●喉が乾く


 少年は真夜中に目を覚ます。
 むくりと起き出すと自室のドアを開け、ふらふらと洗面所へ歩いていった。
 水道を捻るとさあっと水が流れ出す。少年は容器にそれを注ぐでもなく、重力に従い流れ出すその水を自らの口で受け止めた。喉を鳴らし半分程それを飲み干したが、残りの半分はあぶれ、少年の首筋を流れて濡らした。つうっと唇から伝った雫をぬぐい、少年は思う。
 まったく美味しくない、と。
 もう何度目になるだろうか。真夜中に何度も何度もひどく喉が渇いて、そのたびに水を求める。それなのに蛇口から流れ出る水はそのたびに不味く、少年の欲求が満たされる事は決してないのだ。
 たぶん、あれからだ、と少年は思う。
 自分の目の前にあの影達が現れて、それから――。

 少年が最初に「影」に気が付いたのは、母親と共に何軒目かの新居に引っ越した晩だった。洗面所で歯を磨いていたその時、鏡にそれは映っていた。
 夜色の衣を纏った何か。
 けれど、驚いて振り返った時、そこには何もいなかった。気のせいだろうと思って、薄気味悪かったけれど母には何も言わなかった。

 そうして、次の日の晩にまたそれは現れた。
 昨日と同じように鏡に映っていた。鏡の映ったそれをよく見ると角を生やしたてるてるぼうずのようなフォルムで、瞳は三色に光っていた。ちょうど、少年の頭の横にふわりとそれは浮いている。けれど少年が振り返るとやはりそこには何も居ないのだ。
 慌ててその場所を飛び出して、母のいる居間に走り込む。テレビがついていた。箱の中に映る人物が繰り返し繰り返し、よく知った名を報じている。少年は声をかける事が出来なかった。

 それをはっきり目視できるようになったのは三日目になってからだった。
 振り向いた先に、鏡に映ったままの姿でそれは居た。少年と少し目があって、ケケッと笑った後にすぐ消えた。
「母さん、この家に何か居る」
 そう少年は訴えたが、母は気のせいだろうと言ったきりだった。

 四日目に、それは三匹現れた。
 すぐに消えたが、消えるまでの時間が少し長くなったように思う。

 五日目にはまた数が増えた。
 少年が洗面所を出ても後ろをついてくる。

 六日目。
 少年の背後にそれが消えずにいるのに、母は何も言わなかった。どうやら母には見えていないらしい。
「たまには外に出たい」
 そう少年は訴えたが、母は承諾しなかった。居間ではテレビが光っていた。

 七日目。
 夕方からそれは現れた。数は十ほど。少年は初めてそれに話しかけた。
「お前達はなんなんだ」と。
 影は何も答えなかった。だが、少年は話を続けた。引っ越してきてから母親以外の人間と言葉を交わしていなかった。少年は語った。母とこの町に越してきた事、外に出してもらえない事、いなくなった父親の事を。
「お父さん、今どこにいるんだろう」
 少年は殺風景な自室に置いてある黒いぼんぐりを手にとって呟いた。父親がくれた最後のプレゼントだった。
 今日は何もしていない。それなのにひどくお腹がすいている気がした。

