■朝霧


 真っ白だ。
 頭が真っ白なわけではなく、視界が真っ白なのだ。
 航路が見えない。進む先が見えない。
 道の半ばで男は問う。自問する。

 私はどこに行く?
 どこに向かって走っている?


 出張でジョウト地方に行ったことは数え切れぬほどあったのだが、ホウエンは初めてだった。
 ホウエン地方キナギタウン、海に浮かぶ町。アクセスはカイナシティから船で南下、あるいはミナモシティから北上が一般的だ。
 どの民家も海上に浮かび、波でゆらゆらと揺れている。移動もまた海に浮かぶ筏のようなものを渡り歩く。歩くたびに少し海に沈むから、足がよく海水に浸かった。だからこの町ではビーチサンダルが必携だった。
「お前さん、道に迷っているね」
 海に浮かぶ町の一角に木造、茅葺屋根の家があり、そこに二人の男女の姿があった。よく言えば、風情があり、悪く言えばオンボロの建物――いや、浮かび物。いかにも近代化の波に取り残されたという風のその小さな家の中で、占い師の老婆が言った。
 視線の先には一人の男。白髪まじりの髪の男は洒落っ気の無い眼鏡をかけており、背はそこそこ高かった。男は不服そうな顔をして老婆をじっと見つめていた。
 お世辞にも美人とは言えないその老婆の後ろの窓からは、碧い碧い海が見えた。その先に続くのは131番水道。船の通り道、海の道だった。南下してミナモに近づく度に、水道は130、129と名前を変える。
 老婆は男に背を向けると、窓の外を見て、言った。
「ふうむ、今日も見えないねぇ」
 何のことを言っているのかさっぱり分からなかった。
 いや、この町の人間、それにこの町そのものが男には理解できなかった。
 この町は特殊だ、と男は思う。
 船着場はれっきとした陸地である隣の島にあり、町に入るには、隣の島から筏を飛ぶようにして渡って来なければならない。しかも南国にありがちな台風で、よくそれらは流されるという。そのたびに性懲りも無く、町の人々は筏の道を渡し直すのだという。
 誠に不合理じゃないか、と男は思う。なぜそうまでして、その場所にこだわるのか。隣の島ではだめなのかと思う。けれど彼らは先祖代々この場所を守り続け、住み続けているのだった。尤も今はそういったもの珍しさもあり、その存在自体が、観光資源足りうるから単純に不合理とは言えない側面もあるのだが……。
 さらに、この男がこの風変わりな町に来たのは、言うなればたまたまだった。大学の学生が講堂に放置していた旅行会社のパンフレットを拾ったのだ。「南国を満喫! ホウエン四泊五日の旅!」というキャッチコピーであったと彼は記憶している。
 春休みが近かった。男の勤めるその場所はこの国の最高学府、優秀な学生達は非常に研究熱心だった――……とはいえ、相手はやはり大学生だ。しかも時間のある一、二年生。夏より長いその長期休暇を前にして大学生達は浮かれていたのだろう。
 普段なら見向きもせずゴミ箱に放り込まれたであろうそのパンフレットだったが、その表紙に載っていた写真が妙に男の心を捉えた。写真に写っていたのは今、男が立つこの場所、海に浮かぶ町、キナギタウンだった。
 後になって男は言う。気まぐれだったのだ、と。
 が、春休みに入り学生が減ったこともあって、時間をとるのは割合容易かった。研究室に残る学生や研究生達にしばらくの不在を告げ、教授職の男はホウエンへと旅立った。

 海に浮かぶ町キナギは、豊富な海産物に恵まれる海女の町であり、人気観光地でもあった。
 海産物の料理を食べ歩き、海女が案内するダイビングツアー等々にかまけるうちにすっかり日が沈み、男は宿舎に戻ることにした。
 町の先端には宿泊用の宿舎がいくつも浮いていて、そこは洋上ホテルとなっている。空を闇が包み星が瞬きだした頃、各々の宿舎に灯りが灯りだした。そのオレンジの灯が揺れる海に投影されてゆらゆらと揺れる。それはまさに幻想的という言葉がぴったりであり、非日常の演出であった。
 灯りに照らされた筏の道を男は渡っていく。両手には町の海女達が採った貝の、その串焼きやバター焼きをたっぷりと盛った皿を持っていた。落とさないように、慎重に一歩一歩渡っていく。男はやがて「321」と番号の書かれた宿舎へ入っていった。
「あ、博士、お帰りなさい」
 ほのかに灯りの灯った宿舎に入ると、ルームメイトが待っていた。彼はベッドに横になり、するりと長い獣のポケモンと戯れていた。十歳に二、三を加えた年齢だろうか。白いシャツからよく焼けた小麦色の腕が伸びている。男の相部屋になったのはポケモントレーナーだと言う少年だった。名はヨウヘイと言うらしい。
 男はカタンと部屋の中心にあるテーブルに皿を置く。ヨウヘイとじゃれていた縦縞のポケモン、マッスグマが顔を上げ、ふんふんと鼻を鳴らした。
「やらんぞ」
 男は素っ気無く言うと、貝の串にかぶりついた。
「わ、わかってますよー」
 ヨウヘイはマッスグマを抱いたまま言った。
 男はもりもりと貝の料理を口に運んでいく。カントーで食べたそれより味が濃く、美味しかった。
「昨日も食べてましたね、それ」
 ヨウヘイが笑う。うるさいな、と男はつぶやいた。
 やがて皿は空になって、貝殻と串だけが残された。殻だけになった貝殻は窓から捨ててしまった。貝を食べた後の殻は捨ててもいいということになっていたからだった。
 ちゃぽん、とぽんと小さな音を立てて、それは暗い海に沈んでいった。
「貝を海に捨てるのって、シンオウの昔話みたいですよね」
 ヨウヘイが言う。
「なんだそれは」
「え、知らないんですか? カスタニさんって、本当にタマムシ大学の博士?」
 ヨウヘイは意外だという目を向けてきた。少年は言う。ポケモントレーナーになる前、まだ学校に通っていた頃に、国語の教科書に載っていたのを見たのだと。それは食べたポケモンの骨をきれいにきれいにして水の中に戻してやると、また肉体をつけて戻ってくる、というものだった。
 カスタニは言った。博士ってのは何でも知ってるわけじゃあない。専門以外はからっきしだったりするものさ、と。
「残念ながらそっちの方面は専門じゃないからな。詳しくないんだ。携帯獣文学史のオリベ君あたりだったらわからんがな」
 男は言った。自分の専門はポケモンの医療だの、医療機器だの、栄養学だのそっちのほうの研究だと。だから伝説だの昔話の類には弱いのだと。
 この町に来て二日が経っていた。初日の夜にルームメイトの少年といろいろ話してしまったものだから、かなり素性がバレてしまった。こんなに饒舌になったのは久しぶりだ。旅先だからかもしれない、と男は思う。あるいは……
 あるいは誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。自分の人生のこと。何を思い生きてきたのか。その片鱗を聞いて欲しかったのかもしれなかった。旅先にいる、自分の地位や利害関係とは関係ない誰か。そういう人物を彼は求めていたのかもしれなかった。
 ――そうか。私が旅に出たいと思ったのはそういう理由だったのか。
 ふと天から降ってきた答えに男は頷いた。
 だから、男は――カスタニは、少年に徐々に話していった。自分の生い立ち、今日に至った過程、時にくわしく、時に端折りながら、話して聞かせていった。
「私はね、孤児だったんだ」
 部屋の上で揺れるオレンジの灯を見ながら彼は言った。海に浮かび波に揺られる宿舎。テーブルを挟む形で、それぞれのベッドに横になる。カスタニの独白が始まった。

