●赤い花と黒い影


「私と、付き合ってくれませんか」
 本心は隠したまま、私は彼にそう言った。


 私には昔から人には見えないものが見えるらしい。たとえば私が街の通りに出る。そこにはたくさんの人々が行ったり来たりしている。私は人ごみの中に目を凝らす。すると見えてくるのである。
 ほら、あの男の人の背後に一匹、あの女の人にも一匹……そんな具合に私には見える。彼らはしばらくの間、ターゲットの背中を追い回すとすっと離れていく。そしてまた適当な人間に引き寄せられる。人の数が多ければごちそうに出会える確率も高くなるから、この通りに彼らは頻繁に現れる。もちろん道行く人々はその存在に全く気が付いていない。もしも姿が見えたなら大騒ぎになるだろう。彼らだってそんな事は分かっているから、姿が見えないようにしているのだ。
 でも、ごくたまに私のような人間がいる。見えなくてもいいものが見えてしまう能力を厄介に思う人もいるそうだが、私はこれを有効活用しようと思った。この能力を使えば他人には出来ない研究が出来るに違いない。だから私は「彼ら」を研究テーマに選んだのだ。
 彼らは恨みや妬みといった感情に引き寄せられると言われており、てるてるぼうずに角を生やすとその形になる。もちろん、てるてるぼうずみたいに白くないから、色を付けなくちゃいけない。その色は青とも黒ともつかない色で、私は夜色と呼んでいる。太い黒マジックで描いたような眼には、強膜、虹彩、瞳孔にはっきりとした色分けがあって三様の輝きを放っていた。
 角を生やし、夜色の衣を纏ったてるてるぼうず、三色の瞳を持ったポケモン――人々は彼らをカゲボウズと呼んでいる。
 その研究手法は主にこうだ。
 第一に、捕獲して観察する方法。通常は姿を消している彼らだが、捕獲されると姿を現したままになる。飼育環境下ではその必要が無くなったからだろう。ただし、高度な捕獲技術がいるし、手がかかる。
 そして第二に、野生個体を観察するという方法。一昔前までは困難だったが、今や科学技術はシルフスコープという文明の利器を生み出している。最近は旧式のごついものだけでなく眼鏡式のものもあって、これをかけると私の見る力が大幅にアップするのだ。通称、眼鏡スコープ。より良く見る訓練も兼ねて、この研究を始めてからは常時かけるようにしている。カゲボウズの中には姿を消すのがうまい個体もいれば下手な個体もいて、私が裸眼で見る事が出来るのは下手な部類に限られているからだ。ちなみにこのスコープ、使う人間が鈍感な場合は何も見えないらしい。
 さらに強調しておきたいのは次の事実だ。
 カゲボウズは恨みや妬みの感情を食べると言われているが、実は一般に信じられているだけであって、科学的に立証されている訳ではない。なぜなら、感情なんてものは測定出来ないからだ。恨みや妬みをどう定義するかも難しい問題だ。
 そこで私は、彼らが寄ってくる人間やポケモンにはどんな傾向があるのかというところから始める事にした。たとえば性別や年齢、対象がポケモンならその種で差は出るのか、そういう観点から研究を進めてみる事にした。
 私は観察ポイントを大学近くの通りのカフェに構えた。いつものように、入口入ってすぐ右の窓際の席を陣取る。座ったまま人々の行き来を観察する事が出来るからだ。しばらく待っていると、どこからか一匹のカゲボウズが現れて女の人に、次は男の人に、また女の人に、繰り返し近づいては離れていく。私は入れ替わる人々とカゲボウズの記録をとりながら、ココア一杯で何時間も粘る。甚だ迷惑な客だと思うのだが、店員が私を気に留める事は無かった。
 尤も「ここからカゲボウズを見ているんです」なんて言った日には少しは注意を向けてくれるかもしれない。もちろん、そんな事を言った日には店員が不気味がるだろうから言わないでおくけれど。そんな事を考えながら、今日の観察時間も終わりに近づいていく。
 あと五分か。私は腕時計をちらっと見て、すっかり冷めたココアに口をつけると、視線を窓の外に戻した。
 その時だった。とんでもないものが目の前を横切って、私が目を見開いたのは。
 それを見た時、一瞬、黒い雲でも出ているのかと思った。
 カゲボウズの群れだった。二十匹、いや三十匹はいるだろうか。夜の色の衣をひらひらと舞わせたてるてるぼうず達がまるでトサキントの群れが水中を泳ぐように宙を移動している。くっついたり離れたり。上に下に揺れながら目の前を通過していったのだ。
 見た事が無かった。通りでいっぺんに見かけるカゲボウズは多くたって、三、四匹だ。桁が違う。私はこんな単位で動くカゲボウズを見た事が無かった。
 そして気が付いた。カゲボウズ達が一人の男性の背中を追っているらしい、という事に。
 私はガチャンとカップを置くと、急いで財布を開く。銀色の硬貨を何枚か掴み出した。
「お釣り、いりませんから」
 テーブルに硬貨を散らす。そうしてマッスグマのようにカフェを飛び出した。そして通りの群集の中に分け入った私は、ジグザグマのようにその間を縫ってカゲボウズ達の後を追ったのだった。
 あれは一体なんなのだろう。たくさんのカゲボウズ達、そしてカゲボウズ達が背中を追っているあの人はなんなのだろう。恐怖が無いといえば嘘になる。けれど、それ以上の好奇心が私を突き動かしていた。


 今までのデータが溜まっていた。だから一度見て貰おうと思って、教官を訪ねた。
 訪問したその研究室はドアが開け放たれていた。扉の向こうでさらりさらりと紙をめくる音が響いている。入っていくと書類の無造作に積まれた整理されない机に向かった教授がレポートに目を通しているところだった。
 ポケモン行動学を専門とする教授は学生の課題に厳しい事で有名だった。さらり、さらり。教授はレポートをめくってゆく。レポート一つ読み終わったタイミングを見計らい声をかけた。
 ひどく驚かれた。誰もいないと思っていたらしい。
「い……いつからここにいたのかね?」
「さっきからです」
 私は冷めた声で答えた。まあ、いつもの事だ。
「えーと、えーと君は……確か」
「ミシマです」
「そうだ! そうだった。ミシマ君だったね」
「はい」
 再び冷めた声で私は答えた。これもいつもの事だ。
 研究室に行くとまるで定められた儀式の工程であるがごとくいつもこのやりとりが行われる。教授はいつまで経っても私を覚えてくれない。いつだって私はこの儀式を経てやっと本題、研究の話に入る事が出来る。
 昔からそうなのだ。小中高、挙手しても指名された試しがない。かくれんぼをすれば見つけられずに忘れられる。修学旅行や遠足の班決めであぶれる。クラスメートがメンバーとして認識していない。私という存在は気に留められる事がないのだ。これは大学生になった今でも変わらない。
 私は教授に軽く中間報告をして、レポートを差し出すと、それに対する助言を求めた。ふーむと教授が言ってぱらぱらとそれを眺めた。
 が、それは中断された。他の学生がやって来たからだった。ああ、この人は知っている。実習で一緒になった事がある。教授とも仲がいいのだ。かわいい子だ。長い髪を束ねるシュシュが良く似合う。
「おー、ニシザキ君じゃあないか。どうだね卒論の進み具合は」
 そう言うと、教授はレポートを机に置いて、その学生との話題に入ってしまった。あのポケモンはいいね! あのポケモンの行動は興味深いよねえ。こういう条件をつけてみたらどうだい。統計的にこれくらいは件数がないと有意とは言えないよねぇ。そんな話を始めた。私のしたかった話だった。
 だめだ、これは。机に置かれたままのレポートを横目に私はするりと部屋を出て行った。開け放たれた扉から聞こえる談笑が徐々に遠ざかっていった。
 きっと教授はゴーストなんかに興味は無いのだ。ならば勝手にやるだけだ。
 もう慣れた。いつもの事だ。そうやって私は日々を過ごしていくんだ。
 研究棟を出て、気持ちを切り替えた。日差しは強く、天気は良い。階段近くの植込には高く背を伸ばした草が大きな花を咲かしていた。
 暇になった。今日は観察の予定を入れていなかった。
 そうだ。だったら「彼ら」の様子を見に行こう。私は校舎の道を小走りに駆けて行った。

 あの日、あれから「彼ら」を追って到達したその場所は、意外にも私がよく知っている場所だった。
 赤レンガの塀で囲まれた広い敷地、門を通って中に入ると様々な棟が並び、それぞれに学部の看板が掲げられている。その中の一つに「彼ら」は入っていった。カゲボウズを連れた男の人――彼は、私と同じこの大学の学生だったのだ。
 彼の行動パターンはここ一週間ほどの観察でほぼ掴んだ。彼は学部の資料室から書類を持ち出すと、大学の端にある図書館まで歩いて行く。図書館に入るのかと思いきや、今度はその裏側へ入って行くのだ。
 図書館の裏は林になっており、しばらく行くと赤レンガの塀で行き止まりになる。さらに塀に沿って歩いていくと塀が崩れている箇所があってそこを通ると日当りのよい小さな庭のような場所に出る。昔誰かが植えたのか、それとも自然に生えたのか、それは分からない。背の高い植物が何箇所かにまとまって群生している。私は気が付かれないように足を踏み入れ、その陰からそっと様子を伺った。
 私に付きまとう存在感の薄さが一つだけ発揮される場面がある。行動観察だ。学部柄、野生ポケモンの観察機会が多いのだが、貴重な場面に出くわす事がよくあった。ようするに気が付かれない故にポケモンが逃げないのである。だから私はこの時だけ、自身の特性に感謝する。
 観察を続ける。彼は先ほど持ち出した資料を読み進めながら、時々ノートパソコンのキーボードを叩いている。カゲボウズにも目を配る。あの時ほどは数が見えなかったが、カゲボウズ達が彼の周りを漂っていた。午後の陽気が降り注ぐ風景とは対照的に、その部分だけ天気が悪いみたいだった。
 この大学の敷地は高台にあり、その端にあるこの場所はカイナの町がよく見えた。細かいブロックみたいに、青い屋根が並んでいる。その先にキラキラと輝く海が見えた。海のほうから風が吹いて、私の身を隠す草の茂みをざわざわと揺らした。
 私の背丈より高い茎に、椿より一回り大きい赤い花がいくつもいくつも咲いていた。午後の日射しに照らされて大きく、その存在を主張するように、めいいっぱい花を開いている。花の後ろにはいくつもの大きな蕾が控え、次は自分だと言いたげに花開くのを待っていた。
 あ、いけない、と視線を「彼ら」に戻す。観察を続行した。けれどその直後、私は物凄く驚かされる事になる。
「きれいな花でしょう」
 突然、観察対象が口を開いたからだった。
「この時期になるとよく見かけるんです。でも名前が分からなくて」
 本当に驚いた。だって私ときたら、ただでさえ存在感が無くて、ふとしたきっかけで忘れられるような人間なのだ。その私が意図的に隠れていて見つかるなんて、プールの水に溶けたシャワーズを見つけるようなものじゃないか。
 けれど、彼は畳み掛けるようにこう言ったのだった。
「ここのところよく会うね。僕に何か用?」
「…………」
 ちょっと待って。私はぼっと顔が熱くなった。頭を抱えたい気持ちになった。この言いようだとずいぶん前からばれているという事ではないか。
 それでさすがに観念した。私は日の光の下に出る事にした。
 いいんだ、彼の事をよく知ろうと思ったらいつかはこうしなければならなかったのだ。
 茂みの横から顔を出した。白衣はよくなかったかなあ、なんて余計な事を考える。
「い、いちおう、はじめましてと言っておいたほうがいいでしょうか」
 緊張しているのを悟られまいと、必死に余裕ぶった。
「はじめまして」
 彼はにっこりと笑って答えた。自分が「つけられていた」事を知っていたはずなのに、彼はあくまで紳士的だった。その周りを漂っていたカゲボウズ達がなんだこいつとばかりにじっとこちらを見つめてきたが、気が付かない振りをして会話を続けた。
「わ、私、携帯獣学部のミシマと言います。あの、お名前は」
「……ツキミヤです。ツキミヤコウスケ。こっちは人文学部」
 緊張気味に名前を尋ねる私に、柔らかい声で彼は答えた。
 ツキミヤ、コウスケ。口に出して刻み込むように確認した。綺麗な苗字だな、と思った。
「よろしく、ミシマさん」
 柔らかい声が再び耳に響いた。淡い色の髪は少々くせ毛で、その間から淡い色の瞳が覗いた。改めて彼を観察して思ったのは結構な美青年だという事だ。私の主観だからレポートには書けないけれど、きっと多くの女の子はそう言うと思う。整った顔から指先まで色白だ。なんだか眩しい。どちらかと言えば色の黒い私とは対照的な外見だった。
 そうして自己紹介が済んだところで、彼は話題を元に戻してきた。
「ところで、僕に何の用かな」
 ……しまった。私は固まった。
 何て切り出すか考えていなかった。さすがにいきなり「貴方憑かれていますよ」とか「貴方を観察したい」とかそんな事は言えない。
 にこりと笑う色白美青年を前にして私は焦った。再び顔の温度が上昇するのを感じた。
 カゲボウズ達がツキミヤの背後から、相も変わらず三色の目でこっちをじろじろ見ている。私は気持ちで彼らに睨みつけた。防御力はたぶん下がらない。けど、負けるもんか、絶対にあんた達の秘密を暴いてやるんだからと思った。
 けれども、そのためにはこの目の前の美青年――ツキミヤの事をよく知らなくちゃいけない。出来ればいつでも側にいられるような、そんな口実が欲しい。
 どうしたらいいだろう。どうやったら彼の事を知る事が出来るだろう……。
 私はしばらく沈黙したのち、彼に面と向かい、大真面目な顔でこう言った。
「私と……私と、付き合ってくれませんか」
 後で考えてみると、とんでもない発言だったと思う。

 結果から先に言うと、付き合う事になった。
 とりあえず馴れ初め初日の収穫として、携帯のメールアドレスをゲットした……否、交換した。赤外線通信なんて使った事がなかったから、ひどく手間取って恥ずかしかった。
 ちなみに「僕の何がよかったのか」と問うツキミヤに対して、一目惚れだと答えた所、どういう訳か腹を抱えて散々に笑われた。
 でもこの表現は妥当と思う。こんなに憑いている男はそうそういるもんじゃない。
 そして、何をどう思ったのか最後に彼は一言、「いいよ」と言ったのだった。
『今日います?』
『いる』
『行っていいですか?』
『いいよ』
 そんな風にメールをやりとりして、私達は会うようになった。
 別に付き合うといっても何をする訳ではない。例の場所で過ごす人数が増えただけの事だ。
 いい天気だ。午後の陽気の中、今日も赤い花が咲いている。 雑木林の途切れた先からカイナの町と海がよく見えた。