 八日目。
 家を出るな。そう言いつけられていたが一週間の後、とうとう辛抱がきかなくなった。母親が買い出しに行っている間に、少年はそっと家を抜け出した。そして、知らない土地に迷いながらも地元の図書館へ辿り着いた。
 少年は自身の家に巣食う影の正体を調べる事にした。父親も何か知りたい事がある時はそうしていたのを思い出したのだ。取り出した本は『ホウエンちほうのポケモン』というタイトルだった。影の姿を追い求めて少年は、一ページ、また一ページとページをめくっていった。
 カゲボウズ、にんぎょうポケモン。タイプ1、ゴースト。
 それが影の正体だった。
 なあんだ、やっぱりポケモンの一種だったのだ。少年は影の正体が分かって少しほっとした。
 だが、ほっとしたのも束の間であった。家に帰った少年を待っていたのは半狂乱になりかけた母親だった。案の定「なぜ外に出たのだ」とこっぴどく叱られた。
「もう我慢の限界だ」と少年は訴えた。
「とにかく家を出るな」と母親は叫んだが、少年は頑として聞き入れなかった。
「お母さんこそ、そんなに大声を出して。ご近所に目をつけられたら困るのは母さんだろ」
 仕舞いに少年はそう言った。
「僕は何を言われても構わないから。嫌がっているのは母さんだけじゃないか」
 それは十歳、十一歳そこらとは思えない冷静な物言いだった。感情を押し殺したような。
 それで母親はしばらく黙ったのち、無断で外出しない事、必ず行き先を告げる事、夕方には戻る事を条件付けしてしぶしぶ外出を許可したのだった。たぶん納得はしていなかった。ただ彼女には議論する元気が無かったのだと少年は思った。居間では相変わらずテレビが光っている。無ければいいのに、と思う。どうせあいつらは悪口しか言わないのだから。
 自室に戻り、少年は黒いぼんぐりを手に取った。何を言われても平気だ。嫌な事は全部この中にしまってしまえばいい。そう少年は自身に言い聞かせた。それは父親に教わった古い古いまじないだった。けれど涙がぽたり、ぽたりと零れ落ちた。
 するとカゲボウズが一匹、ふらりと少年のほうへ近寄ってきて、ぺろりとそれをぬぐうように舐めたのだった。にわかに少年の手がカゲボウズを捕まえる。少年は人形ポケモンをぎゅっと抱き寄せた。
「お父さん……」
 一言そう呟いた。
 その時、初めてカゲボウズに触れた。
 なんだかひどく喉が渇いている事に少年は気が付いていた。

 九日目になって、少年はさらなる詳細を調べ出した。
 カゲボウズは感情を喰らうポケモンであるらしい。嫉妬、怒り、憎しみ……そんな負の感情を喰らうのがカゲボウズというポケモンなのだと。正体が分かった時とは一変、少年は背筋が寒くなるのを感じた。だとすれば、真っ先に喰われるのは自分自身が胸の内に抱く感情に他ならない、そう確信したからだ。
 そうだったのだ、カゲボウズ達は自分を喰らうために現れたのだ、と。
 抗う術を少年は知らなかった。そんなものを記した書物がこの図書館にあるとも思えなかった。いくらか本を引っ張り出した気がするが、無駄な足掻きだった。
 対策も立てられないままにあっという間に夕刻となった。母親との約束通りに家路につく少年は、夕日に伸ばされた自身の影を見て愕然とした。自分の影の中に、数え切れない数の眼が光っていた。三色に光る眼。それは他でもないカゲボウズの眼であった。
「十匹どころじゃなかったんだ……」
 少年は呟いた。
 何日か前、少年は『この家に何か居る』と母親に訴えた。だが、その認識はどうやら間違っていたらしい。家ではない。こいつらは自分に憑いていたのだ。どうあっても逃れられないらしい。こいつらは自分を逃がす気が無いのだと少年は理解した。
 そう認識したらおかしな覚悟が生まれてきて、妙に落ち着いてきた自分もまた、いた。
 ああ、喉が渇いた。こんな時でも喉は渇くんだなぁ。そんな事を少年は思ったのだった。
 
