれ」
「種坊じゃな。木の枝にぶらさがっとる物の怪じゃよ。タマエ婆ぁに聞いたことがある」
「また来られたらめんどくさいね」
「他にもたくさんおるのかもしれんな。急いだほうがええ」

 一匹と二人は駆け出す。案の定、その予感は当たった。進む先々でドングリの飛礫が襲う。

「ロコン、左上!」「今度は真上じゃあ!」

 いつのまにか一匹と二人の連携ができはじめていた。襲い掛かる飛礫の位置から二人が場所を割り出す。ロコンが炎の弾を放つ。一同が走り去る先々で種坊が打ち落とされてゆく。
 石段が終わり山の中の林へ入った。二つ目の鳥居、それは林の入り口。走るロコンの背中を追いかけながらノゾミは、

「ロコンっておばあちゃんの話に出てくる物の怪の仲間だったんだね」

 と、言った。

「ああ、そうじゃな。どうりで図鑑に載っておらんわけじゃ」
「私、正直信じてなかった。おばあちゃんのせいで近所の人に笑われるんだと思ってた。私もみんなも全然信じていなくて。でも、違った。おばあちゃんが正しかったんだね」
「……そうじゃな」

 タイキはなんだか熱いものがこみあげてくるのを感じていた。
 林を進む二人と一匹。三つ目の鳥居が見えてきた。その両側に立派な狐の石像の台座が立ち、そのさらに奥に見えたものは――

「稲荷神社!」「本堂じゃ!」

 二人と一匹は鳥居をくぐる。
 が、その瞬間、
 突風が起こった。吹き付ける激しい風。巻き上げられた木の葉が視界を遮る。それどころか満足に進むことすらできない。次の瞬間、軽いロコンの身体が宙を舞った。

「ロコン!」

 ノゾミがロコンの身体を掴んだ。その瞬間、ノゾミもバランスを崩し風に流される。

「ノゾミ!」

 タイキがノゾミを掴んで地面にねじ伏せた。一同は身体を低くし、前進する。そして石像が立つ台座の影までくると体勢を整えた。しばらくして風が止んだ。二人はそこから突風の発生源を伺った。
 そして二人は、風を起こしたと思われる張本人をその目に捉え、全身から汗が吹き出るのを感じた。
 それは今まで見たことのない大きな物の怪だった。突き出た木の枝のような長い鼻。ツノのようににょきりと生えた耳。頭や顔は老人の髭のような白い毛に覆われていた。その中から覗くぎらぎらと光る金色の目。その両腕には楓のような形の大きな葉がつき、重そうな体を支える足には下駄の歯のようなものを備えている。

「……天狗じゃあ」

 と、タイキが呟いた。

「あれ、奥に何かいない?」

 ノゾミが何かに気が付く。よく見ると天狗の少し後ろに地に縛りつけられた鴉の姿があった。嘴にはあの赤く光る石。不服そうな顔をしているが、身体を下から伸びる木の根に巻きつけられ、身動きがとれないらしい。こんなことになっても石を離さないあたりは、流石に光り物好きの鴉と言ったところか。
 再び強風が起こる。二人は石台座の影に顔を引っ込めた。

「あのクソ鴉! 何をやっておるんじゃ」
「たぶん、あの後ここに飛んで来て、あの天狗に」
「きっと侵入者だと思われたんじゃろうな。物の怪には縄張り……その、神様で言うなら守っておる土地があるんじゃ」

 タイキは納得したようにうなずく。

「でも、変じゃない?」
「何がじゃ」
「ここ、稲荷神社のはずでしょ。何で神社の前にいるのが天狗なのよ。むしろ、」

 二人はいつのまにか自分達の足元で風を避けるロコンを見下ろしていた。

「……つまり、本来の主はロコンという訳か?」
「そうすれば、今までのロコンのことも説明がつくんじゃない? ずっとここに戻りたくて、それで鳥居の前をうろうろしてたんだよ」
「じゃあ、あれはなんなんじゃ」

 タイキは天狗のいる方向をちらりと見る。

「……わからない。なにかワケがあってここを乗っ取ったとか」

 風が止んだ。するとロコンが果敢に飛び出し、天狗に向けて炎を吹いた。天狗は腕の葉を扇ぐ。すると風が起こり炎の軌道を逸らした。強風はあの葉によって起こされているらしい。

