(十四)恵
彼女にはよく声がかかった。村に住まう者に彼女が頼み事をしたのならたいてい聞き入れてもらえた。しっかりとしていて器量もよい。村中の大人たちは嫁に貰うなら彼女にしなさいと息子達に言い聞かせたものだ。
彼女は模範的な村人で、近頃には珍しく村に留まる事を決めている数少ない若者だった。だから村人の、特に高齢の者達は彼女を可愛がったし、大事にした。
それは彼女なりの処世術だった。彼女はたぶん本能的に知っていたのだ。村とは、共同体とは彼らに素直なものを受け入れ、手厚く比護の下に置いてくれるものだと。
そんな彼女は五年前、村の神事である野の火の演出を異例の若さで任された。
それはさながら、昔ならば巫女の役割とも言えた。
以来、彼女は思うままに舞台を、神事を操ってきたといってもいいだろう。
私は選ばれた。
節度さえわきまえれば、やりかたさえ間違えなければ、この村で自分に出来ない事など無い。
いつしかメグミはそう思うようになっていた。
けれども、そんな彼女にも一つだけ思うままに出来ない事があった。
「見違えたじゃないの。ツキミヤさん」
青年に台詞の一節を詠ませ、一通りの動きを見てメグミは感嘆の声を上げた。
「昨日はあんな調子だったから今年はどうなるかと思っていたけど、これなら大丈夫そうね」
「それはどうも。昨日は相当にしごかれましたから」
今年の九十九である青年はにこやかに返す。
そうね。どうやらしごいたのは私だけじゃないみたい、とメグミがちらりと部屋の隅を見た。よくお見通しで、と青年が苦笑いする。
身体が痛い、と彼は思った。歩いているとか普通の動作をする分には問題が無いのだが、劇中のとある動作になると鈍く痛む。
思えば研究室を飛び出して旅立った当初は一日歩いただけで翌日はこの痛みに悩まされたものだったが、身体は順応するものでやがてそれも無くなった。それなのにたった一晩でこのザマとは。この程度で筋肉痛だなんてまだまだだ。
「それでは討伐のシーンに入りましょう。出演者のみなさん、外に出てください」
討伐のシーン。
すなわちそれは妖狐九十九が雨降大神命に討たれるシーンのことである。舞台の出演者のほとんどが入り混じり、ダイナミックに躍動する本舞台のクライマックスにして最大の見せ場……であるらしい。
出演者達はぞろぞろと外に出る。そこには野次馬な見物者達が待ち受けていて村長の姿もあった。どうやら主役である孫の勇士を見に来たらしい。まったく、ヤドランに噛み付いたシェルダーじゃあるまいし、楽しみは本番までとっておけばいいのに。そんなことを青年は考えたのだが、よく考えてみれば自分にもしっかり噛み付いているシェルダーがいるのだと思い出して、少しだけ今年の雨降に同情した。
ナナクサはぐっと両手の拳を握って負けるなコウスケと言わんばかりに頷いている。勘弁して欲しいと思った。
「みなさん、モンスターボールはお持ちになりましたか」
メグミが確認をする。
「雨降の部は上手へ、九十九の部は下手へそれぞれ分かれて。選考会で使ったポケモンを出してください」
雨降と九十九、両陣営の役者達が次々にポケモンを出してゆく。いつの間にかツキミヤの横にもカゲボウズが現れていた。水と炎のポケモン達。青い色が多い雨降陣営。赤い色の多い九十九陣営。それぞれのタイプの体色が映えて、両陣営は対照的な色合いになり、向かい合う。
ここで初めてトレーナーを勝ち抜かせた意味が明らかになった。このシーンでは形式的、擬似的であるにしろポケモンバトル形式がとられるのだ。ある程度のレベルにおいてポケモンを操れるものでなくては舞台が壊れてしまう。優秀なトレーナーを選んだのはこのシーンの為だった。
主役は一番最後に来る。そう言わんばかりに相手の大将がモンスターボールに手をかけたのは雨降陣営があらかたポケモンを出し終わってからだった。見物人達がおおっと声を上げる。
高そうなボールから繰り出されたポケモン、それは立派な甲羅を背負っていた。そしてそこから伸びるのは大量の水を噴射できる大砲。
「カメックス…………か」
ありがたくない顔をしてツキミヤが呟いた。自分の部の決勝戦で手いっぱいだった彼はキクイチロウのポケモンまではノーマークだった。
カメックス。この村の守護神たる雨降の名に相応しい屈強なポケモンだ。わざと負けるにはこの無く都合のよい相手。だが、勝ちを取りに行くのならば厄介な相手だった。
甲羅の割れ目を探すようにじいっと自らのポケモンを観察するツキミヤの視線に気がついて、キクイチロウはフンと笑う。だがその視線には去年の役者とは明らかに違う意思が宿っていることにも気がついていた。
「今年のは少しは骨がありそうじゃないか。なあ?」
同意を求めるように自らのポケモンに言った。
水と炎。どちらが有利かなど明らかだ。そして舞台の結末は決まっている。いわばこれで出来試合。だが……
「油断するなよ」
と言い聞かせた。
決して足元を掬われてはならない。神は妖に完全勝利しなければならないのだから。
メグミが説明した舞台の筋書きはこうだった。
両陣営のポケモンバトル勝ち抜き戦のような形で、討伐シーンは進んでいく。
固有の名前を持たぬ役者達は一対一、二、三技を繰り出しただけで、入れ替わるように退場していく。そのうちに対峙する人数が増えていき、総力戦の様相を呈してゆく。水が飛び交い、炎が舞う。
もちろん、両者には相性の差がある。水の力を使う雨降陣営に、炎を使う九十九陣営は次第に圧されてゆくことになる。が、そこにツキミヤ演じる九十九が現れ、圧倒的な炎の技をもって雨降の臣下達を一斉に蹴散らすのだ。
そして、トウイチロウが扮する雨降が現れる。最後は雨降と九十九の一騎打ちだ。
激しい技の応酬、そして詩の応酬が幾度か繰り返され、最終的には雨降が勝利。妖狐九十九は舞台から崩れ落ちるように退場。
九十九を打ち倒した雨降は勝利の舞曲を高らかに舞い謳う。彼は五穀豊穣と村の繁栄を祈り舞い踊る。音楽の盛り上がりと共に舞台は終幕を迎える――。
「疲れた?」と、ナナクサが尋ねる。
「ああ、疲れた」と、ツキミヤが答える。
「ただバトルするのとは訳が違うな」と、ヒスイが感想を述べる。
三人は賑やかな屋台を練り歩いていた。
あいかわらずこの通りは賑やかだった。前夜祭で