「どこに行っていたの。こんなに遅くまで」
 帰宅後の第一声がそれだった。居間では相変わらずテレビが光っていて、母の目は少年ではなくそちらに向けられている。約束は守ったのに、なんて言い草だと少年は思った。
「何とか言いなさいよ」
 少年は答えない。暗い部屋にテレビがこうこうと光っている。
「ほら、またあの人の名前が出てる……」
 母親はそう呟いた。
 無断で外出しない事、必ず行き先を告げる事、夕方には戻る事。これらを守った上で少年は行動し、そして帰宅した。ああ、この人はもうだめだ。そう少年は思った。そんな事を忘れてしまうほど分別がつかなくなっているのだ。
「……あなたが出歩いたりするからよ」
 少年は答えない。もはや『報道』は加熱し、だから親子は住処を変えた。少年が出歩いた事とそれ自体は何の関係も無かった。
「あなたは自分の立場が分かってないわ!」
 母親がヒステリックに叫んだ。
「あなたはあの人の子どもなのよ! それなのに、どうして出歩いたりしたの! 今出ると危険なのよ!」
 本当にあの人にそっくりだわ。言い出すと聞かないし、頑固だし。その他に様々な愚痴を零して母親はソファに突っ伏して泣き出した。その様子を余所にテレビのニュースが『報道』を続けていた。
「ああ、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの! みんなあの人のせい、あの人のせいだわ!」
「……父さんは悪くない」
 少年はそう呟くと居間のドアをバタリと閉めた。
「憎むべきは父さんじゃない。父さんを悪く言う奴らなのに」
 喉が渇いていた。自室に戻る前に洗面所の蛇口を捻り、手で掬うと飲み干した。顔を上げる。洗面台の鏡にカゲボウズが映っていた。
「お前達は僕を喰いに来たんだろう?」
 少年は言った。カゲボウズは答えない。少年はくるりと向き直ると自室に向かい、廊下を歩き出した。呪うように呟きながら。
「そうだよ僕はずっと憎かった。父さんを悪く言う奴ら、父さんを棄てた世界。父さんを信じずに泣いてばかりのあの人。大嫌いだ。みんなみんな大嫌いだ」
 ドアノブを回す。背後についてくるカゲボウズに
「好きにすればいい」
 と、言った。僕を喰いたいのなら好きにすればいい、と。
 そう言って自室に足を踏み入れ、ドアを閉めた。
 部屋の窓はもう暗かった。最低限の家具しかない殺風景な部屋の中に黒いぼんぐりが転がっているのが見えた。外界とこの空間とが遮断されて、少年のうっすら伸びた影から無数の眼が覗く。影の中からカゲボウズ達が現れ、少年を取り囲んだ。不思議と怖いとは思わなかった。
「おいで……」
 少年はすうっと腕を伸ばすとカゲボウズの一匹に触れた。
 すると、まるでエネコがじゃれるようにして、カゲボウズは顔を摺りよせてきて、少年の白い肌に夜色の衣で触れた。それが根を張るようにしてずぶりと侵食し、侵入した。影と繋がり合ったその感覚にびくりと少年の身体が震える。
 残りの影達が続いた。ある者は腕に絡みつき、ある者はうなじに、ある者は背中に、ある者は胸に、思い思いの場所に宿り、取り憑き、少年の中へと潜り込んでゆく。
 影が内へ内へと闇色の根を伸ばした。領域を一つ、また一つ侵されるごとに少年は短く息を吐いた。体の力が抜け、もはや自力では立っていなかった、少年は今や闇に抱かれていた。
 取り憑いた影達はそれ自体が一つの生物であるかようにどくんどくんと脈動を始める。
「お父さん、ごめんなさい」
 少年は呟いた。
 貴方を蔑んで馬鹿にした奴ら、それを囲むこの世界。それを一番憎まなきゃいけないのは僕なのに。それが今、僕が存在している理由なのに。僕は喰わせている……喰わそうとしている。だって、もう涙を流しながら待つのはつらいんだ。
 どうしてか少年の中に入り込み、彼を抱く闇はとても暖かかった。それは父親の腕に抱かれた時の、その暖かさに似て、とても、とても心地よくて。ぼんぐりが虚ろな少年の瞳に映った。
 悲しい事、つらい事、そこから生まれる感情は全部ぼんぐりに入れてしまえばいい。いつだったか父親はそう少年に言った。ずっとずっとそうやって我慢してきた。けれども、もう。
 少年は闇に抱かれたまま、そっと目を閉じた。
 それなのに。
 喉が渇いた。その感覚がひどくて、少年は真夜中に目を覚ました。何日か前から感じ始めた妙な喉の渇き。それが発作のようにひどくなっていた。
 気が付くと、少年は自室のベッドに横になっていた。むくりと起き出すと自室のドアを開け、ふらふらと洗面所へ歩いていった。水道を捻るとさあっと水が流れ出す。少年は容器に注ぐでもなく、重力に従い流れ出すその水を自らの口で受け止めた。喉を鳴らし半分程それを飲み干したが、残りの半分はあぶれ、少年の首筋を流れて濡らした。つうっと唇から伝った雫をぬぐい、少年は思う。
 まったく美味しくない、と。
 夕方に同じように水を飲んだ時もそうだった。こんなに喉が渇いていて、水を求めているのに、いくら飲んでもいくら飲んでも満たされない。
 苦い、不味い。毒ではないから飲み干せる。だがこれは自分の求めているものではない。
 夜中に何度も何度も少年は目を覚ました。同じ事の繰り返しだった。
 もう何度目になるだろうか。真夜中に何度も何度も喉が渇いて、そのたびに水を求める。それなのに蛇口から流れ出る水はそのたびに不味く、少年の欲求が満たされる事は決して無いのだ。
 それに夕食を食べなかったせいだろうか。いやに空腹も感じていた。

