雲が森の上空全体を覆って月は見えなかった。
 ただ、それがあるはずの場所だけがぼうっと光って……
 その下に広がる森の木々の間は行き先の見えない真っ黒なトンネルのようで……

 黒い森の中に地面を蹴る音とその動作に伴う呼吸音が聞こえる。
 少年は森の中をひたすら走っていた。
 真っ黒なトンネルを何度も何度もくぐりぬけて、行き先の見えない道をひたすら走りつづけた。

 黒い森の中のあるというその場所を目指して。




●砂時計




 どれくらい走ったのだろうか。 ドサッという音と同時に地面を蹴る音がやんで、速いペースのそれでいて乱れた呼吸音だけが残った。

 ほんとうに……本当にあるのだろうか。

 ふと上を見上げると黒い葉と枝の間からわずかばかり空が見える。 月はあいかわらず雲の上にあってその下にある雲がぼうっと不気味に光っていた。
 この黒い森にある唯一のあかり。

ふと我に返る。

 こんなことをしている場合ではない!
 行かなければ。


 黒いトンネルの中で倒れていた小さな影はよろめきながらも立ち上がり走り出した。 少しだけおちつきを取り戻した呼吸音の中に地面を蹴る音がふたたび加わった。 その音たちを生む動作が再開されると同時に自分が知ったわずかばかりの情報が再び頭の中をぐるぐるぐるぐると走り回った。
 出所もわからない。真偽もたしかではない。その情報の名は、風の噂。

 黒い森の中にあるらしいその場所は、月の見えない夜、その存在を信じて森の中を走り続けた者が辿り着けるという。
 昼間に森の中をくまなくさがしまわったこともあったがついに見つけることはできなかった。
 誰かが言っていた。きっと森の主が願いを叶えたい意思がどれほどのものか試しているのだろうと。



 どれくらいの時間がたったのだろうか。

 風の噂は何十回何百回と頭の中をめぐって、黒い森の中で何十回何百回と黒いトンネルをくぐって音を生み出す力もあとわずか。
 けれども、目指すその場所をいまだ黒いトンネルの先に見出すことができずにいる。
 地面を蹴る音は勢いをすでに失い、それを生み出していた2本の足がささえているものが重くてとてもうっとうしいものに思えた。

 限界だ。
 もう音を生み出す力も、それの存在を信じる力も…

信じていたわけじゃなかったんだ…でも…

 地面を蹴る音はすでに聞こえなかった。
 残された苦しそうな呼吸音の中、わずかに残された力でふたたび空を見上げる。 あいかわらず月は見えなくて、それを隠す雲が不気味に光っていた。

 こうすればあきらめもつくだろうって…

 瞬間、視界から空が消えた。






 ……

 夜のすこしひんやりとした風がくさむらをざわめかせている。
 視界にふたたび映し出されたのは空ではなく密に生えた草のベッドであった。
 無意識に手を伸ばしてそれをつかみその感触を確かめる。


 ……。

 そうだ、森の中で倒れたのではなかったのか。


 ここはどこだ、と頭の中で叫ぶより早く体が反応した。 すっくと立ち上がり、目の前の光景をその目に焼き付ける。 ひたすら走ってボロボロのはずなのに不思議と痛みや疲れといったものは感じなかった。

 視界に黒い森の中とは異なる光景がに広がった。 小高い丘で密に生えた草むらがつづく。虫の鳴く声が聞こえる。
 さらにその先に目をやるとさっきまで走っていた黒い森が見えた。 どうやらここから森を見下ろせるらしい。
 月はあいかわらず雲の上にあったけれど光を覆い隠すものがない森の中よりは明るかった。

「!」

 そして気がついた。
 自分の背後にある巨大な存在に。

 それは幹のふくらみ一つとっても、自分の知っている木というものの幹の太さがあった。 それは付け根のほうの枝一本とっても自分の知っていた木というものの幹の太さを持っていた。 それは木一本という単位でなく、丘とか、森一つとかそういう単位と等価のものであった。

 巨大な一本の木…

 その巨木は丘の上に根を下ろして、今日まできっと人の身には想像もつかぬ長い長い時間、あの黒い森を見守り続けていたに違いない。

 そして確信した。
 こここそが捜し求めていた場所そのものであると。

 同時にその根元に建てられた巨木とは対照的に小さな祠が目にとまった。

 そのときだった。それのすぐ上で光が溢れた。
 その光ははじめはただぼうっと光っていたが、だんだんと集って、光を増して何かの形をつくりはじめた。

 彼はそれが何を形作っているのかそれが何であるのかすでに確信していたようだった。
 彼の口から迷うことなく反射的に言葉が出た。

「会いたかった…セレビィ」

 光はますます強く、ますますその形をはっきりとつくってぱっと光が消えたかと思うと、形作られたものが祠の上に降り立った。

 探し求めていた場所の、捜し求めていた者であった。







 月はあいかわらず雲の上に隠されていた。 ただ、その下にある雲だけがぼうっと不気味に光って見えるだけだった。
 その下に広がる小高い丘の上に根を下ろす巨大な木の下で、 小さな影とそれより少しばかり大きい影、ふたつの影が向き合っていた。