「! まさか、むこうの山の神社」

 二匹の戦いを見つめタイキが呟いた。

「むこうの山って、地蔵堂で話した? 雷で焼かれたままずっとそのままっていう」
「土地の神さんは大事にせにゃ悪いことが起きよる。ノゾミの親父はクビになりよるし、俺の親父もなかなか直らん。もしかしたら神さんを大事にしてこなかったからかもしれんなぁ。なにより、この土地のもんのほとんどはもう神さんのことなんて信じとらん」

 ロコンが天狗のほうへ突っ込む。天狗は来させまいと、ダンと地面を踏む。

「じゃけい神社も直せんと……向こうの神さんは痺れを切らしてしもうたのかもしれんのう」

 すると地面から無数の木の根が顔を出し、ロコンの行く手を遮った。鴉を縛りつけているものと同じものだ。鴉がちらりとこちらを向いたのがわかった。

「とにかくじゃ。神さんはいるべきところに戻ってもらわにゃならん。俺はロコンを助けに行くぞ。でだ、ノゾミは隙を見てあのクソ鴉を助け出すんじゃ。その……、放っておくわけにもいかんしの。心配するな、俺が天狗をクソ鴉から遠ざけてやる」
「……わかった。やってみる」

 タイキが飛び出した。境内にあった石をいくつか拾うと天狗に投げつける。そのうちの一つが天狗に命中した。「おまんの相手はここじゃあ!」と、タイキが叫ぶ。すると、天狗はうなり声をあげて飛びかかった。今だ! ノゾミが駆け出す。飛びかかる天狗にロコンが電光石火の速さで体当たりし、注意を引きつける。ノゾミは鴉にからみつく木の根を力いっぱい引き抜いた。開放された鴉を抱えると元の場所に退避する。ロコンの炎に援護されながらタイキも戻ってきた。その直後、再び強風が襲う。

「ちくしょう、風を出すには時間がいるみたいじゃが、俺らが攻撃するには時間が短すぎる。あいつを追っ払う前にこっちの体力がつきちまうぞ」

 タイキが悔しそうに言う。一方、ロコンがノゾミの足に前足をかけ立ち上がり、ノゾミの足をカリカリと引っ掻いて何かを訴えはじめた。きゃうっ、きゃうっ、とロコンが鳴いた。

「ロコン? どうしたの?」
「きゃうっ!」

 ロコンが何かを訴える。その視線の先にはノゾミに掴まれた鴉。嘴には赤い石が挟まれていた。石はこの暗い中でもちらちらと炎が踊るような輝きを放っている。

「もしかしてロコンのやつ、この石が欲しいのか?」

 タイキは鴉の嘴から石をとりあげようと手を伸ばした。すると鴉はノゾミの腕をすり抜けて飛び出し、彼らが隠れる石台座のさらに上方へ退避した。天狗の風に押し流されたくないのか、それ以上は逃げなかったがノゾミやタイキが届く高さではない。
「ぎゃうっ!」ロコンが吠えた。だが鴉はそっぽを向く。
「このクソ鴉! せっかく助けてやったのに!」タイキも吠える。

「……ねえ、どうしたらその石をくれる?」

 と、冷静に話しかけたはノゾミだった。だが鴉はそっぽを向いたままだ。
 ノゾミは考えた。鴉を振り向かせるにはどうすればいいのか、どうしたら、と。そして、

「そうだ! 何かと交換するのはどう? お菓子とか! すぐには用意できないけど」

 と、言った。すると、ちらりと鴉の瞳がノゾミの方を向けられる。

「たとえば、昼間食べ損なったイカなんかどう? あなたは自分であの蓋を開けられない。今まで食べたことがないんじゃないの?」
「……、…………」

 鴉は少し迷っているような顔をする。再び風が止んだ。ロコンは石台座の影から飛び出して、再び天狗に対峙する。

「も、もちろん一本とは言わないわ! ……ケースまるごとよ! ケースまるごとでどう?」

 ノゾミがそこまで言うと、鴉が急に、ばっと宙へ飛び出した。そして、ひゅっと嘴のついた頭を振ると空中に赤い石を放り投げる。
 ロコンが地面を蹴り、跳ねた。その口で石を掴み取る――――瞬間、
 カッとそれが光ったかと思うと、ロコンの身体がまばゆい炎に包まれた。炎のシルエットからぐんぐんと四肢が伸びる。同時に尾が燃え上がりながら数を増していく。そして、その身体を包む炎が消えてゆくのと同時に、その中から大きく成長したロコンが姿を現した。