 十日目。
 ろくに眠れないまま朝になった。
 日がだいぶ上がってきたところで、母親は簡単な朝食を用意してくれた。
 渇き飢える感覚はますますひどくなっていて、勢いでそれにかぶりつくもののちっとも美味しくなかった。
「今日はどこかに行くの」
 母親が尋ねた。気分に波があった。昨日の反動なのか、今は機嫌が良いらしい。居間のテレビが珍しく消されていた。
「ううん、今日はいるよ」
 たぶんそのように答えていたと少年は記憶する。気分が悪かった。喉が渇く。この調子で外出などしたらどこかで倒れてしまうだろう。早々に朝食を済ますと、自室に戻りベッドに横たわった。その日はそうやって、毛布に包まってずうっと寝込んでいた。妙に寒気がする。震えが止まらなかった。
 浅い睡眠を繰り返して、喉が渇いて目が覚めて。それでも水を飲んだところで無駄だと知っていたから、無理やりに目を閉じた。浅い眠りの中で夢を見る。いなくなった父親の事、報道の事、母親に叱られた事、カゲボウズにその身を差し出した事。
 あいつらが憎い。父さんを馬鹿にした奴ら、棄てた世界。そして……。
「なんでだ……」
 少年はハッと目を見開いてそう呟いた。あまりに喉が渇く感覚が苦しくて、忘れていた。
 自分はカゲボウズ達に身を委ねたのではなかったのか。
 負の感情を食べさせたはずだ。捨てたはずなのだ。それなのに自分の心の在り方は何一つ変わっていないではないか。
「出て来い」
 いつの間にかそう言っていた。確信を持って。
「まだここに居るんだろ、出て来い」
 少年にはなぜかそういう確信があった。
 もぞりと毛布が盛り上がった。めくり上げて中を覗いてみれば、そこは闇だった。自分を抱いた闇だった。無数の眼がその中で何対も光っている。
「どうしてだ。感情ならお前達に食べさせたはずなのに」
 ぽろぽろと涙が落ちた。どうして、どうしてこんなに苦しいのだ。
 一匹のカゲボウズが少年に近寄ってくると、ぺろりと流れる涙を舐めた。
 ああ、たぶんそうなのだ。と、少年は理解した。彼らが喰らったのは自分の感情の上っ面だけだったのだ、と。ちょうど今涙をぬぐっただけのように。涙をぬぐっても悲しみが晴れる訳では無いのに。
「そんなんじゃだめなんだよ」
 と、少年は言った。
「もっともっと深く。もっと深く入り込んで根っこの部分から喰らい尽くさなきゃ。中途半端な喰い方はだめなんだ」
 ああきっとそうだ。失敗したのだ。きっとうまくいけばこの喉の渇きからも開放されるに違いないのだ。
「さあ、来るんだ。今度こそは失敗するなよ」
 少年は影達に言った。まるで命じるように。
 闇が再び少年を抱いた。触手を伸ばし、絡みついて、小さな身体を飲み込んだ。

