ふたつの ぶんしんが いのると もの というものが うまれた
 みっつの いのちが いのると こころ というものが うまれた
 せかいが つくりだされたので さいしょのものは ねむりについた

 ひろがった くうかんに ものが みち
 ものに こころが やどり じかんが めぐったとき――





●最終話「はじまりの つづき」





 静かに音を立てて、観覧車が回っていた。ゴンドラを支える鉄筋につけられたいくつものライトがついたり消えたりして、ときに青く、ときに赤く輝き、円の形をした観覧車のシルエットの中で波紋のように広がったり、花が咲くように点灯していた。
 乗り場の前に青年は立っていた。シロナに気がついたらしく、振り返る。
 しばらくお互いの顔を見たまま、何と言っていいか、悩んだ。
「どうして来たんだ、シロナ。もう知っているんだろ、聞いたんだろ、全部」
 青年は苦笑いしながら切り出した。彼女は困ったような顔をする。よかった。いつものアオバだと思った。
「いや、言ってみただけだよ。来てくれると思っていた。だからここで待っていたんだ」
 と、青年は続ける。
「乗ろうか」という青年の言葉に彼女は黙ってうなずいた。


「さて、どこから、話したらいいかな」
「まずは質問させて」
 ゴンドラに乗り込んだ青年が本題を切り出すと、シロナが早口で言った。
 会話が始まる。
 手始めに「あなたは誰なの」と聞く彼女に「ミモリアオバだ」と、彼は答えた。
 じゃあ、湖の底で見つかったのは? ――あれもミモリアオバだ。
 矛盾しているわよ――そうだな。説明するのには少し時間がかかる。
 青年は淡々と答えていく。
「今の俺はたぶん人間とは言い難い。あえていうならゴーストポケモンに近い。さっきノガミさんのポケモンとやりあってね。生まれて初めてポケモンバトルってものを経験したよ」
 ガブ達はいつもああいうことをしているんだな、とも言った。
「その話なら聞いた。ノガミさん、怪我のひとつもしていなかったけど」
「そう、鬼火といっても、コケ脅しの幻のやつだからね」
 青年は少し申し訳なさそうに言った。彼にはちょっと悪いことをした、と。
「何があったの」
 と、彼女は問う。
 今までの会話からもう想像はついていたのだ。けれど、やはり本人の口から確かめなければ納得できなかった。
 受話器越しに聞かされた事実は、彼女にとってあまりにも残酷なものだ。
 それが本当ならば、二週間前に彼はもう……。
「シロナ、俺は二週間前に、」
 いやだ、やっぱり聞きたくない。
「いい! やっぱり言わなくていい」
 と、彼女は遮った。
 できることなら、聞きたくなかった。否定して欲しかった。
「聞くんだシロナ、君は知らなくちゃいけない。俺はお前に、この事実を受け入れてもらわないといけない」
 青年はシロナの腕を掴む。強い調子で言った。
「シロナ、俺は死んだ。二週間前に」
 観覧車が昇っていく。

 河で流されたんだ。季節はずれのひどい台風の日だった。
 あの日俺は、ポケモンセンターにガブ達をあずけて、やることもなくて、ずっと嵐の空ばかり見ていた。
 その時、俺は見たんだ。一匹の白い小さな鳥ポケモンが、さっきから同じところをぐるぐると旋回している。こんなにひどい嵐なのに……。次の瞬間、悟った。あの下にそのポケモンの主人がいるのだと。
 無謀だった。ポケモンも持たずに俺はそこへ向かってしまった。ポケモンのいないトレーナーなんて、一人じゃ何もできないただの弱い生き物なのに。

 あとは君の知っている通りだ、と青年は付け加える。
 淡々と彼は語っていた。それは自分の死を受け入れた者の口調だ。
「気がつくと俺は、長い廊下を歩いていた。古代の遺跡のようなところで、音のない暗い場所だった。俺はその場所を下に、下に、下っていって。その一番奥底で会ったんだ」
「会ったって……何に?」
 シロナが聞き返す。青年が答える。
「竜だよ」

 六本足の竜だった。ぼろぼろの布のような不気味な翼を生やしていて、長い首を縁取る金色の輪は人の肋骨を思わせた。それが赤い眼を光らせて、暗闇の底に立っていたんだ。
 それを見たとき、「おそろしいしんわ」が頭をよぎったよ。
 そのポケモンの眼を見た者、一瞬にして記憶がなくなる。触れた者、三日にして感情がなくなる。傷つけた者、七日にして何もできなくなる……俺は神話に記されたポケモンの姿を知らなかったけれど、この神話をあてはめるのならば、この竜にこそ、それは相応しいと思った。
 けれど竜は、違うと否定した。それは私ではない。そう云ったんだ。