 私が世に言う告白とやらをして三日が経った。その間に少しずつ情報を引き出す努力をした。本当に少しずつだったけれど。
 彼は人文学部人文科学科の四年生だった。三年の私からすると先輩なので、ツキミヤさんと呼んだほうが良いような気がしたのだが、彼いわく「君」でいいとの事だった。
 人文科学科にはいくつかの専攻(コース)があって、考古学専攻なのだと彼は言った。
「考古学っていうのはね、昔の人が何を考えて生きていたのか、何に喜んで、何に悲しんだのかそれを知るのが目的なんだ」
 日射しに目を細めながらツキミヤが言った。
 彼は話してみると結構おしゃべりだった。好きな事を語り出すと止まらなかった。鳥ポケモンの研究をしている教授が鳥ポケモンについて語り出すと何時間でも止まらないように。だから彼は考古学が好きなのだなと思った。
 彼いわく、古代の文明とポケモンは密接に関わっていたらしい。一番ポピュラーなのはやはりジョウトにあるアルフの遺跡だ。アンノーンというポケモンを彫った粘土板が数多く出土しているとか。また、ある遺跡では古代の人々とヤジロンが生活を共にしていた事が分かっているとも言っていた。こういう話はポケモンの生態を研究している人間にとっても興味深い事だから、私も自然と話に入っていく事が出来た。
 でも、一番感心したのは彼自身の語りのうまさだった。男の子からこういう話を長時間されると閉口するものだけど、彼の話はいつまでも聞いている事が出来た。それは私と彼の学問にポケモンという共通項があるからというのもあるけれど、それ以上にツキミヤが私に合わせて言葉を選んでいるからだという気がした。落ち着いた柔らかいその声は、すうっと私に染み渡っていった。
 こういうのを物腰が柔らかいというのではないかと思う。その表現は彼の容姿もあいまって適切なように思えた。ツキミヤの色は淡く、そして柔らかい。
 話す時以外は資料を片手に、ノートパソコンのキーをずっと打っている。ここが気に入っているのだと彼は言った。雨の時以外はここにいるのだと。ここが一番集中出来るのだと。
 私はツキミヤの話に耳を傾けながら、彼に憑いているカゲボウズ達の観察を実行に移していった。
 まず、見える数が増減する謎についてだが、しばらく一緒にいるうちに解けてしまった。  影だった。ツキミヤの足元から伸びる影。カゲボウズは彼の影から現れ、影へ消える。彼らはそこから出たり入ったりしていた。
 次に気が付いたのは個体ごとの特徴だ。日が経つにつれ、個々のカゲボウズに個性がある事が分かってきた。常時ツキミヤに憑きっきりという訳ではないらしく、ここにいる間は、追いかけっこをしたり、付近をふらふら飛んでいったり、色々な行動を見せてくれる。そして、ツキミヤが帰る時になると、また集まって彼の伸びた影に戻っていくのである。そして、ここでいつも遅刻するのが一匹いる。その個体ときたらツキミヤが塀の向こうに消える頃になって慌てて背中を追いかけていく。結局いつも影の中に入りあぐねて、私とツキミヤが大学の入り口でまたねと別れる時になってもふわふわと浮いているのだった。そんな事もあって真っ先に識別がつくようになったのがその個体だった。
 一匹の見分けがつくようになると、スイッチが入ったようにそれぞれの個が見え出した。このカゲボウズはやや角が長い。この個体は目つきが鋭い。この個体は夜色がやや濃い。それでもってあの個体のひらひら具合はあの個体と比べると……そんな具合で見分けがつくようになった。
 遅刻ボウズを1番にして、私は秘密の個体識別番号をつけた。番号がつくと個々の関係が見えてくる。たとえば2番と3番なら、3番のほうが序列が上らしい。5番は4番に気があるのではないか、などである。こうなると観察がどんどん面白くなってくる。もちろんツキミヤの話も聞く。
『今から行く』
『分かった』
 メールのやりとりをして、毎日一緒に過ごすようにして、識別個体数を増やしていく。
 そんな毎日を繰り返し、帰りの電車に揺られながら思う。
 謎なのは、カゲボウズはツキミヤの何が気に入ってくっ憑いて≠「るのかという事だった。カゲボウズの好物は俗説によれば負の感情だ。けれど物腰柔らかな彼はそんなものとは無縁のように思えた。
「ねえ、ミシマさんって卒論もう決めてるの?」
 私に話すネタが尽きたのか、それとも心境の変化なのか、ツキミヤがそのように聞いたのは青黒いてるてるぼうずの識別個体数が二十と八を超えた頃だった。
「ゴーストポケモンをやるつもりです」
 と、私は答えた。
 そういえば彼の話ばかり聞いていて自分の事なんてちっとも話していなかったっけ。今更ながらに私は思った。
「へぇ、ゴーストタイプが好きなんだ」
 ツキミヤはもっとかわいいポケモンをやると思っていたのか、意外そうな顔をした。が、同時にそれに興味を持ったような感じも見て取れた。
「……………………」
 私はしばしツキミヤの顔を見つめていた。一つの疑問があった。彼は自身に憑いたカゲボウズに気が付いているのかいないのか、という疑問だ。だからゴーストという単語は一種の鎌掛けだった。
「……ミシマさん?」
 当のツキミヤは自身の顔をじろじろと見つめる私に対し、きょとんとして言っただけだった。
 どうやら気が付いていないらしい、と私は結論付けた。彼には見えていないのだと。
「好き……というか、見えちゃうタイプなんです。私」
 それで枷が外れてしまった。
「好きとはたぶん少し違う。……私に似てるから、だから気になるんだと思う」
「似ている?」
「私、存在感無いらしいんです。そこにいるのに気が付かれないんです。ゴーストと一緒」
 いつの間にか私はゴーストポケモンについて思うところを語り始めていた。
 姿を消しているゴーストポケモンは誰に気付かれる事もない。特別に見える人間以外には。
「昔からそうなんです。誰も気が付いてくれないし。小さい頃かくれんぼして忘れられたのは一度や二度じゃないんですよ。そもそも最初から数に入っていたのか……。最悪なのは遠足とか旅行の班決めですよ。いっつも余るんです。いっつも最後に一人残って、それで、あ、ごめん忘れてたってなるんです。でも、嫌われているのとは違うみたいなんです。意識に上ってこないらしいんです。だからこう思うんです。私はたぶん人間の視野と外れた所に立っているんじゃないかって。身体は人間だけど、ゴーストの次元に片足突っ込んだ形で生まれてきちゃったんじゃないかって。だから人は私を認識出来ない」
「そうかな」
「シルフスコープってあるじゃないですか。ようするにあれは視野っていうか……見える次元を広げる道具なんです。よくゴーストが消えると言うけれど、正確には違う。人に見えない次元にずれるんです。だから人が認識出来なくなる……」
 私は自身の見解を語った。消えたゴーストが見える人はごくたまにいるけれど、たぶん人ごとに感覚は違う。これはあくまで私独自の感覚だ。
「……つまり君は誰かに気が付いて貰いたいんだ?」
 ツキミヤが言った。いつの間にかキーボードを打つ手は止まっていて、その瞳が私を観察するみたいにじっと見つめていた。彼の肩の後ろのカゲボウズまでもが、まるで同調するみたいに視線を投げてきている。
「私は、別に」
 その言葉に少したじろいだ。
「だってもう慣れてますから。諦めてます。どうにか出来る事じゃないんです」
 私は言った。何かがおかしくなってしまったと思った。
 私はツキミヤを探っている。なぜ彼にはカゲボウズが憑いているのかと。だがこれでは逆ではないか。まるで私のほうが探られているみたいじゃないか。
 なんだか怖いと私は思った。いつもと同じ柔らかい穏やかな声がこの時ばかりは、冷たい乾きを持った響きに思えたのだ。
「僕はそうは思わないけど。たとえばさ、頭に花でもつけてみたらどうだろう。フシギバナみたいに」
 そう言うと彼は、自身の後ろに咲く花を軽く指差した。私がかつて身を隠していたあの藪を。
「花っていうのは見て貰うために咲くんだよ。虫とかポケモンに見つけて貰って、花粉を運ばないといけないから。だからつけたらきっと目立つよ。それに似合うと思う」
 そのように言ったツキミヤの声はもういつもの調子に戻っていた。
「な、何言ってるんですか。だいたいフシギバナの花は頭じゃなくて背中に生えているんです。勘違いしている人多いけど。それにそんな格好、趣味じゃないです」
 私が真っ赤な顔をして返すと、彼は何を思ったのかノートパソコンに視線を戻し、キーをタタタッと叩いた。
「そんな事ないって。ほら、このニュースに出ているポケモンリーグ出場者なんか見てみなよ。個性的なファッションの人ばかりじゃない」
「……私は、ポケモントレーナーじゃありませんから」
 トレーナー。その単語を聞いた時、私の胸に苦い感覚が広がったのが分かった。それで私はぷいと顔を逸らしてしまった。それでなくたって、さっきから自分を見透かされたような気がして恥ずかしかったのだ。だからツキミヤがどんな表情をしていたかは分からない。くれどきっと少し困った顔で言ったのだと思う。
「そう怒らないでよ。言ってみただけだって。それよりミシマさん、喉渇かない?」
「乾きません」
「僕はちょっと欲しくてね。何か買ってこようと思うんだけど。ついでに……」
「じゃあ、お任せします」
 そっぽを向いたまま私は言った。至極子供っぽい事は分かっていたけれど、誰も入れた事の無い部屋に突然踏み込まれてしまって、それで拒否反応を起こしてしまったのだと思う。
「甘いのでいいかい」
「ええ」
 私は身体を向けないままに返答した。少しして振り返るとツキミヤの姿は塀の向こうで既に見えず、周りで浮いていたカゲボウズ達もいなかった。おそらくはくっ憑いて行ったのだろう。さっきまであんな態度をとっておきながら、私はなんだか悪い事をしてしまった気がした。なぜ私が変な拒否反応を起こしたのか。それを彼は知らないはずだ。分かっていたのに八つ当たりしてしまったのは私だ。私の座るその横で、残されたノートパソコンが寂しそうに開いていた。
「……ポケモントレーナーなんて」
 そんな事を呟きながらツキミヤのノートパソコンを覗き込んだ。彼が検索してきたそのページは、昨年のホウエンリーグ本戦出場者リストで、普通の旅衣装といったトレーナーも多かった。が、確かに個性的な格好をしているトレーナーもそこそこの割合で映っていた。いや、個性的というよりは奇抜な格好をしていると言ったほうが適切か。人差し指でノートパソコンのパネルを撫でる。画面が下にスクロールする。
 数ある写真の中の一枚が目に入った。女性トレーナーがパートナーと思しきハブネークと写っている。一人と一匹はポーズを決め、カメラ目線をばっちり決めていた。衣装の色はもちろんだったけれど、尻尾の刃の色と髪の色まで合わせるその気合に恐れいった。
 写真の下には当然ながら名前があった。それを見て彼女の名前は花からとったのかな、と思った。本名かトレーナーネームなのかは分からない。トレーナーって人種は格好つけたがりだから本名の他にトレーナーとしての自分に名前をつける事があって制度的にも認められている。アイドルの芸名、あるいはポケモンのニックネームみたいなものだ。これも衣装と併せた変身の一種なのかもしれない。
『パートナーと気持ちを合わせるためにお揃いにしています。この衣装はラッキーアイテムなんです』
 トレーナーコメントを見たその時、また胸に苦味が広がった。やっぱり見るんじゃなかったと後悔した。カーソルを右上に動かす。ブラウザの×印を押そうとしたその時、背後でクケケッと笑う声がした。驚いて振り返るとカゲボウズが一匹、夜色の衣をひらひらさせながら、赤い花を背に浮かんでいた。
「あっ、君は!」
 思わずそのカゲボウズを指差した。いつも遅刻する、通称1番だったからだ。
 そのカゲボウズは私と目が合うと、待っていたとばかりにぐるぐると私の回りを飛び回った。やがて近くに咲いている赤い花の隣に浮かぶと、それをじっと見据えるようにした。すると花がひとりでにぐるぐると回って、見えない力でぷちんと摘み取られ、宙を舞った。摘み取られたその花がひらひらと横に回転しながら、私の目の前にゆっくり落ちていく。思わず両手で掬うように手を出すと、ぽとんと手の中に落下した。そうして私は、瞳のくりくりとした1番が上下にふわふわと浮きながら、何か期待するような眼差しを私に送っている事に気が付いたのだった。
「もしかして、つけてみろって言いたいの?」
 私があまり気乗りしない声で聞くと、真昼の夜人形はケタケタと笑った。
 カゲボウズと花を何度か交互に見る。摘んだばかりの瑞々しい花が両手の中で花開いていた。
「お待たせ」
 塀のほうから声が聞こえて、私は慌てて、赤い花をバッグに放り込んだ。
 歩いてきたツキミヤがひょいっと飲み物を投げた。反応が遅れたけれど、なんとかそれを受け止める。
「ナイスキャッチ」
 と、彼は笑った。なんだかキャッチするのが多い日だと思った。
 投げ渡されたのは少し汗をかいたミックスオレだった。容器にストローを指して飲むタイプのやつだ。
「ねえミシマさん、土曜日暇かい」
 カイナの町を一望しながら、甘苦い液体をひとしきり啜るとツキミヤは言った。
「特に予定は無いです」
 ストローの角度を変えながらそう答えると
「じゃあ、博物館行こう。海の博物館。今、企画展やってるんだ」
 ツキミヤはさらりと言った。
「……、…………」
「あれ? そういうのは興味無い?」
 私が呆けた顔をしていると、しれっと聞いてくる。
「そういう訳じゃないですけど」
「じゃあ土曜の十三時に噴水前ね。チケット売り場の前の」
 ……これはいわゆるデートの誘いというやつなのだろうか。識別番号1番が耳元でケタケタと笑った。


 だばだばと水の落ちる音が耳に響いている。私の目の前に伸びているのは長細い噴水で仕切られた二本の道で、そこはカイナシティが誇る市立博物館、カイナの海の博物館へと続いている。長細い噴水に流れる水は塩辛いらしい。海水を利用しているのだと聞いた事がある。
 十三時前となると人通りも多く、家族連れや友達同士、恋人同士、ポケモンを散歩させるトレーナーなんかが私を追い越して行った。トレーナーが泳がせているのだろうか。すれ違い様に球形のタマザラシを鼻先でつつきながら、大きな髭のトドグラーが縦型噴水の中をゆったりと泳いで通り過ぎて言った。反対側の白い縁石の上ではキャモメが三羽ほど羽を休めており、一羽が大きくあくびをした。
 何年ぶりだろうか。最後に来たのはもう十年以上前だと思う。大学とさほど離れていないはずなのに、足が一向に向かなかったのは地元である故の油断からか。地元の観光地ほど地元民は行かないというそれかもしれない。
 ツキミヤと約束したのは、噴水の一番先端。博物館の入り口にほど近い場所だ。が、近づくにつれてその場所の状況を察してしまい、ついてないなーと思った。
 噴水の先端にちょうどツアーで到着したらしい団体客が陣取っていたからだった。海の博物館は「海の博物館」なんて何のひねりもない名前がついているが、歴代市政の市税投入、そして粘着質な館長と学芸員のたゆまぬ努力が功を奏し、観光ルートに組み込まれているので入館者数が多い。そんな風に私を覚えてくれないあの教授がゼミで言っていたのを思い出した。もちろん少しは大学に金よこせという恨み節も一緒に聞かされたのであるが。
 しかし困ったのは、割って入るには人が多すぎるという事である。かといって、待ち合わせ人が指定場所きっちりの地点にいない私を見つけられるのか。私というの存在の次元のずれというのはそれくらいにひどい。どれくらいひどいかというと、群集にまぎれると両親が見つけられない程度にひどい。見つけるのはいつだって私のほうなのだ。
 そういえば昔、母にお前は未熟児で生まれてきたんだと聞かされた事がある。未熟児というのは文字通り、未熟な胎児だ。本来は十の月を経て生まれるはずの赤ん坊が何らかの理由で、早くこの世に出てきてしまったのだ。つまり私は、まだこの世で無い場所に片足を突っ込んだまま、生まれてきてしまったんじゃないだろうか。もし私の立つ次元が他とずれているのだとしたら、それが原因じゃないだろうか。時々そんな事を思う。思うだけで真相は分からない。
 とりあえず嘆いてもしょうがない。見つけてもらえないなら、見つけるしかない。おかげで誰かを探す力だけは鍛えられた。いや鍛えられざるを得なかった。これは私の研究に大いに貢献している。
 約束まであと五分。さて、カゲボウズ男はどこか。メールの新着問い合わせをする。新規メールは無いと携帯は答えた。
『今着いた』
 こっちから連絡してやろうとそのように一文字一文字メールを打っていたら、ぽんと後ろから肩を叩かれて私は思わず「ヒャッ」と声を上げた。
「あ、ごめん。驚いた?」
 振り向くと本日のデートのお相手が立っていた。
「え、どうして……」
 私はひどく驚いた。
「ごめん。場所よくなかったね。もう少しニッチな所にしておけばよかった」
 カゲボウズ男が言った。
 団体客が動き始めた。キャモメのロゴがプリントされた旗に引率されて移動していく。
「そういえば白衣以外って初めて見た。なんか新鮮」
「悪かったですね……」
「良く似合ってると思うけど」
 ツキミヤがくすっと笑って言う。思わず目を逸らしてしまった。こういうのは苦手だ。でもその気恥ずかしさ以上に私の胸を疑問が占めていく。
「ちょっと待ってて。チケット買ってくるよ」
 そうして彼は私の疑問をよそに売り場の列に加わっていった。私はその姿を追いながらずうっと彼の背中に問いかけていた。
 どうして、と。どうして私を見つけられたの? と。一度ならたまたまと説明する事も出来るだろう。けれど、二回目である。それをもはやたまたまとは言わないだろう。少なくとも彼は私の立っている次元が見れる人間なのだ。そう考えなくてはなるまい。
 思い出したようにツキミヤの足元に目をやった。今日はふよふよと浮いていないが、僅かに蠢いている。彼らは確実に憑いてきているようだった。