「ロコンが……」「……化けおった…」


 そこにあった姿、それは金色の体毛に覆われたしなやかな身体とたなびく九の尾を持つ妖狐であった。くるっとカールしていた毛は今やまっすぐに伸び、燃えるような赤い瞳が天狗をじっと見据えている。
 その姿に驚きながらも、その美しさに魅入られるノゾミとタイキ。
 ロコンが雄叫びを上げた。するとロコンの足元から大量の炎が吹き出し、またたくまに天狗に襲いかかる。天狗は腕の葉を扇いだが、炎の勢いは止まらない。幾手にも枝分かれし、取り囲み、燃え移る――天狗がギャアッと悲鳴を上げた。
 すでに勝負は決していた。反撃をする間もなく、天狗は火だるまになった。そして、ごろごろと地面を転がってようやく炎を消し止めると、ぽーん、と高く跳ねて山の向こうへと退散していった。
 それを見届けたロコンは、自分は再びここに戻ったぞというように、遠くに響くようひと鳴きした。その澄んだ声が山全体に響き渡る。
その身体が再び燃え上がった。そうして、その炎はみるみるうちに小さくなって、ロコンともども消えてしまった。炎が消えきるその瞬間、赤い瞳が二人を一瞥した気がした。
 青白い月の夜。境内に二人だけが残された。風が穏やかに流れる。稲荷神社は何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。



 あれから、二人はロコンに会っていない。
 あの夜以来、ロコンは鳥居の前からも、神社の前からも、忽然と姿を消してしまって、二人の前に現れる事はなくなってしまった。カナエやタマエは、それは神様があるべきところに収まったからだ。姿は見えなくともちゃんとおまんらを見ておる、と二人揃って同じようなことを言った。
 あの翌日、二人がなけなしの小遣いをはたいて買ったプラスチックケースまるごとのイカ串は、蓋を開けて地蔵堂に置いておいたら、次の日にはすっかりなくなっていて、ケースとイカなしの串だけが残されていた。駄菓子屋の主人いわく、それ以降、店から菓子が消える事はなくなったという。
 ノゾミの父はというとようやく今の仕事もしっくりくるようになったらしく、毎日元気に働きに出ている。あまりお酒も飲まなくなった。タイキの父の骨折も順調に回復し、あと数日もすれば働きに出られるだろうということだ。
 それで、ノゾミとタイキだが、向こう山の神社に供え物をしてくることになった。二人は両祖母の差し金で、お互いに重い地酒の一升瓶を持たされて、今まさに貉の一本道を歩いている。両祖母いわく向こうの山の神様は酒が好きだから、それで機嫌を直してくださるだろう、酒を持っていってもう少しで神社を直せるから、どうかそれまで待ってくださいとお願いしてくるようにということだった。神様って意外と現金だよなぁ、と二人はは思う。
 二人はため池の前に差し掛かった。ため池はいつもと変わらず山里の四方を囲む青い青い山々の風景を映している。
 つい最近までは、この風景に馴染めなかったノゾミ。でも、今はそんなところでも――

「なぁノゾミ、あの後、稲荷神社でお参りしてったろ。おまんは何を願ったんじゃ」

 ――たとえ周りが山ばっかりだって、学校が遠くたって、祖母が怪談話ばかりする人だって、それはそれで悪くない。きっとここでだってやっていける。そんな風に思っている。

「……内緒」
「なんじゃい、ケチじゃのう」

 二人はため池の前を通り過ぎ、向こうの山の神社へと足を進める。

 ため池の水面が波打つ。すると、池の中心からサッカーボール大のそれは大きなオタマジャクシが顔を出した。大きなオタマは、その大きな丸い眼でしばし二人の後ろ姿を見送ると、身体を翻しボチャンと水の中へと消えて行った。
 池の水面には波紋だけが残されて、そこに映る青い山々がゆらゆらと踊っていた。