 思い出せる最初の記憶というのが親戚達の囁きあう声だった。
 どうするのよ。どうするって。誰が引き取るのよ。俺はいやだよ。私だって嫌よ。
 誰が何を言っていたのかなどの詳細はともかく思い出せないが、幼かったカスタニにも概要だけは伝わった。ようするに彼らが話しているのは自分に関してのことで、この人たちは自分をよく思っていないし、存在を望んではいない。邪魔者、厄介者だと思っていて、できることなら知らないふりをしたい。関心が無い。あの時はうまく言葉にして表現できなかったけれど、それはともかくそういうことだった。詳細は知らないのだが、自分の親だった人間は両方とも死んでしまったか、行方不明らしかった。
 気がついたらシオンタウンの養護施設に入れられていて、そこで生活していた。そこから学校に通うようになって、より多くの言葉を覚え、字が書けるようになった時、彼は明確にそういう表現が出来るようになった。
 別段いじめられたりした訳ではなかったけれど、なぜか孤独がつきまとっていた。
 自分は「普通の」彼らと違う。存在する場所が違う。まるで自分だけ別の次元に立っているように、クラスメイト達から見えない壁一つで隔てられている感覚をカスタニは覚えていた。
 誰にも言ったりはしなかったけれど、少年は何度も同じ事を思った。
 施設には様々な事情で身を寄せている子ども達がいたけれど、皆多かれ少なかれ同じ思いを抱えていたのではないだろうか。
 カスタニは今、海に浮かぶベッドに横になり、その時をこう表現する。
 いつもいつも同じ事を思っていた。
「俺達は顧みられない存在だ。世間ってやつは俺達を世界の隅っこに隔離して、見ないことに決めているらしい」
 施設の寮生活は様々な制約がついていた。毎日何時には帰寮しないといけないと決まっており、十歳になっても自らのポケモンを持つことは許されなかった。学校の学年が上がっていくにしたがって少しずつそれは緩和されていったが、やはり「普通の」子ども達に比べると制約がつきまとっていたように思う。
「だから羨ましかったよ。同級生でポケモン何匹も飼ってる奴らがさ」
 今となっては逆によかったと思う部分もないではない。ようするにカスタニには飢えがあった。自由やポケモンへの飢えというものが。それは爆発的エネルギー足り得るものだった。
 そうして、もう一つ……
「そういえば博士、ミチルさんのところには行ったの?」
 話が遮られた。
 思い出したかのようにヨウヘイが聞いてきた。
「ミチル……ああ、あの町の隅っこに住んでいる婆さんか」
「うん」
「行ったとも。お前がうるさく会ってみろって言うから仕方なくな。まぁ適当なことしか言われなかったよ。お前さん道に迷ってるどうこうってさ。占い師なんてそんなもんだ。当たり障りの無いことしか言わん。ああいう人種は好かん」
「博士にはぴったりだと思ったんだけどなぁ」
「とんだ時間の無駄だった」
「でも凄腕らしいよ? 海の神様の『声』が聞こえるんだって。なんとかって会社の社長さんとか、どっかの地方のジムリーダーとかこっそり彼女のアドバイス聞きにくるらしいよ。だから俺、えらい人も迷うんだなーって思ってさ」
「あんな窓の外ばかり見てる婆さんのどこがいいんだか」
 カスタニは蒸し暑い昼の暗い部屋を思い出し、言った。
「ああ、あれはね、探してるんだよ」
「何をだ?」
「何だと思う?」
 カスタニが尋ねると、ヨウヘイはじらすようにそう返した。
「わからないから聞いてるんじゃないか。しかし婆さんのことだからな、若かりし頃に海の向こうへ旅立ったまま帰らない恋人の船とかそんなもんだろう」
「ハズレ」
「なんだ。つまらん」
 カスタニは残念そうに言った。婆さんが水平線の向こうに探すものときたら絶対そんなもんだと相場が決まっているのに。
「だいたいミチルさんには息子さんがいるし」
「お前、旅行客のくせにずいぶん詳しいんだな」
「何度も来てますから。ここは第二の故郷みたいなもんです。なんか、知らない土地ではない気がするんですよね。来やすいっていうか」
「……来やすいか? 海のど真ん中だぞ?」
「だってベクトルがいますもん。こう見えてもね、ベクトルは泳ぎが得意なんですよ」
 ヨウヘイは寝息を立てるマッスグマ、ベクトルの長い体を撫でた。背中を走る茶色は額まで伸び、先端で矢印のような模様になっている。まるで行き先を示すように。
 少年は言った。ベクトルの得意技は波乗りだ。この大きな長い体にまたがって俺は海を渡ることが出来るのだ、と。
「今回キナギに寄ったのはここで捕まえたいポケモンがいるからなんです。ベクトルもがんばってるんだけど、なかなかうまくいかなくて……ああ、話がそれましたね。何を探してるかはミチルさんに聞いてみるといいですよ」
 続けざまにヨウヘイは言った。
「また行くのか」
「暇なんでしょ?」
「……私は暇などではない」
 カスタニはそのように反論したが、自分の普段の多忙さをいくらこの少年に説明しても無駄だと思い、それ以上弁解するようなことはしなかった。
 いい時間だったので、灯りを消した。穏やかな波がいい具合に彼らのベッドを揺らして、やがて二人は共に眠りに落ちていった。


 ……。

 カスタニ君、カスタニ君。
 どこからか懐かしい声が聞こえた。
 気がつくと、若き日のカスタニはどことも知れない場所に立っていた。
 周りは白い。その白い場所、白い大地にカスタニは一人で立っており、ここがどこなのかもわからない。ただ声だけが聞こえた。
 けれど声は聞こえど、姿が見えなかった。