 海の民の至宝展。おおよそそういった名前の企画展だった。
 古代、海に囲まれたホウエン地方は、陸地に栄えた文化と沿岸に栄えた文化とがあり、後者のほうにスポットを当てたのが今回の展示なのだと言う。
 エントランスで青色のチケットを切って貰い、エレベーターで上がっていくと、私達の目の前に現れたのは横幅十メートルはあろうかという巨大な一枚の青い布地だった。その中にめいいっぱい巨大な翼を広げたような巨大な魚のシルエットが、糸を何重にも織り込んで刺繍されていた。絵画や書物に詳細な記載があるものの、物が現存していないので現在になって復元を試みたというものらしい。
「青いほうの神様ね」
「そう、いわゆるカイオーガだ」
 私が口にするとツキミヤは後を追うように言った。
 いわゆるとあえてつけたのは、そのポケモンが実際に生きている種として、ポケモン学会の正式な登録を受けておらず、あくまで伝説・空想上のポケモンとされているからだ。その名前は時代によって移り変わる。ある時代では海神とか降雨神と呼ばれ崇められ、ある詩人や画家は翼魚とか文様魚とか呼んだ。そして現代のトレーナー達は主にカイオーガと呼んでいるという訳だ。
 カイオーガを見た。カイオーガに出くわした。そんな目撃情報だけは毎年たくさんあるのだが、学会はどれも信憑性に欠けると切り捨てている。ポケモンが実在の種として登録されるには、一にも二にも捕獲が大前提だ。誰かが捕まえるまで実在種として登録がされる事はない。いると言うならば捕まえて来いという訳だ。
「いわゆるカイオーガは海の民達の精神的な支柱だった」
 と、ツキミヤは語った。彼らは海の神から選ばれた民であり、海を支配し、雨をもたらす神を擁する自分達こそこのホウエンを統一すべきと考えていたようだ。古代、彼らはもう一つの勢力である地の民とホウエンを二分して争った、と彼は続けた。
「知ってるかい。ホウエンに立っている神社・神宮の類はたいてい地の赤か海の青のどちらかに分ける事が出来るんだ」
「そうなの? あんまり考えた事無かったなぁ」
「だから発掘の時もね、出土品の文様なんかからどっちだろうって考えると面白いんだ。重要じゃないっていう人もいるけどね……僕はそういうの大事だと思うな」
 そう言うとツキミヤはくるりと方向を変えて順路の指すほうへ進んで行った。私は後ろを追いかける。靴のかかとがコツンコツンと音を立てる。大理石の床に冷たい影が揺れていた。
 海の民と銘打っているだけあって海や青をモチーフにした展示品が多かった。広い展示室の真ん中に壮麗な細工を施した豪奢な小船があり、船頭にギャラドスの彫刻が施されていた。そこを中心に、各々の小展示室へと展示は分岐する。奥の部屋のガラスケースの中には長い長い屏風が閉じ込められていた。金箔を貼った空に白い波が立つ青い大海原、それを背景に千羽のキャモメを描いたものだった。今で言うミナモシティのあたりに一族が遷都を行った折、それを記念して作られたものらしい。尤もオリジナルはとうの昔に無くなっていて、後の時代の絵師――といっても何百年前の人らしいが――が再び作り上げたものだという。なんだかそんなパターンが多いなぁなどとも思ったが、大昔の話では致し方無い気もした。昔というのは確かに存在したはずなのに、それを知るのはずいぶん難しいものだとも。私自身は目の前にいるポケモンを追いかければ研究になる。それに比べるとツキミヤはずいぶん大変な事をやっているのではないだろうか。
「あれ?」
 私はきょろきょろと周りを見渡す。展示室に彼の姿が見えない。いつの間にかばらばらに行動していた事に気が付いた。
「どこに行ったのかしら」
 展示品を順に見ながら、私は彼の姿を探した。
 結局、彼の姿を見つけたのは、別の階の割合地味な展示をしている部屋に移ってからだった。目立つ展示のあるメインの展示室こそ、団体客も多かったが、地味な器を展示しているこの小さな部屋にいたのはツキミヤの一人だけだった。ガラスのケースに入った器が照明に照らされるだけの部屋は仄暗く、展示品をじっと見つめる彼の上半身が僅かな光に照らされて薄闇に浮かび上がっていた。
 なんだ、こんな所にいたのか。
「ツキミヤく、」
 私はそう呼びかけかけた。だが次の瞬間に、ギクリとして口をつぐんだ。
 薄闇の中、彼の足元でぞわぞわと影の塊が蠢いている事に気が付いたからだった。三色の眼が何対か覗いている。それでそれが無数のカゲボウズ達が溶け合った塊だと分かった。ゾクリと冷たいものが背中を走る。まるで一匹の生き物のように振舞うそれらは、足元からツキミヤによじ登ろうとしているように見えた。
「何を、見てるの」
 私が問いかけると、ツキミヤの顔がこちらを向いた。瞬間、吸い込まれるように足元に影が引いていった。当のツキミヤはよほど夢中になって見ていたのか、やっと私に気が付いたらしかった。
「おいでよ」何事も無かったようにツキミヤが言った。
 怖くないと言えば嘘だった。けれどここで負けてはいけない気がした。足元に警戒しながら近づいていく。ついに彼の隣に立った。影は引っ込んだままだった。
 ケースの中を覗き込む。中にあったのは一枚の皿で、ばらばらになった破片をパズルのように組み合わせて形を作っていた。三分の一ほどは消失しているらしく、黄土色の粘土のようなもので形のみを補っている。描かれているのは形から判断するにハンテールだろうか。白地に青で細長いポケモンが何匹か、左右対称に描かれているようだった。○○年、××にて出土。解説のプレートにそう書かれている。
 ああ、そうか。これは本物なんだと、私は納得した。やはりツキミヤは考古学専攻なのだ。後に再現された目立つレプリカよりも、たとえ地味でも本物が見たいのだろう。
「ミシマさん、これ何に見える?」
 突然、静かな声でツキミヤが聞いてきた。
「何って、ハンテールでしょう?」
 私は答える。
「ん……まあ、正解かな」
 しばらくの沈黙の後にツキミヤは含みを持たせるように言った。顔を見る。ツキミヤの横顔を。真っ直ぐに皿を見据えている整った横顔をこうこうとランプが照らしている。唇が動く。
「たぶんテストでもそれが正解だろうね。けれどその回答ではまだ半分だと僕は思う」
「半分ってどういう事?」
「僕はね、作者が描きたかったのは本当にハンテールだったのだろうかと疑っているんだ。本当に重要なのはハンテールが囲んでいる形なんじゃないかって思うんだよ」
「形……」
 私は皿全体に視野を広げる。ハンテールがその長い身体で描く軌跡、ハンテールを線に見立てた輪郭、今は欠けてしまった左右対称を。
「んー、あえて言うならアゲハントに似てる気がしないでもない……かも」
「僕もそう思う」と、声が重なった。ちらりと見ると、横顔が少し嬉しそうに笑っていた。
「喉、乾いたね」
 ぼそりとツキミヤは言った。
「そろそろ出ようか。お茶でもしよう」
 そう言って彼はコツコツと靴を鳴らしながら展示室を後にする。私はその後を追いかける。その足元は何事も無かったように静かになっていた。

 博物館のカフェは混んでいたから、しばらく歩いて他を探した。真っ先に見つけたのは最近になって海外から上陸したという鳥ポケモンロゴをあしらったコーヒーチェーン店だった。まだ入った事が無かったから少し興味があったのだが、ツキミヤは他をあたろうと言った。
「ポケモン同伴じゃないところがいいな」と、彼は続ける。
 意外に思った。思いっきり憑かれちゃってるカゲボウズ男がそれを言うか。というか彼はそこまでポケモンが嫌いだったろうか。どちらでもよかったから異を唱える事はしなかった。
 結局、博物館のある公園の端の小さなカフェに私達は入った。抽象化されたポケモンのシルエットに×印が、モンスターボールマークに○印が、入り口の看板に小さく描かれている。同伴はダメだが、携帯は可能らしい。私達は二階の席に通され、屋根の無いベランダの席に案内された。ツキミヤはカイスの実のブレンドティーを、私はアイスココアを注文した。
 いい天気だ。二階の席だったから公園がよく見渡せた。街路樹の緑の間を往来する人々やポケモン達、遠目に長い噴水と先ほどまでいた博物館が見える。
「あの、ツキミヤ君、ポケモン嫌いなの?」
 注文の品がテーブルに届けられ、アイスココアにストローを指した頃に私は尋ねた。ツキミヤが透明なポットを持ち上げブレンドティーをカップに注いでいる。
「なんで?」
「だって、ポケモン同伴不可がいいって言うから」
「ああ、その事」
 そこまで説明すると、ツキミヤは理解したらしい。カップを持ち上げ一口、それからゆっくりと口を開いた。
「別に嫌いって訳じゃないよ。ただね……」
「ただ?」
「あっちが僕を嫌いなんだよ。不用意に近づくと吼えられたりするんだよね。ひどい時は噛まれる事もある」
「噛まれるって……」
 驚いた。野生ならともかく、ボールに捕らわれたポケモンは基本的におとなしい。捕らえたてならば分からない話でもないけれど。
「経験則だけど、レベルの低い未進化のポケモンほどそうだね。バッジを何個も持ってるようなトレーナーの手持ちなら何も無いけれど、でも落ち着きはなくなるよ」
 ツキミヤが続けた。ブレンドティーが甘い匂いの湯気を立たせている。
「じゃあツキミヤ君、ポケモンは」
「持ってないよ。一匹も」
 そこまで言うと、ツキミヤはまたお茶を啜った。
「……そうなんだ」
 私も合わせるようににストローを吸った。
 捕獲技術の未発達な大昔ならいざ知らず、現代は一人につき一匹や二匹のポケモンなんて当たり前の時代だ。むしろ手持ちがいない人のほうが珍しいぐらいで。それほどにポケモンと私達の関係は密接になっている。そういえば、と私は思い返した。私達は何度も言葉を交わしたはずなのに、今まで一度だって手持ちポケモンは話題にならなかった、と。
 気が付くべきだった。初めての人同士の共通の話題といったらまずそこからだろうに。
 そうして、ストローを口から放したその時、私はハッと気が付いた。
 そうか、と。
 テーブルに隠されて見えないツキミヤの足元を、私は再び意識した。
 そうか。そういう事なんだ。
「ごめん……変な事聞いたよね」
 とっさにそんな言葉がこぼれた。
 馬鹿か私は。貴方の手持ちのポケモンは? そういう風に聞かれた時の気持ちを知っていたはずなのに。
 いや、いつの間にか忘れていたのだ。慣れて痛みを忘れたのだ。私は馬鹿だ。
「そんな事ないよ。むしろ今まで話題にならなかったのが不思議なくらい」
 続け様にお茶を啜ってツキミヤは言った。その表情に曇りは無かったけれど、私は何か申し訳なくなった。
「ああ、そういえばミシマさんのポケモンって聞いていなかったけど……」
 静かにカップを置くと今度はツキミヤが尋ねた。
「いないです。一匹も」
 私も答えた。そうなのだ、私には手持ちポケモンがいない。だから嫌だったのだ。誰かと会話した時にその話題を出されるのは。ただでさえ私に話しかける人間は少ない。だからこそつまらない答えを返したくなかった。
「なんだ、どおりで話題にならない訳だ」
 ツキミヤがいかにも納得したように言った。
 下のほうからキャッキャッと楽しそうな笑い声が耳に響いた。見るとカフェのすぐ下で小さな男の子とポケモンが遊び始めていた。男の子が手の平大のゴムボールを投げると、小さな灰色のポケモンがばっと駆け出した。
「「お見合い」に失敗しちゃったんです。私」
 目線を戻す。グラスに残された氷をストローでつついて私は言った。また視線を下に投げた。
「十歳になって免許講習があって、それで取扱免許までは取ったんです」
 ぽんぽんとボールが地についてバウンドする。その横を灰色毛玉が勢いよく走り抜けた。方向を変え向き直り、獲物に襲い掛かるように飛び掛ると、球体を前足で引っ掻きながら口に収めた。
「でもそこまでだった」
 灰色が駆け戻ってきた。尻尾を千切れんばかりに振るポチエナ。得意げに男の子にくわえたボールを差し出す。男の子が受け取って再びボールを放り投げた。それはさっきよりも大きな放物線を描き、宙を舞った。
「免許を取った次の日にさっそくお見合いがあって、近所のセンターに行ったんです。クラスの子達もみんな集まっていて。みんな楽しみにしてた。ついに念願の免許を取って自分のポケモンを貰える。相棒に会えるんだって」
 コロンと氷がグラスの中で転がった。よーしもう一回、と下で男の子の声がする。私は昔話の続きを語った。
 ポケモンセンターの中庭にブリーダーが来ていた、と。キモリ、アチャモ、ミズゴロウ。ホウエン地方で推奨される三種類のポケモンをたくさん連れて。免許を取り立ての子供達はそこでポケモン達と触れ合う。気に入った子がいればその子が最初のポケモンになる。
「私はたぶん、相棒に理想を求め過ぎたんだと思う。選り好みなんかしないで、適当に捕まえておけばよかったのかもしれないと今も時々思う」
 男の子が何度目かのボールを放った。灰色毛玉がダッシュする。
「キモリならなんでもいいって男の子もいたし、アチャモの♀がいいって言って吟味してた女の子もいた。私はどの種類でもよかったけど、一つだけ条件を付けていた」
「条件?」
 ツキミヤがオウムがえしに尋ねた。氷が溶け、水が溜まり始めたグラスを見つめて私は答える。
「私が存在感無いのはね、何も人間に対してだけじゃないって事。だから決めてたの。私と一番最初に目があった子にしよう。その子とだったらきっとうまくやっていける。そういう子を見つけられたら、きっと私は独りじゃなくなって、みんなの輪の中に入れて、素敵な旅が待っているんだって」
 思い出しても馬鹿みたいな話だ。私は勝手に理想の相棒像を作り出して、期待して待っていて、そして。
「……そこに君の相棒は現れなかった」
 つぐんだその言葉をツキミヤが代わりに言って、私は頷いた。
「そう。それで私は才能ないんだなって思った。お前はポケモントレーナーに向いてない。そう言われたんだって」
 正確には、その後何度かポケモンセンターには行ったのだ。けれど結局、私の求める相手は現れなかった。火を吹くひよこも、黄色い目の森とかげも、大きなエラの沼魚も私のパートナーにはならなかった。
 捕まえればよかったのかもしれない。たとえ目が合わなくても、適当な子の首ねっこを捕まえて、私はこの子にします、と言えばよかったのかもしれない。
 けれど、それではダメなのだと私の中にある何かが頑なに拒否するのだ。
「そのうちセンターからも足が遠のきました。それで今までポケモンを持たずに来ちゃったんです」
 ツキミヤがまた一口、お茶を飲んで喉を鳴らした。それでカップが空になった。いつの間にか男の子とポチエナの姿は消えていた。
 同時に、なんだかほっとしている自分がいる事に気が付いた。ポケモン同伴でない店に行こう。ツキミヤにそう言われた私内心はほっとしていたんじゃないだろうかと。
「こだわりが強いって難儀だよね。捨てれば楽になれる。けれど、そうもいかない」
 ツキミヤが言った。
「そういえばツキミヤ君、お見合いは……」
「僕はお見合い自体していない。免許も取っていない」
 静かにツキミヤは答える。また悪い事を聞いてしまっただろうかと不安になったが、彼は続けて当時を語った。
「ちょうどあの頃は色々あってね、引越しを繰り返していて、免許どころじゃなかった。僕の場合、それでタイミングを失ってしまった。尤も取ってお見合いしたところで君と同じ結果になっただろうけど」
「同じ結果?」
「言ったろ? 僕はね、嫌われているんだよ。目が合ったところであっちから逃げてくさ」
 そう言って彼は少し寂しそうな笑みを浮かべた。それはたぶん……そう喉まで出掛かって、止めた。彼の足元は不気味なまでに静かだった。たぶんこれだ。ポケモン達はたぶん、これが怖いのだ。
「嫌われるのと気付かれないはどちらがいいんだろうね」
 空になって寂しそうなカップとポット。カフェの店員が静かに歩み寄り、手際よく私のグラスとツキミヤのカップ一式を下げて行った。
「どっちもよくないです」
「……そうだね」
 私が答えると彼は静かに同意の言葉を口にした。
「尤も僕は進学するつもりだったから気にしてないけどね」
 そこまで言うと、おもむろにメニュー表を開いた。
「まだ飲むの?」
「どうにも喉が渇いてね。ミシマさんもどう? おごるけど」
 そこまで言うと彼は目配せした。気が付いた店員がすぐに戻ってくる。私には出来ない芸当だ。ツキミヤは目立つ。なんというか華がある。
「カイスの実のブレンドティー二つ」
 私がおかわりの返事をする前に注文が飛んだ。ほどなくしてポットとカップが二つずつ運ばれてきて私達が囲うテーブルに置かれた。ツキミヤが自分側でないポットを手に取った。私のカップにこぽこぽとお茶を注ぐ。
「あ、ありがと」
 ぼそりと私は言った。男の人にこんな事やって貰った事なかったから、調子が狂う。
「ミシマさんは、」
 再びツキミヤが口を開く。
「まだ待ってるの? 探してるの?」
 ドキリとした。カップにゆっくりと茶を注ぐツキミヤの顔は伏せ気味だ。けれど見られているような、聴診器をあてられて鼓動を確かめられているような、そういう感覚を覚える。たまにだがこんな話し方をする。
 私……私は。まだ探しているのだろうか。待っているのだろうか。
 これは未練なのだろうか。だから大学でポケモン行動学なんてやっているのだろうか。私はまだ望んでいるのか。誰にも気付かれない事に慣れながら、もういいのだ、諦めたと口にしながら、まだ。
 ツキミヤが自身のカップに茶を注いだ。カップがカイスの実の抽出液に満たされていく。水面が揺れなくなった頃に静かに持ち上げ、彼はさも美味しそうに上澄みを口にした。


