(十九)強襲
少年は道を急いでいた。
昼間にいろいろと手間取っているうちにとっぷりと日が暮れてしまった。
「悪いのぉ、なんやえらい待たせちまった上に走らせて」
後方に声をかける。
短い髪を二つに結んだ少女があとから追ってくる。
「べつに、いいけど!」
少々息を切らせ気味に少女は答えた。
が、小高い丘を上がりきったところでさすがに息切れし、立ち止まってしまった。
「すまんすまん、ここまで来ればもういいやろ。後は歩いていこか」
少年も足を止める。
続く田の向こうに灯かりの集まりが見えた。
人の気配と活気、中心にあるのは石舞台だ。
後方に小さな山が見える。雨降大社のある山だった。
ここからの眺めはなかなかによい。
少年少女はしばし足を休めて、視界に広がる世界を見渡した。
が、ふと、視界に妙なものが彼らの瞳に映った。
大社のある山のほうから何か大きな塊がぽーんと飛んできたかと思うと、石舞台の下のほうに落ちた、ように見えた。
「なんじゃあ? 今のは」
野の火の舞台へと向かう少年少女、タイキとノゾミはお互いの顔を見合わせた。
風が舞って、どすんと何かが着地した。
舞台役者達が集まる石舞台の裏、全身が白い毛に覆われた下駄のポケモンが一匹、赤装束の青年を一人担いで突如空から現われたものだから、皆なんだなんだと一斉に目を向ける。目立ちすぎだ、と青年は思った。
お世辞にも親しみやすいとは言いがたいその容姿からか、周りの出演者達が一歩身を引いくようにして道を空けていった。
そうして自慢の下駄を鳴らしながら、ずけずけと前に進み出た進化したてのダーテングは舞台演出の眼前に今年の九十九を差し出したのだった。
「……小さい頃から舞台を見てるけど、こういう登場の仕方をしたのはあなたがはじめてだわ。ツキミヤさん」
メグミは呆れ顔で言った。
「すみません。ちょっと遅れそうになったものですから送って貰いました」
青年はやっと自由になったという感じで乱れた衣装を整える。
片腕に抱えていた風呂敷包みに目をやった。結び目はほどけておらず、こぼれてはいないようだった。
再び風が強く吹いた。
強風に目を覆って、再び開いたとき天狗の姿は消えていた。
「まったく、時間ぎりぎりよ。はやく持ち場について」
メグミが言う。
その仁王立ちする演出の向こうに銀髪が立っているのが見えた。
何をしていたんだ、遅いぞ。そういう視線を投げるとくるりと後ろを向いた。
持ち場への待機。あの時担いでいた重い荷物はすでに持っていなかった。
ふと、妖狐の瞳は黒いコートのようなものを羽織った何者かが、足早に去ってゆくのを見た。
秩序の守護者に用意された替え玉は、本物の妖に恐れをなして、早々に退散することにしたらしかった。
くす、と笑みがこぼれる。
そうして、青年は役者の顔になった。
背中にはもうひとつの強い視線を感じていた。
すうっとツキミヤが振り向いた先には一足先に社を出た雨降の姿があった。
獣の鋭い瞳が、青装束を射る。
「…………」
トウイチロウと視線が交わる。村長の孫であるこの男が、彼の計画を知っていたか否か。それはわからなかった。けれどもはやどうでもよかった。
ツキミヤはすぐにくるりと背を向けると、風呂敷包みを開き、木箱の中から狐の面を取り出した。空はすっかりと暗く、狐面の白い肌が松明の炎に照らされて、揺らぎと影を映し出していた。
仮面のこめかみから伸びる鮮血に染めたばかりのような色をした赤い紐を結わいた。
うっすらと笑みを浮かべる狐面に俗世の顔は覆い隠される。面を被った時、青年は妖狐九十九となった。
ほどなくして舞台が幕をあける。太鼓が始まりを告げて、村人が一人、炎に舐められ弄られて踊り死ぬ。その骨と肉を喰らい我が物とし、炎の妖は復活するのだ。
どくん。青年の中にある暗い臓が脈を打った。
さあ雨の神よ、花道からでもなんでも大手をふってやってくるがいい。
舞台の上に立ったなら、容赦はしない。
薄い雲に覆われた太陽は日没の方向へと傾いている。
里の境目で不毛な応酬が続いていた。
青が矢を射る。
狐が燃やす。
幾度も幾度も同じことが繰り返され、シラヌイは嫌気が差した。
だが、"門"を離れるわけにもいかず、"門"を破られる危険を冒すわけにもいかなかった。
疲れが見えても尚、まだ青の信奉者達が諦める様子は無い。
もちろん疲弊の色が見えるのは対峙している輩達だけではなかった。
何かが、おかしい。
過去の戦の経験からシラヌイは何かを感じ取っていた。
本来ならばたいていの敵は無意味を悟って撤退する、そういう頃なのだ。
むしろ計算や損得勘定に長けた将ほどそうだ。
無駄な力を浪費する前にすばやく引き上げるのだ。
そういう意味ではこのグンジョウという男は決断が出来ない男、深みにはまる性質(たち)の者だ、そのようにシラヌイには思われた。
そうなれば哀れなるはその下に就く兵士達である。
「親方様、備えは十分ですがあまり待たせますな……相手も甘くは無い」
グンジョウがぼそりと呟いた。
