(七)九十九


 照りつける夏の日差しが二つの濃い影を作る。
 ひとつは獣で、もうひとつは人の形。
 蝉はけたたましく歌い続ける。

「……だいたい予想はつくけれどとりあえず聞いておく」

 と、ツキミヤは切り出した。
 目を合わせて目の前の青白いキュウコンに問うた。

「貴方の名は」

 すると狐は嬉しそうに、

「……久しぶりだ」

 と、云った。

「ふふ、本当に久しい。名を聞かれるのも名乗るのも」

 嬉しそうに、それは嬉しそうに云った。

「私の名はツクモ」

 赤い瞳が妖しい光を放つ。

「百の六尾と十の九尾を率いていた私をいつしか人は"九十九"と呼ぶように成った。その時から私の名はツクモだ」

 名乗った妖狐はそのように続けた。
 嬉しそうに、それは嬉しそうに続けた。

 蝉が詠っている。
 昔話が、伝承が今お前の目の前にいる。
 お前は渡った。鳥居を潜り抜けて過去に渡った、と。

 だが、

「ナナクサ君だな……」

 と青年は呟いた。

「何?」
「たぶん、ナナクサ君が夕食に変なものを入れたに違いない。でなけりゃこんな示し合わせたような夢……うん、彼ならやりかねない」

 どういう訳だか夢だという自覚だけはあって、ツキミヤは不機嫌そうに続けた。
 知り合ってから日は短いがだいたい彼という人間はわかった。こうと決めたら諦めない。ハブネークのように執念深いのがナナクサなのだ。まさか人の夢の中にまで攻勢をかけてくるとは。しかもやたらと演出が凝っている。

「そう、僕は今眠っていて、たぶん耳元でナナクサ君が舞台に出ろ出ろと囁いているに違いない」

 いやだなぁ。それってはたから見ると結構あぶない絵じゃないか。

「ナナクサ君に言っておいてくれ。そんなことしてもムダだ。明日僕の顔に隈が出来ていたら君の所為だからな、と」

 だが、

「残念だが、ここにお前を呼んだのはあの男ではないぞ」

 とはっきりと狐が言って、ツキミヤは怪しみながらもその顔を見た。
 燃えるようなその瞳。傷口からあふれ出してきたばかりの血のような目の覚める赤だった。

「お前の父親のことをあれは知らない。あれはタマエさんちの家事から、米の栽培までこなすよく出来た男だが、その反面、雰囲気が読めなくて、狡猾な手段をとることを知らないのだ」

 その赤はどうにも生々しくて、たしかにナナクサができるような演出ではない。そんな気がしてきた。

「そう、あいつにはできんよ。お前の父親の幻影を使って、ここにおびき出すような真似はな」
「…………貴様」

 狐、いや妖狐九十九はにたりと嗤う。
 それは青年の怒りと関心を買うには十分だった。
 さっきまでどこか偽者を見るような目で見ていたツキミヤの視線は、敵意をふんだんに含んだ鋭いものへと変わっていた。

「だがあれには本質を見抜く目はあるよ。あれの言うように、普段あれの前で素っ気無い態度をとっているのは本来のお前ではない。そして、人に見せる柔らかい物腰も仮初。お前はとても狡猾で残忍だ。そして今そんな目で私を睨みつけているお前こそ本来のお前だ。小僧」
「……どこまで知っている」
「お前が夢に見る程度のことはわかる。残りは勘だ」

 ツクモはそのように答えた。

「形式とはいえ今は信仰が集まる祭の時期だからな。祭の本質は日常と切り離された特別な期間。ことに夜は格別だ。今や実体を無くし信仰の薄い私でもこうして誰かの夢を覗き見たり、夢枕に立つことくらいはできるのだ」

 ツクモは続けた。
 ここは私の夢であり、お前の記憶なのだ、と。

「お前がこの村に来て二度目の夜になるが、よほど慕っていると見える。お前が私に教えてくれるのは父親のことばかりだ」

 触れたら切れてしまいそうに張っていた視線が少しだけ緩む。

「……そうかい。だが、舞台のことまで夢見たつもりは無いが」
「お前の夢を覗き見ることばかりがお前を知る手段では無いさ。お前のことならあれも教えてくれる」

 ナナクサか、と青年は呟いた。

「あれなら今自分の部屋で熟睡しているよ。夢の中でも明日にお前さんにどんな言葉をかけようか、どうやって舞台に上げようか真剣に悩んでいる。健気だとは思わんか」
「諦めが悪いだけだろう」