見た男達が大食い大会をしていた舞台では、ゴクリンにマルノームといったいかにもよく食べそうなポケモン達が並び、あの時見た男達と同じようなことをやっていた。どうやらトレーナーがしゃもじでご飯をよそってやるというルールらしく、チームワークも試されているようだ。くだらないことをやっているなぁとツキミヤは思ったが、こういうことをやるのが祭の醍醐味と言えるかもしれなかった。
出演者にとって唯一の楽しみは昼間に一時間与えられた休み時間だ。この間に屋台で料理を貰うなどして彼らは食事をとったり、体を休めたり、思い思いの時間を過ごすのだ。さて、今日はどこでどんな料理を貰おうか。ツキミヤはそんなことを考えながら屋台のあちらこちらから上がる湯気を見ていた。ところが三人の先頭を行くナナクサは立ち並ぶ屋台をことごとく無視してどんどん人気の無いほうに歩いていく。
「おいおい、会場を抜けてどこに行こうって言うんだい」
ツキミヤが尋ねる。
すると、ナナクサは
「屋台の料理も食べ飽きただろう? 今日はとっておきの所に連れて行ってあげるよ」
と言った。
「この先に何かあるのか?」
「まあ、黙ってついてきなって」
ナナクサは得意げにそう言うだけで詳細を話そうとはしなかった。
会場から五分ほど歩いたその場所は村の田んぼ田を二分するように川が流れていた。村の西のほうにそびえる山々を指差してナナクサは、川のはじまりはあの山々にあるのだと説明した。鬱蒼と茂る木々は水をしっかりと蓄えていつも適量の水を村に送り込んでくれるのだと。
ナナクサは反対側を見る。彼らの立つ少し下流のほうに川に寄り添うように長屋が立って、水車が回っていた。
「今日はここで昼食をいただくとしよう」
赤茶色い染料で染まった暖簾を潜ると川をバックにした広い座敷にぽつぽつと客が座っておりこちらを見た。おお、あんた達も来たのかと言っているかのような暗黙の了解がそこにはあった。
ナナクサはさあこっちこっちとせかすように真ん中の席に二人を座らせる。
「で、何を食べさせてくれるんだい」
そのようにツキミヤが尋ねると
「ここのメニューは一つだけだ」
とナナクサは答えた。
「ああ、ちょうど店長代理が来たからさっそく注文をとるとしよう」
長屋の奥のほうを見る。三人の見る先になんだか見覚えのある少年が居て、近づいてきた。
さっきから黙っていたヒスイもすぐに気がついた様子だった。
「タイキ君じゃないか」
そのようにツキミヤが口に出す前に向こうも彼らに気がついたらしく
「なんだ。コースケにシュージ、それにヒスイもきておったのか」
タイキが頭に手ぬぐいを巻いた姿で彼らを出迎えそう言った。
「やあ、タイキ君。朝から稽古でね、コウスケ達は腹ペコだそうだよ。例のあれ頼む」
「あれじゃな。ちょうどいい所に来たのう。今ちょうど新しいのが炊きあがったとこじゃ」
そう言って彼はそそくさと奥の厨房のほうへ戻っていった。
「祭の手伝いってこのことだったのか」
「そうだよ」
ナナクサが肯定する。
「ここは知る人ぞ知る穴守家の出店ブースなんだよ。といっても最近は祭で配る分とたまに自分の家で食べる分しか作らないから、ここのお米が食べられるのは本当に祭の間だけなんだ」
「タマエさんもいるのかい?」
「たぶん奥で料理してるんじゃないかな」
「なるほど、なんだか"らしい"な」
ツキミヤは選考会の夜に精米機を動かしていたタマエの姿を思い出していた。あれはたぶんこの為の仕込だったのだ。
「ちなみに品種はオニスズメノナミダ。味は抜群だれど生産者泣かせの米でね、下手を打つとと本当に雀の涙程度の量しかとれない。六十数年前の凶作の再現さ」
「ここもあの家の持ち物なのか?」
ヒスイが茅葺の天井に見入りながら尋ねると「まぁ、そんなところだね」とナナクサは答えた。
金色に染まった水田を背に川の水は穏やかに流れる。高く上った太陽に水面が反射してキラキラと輝いた。その様子をなんだかナナクサは懐かしそうな面持ちで見つめている。
「何かあるのか?」と、ツキミヤが尋ねると、
「昔さ、タマエさんが物置で見つけたあの写真よりも若かった子どもの頃、シュウイチさんとよく魚を獲ったんだ」
しみじみとまるで昔を懐かしむような言い方で彼は答えた。
「よくもまあそんな昔の事まで知ってるね、君は」
「だからいいなあと思ってさ」
「どうして?」
「だって、僕自身にはそんな思い出ないもの」
そう言ってナナクサはテーブルにひじをついた。遊ぶ二人の姿を川の流れの中に浮かべて彼は優しく、けれど寂しそうに見つめていた。さわさわこぽこぽと流れる水の音。水面は揺れ同じ姿を留めない。
「シュウジ、君にだって、」
ここに来る前の思い出の一つや二つあるだろう。そう言い掛けてツキミヤは口を閉じた。あまり過去を語りたがらないらしいというタマエの言葉を思い出したからだ。
「……君にとって僕らのことは単なる仕事なのか」
話題を軌道修正しようとしたツキミヤの口から出た言葉はそんな内容だった。
「え?」
「僕らと一緒に居るのはそれがタマエさんに頼まれた仕事だからかい? 僕らは……君と僕、それにヒスイ」
ツキミヤは黙って座っているヒスイにも目配せする。
「同じ目的の下にこうしている。事を起こそうとしている。それは君にとって思い出にはなり得ないのか。タマエさんでもシュウイチさんのものでもない、君だけの……いや」
何を言っているんだろうな僕は、と青年は思った。この三人などたまたま集まった烏合の衆に過ぎないのに。互いに隠し事だらけで腹のうちを探り合っているに違いないのに。妖狐九十九が復活すればこの村はただでは済むまい。ひとたび目的が達せられればろくに挨拶も交わさぬまま、散り散りなるのは目に見えているのに。
「これは僕達だけが共有できる記憶……思い出だとは思わないか」
お前は何を言っているのだと自問する。自身はここに座っている二人を欲望を満たす為利用しているに過ぎないではないか。
「僕……だけの? 僕達だけが共有できる……」
「そう、君だけの、僕達だけの、」
「共犯者同士の秘め事、とも言うがな」
ぼそりとヒスイが呟いた。
一番立場を自覚しているのはこいつかもしれないと青年は思った。
「待たせたの」
聞き覚えのある声が戻ってきた。両手に膳を抱えてタイキが再びやってくる。ツキミヤとヒスイの前に白いご飯の盛られた椀と焼き魚の乗った皿の盆を置いた。彼の後ろにはエプロン姿のタマエも立っている。ぴょん、と何かがツキミヤの膝に乗った。緑色の小鳥ポケモンだった。