だが不思議と戦況がひっ迫していることに対する焦りは見られなかった。
「グンジョウ様、ラチがあきません」
そのように部下の男が言ったが、
「続けよ」
と、グンジョウが返す。
「しかし」
一向に変わらない戦況に尚も異議が唱えられる。
だがその続きを言いかけた時、ヒュッと何かが鳴った。
気がつけば男の喉元に大降りの剣がつきつけられていた。
「私は親方様より命を受けている。私の命は親方様の命だ。今ここで首を斬られるのと、手を休め狐に喉元を食い破られるのと、どちらがよいか」
鋭い眼光が差した。
普段は部屋の隅で書き物などしているが、剣を持つと人が変わる。
並の獣なら討ち取ってしまうのがグンジョウだった。
その気迫に屈し、男はすごすごと持ち場へ戻っていった。
グンジョウは喧騒の中で戦場の空を見上げる。
空を舞う弓矢の群れ。燃え上がる火柱。同時に攻め入った南側も似たようなものだろう。
いかにも不毛である。本来ならばとっくに引き上げている。
だが待たねばならぬ。
なぜならばそれが自らの主の命だからだ。
「手を緩めるな! 放てぇ!」
今一時の辛抱だ。いずれ機が熟す。そう思った。
黒の色を纏った村の一部分に燃える何かが見える。
それは今年の舞台の炎だった。
大社の山の上、ここの距離からはその程度しか見えない。
けれどまるでその場にいて状況が克明に見えているかのように、ナナクサシュウジはその光景を満足そうに眺めていた。
傍らで膝を屈するのは村の長、そして彼のポケモン、ラグラージ。
身体を少しでも動かすなら、樹の小人がぎりりと蔦を締め付ける。
キクイチロウは何度目かの脱出の意志をくじかれたところだった。
「無駄なことはしないほうがいいですよ。村長さん」
ナナクサはナナクサシュウジの声で語りかけた。
キクイチロウはヌマジローを見る。
おそらくはメガドレインかギガドレイン。蔦に捕まってからそれに類する技をかけられた。
沼魚ポケモンはぐったりとして動かない。とても戦える状態ではなかった。
結局ナナクサは村長に何もさせなかったのだ。いやでも戦意が失われていくのをキクイチロウは痛感した。
助けなど来ない。舞台の幕は上がってしまった。皆の目は舞台にある。
「分かっていただければ結構です」
ナナクサが静かに言った。
コノハナの一匹がに歩み寄る。それは何事かをナナクサに語っているように見えた。
「わかってるよ。始めよう」
彼は祭の炎に背を向けた。
「村長さんにも立ち会って貰いましょう。寒空の下に置いていくわけにもいきませんしね」
蔦が伸びた。キクイチロウの腰からモンスターボールを奪うと、ナナクサに差し出した。
古いつくりのボールだった。
木の実では無い。だが機械というよりは「からくり」、そのように表現するのがしっくりする旧式のボール。
モンスターボールの歴史として博物館に飾られているレベルの代物だ。
「ふふ、これでもあの当時は最新式だったんだけどなぁ。みんなうらやましがっておった。木の実のボールは腐ったり、痛みやすかったから」
ナナクサは笑った。
また声がシュウイチになっていた。
「ずっとこれ使っておったんか? 新しいのに取り替えることも出来たろうに」
「うるさい。まだ、使えるから使っておった。それだけのことだ」
キクイチロウが答えた。声に隠し切れない震えがあった。
「そうか。でもおまんのそういうところ、俺は嫌いじゃなかったなぁ」
そう言って螺子を回して、ボールを開く。
力尽きたラグラージが吸い込まれていった。
確認して螺子を締める。
おそらくは腕利きの職人が作ったのだろう。問題なく動いた。もしかしたら、今出回っているボールより長持ちするものかもしれない、ふとそんなことを思った。
彼はどこからか種を取り出した。
種が芽吹いて、瞬く間にボールを緑で覆いつくした。
「何をする!」
「……単なる草結びじゃきに、大声を出すな」
声を荒げるキクイチロウに対し、ナナクサは落ち着いた声で答える。
「肝心なときにわるあがきされても困るからなぁ。悪いが、終わるまでしばらくこうさせて貰うわ。行くぞ」
ナナクサが歩き出した。
あちらこちらにいたコノハナ達がぞろぞろと彼の元に集う。
風が吹いて、ドスンと石畳に黒い影が落ちた。先ほど舞台に向かって飛んでいったダーテングが戻ってきたのだ。
「お疲れ様、コウスケは舞台に出れるんだね」
ナナクサの声に天狗が頷いた。
「そう、よかった」
ナナクサは満足そうに笑った。
グイ、とキクイチロウが引っ張られた。植物の蔦による捕縛。そこにはこのままついてこい、という意思が働いていた。キクイチロウには選択権がない。
「シュウイチ、おまん何をするつもりじゃ」
目を逸らしたかった。
だが震えながらもキクイチロウは問うた。
「……神降ろしの儀」
「かみ…………おろし?」
「そうじゃ」
シュウイチの声が答えた。
「さっきも言ったろう? 神様の作り方を教えてやると。別殿になら条件が整っておるからの」
ぞくり。
キクイチロウの背中に寒気が走った。