 少し、寒いな。
 そう思ってカスタニが目を覚ますと海の宿舎の窓からは、ぼんやりとした朝日が差し込んでいた。
 体を起こし、隣を見ると少年、そして少年に抱きつかれたマッスグマはまだ寝息を立てていた。カスタニはビーチサンダルの紐に足の指を通すと、ドアを開き、宿舎を出る。
 ドアの向こうに広がった光景を見て、カスタニは驚いた。
 眼前には夢で見たのに似た白い光景が広がっていた。
「霧か」
 と、カスタニは呟いた。白い霧が発生して海を覆っていた。海に浮かぶたくさんの宿舎群。少し離れた場所にある宿舎はそのシルエットだけが見え、カスタニの立つ位置から遠くになるにつれ、だんだんと白に飲まれ、ぼやけていく。
 そして風景には色が無かった。その世界からは光の三原色が消え失せてしまい、まるで水墨画のようであった。
 どおりで寒いわけだと彼は思う。霧は水蒸気が冷やされて発生する。ようするに成り立ちは雲と同じものだった。その違いは地に接しているかいないかの定義の違いでしかない。
「これじゃあ、水平線は見えないだろうな」
 昨日、窓の外を見ていた老婆を思い出し、カスタニはそう呟いた。
 すっかり目が覚めてしまい、二度寝をする気も起きなかったので、昨日の夕食の皿を持ち、宿舎を出た。とにかく視界が悪いので、方向と足元を確認しながら、慎重に進んでいった。
 まだ人のいない食堂の窓口に皿を返却する。腕時計を見ればまだ短針が「5」を指していた。
 二十代、三十代だった昔と比べるとずいぶん早起きになったものだとカスタニは思う。歳のせいかもしれない。二月ほど前に五十の誕生日を迎えた彼は、日の出と共に起き出し、日の入りと共に眠るという人間本来のサイクルに身体が戻りつつあった。灯りというものが開発されて人間の活動時間は変わってしまったが、本来人はそのように出来ているのだ。
 にわかにどこかでシュゴッという奇妙な音が聞こえた。
「む?」
 と、彼は声を上げた。ポケモンだろうか、と。あたりを見回すが、何せ霧に包まれているからわからない。たぷんという音と共に何かが潜ったような気もしたが、ちゃぷんちゃぷんと波が建物や筏に当たる音とあまり区別がつかなかった。気のせいかもしれない。
 人々が起き出してくるにはまだ時間がありそうだった。カスタニは周囲を散策してみることにした。
 食堂の浮いている大きな筏には案内板が取り付けられていたが、あえてそれは見なかった。
 まだまだ霧は濃い。くれぐれも道を踏み誤って海に落ちないよう、カスタニは足元を確認しながら歩いた。何度かの分岐を選択し、ビーチサンダルと足先を海水で濡らしながら進んでいく。朝の海水は冷たかった。
 そうしてしばらく歩くうちに、霧の向こうから小さな陸地が現れた。海に浮く筏が島に繋がっている。
 おや、船着きの隣島に来てしまったのだろうか。
 一瞬カスタニはそう思ったが、どうも違うようだった。うまく説明できないのだが、なんとなく雰囲気が違う。霧のせいも手伝ってか、島を包む空気は独特なものだった。
 カスタニは上陸を果たす。島の土を踏み、その中へ入っていった。霧の中で大きな葉のクワズイモやトゲの葉を持つアダン、南国の植物が生い茂っていた。
 しばらく歩くと死んだ珊瑚を積み上げた石垣にぶち当たった。カスタニはそれに沿って歩いていく。数十歩ほど歩いただろうかところで石垣が途切れた。カスタニは頭上を見る。まるで招き入れるかのように途切れた場所に鳥居が立っていた。粗末な木の板が石垣にもたれかかっていて、「喜凪神社」と書かれていた。鳥居を潜ってカスタニは進んでいく。
 粗末な神社がそこにはあった。拝殿の前まで近寄ってみる。もうずっと手が入っていないのだろうか、平戸が斜めに傾いて、今にも崩れそうだった。
 突如、頭上でがらがらと鈴が鳴って、カスタニは驚いた。見るといつの間にかカスタニの横で小さな男の子が縄を揺らし、鈴を鳴らしているところだった。男の子は、ぱんぱんとかしわ手を二度叩くと、礼をした。頭を上げた男の子の顔を見て、カスタニはまた驚いた。
「ヨウヘイ?」
 と、カスタニは思わず声を上げた。年齢や身長はあきらかに小さいのだが、男の子の顔はヨウヘイにそっくりだった。無論、男の子は怪訝な表情を浮かべた。
「ヨーヘイ? わいは岬丸さかい」
 今度はカスタニが怪訝な表情を浮かべる番だった。「丸」とはずいぶんと古風な名前である。
「おっさん、見かけない顔やなあ。なんや着てる服もけったいやし」
「観光客なんでね」
 カスタニは答えた。それにしても早起きの子どもがいたものである。それにしたって変な子だと彼は思った。早起きなのはもちろんだが、来ている服も麻と思われる布で出来た粗末なもので昔風だし、履いているのも草鞋だった。
「カンコウキャクっつーのはなんだ」 
「旅をする暇な人種のことだ」
 服装のことには言及せず、カスタニは答えた。
「なんじゃい。おまんも本土の商人かなにかか」
 岬丸はまるで敵を見るように睨み付けてきた。
「いや、旅の途中だよ。ここで商おうとは考えておらん」
「ふん、どうだか」
 岬丸は尚も怪しいやつと言った風な目を向けてきたが、少しばかり気を許したようにも見えた。
「おめー、名は?」
「カスタニだ」
「ふん、やはり本土もんはけったいな名じゃ」
 名前を聞いて、岬丸はそう言った。
「ところでお前、何を願ってたんだ」
 今度は逆にカスタニが問うた。こんな朝霧の出る早朝に神社に詣でるのだから、相当な願いがあったのではないかと考えたからだ。こんな時間に神社周辺をふらつくものがあるとしたら自分か神職あるいは巫女くらいのものであろうとカスタニは考えた。
「喜凪が元に戻るように」
 岬丸はそう答えた。
「元に戻る?」
「でも今日は違う」
「じゃあ、今日はなんだ」
「宝丸のおっかあが無事に天に行けるように」
「タカラマル?」
「わしの友達じゃ。この前、あいつのおっかあが死んでしまっての」
「死んで……」
 カスタニは反芻した。その言葉に思い出すものがあった。
「島はここんとこおかしいんじゃあ。誰か死んでも弔おうとせんし、宝丸のおっかあも放っておいてばかりじゃ。ちゃんと弔ってやるんが決まりじゃったのに。だからわし、祈りに来てたねん。タカラマルのおっかあさ、天ばいけるようにとな」
「そうか」
 とカスタニは答えた。
「皆わいのことを頭おかしいと言うねん。けんど、おかしいのはあいつらじゃあ。いっつもいっつも潜りの海女まで連れ出して船ば出しおって、昔はあんなんじゃなかったのに……みんな油でおかしゅうなってしもたんじゃ。なぁカスタニ、おまんはどう思う? 死者ば弔うんはおかしいと思うか」
「いや」
 と、カスタニは答えた。
「死者を弔うというのは、死んだ者はもちろん、残された者にとってこそ必要だと、私はそう思うよ。少し前、旧い知り合いが死んでね……葬式があった。その時になんとなく分かったんだ。お別れは残された者にとってこそ必要だ……とね。だからお前のいう皆という者達がおかしくなってしまったとすれば、弔いをやらなかった所為かもしれん」
「そうだよ。そうだよな? 俺は間違っていないよな?」
 確認するように岬丸は訪ねた。
「ああ、そうとも。お前の信じた道を行くといい」
 カスタニが言う。
「ありがとうカスタニ。何だか元気ば出たわ」
 岬丸の顔がぱあっと明るくなった。
「そんなら俺、戻るばよって」
「ああ」
 岬丸は手を振ると、駆け出した。そうして霧の向こうに消えていった。
「変な子だったな」
 と、カスタニは呟いた。

 カスタニは島を出る。筏の道をしばらく歩いているとその間に少しだが霧が晴れてきた。時計の針が「6」を指して、日の光もだいぶ明るく、暖かくなったのがわかった。
 またシュゴッという謎の音が聞こえた。音の方向に振り返る。たぷんと海の中に何かが沈んだのがわかった。やはりその正体までは掴めなかったものの、ポケモンだな、とカスタニは確信した。
 歩くたびに筏が沈む。カスタニは進んでいく。見覚えのある建物――浮かび物が目に入った。粗末な戸が開く。老婆が出てきたのがわかった。
 なんだ、あの占いの婆さんじゃないか。そうカスタニが気がついたのとほぼ同時に老婆――ミチルもカスタニに気がついたようだった。
「なんじゃ。ずいぶん早いなぁ。お前さんが来ることはわかっていたが」
 とミチルは言った。
「寒くてね、目が覚めてしまったんです」
 カスタニが答える。
「ずいぶん霧が出ていたようだね」
「ええ、ずいぶん出ていました。今はだいぶ晴れたけれど五時ごろはかなり濃くて」
「うむ。お陰で海が見えんでな、難儀しておったところだがようやく見えそうだよ」
 ううむ、と唸って水平線を老婆は望む。海の向こうに目を凝らした。そうして、
「だが今日も期待できそうにないねぇ」
 と、言った。
「何を見ているんですか」
 カスタニが尋ねる。昨日から疑問だったことだ。それにヨウヘイが言っていた。直接聞いてみたらいい、と。
「島だよ」
 と、ミチルは答えた。
「島?」
「そう、島だ。我々キナギの人間は幻島と呼んでいる」
「まぼろしじま、ですか」
 ああ、そうだよ。とミチルは答えた。
「めったに見えない島でね。だから幻島と言うんだ。この方角で海を見ると見えることがあるらしい。らしいというのは私は見たことが無いからだ。私の父や祖母は二、三度見たらしいのだが、私自身はからっきしでね。見た者が出たという時に限って、出払っていたり、海が見れない時だったり、そんなんばっかさ。どうやら『声』が聞ける分だけ、そう天分には恵まれていないらしい。死ぬまでに一度くらいは見たいんだがね」
 おしゃべりだな、とカスタニは思った。少し聞いただけでこうもべらべらとしゃべるのは女というものの特性かもしれない、と。が、直後に考えを改めた。それを言うのなら昨晩の夜自分だって頼まれもしないのに語ったではないかと思い出したからだった。人にはある。話を聞いてほしい時、タイミングというものがある。
「あんた、どうして私達が海の上に住んでいるか知っているかい?」
 と、ミチルが言った。
「いいえ」と、カスタニは答える。
「遠い昔ね。ここにはちゃんと陸地があったんだよ」
 ミチルは語り聞かせるように言った。
「キナギに伝わる昔話さ。遠い昔ここには陸地があって、漁をしながら私達のご先祖様は暮らしていたというね」
「じゃあ、なぜ陸地は無くなったのですか」
「海の神様との約束を破ったから、さ」
「約束?」
「そう、約束。玉宝には絶対に手を出さない。それがキナギの漁民が海の神様に誓った約束だった。だが、約束は反故にされた。怒った海の神様はキナギの陸地を取り上げてしまったんだ」
「ああ、いかにも昔話ですね」
 カスタニは感想を述べる。玉宝、というのがわからなかったが、欲深い漁民の誰かが海の神様の宝物に手を出したということなのだろう。
「話はもう少し続く。その陸地ってのはね、泳いでいなくなってしまったと言うんだ」
「泳いで?」
「そう。鰭と尾をつけてな。はるか沖合いへ泳いでいなくなってしまった。まるで海のポケモンみたいにな。だけど時々かつて自分のいた場所をそっと見に来ることがあるらしい。だからごく稀にここから海を見るとその島が見えることがあるそうなんだ。だからそれを幻島って言うのさ」
 老婆はそう語りながら再び海を見た。そして、やはり見えないと呟いた。
 正直、荒唐無稽だとカスタニは思う。いや昔話の類にリアリティを求めても仕方ないのだが。
 しかし、なんとなくわかった気がした。キナギの人々が海に住処を浮かべている理由が。ここは彼らの土地なのだ。たとえ、陸地が失われたとしてもここは彼らの土地であるのだ。傍から見れば滑稽かもしれない。けれどキナギの人々はこの洋上こそが自分達の土地だと考えているのだ。
 海の向こうに旅立った恋人を探している――。海を見る老婆に対し、昨晩カスタニはそう発言し、そしてハズレだと言われた。が、それは中らずとも雖も遠からずだったのではないだろうか。
 彼らは期待しているのかもしれない。いつの日か泳ぎ去った陸地が戻ってくると。そうでなくても島が見にきたときに場所がわかるように、と。そう考えているのではないだろうか。
 それは海の向こうに旅立ってしまった恋人を待つ女、それと似てはいないだろうか。
 懸命に水平線を見つめる老婆を見て、彼はそんなことを思ったのだった。


