はれぬ雨の 曇りそめけん 雲やなに 恋よりたてし 烟なりけり ――慈円



 俺にはここのところ、ずっと見続けている夢があった。梅雨入り以降、ずっと差している青い傘、それを持って俺はまるで幽霊のように街を歩いている。そこは空も建物も白く味気のないの街だ。その世界に影はなく、鉛筆で引いた線を組み合わせたみたいな町並みが俺の目の前に映っている。これでも最近は若干黒の線が増えて少し賑やかになったくらいなのだ。だがそんな世界でも雨は降るらしく、傘にはばたばたと雨粒の落ちる音が聞こえる。ちょうど夢でないほうの世界で雨が降っている時と同じように。その時、幽霊のような俺は確かに自分がそこにいると感じることができるのだった。外も雨、夢の中も雨ならば、そのうち区別がつかなくなるような気がした。そう、似たようなものなのだ。夢でないほうの世界でも俺は今幽霊のように日々を生きているのだから。



 空が泣いていた。ほの暗く空を覆う灰とも青とも表し難い色をした雨雲から雨粒がひとつ、またひとつと落ちてきて、街を濡らしていた。青い屋根の並ぶ街、長方形の石材を線路のように並べた通りに人影は見えず、そこに並ぶ商店は戸を閉じてじっと雨に耐えていた。家々の屋根から滴り落ちる雨水が、通りに敷き詰められた石材の間を流れていく。緩やかに坂道となっているその通りを小さな川となって流れていく。流れ出していく。
 そんな青い風景画の中にも一点だけ黄色い絵の具を薄く塗ったように明かりが見える。一箇所だけ明かりのついた家屋があるのだ。通りに面しているのは入り口だけで目立たない。初めて来た者ならば、見逃して通り過ぎてしまったことだろう。だが、雨に濡れた訪問者は迷う様子もなく、廊下を水滴で濡らしながら奥へ奥へと進んでいった。やがて狭い廊下が終わり視界が開ける。その場所では一人の青年が梯子に腰掛けていた。彼は部屋いっぱいに、まるで壁のように立てた大きな平面に対し、指先を黒く汚した腕を上下左右へせわしなく動かしていた。やがて彼は訪問者に気がついて、
「やあ、今日も来てたんだ。さすがに今日は来ないかと思っていたんだけどね。だってほら、こんな天気だろ。ただでさえ少ない客も来ないから街中朝から店終いなんだ」
 と、言った。動かす手は止めなかった。



 また夢を見ていた。俺はいつのまにか机に突っ伏して眠っていたらしい。腕枕から頭を上げると、鉛筆とラフスケッチを描いた紙が目の前にいくらか散らばっていた。描かれたアイディアの残骸たちは俺が夢で見た風景に似ていた。いわゆるスランプってやつなのだと思う。大学生活も今年度で終わり。来年の春には通いなれたキャンパスを巣立っている予定の俺はそろそろ卒業制作にかからなきゃいけないわけだが、梅雨入りの前に作品を出したのを最後にすっかり完成した作品が上がらなくなっていた。原因はよくわからない。けれど、ここのところ自分の作品はひどくマンネリのような気がしたのだ。ためしに過去の作品を一望してみたら、案の定、落ち込んだ。見るんじゃなかったと思う。現状を打破すべく、いろいろアイディアを殴り描きはしてみるものの、どれも既存の枠を超えているものはないように思えた。アイディアはどれも形にならず、殴り描きは殴り描きのままで、決して完成に至らなかった。ふう、と俺は溜め息をつく。机にひじをついて、拳を頬に埋もれさせてだらんと力の抜けた状態で窓の外を覗く。外は雨だった。しとしとと降っては校舎を包む緑を濡らす。雨水を湛えた緑の樹木の枝が時々頭を垂れて、水滴を滴り落としていた。ここのところの空はずっとこんな具合だ。たまに晴れ間が覗いても、すぐに雲に覆われて雨に戻ってしまう。梅雨入りは俺のスランプと共に始まり、そして未だ明ける様子を見せない。Minamo Art Univercity、頭文字を取ってMAUと刻まれた大学の看板を横目に眺めながら、青い傘を持って俺は大学を出た。放課後の予定は特にない。



 青年は広い画面に木炭を滑らせる。大まかな長方形を描くとそれを何分割かして、また線を引いていく。時々練りゴムで木炭を落として、形を整える。また線を引く。それを繰り返すうちに長方形は一つの形になってゆく。できるとまたとなりに長方形を描く。線を引く。部屋いっぱいのカンバスがその形で埋まるまで繰り返した。ここのところはずっとそんな作業ばかりだ。来訪者はただずっとその様子を眺めていた。雨で塗れた毛皮はすでに乾いている。時々自分の体長の三分の一ほどもある絵筆の形に似た大きな尻尾を揺らしていた。このポケモンは青年の所有ではないらしい。ただ、彼らはこの街で出会い、この場所で過ごすのが日課になっていた。青年がカンバスを前に作業を始めると決まってどこからかポケモンは現れるのだ。青年はたまには自身の食べ物を与えることがあったが、せいぜい作業の合間に一言二言話しかけるくらいで、それ以上はさほど構うこともなかった。それでもどういうわけだかいつもポケモンやってくるのだった。部屋はランプが一つ置いてあるだけで薄暗い。窓からいくらか光が差し込むが、こんな天気だからなんだか頼りなかった。作業を続ける青年と見守る訪問者の耳に雨の落ちる音だけが響いていた。