 見下ろすと、色彩の無い世界がそこにあった。
 黒い道を無数の人が行き来していたけれど、白い輪郭で人だと分かるだけでその表情は読み取れない。
 おや、と私は往来の脇を注視した。小さな女の子が一人、きょろきょろとあたりを見回している。なぜ女の子と分かったかといえば、彼女の姿だけははっきりしていたからだった。
「遊ぼう」
 女の子が往来する人々に声をかけた。けれど人々は気付かない。
「ねえ、遊ぼう」
 彼女が何度か声をかけると白いうちの一人が振り向いた。ああ、あれは友達だ。いつも遊んでくれた友達だ。気付いて貰えたのだ。女の子は少し笑顔になった。
「遊ぼう」
 女の子が言った。けれど、
「だめだよ」
 と、白い友達が言った。
「どうして?」
「だって、みーちゃんはポケモン持っていないもの」
 女の子はそれで返事に窮してしましった。
「私ね、今日はポケモンバトルする約束なんだ」
 そう言うと白い友達は再び白い人々の往来の中に消えていった。よくよく見ると、白い人影の中に無数のシルエットが見えた。鳥の形、とかげの形、魚の形……。
「ねえ、誰かいないの」
 女の子は言った。誰も振り向かなかった。
 黒い道の脇を通る灰色の道。人通りの無い道。人々とは違う道。そこに女の子は一人、立ち尽くしている。
 そうなんだ。いつだって立ち位置がずれている。存在する場所がずれている。上から見ているとそれがよく理解出来る。
 あれは、私だ。

 ハッと大学近くのカフェの席で目を覚ました。
 そういえば定点観察の途中だったっけ。起き上がった拍子で私の右斜めで冷めたココアが僅かに揺れている。土曜日のデートが嘘みたいに、次の週は日常に戻っていた。
 眼鏡スコープのレンズを一度拭いて、かける。通りに再び目を凝らす。眼鏡型シルフスコープは今日も存在次元のずれた者達を暴き出す。二、三の影が見えた。カゲボウズだ。私はノートにかりかりと記録をとる。
 つまらないと思った。通りの野良ボウズなど、カゲボウズ男とその取り巻きに比べるとえらく物足りない。
「デートしたはいいけど、結局何も分からなかったなァ」
 と、私はぼやいた。むしろ曝き出されているのは自分のような気がする。いらない事、余計な事をべらべらしゃべってしまったような気がする。
「あーもう、やめやめ」
 お代を払うと、カフェを出た。ふと、テラス席で膝にエネコを乗せた白髪の婦人が紅茶を飲んでいるのが目に入った。ああ、ここって同伴可だったんだな、と私は思った。あんまり意識していなかった。土曜にあんな話をしたせいだろうか。
 婦人はカップを置くと、傍らの皿に乗った木の実のケーキを小さく切り分ける。エネコが甘えた声を出す。婦人は一切れをエネコの口に入れてやった。再びフォークでケーキを切り崩す。白い皿は木の実の色で色付いていく。
「あ、そういえば」
 ふと私の脳裏にある事が蘇った。
 暗い展示室。皿をじっと見つめていたツキミヤの姿。あの時、ツキミヤの影が活発に蠢いていたと。何か分かるかもしれない。私は早足で歩き出す。
『観察終わったから、そっちに行く』と、メールを打った。
 大学に戻る途中、コンビニでキャンディを一袋買った。カイスの実の果汁キャンディ。ゆっくりと話を聞き出すには手土産も必要だろう。

「至宝展の皿? ああ、あれはね、昔父さんが発掘したものだよ」
 ツキミヤはあっさり答えた。カバンからキャンディを出すまでもなく、あっさりと。
 相も変わらずノートパソコンをぱちぱちと叩くツキミヤの機嫌はすこぶるよさそうだった。
 カゲボウズ達がふよふよとあたりを飛んでいた。今日出ているのは二十匹くらいか。博物館では大人しくしていた彼らだったが、ここは出ていい場所と考えているのか、あっちに来たりこっちに来たり。その動きはツキミヤの感情とは関係が無さそうに見えた。
 俗説の通りならカゲボウズは負の感情に反応するはず。しかしツキミヤの機嫌だってすこぶるいいし……私は訳が分からなくなった。
「そっか。ツキミヤ君のお父さん、考古学者だったんだ……」
 一旦カゲボウズから目を離し、私は初出のお父さん≠ノ話を振った。
「そう。ここの学校のOB。教授をやっていた事もある」
 いつもの落ち着いた声にいくぶんか明るさが混じってるように思えた。ああ、この人はお父さんが好きなのだ。聞いただけでそれが分かった。
「どんな人?」
 私は尋ねた。彼の父親なら相当な優男だったんだろうと予想する。
「そうだな……うまく説明出来ないけど、似てるとは言われた事がある」
 やっぱりか、と私は思った。容姿は遺伝、そして学問は学習の成果なのだろう。きっとツキミヤが考古学の云々を私に話して聞かせまくったように、小さい頃からこんな話ばかり聞いて育ったに違いない。だからこんなのになったのだ。
「それでこの大学に?」
「まあ、そんなところだね」
 なんだろう、今日はするすると話が進む。今までの自身の取材力のなさに嫌気が差した。
 馬鹿じゃないのか私は。そうだとも。最初から分かっていたじゃないか。ツキミヤは一にも二にも考古学系男子なのだ。初デートが遊園地とか映画館とかじゃなくて博物館の企画展のような男なのだ。迂闊だった。私もデートなんて初めてだったからテンパってて、着ていく服とかどうしようみたいな事ばっかり考えてて、前提を忘れていた。だいたいここにいる最中、ツキミヤは私にほぼ考古学の話しかしなかったではないか。あんまりにも話術が巧みなので話を聞いているだけになっていたが、こっちから切り崩していくべきだったのだ。……いや、この場合は発掘といったほうが適切なのだろうか。
 それにしたって、あーもう! 
「ミシマさん、何を悶えてるの?」
 頭を抱え身体をよじる私にツキミヤがすかさずツッコミを入れた。
「な、なんでもない……」
 絶望した。あまりの遠回りに絶望した。これは観察計画として赤点ではないだろうか。
 あ、カゲボウズが数匹寄って来た。囲まれてじろじろと見られる。きゃきゃっと1番が笑った。ああ、そこ! 何を笑ってるんだ!
 しかし、ポイントが分かったのだ。今からでも遅くは無いはずだ。
「ねえ、ツキミヤ君」
 決めた。私は受身過ぎたのだ。少し攻めに転じる事にした。
「何だい?」
 ツキミヤが受けると、間髪を入れずに私は言った。
「卒業研究って色々大変でしょ? 何か手伝える事とか無いかな」
 ツキミヤがきょとんとした。そうそう、この勢いだ。今必要なのは告白した時のような強引な押しなのだ。
「いきなりどうしたの?」
「そ、その少しはこっちの研究の参考になるかなー、とか思ったりなんかして……」
「なるの?」
「た、たぶん!」
 そう、必要とされているのはこういう押しなのだ。……たぶん。
 あくまでポジティブに気を持ったせいなのか、近寄ってきたカゲボウズがひらひらと去っていく。夜色の衣と一緒に赤い花がゆらゆらと風に揺れていた。


 カビ臭い所だと思った。私達がいつも会う林の先のあの場所とは対照的な所だった。納得した。ツキミヤがなぜいつもあの場所にいたのか。こんな所で作業をしたら息が詰まる。
 ――手伝ってくれるなら考古学専攻(コース)の資料室に来て欲しい。
 そう言われてやってきたらこのザマだ。
 暗い部屋は天井まで届くような棚がびっしり並び、学術書やら、何かのデータを記したらしい紙の束やら、土器の破片をつなぎ合わせたようなものが置いてある。棚には物が所狭しと詰め込まれ、はみ出し、近くを通ると振動で落ちるものまである。床にはホコリの積もった本や雑誌が山積みにされており、その隙間をかろうじて人が通れるのだが、これは人の通る道ではないと主張したい。まだ野山の獣道のほうが埃っぽく無いだけマシだと思う。
 一体何年手をつけていないのか。こうなってしまっては部屋が広い分だけタチが悪いというものだろう。蛍光灯の多くは切れ、かろうじて機能する数灯がぶぶっと点滅しながら、とりあえずの明かりを供給している。その薄暗い部屋の奥にツキミヤがいるらしい事が分かった。だが、どうやってあそこまで行ったのだろうか。謎である。
「あ、ミシマさん、こっちこっち」
 こちらに気付いたツキミヤがそう言ったが、即座に私はこう返した。
「掃除機とハタキとマスク取ってくる」
 そうして私の盛大な埃ハタキと、ツキミヤの探し物が始まった。
 ツキミヤは言った。卒論は近々中間の審査があるが既に完成の目処がついているので、探し物を手伝って欲しい、と。
 彼は自身の父親であるツキミヤソウスケ氏の研究記録を探しているという。
「父は家で仕事をしない人でね。残っているとしたら大学のほうなんだ」
 そうして、私と彼の逢瀬の場所は花の咲く場所から、資料室になった。私達は放課後の多くの時間をそこで過ごすようになった。ツキミヤは部屋の奥を発掘していたし、私は埃をはたいては下に溜まったそれを掃除機で吸った。掃除機をかけていない時、ツキミヤはお父さんの事を話してくれた。
 お父さんが過去に発掘に携わって掘り出したという品々、それに対する彼独自の解釈がその主だった内容だった。それは一種の講義だった。聞けば、あの場所でパソコン片手に読んでいたのはここで見つけたお父さんの論文やら発掘報告書だったのだと言う。
「父が何をしていたかくらいは、ちゃんと把握しておきたくてね」
 と、ツキミヤは言った。
「父はいろんなものを掘り出したけれど、発見があった後、家に帰るたびに僕に問いかけた。コウスケ、これを作った人は何を考えてたんだと思う? ってね」
 彼はいつも発掘品を眺めては空想に浸っていたという。
 私はあの時の事を思い出した。博物館でじっと展示品を見つめていたツキミヤを。私はお父さんとやらに会った事は無いけれど、その姿をそのままに重ねた。
「博物館のあの皿、あれがアゲハントに見えると最初に言い出したのも父さんだった」
 まるで、私の心を読んだみたいなタイミングでツキミヤは言った。
 ドキリとした。この人、本当は人の心が読めるんじゃないか。私の考えも企みも全部全部お見通しなんじゃないか、そう思って。私が分かりやすいだけなのかもしれないけど。
「ねえ、ミシマさん」
 ツキミヤが問いかける。こういう時に名前を呼ばれると身構えてしまう。つい目を合わせてしまって、捕まってしまった。
「あの皿の絵付けをした人はさ、何を考えてたんだと思う?」
 彼の問いかけが続く。答えに窮して、押し黙る。沈黙が続く。ツキミヤがくすっと笑った。
「大昔の人々が何を考え、生きていたのか。何に喜び、何に悲しんだのか」
 沈黙を破ってそう言った。
「それが父さんの口癖だった」
 本棚から学会誌を引っ張り出し、ページを捲る。ずいぶんと古そうなそれのページは黄ばんでいる。
「博物館で見た展示品、青い色を使ったものばかりだったろう。古代ホウエンで、いわゆる海の民と呼ばれる勢力は、青色を使う事を好んだんだ。ホウエン地方の地図を青く染める事が彼らの正義だった。彼らは自分達に下った者達に青を使う事を求めた。同時にそれは支配された側の色が変わる事を意味していた。信仰が変わる事を意味していたんだ」
 薄暗い部屋に声が染み渡る。彼の父親はこうして息子に語って聞かせたのだろうと思った。
「大昔ね、ポケモンは神様と同列だった」
 学会誌を薄汚れた本棚に戻すとツキミヤは続けた。
「神様と、同じ……」
「そう。道具なしでは何も出来ない人にとって、ポケモンの持つ力っていうのは憧れだったし、畏れの対象だった。彼らはポケモンの力の借りて、生活していた。今のように支配するのではなく、お願いする、あやかるという形でね。森の豊かな土地では森に棲むポケモンが神様だったし、海や川のある土地では水ポケモンがそうだったろう。土地が違うと神様もまた変わった」
 講義が続いていく。
「大昔はモンスターボールなんて無かったからね。青と赤の二大豪族が台頭して、しばらく経ったあたりで、ぼんぐりのボールを使った技術が確立され始めるんだけど、当初は栽培が難しかったらしい。挙句、捕獲率は悪いしで、ポケモンを捕まえるのは大変だったみたいだ」
 そうなんだ、と私はなんだか感心したというか感慨みたいなものを覚えた。そういえば、あんまり考えた事がなかった。今は誰もが当たり前にポケモンを持っているけれど、そういうのが当たり前じゃなかった時代もあるんだ。昔は私のような持たざる人種が大半だったのだろう。
「じゃあ、ポケモンを持ってる人はさぞかし自慢出来たんでしょうね」
「そうだね。ポケモンを持つって事は神様の力を手に入れるって事で、あやかる側から使う立場になる事だった」
 そうなるとトレーナーっていうのは神様の代理人みたいなものだったんだろう。昔の人が今の状況を見たら仰天するんだろうなぁ、と私は思う。あっちを見てもこっちを見ても神様の代理人だらけなのだから。インフレもいいところだ。
「だから木の実のボールの登場で、ポケモンの神性はだんだん薄れていったけど、それでも普及が進まない地域では信仰が残っていた。森の奥では相変わらず森のポケモンが祀られた」
 ポケモンは仲間、ポケモンは友達。よくトレーナーはそんな事を言うけれど、モンスターボールの本質は人によるポケモンの支配だ。太古、人とポケモンはより対等だったのかもしれないと私は思った。いや、それどころかポケモンの持つ力に支配される側の立場だったのかもしれない。ポケモン達は森を闊歩し、人は彼らに遠慮して歩いたのかもしれない。
「そういう信仰の形を変えていったのが、赤と青だよ。彼らは森の奥の信仰を変えていった。神様の力をいち早く手に入れたのが彼らだった。彼らは神様の力でもって、様々な土地を手中に収めていったんだ」
 ポケモンを持つ事は神様の力を手に入れる事。それは今も形を変えて残っているんじゃないかなと私は思う。強いトレーナーやジムリーダーが皆の憧れであるように。それは一種の信仰だと私は思う。どおりで持たざるものは肩身が狭い訳だ。神様の加護を持たない私は古代人で、遠慮しながら道を歩かなきゃいけない。
「で、話は戻る」と、ツキミヤが言った。
「だからね、僕はあの皿に絵をつけた人は、きっと森の人だったんだと思う。父さんも同じ事を言ってたよ。海に支配された森の人は、青を使わなくちゃいけなくて、海のポケモンを描かなきゃいけない。けれど根底ではずっと自分の神様が忘れられなくて、それでああいう事をしたんだとね」
 ツキミヤはそこまで言うと、しばらく黙った。
 その眼差しはここでは無いどこかを見据えているように思えた。彼の目に映っているのは薄暗い資料室じゃなくて、煌びやかな羽根のアゲハントが舞う古代の森か、黙々と絵付けをする森の民の姿かもしれなかった。
 神の力を手に入れた現代人。それに比べるとツキミヤもまた古代人に近いのかもしれないなどと思った。カゲボウズに憑かれているツキミヤは対等か、あるいは支配される側なのだろうか。
「これにはね、見える人と見えない人がいる」
 唐突に沈黙を破り、ツキミヤが言う。
「え……っ」
「アゲハントに見えるって人もいるし、見えないって人もいる。真相は分からない。ただの父さんの空想かもしれないし。でも僕は信じたいと思ってる」
 私は内心、ほっと胸をなでおろす。一瞬、カゲボウズの事がばれたのかと焦ってしまった。
「だからあの時、ミシマさんがアゲハントだと言った時、僕にはそれが嬉しかった」
 そんな私の内心の焦りを知る由もなく、ツキミヤは笑みを浮かべた。なんだかこっちが恥ずかしくなって下を向いてしまった。こういう時ってどういう風に返せばいいんだろう。分からない。
「ミシマさん、僕の鞄を取ってくれないかな」
 反応に困っていると、ツキミヤが言った。入り口付近に立て掛けてあった鞄が目に入る。資料の山脈の向こうにいるツキミヤにそれを渡した。助け舟を出されたのだろうか。受け取ったツキミヤが鞄を開く。中から小さな木箱を取り出した。
「それ、何?」
 ツキミヤが箱を開く。中から何かが転がり出る。手の平に収まる程度の大きさの、帽子を被った黒い木の実だった。
「それ、ぼんぐり?」
「そう、ぼんぐり。父さんに貰った」ツキミヤが答える。
「甕棺(かめかん)の中に大量に入ってたんだって。たくさん出たから一個だけ貰えたって言ってた」
 ツキミヤの語りが続く。当初は栽培に苦労したぼんぐりだっただけど、結局、百年も経たないうちにたくさん収穫出来るようになったという。
「人間っていうのはポケモンと違って何の技も使えないけれど、こういうのは得意だね」
 ツキミヤの白い指の中に収まったぼんぐりからは外皮の光沢が消えている。やはり古い物なのだろう。愛おしげにそれを見つめるツキミヤを見て、大切な物なんだなと思った。わざわざ見せてくれたのは少しは距離が縮まったと思っていいのだろうか。私は核心に近づけているだろうか。
 ぼんぐり。昔の人々はそれを加工してモンスターボールを作った。そうしてついに人々は手に入れた。神様の力を。
 途端に私は、自身の問題を投げかけられた気がした。土曜日のあの事が途端に胸に蘇ってきた。私の中で私が問いかける。結局のところ貴女はどうしたいの、と。
 現代人の私は古代人とは違う。簡単に神様の力を手に出来るのだ。古代人が百年かかって手にしたものをいとも簡単に。
 免許を取ってから十年以上。十年。それだけ経ってしまってもう遅いと思っていた。でも、今からでも遅くは無いのかな……そう考えている自分に気が付いた。
 いいのだろうか。
「ツキミヤ君、私」
 私は望んでもいいのだろうか。
「私、ポケモンセンター行ってこようと思う。もう一度、お見合いしてみる」
 確か、毎週日曜にポケモンセンターでお見合いをやっているはずだ。
 すると、ツキミヤはすべて分かっているという感じで、うっすらと笑みを浮かべた。木箱にぼんぐりを収めた後、送り出すように
「行っておいでよ」
 と、言った。
「僕もね、月曜に卒論の中間審査があるんだ。お互いにいい報告が出来るといいね」