 ジリリ、ジリリ、と黒電話が鳴る。
 男に報らせが届いたのはチョコレートの季節を過ぎた頃だった。あの講師や教授はいくつ貰っただの、あれは義理だ本命だなどという話題が下火になってきたころだ。
 カントー地方、タマムシ大学。
 この国における最高学府と言われるその大学に教授として籍を置くその男宛てに珍しい人物から電話が入ったのはそんな頃だ。電話の主は懐かしい苗字を名乗った。男にとってはもう三十年ほど聞かぬ名だったが、たしかに聞き覚えのある名前だった。
「おお、カスタニ? カスタニか?」
 受話器を取ると聞こえてきたのは、懐かしい声、声質そのものはどっしりとしているのに落ち着きの無いしゃべり方は昔のままで、ああ間違いないと彼は思った。
「おう俺だ。久しぶりだな」
 かつての「同郷」にカスタニは挨拶をする。
「よかった。お前、忙しいってウワサで聞いてたからよ。電話通じないんじゃないかって心配したんだ。受付のおねーちゃんにもかなり怪しまれたしな」
「で、なんだ。三十年ぶりにかけてくるくらいだからよほど重要な話なんだろ?」
 カスタニは問う。彼はいつだって結論を急ぐ男だった。論文は結論から書け。日ごろ面倒を見ている学生達にカスタニがしつこく教えてきたことだ。
「ああ、それがよ」
 と、電話越しの声が曇る。
「一体なんだ」
 急かすようにカスタニは言った。
「おう、あのな、落ち着いて聞けよ。ミヨコさんが亡くなったそうだ」
「…………ミヨコさんが?」
 少しの沈黙の後、彼は確認した。
「ああ。なんでも一年前くらいから入退院繰り返してたらしいんだがな、今朝自宅で亡くなったんだと。喪主は息子さんで、通夜の場所はシオンさくらホール」
「施設の隣のあそこか」
「そう。あそこ。まあ昔はボロっちかったがな。今は改装されててきれいなもんだぜ」
「通夜の日時は?」
「明日夜だ」
「……そうか」
 カスタニは少しばかり思案する様子を見せたが、やがて結論を伝えた。
「すまない。せっかく教えてもらったのに。俺は行けないよ」
「仕事か?」
「ああ、はずせない仕事がある。ジョウトに出張なんだ。二日掛かりでな」
「なんとかならないのか。だってお前……」
「残念だが」
「そうか……」
「本当にすまない。電報を打とう。香典と花を届ける。ご遺族と同期にはよろしく伝えてくれ。ああ、それと」
「それと?」
「伝えてくれて感謝している」
 カスタニはその後、二、三の挨拶をして受話器を置いた。
 本当にいいのか、と彼は聞いた。いいんだ、もういいんだと答えた気がする。
「だってお前、ミヨコさんのこと……」
「いいんだ。昔のことだよ」
 結局、カスタニは出張を選んだ。それは仕事優先の精神だったのか。あるいは意地だったのか。
 今になって思う。あの時、仕事を反故にしても駆けつけるべきだったのだろうか、と。
 しかし彼女とは高校を出て以来会っていなかった。今更と言えば今更だ。
 けれど、霧の朝、彼は言った。お別れは残された者にこそ必要だ、と。それこそが答えだったのではないか。
 結論は、出ない。


「あの婆さんに会ってきた」
 夜になって宿舎に戻り、カスタニはヨウヘイにそう報告した。
 テーブルには昨日と同じ貝料理を置いている。
「なんて言ってた?」
「キナギの漁民は約束を破って、島に逃げられたんだと。玉宝とかいうものに手を出して」
 カスタニは答える。
「おもしろいよね、その話」
「おもしろい? そういう類の話は嫌いだね。昔の人間ならともかく、今もその話にキナギ民が囚われているとしたら少し違うとは思わないか」
「そうかなぁ。俺はロマンがあっていいと思うけどなぁ。俺も見てみたいな、幻島」
「ふん、バカらしい」
 カスタニは吐き捨てるように言った。
「そういえば、今日の朝は霧が出てたんだってね」
 思い出したようにヨウヘイは聞いた。
「ああ、そりゃあ、もくもくと出てたぞ。雲みたいにな」
「俺も見たかったなぁ」
「いつまでも寝ているからだ」
 まったく、最近のガキはとでも言いたげにカスタニは返した。
 今朝のことを思い出す。ヨウヘイはマッスグマを抱き枕にして眠りこけていた。あれなら寒くて目が覚めるということもないかもしれない。寄り添う者がいるということは幸せなことであると思う。
 カスタニは貝を一口、口に運ぶ。バターの風味が口に広がった。
「ねえ博士、昨日の続き話してよ」
 ヨウヘイがせがんだ。
 貝を咀嚼して飲み込む。殻を海に還した後に、今夜もカスタニの独白が始まった。