 ミナモシティ。この国の南に位置するホウエン地方最大の都市は、コンテスト会場はもちろんのこと、この地方を管轄する行政機関、教育機関、公共施設を多く有している。俺が通うこのミナモ美術大学も、一駅先のミナモ美術館もそんな中のひとつだ。ミナモ美術館はポケモンをモチーフにした作品の収集に力を入れており、彼らを木の実に入れていた時代から、ボールと呼ばれる機械球を使うようになった現代までの様々な作品を見ることができる。ポケモンをモチーフにやってきた俺は大学の帰りなんかによく入り浸っていたのだが、梅雨入り以降足を運ぶこともなくなっていた。
 大学から駅まではいささか離れていている。それでも晴れの日は歩くことが多いけれど、梅雨に入ってからはずっとバスを利用していた。バス亭にはアーチ状の屋根がついていて、その下にあるベンチに腰掛けていれば濡れることはない。しかし、変な時間帯に大学を出てきたものだから、やたらとバスの本数が少なかった。俺の視界に映る道路も車はたまにしか通らない。歩いたほうが早い気がしたのだが、腰がベンチに根を張ってしまい、立ち上がる気も起きなかった。鞄から携帯電話を取り出して開く。特に着信もなければ、メールもない。パチンと携帯を閉じて、再び視界を道路に戻した。そして、気がついた。いつのまにか道路の向こう側に見慣れないポケモンが座っていることに。
「……シャワーズだ」
 俺はそう呟いていた。



「やあ、今日も来てたのかい」
 足元に気配を感じて視線を降ろすと、茶色い小さなポケモンがちょこんと座っていて、青年を見上げていた。
「君も物好きだね。僕が絵を描くとこなんて見ていてもつまらないだろう?」
 長く伸びた耳を二度、三度振って、ポケモンは首を傾げた。すると何を思ったのか、青年はひょいっとポケモンを抱き上げた。自分の視線の高さにポケモンの視線を合わせてやる。ポケモンはちょっと驚いた様子だったが、抵抗はしなかった。不思議そうに青年を見るポケモンに彼は言う。
「ほら見て。一週間以上かけてようやくここまでできたんだ。これでやっと色を乗せられる。僕は色を塗る段階が好きでね。絵に命を吹き込むのがこの段階だと思ってるんだ」
 ポケモンは青年の高さで絵を見つめる。部屋いっぱいに広げられたカンバスにはびっしりと建物が描かれ、整然と並んでいた。それは街だった。彼らが今ここにいるこの街だった。
「ずっと使ってみたかった色があるんだ。きっとこの街に、雨の街にあうよ」
 そこまで話すと青年はポケモンを降ろしてやった。部屋の隅まで行くと、置いてあった箱を重そうに引っ張ってきた。箱の中に詰められていたものを一つ取り出して、色を確かめる。
「この絵は大きいから、たくさん作らないといけないな」



 透き通るような水色のしなやかな身体。海の向こうからやって来た宣教師のそれのような襟巻き。魚のヒレのような耳。長く伸びた尻尾は人魚のようで地上には似合わないように思えたけれど、雨に濡れたこの場所になら相応しく思えた。それにしても、何でこんなところに。シャワーズはとても珍しいポケモンで、ことにホウエンじゃめったにお目にかかれないはずなのに。ふと、雨に打たれているそいつと目があった。するとシャワーズは待っていたとばかりにすっくと立ち上がると、道路を横切ってこっちへ渡って来た。おいおい、マジかよ。ポケモンを描いているくせに、彼らの扱いというものに慣れていない俺はどうすればいいものかとどぎまぎする。そうしてる間にもそいつは近づいてきて道路を渡りきった。足元までやってくるとひょいっとベンチに飛び乗ってきて、俺の顔を覗き込む。そして、身体を硬直させている俺の膝に足をかけると、キュウンなんて甘えた声を出して頬に顔を擦り寄せた。俺は膝にシャワーズの体重を感じながら、緊張を募らせる。すると突然、シャワーズは首を傾けて俺の手にあったケータイをくわえると、奪った。俺は一瞬、何が起こったか理解できずにいたが、シャワーズが膝から飛び降りて、そそくさと走り出したあたりで状況を把握する。とりあえず携帯を盗られたらしい、と。
「おい! ちょっと待てよ!」
 俺は急いで鞄と傘を手にとると、もう十何メートルか離れたシャワーズを追いかけ始めた。



 日が変わって、青年はいよいよ色を作る作業に取り掛かる。箱から色の材料を取り出した。手の平に収めるのにちょうどいいくらいの大きさのそれはびっしりと箱に詰められていた。まずは微妙な色合いの違いによっていくつかに分類する。終わったら、紙の上にそれを置きハンマーで叩いた。何片に割れると先ほどよりも小刻みに叩く。だんだんと細かく、粉状にしてゆく。納得の行くところまで粒子が細かくなったら、用意しておいた瓶の中にさらさらと落とし、蓄積した。この時だけは青年はポケモンが部屋に入ることを禁じた。
「ごめんね。絵の具の顔料って有害なものも多いんだ。これがどうかはわからないけど、うっかり吸い込んで身体壊したら大変だからね。念のためだよ。君は僕より身体が小さいしね」
 青年は申し訳なさそうに言った。そして、また作業を繰り返す。取り出して砕く、細かくする。その繰り返しだ。徹底的に細かく砕くもの、大雑把な時点でやめるもの。ひとつの材料から、様々な粉を作った。粉の荒さによって出る色が違うのだと青年は説明する。
「思ったより骨が折れるなぁ。こりゃ、二日や三日はかかりそうだ」
 雨の降る街、雨の音が響く部屋、その中にカーンカーンと材料を砕くハンマーの音が混じる。案の定、三日程、ポケモンが部屋に入れない日が続いた。そんなことはポケモンにしてみれば大したことではなかったけれど、黙々と仕事を続ける青年を遠目に見て、少し気になることがあった。青年が時々咳をしていることだった。顔料になる粒子が部屋に舞っているからではなさそうに見えた。