『つまりA氏とB氏の間で勝ち星の捏造(ねつぞう)やら売り買いが行われていたんじゃないかと、そういう疑惑が浮上してきたんですよ。バッジの数だとか地域大会の成績はバロメーターですからね。金で買えるなら楽ですし』
『なるほど、事実だとすれば由々しき問題ですね。トレーナーのランキングシステムの信頼というものが崩れてしまいますよね』
『一度調査が必要では?』
『しかしリーグでは勝てんでしょう。そもそもあのシステムはですね』
 ロビーに置かれたテレビの中で、専門家らしき人とコメンテーターが最近起こった八百長疑惑についてやりとりを交わしている。が、そんな事に周囲はお構いなしだった。みんなこれから起こる事で頭がいっぱいだったから。
 日曜日、私の姿はポケモンセンターにあった。カイナシティにはいくつかのポケモンセンターがあるけれど、一番大きいセンターは博物館に近くにあって、そこに私達は集められた。初心者用ポケモンとお見合いをするトレーナーのタマゴ達。予想はしていたが、いかにも免許取りたての小さな子達ばかりだった。
「ねー、ねー、どのポケモンにする?」
 一人がそう聞くと、
「アチャモ!」
「ミズゴロウ!」
 と興奮した落ち着きの無い返事がセンターのロビーに次々に飛び交った。それは男の子も女の子も一緒だった。一緒のクラスの子だったりするのだろうか。あるいは今ここで仲良くなったのか。
「ねー、まだー?」
 待ちきれずに同じ台詞を繰り返す子もいる。小さい子って本当に落ち着きがないよなぁ。以前はそうだった事を棚に上げて思う。昔から落ちついたタイプだったろうとは思っているけれど、あの日は私もワクワクしていた。
 それにしても本当に小さい子ばかりだ。やっぱり浮いてる。ちょっと恥ずかしい。あたりをきょろきょろと見回す。すると、一人の初老の男性がこっちにやってくるのが目に入った。
「あの人……」
 焦げ茶色のスーツが良く似合う、いかにもジェントルマンといった風貌の男性だった。その手に私と同じ整理券を握っていた。ここだろうかと、男の子女の子達のごった返すロビーで髭を生やした紳士は遠慮気味に端に座った。
 ああ、この人もそうなんだ! 私はなんだか嬉しくなった。
「あの、お隣いいですか」
 思い切って話かけてみると、案の定、私に気が付いていなかったらしく、少しびっくりした様子だったが、すぐに同志と察したらしい。快く迎えてくれた。
 会話はすぐに弾んだ。以前だったら話しかけようとも思わなかったろうに。私自身、自分の変化に少し驚いていた。ツキミヤと付き合ったおかげかもしれない。不純な動機とはいえ告白と一応のデートを経験したおかげで、私も少しは度胸がついたのだろうか。
「お嬢さん、いくつだね」
「二十一です」
 そう答えると、はは、私なんか五十過ぎだよと笑って紳士は言った。
「予想はしていたけれど小さい子ばかりで。お嬢さんがいて安心しました」
 私達の目線の向こう、ガラス越しにセンターの広い中庭が見えた。樹木があちこちに植えられて、花が咲き、ちょっとした池まである。まるで公園のような広い中庭だ。昼の陽気が差し込んで緑色がきれいだった。
「去年、妻が他界しましてね……」
 そっと息を吐くように紳士が言った。
「それから庭をいじって暮らしていましたが、どうにも寂しくて。そうしたら、姪っ子の子供がポケモンを貰ったというじゃないか。それで私もと思いましてねえ、免許は先週とったばかりなのです」
 そうして彼は今までの人生をごくごく簡単に語った。どちらかといえばトレーナーやポケモンとは馴染みの薄い町で育った事。進学して、ポケモンとはあまり関わりの無い仕事をして、そろそろ引退だという頃に奥さんが亡くなった事を。
「それで第二の人生というと語弊があるかもしれませんけれど、今までやらなかった事をやってみようと思いましてね」
 そうか、そんな人生もあるのか、と私は思った。それでもいいのか。いつだって遅すぎるって事はないのかもしれない。
「トレーナーネームはね、迷いましたが結局本名を付けてしまいました。凝る方もいらっしゃるみたいだけれどいざその時になると何も思いつかなくてね」
「それでいいと思います。後から変える事も出来るみたいですし」
「ポケモンを持って旅に出るってなんか出家みたいですよねぇ。お坊さんが名前を貰って修行に出るのに似ているというか」
「そういえば昔の人はころころ名前が変わりましたものね。幼名があって、大人になったり出世したりしても名前が変わりますもん。でも私、トレーナーネームなんて管理がめんどくさいと思いますけど」
「まあ、それはIDがありますから」
 紳士は言った。
「知らない土地に行きますから、自分を守る意味もあるのかもしれないですよ。陰陽師なんかが活躍するような時代じゃ本名を知られると呪い殺されたりしたって言うじゃないですか。そういうのの名残なのかも。もちろん一番は変身願望だと思いますがね。私は今までの人生に後悔してないけど、やり直したいって方もいらっしゃるでしょう。だから私は柔軟な制度だと思うな」
 おおらかだなぁと私は思った。かつてははしゃいでいた子供達がこうしてゆっくり会話をしながら落ち着いて話が出来るようになるように、これが歳を取るって事なのかもしれない。
「そういえばもうポケモンの目星はつけてらっしゃるんですか」
 木陰の揺れる中庭を眺めながら私は訪ねる。
「植物が好きなのでキモリを貰おうかと思っています。相性のいい子がいるといいのですが」
 彼はもうすっかりすべて受け入れているという感じで、あくまで穏やかに語り続けた。
「お嬢さんは何を貰うんです?」
「私は相性のいい子なら……」
「あ、ブリーダーさんが来たよー!」
 私の返事は子供達の歓声に遮られた。
 中庭にセンターの職員さんと、何人かのブリーダーらしき男女が入ってきて、赤、青、緑のポケモン達が放されたのが見えた。わっと子供達が中庭に駆け寄って、ガラス越しにポケモン達の品定めを始める。
「はーい、押さないでくださいね。では整理番号二十番までの方から入ってください」
 あくまで落ち着きを払った感じでセンターの職員さんが言った。子供達が次々と中庭に入っていった。
「今日は三種混合のお見合い日ですから人も多いですね。見てから種類を決めたい方も多いのでしょうね」
 紳士が言った。
「では、五十番までの方、どうぞー」
 そう職員さんが言って私達は中庭に入っていく。待っていたロビーよりそこはずっと暖かかった。木の葉に遮られ優しく柔らかくなった木漏れ日が私達を出迎える。するりと横を緑色の尻尾が通り過ぎて、その後を男の子が追いかけていった。
「ははは、子供はやっぱり元気ですねぇ」紳士が言う。「私はゆっくり行く事にします」
 中庭は子供とポケモンが入り乱れ賑わっている。識別の足輪がついたひよこを女の子が追いかける。ひよこが人と人の間を素早く走り抜けていく。「待てー!」「捕まえた!」そんな声があちこちで上がっていた。池ではばちゃばちゃと水音と飛沫が上がり、すぐ向こうでがさがさと木の枝が揺れた。お見合いというより鬼ごっこである。小さい子って荒っぽい。
「あれ、この花」
 そんな風景をぐるりとパノラマ写真を見るように眺めるうち、あの場所と同じ花が池の近くに咲いている事に気が付いた。背の高い草。そこに太陽のほうに顔を向け咲くいくつかの赤い大きな花。色は少し薄いけど、同じ種類だ。
「お嬢さん、これが気になるのかね」
 紳士が言う。
「ええ、最近いろんなところで見るんですけど、名前が分からなくて」
「ああ、これはね」
 そう言うと紳士のおじさんはそっと花の名前を教えてくれた。
 次に、どういう訳か花を一輪、手折った。妙に慣れた手つきだった。
「はい」と、私にそれを渡す。
「ではお嬢さん、貴女に素敵な出会いがありますように」
 キザなおじさんだなぁ。亡くなった奥さんもこうやって口説いたのかしら? そんな事を考えながら、私はスーツ紳士の背中を見送った。私の片手に淡い赤の花が揺れていた。
 事前の説明によれば、見合い参加者の倍程度、ポケモンは用意されるという。そこからは早い者勝ちであるとの事だった。ただ、気に入ったポケモンがいなければ、次の機会にする事も自由だという。このルールはかつてと変わっていなかった。
 けれどたいていの場合、一回でポケモンは決まる。特に子供達は早く自分のポケモンを友達に見せたい、バトルをしたいと思っているから、尚更だろう。最初は逃げ回っていたポケモンも次第に観念しておとなしくなるし、力づくだとどうにもいけないと学んだ子供達も考え始める。うまくコミュニケーションが取れない子にはブリーダーのおねえさん達がポロックを配りだしたりする。そうして収まるところに収まっていくのだ。早ければ三十分、一時間か二時間もすればお見合いが完了して、登録手続きをした後に晴れて新米トレーナーと、その所有ポケモンが誕生する。
 こんなお見合いの日は、センター前の広場で野良バトル大会が勃発するのが常だ。まだ技レパートリーが豊富でないポケモン達は身体と身体をぶつけあってバトルをする。登録を終えたらしき男の子が二人、ぱたぱたと中庭を出て行った。さっそく外でバトルをしようというのだろう。今も昔も子供達の発想は変わらない。
 だいぶ人数も減ってきた。赤や青や緑のパートナーを腕に抱えた子供達が登録の順番を待っている。中庭の池の縁石に腰を下ろしながら私はその様子を眺めていた。逃げ切ったり、選別からあぶれたポケモン達もすっかりリラックスして、木の上で身体を伸ばしたり、木陰で昼寝を始めたりする。私は両足に肘をついてゆっくりとその様子を眺めている。私にとっては人がいなくなりだしてからが本番だ。
 基準は昔と変えるつもりは無かった。自分と目のあったポケモンにする。私を認識する子だったらきっとうまくやっていけるはずだ。ポケモンは参加人数の二倍はいるのだ。じっくり行こう。じっくり。
 私はゆっくりと中庭を歩く。時折アチャモやミズゴロウとすれ違う。木の上を見るとキモリがぴょんぴょんと枝から枝へ、飛び移っている。登録待ちの列が徐々に短くなっていく。
 ぐるりと中庭を一周する。すれ違ったポケモンはたくさんいたけれど、目は合わない。ひよこも森とかげも、沼魚も立ち止まらない。私に見向きもしない。
「やっぱ身体が大きくなるだけじゃ、ダメなのかな」独り言を呟く。
 手の中の花を見る。あのおじさんは見つかったのかしら、と思う。あたりを一望する。姿が見えないし、もう出てしまったのかもしれないと思った。中庭に立った時計の長い針が回っていく。
「登録待ちの方はいらっしゃいませんかー」
 職員の声が響いた。もうまばらにしか人が見えない。ブリーダーが自分達の足元にポロックを撒き始めた。それに気が付いたポケモン達が中庭中央に次第に集まっていく。
 私の前をアチャモが通り過ぎようとした。しゃがんで首ねっこを捕まえてみる。女の子があんなにも追い掛け回していたが、私にやらせれば簡単なものだ。突然の事に動揺したひよこポケモンが暴れる。私の腕に蹴りを入れて、慌てて去っていく。いいワカシャモになる素質がありそうだけれども、私の相手ではないと思った。
 鈍感鳥め。掴まれるまで私を認識していなかった。認識があったとして、そこらへんに生えてる木と一緒のレベルだったんだろう。
 しゃがんだまま、ひよこの去ったほうを見る。中庭の中央でブリーダー達がポケモンをボールに戻し始めている。潮時かしら、と私は思った。
 その時、ばちゃりと近くで水音がして振り返った。ミズゴロウだ。こっちを見ているような気がした。大きなエラが鮮やかなきれいな個体だと思った。
 だが、私の期待は外れたらしい。水から上がってこっちに近づいてきたと思ったミズゴロウは、私のすぐ横を素通りし、五メートルほど後ろにいた小さな女の子のほうに走っていったのだった。
「あら〜、よかったわね」
 と、ブリーダーの一人らしきおねえさんが言って、「うん!」と女の子が嬉しそうな返事をした。女の子の手には金色のポロックが握られていて、沼魚がぱくついた。結局、その日最後に登録をしたのはその女の子だった。
 寒くなってきたな、と思った。いつの間にか空は薄寒い色に変わっていた。中庭中央の受付に手ぶらのまま戻る。今日は登録しない旨を伝えた。
「本当によろしいんですか? まだ選ぶ事も出来ますけど……」
 回収されてトナーに並んだボールが脇にあった。けれどやはり同様の意思を伝えた。
「またの機会にお待ちしております」
 去っていく背中越しにそんな台詞が聞こえたけれど、返事も会釈もしなかった。去り際にぽつりと雨が頬を打った。再びセンターの中を通って自動ドアの外に立つと、もうすっかり雨模様になっていた。
「わあ、降って来た」
 外でバトルに興じていた子供達もセンターに引き上げるなり、傘を差して帰るなりし始める。
「じゃあまたなー」
「明日の放課後バトルしようぜー」
 そんな会話が聞こえた。
 センター近くにコーヒーチェーンの看板が見えて入る事にした。この前のデートの時に入りそこねたあのチェーンだった。見知らぬ鳥ポケモンの微笑むロゴの自動ドアがサーッと開く。レジに並ぶとホットココアとクリームチーズを挟んだベーグルを注文した。雨降り需要に見舞われたカフェはほとんどの席が埋まっている。窓際の席に座ると、ベーグルにかぶりついた。半分くらい食べた頃に、一度皿にそれを戻した。疲れがどっと押し寄せてきた。
 しばらくの間、ぼうっと外を眺めていた。雨の雫がつくガラス窓の向こう。傘を差したトレーナー達がぞろぞろと帰路についていく。その中に見覚えのある人影を見た。
 帰路につく人々の中に焦げ茶色のスーツの紳士が一人、傘を差して通りを歩いているのが見えた。その肩に緑色の森とかげが一匹、乗っかっている。姿が見えなくなってからずいぶん時間が経過しているところを見ると、センターの別階で初心者講習でも受けたのかもしれない。スーツ紳士は肩に乗った相棒に嬉しそうに笑いかけていた。
 そういえばあの花、どこにやったっけ。いつの間にか手から零れ落ちてしまったらしい事に気が付いた。
 その日はツキミヤにメールを打たなかった。