この男、よくもそんなことを簡単に言ってくれる。
別殿にあるものといえば、あれ、だ。
シュウイチが何者を降ろそうとしているのか。それは明白だった。
少なくとも雨をもたらす守り神などでは、無い。
空が漆黒の衣を纏っている。
村人や観光客が見守る舞台には 一本の松明が灯って、ドドド、ドドド、と太鼓の音が鳴り響いていた。
一人の村人がその中心で踊り狂っている。
衣を徐々に脱ぎ捨てて黒一色となり、闇に紛れていく。
彼は妖の炎の犠牲者であり、その生贄だった。
「今宵、我、ここに戻れり!」
炎に巻かれた村人が完全に闇にまぎれた時、この年の九十九の声が響いた。
贄の肉と骨。自ら動き回れる身体を手に入れて、炎の妖が蘇ったのだ。
燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ
赤い衣装の狐面の男が呪詛の歌を響かせながら、舞台を練り歩く。
赤い松明に照らされた狐の面に炎のゆらめきが映って、妖狐の怨念を思わせた。
村の子ども達が息をのむ。ドロドロと地響きのように響く低い太鼓が妖狐の気となり場を支配した。思わず小さな子が泣き出して、その母があわててなだめる。
金色の扇を広げ低い声で詠う。ポンと鼓が鳴って、舞が始まる。
ふと、青年は昔を思い出した。素顔を隠す仮面の裏側に鮮やかに記憶が蘇る。
様々な季節や月に様々ないわれがある。どこかしらで祭があって、父は暇を見つけると連れて行ってくれた。
コウスケ、ここの神社はね、ここの神様はね、ここの祭のはじまりはね――思えばいつも父はそんな話をしていた気がする。
「父さんそれは民俗学の仕事だよ。考古学とは違う」
父は考古学会の人間だった。なので小さいながらに生意気にそんなことを言ったら、違うものかと大真面目な顔で言われた覚えがある。
私は発掘現場で形あるモノを掘り出して、昔を知る。
祭では見えない心に寄り添って、昔を想像する。
それは方法も考え方も違うけれど、突き詰めれば同じことなんだ。
どちらも同じ場所を目指しているのだ――かつてここに生きた人やポケモンたちが何を考えていたのか、何に喜び何に悲しんだか、何を想って生きてきたのか。我々はどこから来たのか――どこへ向かうのか。
立っている方向が違うだけ。同じ場所を見つめているんだ。
ふうん、と少年は言った。そのころの自分にはよくわからなかった。
ドォン。太鼓の音が響く。青年は詩を声にする。
燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
燃え上がれ火 燃え上がれ火 我が炎
幸せだった。
いつか大きくなったら、父について発掘現場に行くんだと、自分も考古学者になるのだとそう信じて疑わなかった。
けれど、ある時に突然、信じていた世界は壊れたのだ。
父は世間から嘘つき呼ばわりされ、指さされ、そしていなくなった。
父さんは嘘つきなんかじゃない、そう叫んだところで誰も耳を貸さなかった。
嘘つきの息子は嘘つき。そうして道は閉ざされた。
「我が名は九十九。十の九尾と百の六尾の長、炎の妖なり!」
仮面の下、青年は叫ぶ。
――私はね、お前にやってもらいたいんだよ。鬼火を連れし者よ。
なぜだろう、ふと九十九の言葉が蘇った。
はじめて対面した夜のこと、妖狐が青年にかけた言葉が。
――お前でなくてはだめだ。お前みたいに今ここにある世界のことが大嫌いで、どこかで壊れてしまえばいいと思っているようなそんな人間で無くては。
――お前にならわかるはずだ。周囲の人間達は皆雨が降っているという。けれど、お前だけは本当の天気を知っている。だから、ずっと晴れていると叫び続けなければならない、その孤独が。
――鬼火を連れし者よ。私の願いを聞いてはくれないか。
――お前になら、わかるはずだ。
青年にも今ならわかる気がした。
妖狐九十九がなぜ自分という人間を指名したのか。
遠い昔、戦に敗れた。一族を毛皮にされて、毎年出来試合を演じさせられてきた。
どんなに憎んだことだろう。どんなに恨み呪ったろう。
――神楽は器だよコウスケ。神楽の中に、詩の中に感情が入るから舞は奉納となり、供物となる。形と心の両方を得て、はじめて舞は完成する。
ああ、そんなことを言った男もいたな。
仮面の裏側で思い返す。
――僕は許さない。父さんを棄てた世界を許さない。君もそう思うだろう? なぁ、コウスケ?
幼き日の自分が語りかける。
「我に従え、六尾の者よ。我に従え、九尾の者よ。我に続け、炎の力宿らせし者どもよ」
狐面の青年は云った。詠うように、高笑いするように云った。
人と獣。姿かたちは違っても恨む心は変わらない。
憎くて憎くて憎くて、すべて焼き払ってしまいたくて。
たぶんそう、我々は同じ。同じなのだ。
そうして青年は炎を纏った。鬼火と云う名の炎を。影と共に。
続々と舞台に上がってくるのは無数の炎の化身たち。彼らを鼓舞し、妖狐は繰り返し唱えた。
燃えよ、燃えよ、燃えよ!