「あ、タマエさんこんにちは」
「おおコースケ、ネイテーが待っとったぞ。太陽が一番てっぺんに上ったあたりからそわそわしだしての。やっぱりわかるんじゃな」
ネイティはツキミヤの背中をぽんぽんと登ると肩にとまり嬉しそうに目を細めた。
「ほれ、シュージのはこれじゃ」
そう言って、膳をナナクサの前に置く。
「すみません。タマエさんに持ってこさせてしまって……」
ナナクサが恐縮して言った。
「何言っとる。ここでは私がもてなす役じゃい」
タマエはフンと鼻息を荒くした。
ネイティの頭を撫でてやりながら、ツキミヤはその様子を見守る。なんだか微笑ましい。自身はこんな雰囲気を忘れている気がした。
「そういえば、コースケ」
突然、タマエが思い出したように青年のほうを向いた。
「タイキから聞いたぞい。ネイテーってえのは、にっくねーむとかじゃなきに、ジグザグマみたいなポケモンの種類なんだってな」
「……? ええ、そうですが?」
ツキミヤはきょとんとする。
「にっくねーむとやらはつけとらんのか。聞いておらなんだでな」
「ええ、だって種族名で呼べば事足りますし……」
「それはいかん。お主にとってその肩に乗っているネーテーはその程度なのか? そうではないだろう? やはり持っているポケモンにはそのポケモンだけの名前をつけてやらねばな」
タマエは力説した。ようするに老婆はこの緑の毛玉をニックネームで呼びたいらしかった。
「きっと名前をつけてやれば喜ぶぞ。コースケ、名前はな、大切な人に呼んでもらう為にあるんじゃ」
老婆はどこかで聞いたような台詞を吐いた。
「はあ」
「まぁいきなりは思いつかんだろうから、この村にいる間にでもゆっくり考えればいいさ」
ツキミヤがあまり気乗りのしない返事をすると老婆はそう言った。
そんなものをこのポケモンは期待していないだろう。そう思ってちらり、と緑の毛玉に目をやると、澄んだ瞳が明らかに何かを期待している。まじかよ、と彼は思った。傍から見れば無表情だが青年にはなんとなくわかってしまったのだった。
「……つけて欲しいのかい」
こくんと僅かにネイティが頷いたものだから、青年は参ってしまった。
「おっと、釜を見てなくちゃいかんからもう戻るぞい。三人ともゆっくりしておいき」
そう言って老婆はそそくさ元来たほうへ戻っていく。
ツキミヤは頭を抱えた。そういう類のことを考えるのは苦手だった。
「まぁまぁ、冷めないうちに食べようよ」
ナナクサがそのように号令をかける。それを聞いてツキミヤも一旦名前のことを棚上げすることにした。盆に目を映す。
「では、いただきます」
彼らは三者三様に、手を合わすなどして、あるいは黙って箸に手をつけた。タイキがじいっと見ている。彼らはお椀を手に取り、白い粒を口に運んだ。
「!」
「……、…………」
ツキミヤとヒスイに驚きを含んだ反応があったこと、それが明らかに見て取れた。
ナナクサとタイキは互いに目を合わせ、してやったりとばかりににかっと笑って、
「どうじゃ。タマエ婆の田んぼでとれた米は格別じゃろう!」
「すごいだろう穴守家の米は!」
と得意げに言った。
ツキミヤとヒスイはうんうん同意を示すと、椀にもられた白い粒にしばしの間舌鼓を打つ。
椀を空にしてから、ドンとテーブルに置き、「うまかった」「こんなもの初めて食べた」「ただの白米だと思って油断していた」などと感想を述べた。
「これが目当てで遠方からわざわざ来る人もおるきに」
タイキは本当に得意げに言った。
そして少し表情を曇らせてこう言った。
「……父ちゃんかてこん時期に帰ってきたんはこれば食いたかったからに決まっておる」
「…………、そうかもしれないね」
ナナクサが同意する。
「……なあシュージ。俺はどうしたらいいと思う」
たぶん、ずっと言うタイミングを模索していたのだろう。彼は堰を切ったように話し始めた。
ここの暮らしが決して嫌いなわけではないこと。けれど父親を思う気持ちもあること、結局のところ彼は父親が帰ってきたことが嬉しかった。迎えに現れたことがうれしかった。それに母親のことが心配なこと。けれど彼は知っていた。ここを離れることはタマエは望んでいないだろうこと。父親についていったら祖母は一人残されてしまう。それによって自分が傷つくことを彼はよく知っていた。とても踏ん切りがつかない。
どちらを選んでもどちらかが傷つく。それによって自分が傷つく。それが怖い。
ツキミヤの読み通り、父親がやや有利である。状況は七分三分、いや八分二部か。だがそう簡単に少数をばっさり切っては捨てられない。祖母の下に留まったとて父親に永遠に会えないわけでもあるまい。父親と共に暮らす環境が今より恵まれているとも限らない――。タイキにだってそれくらいの計算は出来る。
父を選ぶのか、祖母を選ぶのか。少年の心はアンバランスな振り子時計のように行って帰ってを繰り返していた。
「なあ、コースケはどう思う……ヒスイはどう思う」
少年は助けを求めるように、青年達に尋ねる。だが誰一人として意見を口にはしなかった。口にしたところで、押し付けたところで余計な混乱しか招かないと知っていたから。
幼い頃に父と別れたきりのツキミヤ。彼にだって思うところはあった。だが青年は結局何も言わずじまいだった。これはこの少年の問題なのだ。
「タイキ君、誰でもない。君が決めるんだ」
ナナクサが三人を代表する形でタイキを諭した。
君自身が決めるしかないんだ、と。
僕達はただ聞き届けるだけ。決断の証人となるだけだ。
稽古が再開される。
日が沈むまでどっぷりと演舞は繰り返され、演出にたっぷりと絞られた出演者達は今日も疲れた面持ちで宿に帰ってゆく。
僕らも帰りますか、夜の特訓も待っていることですし。そんなことを考えながら靴の紐を結ぶツキミヤにメグミが声をかけた。
「ツキミヤさん、ちょっと奥まで来てくれないかしら」
ナナクサ達をしばし待たせ、稽古場の奥にある廊下を渡り後ついていくと、彼女は一番端で止まり襖を開いた。
するとツキミヤの目の前に両手を広げるようにして待ち構えているあるものが現れた。
「これは、」
「そう、妖狐九十九の衣装よ」