 ほんとうだったんだ…

 少しばかり大きい影が第声を発するより少し早く対峙している影のほうが言葉を発した。 いや、言葉を発するといってもそれは口を開いて発せられる音声ではなく、頭の中にひびく類のものであったが。

『めずらしい人もいるものね。今どきの子がこんな言い伝えを信じてやってくるなんて』

『最後の来客から何回の冬を越したかしら?』

 その口ぶりはもう何年も、いやもしかしたら何十年もの間ここに人が足を踏み入れてはいないらしいということを語っていた。

『あんな言い伝えもう絶えてしまったのかと思っていたのに』

 今度はもう一方の影が口を開いた。

「叶えて欲しい願いがあるんだ」

 それに対峙する小さな影がひさしく聞いていなかった言葉だった。
 何年ぶりだろうか? それとも何十年ぶりだろうか? すでに記憶はさだかでない。
 もう一方の影はさらにつづけた。

「変えたい過去があるんだ」

 そしてすがるように、それでいて必死に、他の誰にも頼むことができないかった願いを言葉にした。

「お願いします。どうかぼくを”ときわたり”であの日に連れて行ってください」

 なぜだろう。
 暗くてよくわからなかったけれど小さな影の表情が少し曇ったように見えた。

 つの影の間に沈黙がつづいた。
 月はあいかわらず雲の上にあって、その下にある雲だけがぼうっと不気味に光って見えるだけだった。
 風がくさむらをゆする音と虫の音が聞こえた。

 しばらくして少し大きな影が沈黙を破った。

「ぼくは…あの日にとりかえしのつかない誤りをおかしました。 なぜあんなことをしてしまったのか…とても後悔しています。 あんなことさえなければと考えると毎日つらくてつらくて、苦しくて苦しくて… 考えないようにしても湧き上がってくるんです」

 言葉をつむぎ出すたびにあの日のことが思い出される。
 胸が苦しくなった。

「そんなとき風の噂を耳にしました。 黒い森の主に頼めば過去を変えられるって、黒い森の主は時を渡る力があるんだって…」

 そこまでごく小さな震えた声でなく語ると胸がいっぱいになった。
 黙ったと思った瞬間、叫んだ。

「過去を変えたいんです!」

 また沈黙が訪れた。
 何度かつの影の間を風が走り抜けたのち、小さな影は語り始めた。

『かつてまだこの言い伝えを信じる人々がたくさんいた時代……私の元には過去を変えたいと願う人がたくさん訪れました』

それは遠い昔を懐かしむような口調であった。

『私は…その人たちが幸せになれるならと何度も何度も時を渡ったものです。 たくさんの人間が時を渡って自らの過去を変えました』

 小さな影はそう言うと、しばらくの間黙って対峙する影に問うた。

『……過去を変えたすべての人間が幸せになれたと思いますか?』

 突然、大きな風が吹き抜けて草むらとその上に根を下ろした巨木の葉たちがざわっと騒いだ。
 まるで小さな影にあわせるかのように。

「でも…」
『私にあるのは時を渡る力だけであって過去を変える力も、人を幸せにする力もないのです』

 暗くてよくは見えなかった。
 けれどその小さな影の表情がとても暗い影を落としているように見えた。

『人間は過去に干渉するようにはつくられていません。たいていの生物はそうですが…。 今になって考えれば、そうつくられていない生物が本来ではないことをしてうまくいく道理はなかったのです』
「でも、可能性があるなら…!」

 なんとか願いを叶えてもらおうと必死だった。 頭の中にあるのはあの日のことばかりだ。あのことさえ、あのことさえなければ……
 だが、相手方の返事は快いものではなかった。

『私はもう疲れました。もう、時を渡るのはやめようと思った。 同時に時が流れ、気がつくと言い伝えを信じる人はいなくなりました。 はからずともここには誰も来なくなったのです』

 それはそのことに安堵していたかのようにも聞こえたが、また寂しそうにも聞こえたのだった。

『けれど、あなたが現れた』

 小さな影がそう言うとそれに対峙する影の目の前に光が溢れた。ちょうど小さな影が、セレビィが現れたときのように。
 その光は集まってだんだんと形をつくると、ぱっと消えて少し大きな影の、少年の手のひらの上に落ちた。