 切り捨てるようにツキミヤは即答した。
 すると、ツクモがくっくと笑って

「やはりお前はそれが素だな」

 と言った。

「尤も、私はそんなお前のほうが好きだが」
「貴方の好みは聞いていない。人を選ぶだけさ。人間はみんなそうだろう。いや、ポケモンですら人を選ぶよ。僕はあまり好かれていなくてね、僕に近づいてきたり呼び出したりするのは変わり者と相場が決まっている……そういえば」
「なんだ」
「ポケモンと喋ったのは初めてだ」

 ツキミヤがそう言うとツクモがフッと笑った。
 人語を解するポケモンは珍しくない。いや、ほとんどのポケモンは程度の差があれど人語を解する。だが、解すれど操れるポケモンは滅多に居ない。

「感想は?」
「感慨というほどのものはないかな。人間とさして変わらない」

 ツキミヤは冷めた感想を述べる。すると

「そうとも。喋ることくらい大した事でも、驚く事でも無い」

 という同意の返事が返ってきた。

「私の若いころは珍しいことではなかった。百を率いる一族の長なら人語くらい操れたものだ。今より昔、ポケモンと人はより近かった。始りの地の神話によればポケモンと人の間に垣根が存在せず夫婦の契りを交わすことすら自然だった時代がある」
「僕は断るけどね」
「同感だ。妻に迎えるなら美しい毛皮のある者がいい」

 青年と妖狐は同意し、そしてお互いに微かに笑みを浮かべた。

「時に小僧、お前はずいぶん物騒なものを連れて歩いているのだな」

 はっとして足元を見ると、夏の日差しで濃く刻まれた陰から何十もの目が覗いているではないか。どうやら夢の中にまで憑いてきてしまったらしい。

「飽咋(あきぐい)は一匹や二匹ならかわいいものだ。 だが、よりによってその数は何だ。操り人が連れて歩くのは多くても六匹ではなかったのか? 時代は変わったものだな」
 
 ツキミヤは仕方が無いなという感じで軽く溜息をつく。

「時代のせいじゃないさ」

 と、答えた。

「昔、人が連れて歩いたポケモンの数には諸説があるけれど、そうかい、やっぱり六匹なのかい」

 どうやら六と言う数字は普遍的なものらしい。

「なんだ、となると今も相場は六匹か」
「そう、時代が移っても変わらないものってあるよね。今でも操り人が連れて歩けるのは六匹だよ。僕の飽咋――カゲボウズはね、別腹なんだ」

 蠢く影をちらりと見ながらツキミヤは言った。
 別腹とはよく言ったものだ、本当にしょっちゅうお腹をすかせて困る。

「で小僧、」
「小僧という呼び方はやめてくれないか。これでも人間としては成人している身だし、ちゃんと名前だってある……知っているだろう?」

 ナナクサの夢を覗き見ているなら知っているはずなのだ。
 すると、

「ならば、こんなのはどうだ」

 と、ツクモが言った。

「どんな?」
「鬼火を連れし者」
「少し、長いね」
「小僧よりはマシだと思うが?」
「違いない」

 ツキミヤは同意した。
 けれどそんなに本名で呼ぶのが嫌なのか、とも思う。
 すると空気を読んだのかツクモがこんなことを言った。

「……皆、個を括るために名を使おうとする」
「え?」
「たしかに一族や種に名づけられる名はそうかもしれない。けれどね、一人や一匹や一羽だけの為だけにつけられる名はそうでは無いのだ。だから、軽々しく名乗ってはいけない。お前にとって名前とは大切な者に呼ばれるためにあるのだから」
「何が言いたい?」
「私のようにはなるなということだ、鬼火を連れし者よ」