青年の目の前で両手を広げていたのは、赤地に金色の刺繍が施された羽織。その中心ににたりと笑う狐の面がかけられていた。お前を待っていたというように笑いかけている。
メグミは歩み寄りその面を取ると、ツキミヤに手渡した。
「本番にあなたがつける面よ。雨降大社に代々伝わる年代物なの。毎年毎年その年の九十九がこの面をつけて演じてきたわ」
白地の肌から髭が生え、目尻や口元が金、赤、青で彩られている。
目の切れ目の延長線上に開いた穴からは血管のように赤く伸びた紐が結われていた。
「……あんまり似てないね」
くすっと笑みを浮かべてツキミヤが呟く。
「え?」
「いえ、こっちの話ですよ」
青年がそう言うとあらそうと一言言っただけだった。
すたすたと部屋の奥に進むと桐の箪笥を開け、かけてある衣装を取り出した。
「さすがに本物は貸し出せないけど、稽古用のレプリカがあるから持っていって。今のうちに衣装にも慣れておいたほうがいいわ」
ツキミヤの前に差し出すと、面と交換で押し付けた。
「でも今日の練習は終わりですよ?」
そのように青年が答えると今度はメグミがふふっと笑った。
「あら、今夜もするんでしょう? 夜の特訓」
「バレてましたか」
「わかるわよ。それくらい。ナナクサさん燃えてるもの」
木箱を取り出してそれも渡す。
「こっちは練習用の面。これも使って」
ぱかりと開き、中を見せてみる。新たな狐面が顔を見せた。
「練習用って言っても、こっちも結構な年代物なのよ。くれぐれも粗末には扱わないように。付喪(つくも)って言って、古い道具には魂が宿るって言われてるの。被られる回数が多いだけ怨念みたいなものがあるとしたら案外こっちの面かもしれないわよ」
「心しておきます」
木箱に手をかけツキミヤが返事を返す。
だが彼女も箱を放さなかった。青年とメグミとの間で木箱がお互いに掴まれた状態になる。なんだろうと思っていると、青年の顔をじっと見上げてメグミが言った。
「で、ツキミヤさん、受け取るついでにお願いがあるの」
「なんです?」
「明日の昼休みの間だけでいいわ。ナナクサさんを貸してくださらないかしら」
青年はその言葉を聞いてすべてを理解したらしくフッと笑う。
「もちろんいいですよ」と答えた。
「コウスケ、メグミさんから借りた衣装、さっそく着てみようよ!」
そう言い出すだろうと予想していたから、青年は別段抵抗をしなかった。
夜も更け、離れにたどり着いた途端こうだ。
「さあ、脱げ。コウスケ!」
ナナクサは誤解を受けそうな発言をしてツキミヤをせかす。
「……わざわざ人前でやることもないだろう」
ツキミヤはそう返事をして、衣装を片手に待ち上げるとぴしゃりと襖を閉めた。
「ちえ、つまんないの」
ナナクサが綺麗な虫を捕まえそこなった少年ように口を曲げる。
ヒスイがそりゃそうだろうとでも言いたげに横目にちらりとナナクサを見た。
が、しばらくして襖の戸が開き、手のひらがこっちに来いとナナクサを呼んだものだから彼は飛び上がって喜んだ。
「どうしたのコースケ」
襖の間から顔を覗かせて問うと、
「……恥ずかしながら着付け方がわからない」
とツキミヤが答える。
「しょうがないなー。僕が教えてあげるよ」
ナナクサがにんまりと笑みを浮かべて、少し意地悪そうに言った。
彼はツキミヤが少し開けた襖を全開にする。
「おい! 見世物じゃないんだぞ!」
ツキミヤが少し顔を赤らめて叫んだ。すると、
「だって、本番にヒスイだって似たようなもの着るんだよ? だったら着付けを見せておいたほうがいいんじゃないの?」
と冷静にナナクサが言って、青年は諦めた。だったら最初からそう言えばいいではないかと悪態をつく。
かくして彼は二人の前に上半身裸のまま立つことになってしまった。胸を隠していた衣装をナナクサに預けると、その場所に走っている三本線が二人の前に顕になる。これだから嫌だったのだという気持ちが少しだけ顔に出た。
「あ……」
そうか、と。あの夜に風呂で見たその傷を思い出して、ナナクサは声を漏らす。
ヒスイは一時、傷に目がいった様子だったが何も問わなかった。
「ごめん、忘れてた」
「…………気にしてないさ。だいたい君は村長さんの前でこのことを話したじゃないか。今更といえば今更だ」
冷めた声でツキミヤが言う。
「見たところ、何かに切り裂かれた傷だな。その様子だとかなり深くやられただろう」
気にしていない、と言った所為だろうか。ヒスイがそのように口を出した。
「昔……ちょっと、ね……」
憂鬱そうに瞳を伏せ気味にして青年は答える。
「そういえば、九十九は雨降に矛で刺されて深手を負ったんだってね。偶然とはいえ、なんだか示し合わせたみたいじゃないか。それに……」
自嘲気味に静かに笑った。
「それに?」
「この傷さ、雨が降ると疼くんだよ。明日は少しだけれど降るだろうね」
ツキミヤの言った通りになった、とヒスイは思った。
笛や太鼓の鳴る雨降大社。役者達は室内でメグミの指導を受けている。そこ違ーう! などと怒号が飛び交う中、少し早めにオーケーが出て開放された彼はしとしとと降る雨音を聞いていた。ツキミヤのおまけみたいなものとはいえ、夜の特訓の成果はあったと思われた。
少し離れた先にはトウイチロウが腰掛けいた。彼もそうそうにオーケーを貰い引き上げた様だ。さすがは去年に引き続いての雨降。この程度は軽くこなすらしい。だが彼は台詞のチェックに余念がないらしく熱心に脚本に見入っている。熱心な奴だとヒスイは感心した。
だがこちらにとっては都合の悪いことこの上ない。問題は奴のカメックス。どうやってあれを押さえ込むか、ツキミヤとは入念に打ち合わせをせねばなるまい。ヒスイは今年の雨降をじいっと見つめそんなことを考えていた。
やがて雨脚が弱まって、昼の休みの頃には曇っている程度のなんだか中途半端な天気となる。
「コースケお疲れ様。今日はどこに食べに行こうか」
いつもの調子でナナクサが先頭に立つ。だが、
「今日は三人別行動にしないか」
そんなことをツキミヤが言って、おやとヒスイはいぶかしんだ。
すると、ツキミヤが後方のほうにちらりと目をやる。その方向には午前中に怒号を飛ばしていたあの女演出がいた。ナナクサはなんでそんなことを言うのさという顔をしていたが、そういうことかと彼はなんとなくではあるが事の成り行きを理解する。