「戦法を変えるべきだ」
尚もこう着状態が続く、両陣営に再び同じ異が唱えられはじめた。
だが、青のグンジョウが、里のシラヌイが、それぞれに場を抑えられなくなってきたそのころになって状況が動いた。
「シラヌイ、見ろ」
耳をせわしなく左右に動かしながらダキニが言った。
青の陣営のはるか後ろから二十騎ほどの三つ首鳥に乗った者達がこちらへ向かってくるのが見えたのだ。
「増援?」
「にしては、こころもとない。二十騎増えたところで変わらん」
「では、あいつらはなんだ」
二匹の九尾は解せぬという表情を浮かべた。
だが彼ら二十騎が来たからには来たなりの意味があるのであろうと思われた。
油断がならなかった。
直後だった、グンジョウがそれに気がついて、そして青の陣営に歓声が上がったのは。
ウオオオオオッ! と、男達が声を上げた。
それは先ほどまで青を率いていたグンジョウがずっと待ち続けていた男だった。
「親方様!」
グンジョウが駆け寄り、跪く。
主を見上げるその表情は明るく、声には張りがあった。
「大儀であった、グンジョウよ。私が来るまでよくぞ持ちこたえた」
グンジョウよりはるかに若い男が三つ首の鳥にまたがったまま云った。
「そのご様子ですとうまくいったのですね」
「無論だ。今頃は隅々まで染み渡っていよう。合図を待つばかりぞ」
若き将は、ほっと手綱で鳥を叩くと、九尾達にもよく見えるよう前に進み出た。
「矢を射るを止めよ!」
グンジョウが叫ぶとほどなくして弓矢の雨が止んだ。
「その方らの頭は誰か」
若き将がはるか前方に見える狐達に問う。
「私だ」
群れの先頭に一匹のキュウコンが飛び出した。
シラヌイがだった。
「我が名は不知火(シラヌイ)。だが私は代理に過ぎぬ。我等が筆頭は我が父、九十九である。だが、お前達がここを通り父に目通ることはなかろう。なぜならお前達は此処を通ることなど出来ないからだ」
赤い瞳が睨みつけた。
どうやらこの男が今回の里攻めの黒幕であるらしい、そのことがシラヌイにもわかった。
ならば例え、刺し違えてでもこいつを焼き殺してやろう、そう思った。
だが、
「さあ、はたしてそれはどうかな」
そう言って将は余裕の笑みを浮かべた。
「たとえば、その方らがすぐ里へ戻らなければならないとしたら、どうだ?」
「どういう意味だ」
「フ、急かさずとも今にわかる」
そう言って、若者は腰に下げていた丸い奇妙な木の実の栓を抜いた。
シラヌイは驚愕した。
それはゆうに百年以上は生きているシラヌイにとって未知のものだった。
敵陣の若き将が栓を抜いた木の実の中から、獣が現われた。
だが驚くべきは中から出てきた獣そのものではなかった。
獣を収容していた木の実のほうだった。
獣を持ち運ぶことの出来る、木の実。
「……なんだ、それは」
冗談ではない。こんなバカなものが許されていいのだろうか。
受け入れがたかった。
こんなものを人間達が皆こぞって使いはじめたら、獣と人の関係は根本から変わってしまう。
直後、放たれた黄と青の毛皮の獣、雷鳴獣が咆哮を上げた。
ゴロロ、ゴロロと空に雷が数本、走った。
そして、それが合図だった。
青にとっては進撃の、狐達にとっては破滅の合図だった。
日が沈みかけていたが、空はまだ明るさを保っていた。
それなのに、里のほうから暗い暗い雲が急速なスピードで広がって広がって、あたりを覆いつくしたのだ。
ぽたり、ぽたり。
天から雫が滴り落ちた。
「雨……だと」
生易しかったのはほんのひと時だった。
それはすぐさま強烈な飛沫となって無数の水の矢が地面を叩いた。
周囲はざあざあという豪雨の音に包まれたのだ。
「馬鹿な! 里から雨がやってくるわけが無い! 里には父上がいるのに!」
九十九が許すわけが無い。
あんなに雨を嫌っていた父がこんなことを許すはずが無い。
第一、一介の雷鳴獣が、こんな大規模な雨を呼べるはずが無い。
だからこそそれが出来る力を持った獣が「神」と呼ばれるのだ。
シラヌイは混乱した。
里の中で何が起こっている。想像もつかないとてつもない何かが。
その時だった。
里のほうから、金色の兄弟の一匹が血を流しながらシラヌイ陣営へ駆け寄ってきて、そしてばしゃりと泥だらけの地面に倒れこんだ。
「フシミ! お前どうしたんだ」
倒れた兄弟の下へダキニが駆け寄る。
そうして気がついた。フシミの尾の何本かが途中でぷっつりと千切れていた。
後ろ足に、何か大きいものの歯型があった。
赤い血が流れ続け、雨に流されていく、止まらない。
最後の力を振り絞って、叫んだ。
「ダキニ、シラヌイ、すぐに里へ戻れ……っ! 入り込んでる。あちこちに、やつらが……すでに兄弟が何匹かやられた。このままでは父上が……ちくしょう……畜生」
そこまで云うとフシミはもう、ダキニに視線を向けたまま言葉を発さなかった。
「おい、フシミ、フシミ!」
ダキニが吼えたが既に届いてはいなかった。
フシミはぱたりと地面に顔つけたまま起き上がらなかった。
牙をむき出しにして、赤い眼(まなこ)を見開いたまま、宿っていた灯火が消えていた。
「……総員……退却……! 里へ引き返せ! 今すぐに、だ!!」
シラヌイが叫んだ。