 携帯をくわえシャワーズは走る。ぱちゃぱちゃと水溜りを踏みながら駆けてゆく。俺は傘をリレーのバトンのように持って、運動不足の身体に鞭を打って泡吐ポケモンを追いかけた。傘を差す余裕はなかった。シャワーズは次第に横道、しかも坂道に入っていき、すでに上がっていた俺の息はますます上がる。坂がひと段落しようかというところで、太腿がガチガチになって走れなくなった。あーあ、もう見えないところまで行ってしまったんだろうな。俺は半ば諦めて、体勢を立て直すと、とりあえず歩いて坂を上りきった。するとそこには、遅いじゃない何やってたの、とでも言いたげな顔をしてシャワーズが待っていたのだった。俺の姿を確認すると再び尻尾をくるりと翻し、走り始める。
「俺の携帯……返せ!」
 俺は再び追跡モードへと移行した。



 いくつかの色合い異なる青色といくつかの目の粗さ、それらが入ったしっかりと蓋のされたビンが部屋にいくつも並ぶ。青年は材料をほとんど砕ききってしまい、残ったわずかな材料は再び箱にしまった。掃除が済んだ後、ポケモンはやっと部屋に入ることを許された。青年がビンのひとつを取ると絵皿に青い粉を落とす。それをあらかじめ用意していた糊状のものとよく混ぜて、絵の具は完成する。絵の具をたっぷりと乗せた絵筆がカンバスに触れた。青色を広げてゆく。白と黒だけだった街に色が広がっていく。



 追いかけっこは続く。俺が走れなくなって止まる、けれど未練たらしく進んでみるとシャワーズが待っていて、また追いかける。その繰り返しだ。その間隔が短くなっていくうちに俺はやっとそのことに気がついた。どうやらこいつは携帯を持ち逃げすることが目的ではないらしいと。それからは走るのをやめて傘を差した。そして、予想した通りに事が進んだ。追いつくたびにシャワーズが待っていて俺を誘ったのだ。やがて、通る道の周りが人工物より緑の割合が多くなってきた頃、泡吐きポケモンはひとつの建物に行き着き、入り口へと消えていった。コンクリートの塀で周りを囲った割合大きな建物だ。看板を見て、俺は少し驚いた。看板には「ミナモ美術館 別館」と書かれていたからだ。別館があるなんて知らなかった。パンフレットにも載っていなかったと思う。とりあえず、中に入ってみることにする。受付はあったけれど人はおらず、入場料も取ってはいないようだった。俺はほの暗い館内を進むんでいく。館内には本館と同じようにポケモンの絵画やら彫刻やらが並んでいたが、とりあえずそれらは無視して進んだ。やがて広い場所に出た。真ん中に休憩のための大きなソファ、右側はガラス張りで、雨空の鈍い光が差している。外にはちょっとした庭園のようなものが見えた。左側に目をやる。すると、床に携帯が無造作に置かれているのが目に入った。俺は歩み寄って、しゃがみこむと携帯を手にとった。それを鞄に入れた時に、自分の目線のすぐ上に「作品名不明 作者不明」と書かれた説明ボードが飛び込んできて、俺は何気なしに顔を上げたのだった。
 そして俺は、目線の先に広がっていた世界に目を奪われた。
 目の前にあったのは高さだけでも俺の身長をゆうに越す一枚の大きな絵。そこには青い町並みが広がっていた。息を呑むって表現があるけれどこういうときに使うんだと思う。俺はその絵から目を離すことができなかった。しばらくの間、瞬きさえできないでいた。
 整然と並んだ街の建造群。昼とも夜ともつかない画面の中に一箇所だけ街灯が灯っていた。誰もいない青い街の一角を誰か待つかのように儚く照らしている。この絵の中でも外と同じように雨が降っていて、展示室の庭園側から響いてくる雨の音と見事にシンクロしていた。俺はしばし自分のいる世界というものを忘れてその絵に見入っていた。それほどに俺にとってそれは魅力的に映ったのだ。
 この絵にはある。この絵に俺が求めているもののヒントがある気がしてならなかった。俺は時間を忘れて絵に見入っていた。日が落ちて、庭園の光が消えたころになって、ようやく隣に座っているシャワーズに気付いたくらいだった。
「お前、ここに俺を連れてきたかったのか?」
 シャワーズはどこか笑っているように見えた。



 雨音の耳に刻みながら、街に俺は立っている。青い傘を差して立っている。俺の見ている景色が変わったのはこの日からだった。白かった空が、その日はうっすらとではあったが青く染まっていた。次の日に見た夢では、空の色はもう少しだけ濃くなった。その次の日には濃淡が出て、グラデーションが生まれていた。



 どこからか時報が聞こえて、俺は目を覚ます。また眠ってしまっていたらしい。目の前にはイワークが通った跡みたいな線が引いてあるいくつかの白い紙と鉛筆が散乱していた。いつぞやと比べてまったく進展がない。いい時間だったので校舎を出ることにした。
 あの日を境に、一つの習慣が生まれた。大学を出るとこの別館に立ち寄るのが俺の日課となっていた。降り止まない雨、今日も傘を差し、坂を登って別館へと赴く。他の作品には目もくれずに進んで、今日も青の町並みの前に立つ。そして、気が済むまでそれを眺めている。そんなことを繰り返すうちに俺はある一つの結論に至った。
 そうか、色なのだ。そう俺は思った。俺が惹きつけられているのは、この作品の大部分を構成する青色なのだと。空の果てのようであり、深海の光のようでもあり、ほの暗いギャラリーに確かな存在感を持って浮かび上がるこの青。気がつくとずっと思案しているのだ。一体どうしたらこのように深い青が出せるのだろうと。
「お好きですか? その絵が」
 ふと背後から声が聞こえた。
「ここのところ毎日来ているのですね。もう一週間は通い詰めだ」
 五十代半か六十ほどだろうか。ゆったりとした声に振り返ると五メートルくらい後ろにそのくらいの年と思われる男性が立っていて、歩み寄ってきた。人気のない美術館だと思っていたけど、しっかり見られていたらしい。彼はすっと横に立ち、俺達は絵を前にして横に並ぶ。
「あなたは?」
「私は館長ですよ。この美術館のね。ついでに言うならばオーナーだ。館長兼オーナー。先代だった父と交代してからもう随分と経ちます」
 そう男は説明した。
「この絵は画商だった父のお気に入りでね。私が小さかった頃どこからか手に入れてきたのです。製作年は今から五、六十年くらい前でしょうか。作者も作品名もわからない。聞いたところによると、どこかの街に立ち寄った際に古びた宿の倉庫に放置されていたものをただ同然で引き取ってきたというのです。そんなどこのギャロップの骨ともわからないシロモノだったから当然値段なんて付きませんでしたけど」
 尋ねもしないのに館長はそんな具合で語りだした。尤も値がついたところで手放しはしなかったでしょうけどね、とも付け加えた。父のお気に入りだと言ったけれど、館長も館長で相当この絵が好きなのだろうと俺は思った。
「この近くにお住まいですか? 本館と違ってここは知っている人が少なくてね。あなたのように毎日来てくれる方がいるのは喜ばしいことです。よろしければお名前もお聞きしたいな」
「……キヨセです。家は近くないけど学校が近くにあるのです。ミナモ美術大学」
「おや、美大生の方でしたか。何を専攻なさっておられるんですか?」
「一応、油絵を」
「それは素敵だ。ではキヨセさん、今度はぜひあなたの作品も見せてくださいね」
「お見せするほどの腕ではないですよ」
 謙遜して俺は言う。すると、
「そんなことありませんよ。この絵を気に入ってくれたあなたの絵ならきっと素敵ですよ」
 そう館長は言った。
「……それじゃあ、スランプから脱出できたら考えます。梅雨入り以来絶不調なもので」
 仕方ないのでそう答えておいた。再び青い街に視線を戻す。雨の降る音が響いていた。



