8.

 意識が戻った。
 まだ瞼は重く閉じられているけれど、瞼を通る光がまぶしかったから、周りはずいぶんと明るくなっており、日はとっくに昇っているのだとわかった。
 だがトシハルの目覚めは悪い。昔から低血圧なのだ。だから覚醒したとわかっていてもなかなか行動に移せない。
 にしても妙に周りが騒がしい。潮騒に混じって何かの鳴く声が響いている。なんだか妙に身体が重い。気持ちとしてはもう少しゆっくり寝ていたかったのだが、どうにも不快感のほうが勝っていたようで、トシハルはしぶしぶと目を開いた。
 すると、なぜか目の前にうつっているのはドアップのキャモメの顔だった。
 キャモメはトシハルの眼前で一声、ミャア、と鳴いた。
「うわあっ!」
 びっくりして、思わず彼が飛び起きると、バサバサっとキャモメ達がトシハルを避けるように飛びのいた。どうやら身体の上に何匹か乗っかっていたらしい。どおりで身体が重かったわけだと彼は理解した。
 見ると自分達が乗っているホエルオーの背中にはたくさんのキャモメ達が止まっていて、青い背中が白い羽毛で染まっているところだった。
「おはようトシハルさん、ずいぶんゆっくりね」
 少し離れたところからアカリが言った。鶏頭も一緒だった。
 彼女の頭の上にキャモメが一匹とまっている。その周りにもキャモメ達がたかっており、バシャーモと彼女の服の赤がよく映えていた。
「……おはよう」
 トシハルは寝ぼけた顔で返事をした。
「で、このキャモメの集団は何?」
「……なんか、朝食がわりにポロック食べてたら集まってきちゃって」
 もぐもぐと口を動かしながら彼女は言った。
 ポケモン用の菓子なんだけど結構いけるのよ、と彼女は言った。自分が納得したものなら手持ちのポケモンたちもよく食べるのだと彼女は続けた。
「もっとも、半分は海上に突如島が現れたもんだから、ていのいい休憩場だと思ってるみたいだけどね、あなたも食べる?」
 そう、アカリが勧めるのでトシハルも食べてみたが、アカリがうまそうに食べている赤い色のそれはものすごく辛くて、騙されたと彼は思った。げえげえ言っていたのを見かねて渡されたピンク色のものは、なかなか甘くておいしかった。それを見たアカリが「あなたってきっと臆病な性格なのね」と、言ったが、トシハルには意味がわからなかった。
 やがて、アカリの持つポロックケースが空になると、キャモメ達も次第に飛び去っていった。
 トシハルは真新しい寝袋をキャリーバッグにしまうと、栄養ドリンクを取り出して一本飲んだ。
 アカリが飲みたそうにこちらを見ていたので一本渡したら、バク用にもう一本欲しいというからさらに追加で一本渡してやった。彼女と一匹は同じようなポーズでごくごくとドリンクを飲むと、同じタイミングでぷはーっと息を吐いた。まったく飼い主に似るとはよく言ったものだ、とトシハルは思った。彼らの息はぴったりだった。
 アカリは他のポケモン達も出して、朝ごはんにした。それが済むとグラエナとライボルトがうきくじらの背中を走り回りはじめた。サーナイトは端のほうに静かに腰掛けると潮騒に耳を澄ませている。オオスバメのレイランはトシハルに再びリボンを見せ付けてから飛び立つと、ぐるぐるとホエルオーの周りを旋回しはじめた。
 ホエルオーの背中に座ってアカリは静かにそれを眺めていた。穏やかな風が彼女の髪を揺らす。リラックスしている様子だった。
 自分がミナモシティに引き篭もっていたその間も、彼女はずっとこうやってホウエン中を旅して回っていたのだろうか。トシハルはその旅路に少しだけ思いを馳せる。ときどき鯨の背中の上をキャモメ達の影が横切っては消えた。
 昨日のことを思い返す。父の存在が重荷だと。誰も私自身を見てくれない、そう彼女は語った。
 決して彼女はポケモンが嫌いじゃない。父親もポケモンバトルも嫌いなわけではないのだろう。ただ、そう。息苦しかったのだと思う。アカリのその心を知ったその時に、トシハルの胸には刺さるものがあった。
 僕達は似ているのかもしれない。形や立場は違うけれど。
 アカリには言わなかったけれど、トシハルはそう感じていた。
 トシハルと少女は一時的な雇用契約を結んだ。だから今この時を共にしている。だが、トシハルを島に送り届けた時に彼女の仕事は終わる。その時彼女はどうするのだろう。ホウエンに戻るのだろうか。
 きっと彼女は強い。ポケモンリーグで優勝するくらいの器だったら、どこでだってやっていける、生きていけるに違いない。けれどトシハルは若きリーグチャンピオンの行く末を密かに案じた。彼女にとっては余計なお世話かもしれなかったが。
 本当にしょうもない。何を考えているんだか。彼女はポケモンを扱う才能にあふれた女性(ひと)だ。凡人に生まれた自分、逃げ出した自分とはそもそも違うのだ。そんなことはわかっていたけれど、それでも彼女に自身をだぶらせていた。
 アカリはポケナビを取り出し、スイッチを入れる。GPSで現在位置を確認した。
「だいぶ進んだわね。このまま何もなければお昼ごろには着きそうよ」
「え? あ、そ……そうかい。順調そうでなによりだ」
 トシハルは答える。
 その返事はあまり歯切れがよくなかったから、アカリは訝しげな目を向けた。
 着く。昼には島に到着する。
 トシハルが何かに身構えているようだった。波が飛沫を立てていた。