それはもはや人の言の葉などではなく、獣の本能からの咆哮だった。
「許せフシミ……!」
シラヌイは弟に別れを告げるとすぐさま駆け出す。六尾達がその後に続いた。
後方の青の一団を一瞥する。雨の蚊帳の向こうで青の将がにやりと笑ったように見えた。
「不知火とやら、冥土の土産に教えておこう。我が名はウコウ、雨を降らすと書いてウコウと読む。私は雨を呼ぶ男。これが私の戦だ」
去りゆく金色の狐を見て、ウコウはそう言った。だが、その声がシラヌイに届いたかは定かではなかった。
やがて狐達の姿が見えなくなり、若き将はゆっくりとした足取りで置き去りにされたフシミの亡骸へと歩み寄る。
首の皮を掴む。目を見開いたままの狐の顔を自分の目の高さまで持ち上げた。
そうして若き将は牙をむいた憤怒の表情と対峙したのであった。
ざあざあと振り続ける雨は亡骸を濡らし、その雫が灯火の消えた瞳を伝って流れ落ちていった。
「ふむ、よい毛皮だ。尾が切れてしまったのは惜しかったな」
それは惜しいという言葉とは裏腹に満足そうな口ぶりであった。
「皆の者、見るがよい!」
そうして、若き青の将は九尾の亡骸を雫を降らす天にかざした。
「我等が神が眷属、我等が牙は妖を討ち取ったり! 我等は力をつけた。今に獣に頭を垂れる時代が終わろう。人は獣から解き放たれる。人が自ら決め、自ら定め、動かす世が訪れよう。我らはその礎を築くのだ」
天から降り注ぐ雨は冷たい。
だが将の弁舌には熱がこもっていた。
「我が手中を見よ。もはや、九尾と言えども恐るるに足りぬ! 天は我らが味方ぞ! 今より我らこの里へ入り、狐狩りといたそうぞ!」
降りしきる雨の中、男達の歓声が上がった。
人々は舞台を舞う無数の炎を見た。
カゲボウズがいくつもの鬼火を躍らせ、リザードが眩い炎を滾らせた。
収穫を喜んでいた人々は逃げ惑い、やがて一人の男の名を呼び始めた。
舞台から伸びる橋掛かり――花道。
彼らはその先に呼びかけた。
雨降様、どうか雨を。どうか雨を。
悪しき火を流し、田を潤す雨を。
今一度目覚め、我らをお救いください。
雨降様、雨降様、今一度おいでください。
初めの一人が云い始めると、祈りはすぐに二になり、そして十になった。
やがて、観客席のあちらこちらから同じように声が上がった。
あらかじめそこに配置されていた役者達だった。
彼らは観る者達を導く方法をよく心得ていた。
祭をよく知る村の者達も同じだった。待っていたとばかりに彼らは祈りに加わった。
合図の太鼓が鳴る。彼らは同じフレーズを繰り返す。再び太鼓が鳴る。
雨降様、雨降様、今一度おいでください。
太鼓が鳴る。
何度かを繰り返すうちにそれは観る者達をも巻き込んだ、圧倒的なコーラスとなった。
雨降様! 雨降様! 雨降様!
コーラスが最高潮に高まったその時、一際大きく太鼓が鳴った。追うように鈴の音。それが響いた時、今まで人々を先導していた者達が一斉に扇を取り出して、花道へ向けた。
「いかにも、我が名は雨降」
声が響いた。一斉にいくつかのライト。照らす先には翁の面。
ぽん、ぽんと鼓の打つ音。直後に喝采の拍手が沸き起こった。
橋掛かり――神と呼ばれる者のためだけに作られた花道。青い衣の男はそこを堂々たる風格を持って進む。
波の音のような太鼓に導かれ、一歩、また一歩。
石舞台に足をかけるその時まで拍手の嵐が止まなかった。それはさながら激しい雨が地面を叩く音に似ていた。
歓迎される者、己が社を持ち、現われる為の道と喝采を約束された者。光の当たる道を歩む者。
この時になってツキミヤは実感として理解した。
雨降と九十九の、その差。
道も無く、打ち倒される為に現われ沈んでいく炎の妖とは明らかに違う。
神と妖。持つ者と持たざる者。その違い。そこにある埋めようの無い、差。
「我、呼ばれたり。呼びかけに応え、目覚めたり」
青の衣が版図に足を踏み入れる。
観客席を仰いで翁の面が云った。
「我が名は雨降。悪しき火を払い、流し、今一度田に恵もたらす為、参った」
再び拍手が沸き起こる。
それが静まる頃合を図って、雨降は雨の詩を詠い始めた。扇を広げ舞う。すると青に与する者達が次々に舞台上に現れた。
そうして翁は扇を閉じ、射るように狐の面に向けた。客席中の視線が九十九に寄せられ、突き刺さる。
狐の面の青年には、それがかつて父や自身に向けて突き刺さったものと重なった。
狐狩りが始まった。
青年と天狗、そしてたくさんの小人。彼らは聖域を侵す侵略者だった。
別殿の戸を開くと、ナナクサはちょっと待ってと言って、天狗達を制止した。
「建物は古いんだけど、けっこうハイテクになっていてね。変に侵入すると鳴っちゃうんだ。警報が」
そう言って玄関の脇にあった小さな電子盤を開く。
「協力して貰うぞ。キクイチロウ」
ナナクサはまたシュウイチの声になる。有無を言わせなかった。
電子盤の前に縛り上げたキクイチロウを引きずり出させた。
拒否するキクイチロウの腕を掴んで、人差し指を電子盤に押し付けた。
老人は拒否が出来なかった。指を握り締めて最後の抵抗をしたかったのに腕がしびれるようになって動かなかった。
「おまんがいて助かったわ。解除番号も知らんでは無いが、祭の前と後じゃ変えられるかもしれんし、やはりおまん自身が一番確実じゃからな」