 気がつくとまた夢の中に立っていた。少しばかり街を歩いてみる。昨日より空が青い、濃くなっている、いや深くなっている。そう俺は思った。昼とも夜ともつかない青い空。ただ雨の音は以前と変わらずばたばたと傘を叩いている。空は綺麗な青色で染まっていたけれど建築群は未だ白と線のままだった。でもじきに青色に染まる。そんな気がする。ふいにぱちゃぱちゃと水溜りの上を何かが走っていく音がして後ろを振り返る。だが、走っていたそれはすぐに建物の裏手に入ってしまった様で姿を捉えることはできなかった。何か、いる。この街には俺一人しかいないと思っていたのに。



 梅雨は未だ明ける様子を見せない。卒業制作も特に進展なし。大学に行っては一応鉛筆を握り、それでも結局は眠ってしまう。そして別館に絵を見に行く。そんなサイクルを俺は繰り返していた。最近変化があったことといえば、館長と話すようになったということくらいか。
「キヨセさんは、やはりプロになられるんですか?」
 いつものように絵を眺めていると、隣にいた館長がそう尋ねてきた。
「ええ、まぁ、希望としては……でも絵だけで食える人間なんてほんの一握りですから、生活の糧は他で稼ぐことになるかも知れません。でも絵を描き続けたいって希望は持ってます」
 そう答えたものの、俺にとってはプロでやっていけるか以前に卒業制作のほうが問題だった。
「俺、これでも野望がありましてね。今確認されているポケモンを全種類描きたいんですよ」
 調子に乗ってそんなことを言ってみる。
「そういえばこの絵、ポケモンがいませんね。通常ミナモ美術館ではポケモンがモチーフになった作品を扱うのでは?」
 俺は、今更そんなことに気がついた。絵にイチャモンをつけたい訳ではなかったが、そうなるとこの作品の待遇は異質なもののように思われたのだ。
「さすがに美大生は目のつけどころが違いますねぇ。実はね、ここにこの絵を置いておくようにって父の遺言なんですよ」
「遺言、ですか」
「父のお気に入りだったって言ったでしょ。ホントは本館に置きたかったらしいんだけど、展示コンセプトがね。ここにはそういう作品がたくさんあります。たとえ、ポケモンがモチーフでもあまり評価されなかったとかね。それでも父が手放せなかった作品がここに集まっているんです。どんな有名な画家の名のある作品だって好きになれないものはなれないでしょ。でも、無名の画家で無題の絵画でも好きなものは好き、そういうもんです。父は生前よく言っていました。ここにある作品は生きているんだって。他がなんと言おうと、作者も名前もわからなくても、ここにあるのは命ある作品ばかりだと」
「……まるで九十九神ですね」
 そんな館長が熱っぽく話を聞いていて、ふと俺は言った。
「つくもがみ?」
「百年を経た古い道具は妖怪になるんです。命を持つんだそうですよ。だったら絵にもそういうのあるんじゃないかと思って。そういう思い入れのある絵なら特に」
「なるほどねえ、もっともそうだったら本館も別館も妖怪だらけですね」
「ハハ、違いないです」
「やっぱりアレですか、描かれているポケモンが絵の中から出てきたりするんでしょうか」
「そうなると本館にあるポニータの群れなんかすごいことになりますね。伝説のポケモンの展示室に至っては天変地異が起こりますよ、きっと」
「それは、とても賑やかで楽しそうですねぇ。でも、それなら……」
「それなら?」
「この絵はどうなんでしょうね? ポケモンのいないこの絵からは何が出てくるのでしょう」
 館長はしみじみとそう言った。うーんと俺は唸る。
「でも、五十年前の作品なんしょう? 何か出てくるにしてもあと五十年待たないとだめなんじゃないですか」
 十秒くらい考えてそう答えた。
「でもねえ、本館でも別館でも、もし一作品にだけ何かが宿るとしたらこの絵だと思うんですよ、私は。それは、キヨセさんも同じ意見なんじゃないですか?」
「それは、同意します」
 俺は即答した。
「父も同じ意見を持つと思いますよ。父はね、この絵は誰かを待つ絵だと言っていました」
「わかるような気がします」
 俺はまた青の街を仰いだ。やはり素晴らしい色彩だ。その青の中にワンポイントだけ置かれた黄色。整然とならぶ町並みの中にひとつだけ明かりのついた街灯がある。それが俺には誰かを待っているように見えてならなかった。この絵を最初に見たときから抱いていた感想だ。
「だから別館の、本当は本館に置いておきたかったんだけど、とにかく一番いい場所にっていのが父の希望だったんです」
「それでこの場所なんですね」
 中庭を臨むこの絵のための展示室。庭のほうからは水の落ちる音が聞こえる。今日も雨だ。
「雨、止みませんねえ。今年の梅雨は本当に長い」
「ええ、本当に」
「おかげで庭の池に住み着いているハスボー達は元気ですけど」
「へえ、ハスボーが住んでいるんですか」
「そうですよ。ちょっとそこをあけて庭に出てみればすぐに会えます。今度彼らの絵でもいかがですか」
「……考えておきます」
 ポケモンか。そういえばあいつ、どうしているだろう。俺はふとそんなことを思った。一週間と少し前、この絵の前に案内されて以来、あいつとは顔を合わせていない。
「そうだ。他に住んでいるポケモンはいないのですか? たとえば……」
「たとえば?」
「……シャワーズとか」
「シャワーズですか、そんなポケモンがいたら素敵ですね。でも残念、時々アメタマが遊びにくる程度です」
 館長は残念そうに言った。あいつのことは知らないらしかった。