 できるだけ早く、ここを出よう。
 高校に入った直後だった。若き日のカスタニはそう決心した。どちらにしろ、高校まで出たらそうなる決まりではあったが、出来るだけ早いほうがいいと思った。
 ここには庇護はあるが、自由が無い。自由を手にするためにはさっさと独立したほうがいい。ここにいる限り、世界の隅っこに取り残されたまま、無視され続けることになるのだと。
 幸い高校まで上がったなら門限はずいぶんと緩和される。カスタニはいくつものバイトを掛け持ちした。そうして学年が一つあがるころになって目処がつき、彼は退寮した。
 今までお世話になりました。自分はここを出て行きます。そのように言って。
 カスタニは決めていた。次のステップを。奨学金をとって、大学へ行く。できればそう、学費が安くかつ一番いいところがいい。
「今となってはずいぶん無理したと思う。まぁ若かったから出来たことだな」
 カスタニは語った。
「博士はどうしてそう決心したんだろう」
「そう決心した理由は、主に二つある」
 一つ目は、昨日話した理由からだった。
 カスタニを含む施設の子ども達は世間から隔絶された存在だったから。いや、正確にはカスタニ自身がずっと省みられない存在だったからだろう。だから見返してやりたいという気持ちがあったのだろうと彼は語った。
 それは自分を引き取ろうとしなかった親戚達、空気のように扱ったクラスメート達へのあてつけ、反発のようなものだった。もう会う機会などなかったろうが、後悔させてやりたいという気持ちがあった。あの時はもったいないことをした。逃した魚は大きかった、と。
「だがもう一つあった。どちらかといえばこちらが大きい」
「どういう理由?」
「単純な話だよ。高校に入って、好きな人が出来たんだ」
 するとベッドからヨウヘイが身を乗り出した。
「おお! 青春!」
「うるさいな」
 と、カスタニは牽制する。昔のことだよ、と強調した。
 まったく、人っていうのはどうして恋のことになると急に関心の度合いが上がるのか。
 だが、話をはじめてしまった以上ここでやめるというわけにもいかなかった。
「名前をミヨコと言った。美人かといえば中の少し上くらいだったが、やさしい子でな。誰とも分け隔てなく接するというのか、とにかくことあるごとに声をかけてくれたよ。いや、別に私だけじゃなかったんだけどな」
 いわゆる「普通の」人々に距離感を感じていたカスタニだったが、それで距離が縮まった気がした。なんとなく、だが。
 自分を隅に隔離し、無視していた世界で、彼女は声をかけてくれた。
 たとえば、学校の前で会った時、朝の教室で会った時。
「おはよう、カスタニ君」
 と、彼女は言った。名前までつけて。
 カスタニは世界が開けた気がした。急に朝日が差したように明るくなって、世界に受け入れられたような気がした。
「だからな。彼女と対等になりたかったのさ。世界の片隅に庇護されている私ではなく、この世界の一員としての私として彼女に接したいと、そう思ったんだ」
「彼女に告白するために?」
 ニヤニヤしながらヨウヘイは聞いてくる。
「いちいちうるさい奴だな! ……まぁでも、そんなところだと思ってもらっていい」
 それでカスタニは努力した。なるべくお金を稼ぎ、早く寮を出る。そうして彼女に向き合おうと。あの頃は食べ盛りだったのに、ランチはモーモーミルクの小瓶一本とメロンパン一つだけだった。その大事なメロンパンをピジョンに盗られ、子のポッポ達に食われてしまってからというもの、ポッポが大嫌いになったとも話した。
「それですっかり奴らが嫌いになった私だったが、ポケモンが稼げると知ったのもこの頃だ」
「稼げる?」
「バイト先で困ってるのがいてな」
 と、カスタニは続けた。
 ウインディを飼っている叔母が、腰を悪くしてしばらく入院することになった。その間に運動不足になるといけないからボールから出して散歩するように依頼された。が、頼まれた本人は犬型ポケモン恐怖症だった。だから、バカでかいウインディなどとてもだめだと言って泣きついてきたのだという。
「そこで私が散歩、世話全般を引き受けることにしたのさ」
 幸いその家には数々の飼育書が用意されていたからやりかたは分かった。当初は言うことを聞かなかった巨大な赤犬だったが、カスタニもだんだんと扱い方に慣れてきて、退院してきた依頼主からはお行儀がよくなったと褒められたくらいだった。
「報酬を受け取って、後でこっそり開いた時には驚いたね」
 と、カスタニは語った。それでバイトをそういった方面に切り替えた。依頼主の紹介もあって、いい具合に稼げるようになった。当時はポケモン関係の法整備や支援システムも遅れていたから、そういう穴場でそれなりに稼ぐことが出来たのだ。
 もちろん勉学において手を抜くわけにもいかなかった。仕事の合間合間を縫ってカスタニは必死に勉強した。全国テストで優秀な成績をとれば、奨学金が手に入る。カスタニにはそのお金が必要だった。
 問題は大学に入ったとして、どの分野を選考するかだったが、ポケモン関係だろうとはおぼろげに思っていた。
 そうして彼の進路を決定的にする事件は起きた。
 いや、事件といっても人が死んだり、怪我をしたりしたわけではない。けれどカスタニにとってそれは事件だった。
 ある日、偶然に学食で一緒になったミヨコが言った。
 ひさびさに恋人が帰ってくる。長いトレーナーの旅から帰ってくる、と。
「うわぁ、撃沈」
「うるさいな」
 カスタニは悪態をついた。
 チャンスだ。想いを伝えるために待ち合わせの約束を指定してしまおう。そう考えていたカスタニは見事に撃沈した。
 できることならば今すぐにでもトレーナーになってそいつを打ち負かしてやりたかった。が、カスタニはポケモンを持っていない。施設で育ったカスタニはポケモンを持つことが許されず、トレーナーになる為のことは何もしていない。それにもう自分は適齢期を過ぎている、そう思った。絶対ではないにしろ、小さい頃からやっていたほうがトレーナーの才能は開花しやすい。それは統計的な事実であった。
「そうなんだ。よかったね」
 顔は笑っていたカスタニだったが、腸(はらわた)が煮えくり返っていた。
 その男の素性も何も知らなかったが、対抗意識がめらめらと湧いた。
 トレーナーと言うからにはポケモンバトルの頂点を目指すのが宿命だ。ならば自分は違うポケモン分野から、頂点を目指してやる。決してお前なんかには負けない、と。彼はその時そう決心したのだ。
 ああ、やっと対等になれたと思ったのに。
 この女性(ひと)にとっても、自分はなんでもなかったんだ。
 まだだ。足りないんだ。対等になるだけじゃだめなんだ。
「そのときに、見返したい奴らのその中にミヨコが加わったんだ」
 カスタニは語った。
 その後カスタニは勉強を重ね、この国の最高学府、タマムシ大学の難関区分に合格した。理系で最も難しいといわれる、医者なども目指せる区分だ。カスタニは迷わずポケモン――携帯獣を学べるコースを選択した。成績はすこぶる優秀だった。そして彼は着実に成果を上げ、教授職にまでのし上がることになる。
 まるで、かつて自分を捨てた彼らに見せつけるかのようにカスタニは結果を出していった。
 高校時代のアルバイトからカスタニが学んだ通り、この時期に爆発的な躍進を遂げた携帯獣研究は成果を出せば儲かった。さらには国の支援制度がそれを後押しした。特に医療分野がその筆頭だった。
 カスタニは若き研究者達にアイディアを与えてやり、共同研究という形で面倒を見てやった。そのリターンは後々になって何倍、何十倍にもなって返ってきた。
 様々なプロジェクトを同時進行し、ポケモンに関する技術において数々の特許を取った彼には多額の金が流れ込み、同時にそれは学科を潤すことにも繋がった。今や携帯獣学で名を知らぬものはいまい。挙げた成果からも、影響力からしても、次期学部長の座が確実視されるまでに至った。
「そんな私に電話が入ったのはつい一月ほど前だった」
 カスタニは語りの速さとトーンを落として言った。
「施設の同期が教えてくれた。ミヨコが病死したと」
 カスタニは静かに続ける。
「……私は葬儀に出席しなかった。ジョウトに出張があって行くことができなかった。電報を打って花と香典は送ったがな」
 カスタニはごろりと、向きを変え、ヨウヘイに背を向けた。
「その時から何か分からなくなってしまった。私はどこを目指して、どこを向いて生きてきたのか」
 葬儀に出なかったからなのか、彼女が死んだからなのかは分からなかった。だがそれ以来、妙に生きた心地がしないというのがカスタニの感じるところであった。張り合いがないとでもいうのか。ホウエンの長期旅行なんて気まぐれを起こしたのもそういう為だろうと彼は思う。
 だが、言葉にすることでカスタニの中で散らかっていた何かが少し片付いた気がした。通路に落ちた紙くずを拾い、床から積み上がった蔵書を本棚に戻す。そうやって、人が一人通れる通路を確保した程度には。
 ――お前さん、道に迷っているね。
 今ならばミチルの言っていた事が受け入れられる気がした。
「辛気臭い話をしてしまったな」
 と、カスタニは言った。返事は無かった。
 目を閉じる。ヨウヘイが返事に困っているのか、あるいは眠りについてしまったのかにはあまり興味が無かった。ただ、吐き出したことで少しだけ肩の荷が降りたような気がした。