 カイナ上空に居座った雨雲は粘着質で、月曜日になっても雨は止まなかった。空模様と同じように私の気分のもまた憂鬱だった。
 ――お互いにいい報告を。
 そうは言ったものの、一方が残念なのは確定していたからだ。四時限の後に行動学研究室のゼミがあって、気配を消しながら参加してきた。サイユウ近くのなんとかって島に住んでいるなんとかって博士のホエルオー論文が議題に挙がったけれど、ちっとも頭に入らなかった。
「この人は学会で会った事あるけどテンションがやたらと高くてなぁ、変な人だったよ。変わった経歴の持ち主でね、昔はタマムシ大学で……」
 教授が余計な薀蓄を語るけれど通り抜けて、忘れた。窓の外でしとしとと雨が音を立てている。
 ゼミが終わって、鬱々した気分のまま資料室に行ってみる。ツキミヤの姿は見えなかった。まだ中間発表の最中なのかもしれない。連日の入念な埃はたきと掃除機がけによって埃っぽさはだいぶ解消され、獣道も人の道程度に広がっていたけれど、未だカビ臭さが残っている。ただでさえ、憂鬱なのにこの場所は無い。掃除をする気も起こらない。
 ツキミヤからメールでも来ていないかと思って、鞄から携帯を取り出すが、新着メール問い合わせは空振りに終わった。こっちから送ろうかと思ったが、、大事な発表の最中なら切っていそうだ。
「いいや。そのうち来るだろうし」
 そうして、鞄の中のポケットに携帯を突っ込んだ私は、底のほうに何かを見つける。
「あ、これ」
 引っ張り出したのは皺だらけの袋入りキャンディだった。カイスの実の果汁入りキャンディ。いつぞや大学近くのコンビニで買ったっけ。すっかり忘れてた。
 私は袋を横に破り、中から出てきた小さな包みを更に破り、中身を口に放り込んだ。うむ、甘い。分厚い本が重なった一山を椅子代わりにし、舌の上で飴を転がしながらブブブと小刻みに点滅する蛍光灯を見上げる。
 すると、蛍光灯を隠すように私の視野にひょっこりと何かが現れた。
「あっ、君は!」
 私は見上げたまま言った。角の生えたてるてるぼうずが目線の先で宙に浮いている。しかも一番見覚えのある個体だった。
「ちょっと待って。なんで君、ここにいるの?」
 私が聞くとカゲボウズはケタケタと笑った。この質問は無意味そうだ。だいたいカゲボウズは喋れないし。
「何か用?」
 再び私が質問するとカゲボウズはひらひらと舞い降りてくる。私の手にあったキャンディの袋を口でくわえ引っ張った。ぱっちりと開いた三色の瞳が私を見つめる。いかにも期待するようにきらきらと輝いている。
「欲しいの?」
 袋からキャンディを取り出すと、包みを破る。ぺろっと舌が伸びて私の指の間から中身を奪った。カゲボウズの頬がもごもごとしている。
「……カゲボウズがキャンディ好きとは知らなかったわ」
 さもうまそうにキャンディを舐めるカゲボウズを見て私は妙に感心した。こりゃ面白い。私はもう一個、包みを剥がし、今度は中身を空中に放ってみた。
 ……ナイスキャッチ。カゲボウズは身を翻すと、見事にそれを空中キャッチしてみせた。二つの飴を頬張るその表情はとてつもなく幸せそうだ。もしかしたら彼らの食う負の感情とやらも甘い味がするのだろうか。よく言うじゃないか。人の不幸は蜜の味だと。
 舐め終わりを見計らって、私はまたキャンディを投げる。個体識別番号1番との片道キャッチボールが続いた。1番の感情表現は豊かだ。目の動き、動線。ひらひらの揺れ具合。この子は身体全体で喜びを表現する。部屋のカビ臭さとか、憂鬱な雨の音とかそんな事を忘れて、私はずっとその動きに見入っていた。
 そんな風にして観察を楽しんでいたら、引き戸をガラガラと開く音がして誰かが入ってきたのが分かった。ツキミヤだろうかと思ったが違った。知らない男の人だった。
 年齢からしてどこかの研究室の教授だろうか。ネクタイをしていたが襟元は緩んでいる。見た目にはこだわりがなさそうな、抜けた感じの人だ。こんな所に人が来るなんて珍しい。
「あの、お探し物ですか」
 吹き溜まりのようなこの部屋で探し物を見つける自信などなかったが、声は掛ける。
「おわっ、人いたのか。脅かさないでくれよ!」
 本棚の影から顔を覗かせた私に目線を飛ばし、ややオーバーリアクションで男性は答えた。
「ああ、ちょっと人をね」
 汚い部屋の惨状をぐるりと一望してから男性は答えた。
「君、考古学専攻(コース)のタテバヤシって知ってるか? 四年の。最近いつもここにいるって聞いたんだけどね」
 タテバヤシ? 私は首を傾げた。最近ここに出入りしていたのは私とツキミヤだけだ。あえて加えるならカゲボウズくらいである。ずっと大人しかったけれど。
「いえ、知らないです」
 私は答えた。
「ん、そうかあ」
 男性はぽりぽりと頭をかいた。広くなった獣道に入ると、資料室の奥を覗き込んだ。私のほうに振り返り、彼は言った。
「最近タテバヤシ君、彼女とずっとここにいるって聞いたんだけどなぁ」
「えっ」
 今度は私が驚く番だった。それって私達の事じゃないのか。こんな所に出入りしている男女二人組は私達だけのはずだ。同時に驚いた。私の存在が傍から認識されていた事に。この人にまで伝わっていた事に。ツキミヤといる時、私は認識されていたのか。
「それ、たぶん私の事です。でもタテバヤシさんって方は知りません。ツキミヤ君となら一緒でしたけど」
 私は答えた。すると今度はその男性が驚いた表情を浮かべた。
「ツキミヤ……?」
 どういう事だろう。その声には少し震えが混じっていた。
「君、それはタテバヤシ君に対する皮肉か何かか」
 男性は言った。意味がさっぱり分からなかった。けれど、ざわざわと胸に動揺のようなものが広がった。
 ツキミヤが、タテバヤシ?
 一方の男性は眉間に手をあてて何か考え込み始めてしまった。
「いや、奴の息子ならばあるいは、やりかねん……」
 ぶつぶつと独り言を言い、やがてこちらに向き直った。
「そうか。君はタテバヤシ君から何も聞かされていないんだね」
 なんとなく事情は察したとばかりに男性は言った。
 ――……ツキミヤです。ツキミヤコウスケ。
 あの時のツキミヤの声が再生される。ツキミヤ――タテバヤシ。一体どういう事? 私の中で動揺と混乱が入り混じる。
「何から話したらいいものか……」
 男性は言葉を選びながら話し始めた。
 十数年前、ここで一人の男が教授職についていた、と。
「男の名前をツキミヤソウスケと言った」
「ツキミヤ君のお父さん、ですよね」
「そう。タテバヤシ君はあいつの……ツキミヤソウスケの息子だ。そこまでは知っているんだね」
「ええ」
 私は肯定した。お父さんの事を話すツキミヤは本当に楽しそうだった。しかし引っかかるのは、十数年前という数字だ。十数年前という事は少なくとも今はここにいないという事だ。
 そういえば、と思い返す。そして私は気が付いた。ツキミヤが語るのは昔の事ばかりで今現在のお父さんの事には何一つ触れていなかったという事に。
 ――父は家で仕事をしない人でね。残っているとしたら大学のほうなんだ。
 ――父が何をしていたかくらいは、ちゃんと把握しておきたくてね。
 ツキミヤの言葉がリフレインする。これはどういう事だろう。
「あの……今、ツキミヤ君のお父さんは」
 恐る恐る私は尋ねた。
「私も知らない。失踪したまま行方が分からない」
 こっちが知りたいくらいだ、と男性は呟いた。そうして彼は昔話を再開した。
 この話をするのは人文学部じゃタブーなんだ。だからめったな場所では口にしないように。そう一言断りを入れて。
「もう十数年前の話さ。ミナモテレビがさる発掘現場で捏造(ねつぞう)があったとスッパ抜いた」
「捏造……?」
「そう、捏造。つまりでっち上げだ。たとえば本来そこに無い石器を埋めて、再び掘り出して発掘されたと発表する。考古学の場合、こういうのが捏造と呼ばれる。あの時、捏造があったと報道された発掘現場で指揮をとっていたのはツキミヤソウスケだった」
「……嘘」
「君くらいの年齢なら当時は小学生かな。かなり大々的に報道されていたから、少しは覚えているんじゃないか?」
 私は記憶をほじくり返す。そういえばあったかもしれない。テレビでコメンテーターがどこかの発掘現場を背景に、そんな事を言っていたかもしれない。ただ当時はそんな事に関心はなかったし、内容もよく分かっていなかったけれど。
「報道が過熱する最中、ツキミヤソウスケは失踪した。それで奴が事を謀ったんだろうとそういう事になった」
 男性は続けた。それで大学側はずいぶん対応に追われたと。ホウエン中のテレビ局や新聞の取材班やらゴシップ誌の記者なんかが押し寄せてずいぶんと混乱したらしい。騒動の後、ツキミヤ教授の席は抹消され、考古学学会からも名前が消えたという。
「この部屋はね、大学の中じゃ不可侵領域なんだよ。ツキミヤソウスケが仕事に使っていたからだ。敷地ばかりは広くて部屋数が多いのをいい事にずっと放置されてきた。タブーだから誰も触らなかった。触りたがらなかった。タテバヤシコウスケが現れるまでは」
 彼は続ける。両親の離婚だろう、と。苗字が変わっていたから、初めは誰も気が付かなかったと。不可侵領域に出入りを始めた学生と、失踪した考古学者の関係。それに考古学教授陣が気が付いたのはタテバヤシコウスケの学年が上がり、考古学専攻に入ってからだったと。
「奴らよほどここに近付きたくなかったと見える。だがそれにしたって、タテバヤシを見て何も感じないほうがおかしい」
「どういう意味です?」
「鈍いのか、あるいは忘れたかったのかもしれないね。私に言わせりゃ若い頃の奴にそっくりだよタテバヤシは。苗字が同じでなくたって……」
 ――うまく説明出来ないけど、似てるとは言われた事がある。
 ツキミヤの言葉がまた響いた。そうか、そう言ったのはこの人だったのか……。私は名も知らぬ教授らしき男性を再びまじまじと見た。
「なぁ、君」
「はい?」
「タテバヤシ君に伝えてくれないか」
「何をですか」
「このまま真っ直ぐ道を進めば、飼い殺しになると」
「飼い殺しって」
「分かるだろう。奴の息子だと判った以上、この分野で彼の上がり目は無いんだよ」
 その時、ガラガラと引き戸を開く音がして、私達は振り向いた。こんな場所に入ってくるのは一人しかいない。
 ツキミヤコウスケ。いや、タテバヤシコウスケ。
 淡い色の前髪の奥で冷たい瞳が私達を映した。この会話を全部で無いにしろ、後ろのほうは聞いていたに違いない。
 あの日、何も知らない私が彼に「告白」したあの日、彼はどういう気持ちで「ツキミヤ」と名乗ったのだろうか――。
「……また貴方ですか」
 ツキミヤが静かに言った。
「ミシマさん、今まで黙っていた事は謝るよ。そのうち話すつもりではいたんだけど」
 ひどく冷たい、乾いた声だった。それに気のせいだろうか。足元の影がいつもより濃いような気がした。周りの空気が緊張している。
「やあ、タテバヤシ君、卒論の進み具合は上々かね」
 教授職らしき男性は言った。ああ、嫌だ。私は思った。この感じは嫌だ。怖い。この人は何も感じないのだろうか。
「ええ、オリベ教授。貴方にご心配いただかなくても」
 ツキミヤは静かに男性の名を口にした。でも、声は静かでも足元が全然静かじゃなかった。
「君の実力は知っている。考古学の奴らだって君の論文にそうそうケチはつけられない。下手な質問なんかしてみろ、君の反撃は怖いからな」
 足元の黒い影がぼこぼこと、沸騰するみたいにざわついていた。こっちがツキミヤの本音の部分だと思った。だめ、これ以上刺激しちゃいけない。怖い。
「だからこそ余計に厄介なのだ」
 ぱちり、ぱちり。影にいくつも眼が開いた。それは三色の瞳をしていた。じわりじわりと影が広がっていく。
「タテバヤシ君、あいつらは恐れてる。君がいつかあの時の事をほじくり返すと。だから、あいつらは静かに君の行く道を塞ぐだろう。騒ぎ立てない、だが決して君を上にやらない」
「……僕は父を信じています」
「知ってるよ」
 ガタガタと資料室の窓が鳴った。雨の上に風まで出てきたのだろうか。
「博物館の特別展、私も行ったよ。あの事件以降、ツキミヤの研究のほとんどが学術的価値無しとされた。あれだけが今になって……」
 まるで影から生えるようにカゲボウズ達が顔を出した。影の中で無数が溶け合っているそれは、個々のカゲボウズとは違うおぞましさがあった。それはゆっくりと包み混むようにしてツキミヤの足を登っていく。そうして私は理解した。
 ああ、だからなんだ。あの時、あそこでカゲボウズが出てきたのは。あの時、ツキミヤは思い出していたのだ。
「タテバヤシ君……いや、ツキミヤ君。君の行く道に決して光は当たらない」
 ツキミヤは思い出していたのだ。憎しみを。
 自身のお父さんをこの道から追いやった人達への憎しみ。お父さんを棄てた世の中への憎しみ。黙殺されてきた憎しみ。思い出の品を通して、決して振り返られない、報われない憎しみを。
 黒い、黒い負の感情を。
「『何を考え、生きていたのか。何に喜び、何に悲しんだのか』」
 オリべ教授が言った。聞き覚えのあるフレーズだった。
「……黙れ」
 ツキミヤ言った。その言葉はビリッと電気を通したみたいに空気を振動させた。
「道は一つではないよ、タテバヤシ君。君は当然上を目指すだろうが、その際は専攻を変更したまえ。私なら別の道を用意出来る」
「あんたに何が分かるんだ!!」
 空を雷が裂くように、悲鳴という名の叫びが響き渡った。ガタガタと窓の鳴る外は暗い。その時、ばちりと天井の蛍光灯が消えた。
「教授も、あの博物館の学芸員も、どいつもこいつも皆同じだ! 普段は黙殺してるくせに都合のいい時だけツキミヤを引っ張ってくる」
「否定はしないよ」
「そうだとも。あんたも同じだ。見棄てたんだ! あの時、何人が父さんに味方した? 皆テレビ画面と同じ事しか言わなかったじゃないか! ホウエン中どこに行っても嘘吐きと罵られる。話を聞こうともしない。この世界全部が敵になった気持ちがあんたに分かるか! 父さんは……」
 普段の温厚なツキミヤからは考えられない口調だった。影が伸びていく。ツキミヤの背をよじ登って、肩に腕に巻き付いていく。
「父さんは嘘吐きなんかじゃない!」
 オリベ教授が目を伏せて押し黙った。
「……出ていってくれ」
 声を震わせてツキミヤは言った。
「出て行ってくれ! もう二度とツキミヤの名を口にするな!」
 叫び声が響き渡る。潮時だ。そんな教授の表情が見て取れた。暗い部屋を二つの人影が交差して、離れていった。引き戸を半開きにしたまま、影の一つが部屋を出る。足音が遠ざかっていった。
 残されたツキミヤがうなだれるように、詰まれた本の一角に座り込む。その様子にぞくりと悪寒が走った。肩に腕に巻き付いていた影が、眼を開き、芽吹き始めていたからだ。影から身体を出すカゲボウズ達。侵食されていくツキミヤの白い肌。染み渡った黒い影に抱かれたツキミヤは人の形でない、異形の何かだった。
 ああ、そうか。彼らは待っていたのだ。果実が熟して甘みを増すように、彼の感情が食べ頃になる時を。喰われるってこういう事なんだ。
 奥歯がカタカタと鳴る。必死にそれを噛み殺した。私は理解した。たぶんこの十数年の間、何度も何度も、感情が高ぶるたびに。こうやってツキミヤは喰われ続けたのだ。黒い影は飴を舐めるみたいに何度も何度も彼を犯した。けれど、喰われても、喰われても、彼は負の感情を生み出し続ける。人形ポケモンに飴玉を与え続けるのだ。たぶん、お父さんを信じ続け、世界を敵だと呪う限り、ずっと。
「ミシマさん」
 異形のツキミヤが口を開いた。その表情も声ももう普段と変わらないのに。
 見える事は、怖い。でも、見えていない事も怖い。
「嫌なところを見せてしまったね」
「そんな事、」
「今日は帰って。ここは暗いよ。雨も降ってるし、帰ったほうがいい」
 どうして。どうしてそんな事言うの。
「私は……」
 そう言い掛けた時、何かが私の袖を引っ張った。
「あ、君」
 思わず、声を上げる。視線の先で袖を引っ張ったのは、一匹のカゲボウズ。識別番号1番だった。1番が口でくわえた袖を引っ張る。早く部屋を出るんだ。そう言いたげに。
「待って、待ってよ。私は……」
 行ってはいけない気がした。もしここで出て行ってしまったら、ツキミヤを見捨ててしまったら、私も敵になってしまう気がした。
 ツキミヤコウスケ、と彼は名乗った。ツキミヤ、と。旅立つトレーナーが自身に名を付けるように。
 両親の離婚だろうとあの教授は言っていた。それでツキミヤの姓は変わった。でも彼はツキミヤ教授の息子であり続けようとしたのだ。だから。
 袖を振り払った。1番が引っ張る袖を。
 瞬間、部屋の端でガラガラと引き戸が閉まった。ひとりでに。ガン、という鈍い音がして暗い部屋が閉ざされる。
「キュピイ!」1番が悲鳴に近い鳴き声を上げた。
 たぶん念力の類だと思った。いつか1番が花をもいだあの時のような。だとしたらカゲボウズが。そうしてツキミヤのほうに振り向いた瞬間、私は驚愕した。
 床一面が黒かった。ツキミヤの黒い影と同じ夜色。そこに無数の眼が開く。三色の眼が数え切れないほどに開いていた。
「だから帰れと言ったのに」
 ツキミヤの乾いた声が響いた。
「もう扉、開かないよ、ミシマさん。カゲボウズ達ががっちり閉めてしまった」
 ツキミヤが顔を上げてギクリとした。私を見据えた彼の眼が三色に、カゲボウズのそれと同じ色に染まっていた。
 ゆっくりと立ち上がる。その身体に巻き付いていた黒い影が徐々に引いていった。
 とても嫌な予感がした。それに今、彼は何と言った?
「さっさと逃げればよかったのに。そのカゲボウズは警告してくれていたのに」
 私はハッとして1番を見た。1番が震えながら私を見上げた。
 何より、ツキミヤは言った。ツキミヤははっきりと言った。カゲボウズ、と。
「ツキミヤ君、貴方は……」
 私は問うた。今度は鎌をかけるとかではなく。
「見えてるよ。最初から」
 言い切らないうちにツキミヤは即答した。
「十年以上もこうなんだ。気が付かないほうがおかしいだろ?」
 黒い床を踏み、ツキミヤが歩み寄ってくる。周囲すべてを闇に染めてしまいそうな雰囲気に圧倒されてしまいそうだ。怖い。でも、飲み込まれちゃいけない。
「……騙したのね」
 私は気圧されまいとして言葉を発した。
「それはお互い様だろう?」ツキミヤが返す。「僕達は互いに見えない振りをしたんだ」
 異形の瞳に射られる。目を離せなくなる。足が、動かない。
 ツキミヤが近づいてくる。彼はすうっと腕を伸ばす。まだ影の引かぬ腕は黒く、私に向けられた手の平の中で三色の眼が一つ、開いた。
「ピキュイ!」
 瞬間、1番が私のとツキミヤの間に割って入った。
 ひらひらと暗い部屋に浮かぶカゲボウズがツキミヤの進行を止めんとした。
 ツキミヤが歩みを止める。しょうがないなとでも言いたげにくすりと笑った。
「だって仕方無いだろう? 彼女はわざわざ飛び込んで来ちゃったんだよ?」
 カゲボウズが首を横に振る。だが。
 ばくりと一口に食らうように、下から何かが伸び、1番を捕らえた。ツキミヤの足元から伸びた影だった。カゲボウズの群体と表現すべきなのか、それはカゲボウズが溶け合い絡み合った闇色の捕食器官だった。三色の眼がぎょろぎょろといくつも覗いている。
「戻っておいで。遊びの時間は終わりだよ」
 1番が大きな闇に取り込まれていく。身体をよじり抵抗するが群体のほうが強い。「無駄だよ」と、ツキミヤが言った。
「君はいつかのあの子みたいにがぶ飲みした訳じゃないし、僕だって同じ轍は踏まない。もう血を流すのはごめんだからね」
 底無し沼に沈むみたいだった。ピィピィと鳴き声を上げるカゲボウズは暴れるほどに深みにはまっていく。やがて完全に飲み込まれて、鳴き声が途絶えた。影がツキミヤの足元に引いていく。
「……いい子だね」なだめるように優しい声で彼は言った。優しい声なのに、それがものすごく残酷な響きに聞こえた。
「喉が渇くんだ。僕のカップじゃ上澄みしか啜れないから、二杯目が必要なんだよ」
 ボウ、と私を照らすように青白い鬼火が灯った。その揺らめきがツキミヤの顔をも冷たく照らし出す。薄く笑みを浮かべたその表情は作られた能面のように見えた。
 黒く染まった床の中から、次々と影達が浮き出した。十、ニ十、三十、カゲボウズの数がどんどん増えていく。くすくす、きゃきゃきゃ、とあちこちから笑い声が聞こえる。
「こうなってしまうと手がつけられないんだ」
 ツキミヤが言った。
「でも機会は与えたろう? 逃げなかった君が悪いんだよ」
 もはや眼鏡スコープに意味など無くなっていた。鬼火に照らされた部屋の壁に人形の影がいくつも踊る。その数はまだ増えていく。五十、六十、七十……八十を超えただろうというところで数えるのをやめた。百対以上の瞳が私を射る。初めて彼を見かけた時の数は三十前後。それは氷山の一角に過ぎなかったのだと思い知った。人形ポケモンが私を取り囲んで、距離を縮めていく。一匹が耳元で笑った。
 カゲボウズ達が身体を摺り寄せ絡まってきた。その感覚にびくりと身体を震わせる。絡まった闇は蛇が獲物に巻き付くみたいにその表面積を増してゆく。ツキミヤの時と同じように、複数が溶け合って侵食してくる。腕に肩に首に闇の触手が根を張っていく。ずぶり、ずぶり、と私の内側に入り込んでいくのが分かった。抗えなかった。巻き付く影をはがそうとしても、うまく力が入らないのだ。
「そういえば、お見合いはうまくいったのかい?」
 まるで声で撫でるようにしてツキミヤが言った。
 ああ、全部分かってるんだと私は思った。
 この人は最初から全部分かっている。私が研究目的で近づいた事も、パートナーを見つけられなかった事も、その事がずっとくすぶり続けていた事も、再び望みを抱きながら叶えられなかった事も、全部。
 全部分かってる。見透かされているんだ。
「ミシマさん、僕と君はね、同じ憎しみを持っているんだ」
 皮肉を含んだような笑みを浮かべ、ツキミヤが言った。
「君はこの世界を恨んでいるだろう? 君に見向きもしないこの世界を。君とすれ違っても誰も気付かない。気付きやしない。ずっとずっと恨んできたんだろう? 僕もそうだ。ずっと憎んでた。父さんを棄てて、黙殺してきたこの世界がずっとずっと嫌いだった」
 黒い影がねっとりと絡みつき、締め付ける。影が身体を、声が精神(こころ)を、侵食していく。
「世界に気付かれないのと、世界に嫌われるのはどっちがいいんだろうね?」
 身体に絡みついた黒い影が蠢く。またずぶりと奥に入り込まれ、小さく声を上げた。痛みは無いけれど胸を貫かれたような感覚があった。だめだ、やっぱり力が入らない。
 カゲボウズは負の感情を喰らう。長年信じられてきた通説が証明される時、その時が来たのだと思った。私という獲物でもって。
 私は喰われるのだ。こうやって奥に入り込まれて、私の中に渦巻いている負の感情を。恨みの感情を。鬼火が冷たく燃えている。
 ツキミヤが手を伸ばす。その指が頬に触れた。しなやかな指がそのまま肩に回り込んで私を引き寄せた。身体のあちこちが影に貫かれていく。もうとっくに自分の足で立ってはいなかった。私の体重を支えていたのは、ツキミヤの黒い影だった。
「もういいだろう? もう疲れただろう? もう待つのは疲れただろう?」
 顔の横で唇が動いて、言った。
 もういいや、と思った。全部委ねてしまおうと。全部全部食べさせてしまおう。
 そうしたらきっと満たされなかった事も、つらかった事も全部忘れられる。こだわりなんて捨てて楽になれるんだ。
 ――そうだね。もういいよ。
 私は静かに目を閉じた。