 ポケモンはカンバスを見つめ続けていた。つい一週間ほど前まで白い背景と黒の線しかなかったカンバスは随分と青の割合が増している。現在進行形で、青年が青の割合を少しずつ、少しずつ増やしているのだ。
「そういえば、君はいつもどこに泊まっているんだい? 僕は三軒先の宿に泊まってるんだ」
 青年はめずらしく自分のことを語り始めた。
「僕はね、ずっと遠くからきたんだ。馬車に飛び乗って、汽車を何度も乗り継いで……ずっと幽霊のように生きてきた。世界にただ存在するだけで何もしないのが僕だった」
 カンバスに青を重ねる。
「ある朝目を覚ますと、両親や屋敷の人間が揃いも揃って白い仮面を被っていたんだ。口元がばっさりと裂けた不気味なやつでさ。そのうちにお前も被れと強要するようになってきて……抵抗したさ、だが結果として僕は閉じ込められた。この仮面を被るまで外には出さないと。けれど絶対にそれはできなかった。だってあれを被ったら呼吸ができなくなる。僕は僕でなくなってしまうから」
 ずっと響いていた雨音がより増して響いてくる。青を重ねる。
「だからあそこを逃げ出してきた」
 ポケモンは長い耳を回す様に動かした。視線はカンバス向いていたけれど、ポケモンなりの聞いていますよ、というサインなのかもしれない。だが、途端に雨音にゴホッ、ゴホッっと咳き込む音が混じって、ポケモンは青年のほうを向かざるを得なかった。青年は背中でぜえぜえと息をして、苦しそうに口元を手で覆っていた。何度かそれを繰り返した後にようやく落ち着いたらしく、彼は口から手を離した。見ると、手の平に赤い絵の具を散らしたように花が咲いていた。すぐさまぎゅっと手の平を閉じる。
「なんでもないよ」
 と、青年は言った。



 だばだばと雨が降っている。本館に用事があるのか、今日は館長の姿が見えなかった。昨日の話に興味を持った俺は、今まで素通りしていた作品たちも見て回った。きっと生きていたなら館長のお父さんとは気が合ったんじゃないかと思う。ハスボーがいるという中庭にも入ってみる。屋根に守られて辛うじて雨に濡れていないベンチに腰掛けた。眼前には池が広がっており、すぐさま水面に浮かぶ丸い葉っぱが寄ってきて、その下にある顔を覗かせた。随分人に慣れているようだ。きっと館長が餌付けでもしているのだろう。
「キュウウン」
 突然、聞き覚えのある声が聞こえてきて、俺はばっとその方向を見た。横に長いベンチの角にいつのまにかあいつが立っていた。
「ああ! お前、何時の間に。最近見かけないからどうしたのかと思ってた」
 そう俺が言うと、シャワーズは嬉しそうに魚の形をした尻尾を振った。
「神出鬼没なやつだなぁ。館長さんもお前を知らないというし、どこから通ってきてるんだ?」
「キューン」
 そう聞くと、なぜか美術館の方を見て一声鳴いた。だめだ、アバウト過ぎてわからない。
「俺はいつも大学からだ。この近くにある大学から通ってる。家は別にある。電車に乗って四十分くらいのところだよ。スランプ脱出のきっかけを掴むまでは入り浸ろうと思ってるんだ」
 俺は聞かれてもきかれてもいないのに、なぜかそんなことを喋ったのだった。
「俺さ、ここのところずっと幽霊みたいな感じなんだ。何を描きたいのかわからない。描いてる時の呼吸が思い出せないんだ。それにね、ずっとヘンな夢を見るんだよ。どうもあの夢を見始めたあたりからおかしくなった気がするんだ。でも、あっちは最近色が付き始めから、俺の現実より進んでるかな……まぁ、お前に言ったってしょうがないけどさ」
 だが、シャワーズは思いの外、話を真剣に聞いているように見えて、ちょっと意外に思った。するとシャワーズが俺の目の前にすたすたと歩みよってきて、ショウのモデルみたいに俺の目の前でくるっと一回転してみせた。
「……描くものがないなら、自分を描けってか?」
 なかなかナルシストなヤツだな、と思う。
「そういや、お前さんの仲間はいろんなのがいるんだよな。炎に雷、太陽に月、それに草と氷だっけ? その中では俺、シャワーズが一番絵になると思う。……別にお前がシャワーズだからってお世辞を言ってるわけじゃないぞ」
 するとシャワーズが期待するような顔をしたので俺は
「ま、そのうち、な」
 と、言って牽制しておいた。でも、シャワーズか、などと珍しく前向きに考える俺がいた。泡吐ポケモンならどのような舞台で最も絵になるだろうか。