ピリリ、と認証の音。
キクイチロウの指紋を「鍵」にして、警報は解除された。
「本当におまんが来てくれて、助かったわ。来てくれんかったら、解除できる人間のうちの誰かを攫わなくちゃあならんかったからの」
最後の障壁。それすらいとも簡単に破られた。
愕然とする老人を尻目に、ナナクサと小人達が上がりこんでいく。
戸が開け放たれた。
ナナクサと小人の目の前に、ずらりと並んだ狐の毛皮が姿を見せた。
「……ここに入ったのは、もう六十年以上前か」
ナナクサが言う。
キクイチロウも鮮明に覚えていた。
実りを約束する種と引き換えに、毛皮を一枚、引き渡した。
当時はまだ警報などついていなかった。
「おまんはここで俺に毛皮を一枚、引き渡した。約束どおり一番小さなものをひとつ……」
「…………」
老人にとっては思い出したくも無い記憶だった。
伝説を証明するもの。先祖が代々守り伝えてきた宝。たとえ一番小さなものであっても、外には出したくなかった。
だが、折れるしかなかった。凶作から村を救う為には仕方がなかった。
「今は、後悔しとる。あれからだよ。タマエがおかしくなったのは」
キクイチロウは精一杯の嫌味を込めていった。
「おかしく、なった?」
「そうだろう! あのすぐ後だった! タマエが禁域にしゃもじを供え始めたのは!」
それだけではない。ちょうど同じタイミングだった。
女として、村の誰にも興味を示さなかったタマエ。
それがシュウイチの嫁になると言い出した。
「そうだ、お前は炎の妖に魂を売ったんじゃ!」
突然にキクイチロウは声を荒げた。
声が別殿をびりびりと揺さぶる。
「魂を売って、すべてを手に入れた。だから毛皮を欲しがった、違うか!? 凶作から村を救ったという栄誉、タマエ……私が欲しかったものは、みんな、みんな、お前が……!」
ナナクサは少し驚いた。キクイチロウは根に持つことはあっても分というものを弁えている。特に村長になってからは、ことさらそうだ。それがこの男の意地であったから。
「私は、お前に」
それは叫びだった。
ずっと、ずっと胸の内に秘めていた、けれども村の長という対面からずっと外に出されることが無かった、叫び。
意外だった。村長がタマエを好いていたことはナナクサも知っていた。だからタマエを手に入れたシュウイチを村長がいまいましく思っていた事はわかっていた。
けれど、違う。これは違う。いまいましいとかそういうものではない。
それ以上の感情が今、シュウイチという男に向けられている。
そう、これはシュウイチへの嫉妬だ。
けれどそれ以上の、
それ以上の、
「知っているんだ。村の者みんなお前を狐憑きだの言っていたが、みんな、みんなお前に感謝していたよ。ただ私の前だったから、ああ言っていただけなんだ。私はただ間に入って、いいように使われただけなんだ。何が村長の息子だ、何が次期村長だ。誰も私を見てなんかいなかった。私は、…………私はお前になりたかった!」
嫉妬。けれど以上の、憧れ。
「…………、……村長さん……僕は、」
いつの間にか、声がナナクサに戻っていた。
意識したのではない、自然に戻っていた。
老人が漏らした嗚咽が聞こえた。
「シュウイチ……お前は、六十五年前のことを怒っているのだろう。許してくれ。許してくれ……もうこれ以上私から奪わないでくれ」
ナナクサはただ立ちつくして、うなだれる老人をしばし黙って見ていた。
事はシナリオ通りに進んだ。自分の描いたシナリオ通りに。それなのに。
「許しておくれ……」
何をどう間違ったというのだろう。
こんな演出を書き加えた覚えなど無いというのに。
それなのに。どうして今目の前にいるこの老人に、共感を覚えているのだろう。
胸を締め付ける「これ」はなんだというのだろう。
「なんで……どうして」
青年は戸惑いを声にした。
こんなシーンは用意していない。
知らない。こんな「もの」、自分は知らない。
「だって、僕に『感情』は無いんですから。僕自身には感情を生む『記憶』も『思い出』も無いから。僕が喜んだり、悲しんだりするとすれば、それは…………僕の中にあるシュウイチさんの記憶がそうさせているだけ」
シュウイチになりたかった、とキクイチロウは言った。
ああ、そうだったのか。
・・・・
それこそが自分だったのか。
「村長さん……いいえ、キクイチロウさん、ごめんなさい。僕はシュウイチさんではありません。ただちょっと驚かそうとしただけ」
ナナクサは言った。
「演技です。全部演技なんですよ。たとえ記憶や知識をまるごと借りたって、シュウイチさんにはなれやしない……」
膝を落とし、キクイチロウと同じ目線になって言った。
「……キクイチロウさん、僕と貴方は同じだったのだ」
今わかった。
自分がキクイチロウを嫌いなのは、シュウイチがそうだからだと思い込んでいた。
だが違った。自己が持っているそれと同じものをこの男が持っていたから。
だからこの男が嫌いだったのだと。
「キクイチロウさん、シュウイチさんは許していましたよ。あなたの事も。村のことも。何一つあの人は恨んじゃいなかった……」
だが、そこまでだった。