「一日中君に付きまとわれているんだ。僕にだって僕だけの休憩時間があっていいんじゃないか?」
ツキミヤが冷たくいい放つ。
早々に背中を向け、すたすたとどこかへ歩いていってしまった。
「コウスケ……」
「賛成だ。常時行動を共にする必要はないしな」
親に取り残された幼獣のように弱々しい声を上げるナナクサを尻目にヒスイもまた背中を向ける。
やがて一人取り残されたナナクサにメグミが歩み寄っていく。それをちらりと見、久々に一人になれる、そう思った。
「なんじゃい、今日はお前さん一人か」
先ほど来た客の膳を片付けながらタマエがヒスイを出迎えた。
なぜだろう。先ほど一人になれるなんて思った矢先だったのになんとなくヒスイの足はこちらに向いてしまった。
「……たまには一人になりたい時もあるんでしょう」
そんなことを適当に答える。
ツキミヤのネイティがどこか残念そうに部屋の窓辺に止まり、川辺のほうを眺めていた。
見れば、川の真ん中でタイキが手を突っ込んで何やら作業をしているようだった。
「ちょいと、出す魚が足りなくなってきよったでな。少しばっかり頂くことにしたんじゃ」
どうやら少年は網を張っているらしかった。石を乗せ、流れないように、かつ魚を誘い込むように。手際よく作業を進める。少年のヤミカラスが流れの中の石に止まってその様子を見守っていた。
「前にシュウジに教えてもらったんじゃと。ほんにあの子はなんでも知っておる」
タマエはキラキラと輝く川辺を見つめ、懐かしむように言った。
「昔を思い出す光景じゃのう。思えばあん人も魚を捕まえるのがうまかった」
亡くなった主人のことを言っているらしかった。
少年がヤミカラスに水を飛ばす。鴉は飛んで跳ねて懸命にそれを避けていた。
「彼、どうするつもりなんでしょうね」
なぜかそんな言葉が口から漏れる。
「さあの。あの子が決めることじゃきに。私にはどうにも出来んて」
タマエは悟ったように答えた。
「タイキはタイキじゃよ。あん子がどうするにせよ私はここに残る。ここに残ってここで果てるだけじゃ」
「…………」
「……古臭い、考えだと思うか?」
「いいえ」
老婆に問われた青年はさらりとそのように答えた。
「むしろ、羨ましいです。ここと決めた土地に生きて、その土地で死ねるなら、それはこの上なく幸せなことではないか、と。そう思うんです。俺は故郷を捨ててきたから」
それは決して彼女を立てたから出た言葉ではなかった。
川の湿気を含んだ涼しい風が吹く。ヒスイの銀髪をふわりとたなびかせた。
「もう戻ることは出来ない。俺にはカグツチと先生しか居ないから……」
「……、……そうかい。お主もいろいろあるんじゃな」
タマエはそこまで言うと、それ以上を問おうとはしなかった。ただ頷いて、受け入れたように見えた。
網を仕掛け終わったのか、タイキがこちらへ戻ってくる。ヒスイに気がついて手を振った。
「もし彼がいなくなったとしても、貴方にはナナクサがいます」
老婆を気遣ったのか、慰めたかったのか。そんな言葉が漏れる。
「いや、シュージだっていつまでも同じじゃないよ」
「……、どういうことです?」
「ちょうど昨日の夜だよ。暇を貰いたいとシュージのほうから言ってきたんだ。ここに留まるのは祭が終わるまでだとさ」
鴉が羽を広げ、ばっと大空に舞い上がった。
「ごめんなさいね。こんなところまで連れ出しちゃって」
「謝られるほどのことじゃないよ」
メグミがそう言ってナナクサが答える。
二人は人気の無い竹林を歩いていた。
実際のところ彼はメグミに連れ出されたことなどどうでもよかった。それより先ほどツキミヤにおいていかれたことのほうがよっぽどに気になっていた。
「僕、コウスケに何か嫌われるようなことしてしまったかな」
「あら、めずらしいのね。ナナクサさんがタマエさん以外の機嫌を気にするなんて」
「だって……コウスケは僕の……ううん、タマエさんのお客様だもの」
「ご心配には及ばないわ。ツキミヤさんはたぶん、私のことを気遣ってくれたんだと思う」
「え、どういうこと?」
「昨日頼んだの。ナナクサさんを貸してくださいって」
なんだ、そういうことか、とナナクサは安堵したような表情を見せた。
こういうところもまたかわいいのよね、とメグミは思う。
「ねえ、ツキミヤさんを指導したの貴方でしょ」
ナナクサの進路をふさぐように身を乗り出してメグミが顔を近づける。
「そうだよ」
「別人みたいにうまくなってるんでびっくりしちゃった。さすがナナクサさんだわ」
「……僕の手腕じゃないさ。コウスケに元々そういう資質があっただけ。適した環境を整えてやれば稲が育って実をつけるのと同じ。どちらも本質はそう変わらないよ」
「ご謙遜ね。あなたってホントなんでも出来る」
これでもう少し乙女心に敏感だったならと切にメグミは思う。
「それもタマエさんの為かしら」
「……まあね」
「そうでしょうね。あなたの行動の基準はいつだってタマエさんだもの」
「少なくとも、タマエさんにみっともない舞台は見せられない。今年の舞台は僕にとっても特別なんだ」
ナナクサはどこか思いつめたように答えた。
がさりと落ち葉を踏みしめる。この場所のこともナナクサはよく知っていた。
シュウイチは、ここで毎年竹の子をとってはタマエの家にもっていっていた。ずっと彼女が好きだったから。彼女の気を引くために彼はなんでもやった。村の事に長老並みに詳しくなったのだって、花を見に行こう、イチゴを摘みにいこうと事あるごとに誘う口実を作る為だった。
「それでナナクサさん、この間私がした話、考えてくれたかしら?」
彼女はナナクサの気分をよそに事の本題に入る。
「…………養子縁組の話かい」
「そうよ」
待ちに待っていた。そんな気持ちを体言するように彼女は肯定した。
彼女にはよく声がかかった。それは道端の挨拶や行事の誘いに限らず、もっと濃い繋がり――将来にわたって――を求める形で。
だが、彼女はずっとその気になれずにいた。彼女に声をかけた同年代の異性やその親達は無数に居たが、その度に彼女はその誘いを丁重に断ってきたのだ。
違う。この人達じゃない。私が求めているものは違う。それが何かと問われれば彼女自身にもはっきりとは説明が出来なかった。選り好み、理想が高すぎるといえばそれまでだ。だが少なくとも、彼女の心がずっと決まらずにいたことだけは確かだった。