 その夜も夢を見る。いつもの夢の続きだ。空はすっかり青色に染まっていた。傘を差して、耳に雨音をくっつけながらいつものように歩き回る。すると街に立つ建物がある地点から青く染まっていることに気がついた。だんだんと世界がリアルになっていく。この耳に聞こえる音に相応しい世界へと近づいている。そう感じた。また誰かが、水たまりを踏む音を聞いた。振り返る。そして、走っていく者を目に捉えた。身体の三分の一以上もある絵筆のような大きな尾を振って、それは雨の中を走っていた。
「イーブイだ。どうしてこんなところに」
 後を追ってみたけれど、すぐに見失ってしまった。



「そうか、これに似ているんだ」
 絵を見ていて妙なことに気がついて、俺は声を漏らした。
「どうしたんです、いきなり」
 横に立っていた館長がちょっと驚いた様子で聞いてくる。
「夢ですよ。スランプに陥った頃からずっと見ている夢があるんです。そこは色を塗る前の絵画みたいなひどく味気のない街でね、でも最近だんだんと色がついてきたんです。色がついてきたと思ったらね、この街にそっくりなことに気がついたんです」
「そりゃあ毎日見に来ているもの、キヨセさん。夢にだって出てきますよ」
 そう言って館長は笑った。そう、たしかにそうなのだ。これだけ見ているんだ。夢の中に出てきたって不思議じゃない。だが、俺が話したいのはここからだった。夢の光景に似ていると気がついたのと同時に、俺の頭の中にとある仮説が浮かんでいたのだ。
「……ねえ館長さん、ポケモンのいないこの絵から何が出てくるのかって話覚えてます?」
 俺は続けざまに尋ねた。
「ああ、九十九神の話ですね」
「俺、この中から出てくるのはポケモンじゃないかと思うんです」
「どうして?」
 不思議そうな顔をして、館長は聞き返してきた。
「この絵はポケモンの絵なんです。街は背景。作者は背景をすっかり描いた後に、最後に主役を描き加えるつもりだった。でも何か事情があって描かれなかった。……未完成なんですよ、この絵は」
「どうして、そう思うんです?」
「それは……」
 それは、結局、夢の中の話だ。誰もいないと思っていたあの街にはポケモンが居た。水溜りを踏んで走っていたイーブイ。だから、この絵の中に描かれるはずだったのは、きっと――。だが、次の瞬間、俺の中で俺の感性がそれは違うと言った。あの街にはもっと相応しいポケモンがいるような気がしたのだ。
「それは、美大生の勘ってやつですよ」
 結局、その場では結論が出ずに俺は言葉を濁してしまった。
「なるほどねぇ、でも面白い仮説だ」
 荒唐無稽なことを口走ったにもかかわらず、館長は感心したように言った。



 カンバスの大部分を青が覆いつくしている。白い建造物郡は日を追うごとにだんだんと数を減らしていき、残りは数えるほどになった。もう少しだ、と青年は思う。だが、次の瞬間にまた咳込んだ。これで何度目になるだろう。青い部分が増えるたびに回数が多くなっているような気がした。梯子から降りて身体を休ませることにする。ポケモンが駆け寄ってきて、心配そうに彼を見つめた。青年は力なく赤く染まった手の平を開く。もう誤魔化せないな、と呟いた。
「大丈夫だよ、僕に残された時間は少ないけれど、これを仕上げるには十分だ」
 部屋の隅によりかかってカンバスを見上げた。
「カンバスはじきに青で埋まる、そうしたらあの中心に持ってきた黄色で、街灯の光を入れるんだ。それでやっと仕上げに入れる」
 ポケモンは首を傾げた。カンバスが青で埋まったらこれは完成するのかと思っていたから。
「ずっと憧れてた、描きたかったポケモンがいるんだ。彼女はすごくきれいなポケモンでね。でも、すごく珍しいらしくて、本物は見たことがないんだ。小さい頃、本で見ただけ。名前だって知らない」
 雨音を聞きながら、青年は言った。
「一目惚れだったんだ。ずっと彼女に恋していた。僕の人生は何もすることがなくて、僕はただそこにいるだけで、だから閉じ込められていた白い部屋の中でずっと考えてた。小さい頃に本で見たあのポケモンにはどんな舞台が似合うだろうって。僕なりに考えた結論がこれなんだ。今までの工程はすべてあのポケモンのため。カンバスが青で埋まって、街灯が灯った時に彼女はやってくるんだ」
 雨の音が響いている。残された時間が少ないと知ったとき、青年は決意した。あの場所を抜け出そう、そして、恋焦がれたあのポケモンに会いに行こうと。再び青年はカンバスを見上げる。ずいぶんこの雨音に相応しい出来になってきた、と思った。



 夜、閉館の時間になって館長に別れを告げると、俺は別館を出た。雨は相変わらず降り続いていて、ばたばたと傘を叩いていた。あたりはもうすっかり暗くなっていて、道路に沿ってぽつんぽつんと等間隔に立てられた街灯に照らされた道がかろうじて見えた。あれからずっと俺は考え続けていた。あの絵に最も相応しいポケモンはなんだろうと。ばかばかしいとは思う。だいたいあれだけ完成された絵にポケモンが入るだなんて俺の妄想もいいところなのに。だけれどももう少しで結論出そうな気がした。ちょうど雲がこれ以上水を持ちきれなくなって、地上に涙を落とすように、もう少しで結論が空から降ってくる気がしたのだ。そうこうしているうちにバス停を照らす明かりが見えてきて、そして俺は待ち人に気がついた。
「ん、あいつあんなところで何やって……」
 明かりの下にあのシャワーズが立っていた。前足をぴんと伸ばし、後ろ足は折り曲げる。魚のような尻尾をくるりと手前に巻いていた。誰かを待つように、雲の上に思いをはせる様に、少しばかり顔を上に向けて、空を仰いでいる。俺はばちゃりと傘が落ちる音を聞いた。
「そうか……そうだったんだ」
 それは雲のように立ち上る確信だった。それは俺がずっと焦がれ見つめ続けていたあの光景にぴったりと重なっていた。あいつがこちらに気がつき、振り返る。すっくと立ち上がると、ついてこいとでも言いたげに尻尾を振ると歩き出した。