 重さを持った声でツクモは言った。
 警告めいた言葉。けれどその後ろにあるものを今のツキミヤが読み取ることはできなかった。

「それで、本題だが」
「本題?」
「私がお前を呼んだ理由だよ」
「……ああ」

 ツキミヤは理解する。そういえばもともとはそういう話の流れだったのだ。

「やる気は無いのか」
「あたり前だ」
「出演報酬は豪華だぞ。米俵十俵と……」
「そんなもの持って歩けるか」
「それだけじゃない。副賞として、一年間ホウエン中のホテルが無料になるエメラルドカードという代物があるらしい」

 ぴくり、とツキミヤの肩が動く。

「なんでもそれを副賞にした途端参加希望者が急増したとか……お前は欲しく無いのか?」
「……」

 欲しい欲しくないで言うなら欲しかった。センターに泊まれない時の宿泊料は旅の費用としてはバカにならないのだ。
 だがしかし、煩わしさがついて回ることも事実だった。ことに宿泊先の使用人はいろいろと口を出してくるだろう。それどころかそいつはストーリーの改変を企んでいるのだ。もし彼の筋書き通りにことが進んだとしたら賞品どころではないだろう。脚本を変えるとは何事だ、けしからん、責任とれ。そういうことになるのは目に見えていた。お偉いさん方に捕まる前にいかにうまく村から退散するかを考えなくてはなるまい。

「だめだな。仕事が報酬に見合わない」

 しばしの沈黙の後にツキミヤはそのように答えた。

「ナナクサ君にやらせればいいじゃないか」

 ナナクサに言ったのと同じ提案をぶつけてみた。
 話から察するに彼は舞すらもできる様子だった。何よりも自分に無い重要な要素を備えている。それこそが一番大事な事なのではないだろうかと思う。だが、

「あれではだめだ」

 とナナクサと同じようなことを妖狐は言った。

「どうして? 彼は神楽だってできると言うし、何より信仰心があるじゃないか」

 そう信仰心。自分には無くてナナクサにはあるもの。舞は神に奉納されるもの。信仰を持つものが舞ってこそ、ではないのか。尤も目の前にいるこのキュウコンは伝説上の炎の妖として恐怖の対象となる存在なのだが……。
 突然、けたたましく鳴っていた蝉が止む。途端に周囲が暗くなり、あたりは静寂の夜に包まれた。
 全く、何でもありだなこの世界は。青年は内心に溜息をついた。

「鬼火を……お前の鬼火を見せてくれないか」

 突然ツクモはそのようなことを云った。

「僕のじゃない。カゲボウズに出させているだけさ」

 一方のツキミヤにはあまりその気が無かった。
 そのような冷めた返事を返すと「結果的には同じことだ」とツクモが云った。
 あまり真剣に妖狐の瞳が懇願するので、半ば圧される形で「わかったよ」とツキミヤは答えた。
 夜の帳が降りた世界にひとつ、ふたつと青い炎が灯り数を増やしてゆく。
 青い揺らめきに照らされた妖狐の瞳は満足そうに笑みを浮かべた。

「私はね、お前にやってもらいたいんだよ。鬼火を連れし者よ」

 冷たく燃える炎を挟んで妖狐は云う。

「鬼火を見て改めて思った。やはりイメージというのは大切だ」
「ナナクサ君のようなことを云うんだな。でもそれ、僕でなくてはならないという理由にはならないよ」
「もちろん、それだけではない」
「他に理由があるって言うのかい」
「そうとも。お前でなくてはだめだ。お前みたいに今ここにある世界のことが大嫌いで、どこかで壊れてしまえばいいと思っているようなそんな人間で無くては私の役は務まらない」

 青い火がツキミヤの瞳を照らす。青色の揺らめくその瞳は妖狐を冷たく見下ろしていた。

「心外だな。つまり貴方は僕がどこかで世界の破滅を望んでいると、そう言いたいのか」
「そうとも」
「莫迦らしい」
「お前に憑いている影の数は異常だ。心にそれくらいの闇が無ければ、深くて暗い器が無ければとてもそんな数を飼うことはできない」
「嫌いと云うのならナナクサ君だって」
「別にあれはこの世界が嫌いな訳ではないよ。雇い主の……あの人の為に何かしたいと思っているだけだ。あれに悪意は無い。そういう奴なんだ、あれは」
「ずいぶんと庇うんだね」
「私のところに来てくれるのはあの人とあれだけだからな」