転機は三年前。この村に一人の青年がやって来てからだ。
彼はこの村にやってくると、そこでは偏屈と言われる老婆の家――穴守家で働き始めた。
多少空気の読めないところはあるが、よく出来た青年だった。
彼は家事も農作業も雑用もなんなくこなしてみせた。その上、どこで覚えてきたのか、米の栽培のことにも精通しており、米に関することで彼を頼ったのならたいがいの問題は解決した。
根っこの部分では保守的であるはずの村人達がその青年、ナナクサを受け入れるまでにさほど時間はかからなかった。一部の者はまるで昔から村にいたようだとさえ語ったくらいであった。
「あなたならって両親も賛成してくれてるわ。ノゾミだって喜ぶと思うの」
そして、初めてナナクサに会った時、彼女は確信したのだ。
この人だ、と。
私が求めていたのは、待っていたのはこの人なのだと。
彼は今まで出会ったどの村の若者とも違うタイプだった。素性の不確かさは逆にミステリアスな魅力として感じられた。
気がつけば彼に夢中になっていた。彼女はこれまで幾度と無くそういう素振りを見せてきたし、進んでナナクサに声をかけてきた。家の食事に招待したり、行事に行こうと誘ったりもした。
だが、その度に彼は誘いを断り続けてきた。僕はあの家にいなければ、もうじき家の主が帰ってくると。いつもいつも同じ理由で断った。彼は決して彼女に振り向きはしなかった。視線の先にいるのは頑固で偏屈と知られるタマエのほうばかりであったのだ。彼の行動の基準はタマエであり、気にかけているのはいつも村の若い娘ではなく老婆のことであった。
彼女はこの村で初めて思い通りにならないものに出会ったのだ。
メグミはいらだった。模範的な村人である彼女は当然信仰の違うタマエを快く思ってはいなかった。そのことが一層彼女の想いに拍車をかけた。邪な信仰にナナクサを巻き込んでいるタマエが目障りでならならなかった。
おまけにナナクサときたら馬鹿が付くくらい職務に忠実で、仕事中はメグミをほとんど相手にしない。仕事が終わったら終わったらで家をあけようとしない。これでは攻めようにも攻められない。メグミはずっとそのジレンマに悩まされ続けてきた。養子縁組の話をした時だってやっとの思いで時間を作り話したのだ。
だが、今年の秋になってチャンスは巡ってきた。
彼は夜遅くまで頻繁に家を空けるようになった。それは村にやって来たツキミヤという青年の世話を任されたからだ。そして幸いにも彼女は青年の協力を得ることが出来た。
「きっとうまくいくわ。ナナクサさんにはこれまで以上に農業の事で力を発揮して欲しいの。うちに来たら家事も雑用も一切やらなくていいのよ」
これは好機。千載一遇の好機だ。
「……メグミさん」
「なぁに?」
「一度聞いてみたかった。僕が君の家の養子にというのは、君の親御さんが僕の能力を評価したからなのかい? それともメグミさん自身の希望なのかな」
そう。この男はこういうことを平気で尋ねる奴なのだとメグミは思う。思わせぶりな態度を取るだけでは、ありきたりな言葉を並べるだけでは伝わりはしない。もっと直接的にこの想いをぶつけなくてはダメなのだ。
「ナナクサさん、私は」
彼女はそこまで言いかけるとナナクサの両肩をつかまえた。メグミの黒く長い髪がふわりと舞う。気がつけば彼女の唇はナナクサのそれに触れていた。初めて触れたそれの感触は意外と冷たかった。
突然のことだったが、ナナクサは意外に冷静だった。抱き寄せることもなければ、無理やりに引き剥がすことも無い。ただあるがままに受けたように見えた。ほどなくして彼女の唇が離れ、青年を束縛から解放した。
「わかったでしょう? 貴方が好きなのよ」
やってしまえばあっけないものだった。もっと早くにこうすべきだったのかもしれないと彼女は思う。
「もちろん、あなた自身の能力は両親を説得するには大いに役立ったけど」
「……なるほど」
感情を込めずにナナクサは言った。
「それにしてもひどいな。今の初めてだったのに」
「初めてだったの? けど、あなたが鈍いからいけないのよ」
「鈍いから、ね……」
そのように答えるナナクサは何か思い至るところがある様子だった。
メグミのほうに眼を向ければ、彼女は返事をせかすような眼差しを向けてくる。
どうしたものかとほんの一時彼は思案をめぐらせた。が、すぐにそれはムダだと悟った。
答えなど彼の中で最初から決まっていたからだ。
「ごめんメグミさん。僕は貴女の気持ちに応えられない」
ナナクサは迷う様子も無くあっさりと言った。
「それはタマエさんの所為? あなたがどんなにあの人を想っていても届きやしないのに」
もちろんメグミもその程度で引き下がるような女性ではなかった。三年もこの時を待っていたのだから。
「だってあの人が唯一愛しているのは亡くなったシュウイチさんだもの」
「わかっているよ。そんなことは」
「なによりあなととタマエさんとじゃ年齢が違いすぎる」
彼女はわかっていないわとでも言うようにダメ押しをかけた。
「年齢……年齢ねえ」
するとその言葉を聞いたナナクサが、何を思ったのかくっくと笑い始めた。
「? 何がおかしいの」
少々戸惑い気味にメグミは尋ねる。その声には僅かな苛立ちが混じっていた。
青年のそれは自嘲気味な笑い方であった。悪意とも哀しみとも取れるその表情は今まで彼女が見たことが無いものだった。
「ねえメグミさん、僕を何歳だって認識しているの? そういえばちゃんと歳を教えたことってなかったよね」
そういえば、とメグミは思う。自分はそんなことすら知らなかったのだと。彼はあまり彼自身について語りたがらない。今更ながらにナナクサのことを何も知らないのだと思い知らされた。
「いくつって十八くらいでしょう」
「外れ」
ナナクサは切り捨てるように否定した。
「じゃあ十九」
「違うよ。全然違う」
「じゃあいくつなのよ」
メグミが尋ねるとナナクサは冷めた表情で答えた。
「僕の年齢はね、"三"だよ」
しばらくの間があった。これが違う相手、違う場だったら冗談として笑っていただろうがあいにく場の空気はそのような和んだものではなかった。
「馬鹿にしてるの? それはあなたが村に来てからの年数じゃないの」
メグミの声にさらなる苛立ちの感情が混じる。
「馬鹿になんかしてない。じゃあ考え方を変えようか。ある地点から数えると僕の年齢は六十五になるんだ。これならどうだい。だいぶ近づいただろ」