 青年は青を重ねる。ついに最後の一棟に筆をつけた。丹念に青色を塗り重ねていく。時々咳き込んだが、もう休もうとはしなかった。生きている、今自分は生きている。今は息苦しさが愛おしく感じられた。ついに画面全体が青色に染まる。あらかじめ用意しておいた絵の具を取り出すと、パレットに黄色を捻り出した。溶剤を垂らし、入念に混ぜてから、筆に乗せる。彼は青い街に黄色い街灯の光を灯した。
 これで舞台装置は完成。今やこのカンバスは彼女がやってくるのを待つばかりだ――。興奮は最高潮に達する。これこそが待ち望んでいた瞬間、自分の描きたかったもの。だが、青年は背後に不吉な声を聞いた。
「探しましたよ」



 シャワーズの後ろについて、俺は歩いていく。道は暗くてもうどこを歩いているかわからない。街灯も見えない。ただ真っ暗な道でシャワーズの青い身体があの別館に飾られた絵の青のようにぼうっと光って見えた。耳には鈍い雨音だけが響いている。不意にはるか遠くのほうで明かりが灯るのが見えた。すると、シャワーズがばっと駆け出した。
「おい、待てよ!」
 俺はすぐさまそう叫んだけれど、シャワーズはすぐ闇に溶けて見えなくなってしまった。途端に雨の音がよりクリアに聞こえ出して、閉じていた世界が開くように、俺の前で視界が広がった。その目の前に広がった世界を見て、俺は驚愕する。それ夢で見たあの光景だった。そして今やその世界は完全に青の色に染まっていた。それは、別館で出会ったあの風景を完璧に再現していたのだ。



 青年の目の前に現れたのは二人組みの男達だった。その正体を悟った青年はとっさに身構えたが男達のほうが早かった。あっと言う間に青年は床に組み伏せられる。傍らにいたポケモンは驚いて部屋の隅に退避する。青年が叫ぶ。
「何をするんだ! 離せ!」
「お迎えにあがりました」
 男の一人が冷めた声でそう言った。
「迎えにきただと! 嘘をつくな! お前達は僕を捕まえに来たんだ。あの狭い部屋に閉じ込めるために来たんだろう!」
「めったなことを言うものではありません。あなたのお父様とお母様が心配しておいでです」
「知らない! どこもおかしくない僕の考えをおかしいと言って閉じ込めるあの人達のことなんか!」
 雷が落ちた。いつのまにか雨脚が強まってざあざあと大きな音が部屋に響く。
「離してくれ。僕はどこもおかしくなんかない。どこもおかしくなんか」
「あなたがた精神病患者は皆同じことを言う」
 男は動じる様子もなく、冷淡な言葉を投げ捨てた。
「どうして放っておいてくれないんだ。どのみち近いうちに僕は死ぬって言うのに、どうして最後くらい自由にさせてくれない!?」
「だからこそ、です」
「離してくれ、いやだ! あんな仮面を被らされて、あの場所で幽霊のように生きて死んでいくなんて耐えられな、」
 そこまで言いかけて青年はゴフッと咳込んだ。赤が飛び散る。口から生暖かい液体がぼたぼたと床に落ちる。頭が急激に熱くなって、気が遠くなるのがわかった。それでも意識を保とうと目を見開く、視線の先に部屋の隅で震えながらも心配そうに自分を見る茶色のポケモンが見えた。
「これはまずい。鎮静剤を」
 男の一人がそう言うと、もう一人がバッグを開いた。注射器を取り出すと、馴れた手つきですばやく青年の腕に刺す。青年は唇を噛んだ。これを刺されたらもうだめだと知っていたから。だから、最後に、搾り出すように叫んだ。
「戻って……くるから」
 青年はポケモンに向かって叫んだ。
「戻ってくるから! 僕は必ずここに戻ってくる。絵を完成させに必ず戻ってくる。だから僕を忘れないで、僕を覚えていて、いつかきっとここに、」
 がくん、と急速に意識が沈み行く。もう霧がかかったようにしか見えないポケモンのシルエットが歪む。それを見て彼ははっとして、そして最後に微かに呟いた。
「どう……してかな、彼女……少しだけ君に、」
 それが、少なくともポケモンにとっての青年の最後の言葉となった。彼が意識を失ったことを確認すると、男達は彼をかついで足早に去っていった。そして二度と戻らなかった。