 夢を見ていた。光景で夢だと分かった。少年は黒い影を引きずりながら、裸足でモノクロの世界を歩いていた。ひどく喉が渇いていた。
 北の方角の百メートルほど先に水道の蛇口が見えた。けれどそれは違うという事を少年は知っていた。
「違う。欲しいのはそれじゃない」
 少年は言った。
 西の五十メートル先に、飲料の自販機が見えた。
「違うんだ。そんなんじゃこの渇きは癒せない」
 そのように少年は言った。
 東へ二百メートルほどの所にレストランが見えた。煙が上っていて、匂いが伝わってきた。
「これも違う」
 と、少年は言った。鼻を突く匂いはちっとも美味しそうではなかったのだ。
 不意に目の前にカゲボウズが現れた。こっちを見ろとでも言わんばかりにくるりと旋回し、少年は今まで歩いてきた方向に目を向けた。
 すぐ十メートルほど先に、黒い幹の木が生えていた。
 よくよく見ると何か白いものが幾重にも枝分かれした木の根に縛られているのが分かった。
 顔までは見えなかったが、それは人間だった。
 根がしっかりと絡みつき、決して逃げられぬようがんじ絡めにして捕らえている。なぜか分からなかったが、その姿を見て少年はごくりと喉を鳴らした。
 どうしてだろう。目を離す事ができず、心臓の鼓動が早くなった。
 すると、びくりと右の腕が震えたのが分かった。
 見ると少年のその右腕はもはや人の形をしていなかった。それは左の腕に比べると明らかなアンバランスさが見て取れるほど黒く黒く巨大化し、伸びる五本の指から鋭く長い鎌のような爪が伸びていた。まるで肉を引き裂くためにあるかのような。
 その腕に先ほどのカゲボウズが摺り寄っていく。ひらひらと揺れる衣で触れたかと思うと、絡みついて、あっという間に同化してしまった。
 少年は気が付いた。これは彼らの塊なのだ、と。影達が寄り集まって形を成しているのだと。すると右腕のあちこちで眼が一斉に開いて、ぎょろぎょろとあたりを見回した。その腕はひとりでに伸ばされていく。引っ張られるように少年は木に向かって歩き出した。
 再び少年の目に映ったのは、その右腕と同じ色の木の根に縛られた誰かの白い身体であった。そこで少年は気が付いた。この白い身体を捕らえている黒い木も彼らが寄り集まって出来たのだと。黒い木の幹にも一斉に眼が開いて、少年の目の前に捕らえている者を差し出した。少年は右腕をかざす。鋭い爪を一本伸ばし、囚われた白い体に突き立てると、真ん中に軽く線を引くようにして切り裂いた。切り裂かれたそれはびくりと仰け反って、赤い線が顕わになった。
 切り裂かれた傷口からどくどくと赤い血が流れ出す。やがてそれは胴を伝い、足を伝い、ぽたり、ぽたりと地面に滴り落ちてゆく。
 少年は再び喉を鳴らした。ひどく甘い匂いが鼻をついた。
 少年は血を流すそれに歩み寄った。流れ出る赤い水が血溜まりを作ってゆく。吸い寄せられるようにして近づく少年は裸足でそれを踏んでいたが、気に留める様子も見せなかった。
 血を流す白い身体。それにそっと触れた。赤い赤い血液の流れ出す傷口に顔を近づける。
 ぴちゃり、ぴちゃりと音が響いた。獣の形をしたポケモンが差し出された器からミルクを飲む時に立てる音。その音はそれによく似ていた。