「じゃあ、この問題が分かる人、手を挙げて」
 誰かの声がした。
 気が付けばそこはどこかの小学校で、廊下から教室を覗くと授業中だった。先生の期待に応えようと、子供達が元気よく手を挙げた。先生は一人を指名し、その子は自信たっぷりに黒板に答えを書いた。また先生が問題を書いた。また数人が手を挙げる。そんな事を繰り返しているうちに授業は終わって、隅っこの席にいた女の子が溜め息をついた。最後まで指名される事がなかったからだ。何度も手を挙げたのに。
 休み時間になって、子供達は校舎の外に飛び出した。あっちやこっちで思い思いの遊びを始める。あるグループは鬼ごっこ、あるグループはかくれんぼ。鬼を中心にして子供達は散っていった。少しして鬼が動き始める。
 一人見つかった。また一人見つかった。そして鬼は別の子になった。一人見つかった。また一人見つかった。やがて休み時間終了のチャイムが鳴って、みんな教室へ戻っていった。
 誰もいなくなった校舎の裏、女の子が一人植え込みの影から出てきた。
 自分が忘れられていた事を知って、女の子はとぼとぼと校舎へ戻っていった。
 ――ああ、あれは私だ。昔の私だ。
 これは過去だ。だから白黒で色が無いのだ。
 そこまで理解すると、今度は背後から声が聞こえてきた。
 放課後の帰り道だった。子供達が私の横を走りすぎていった。その先は河川敷で、一斉にモンスターボールが放たれた。放物線が一番上に達した時、ボールが割れる。中から次々にポケモン達が飛び出した。キモリ、アチャモ、ミズゴロウ、子供達が先週センターで貰ってきたばかりの相棒達。快晴の空の下、あちこちで野良バトルが始まった。
 男の子も女の子もバトルに熱中するその様子を、木陰でしゃがんだまま、あの日の私が見つめていた。知っていた。たとえ声をかけたって、ポケモンを持っていない自分は相手にされないと。だからいつも黙って見つめていたのだ。
 私は「私」の横に同じように体育座りした。「私」は気付かない。ずっとバトルを見つめている。たぶん、テレビを見ているあの感覚と同じなのだ。画面の中の登場人物は単なる情報だ。情報が視聴者の視線に気付く事はない。
 退屈をもてあます女の子の横でがさがさと草が鳴った。見れば野生のジグザグマが出てきて、ふんふんとあたりを嗅ぎまわり始めていた。体を伏せて女の子はじっとそれを見つめている。上から音がして樹の上を見上げると長い二股尾の鳥ポケモン、スバメが戯れていた。女の子はじっと彼らを見守った。けれどそのうち、野生ポケモン達もどこかに行ってしまった。一度もこっちを振り返らなかった。一度も。
 気が付けば夕焼け空になっていて、クラスメート達もそのポケモン達もみんなみんないなくなっていた。女の子はとぼとぼと夕暮れの道を帰っていく。私はそれを黙って見送る。「私」は小さくなり、そして見えなくなった。
 ――誰か見て。誰か気が付いて。誰か私に気が付いて。
 たとえ声にしなくたって、いつだってずっと叫んでいた。
 「私」と別れた私は、色の無い河川敷を歩いていった。昔から変わっていないと思った。帰り道はいつだって一人。長く伸びた黒い影は一人分だけだ。
 いつから、いつから一人だったんだろう。私は遠い日を回想する。
「うそつき」
「ウソツキ」
 と、誰かが言った。
 ――本当だよ。あの木の下にずっと立ってる。
 私が大きな柳の木を差して言う。もうずっと木の下で、一つ目のポケモンが立ってこっちを見ている。それなのに周りの子は、いないいないと口を揃えてそう言うのだ。
「うそつき」
「ウソツキ」
「いないじゃないか」
 ――本当だもの。ずっと居るもの。
 私は主張する。どうして、どうしてみんなには見えないのだろう?
「うそつきは友達が出来ないんだぞ」
「みーちゃん嫌い。ウソばっかり言うんだもの」
 そう言ってみんな去って行った。振り返ると木の下の一つ目ポケモンも居なくなっていた。
 ああ、そういえばそんな事もあったな。
 幼い日の苦い記憶を噛みしめながら、私は道を歩いて行く。
 ふと道行きの途中で足を止めたのは、花を見つけたからだった。背の高い茎にいくつもついた大きな花。それは大学やセンターで何度か見かけたあの花だった。
 ああ、この世界じゃ色が無いから、大きく鮮やかに咲いたってちっとも目立たない。これじゃあ私と同じだ。
 おもむろに手を伸ばしてみると、柔らかい感触が伝わってきた。単なる情報に触れられた事、ここまでのリアリティがある事に驚きながら、誰も気付かないのなら、誰も心に留めないのなら、私が手折ってもいいだろうと思った。
 そうして花を持って、とぼとぼと歩くうちに男の子達に出会った。上の学年なのだろう。さっき遊んでいた子供達より一回り大きい。男の子が三人ほど、一人の男の子を囲って何か言っているようだった。
「おまえのとうちゃん、うそつきなんだってな」
 囲んだうちの一人が言って、ギクリとした。
「うそつき!」
「うそつき!」
 それが何を指しているのか、すぐに分かってしまって、耳を塞ぎたくなった。
 悪意だった。多勢が一人に向ける悪意だ。
 私はいつの間にか、私でない領域に入り込んでしまったらしい。
「ちがうよ! 父さんは嘘吐きなんかじゃない!」
 囲まれた男の子は負けずに叫んだ。それが誰であるのか、私はよく知っていた。
 それにしたってこの状況は多勢に無勢だ。
「テレビでいってたぞ! おまえのとうちゃんがうめたって!」
「ほんとうはないのにうめたって!」
「ほりだして、うまってたってウソついたって!」
「みんないってるぞ」
「みんないってるぞ」
 男の子達は更に詰め寄った。
「そんなの嘘だもの! 父さんはそんな事しないもの!」
 囲まれた男の子は必死で訴えた。けれどもその叫びが彼らに届く事は無かった。
「いこうぜ」
 一通り悪意を浴びせかけて満足したのか、それとも折れぬ男の子の反応に飽きたのか。彼らはどこかへ行ってしまった。一人残された男の子はうつむいていた。ぽたぽたと頬を伝って涙が落ちた。それが地面に、男の子の影に吸い込まれていく。
「関係無い。誰が何人、何を言っても関係無い」
 夕日に伸ばされた影がぞわりと蠢いた。まだ幼いその男の子にはもう黒い影が憑いていた。
 流れ出るものが止まらない。ぬぐっても、ぬぐってもとめどなく流れ続ける。塞がらない傷口から漏れる体液みたいに。
「僕は信じる。僕だけは……」
 幼い日のツキミヤが言った。
 私は知っている。それはその先ずっとずっと変わらなくて、今尚変わっていない事を知っている。だから涙が出そうになった。
 何かしてあげたかった。この小さな小さな男の子に何か。けれど私は知っている。所詮視聴者に過ぎぬ私に、出来る事など何も無いのだと。そう、何も無いのだ。
 だが、
「……おねえさん、誰?」
 唐突に男の子は言った。視聴者として立っているはずの私に。
 テレビの中の人物が、視聴者に気が付く事など無いはずなのに。存在の次元が違うはずなのに。目の前で涙をぬぐう男の子を前に私は困惑した。
「なんで……」
 なんでこの人はこうなんだろう。なんで私が見えるのだろう。
 すると、袖で涙をぬぐった男の子は、私を指差し、こう言ったのだった。
「だってその花、すごく鮮やかだもの」
 ハッとして私は手の中を見た。さっきまで白黒で目立たなかったあの花が赤く赤く染まっていた。色の無いこの世界で、赤く。赤く。
 ――花っていうのは見て貰うために咲くんだよ。
 誰かの言葉がリフレインした。
 花。それは存在のアピールだ。花粉を運んで貰うために、私はここにいると、ここにいますとめいいっぱい花弁を開く。
 ずっと叫んでた。私を見て、と。
 抱き締めた。
 気が付くと私は膝をつき、小さな男の子を抱き締めていた。
 強く、強く、抱き締めていた。
 にわかに聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「もういいだろう? もう疲れただろう? もう待つのは疲れただろう?」
 顔のすぐ近くで唇が動いていた。耳元で柔らかい声を響かせていた。
 もういいや、と思った。全部委ねてしまおうと。全部全部食べさせてしまおう。
 そうしたらきっと、楽になれる。満たされなかった事も、つらかった事も、全部全部忘れられる。
 ――そうだね。もういいよ。
 そう答えるつもりだった。そう答えて目を閉じるつもりだった。
 それなのに。
 そこから出た言葉は全く違うものだった。
「……違う」
 弱々しく私の口から出たのは、彼の問いかけに真っ向から立ち向かう言葉だった。
「違う」
 と、私は言った。
「違う。違う。違う!」と。
 否定を繰り返すたびに声が大きくなっていった。最終的にそれは叫びになった。
「違う! 私は恨んでなんかいない!」
 そう口に出したその瞬間に身体が動くようになった。力が、入る。黒い影は身体にくっついたままだったけれど、いつのまにか私はツキミヤの腕を強く掴んでいて。周りに浮いていたカゲボウズ達がさっと身を引いていった。
「……どうして」
 困惑の表情を浮かべてツキミヤが言った。
「だって……貴方が見つけてくれたもの」
 いつの間にか私はそう答えていた。
「貴方があの時、私を見つけちゃったから、全部おかしくなっちゃったのよ! 全部、貴方のせい、ツキミヤ君のせいじゃないの! ツキミヤ君が私を見つけちゃったから、私は期待しちゃったのよ。それで気が付いちゃったのよ」
 ぎゅっと腕を掴んだまま、ツキミヤの目を見据えて私は言った。黒い影はまだ巻き付いたままだ。それでも私は叫び続けた。声は涙声になってる。けど、構うものか。
「私は望んでもいいんだって! 諦めなくていいんだって! 貴方が私を見つけてくれたように、きっと私を見つけてくれるポケモンだっているって!」
 ぽたぽたと涙がこぼれた。
「だから絶望なんてしない。私、諦めない! 絶対に諦めない!」