「一体何が言いたいの」
「……年齢なんて関係ないって事」
「呆れた」
彼女はため息をついた。なんだってこんな人を好きになってしまったんだろう。けれど感情というものはそう簡単にコントロールの効くものでは無い。
「というかね……メグミさんは一つ勘違いをしている」
「勘違い?」
「僕が貴女の気持ちに応えられないのは、タマエさんの所為じゃない。もっと根本的な問題だよ」
「何よ。根本的な問題って」
風が竹林をざわざわと揺らした。ナナクサは竹の伸びるその先を見上げる。湿気を持った曇り空であまりいい天気とは言えなかった。
「僕さ、人を好きだって感情がわからないんだ」
長細い竹の葉が落ちてくる。ひらりひらりと舞い落ちてくる。
「なに、それ」
「好きだって感情だけじゃない。喜怒哀楽すべてが僕にとって疑わしい」
「だってあなたはタマエさんのことを……」
ナナクサは首を横に振る。
「タマエさんのことは好きだし、大切に思っているよ。あの人のためなら僕はなんだってしてあげたい。あの人が喜んでくれるなら僕も嬉しい」
「言ってることが矛盾してるわ」
「でもそれは僕自身から湧き上がってくる感情じゃあないんだ」
彼は寂しげに笑った。
それは彼女に向けられたものでなく、自らを嘲る為の笑みだった。
「僕自身は空(から)なんだよ。普段僕が喜んだり悲しんだり怒ったりするのだとすればそれは――」
ナナクサはそこまで言うと、急に黙りこくったようになり、言葉を途切れさせてしまった。
風が再びざわりと竹やぶを揺らす。わけがわからないというように両眉を寄せる彼女の顔を彼は冷めた目で見つめていた。それこそ彼女の周りにいくらでも生えている竹林の竹をただ見るように。そこに興味関心という要素は感じられなかった。竹の葉がひらりひらりと落下してくる。
「よく言うだろ? 君の気持ちは嬉しいけど……って。だけど僕にはそんなことを言う資格すらない」
彼は肩に舞い降りた竹の葉を払い落した。
ざくりと落ち葉を踏んでくるりと背を向ける。
「ごめん」
去り際に小さく呟いた。
落ち葉を踏みしめながら、遠ざかってゆくナナクサは一度たりとも振り返らなかった。
まともにその背中を追うことも出来ないまま竹林に立つメグミの軽く握った拳は震えていた。
払い落とされた竹の葉のように、踏まれて散った落ち葉のように、自尊心をズタズタにされた気分だった。
悔しい。憎らしい。恋愛の成就という形では決して報われることが無い彼の想い。自分に向かったならすべて受け止めることが出来るというのに。
彼が憎らしい。
あの老婆が恨めしい。
じゅうっと赤く燃えた火鉢を押し付けたように行き場を無くした想いが胸を焦がした。
が、背後のほうから落ち葉を踏みしめる足音が自分のほうに近づいてきたのがわかって、彼女は少なくとも外面に出るオーラを切り替えた。音のするほうを振り返る。
「誰かいるの?」
振り返った彼女の顔はなんともなかったような、何事もなかったような顔をしていた。少なくとも今さっき振られた者の顔には見えない。
まったく女性っていうのは怖いな。胸のうちに激しい感情を抱きながらいとも簡単に平静の仮面を被ってみせる。メグミの瞳に映った青年はそんなことを思ってうっすらと笑みを浮かべた。
「……ツキミヤさん」
メグミの視線の先に立っていたのは数日前に村にやってきた青年。ナナクサの想い人の客人であり、今年の妖狐九十九だった。
青年の目の前には焼き魚の皿とご飯を持った椀があった。どちらも半分程度減っている。
だが味が抜群にも関わらず彼の食はあまり進まずにいた。
ナナクサが自ら暇を申し出た。
そのことがヒスイに少なからず衝撃を与えていた。
「何を考えてる……ナナクサ」
ヒスイは魚の身をつつきながら呟いた。
考えたとて答えは出まい。直接ナナクサを問い詰めでもしない限り。
尤も、あいつが本当のことを言うかどうか疑わしいがな、とも思う。あいつはたぶん俺やツキミヤが思っている以上に役者なのだ。彼はさっきからずっとそんなことを考えていた。
だが、そんな堂々巡りをしていた彼の思考をストップさせるものがあった。彼の持っていたあるものが停止させた。
ブウンブウン、と。胸ポケットの小さな電話が鳴っていた。
彼は黒い画面に浮かぶ文字を見て着信の相手を確認する。尤も自分に電話をかけてくる人物など一人しか居ないのだが。黒い画面に表示された名は思った通りの名前だった。
ヒスイは急いで長屋を出ると通話ボタンを押した。
「……ヒスイです」
受話器越しに聞こえたのはひさびさに聞く声。
「長い間、ご連絡せず申し訳ありません。……プロフェッサー」
耳に響く声は彼の近況を確かめている様子だった。
「え、宿ですか……? 心配いただかなくても大丈夫ですよ。ちゃんと確保してますから。村の民家ですが泊めてもらえることになって……ええ」
普段はほとんど変わらない鉄仮面の表情が、少しだけ綻んだ。
「それとごめんなさい先生……九十九の役、取り損ねてしまいました」
彼は門限を破った日に親の顔色を伺う子どものように言った。
もしかしたら今まで連絡をしなかったのはこの所為かもしれなかった。
「ですが、プランに支障はありません。理由が定かではありませんが、今年の九十九は勝とうとしています」
自身の失敗を懸命に埋め合わせるように彼は説明した。
計画に支障は無い事、自身も舞台には出る事、今年の九十九と行動を共にしている事を。
想定していたプロセスとは違ってしまったが、むしろ事の成り行きはじっくり観察できるだろうと。
「……もし今年の九十九が失敗しても私が」
そしてこのように締めくくった。
「舞台本番に神話は書き換わります。もうすぐです。"野の火"の復活はもうすぐ……先生の仮説の正しさは遠からず証明されるでしょう。条件が整うようならばあれも試します」
風がざわざわと竹を揺らした。ナナクサが去った竹林に二人の男女が立っている。
柔らかそうな前髪の向こうから射抜くような瞳がメグミを見つめている。今年の九十九を演じる青年だった。
「残念でしたね。せっかく僕から彼を引き離してあげたのに」
「……貴方にはお礼を言わないといけないわね」
腕組みすると、ナナクサの去った方向を見、ふうっとため息をつく。