『あなたの願いを叶えることはできない。そのかわりそれをもっていきなさい』

 手のひらの上に落ちたものを見る。
 手のひらの上にあったのは砂時計だった。







手のひらの上におちた砂時計を持ち上げると
最初の一粒が落ちるのが見えた。

セレビィがつづけた。

『人は生まれたときから、砂を落とし始めます。 生きるほどにその砂は積もってゆくのです。 時に人は積もった中のたった一粒が気になってそれをどうにかしたいと悩みます。 でも人は砂を落とすことはできても積もった砂を取り除くことはできません』

 そう、過ぎ去ってしまった過去には干渉できない。
 過去を変える方法はたったひとつ。

『だから私の力を借りて、砂時計を逆さにしようと考えるのです』

 セレビィは少年の手から砂時計を取り上げると、
 それを逆さにして、ふたたび少年の手へと戻した。

『砂時計を逆にすると砂が逆流します。 でも逆さにしたとき最初に逆流するのは最後に落ちた砂とは限らない』

 そう言って、もう一度同じ動作を繰り返した。

『もう一度砂時計を逆にすると、また砂は落ち始めます。 しかしそれは前に落ちた砂と同じというわけにはいかないでしょう』
 
 そして強い口調で一気につづけた。

『積もった砂の一粒、 それもどれも同じように見える砂粒の一つをどうにかするために砂時計を逆にする。 逆流するのは取り除きたかった砂だけではありません。 たった一粒を積もった砂の山からなくそうとすると、中に積もり続けたあらゆる砂を巻き込んで逆流するのです。 砂はどんどん混じって、ついにはわけがわからなくなって、でも二度と元には戻らない』

 そしてこう言い聞かせた。

『過去を変えるとはそういうことなのです』

 いままでで一番重い口調。
セレビィに”ときわたり”の意思がないのは明白だった。 唯一見えていた道が、見えなくなった。 出口のない森の中で迷子になってしまったように。

「わからない……言ってること全然わからないよ」

 もう過去を変えることはできないのだろうか。
 少年はうつむいていた。すがるように砂時計をぎゅっと握り締めて。目から砂時計の砂のように涙が落ちた。

「やっとの思いでここまでたどり着いたのに… 願いを叶える気がないのならどうしてぼくの前に現れたりした?」

 セレビィは黙っていた。
 まだ、言い伝えが信じられていた時代、自分を頼ってたくさんの人間がここに訪れた。それが嬉しかった。

「答えてよ!」

 けれど過去を変えてすべての人が幸せになったわけではなかった。それが悲しかった。

「どうしたらいい? これからどうしたら…?」

やがて時は移って言い伝えを信じる人間はいなくなった。それが寂しかった。

 ここは丘の上のはずなのに、あの行き先の見えない真っ暗な森の中にいるような気分だった。
 月はあいかわらず雲の上にあって、その下にある雲がぼうっと光っていた。 先が見えない、どうすればいいのかもわからない。
 できることといったら悲しみにまかせてあたりちらすくらいで。

「…もういい、消えてくれよ」

 まだ、言い伝えが信じられていた時代、自分を頼ってたくさんの人間がここに訪れた。それが嬉しかった。
 けれど過去を変えてすべての人が幸せになったわけではなかった。それが悲しかった。
 やがて時は移って言い伝えを信じる人間はいなくなった。それが寂しかった。

「消えてくれよ! ぼくの目の前から!!」

 セレビィの体が光り始めた。現れたときとは逆に光の輪郭が崩れ始めた。
 少年の目の前から消えかけながらセレビィは最後にこう言った。

『その砂時計が計る時間は一年。すべての砂が落ちるのに一年かかります。 もし、すべての砂が落ちたとき、それでもあなたの願いがかわらなかったら、もう一度ここへいらっしゃい』

 輪郭は完全に崩れて、光は消えかかっていた。

『そのときはあなたのその願い、叶えましょう』

 できることなら一年の間に過去を乗り越えて欲しい。
 けれどそれでも行き先が見えなくて、どうしていいのかわからないのなら、その願いを叶えましょう。
 もう信じるものなどいないと思っていた。けれどあなたは来てくれたから ――

 わずかにのこっていた最後の光も消滅した。 目の前は涙のためかよく見えなかった。 ただ風の吹き抜ける音と虫の音だけが耳に残った。


 そのあと、どうやって家路についたのか…覚えていない。







――あれからちょうど一年が過ぎた。


 黒い森の中に地面を蹴る音とその動作に伴う呼吸音が聞こえる。 あのときの少年は森の中を走っていた。
 その歩幅は階段を一段抜かしで上がるかのように大股で、 あのときより長く太くなった腕をぶんぶん振り回していた。 森の木々がつくるトンネルを何度も何度もくぐりぬけてひたすら走り続けた。
 不思議と行き先がわかる。迷わなかった。一度行ったことがあるからだろうか?  あのとき貰った砂時計を持っているからか?  そんな考えが脳裏をよぎったがそんなことはどうでもいいことであった。
 あのときの少年は走り続けた。

 約束のあの場所を目指して。


 どれくらい走っただろうか。
 一年前のあのころならここらへんで息を切らしていただろうか。
 あれからずいぶんと体も大きくなって体力もついた。 地面を蹴る音も呼吸音もほとんど乱れない。
 そんなことを考えながら、黒い森の主の元へと走り続ける。

 ガッと音と同時に突然地面を蹴る音が止まる。 どうやら木の根に足をつかまれたらしい。勢いよく前方に体が倒れていく。

 だめだ、そのまま地面たたきつけられる!