 それから先は覚えていない。何を叫んだのか、何をしたのかは定かでない。記憶に無い。
 気が付くと、ベッドの上だった。たぶん大学の医務室か何かだろうと思った。
 目覚めるまでの間、夢を見ていたように思う。
 黒い空間を、赤い花がゆっくりと落下していた。くるくると回りながら、それは落ちていく。
 回るうちに花の色が変わっていった。赤に青色が混じり紫へ、そうしていつしか夜の色に染まった。瑞々しい花びらが、ひらひらとした夜の衣に変化していく。
 そうして、いつの間にかそれは一匹のカゲボウズになった。
 逆さまのままくるくると回るカゲボウズは三色の瞳をぱちりと開く。空中で宙返りをすると、こっちを見、ケタケタと笑った。
 笑い声が耳に響く。それで私の目は覚めたのだ。
「君……ずっとここにいたの?」
 まだ冴えない頭のまま、私はカゲボウズに呼びかけた。
 目覚めた私の顔のすぐ上でカゲボウズの識別番号1番が見下ろしている。ひらひらと衣を舞わせるカゲボウズは私の問いにこくりと頷いた。
「そっか。君は……」
 そうか、そうだったんだ。
 馬鹿だ。私は気が付いた。今更気が付いた。
 手を伸ばす。1番の頭に触れ、撫でてやった。
「ごめん。君はいつだってそっちから来てくれたんだよね。気付いていないのは私のほうだった」
 私はとっくに手に入れてたんだ。

 外はまだ雨が降っていたけれど昼間よりは小降りになっていた。壁掛けの時計を見ると、いい時間になっていて、学生達はほとんどが帰ってしまったんだろう事が分かった。
 どうやらあの後、私は資料室でぶっ倒れたらしい。
「貧血だね。近頃多いんだ」
 校医の先生にそう言われた。
「そうですか……」
 と私は返事して苦笑いする。確かに「あれ」はちょっと刺激が強かった。血の気くらいは引いたかもしれない。
「ああ、そういえば」
 先生が思い出したように言う。
「君を運んできたのが、飲み物置いてったから。水分摂りなさいよ」
 自販機で買ったらしいカイスの実アイスティーを手渡された。


 それから急に課題やら発表やらが重なって、忙しい日々が続いた。個人的にやる事もあって駆けずり回っていたから、花の咲くあの場所にも、資料室にも顔を出さなかった。
 いや、それを理由に私は逃げていたのかもしれない。あれ以来何か気まずくなってしまった。もともとメールなんて私から送ってばかりだったし、向こうからも連絡がこなかった。
 しかし、それも仕方無いかとは思っている。
 ――私と、付き合ってくれませんか。
 その一言から始まった関係はもう終わってしまったのだ。あの日、お互いに見えているのだと知った日から。
 私は真の目的を隠しツキミヤに近づいた。彼もまた偽っていた。自身の名前、そして。
 あの時のツキミヤは怖かった。だけど連絡を取りあぐねているのは決して怖かったからではない、と言い聞かせる。ただなんとなく、どう話しかけていいのか分からないだけなのだと。感情に任せて色々と口走ってしまったからかもしれなかった。
 目の前では行動学研究室のゼミが進行中だ。今度はカントーのなんとかという牧場で飼われているピジョンの群れの行動解析がどうとかいう話だった。ピジョンがどうとかホエルオーがどうとか、世の中にはニッチなものを調べている人がいるものだ。だが、カゲボウズ男を追いかけていた私も人の事は言えなかった。
「ではミシマ君、この研究手法に対する君の意見を聞こうか」
 教授が私を指名した。
 あの時から、変わった事がある。

「やっぱり君のせいかしら」
 と、放課後に私は問うた。手の中に収まったそれから返事は無い。まあ、しゃべれないから仕方無い。それに今は入ってるし。
「だってね、君が私のところに来てから色々変わったの」
 私は続ける。
 人は何かが足りない。不足している。欠落している。
 でも、世の中には足りない何らかを補うような存在があって、それに出会った時、何かしらが足し算されるんじゃないかと思うのだ。それは友達だったり、異性だったり、趣味だったり、ポケモンだったり、人によって違うのだろうけど。
 最初は気のせいかと思った。けれど繰り返されるうちにそうで無いと分かったのだ。
 存在感の無さ、あるいは次元のずれ。それがいつの間にか消え失せていた事に私は気が付いていた。
 欲しいものが手に入ったからか、あるいはカゲボウズ達が食べてしまったのか、あるいは、そんなものはきっかけで、見つかってしまったあの時から徐々に変質していったのか……昨日まで見向きもされなかった一本の草が、花をつける事で目を引くようになるように。
「やっぱり会わなくちゃだめだよね」
 私は携帯を取り出す。手早く短文のメールを打った。
『今、いる?』と。
 返事が返ってきた。
『いるよ』


「もう来ないかと思ってた」
 私達が出会った……否、私が彼に見付かったその場所で、振り向かないままにツキミヤは言った。緑の絨毯に腰を下ろした彼はカイナの街を見下ろしていた。いつも通り傍らに古めかしい資料とノートパソコンもあった。
 気配を殺したつもりでいたが、徒労に終わった。背中に目でもついているのか。
 あ、そうか。目ならいっぱい憑いているんだった。
「……ひさしぶりと言うべきなのかな」
「ひさしぶり」
 あくまで穏やかに彼は答えた。
 赤い花が咲いている。その数は前より増えている。雨が止んで、暖かくなってさらに開花に勢いが増したのだろうか。海からの風で微かにそれは揺れていた。
「隣、座っていい?」
 私は尋ねる。ツキミヤがちらりとこちらを見、「いいよ」と、言った。
「会った時から思ってたけど、君って命知らずだよね」続けざまにそう言って彼は笑った。「眼鏡、外したんだ?」とも。
「壊れちゃったの」
 私は答えた。水銀式の温度計が百度以上を計れないように、眼鏡式スコープはカゲボウズ大量発生で振り切れてしまったらしい。以来、ゴーストポケモンが白く霞むようになってしまったため、外してしまった。
 だが困らなかった。あの後、私の霊感はビンビンに高められてしまったらしく、眼鏡無しでの観察に何の問題も無くなってしまったからだ。
 ツキミヤの周りにふよふよとカゲボウズが漂っている。やはりここでは出ていい事になっているらしい。ツキミヤが手を伸ばした。目の前のカゲボウズを一匹、撫でてやる。彼自身も喰われる立場のはずなのだが、それなりに愛情のようなものはあるらしい。
「もう隠す必要も無いし。お互いにね」
 ツキミヤはそう言って、寄ってきた他のカゲボウズにも同じようにしてやった。モテるなぁと私は思った。カゲボウズ基準でも彼は美青年なのだろうか。
「今日は報告に来たの」
 と、私は切り出した。
「ツキミヤ君、貴方のカゲボウズ、貰う」
 モンスターボールを見せ、私は言った。思いっきり事後報告だったが。もちろん中身は例の1番だ。
「貰うも何ももう君のだ。僕はトレーナーじゃないし、カゲボウズだってボールで捕まえてる訳じゃないからね」
 あっさりとツキミヤは承諾した。
「それに初めてじゃないしね」ぼそりとこぼした。
「初めてじゃない?」
「昔の事だよ」
 そこまで言って後は黙った。あまり語りたくは無い様子だったから追求はしなかった。
「旅に出るの?」と、打ち消すように彼は聞いてきた。
「うん。でも教授がここまでやったんだから旅しながらでも論文は出せって」
「ああ、それは大変だ」
 ツキミヤが笑う。
「だから、送り火山にでも行ってみようと思ってる。ゴーストポケモンがいっぱいいるらしいから。研究にも新入りを探すにも一石二鳥かなって」
「そうか、寂しくなるね」
 ツキミヤが言った。本当にそう思ってるのかは分からなかったけど、少なくともそういう顔はしていた。
「その、時々メールくらいはするから……」
 私が鎌掛けがてらにそう言うと
「……分かった」
 と、返事が返ってきた。
 そこまで言って、私達はしばし黙った。ツキミヤは資料を読み始め、私はボールから1番を出してのんびりと時間を過ごした。なんだか「付き合って」いた頃が戻ってきたような感じだった。
 ここでツキミヤがやる事は変わらない。活字の躍る論文を読み進めノートパソコンを叩く。たぶん彼なりに「お父さん」の研究を消化しようとしているのだろう。同時にあの教授の事を思い出した。ツキミヤはどうするつもりなのだろうか。さすがにそこまでは聞けなかった。
 だが、どうするにせよ彼はお父さんを信じ続けるし、「いつかほじくり返す」事を諦めるつもりも無いのだろう。カゲボウズがまだくっ憑いているのが何よりの証拠だ。今はそれで十分なのだと思った。
 僕と君は同じ憎しみを持っている――そう彼は表現した。
 そうなんだ。私達は諦めが悪いのだ。私が望み続けたように、足掻き続けたように、彼もまた。
 いい天気だ。午後の陽気に包まれて赤い花が咲いている。私の背丈より高い幹に椿より一回り大きい赤い花をいくつもいくつも咲かせている。花の後ろにはたくさんの大きな蕾が控えて、次は自分の番だと言いたげに花開くのを待っていた。
「ねえツキミヤ君、貴方も免許取ったらいい」
 と、私は言った。
「そうしたら好きな名前を名乗れるよ。貴方はツキミヤコウスケになれる」
 私は身体を起こし立ち上がる。赤い花を一輪手折って、言った。
「私はもう決めたよ。トレーナーとしての私の名前」



「もう! いいから飲み込んじゃいなさいよ。また後であげるから」
 対戦相手を目の前にして気がせいていた。大人しく荷物の番をしていたと思ったパートナーがリュックの中のキャンディの袋を勝手に開けた上、何個も何個も口に詰めこんでしまっている状態で、バトルどころではなかったからだ。せっかく声をかけられたっていうのに。
「まぁまぁ、キャンディくらいゆっくり舐めさせてあげなさいよ。急いでる訳じゃないし」
 バトルを申し込ん出来たスーツのおじさんは笑いながらそう言った。
 ちょっと買い物している時に「トレーナーの方ですか」と声をかけられたのだ。まあ、旅に出てからはこんなのはよくあるシチュエーションだからこっちも慣れたもので。それでオーケーして戻ったらこのザマという訳だ。
「ごめんなさい。ちょっとお待たせします。もう、進化して手足が生えたらこれよ。カゲボウズの時はもっとお行儀よかったのになー」
「気にするほどの事じゃないさ。しかし、ジュペッタってのはこんなものも食べるんだな」
 もごもごと頬を頬張らせるぬいぐるみを見つめ、スーツのおじさんは妙に感心していた。
「はは、よく言われます」
 私は苦笑いして答える。
「しかし、食べるたびにチャックを開けるんじゃ力が抜けて困るんじゃないのかね」
「私としてもそこが悩みどころで」
 私が顔を赤くしながら答えるとおじさんは笑った。
「それじゃあ、待っている間に自己紹介といきましょうか。バトルの前にはお互いに名乗るのが礼儀ですからね。私はヨシムラと言います。まあ、トレーナーネームは本名のままなんだけどね。そしてこっちが私のパートナー」
 おじさんがボールを放り投げる。ボールが高く放物線を描いて、異郷の踊り子の帽子の羽のような、長い葉を頭に頂いたポケモンが宙返りして現れた。大きくしなやかな森とかげ、ジュプトルだ。焦げ茶色のスーツのおじさんはどうだと言わんばかりに胸を張った。よほどこのポケモンが好きなのだろう。
「ケーッ!」
 ジュプトルが勇ましく吼えた。やる気満々といった感じだ。
「あれっ?」
 そこで私はある事に気が付いた。
「もしかしてヨシムラさん、去年、カイナのポケセンでお見合いしてました?」
「ん? そうだけど、あれ、もしかしてお嬢さん……」
「そう、そうですよ!」
「へえ、雰囲気変わったなぁ」
 ヨシムラさんは、まじまじと私の顔を見た。が、ちょっと目の遣り場に困っていた。
 まぁ確かにこの格好は自分でもはっちゃけているとは思う。へそは出しているし、着ているのも服と言うより水着に近い。でもホウエンは暖かい地方だし、今は暖かい季節だからこれくらいはっちゃけていいと私は思っている。露出度が高い? いいや、トレーナーなんだからこれくらいは許されるはずだ。いつか誰かさんが言っていたではないか。
 そんな会話をしてるうちにジュペッタはキャンディを舐め尽くしたらしかった。もう一個包みをあけようとしていたが「勝ったらあげるわ」と、首ねっこを捕まえてバトル場に引きずり出す。相棒はそれでようやくスイッチが入ったらしい。進化して生えた腕をブンブン振り回して準備オーケーといった感じのリアクションをしてみせた。
「よかった。いいパートナーを見つけたんですね。では、始めましょう」
 ヨシムラさんが言った。
「その前にお嬢さん、貴女の名前を聞いておきましょうか。あの時は聞きそびれましたから」
「私? 私の名前は――」
 頭の両端につけた赤い花が微かに揺れた。



「芙蓉(フヨウ)?」
「そう、芙蓉。お見合いの時に一緒になった人がね、教えてくれたの」
 私は手の中にある手折ったばかりの赤い花を見つめ、答えた。
 芙蓉の花言葉は、繊細な美しさ。
 そして、しとやかな恋人だ。
 どうにも名前負けの感があるけども、そこは気にしない事にする。
「行っておいでよ」
 ツキミヤが言った。
 海からの風が吹いた。



「いやぁ参った! お嬢さん、お強いですね」
 目を回しひっくり返ったジュプトルをボールに戻し、スーツ紳士は言った。
 私はにこりと笑う。キャンディの包みを開けると中身を投げた。ジュペッタが飛んでくる。
 ナイスキャッチ。チャックを開けてそれを受け取った相棒は大急ぎでチャックを閉めた。
「だって、いい報告がしたいですから」
 私は答えた。
 そうだ、久々にメールを打とう。
 そう思い立って一文を打つ。空にかざし、送信ボタンを押した。

 空の雲は風に乗って、一刻一刻と形を変えながら空を泳いでいく。
 にわかに風が通り過ぎた。大きな風が。
 振り返ると、赤い花飾りが、風にさらわれてどこまでも飛んでゆく光景が見えた。