『オマエはまず、ひとつ勘違いをしている。おそろしいしんわの者は一匹のポケモンにあらず』
「一匹ではない……?」
『記憶を失わせる者、感情を消す者、意志を奪う者。これらはそれぞれ別のポケモンなのだ。シンオウには三大湖がある。そこには普段人の目には見つけられぬ祠があって、そこに一体ずつが眠っている』
「湖に、そんなものが……?」
『オマエはよく知っているのではないか? やつらははじまりのはなしにも出てくるぞ』
「……三つの、命か」
『そうだ。知識、感情、意志をそれぞれ司る三つの命。そのうちのひとつ、「意志」がお前の魂をここに運んだ』

 青年は自分の髪を結わくものを解いた。
「竜が言うには、俺は通行証を持っていたらしい」
 彼女に前に差し出して、見せる。
「この紐はね、ゴースト使いの祖母からお守りに貰ったものなんだ。この紐を作る糸の一本一本に強力な霊力が宿っていて、これを織ったものは、霊界の布と呼ばれているそうだ」

「では、あなたは? あなたはどこに記されたポケモンだ? 二つの分身か、それとも最初のものなのか」
『ワタシは……――私はどの書物にも記されてはいない。神話に我が名は存在しない。いや、太古の昔にはあったと言うべきか。まだポケモンと人との間に垣根がなかったころの話だ』
 竜は云った。私は『はじまり』の続きに現われる者だと。
『ハジメにあったのは混沌のうねりだけだった――』

 すべてが まざりあい ちゅうしん に タマゴが あらわれた
 こぼれおちた タマゴより さいしょの ものが うまれでた

『最初のものは、二つの分身を生み出した。時間が廻りはじめた。空間が拡がりはじめた。さらに自分の身体から三つの命を生み出した。二つの分身が祈ると物というものが生まれた。三つの命が祈ると心というものが生まれた』

「はじまりのはなし……」
「そう。だがこのはなしには削除された続きが存在する」

『はじまりのはなしには続きが在る。誰も知らない、忘れ去られた続きが』
 竜は語る。はじまりのつづきを。
『最初のものが眠りについたのち、私は目を覚ました。拡がった空間には物が満ち、物には心が宿った。そこに時間が巡った時、私は生まれた。「死」が目を覚ましたのだ。心宿るものの時間の先にあるもの、それが死だ』
 神話から外れた者。忘れられたのか、忌み嫌われ、消されたのか。
 今では誰も知るものがない。
『ワタシは死。死そのもの。たとえ、神話から名前が消してしまっても、死は掻き消せない。死はいつも隣に居る。私は今でも世界のすぐ裏側に存在している』
 同時に生の理に叛骨する者。この世には死にながらに生きる矛盾した者達がいる。ゴーストポケモン達がそれだ。竜はその主。死にながらに生き、生きながらに死んでいる。

「俺は竜に願った。今一度、生の理に叛骨し、約束を果たす為の時間を与えて欲しいと。一年前にした約束、その舞台に立たせて欲しいと」

 神話にいない竜は、願いを聞き入れた。生の理に叛骨し、死にながらにして生きるゴーストポケモンの身体を貸し与えてやろう。昔、人とポケモンはおなじものだったのだから、ポケモンが人になることもできるだろう、と。
『オマエは、ポケモンの皮を被った人間の話を知っているか?』
 六本足の竜が問う。
 その昔話を青年はよく知っていた。

もりのなかで くらす ポケモンが いた
もりのなかで ポケモンは かわをぬぎ ひとにもどっては ねむり
また ポケモンの かわをまとい むらに やってくるのだった

『今からお前は、その逆をやる』
「逆を?」
『オマエは今より一匹のゴーストポケモンだ』
 竜が云った。青い炎が灯る。
『見るがいい』
 青年の目の前で、鬼火が変容し、ゴーストポケモンの形を成す。それには、魂を掴み取る太い腕があった。この姿は霊界の布が生んだものだ、と竜が付け加える。
 それは、霊界の布がサマヨールに与えた新たなる器だ。
『この姿が恐ろしいか? だが、ゴーストは曖昧なものだ。夢とも現ともわからぬ幻を見せ、自らの存在も曖昧。しかしそれ故に何にでもなれる』
 見たことの無い種類だった。サマヨールのそれと同じ色をした一つ目。赤い色が揺らめく。
『だからイメージするがいい』
 竜は云った。唱えるように言葉を紡ぐ。
『オマエに問おう。お前は誰だ? 何者になりたい? どうありたい?』
「俺は……アオバだ。ポケモントレーナーの、ミモリアオバだ」
 青年が心にその姿を描くと、ゆらりと影が揺らめいた。ポケモンはみるみるうちに姿を変容させ、青年のそれとなっていく。
『さあ、行くがいい。第四の湖を出た所で、意志の神が待っている。約束の地に送り届けてくれるだろう。お前の意志を遂げよ』
 青年の望み、青年の意志、意志の神の導き。
『……いや、遺志の、と云うべきか』
 青年の形を成したそれがゆっくりと眼を開き、こちらを見た。