 妖狐は優しげに、けれど少し寂しげにそう答えた。
 そして改めて自らの希望を口にした。

「鬼火を連れし者よ。私の願いを聞いてはくれないか」
「それは、野の火で妖狐九十九を演じること? それともナナクサ君の脚本を採用すること?」
「両方だ」
「断る。ナナクサ君にも言ったが、村の伝統行事に引っ掻き回すつもりも、ぶっ壊すつもりも僕には無い」

 ツキミヤは冷たく言い放った。
 そして妖狐に背を向けると、石段を一段、また一段と下り始めた。
 鬼火がゆらりと揺れながら主に憑いて行く。

「待て」

 背後からツクモの呼ぶ声が聞こえたが、青年は無視をして、どんどん下ってゆく。

「我の声を聞け、鬼火を連れし者よ」

 一段、また一段下ってゆく。
 そもそも好かない、気に食わなかった。
 この狐は父を、自分にとって一番大切な人の幻影を使って青年をおびき出した。
 青年にはそれが許せなかった。

「お前になら分かるはずだ」

 分かる? 一体なにが分かるというのだ。

「お前にならわかるはずだ。周囲の人間達は皆雨が降っているという。けれど、お前だけは本当の天気を知っている。だから、ずっと晴れていると叫び続けなければならない、その孤独が」

 青年の脳裏に父親の姿がよぎった。
 知ったようなことを言うな。お前に僕の、父さんの何がわかるというのだ。
 青年は石段を下る足を速める。

「……私は、神だった」

 石段を下る。知るもんか。もうこれ以上僕を巻き込まないでくれ。

「雨降訪れし以前、この地を闊歩するのは九十九の一族なり。私はこの地の神だった!」

 雨降大神命が現れし以前、この土地を闊歩するは九十九率いる一族なり
 九十九、十の九尾と百の六尾を率いる妖狐の長、炎の妖なり
 野を焼き田を焼き払い人々を苦しめる

「神だって? 貴方は炎の妖だよ。貴方のいるところは火の海になって作物は皆灰になってしまった」

 九十九現れし所、たちどころに火の海となり、田畑の実り灰燼と成す
 九十九の炎"野の火"と呼び人々は恐れり

「かつて大社に刻まれた名も、しゃもじに刻まれた名も皆私の名だった。雨降ではない。皆、この九十九の名だったのに」

 ――今年もたくさんお米がとれました。お腹いっぱい食べさせてくれてありがとうございますという感謝の気持ちを表す為にこうしてしゃもじをお供えするんじゃよ

「それは恐れからだ。恐怖からだ」
「違う。私は」

 雨降大神命 豊穣の神にして田の守護者なり
 彼の行くところ必ず雨が降り 田畑を潤す

「私は神だ。雨降こそ後からやってきた偽者」

 炎は水に消される運命。雨降は勝ち神となり、炎の妖は滅せられる。

「舞台の上で雨降を倒して、そして貴方はどうするというんだい」
「私の炎を思い出させてやりたい」
「実体も無いのに?」
「皆、祭の本来の意味を忘れている。本来、野の火の上演は実体を無くしても残り続けた私の力が出てこないようにする為の儀式。神が成り代わった後に雨降の信奉者が考えた仕掛けだよ」

 時代は変わって、祀は祭に、奉は催になった。
 村人しか演じられなかった九十九は今やどこから来たかもわからない者達が務めるようになった。
 まったく軽くなったものだよ。祀も私自身もな。だが……

「だからこそ今が機なのだ」

 あれも知りはしないだろう脚本を書き換える本来の意味を。
 もし、あの場で筋書きが変わったら。
 九十九が雨降に勝ったのだとしたら。
 祭とは非日常。神を迎えるのが祭。神がいるところが祭。
 祈り、通じ、荒ぶる神とならぬよう、祈願する。日常と切り離された非日常の時間と空間。
 ありえないことが起こるのが祀。
 もし非日常の時、信仰の集まる時、特別な空間で、神話を捻じ曲げたらどうなると思う?