天狗が楓のような手がナナクサの腕を掴んだのだ。
そこまでだ。お前には役目がある。そう言うように。
「わかってる」
ナナクサが答えた。
天狗の瞳を見ると、引き戻された。
「そうだったね。僕にはもう……」
ナナクサが立ち上がる。
小人達が儀式の準備を整えていた。
敷かれた御座の上にはいくつもの白紙の札。細い筆に太い筆。そして大きなすずり。
御座の上に座ると、小人が何かを差し出した。
ナナクサはそれを受け取り、抜いた。
銀色に鈍く光るそれは小太刀だった。
「待て、何をする気だ!」
キクイチロウが叫ぶと、ナナクサは穏やかな笑みを浮かべた。
「キクイチロウさん、僕ね、ずっとシュウイチさんが羨ましかったんです。あの人の記憶や思い出はとてもとても輝いていて。だから、ずっとあの人になりたい、そう思っていました。僕のこの胸にある思い出が僕自身のものだったらどんなにいいだろうって。……でもね、もういいんです」
天狗の瞳を見たときに思い出した事。
それは舞台へ送り届けた青年の事だった。
「だって僕はもう、持っていますから」
そう言って、ナナクサは自身の腕にざくりと小太刀を突き刺した。
太刀を抜く。傷口から黒い黒い墨のような血が滴り落ちた。
雨が降り続いている。
シラヌイは走った。ダキニと六尾達を連れ、雨にぬかるんだ地面を蹴る。
激しい雨が降り続いている。
勢いが収まるどころかますます勢いを増した水の礫が彼らから熱を奪っていった。
熱とはすなわち炎を宿す獣の力そのものだ。
里で何か異常な事態が起こっている。駆けつけたところで戦力になるのか、不安がシラヌイを襲った。だが、考える猶予など彼らには与えられていなかった。
里の入り口を抜ける。
山道が終わって、彼らの視界に黄金色に色付いた田の風景が広がった。
金色の田は雨に濡れている。
激しい雨によって増水した田は各々の境界が曖昧となり、稲穂の首までが水に浸かっていた。
「何ということを……」
雨にぬかるんだ農道を踏みしめてダキニが嘆いた。
田の境界よりは高地にあり幅のある農道は浸水こそ免れていたものの、あちこちに深い水溜りが出来、茶色く濁っている。
「父上はどこにいる!?」
シラヌイは懸命に感覚を研ぎ澄ましたが、雨の濁音に遮られて、何も聞こえなかった。
地を流れる道は敵の匂い、味方の匂い共に流してしまい、辿ることができない。
雨は獣の研ぎ澄まされた感覚を雫と共に流してしまったのだ。
「くそ!」
金色の九尾は地を蹴ったが、ぐちゃりという不快な感触が足に残しただけだった。
「いそうな場所をあたるしかない。おそらくは石舞台かその周辺……遠くに行っていなければよいが」
ダキニがぶるっと身体を震わせ、言った。
だがはらってもはらっても激しい雨が降り続け、身体を濡らし、意味が無かった。
滴り続ける雫が視界を奪ってゆく。
「とにかく一刻も早く父上の下へ合流せねばなるまい。ここにいるだけではいずれ六尾達の気力も尽きよう。だが、父上の近くならば、あるいは」
「ああ」
シラヌイが同調する。
「行くぞ」
彼らは再び地面を蹴り、走り始めた。
だが、ぬかるんだ地面は足を重くした。
普段であればあっという間に駆け抜けてしまうはずの道が長く長く感じられた。
熱が身体から奪われてゆく。力が無くなってゆく。
だが彼らはまだ知らなかった。雨という天候は彼らの戦略の一側面でしか無いことを。水浸しになったこの里の環境そのものが彼らにとっての脅威であったことを。
彼らがその洗礼を受けたのは水に浸かって曖昧になった田の区切りを五十本ほど走り抜けた時だった。
シラヌイとダキニの後方を走る六尾のうちの一匹が道から唐突に消えることになった。
始まりは、ばちゃりと水が跳ねる音。
次の瞬間、何かがドボンと水の中に落ちる音が続いた。
「どうした!?」
ただならぬ音にシラヌイが振り返る。
すると、右斜め下で何かがばしゃばしゃと水を掻く音が耳に入った。
音のするほうを見る。流れ落ちる雫が邪魔をして、はっきりとは見えなかった。
だが、増水した田の用水路に一瞬だけ、赤い毛皮をシラヌイは見た気がした。
しかし、それきりだった。
どぷんという水音を最後に何も聞こえなくなった。
「おい、どこにいる。返事をしろ!」
シラヌイは叫んだが応答は無い。
その代わりに水の中に思わぬ色が浮かび上がってきた。
それは赤だった。
生命の象徴ともいえる血の色。
それが水の中に薄くなりながら広がってゆくのをシラヌイは見た。
ごぼり、と水の中を何者かが駆る音が響いた気がした。
次の瞬間にシラヌイは剋目した。
濁った水の中、赤い色に向かって無数の魚影が滑る様に泳ぎ集まってくるのを彼は見た。
「畜生!」
獣の声でシラヌイは吼えた。
九尾は理解した。今この里で何が起こっているのかを。
フシミは死の間際にこう言ったのだ。
――入り込んでる。あちこちに、やつらが…………
合図の太鼓が三度響く。
討伐が、狐狩りがはじまった。
赤の帯を締めた者、青の帯を締めた者、それぞれが各々のポケモンを繰り出して、炎の技、水の技を交差させてゆく。
それはポケモンバトルというよりは、観客を楽しませるために技の美しさを魅せるコンテストに近い形式だった。