 一夜が過ぎ、次の日も寒さで目が覚めた。
 テーブルを挟んだ反対のベッドを見ると、やはりヨウヘイはマッスグマを抱き枕にして眠っていた。昨日と違ったのはマッスグマの頭が入り口に向いていたことか。額の矢印がこっちだとでも言うようにドアの方向を指していた。ドアを開く。寒さの為か今日も霧が立ち込めていた。
 今日は一段と濃いな、あたりを見回しながらカスタニは思う。
 カスタニは昨日と同じように筏を渡り、食堂に皿を返却した。時計を見る。昨日と同じで短針が「5」を指している。ふうむ、どうするか。またあの神社にでも行ってみるか。そう思ってカスタニは霧中に身を投じた。
 二回目というものは慣れるもので、さほど時間をかけずに彼は島に到着した。
 まっすぐ歩いていくと珊瑚の石垣があって、今度はそれに沿って歩く。ほどなくして鳥居のシルエットが姿を現した。すると突如、がらがらという鈴の音が耳に響いた。
「岬丸か?」
 霧中でカスタニは声を発す。するとすぐに、声が返ってきた。
「その声、カスタニか」
 霧の中で何かが動いた。ぼんやりとしたシルエットしか見えなかったが、声は確かに岬丸だった。
「久々だの。もう別の場所に旅立ったのかと思っていたが」
 霧の中で岬丸が言う。
「何を言ってる。昨日会ったばかりじゃないか」
 怪訝な表情を浮かべ、カスタニは答えた。だが岬丸は言い張った。
「阿呆なこと抜かすな。わしとおまんが会ったんは一月前じゃろうが」
 意味が分からなかった。
「……? まあそういうことにしておいてもいいが……」
 やはりおかしな子どもだ、とカスタニは思う。
 カスタニは霧中を通り、岬丸に近づいていく。あいかわらず粗末な着物を身に着けた姿だった。だが……
「お前……少しやつれたんじゃないか?」
 と、カスタニは思わず尋ねてしまった。霧中から浮かび上がった岬丸は昨日とはまったく別の顔つきになっていた。一ヶ月だと岬丸は言ったが、どちらかといえばその数字が正しいように感じられた。
「カスタニ……」
 と、岬丸は口を開いた。
「カスタニ、わしの友達が……宝丸が死んだ」
 彼は力なく言った。
「……死んだ?」
「いや違う。殺された。宝丸は漁師達に殺されてしもうた」
「何があったんだ」
「もうこの島はおしまいだ。大人達は善悪の区別がつかなくなっちまった。油欲しさに狂っちまったんだ。そりゃあ、わしだって宝丸のおっかあは仕方ないと思ったさ。宝丸のおっかあはでかくなって玉宝じゃあなくなったんだ」
 声がわなわなと震えていた。
「じゃがあ宝丸は違う! あいつはまだ玉宝なのに、やつら見境無く銛で突きやがったんだ! 玉宝に手をかけてしもた! この島はもうおしまいだ!」
「落ち着けよ」
 カスタニはしゃがむと視線を合わせるようにした。そうして両腕で岬丸の肩をつかむ。小さな肩はがたがたと震えていた。
「宝丸だけじゃない! 宝丸の兄弟や友達もみんなみんな死んじまった。殺されちまった。玉宝には手を出さないのが約束だったのに、約束を破っちまった。油欲しさに約束を破っちまったんだ!」
「…………」
 カスタニには理解が出来なかった。岬丸が何を言っているのか。理解ができなかった。
 ただ一つだけ引っかかった点がある。「玉宝」だ。
 何かの宝物……文化財的なものかと勘違いしていた。だが、岬丸の言葉から推察するにそれは生き物――おそらくはポケモンだ。玉宝だったという宝丸。その母は大きかったということだから、それはおそらく進化系なのだろう。
 それなりに大きいポケモンで、油の取れるポケモン……カスタニは持てる知識を搾り出した。だが……。
 ああ、いけない。と、彼は恥じた。
 ここはホウエン地方。カントーとではポケモンが違う。何の目的も無いまま、何も考えずにぶらぶらと来てしまったものだから、生息ポケモンなどろくに調べていなかった。滑稽なことだ。何が次期携帯獣学科学部長だ。「専門外」にはことさら弱い。
「カスタニ、」
 岬丸は震えながら声を発した。
「昨晩、わしの夢枕に海神様がお立ちになった。そして海神様が言われたんじゃ」
「何と言った?」
「明日の火午(ひのうま)の刻が終わるまでに島を出ろ。海中に振り落とされたくなければ、と」
「海中に振り落とされる?」
「今日、わしがここに来たのは許しを乞うためじゃ。けんどとても許してもらえる気がせん」
 尚も震えながら岬丸は言った。
「だからカスタニ、お前も早く島を出ることじゃ。わしともここで別れじゃ。おまんとは短い間だったが……」
 岬丸は肩に手をやって、それを掴むカスタニの手を握った。小さな手はひどく冷たかった。
「どうか、達者でな」
 そう言って岬丸は、するりとカスタニの手を離れてしまった。そうしてぱたぱたと鳥居に向かって駆け出した。ふっと霧に混じるようにその姿は消えてしまい、追いかけたけれど見つからなかった。
 直後、ぐらりと島が揺れた。
「地震か?」
 カスタニはそう呟いた。そうして途端に、自分は立ち入ってはいけない場所にいるのではないかとふとそんな気がした。そう思った途端に無性に恐ろしくなって、駆け出していた。
 彼は夢中になって海に向かい走っていった。海に行き着くと、飛び石から飛び石へと跳ねるように筏を渡り、なるべく島から離れようとした。海の水を踏みながら、彼は霧中を夢中で走ってゆく。あやうく海に落ちそうになりながら、それでも彼は走ってゆく。
 同時に記憶が駆け巡った。
 自分を見捨てた親戚達の事、疎外するクラスメート達の事、世界の隅に追いやった世間の事、顔も知らぬトレーナー男の事、そしてミヨコの事……駆けるカスタニの頭に走馬灯のようにそれが蘇った。彼らを見返してやりたくて、この道を駆けてきた。一心不乱に駆けてきた。
 彼らは見ていたのだろうか。自分の生き様を。後悔させてやる。見せ付けてやる。そうやって虚勢を張って生きてきたこの五十年を。
 カスタニは駆け足で、時に急ぎ足で筏の道を波打たせ渡っていく。徐々に視界が開けてきた。霧がだんだんと晴れていくのがわかった。
 気がつくとカスタニは、キナギの占い師、ミチルの家の前に立っていた。
「……また来ちまった」
 カスタニは悪態をついた。
 ミチルはまだ起きてはいないのだろうか。粗末な家の粗末なドアは閉ざされていた。
「ふう。まあ、ここまでくれば……」
 訳の分からない恐怖に支配されていたカスタニはほっと一息をついた。情けないものだ、と思う。もう五十になる自分はたいていのことに驚かない自信があったのが、と。
 そうして気が緩んだカスタニであったから、誰であっても追い討ちをかけるのは簡単であった。
 シュゴッ。ブシュウウウウウウウ!
 途端にカスタニのすぐ後ろで海水が吹き上がったものだから、振り返ったカスタニは腰を抜かした。
 吹き上がる謎の水柱。海水は3メートルほど吹き上がると、10秒ほどその高さを保っていたが、次第に勢いを失って、落ちていった。
「な、な、な……」
 何が起こったんだとあっけにとられるカスタニの目の前には揺れる海面があった。直後に海面が盛り上がり、水がざあっと落ちていく。そこから大きな丸い生物が顔を出した。直径にして2メートルはあるだろうか。藍色の肌、クリーム色の腹のポケモンだった。丸い身体の中心からすこし前方に二つの穴があいている。
 シュゴッ! 穴が鳴って、霧状の水が吹き出した。
「これだったのか!」
 カスタニは叫んだ。
 昨日の朝、霧の中で何度か聞いた謎の音。その正体は今自分の目の前に突如現れたこのポケモンの仕業だった。浮かび上がったポケモンがしてやったりという風にずらり並ぶ歯を見せて、口角を上げ、にんまりと笑みを浮かべた。玉のような丸い身体。絵で描いたたら間違いなく点を打って終わりのつぶらな瞳。とりあえずどこまでが顔なのだろう、カスタニは非常に迷ったと後に語る。
 だが、何より最初に思ったのは「でかい」ということだった。直径にして2メートルはある玉の体は、まるで小さな浮島だ。波乗り用のポケモンにしたなら大いに役立つことだろう。
「なんだい、朝っぱらからうるさいねぇ」
 腰を抜かすカスタニの後ろでドアが開く。
「おや、あんたは」
 出てきたのはやはりというかミチルだった。
「お、ホエルコじゃあないか。なんだいお前さん、情けないねぇ。ホエルコに脅かされたのか」
「ホエルコ?」
「そうだよ。このへんじゃあ時たま見かけるね。昔話の玉宝っていうのはこのホエルコのことさ」
 ミチルはしょうがないねぇという風にカスタニを起こして言った。
「しかし男のくせに情けない。こんなんじゃあホエルオーに遭遇した日にゃあ、気絶だよ。気絶」
「ホエルオー? もしかしてこれの進化系か何かですか?」
 カスタニが問う。
「ご名答。進化するとね、これがもっとでかくなるんだよ」
「4メートルくらいですか?」
 とりあえず倍の数字を言ってみる。
「うんにゃ。14メートル」
 がくり、とカスタニは脱力した。それはもはやポケットモンスターではないと思うのだがいかがであろうかとカスタニは問う。いや、そういえば聞いたことがあったかもしれない。ホウエンにはとてつもなく大きなポケモンが生息していると。
 けれど、カントーで、それも一般家庭やトレーナーがよくバトルに出すポケモンを扱っていた所為か海の、しかもホウエンのポケモンはノーマークだった。
 世界の隅から脱出した気になっていた。だが所詮、狭い世界に生きていたのではないか。今更にカスタニは自身の無知を恥じた。
「まぁ尤もこのへんじゃあ見かけないがね。奴らよほど外洋にいるのか、キナギで見かけるのはホエルコばかりだよ。このあたりにもすごく昔はいたらしいけどねぇ。いなくなってしまったんだと。捕り過ぎたのさ、油目当てにね」
 ミチルはそのように説明した。
 そうして、ああ、そうかとカスタニは理解した。岬丸の語った友達――宝丸の正体はホエルコだったのだと。だから宝丸のおっかあというのはおそらくホエルオーだ。岬丸もでかいと言っていたし、間違い無いだろう。
 ホエルオーか、とカスタニは頭の中で反芻した。せっかく来たのだ。ホウエンの土産に見ておくのもいいかもしれない。
「……そのホエルオーとやら、どこに行けば見れますかね」
「さあ、めったに見れないからね。ごくたまに129番水道にいると聞いたが。確証はないよ」
「129番ですか」
 それならミナモシティ行きの船だな。カスタニは見当をつける。いつもミチルが海を見ているその方向そのものだった。
 シュゴッ! ホエルコがまた潮を吹いた。それが別れの挨拶だったのか、満足げに笑うどこまでかわからない顔が海中に沈んでいった。
「ああ、それとミチルさん」
 カスタニは老婆の名を呼んだ。
「なんじゃい」
「この町に神社はありますか。喜凪神社ってところなんですけれど」
 カスタニは尋ねる。
 冷静さを取り戻した彼は、ある確認をしたいと思った。
 岬丸は言っていた。「島」はもうおしまいだ、早く「島」を出ろ、と。
 そしてもし、「島」というのが自分の思っている通りだとすれば――