 そう思って思わず目を閉じた。
ドサッという音と共に体に地面が転がった。 …が、さほどダメージは受けなかった。 まるで何に包みこまれたかのようだ。
 そして気がついた。 自分が起き上がろうとして掴んだそれは森の中の落ち葉ではなく、 あの時、あの場所で気がついたときに握った草の感触であるということに。

 再びたどり着いた…

 一年前のあの場所。約束の場所に。

 一面の密の生えた草むら。背後を見るとそこには巨木が根を下ろしていた。
 あの時と同じ…いや、この木にとってみれば一年なんてものすごく短い期間なのかもしれない。だから外見的に見てもわからない。
 そしてその根元に建てられた祠を見た。 祠は木で作られているように思われたがどちらかというと緑とか黒とかそういう色が多くて、 それをつつむ苔がその歳月を思わせた。 あのときは暗くてよくわからなかったけど…ずいぶん古いものだったのだなぁ、そう思った。

 祠のすぐ上で光があふれた。 光はだんだんと集まって形をつくってその輪郭がはっきりしてきたかと思うと、 ぱっと消えて、作られた形が祠の上に降り立った。

 ――セレビィ。

 少年は最後の一粒が落ちた砂時計をかざしてこう言った。

「すべての砂が落ちました。どうかぼくの願いを叶えてください」

 セレビィは最後の一粒が落ちた砂時計を見てこう答えた。

『すべての砂は落ちました。あなたの願いを叶えましょう』

 小高い丘の上に根を下ろす巨木の下で対峙したつの影はお互いに覚悟したような表情であった。
 その表情は険しいというよりも、むしろ笑っているようにすら見えた。

『あなたの願いを叶えましょう。 ただし、過去を変えたすべての人間が幸せになれるとはかぎらない。 砂時計を逆流させるとあらゆる砂が逆流するから』

風が通り抜けて草むらと巨木の葉たちがざわっとさわいだ。

『…覚悟はいいですね?』

 セレビィの頭の中にまた記憶がめぐった。

 まだ、言い伝えが信じられていた時代、自分を頼ってたくさんの人間がここに訪れた。 それが嬉しかった。
 けれど過去を変えてすべての人が幸せになったわけではなかった。 それが悲しかった。
 やがて時は移って言い伝えを信じる人間はいなくなった。 それが寂しかった。

 だが、セレビィにもう迷いはなかった。 彼が幸せになれるかどうかはわからない。 しかし、これが自分にできる唯一のことなのだと。

 が、少年の答えは予想に反するものだった。

「いいえ、ぼくは過去を変えにきたわけではありません」

 驚いた。

『では…何を叶えに?』

「もう一度あなたに会いたかった。そして謝りたかった。 一年前、ぼくはあなたにひどいことを言いました」

 ああ、そういえば一年前、不本意な別れ方をした。

「…ごめんなさい」

 少年はそう言って、つづけた。

「あなたの言っていた砂時計の意味、少しだけわかったような気がします。 あれから一年、砂を落とし続けました。たくさんの砂を。 もしあのときにあの砂が落ちていなかったら、落とすことはできなかったかもしれない砂です」

「あらゆる砂が落ちています。 悲しいことも、けれど嬉しいことも。いろんな砂が積もりました。 だから、まきこみたくない。もうこの砂を逆流させたくないんです。 今なら、こんな自分も悪くないって思えるから」

「過去が人をつくります。ぼくの砂時計は逆さにしません」

 少年の表情に迷いはなかった。それはとてもすがすがしいものだった。
 あの時と違って月明かりでお互いの表情がよく見えた。

 ――月明かり?
 ふと、つの影は巨木の葉の間から見える空を見上げた。

 月が見える。
 あの時は雲に隠されてずっと見えなかったのに。
 今日は雲ひとつない。
 光をさえぎるものはない。
 満月だ。

 ああ、そうか。
 ここまでの道に迷わなかったのも、
 あのときより祠がよく見えたのも、
 お互いの顔がよく見えたのも、

 こんなに気持ちが晴れやかなのも。


 月を隠すものは何もない。
 その光をさえぎるものはない。

 道は、月明かりが照らしてくれる。



 ――もう、迷わない。