「どうなるって言うんだ」
「それは神話上の真実となる。私は滅びず、実体を持つ」

 たとえこの年限りだったとしても。

「そうすれば私は出て来ることが出来る。肉体は滅び、今や人の夢を飛び回る程度の存在でも。祭祀という特別な場で、神の歴史が変わったなら……! 私は」

 ぞくり、と。
 石段に刻まれた青年の影がざわついた。何十もの瞳が一斉に開き爛々と輝き出す。
 青年の背中に走ったのは戦慄と恍惚だった。
 唇がわずかに緩み、吊り上る。
 体中がゾクゾクとして、力が満ちてくる。
 嗚呼、なんて心地がいいんだろう。この感覚を青年はよく知っていた。

「私は思い出させてやりたい! 永きに渡り私を貶め、仮初の姿でしか私を知らぬ人間どもに。本来の神が誰であるかをを忘れた村人達に、私の炎を見せてやりたい!」

 妖狐が夜空に吼える。
 今この刻、抑えていた、たぶん何百年もの間溜め込んでいた何かが解き放たれた。

「見つけた」

 青年は背を向けたまま妖狐には聞こえぬくらいの声で小さく呟いた。
 それは歓喜。欲しかった玩具を与えられた時ような。
 妖狐の中に渦巻くは炎。感情と云う名の炎だ。それはきっと極上の味がするに違いない。
 影がざわめく。青年に囁いた。

 ミツケタ、ミツケタ、ホシイ、ホシイ
 タベタイ、クライタイ……アレヲクライタイ……

 ……コウスケ、アレダ、アレヲクライタイ!

「いいだろう」

 青年は答えた。今度は聞こえるように。
 妖狐と影の両方に聞こえるように。

「舞台に出てやる。物語を書き換えてやるよ」

 まるで脚本の台詞を読み上げるように青年は言った。

「……? なぜ急に」
「話を聞いて気が変わったのさ。収穫祭のクライマックスに恐怖の対象が復活する……面白そうじゃないか。水田を火の海にするなり、村人全員を焼き殺すなり好きにしたらいい。その代わり、出てきた貴方に僕の願いをひとつだけ叶えてもらう」
「願いとは」
「簡単なことだよ。そのときになればわかるさ」

 どうしてだろう。馳走が目の前にある、それ以外に青年の心はどこか高揚していた。
 妖狐は云っていた。
 お前みたいに今ここにある世界のことが大嫌いで、どこかで壊れてしまえばいいと思っているようなそんな人間で無くては私の役は務まらない、と。
 その言葉通りに、炎の海になったこの美しい村の光景を想像してなぜかそれも悪くないと、青年はそう思ってしまったのだ。
 それに好都合だ。欲望を満足させた後、混乱に乗じていつでも自分は姿を消せるだろう。
 九十九を演じた役者が誰だったかなど渦巻く炎の前に掻き消えてしまうに違いない。

「ナナクサ君には、いい返事ができるね……」

 青年の口がにたりと歪んだ。それは普段他人に見せることの無い笑み。
 深い深い暗い器の中にたくさんの影を飼う者の笑みだ。
 それを見てくっく、と妖狐が笑う。
 妖狐の、炎の化け物の裂けた口は同じように歪んでいた。

「やっと本性を見せてくれたな。それが本当のお前だ。お前こそ私を演ずるに相応しい」

 不意に誰かが、ツキミヤの手をぎゅっと掴んだ。
 驚いて見下ろしたそれは、かつての父親を追いかけて石段を上っていた自分の姿で。
 それは瞳の色を三色のそれにして、ツキミヤをじいっと見つめると云ったのだ。

 そう、僕はこの世界が嫌いだ。
 そうとも。父さんを棄てたこの世界など。
 みんなみんな燃えてしまえばいい、燃えてしまえばいいんだ。


 そして、少年はツキミヤの意思を確認するように続けたのだった。

「もちろん、君もそう思うだろ。なぁ、コウスケ……?」