 ポケナビの時計が午後を知らせて、彼らは軽い昼食をとった。オオスバメも獣達も飛んだり走ったりするのに飽きて、おなかがいっぱいになると目を細めて日光浴をはじめた。
 うきくじらの背中から見える景色はあいかわらずだったが、島には確実に近づいているはずだった。
「ねえ、知ってる?」
 トシハルはアカリに問いかける。
「何?」
「水平線が見える距離。僕が海岸に立って見渡すことの出来る距離は、3キロちょっとって言われてるんだ。これには計算方法があるのだけど、基本的に視点が高くなればなるほど見える距離が長くなる。僕達の目の高さがホエルオーの上半分を入れて4メートルくらいだから、計算すると……そうだな。約7キロだね。残り7キロメートルになれば島が見えるはずだよ」
「へえ」
「……昔ね、博士に教えてもらったんだ」
 トシハルは懐かしむように言った。
「だからね、そのバシャーモの肩に乗せてもらえば、もっと遠くから見れるはずだ。そうなると……だいたい8キロというところかな。実際の島には高さがあることを考慮すると、残り10キロになればもう見えるかもしれない。残り10キロ地点になったら一度進路を見てみるといい」
 そう言って、彼は遠い昔を回想した。

 博士は少年を肩車すると、問いかけた。
 ――おうい、トシハル、どうだ? 見えるか?
 ――うん、見えるよ! ホエルオーがね、二匹見える。並んで泳いでいるよ。親子かな。兄弟かな。それとも恋人かな?
 ――さあなぁ、お前はどう思う?
 ――うーん、わからないや。
 ――わからない時はな。想像するんだトシハル。想像することもまた訓練なんだぞ。

 結局それにどういった結論を出したのか。今はもう覚えていない。
「ねえ、トシハルさん聞いてもいいかな」
 進路を見つめながらアカリは言った。
「なんだい」
「あなたは島を飛び出したっきり十年以上帰らなかったのよね」
「ああ、そうだよ」
「それならどうして?」
 アカリが聞いた。それは核心をつく質問だった。
「十年以上ずっと帰らなかったのに。それなのにどうして、急に会う気になったの? 船を待たずに私に依頼してまで、どうして海を渡る気になったの?」
「…………」
 トシハルは急にまた押し黙ってしまった。
 聞かないほうがよかったかしら。彼女は一瞬そう思ったが、けれど興味のほうが勝ったから、訂正をしてやっぱりいいわなどとは言わなかった。自分もあと十年経ったのならこのような気持ちになるのだろうか。トシハルの中にひとつの答えを見出そうとしていたのかもしれない。
「確かめなくちゃ、いけないから」
長い沈黙の後にトシハルは重い口を開いた。進行方向から海風が吹き付ける。
「……確かめる?」
「そう。僕は確かめるために海を渡ったんだ」
 アカリの視線が動いた。まじまじとトシハルを見る。
 海風が吹いて彼女の栗色の髪が風に揺れた。
「それは、あなたの気持ち? それとも博士の気持ち?」
「………………」
「別に、そこまでは答えなくてもいいけど」
 再びトシハルから視線をそらし、海を見る。彼女なりの配慮なのかもしれなかった。
 海と空が続く。海を縫うようにしてホエルオーが進んでいく。
「トゥリッ!? トゥリリィ!」
 突如、日光浴をしながら目を細めていたオオスバメのレイランが顔を上げ、鳴いた。何かを察知したらしかった。鶏頭や他のポケモン達も気が付いたらしく、同じ方向を見る。
 その直後、ホエルオーが目指す方向からピューイという高く澄んだ鳥の鳴き声が聞こえてきて、トシハルとアカリはその方向を見た。
 ほどなくして、空の彼方に小さな影が見えた。影はすぐに大きくなって、やがてホエルオーの上空を輪を描くように旋回しはじめた。
 大きな鳥ポケモンだった。ホウエンに多く生息するオオスバメとは違う姿。尾は短く、代わりに長く立派な冠羽が潮風にたなびいている。レイランはますます興奮した様子で、バサバサと翼を羽ばたかせながら短い鳴き声を頻繁に上げた。
「ダイズ……? お前、もしかしてダイズか!?」
 鳥ポケモンのシルエットを捉えたトシハルが叫んだ。
「ダイズ、あれが……」
 アカリもその姿を凝視する。
 ピューーーーイ。
 トシハルの声に応答するように鳥ポケモンが返事を返した。
 大きく翼を広げたそれは、とりポケモン、ピジョットの姿だった。ピジョンからさらに成長したポッポ系統の最終進化系だ。その大きな鳥影がうきくじらの真上を通過する。
 かと思えばすぐにまた戻ってきて、高度を落とすとその背中に着地した。
「ピュイ! ピュウイイッ!!」
 背中の上の全員が新たな乗員に注目する中、進行方向を見ろ、とでも言いたげにピジョットは冠羽を高く上げ、翼を広げると、鳴いた。
「バク、」
 アカリが思いついたようにバシャーモに言った。鶏頭は少女を担ぎ、肩に乗せる。そうして少女は進行方向に目を凝らした。
「トシハルさん、見えた! 島、見えたよ!」
「…………10キロか」
 トシハルは小さく、けれど感慨深そうに呟いた。




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