 気がつくと、彼の意識は明るい場所に在った。ゆらゆらとのどかに揺れている。月の光が眩しかった。天井では月光がキラキラと反射し、ワルツを踊っていた。光が、揺れている。
 不意に、行かなければと思った。
 もういかなきゃ、と。
 この場所はまるで生まれる前にいたようで、居心地がいいけれど。
 自分には、行かなければいけない場所がある。
 俺には、成さなければならないことがある――――だから!
 光の射す場所に向かって、彼は上り始める。光が揺れるその外に向かって。
 隠された第四の湖。もどりの洞窟の入り口にあるその湖の名を、おくりの泉という。
 水面に顔を出す。世界に飛び出す音が聞こえた。
 飛沫が、上がる。

 月が揺れる水面の上で、金色の目をした青い頭巾のポケモンが待っていた。先端が楓の葉のような形の二本の尾が、風に揺れている。
 青年は、意志の神の手をとった。

 でも、これは賭けだったのだ、と青年は言う。
 なぜなら、記憶は実感として肉体に刻まれるものだから。生まれ持ったものでない器に宿った自分が、記憶の実感を伴わない身体が、約束を思い出して果たせるかどうか、竜にもわからなかった、と。
 案の定、約束の地に降り立った時、彼は記憶を失っていた。
「でも、君は思い出させてくれた」
 青年が髪を束ね直す。そして今にも泣きそうなシロナの顔を見て、言った。
「だから、ありがとう。シロナ」