 汗だくになって、少年は目を覚ます。
 喉の渇きはまだ収まっていない。収まるどころか、ぎりぎりと締め付けるようにますますひどくなっていくばかりだ。
「なんで、なんで、どうして!」
 目の前に浮かぶカゲボウズに少年は訴えた。
「どうして、どうして? どうして、喰い尽くしてくれないんだよ……忘れさせてくれないんだよ」
 カゲボウズが困った顔をしている。やる事はやったと言いたげだった。
 少年は苛立った。ああ、喉が渇く。喉が渇く。早く喉を潤さなきゃ。けれど水なんか飲んだって無駄だ。ではどうすれば。
「喉が渇くんだよ」
 と少年は呟いた。
「どうすればいいの……」
 するとカゲボウズがするりと身体の方向を変えて、少年の部屋の入り口へと移動した。念力のようなものだろうか。ドアノブが勝手に回ってキイとドアが開いた。別の一匹が、こっちに来いと言わんばかりに服の袖を引っ張る。少年は半ば強引にベッドから引きずり出され、影達に導かれるままに部屋の外に出た。そうして別の部屋のドアノブがまたひとりでに回って、開かれた。
 そこは居間だった。
 母親がソファに座っている。テレビがこうこうと光って、雑音を吐き出している。
「コウスケ、どこに行っていたの」
 と、母は言った。
「また勝手に出歩いて。どうして言う事を聞いてくれないの」
 テレビが雑音を吐き出している。疑惑の考古学界。画面にそんなタイトルが躍っていた。
「ほら、またあの人の名前が出てる。あなたが勝手に出歩くからよ」
 箱の中で蠢く者達が口々に言う。汚い言葉を吐き捨てる。
「どうして自分の立場が理解できないの。あなたはあの人の息子なのよ」
 母親が言った。その向こうでテレビが言った。
 お前の父親は嘘吐きだ。
 お前の父親は嘘つきだ。
 お前の父親はウソツキだ。
 事実を捻じ曲げた。無いものを在ると偽った。偽って、国の予算を騙し取った。
「出歩いて見つかったら、どうなるか分かっているの!」
 嘘吐きだ。
 ツキミヤ教授は嘘つきだ。
 ウソツキ。詐欺師。人で無し。
 箱の中に蠢く大人達が口々にそう言った。
「違う……」
 少年はか細い声で呟いた。けれどもそれはテレビの雑音に掻き消されて母には届かなかった。
「もう嫌よ。いつまでこんな生活続けなきゃいけないの。私達、いつまで隠れ住まなきゃいけないの。みんなあの人のせいだわ。みんなあの人のせいよ!」
 母親は顔を覆い、おいおいと泣き出した。
 どうして、と少年は思った。
 どうしてこの人は父さんを信じてあげないのだろう。あんな事を言われて一番つらいのは父さんのはずなのに。
 少年は問うた。貴女は父さんを愛して、そして一緒になったのではなかったのか。それなのにどうして。どうして。
「みんなあの人のせいだわ」
 ああ、喉が渇く。喉が渇く。
 みんな嫌いだ。あの箱の中から雑音を吐き出す奴ら。目の前で嘆くこの人。
 テレビの中に見える奴らと、目の前で泣き喚くこの人に、何の違いがあるのだろうか。
「母さん、父さんが憎い?」
 ふと、そんな言葉が口をついた。
「憎いわ」と、母親が答えた。
「それは今こんな目に遭っているから? それとも父さんが現れないから?」
 母が黙った。しばらくの沈黙ののち、口を開く。
「……両方よ」
 母親は少年に言った。
「そう」
 少年は短く返事をする。
「……よかった」
「え?」
「その点において少なくとも母さんはあいつらとは違うんだね。こんな目に遭っているから、それだけが理由でなくてよかった。そういう薄っぺらい理由だけの感情なんて、きっと美味しく無いだろうから」
 何を言っているのだと思った。美味しいとか美味しくないとか、自分は何を考えているのだ。そう思った。
「もういいよ。そこまで聞ければ十分だ」
 ああ、喉が渇く。喉が渇く。
「……カゲボウズ」
 少年は呟く。
「……ていいよ」
 鈍い光を湛えた瞳が母親を見つめている。母親の聞き間違えでなければ、少年はこう言っていた。食べていいよ、と。
「コウスケ……? 何を言ってるの。それにあなた、その目の色、」
 そこまで言って、息子の顔をまともに見たとき、母親は言葉を失った。息子の背後に映る影。それが無数の眼を開いて自分を見ていたからだ。それは息子の目と同じ色をしていた。いや、正しくは息子の瞳の色が彼らに同調していたと言うべきか。ばたん、とひとりでにドアが閉ざされた。
 テレビの光だけで満たされた薄暗い部屋の中に無数の影が躍っている。それは一瞬の事で、哀れな獲物に悲鳴を上げる暇を与えなかった。
 ――ぴちゃり、ぴちゃり。
 少年の耳に夢の中で響いたあの音が蘇った。舌先で傷口に触れ、流れ出す血を舐める音。
 あの時、夢の中で、少年は獲物の血の味に舌鼓を打っていた。切り裂いた傷からとくとくと溢れ出、流れる血。それは恨み、憎しみ、濃厚な負の感情に他ならなかった。舌先を伝うのは、それはそれは甘美な調べ。
 ああ、これだ。ずっとこれを求めていたのだ。
 母親は人の形をしていなかった。たくさんの影が群がってもう人の形をしていなかった。それは夢で見たあの黒い幹の木に似ていて。
「もっと。もっと深くだ。もっと深く入り込んで根こそぎ喰らい尽くすんだ。中途半端はだめだよ」
 少年は命じた。憑いた者達と憑かれた者。いつしか彼らの感覚は一つになっていた。少年はぺろりと唇を舐める。たまらない。舌先で躍る甘い甘い旋律。少年はその感覚に酔いしれた。小さな身体が歓喜に打ち震えた。
 すべてが終わった時、少年を苦しめ続けた喉の渇きはいつの間にか消え失せていた。