「別にいいですよ。おもしろいもの見せてもらったし。驚きました。大胆なんですね、メグミさんって」
今年の九十九――ツキミヤは楽しげに言った。
メグミは顔の温度が急激に上がるのを感じた。
「ナナクサ君が冷静だったのにはもっと驚いたけど」
「……やっぱりさっきから見てた訳。悪趣味ね」
眉を顰めてメグミが言った。怒りと恥じらいを押し殺したような声だった。だがそんな彼女に青年は構わずに平然と言ってのける。
「でも今のでわかったでしょう。やめておいたほうがいいですよ、彼は。想えば想うほど貴女が傷付くだけだ」
「つい数日前にここに来たツキミヤさんに何がわかるの」
余所者が、とメグミが睨みつける。
だが、ツキミヤはそれに動じる様子は無かった。むしろ待っていたとばかりにくすりと笑った。
「わかるさ」
瞳の奥を覗き込み、見透かすように言う。
「僕にも好きな人はいるからね。その人に誰も近づけたくない。誰にも渡したくない。殺してでも自分のモノにしたい。君の想い方は僕に似ているよ」
そう、たとえ行動には出なくても、いや出ないからこそ己の内でドス黒い炎が渦巻いているものなんだ。そんなことを青年は思う。
「けれども、それは叶わないと最悪だ」
傷口に触れて押し広げるように言った。
「いつからだい? 去年の夏から? それとも彼がここに現れてから?」
「あなたには、関係ない……」
何の力に抗うようにメグミは答えた。メグミの中の何かが彼女に告げていた。この人は怖い。このまま話していたら、自分の中にある醜いものを全部彼の前に晒してしまうのではないだろうか。
「受け止められることの無い強い想いは刃になって君の元に戻ってくる。想えば想うほどに突き刺さって、切り裂かれて血を流すんだ。誰かへの嫉妬もそう。傷の直りを遅くして、時には広げてしまう。もうやめておきな。君は身体中血だらけだよ」
だが、彼女は首を横に振った。
「だめよ……だって」
ずっとずっと想ってきただもの。彼に出会ってから、ずっと……。
「そんなの無理よ」
「ところが出来るんだ。僕になら……聞こえないかい?」
口角を吊り上げて青年は言った。
「聞こえるって、何が……」
「ほら、君の血の匂いに誘われてこんなに集まっている」
青年が妖しい眼差しを向け、舐めるように観察している。
メグミの背中にぞくりと悪寒が走った。
そして聞いた。青年の声でも彼女自身の声でもない。この竹林にいる無数の何者かが笑う声を。
くすくす、くすくす……、くすくすくす……
姿は見えない。けれど居る。確かに居る。竹林に無数の声が響いて自分を囲っている。見られている。
「やだ、なに……なにがいるの」
「そんな顔しなくても、すぐに見えるようにしてあげるよ」
温厚そうな青年の瞳の色が人でないものに変わった。
瞬間。青年の瞳と同じ眼をしたたくさんの影が現れる。彼らはすうっと懐に侵入すると、花を咲かせるようにマントを広げ、彼女を捕らえた。
それは一瞬の出来事で、彼女に悲鳴を上げる暇を与えない。
「メグミさん。今の貴女、すごくいいよ。シュウジとタマエさんへの憎悪でいっぱいだ。さっきのことで一気に実が熟したみたいだね」
青年が青と黄の瞳で見据えて笑う。それは話し相手ではなく獲物を見る眼だった。
「手持ちとは別腹と言ってもね、こっちのポケモン達もしっかりお腹は減るし、面倒を見てあげなくちゃいけないんだ」
夜色のマントを木の根のように伸ばし彼女に取り憑くのは負の感情を糧とするポケモン、カゲボウズ。
集まった影は一体となって舐めるように彼女を縛り上げる。身体を侵し、心を冒す夜色の闇が、水田に流れ込み、染み渡る水のように彼女の中を潤していった。
「メインディッシュが来るまでもう少しだからって言ったけれど、聞かないんだよ。食べたいんだって。君の感情はとても甘そうだから」
黒い影たちに絡め取られ、彼女は声にならない悲鳴を上げた。その感覚に触れて青年は恍惚とする。ああ、恐怖する響きのなんと心地よいことか。
カゲボウズ達が作り出す闇。彼女は徐々に深いところへ入り込まれ、引きずり込まれてゆく。望むと望まざるにかかわらず駆け巡る弄るような感覚。それに抗えず、身体をくねらせるその度に、甘い甘い蜜を吸い上げられ、堕とされてゆく。
影達がにいっと眼を細める。青年がぺろりと唇を舐めた。
甘く熟した負の感情を絞り、記憶ごと絡めとって飲み干してゆく。
『やっと本性を見せてくれたな。それが本当のお前だ。お前こそ私を演ずるに相応しい』
青年はいつの間にか九十九の言葉をリフレインさせていた。
『普段あれの前で素っ気無い態度をとっているのは本来のお前ではない。そして、人に見せる柔らかい物腰も仮初。お前はとても狡猾で残忍だ』
その声はまるで耳元で囁かれているかの如く響き渡る。
――化物。
闇に翻弄されながらも、メグミがそんな目で自分を見た気がした。
――それはね、今の僕にとっては褒め言葉だよ。
満足げに微笑み返す。
「そろそろ稽古の時間だな。早めに片付けてくれよ」
止めを刺せとばかりに影をせかした。
「尤も今日、"昼の"演出は稽古場に戻らないだろうけどね」
象徴的じゃあないかと青年は思う。本番になれば舞台は役者のものだ。彼女の演出は意味が無くなる。今年の九十九によって昼間の台詞は書き換えられ、舞台の結末は変わるのだから。
ああ、そういえば、午後からの練習は、あの雨降との一騎打ちだったか。彼のポケモンは強そうだったな、どうやって勝とうか、どうやって倒そうか。ああ、そうだ。早く戻らないとナナクサがうるさいかもしれないなぁ。青年の頭の中をそんな考えが一巡する。
「それにしても足りないな。この程度じゃ満たされない。またすぐに喉が乾いてしまう」
だがもうすぐだ。倒されるは雨の神。炎の妖が復活し、村の舞台は緋色に染まる。そして――目論見通りに炎の妖を喰らったなら底の見えぬこの渇きもしばらくの間は満たされよう。
嗚呼、早く欲しい。喰らいたい。己が何者かも思い出せないほどに喰らい尽くしてしまいたい。
ふと青年は誰もいない筈の竹林の奥をちらりと見る。何を思ってかくすりと笑った。
蠢く闇にに囚われたまま、哀れな獲物はびくりびくりと身体を震わせる。やがてがくりとうなだれて動かなくなった。
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