 観覧車が回っていた。
 日が沈み、夜空にイルミネーションが輝く。ゴンドラが回る。上まで上がって、また下がる。まるで太陽が昇っては沈むように、物質が、生と死の循環を繰り返すように。うつむいたシロナの目からぽたぽたと涙が滴り落ちた。
「泣くなよ、シロナ。今、俺は満足しているんだぜ? それにこんなの早いか遅いかじゃないか。誰だっていつかは観覧車から降りなくちゃいけないんだ」
 そう言うと、モンスターボールを六つ。両手に抱えてシロナに差し出した。
「だから、昨日の続きだ。俺は先に降りなきゃいけないから、もう好みかどうかに関わらず受け取ってもらうぜ。俺を負かしたお前の言うことだったら、ガブ達だって聞くだろう」
 彼女にも今ならわかる。どうして昨晩、青年はあんなことを尋ねたのか。冷たい手が触れてボールを握らせたのがわかった。
 必死だったに違いない。後悔した。昨晩のことを。
「ごめんアオバ。私、アオバの気持ちも考えずに昨日……」
「いいよ、そのことはいい。もういいんだ」
 もうすっかり夜だった。花火が打ちあがる。夜空にいくつも咲いて、そして消えていく。
「俺のガブリアスはトレーナーの嫉妬をかきたてるらしい。すなわちガブを持つということは敗れたトレーナーたちの怨念を背負うに等しい。けれど君なら、ガブリエルを倒した君なら、そんなもの全部跳ね除けると信じている。だから俺は……シロナ、君に俺のポケモンを託す」
 けれど本当は、昨日シロナの言葉を聞いたときから彼は決めていたのだ。勝ち負けにかかわらず、彼女にポケモンを託そうと。
 だが、彼女は勝ってみせた。彼女は青年の想像のはるか上をいってみせた。
 予定では、自分がしっかり勝って勝ち逃げするつもりだったんだけどな、と彼は思う。
 だって、最後の自分とのバトルくらいポケモン達に花を持たせてやりたいじゃないか。
 彼らは、自分の匂いが変わってしまっても、わかってくれた。主人を見極め、すべてを受け入れてついてきてくれた。……意志の神に、自分を渡すまいともした。
 怒っていないだろうか。自分達を置いて、手放して、先にいってしまうポケモン不孝なトレーナーを怒ってはいないだろうか。けれど、こんな自分をどうか許して欲しい。
「押し付けておいてなんだが、決勝進出祝いだとでも思ってくれ。強いぜ? 俺のポケモンは」
「……そんなのわかってる。戦った相手なのよ?」
 シロナが涙声で答えた。
「ああ、そうだったな」
 花火が咲く夜空を仰いで青年は言った。それはどこか遠くを見るようで、
「もう、行くの? 行かなきゃいけないの?」
 シロナは尋ねた。聞きたくはなかった。
「……行かなくちゃ、いけないらしいな。ずっとなりゆきを影から見ていたけれど、もう時間だと言っている。俺をここに連れてきたものが、じきに俺を連れて行く」
 だって、もう約束は果たされたから。ロスタイムは終わったのだから。
「でも、行かなきゃいけないのはお前も一緒じゃないか。出るんだろ、決勝戦」
「……こんな場面でもバトルの話なの? あなたって本当に空気が読めないのね」
 シロナが悪態をつく。ふと、彼女の背後に映る夜景の一角に新たな明かりが灯った。
「見ろよ、スタジアムに照明が入った。お前が来るのを待っているんだ」
 夜景に浮かぶスタジアムを仰いで、青年は言う。
 シロナは黙って、訴えるようにアオバの顔を見た。違う、私の言って欲しいのはそんな言葉じゃない、と。
 いやだめだ、待ってなんかいずに伝えなければ。今伝えなかったら彼は……。
「アオバ、私は」と、シロナは言いかけた。が、「シロナ、」と青年が遮る。
「君にとって俺は、ただの超えるべき対象。そうだろ?」
「違う!」
 彼女は否定したが、青年は首を横に振る。
「決勝に行くんだシロナ。お前のあるべき場所に。あの舞台はお前の夢だったはずだ。あの場所を夢見てたどり着けなかった者達が何人いるか、夢を追いかけて掴めずに去っていった者達がどれだけいたか、お前だってわかっていないわけじゃないだろう?」
 ぐっ、とシロナは言葉を飲み込んだ。ずるい。そんなことを言われたらタイミングを見失ってしまう。
「俺もその中の一人になったんだ。だが君は進む。進まなくちゃいけないんだ」
 伝えたい事があるのに、うまく言葉にできない。
「君は行け。君だったらたどり着ける。四天王にだってチャンピオンにだってなれる」
 夜景を背に青年は言った。確信を持って。
「言っただろ。俺はもうタイムリミットなんだ。……見ろ」
 青年が自分の腕をかざした。指が、腕が、身体全体が透けはじめていた。
「目的外のところで、力を使いすぎたんだな」
 先ほどの出来事を思い浮かべながら青年は言う。けれど後悔はしていなかった。
 身体を構成する色が薄くなっていくのがわかった。淡く発光した身体から、光の粒子が舞い散って、だんだんと輪郭が崩れていく。彼は少し寂しそうに笑った。そうしている間にもどんどん身体が消えていって。
「待ってアオバ! 私まだ……」
 そうシロナが言いかけると、
「最後くらいさ、俺にしゃべらせてくれよ」
 と、青年は遮った。
 そして、もう半透明になった腕で彼女の上半身を抱くと、
 耳元で何かを囁いた。

 するりと青年の髪を結んでいたものが落ちる。
シロナは思わずそれを手にとるが、すぐに青白く燃え上がって、消えた。
 そうして、青年はいなくなった。


 それからのことはよく覚えていない。
 ただ彼女は、廻る観覧車のゴンドラの中で、話し相手のいないゴンドラの中で、六つのモンスターボールを両手に抱えたまま、声を上げて泣いていた。
 涙が落ちてモンスターボールを濡らす。遺されたボール達も泣いているように見えた。
 目の前には誰もいない。もう、いない。
 二本の尾を持った影が、暗い空に昇って、溶けて消える。
 こうして、乗客はひとりになった。





 ――なあシロナ、お前はどうしてチャンピオンになりたいんだ?
 あの時、青年はそう尋ねてきた。
 ――どんなに強いチャンピオンでも、いつかは負けるときが来る。その座を誰かに譲るときが来る。観覧車に乗って高いところに行ってみても、いつかは下り始める。いつか観覧車からは降りなくちゃいけないのに。
 ――………………イメージしたからよ。
 と、彼女は答える。
 ――いつか私も自分のポケモンを連れて、この舞台に立つんだって、表彰台に上がるんだって想像したわ。その後に、いつか自分がどうなるかなんて知らない。けれど、そのとき確信したの。私のあるべき場所はここだって。
 ――それだけ?
 ――それだけよ。
 頭の中に声が響いている。
 あの時、青年は安堵したように笑っていた。
 ――それじゃあ、その時のイメージは今でも変わっていないんだね?
 青年は問うた。
 そして、彼女は再び、こう答えていた。