 俺の立っている世界、そこはまさにあの絵の中そのものだった。昼とも夜ともつかない青ざめた空、そして街。進んでいくと、街灯が見えた。絵にあったあの街灯だ。その下に小さなドアがあった。何気なしに触れると、鍵はかかっていなかったらしく鈍い音を立てて開く。その先には狭い廊下が続いていて、俺は吸い寄せられるように中へと進む。そして、視界が開けた。中には今まで歩いていた街を描いた世界が広がっていた。そして、部屋の隅には小さな茶色いポケモンが一匹。小さなイーブイが一匹居た。
「――ただいま」
 どうしてだろう、俺は急にそんな言葉を漏らした。薄暗い部屋に青く輝く絵を背景にして俺達は向かい合う。ただ、どうしようもない懐かしさが胸を打っていた。
「はじめまして、俺はキヨセ」
 そこまで口にしたときに目から雨粒が溢れ出した。そこで、ふと俺は違和感を覚える。涙が頬を伝った感触がなかったのだ。おかしい。そう思って俺は自らの顔に触れた。そして、気づいた。いままで自分がずっと『仮面』をつけていたことに。
 そうか、そうだったのか。
 俺は自らの顔についていた『仮面』を引き剥がした。
「長い間待たせてごめん…………僕だよ」
 自然に息が出来る。すうっと深呼吸をすると俺は言った。
「君は、あのシャワーズなんだろ。僕が連れ去られたあの後に君は進化したんだね」
 すると、イーブイがぶるぶると震えた。そして、身体の異変に気がついた。ぐんぐんと自分の体長と尾が伸びている。茶色の毛皮が青ざめて、襟巻きはもはや毛皮でなくなった。筆のようだった尻尾、そして長い耳は、魚のヒレに似た形に変化していく。
「だって僕がこの絵を描くために砕いて使ったのは水の石だから」
 あの時はそれと知らなかった。ただ彼女の色によく似たこの石を絵の具にして絵を描きたいと俺は思ったんだ。
「だからね、僕がずっと恋していたのは、描きたかったのは君なんだよ」
 直接触れることはなかった水の石。けれど絵に描かれたそれは長い時間をかけて、少しずつ、少しずつ彼女の身体に影響して、そして。
 そして、彼女の姿は、もはや小さなイーブイでなくシャワーズへと変貌していた。
「約束どおり僕は戻ってきた。絵を完成させに戻ってきたよ」
 俺はそう言って彼女を見る。シャワーズになった彼女は笑っているように見えた。
 部屋の隅に歩いていくと箱を開いた。そこには最後の仕上げのために残しておいた一番明るい色の水の石が入っていることを知っていたから。箱の脇に置いてあったハンマーで石を叩く。そうとも。これが、これこそが俺の求めていた色のなのだ。俺の求めていた蒼なのだ。
 石を砕き終わると糊と混ぜ合わせて、俺は何の躊躇いもなく絵筆をとった。青い街に新たな蒼を滴り落とす。この街に降る雨のように。俺は描いた。夢中になって俺は描いた。青の上に明るい蒼で。黄色い街灯の下に、ずっと誰かを待っていたあの寂しい街灯の下にシャワーズを描いた。そうこれこそが描いている時の呼吸だ。長い間忘れていた感覚だ。もう描ける。きっと何十枚でも、何百枚でも。もう俺は幽霊じゃない。幽霊なんかじゃない。襟巻きを広げ、長く優美な尾を伸ばす。最後に魚のようなヒレを左右に土から顔を出した双葉のように二又に開く。ついに、やってきた。雨の街の街灯の下に彼女はやってきた。
「ほら見て、やっとだ。やっと君を……」
 そう言って俺は彼女のほうを振り返る。きっと喜んでくれるに違いない。笑いかけてくれるに違いない。俺は高揚した気持ちを抑えきれないとばかりに彼女のほうを振り返った。
 けれど、いなかった。もう、そこにはもう誰もいなかった。
「なん、で」
 雨の音が聞こえた。はるか空の彼方から青い町に落ちる涙の音が――。


 意識が戻った時はアパートのベッドの中だった。今日は休日だから大学は休みだったけれど、電車に乗った。外はまばらな雨だった。傘を差して、坂を上って俺は別館へと向かう。いつもと同じようにあの絵の前に俺は立った。青い街並を一望する。そしてその中心に、俺は彼女を見つけた。街灯の光に照らされて誰かを待つように、空を仰ぐように座っているシャワーズ、泡吐きポケモンの姿を。
「おやキヨセさん、今日は早いですねえ」
 後ろから館長の声が聞こえてきた。俺は絵を見つめたまま
「ねえ、館長さん」
 と、切り出した。
「この絵にシャワーズなんていましたっけ?」
 館長が怪訝な表情を浮かべたのがわかった。
「何を今更。まさかキヨセさん、毎日見にきているのに気がついてなかったんですか?」
 館長は当たり前のように言った。とぼけている様子はなかった。
「本当にそうですか、実は昨日まで何もいなかったとかそんなことはありませんか?」
 続けざまに確認する。
「キヨセさん、私を誰だと思っているんです? 仮にもここの館長ですよ。置いてある作品のことくらい把握しています。だいたいここはポケモンの作品を扱った美術館でしょう?」
「……そうですよね。じゃあ質問を変えます。このあたりにシャワーズが住んでいると思うんですが、館長さんはご存知ですか?」
 いいや、と館長は答えた。
「私は長い間、館長をしているけれど、シャワーズみたいなめずらしいポケモンは見たことがありませんよ。庭の池にハスボーやアメタマくらいならいますけどね……」
「そうですか。実はね、俺をここに連れてきてくれたのシャワーズなんですよ。だからてっきり近くに住んでいるのかと思っていたのですが……」
「そうなんですか? じゃあ、そのシャワーズはどこに行ってしまったのでしょうね」
「さあ。でも案外近くにいるのかもしれません」
「どうしてそう思うんです?」
「……美大生の勘、ってやつですよ」
 青の街並みに灯る街灯の下を見つめながら俺はそう答えた。そう、彼女はここにいる。その気になればいつでも会いに行ける所に彼女は居るのだ。それなのに、だったら、目が覚めたときから、感じているこの寂しさは何なんなのだろう。
 雨音に誘われて中庭に出た。池に浮かぶいくつかの葉が動いて近寄ってくると顔を覗かせる。ハスボー達は池から這い出すと、とことこと足元まで歩いてきて俺を見上げた。俺は屋根の比護のない場所まで歩み出る。雨模様の空がよく見えた。
「絵がさ、完成したんだよ。一ヶ月…………いやもっと長らくぶりに描けたんだ。ずっと完成させたかった絵だったんだ。やっと望みが果たせたんだ」
 今ならば描いている時の呼吸が思い出せる。たぶん、もう描けないなんてこともないのだと思う。ずっとずっと描いていける。描き続けていける。それなのに。
「それなのに、どうしてかな……今だけは、泣きたいんだ」
 空から滴り落ちた雫が頬を伝った。

 雨が降っている。空が泣いている。青く黒く暗い雲が空を覆って街中に涙を落とす。
 けれども見える。いずれ雲を割って差し込む光が、明るい青がどこまでも染み渡る晴れ渡った空が。
 夏が来る。梅雨が明けようとしていた。





雨恋 了