「ここだよ。ここが喜凪神社だ」
 ミチルに案内されてカスタニが立ったのは、キナギタウンの南端にある、六畳間ほどの小さな筏の上だった。その中心にまだ真新しい小さな社があった。高さはカスタニの身長にも満たない。拝殿と本殿が一体になった簡素なものだった。
「他の町は歴史ある神社が多いのだけどねぇ。なにせ台風の度に飛ばされたり、沈んだりするものだから、その度に立替えさ」
 と、ミチルが言った。
 カスタニは拝殿に近寄ると腰を屈め、パンパンと二度かしわ手を打った。鈴は無かったから鳴らさなかった。

 ――どうか喜凪が元に戻りますように。
 ――どうか宝丸のおっかあが天に行けますように。

 ――どうか海の神様が許してくださいますように。

 ――どうか……

 カスタニは思う。かつて陸があった頃の拝殿にそのように岬丸は祈ったというのだろうか。自分が霧の向こうに見た、ホエルコと友達だと語った男の子は。
 もう行くことも無いのだろうと思った。たぶん島はもうあるまい。すべては晴れた霧の向こうに消えてしまったように思われた。
 カスタニは目を閉じ、ずいぶん長い間頭を下げていた。
 この町は自分に似ているのかもしれない、と彼は思った。
 見返してやろうと走り続けた自分。そして、鰭をつけ、尾を生やして泳ぎ去った島を待ち続ける町。
 ここは報われない場所なのかもしれない。台風の度に流されて、何度直したところで、もう島は帰ってこないのかもしれない。復讐したかった者達に顧みられなかった自分と同じように。だが、それでも町は続いていく。やがて時は移り、観光という新たな価値を生み出して。
 それを否定する気にはなれなかった。自分の歩いた道もまた同じように。
「何を願ったんだい」
「……岬丸と宝丸がもう一度会えるように」
「ミサキ……誰だい? それは」
 ミチルは不思議そうな顔をした。ずいぶん古風な名前だと思ったに違いない。
「昔ここに住んでたらしいです。たぶん」
 カスタニはしれっと答えた。
 直後、二人の後ろからぎしぎしと振動が伝わってきた。
「博士ー! ミチルさーん!」
 二人が振り向くと、ヨウヘイとマッスグマのベクトルが筏を飛び跳ねながら向かってくるところだった。
「こら! あんまり揺らすんじゃないよ。縄に負担がかかるだろ」
 ミチルがたしなめる。
「よお、お前今日はずいぶん早いじゃないか」
 カスタニが言った。
 ヨウヘイとベクトルは社の建つ筏に踏み入ってくる。
「実は、ビッグニュースがあって」
「ビッグニュース?」
 へへへ、とヨウヘイは笑った。小麦色によく焼けた顔が笑っている。岬丸が成長したらこんな感じだろうかとカスタニは思った。岬丸と初めて会った時もそう思ったが、二人の顔はよく似ている。
 そうして、老婆とカスタニの前にヨウヘイは何かを差し出した。
「じゃーん!」
 少年が突き出す両手に丸い丸いボールが輝いていた。
「そのボールがどうしたっていうんだ」
 カスタニは尋ねる。
「ああ、もうテンション低いなぁっ」
 ヨウヘイが察してよと言いたげに声を上げた。
「ホホウ、もしや狙いの獲物をゲットしたか」
 今度はミチルがそう言って、ヨウヘイの目はキラキラと輝いた。
「そーなんですよ! ベクトルが顔しつこく舐めるんで仕方なく起きたんです。それに外に出てみたら、ね!」
 少年は興奮気味に早口で説明した。要約するとマッスグマに起こされて宿舎の外に出たらホエルコが二、三いた。勝負を挑んだところ一匹が乗ってきて、三十分ほどのバトルの末にゲット出来た、とそういうことらしい。
 すでにカスタニは出払っていて、真っ先にミチルに伝えに行ったなら、カスタニと南に行ってしまったとミチルの息子が言うので、筏を渡り歩いて探していたのだという。
 なるほど、狙っていたのはホエルコだったのか。通りで陸生のマッスグマが苦戦するはずだ。カスタニは納得した。
「キュウッ」
 ベクトルが得意そうに声を上げた。あんたが主役、とでも言うように額の矢印がヨウヘイを指していた。