 あれから一週間ほどが経ったある日。
 母親は息子が通う新しい学校への転入手続きをとった。息子が外出してもとくに五月蝿くは言わなくなった。彼女は憑き物が落ちたかのように、終始穏やかだった。居間ではテレビが相変わらず光っていた。
 最近はデボンなんとかという有名企業の幹部不祥事が発覚したとか、ホウエンリーグ開催が近く、注目選手は誰であるとか。そういった内容をずうっと流し続けている。だが、母も少年もそれらの内容を聞き流すだけで別段興味を示さなかった。
 母親と少年の新居を流れる空気は、それはそれは穏やかなものだった。

 一つだけ、少年の中に疑問が残った。
 カゲボウズ達は母親の負の感情を、それこそ根こそぎ喰らい尽くしてしまった。中途半端はだめだと言った少年の言葉の通り、それは徹底されたのだ。もう彼女は自分が今ここにいる経緯を覚えていない。なぜ憎しみを抱くに至ったのかを記憶していない。疑問すら抱いていないようだった。
 ではなぜ、カゲボウズ達は彼女にそれが出来て、少年には出来なかったのか。唯一心あたりがあったのは、自室の隅に置いていた一個の黒いぼんぐり。まさかな、と少年は思う。
 以前、父は少年に言った。悲しい事、つらい事、そこから生まれる感情はみんなこの中に入れてしまえばいいと。だから、ずうっとここに閉じ込めていた。ここに閉じ込めた事にして我慢してきた。だからだろうか。だからカゲボウズ達が自分のどんなに奥深くに入り込んでも、上っ面しか喰らう事しか出来なかったとでも言うのだろうか。自分の感情の根っこの部分はここにあるから。忘れないようにここにしまっておいたから……。
 まさか、こんなちょっとした心理の鍵で本当に?
 真実はどうあれ、母は忘れ、少年は忘れる事が出来なかった。父を忘れる事が出来なかった。
 それが今ここにある結果であり、間違いの無い事実だった。
「父さん……。父さんを覚えているの、もう僕だけになってしまったね……」
 少年は黒いぼんぐりを手に取ってそっと枕元に置いた。
「手放そうとなんてしてごめんなさい。もう忘れようなんて思わないから。みんながみんな忘れてしまっても、僕はずっと覚えているから」
 ずっと、ずっと待っているから。
「行ってきます。父さん」

 道を行く。今日は新しい学校への転入日だった。知らない土地、知らない町並み。知らない顔が車道の向こうで歩いている。横断歩道の前に立った時、信号が赤に変わって、少年は立ち止まった。車が目の前を右へ左へ行き来する。
 少年は信号が青に変わるのを待ちながら、なんだかまた喉が渇いたなぁと思った。朝食を食べて、さんざん赤い色の野菜ジュースを飲んだばかりだというのに。
 そうして彼は自分に付き纏う影をじっと見下ろして、無意識にぺろりと唇を舐めた。けれどもう渇きを感じても、あの時のように不安は感じなかった。

 だって、彼はもう知っている。
 渇きを癒す方法を知っているのだから。