「…………あたり、まえじゃない……」



 花火が上がって、そして消えていく。
 それは、誰かの夢が消え行く様なのか、それとも誰かの行く先を祝福しているのか。
 観覧車だけが黙って回り続けていた。





「シロナさん、どこに行っていたんですか」
 スタジアム控え室に戻ったシロナをノガミが待ち構えていて、開口一番にそう言った。
「一体何をしていたんですか。心配いたんですよ……」
 そう続けるノガミに、彼女は黙って両手に抱えた六つのモンスターボールを見せる。
「それって……」
 言葉を濁らせるノガミに彼女はただ頷いた。そして、今のボールの所有権の解除、新たな持ち主への登録を依頼した。こういうのは規則上どうなのかとシロナが尋ねると、審査には時間がかかるでしょうが、やりましょうとノガミは答えた。
 ふと、ノガミは彼女の頬をつたう一筋の涙を、見た。
 長い前髪に隠れて表情は見えない。何と声をかけるべきなのか悩んでいる彼に「ノガミさん、」とシロナが切り出す。

「ノガミさん、私ね………………振られちゃったの……」


 スタジアムが熱気に沸いていた。祭が最も熱気に満ちるとき、その主役である二人のトレーナーを、聴衆は今か今かと待ち構えていた。
 ポケモンを回復に出すと、彼女は宿舎の自室へと赴く。取りにいきたいものがあった。スタジアムの照明に照らされたテーブルに、その紙袋は置いてあった。

「見てください! スタジアムは超満員です。今宵、シンオウ最強のトレーナーが決まる瞬間をこの目で見ようと、大勢の人々がつめかけています」
 テレビ局のレポーターが、そんなお決まりの文句をカメラの前で叫んでいた。
 すっかりと身なりを整え、決勝用のモンスターボールを持って、シロナがスタジアムに続く廊下に立つ。その長い髪が伸びる頭にはポケモンの耳を模ったらしいかんざしのようなものが二つずつ、対になる形で飾られていた。
「それ、ブラッキーですか」
 と、ノガミが尋ねると
「ルカリオよ」
 と、シロナが答える。
「でもラインが入っていますよ」
「いいのよ。四つで二対にすればルカリオなのよ」

 戦いの舞台に進む道を、彼女は一人、歩き始める。
『――よ、シロナ』
 青年が散る間際に残した言葉がリフレインして彼女は嗚咽を噛み殺した。
 ポケモントレーナーとはかくも非情なものだ、と彼女は思う。
 悲しくて、悲しくて、泣きたくて仕方のないはずなのに、もう頭の片隅ではバトルのことを考え始めている。心の準備を始めているのだ。
 勝とうとしている自分がいる。勝ちたい。勝って前に進みたい。
 これは性、戦う者の性。
 私は行く、前に進む。
 欲しかった言葉は、もう聞けない。


 初めにあったのは混沌のうねりだけだった。
 すべてが混ざり合い中心にタマゴが現れた。
 零れ落ちたタマゴより最初のものが生まれ出た。
 最初のものは二つの分身を創った。
 時間が廻りはじめた。空間が拡がりはじめた。
 さらに自分の身体から三つの命を生み出した。
 二つの分身が祈ると物というものが生まれた。
 三つの命が祈ると心というものが生まれた。
 世界が創り出されたので、最初のものは眠りについた。

 拡がった空間に物が満ち、物に心が宿り、時間が巡った時、死が目を覚ました。
 死が生まれたとき、別れが生まれた。
 去るものがいた、残されるものがいた。
 それでも、世界は廻り続けた――


 その足で立ちたい場所がある。
 そのために、越えていかなければならないものが、ある。


 君は行け。
 たとえ負けてしまう時がくるとしても、いつか終わりがやってくるとしても。
 ひと時でも長く夢を見ていられるように。
 一刻も早くその場所へ。
 だから――


『勝てよ、シロナ』


 最後の言の葉、それは約束という名の呪文。
 そんな台詞を聞きたいんじゃなかった。
 けれどそれは違和感なく耳に響いて、彼女を突き動かすのだ。
 長い廊下を渡り、階段を一歩、また一歩、彼女は登っていく。


 ――それは続き。はじまりの続き。
 出会いと別れを繰り返して、世界は今も廻り続けている。


 扉を、開いた。
 まばゆい光が差し込んで、うねるような歓声が彼女を包み込んだ。








遅れてきた青年「了」



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