「じゃあね! 博士」
 海上からホエルコに乗ったヨウヘイが手を振り、ベクトルが尻尾を振った。
 ミナモ行きの船がプアーッと鳴って出発を告げている。
「おう、元気でな」
 カスタニもまた船尾から手を振った。
 船が出発し、波を裂いた。ヨウヘイの姿が小さくなる。ついに豆粒大になり、キナギの町も遠ざかって行った。
 海風が身体に当たる。カスタニは昼間を回想した。

「行くのかい」
 出発の前の昼に昼食を共にしながらミチルは言った。
「夕方の便で出るつもりです」
 カチャカチャとフォークとナイフを使って、大きな貝を切り分けながらカスタニが言う。この町の貝料理は大変に気に入っていたので、これと別れるのは少々惜しいと思った。
「……出口は見つかったのかい」
「まだです。けれどここに居るべき時は過ぎた。そんな気がします」
「ふむ。それでいい」
 貝を口に運びながら、頷き、ミチルが言った。
「それは凄腕占い師の勘ですか」
「まぁそんなところだね。時々海の神様からのお告げがあるんだよ。『声』がね、聞こえるんだ」
「海の神様の?」
「そうさ。まぁ、私が勝手にそう思っているだけなんだけどね」
 カッカッカ、とミチルは笑った。よく焼けた顔だったから少し出た白い歯がひときわ目立った。
「で? 海の神様はなんと」
「『南に進め。そしてよく目を凝らせ』」
「……えらく抽象的な」
「まぁまぁいいじゃないか。お前さん、ミナモ行きに乗るんだろ? ならば方角は一緒だ。私はね、『声』が聞こえたときは外したことが無いのが自慢なんだ」
 ミチルは再びカカカッと笑う。
「…………」
 やはり占い師の類は適当だ。信用できないとカスタニは思った。

 日は沈みやがて夜になった。満天の星の空を仰ぎながらミナモ行きの船は進んでゆく。キナギを離れてずいぶん時間が経っていた。
 船内のまずい飯を食べ、もう船室の毛布に包まって寝るかとカスタニは思い始めた。明日は129番水道に入る。ミチルは可能性は低いといっていたが、運がよければホエルオーが見られるかもしれない。
 だが、カスタニはそのように考えを巡らしている時、船内に放送が入った。
「お客様にお知らせいたします。朝方より本便は129番水道に入りますが、霧の発生可能性が高いとの予報。その場合、到着予定時刻より大幅に遅れる場合があります。海上の安全を期する為、何卒ご了承をいただけますようお願いいたします」
「ええー」
「ついてないなぁ」
 船内から失望の声が漏れた。
 また霧か、とカスタニは思う。急ぎの用もなかったから到着時刻など割合どうでもよかった。ただ、それだと海がよく見えないだろうな、ホエルオーは諦めるしかないかもしれない、とも思った。
 カスタニはさっさと船室に戻ると、毛布に包まって寝息を立て始めた。食事は不味かったが、キナギの宿舎よりは上等な毛布で、カスタニは心地よい眠りに誘われていった。


 ……カスタニ君、カスタニ君。
 どこからか優しい声が聞こえた。
 心地よい春の日差しの中、昼食を終えたカスタニは昼休みの机に突っ伏して眠っていた。
 疲れていた。連日のバイト、そして勉強で。
 暖かい。今しばらく寝かせて欲しい。
「カスタニ君、起きて」
 眠い。だが、声は尚も語りかける。
「起きて、カスタニ君。今起きないと見られなくなっちゃう。だから起きて」
 見られなく? カスタニは眠い頭の中にはてなマークを浮かべた。
 何を言っているんだい。なぜそんなことを言うんだい。ミヨ……

 はっとカスタニは目を覚ました。
 ベッドの脇に置いておいた眼鏡を拾い、かける。
 何かにせかされるように起き上がった。
「ミヨコさん……?」
 と、彼は口に出した。まったく、未練がましいものだと思う。
 カスタニは洗面台に立つと顔を洗った。
「そういえば、霧が出てるって話はどうなったのだろうか」
 カスタニは階段を駆けていく。上の階に上がって甲板に出る重い扉を開いた。夜間は出入り禁止の甲板だったが、すでに鍵は外れていた。
 びゅうっと冷たい風がカスタニの身に染みた。やはり朝は冷え込む。
「すごい霧だな……こりゃあ下手に進めないぞ」
 と、カスタニは呟いた。事実、船は様子見をしているのかこの場に留まっていて、視界は白く、進む先はまったくと言っていいほどに見えなかった。カスタニは甲板へ出る。船の先頭へやってきて、真近の海を見た。
 ふむ、とカスタニは声に出した。やはり、ごく近くであればおぼろげに見ることが出来る。
 身に染みる寒さを感じながら、海面を観察する。
 冷やされた水蒸気の漂う中、色の無い波がゆらゆらと揺れている。
「期待しても仕方ないか」
 カスタニはこぼした。
 が、その直後、ざばんという大きな音が耳に入ってカスタニは視線を音の方向に移した。
 黒い海の中、巨大な飛行船フォルムの生物が半分ほど身体を出し、洋上を移動していた。
「もしや」
 霧中に彼は目を凝らす。黒い水面を航行する飛行船は海水という名の雲から身体を持ち上げ、ジャンプした。
 次の瞬間、彼が見たのは大きな音と共に上がる大きな水飛沫であった。
「おお……」
 カスタニは感嘆の声を上げる。
 大きい。何が大きいって、スケールが大きい。
 目測でもその大きさはゆうに10メートルを越すと思われた。
 ――遭遇した日にゃあ、気絶だよ。気絶。
 ミチルの言葉を思い出す。
 キナギで出会ったホエルコは大きかった。だがその大きさもこれの前には霞んでしまう。
 ホエルコが小さな浮島ならば、この生物は島だった。れっきとした一つの島。きっと人が暮らせてしまうほどの。
「間違いない……ホエルオーだ! こいつが、こいつが……そうなんだ!」
 カスタニは叫んだ。それはもういつが最後だったか思い出せないワクワク、ドキドキという胸の高鳴りだった。
 そして、カスタニは気が付いた。海の中にいるのは一匹だけではないということに。一匹を見つけたことで芋蔓式にもう一匹、さらにもう一匹が見つかっていく。Y字の尾があちらこちらに覗いた。玉のようなホエルコには無い特徴。それは霧の中でも分かりやすいシルエットだった。
 群れだ。ホエルオーの群れだとカスタニは確信した。霧中にあってその全貌は掴めない。だが全体に二十や三十はいるのではないかと思われた。
「おや、」
 全体を見通して、カスタニは妙なことに気がついた。霧の向こう、シルエットが見える見えないのぎりぎりのラインに大きな島が見える。……ような気がする。
 だとすると航行ルートは危うくないだろうか、とも思った。今は留まっているようだから構わないが。
 そんなことを考えながら眺めていると、にわかにそのシルエットが動いたような気がした。
 そうして彼は見た。
 白く濃い霧の向こうでホエルオーのそれと同じ巨大なY字が揺れたのを。
「……、…………」
 状況が飲み込めず、カスタニはしばし無言になった。

 かつて、約束を破ったキナギの漁民は土地を取り上げられるという海の神様の罰を受けたという。
 玉宝――ホエルコには手を出さない。その禁を破ってしまって。
 だから島は水平線の彼方に泳ぎ去った。鰭と尾をつけて、泳ぎ去った。

 カスタニは記憶の断片をほじくり返した。
 ミチルは確か、一言も言ってはいなかった。それがホエルオーだった、とは。
 だが……だがしかし……。
「……まぼろし、じま…………」
 ぼんやりと霞む巨大なシルエット。それはやがて霧中へ消えて、もう二度と見えることがなかった。
 カスタニは霧中の甲板に突っ立ったまま呆然としていた。
 いつまでもいつまでも、カスタニはただ立ち尽くしていた。