ある赤い帯のトレーナーのドンメルは等間隔に並ぶように炎の玉をいくつも噴き出した。
またある青い帯のトレーナーのアメタマは美しい放射状の水のアーチを作り出した。
その度に観客達が拍手をする。
一つの技を決めると、トレーナー達は舞台の下手や上手に引っ込んでいった。
やがてそれは二対二、三対三となって、より難易度の高い技の応酬へ発展してゆく。
五組にまで膨れあがって赤い帯のトレーナー達が散った時、彼らの長である炎の妖は再び舞台へと躍り出た。
一歩を踏み出し取り出した扇をパンと鳴らした時に、その背後からカゲボウズがくるりと回りながら飛び出した。
三つ色の瞳が妖しく輝いた時に二十、三十の鬼火が生まれた。
妖狐九十九は閉じた扇の先に攻撃の対象を定める。
するとまるで鬼火が流星群のように青の帯の者達向かって落ちていった。
観客が沸いた。青帯のトレーナー達がポケモン達と共に舞台袖へと退避してゆく。
そうして青陣営の長、雨降が舞台へと登って来た。
主役の登場。田の守護神たる翁面の男はやはり拍手を持って舞台へ迎えられた。
雨降はボールを構える。空中高く放られたボールは、カッと開くと、その中から大砲を背負った亀のポケモンを吐き出した。
狐面はひらりと扇を翻す。カゲボウズが再び無数の鬼火を生み出した。
翁の面が応える。閉じた扇を狐面に向けると、カメックスが大砲を彼らに向けた。
先に仕掛けたのは九十九だった。鬼火が再び流星となってカメックスを襲う。
が、カメックスはしゃらくさいとばかりに片方の大砲から水を発射した。
鬼火は瞬く間に霧散して消えて果てる。
もう片方が九十九を補足し、水を発射した。
が、それは織り込み済みの動きであった。九十九が一歩、二歩とステップを踏むとそれは命中することなく、夜の闇の中へと消えていった。
再び九十九が構える。さらに数を増した鬼火がカメックスを襲う。カメックスが打ち消す。それは練習の通りの動きであった。
打ち合わせ通りに行くとお互いの立ち位置とバリエーションを微妙に変えながら五回ほどその動きを繰り返すことになっていた。
狐面の中で光る青年の瞳は狭い視界で注意深く対象とそのポケモンの動きを観察する。
鬼火が飛び、残り四巡。
鬼火が散り、残り三巡。
水が吹き上がり、残り二巡。
噴射がかわされて、残り一巡。
そして、今までで最大の数の鬼火が舞った時に最期の時が訪れた。
舞台袖に去っていた青帯のトレーナー達が一斉にポケモンの水技を仕掛けた。
鬼火が一つ、また一つ、落とされていった。
九十九はうろたえるような動きをしてみせる。
「機なり!」
翁の面は大砲の亀に号令をかけた。
左右の噴射口が妖狐九十九に向けられた。
二つの噴射口から大量の水が発射される。
それは直撃を避ける形で、ちょうど九十九の左右の地面に当たる形になる形で水飛沫をあげた。
観客から見ればちょうど九十九に命中したように見える形。
ここで妖狐の敗北が決定的となる。
「あれ口惜しや。口惜しや」
妖狐九十九はここで退場、また次の年まで眠りにつく。
その後には豊穣を願う翁の舞、雨降が豊穣を祈る。
……はずだった。
だが、実際にシナリオ通りにいったのは噴射された水が妖狐の立ち位置の左右で水飛沫を上げたところまでであった。
途端に水の軌道が、曲がった。
それは観客席の方向に曲がって飛散して落ちていった。
きゃあ。冷たい。などと様々な声が上がる。
突然のアクシデント。トウイチロウ扮する雨降は一度噴射を止めざるおえなかった。
「どうした雨の神よ。これで終わりか」
舞台の反対側で狐面が笑ったような声を上げる。
「こないのならこちらから行くまでよ」
狐面がタン、と扇で石舞台を叩いた。
松明で躍る妖狐の影から無数の鬼火が火柱となって立ち、青の陣営に襲い掛かる。
舞台に出ていた青帯のトレーナー達はうわあと声をあげて舞台袖へ退散してしまった。
トウイチロウは再び仕切りなおす。
カメックスの砲台が再度、九十九に標準を合わせた。
が、失敗だった。
その軌道は再びそれた。
観客の側にそれは飛んでいって、大粒の雨となって降り注いでしまうのだった。
「どうした。ほれ、どうした」
驚きを顕にするトウイチロウを妖狐は嘲笑った。
観客達が固唾を飲んで見守るそのはるか後方、銅鐸を模したポケモンが矢倉の上で目を光らせていた。
その頭上には一羽の念鳥。
遠方の映像を鋭く捉える優秀な視覚はテレパスで繋がり、今やドータクンの眼そのものとなっていた。
カメックスが二つの砲から水を発射したら、観客側に軌道を曲げろ。
それが彼らの主が下した命令だった。
念鳥の瞳がポケモンの動きを捉える。それはカメックスの三度目の噴射。
だがやはり軌道は曲がってしまった。彼らによって曲げられてしまった。
(一体何がどうなっている……!)
トウイチロウは翁の仮面の裏で焦りと困惑の表情を浮かべた。
すると妖狐が石舞台の中央に進み出て、扇の先で翁を指したのであった。
「雨の神を名乗りし者よ。うぬに問いたきことあり」
狐面が言った。
脚本には無い台詞だった。
その血に熱は通わない。その血の色は黒。
人の色とは思えないその血は青年の腕と指を伝って、すずりへと流れこんでいく。
キクイチロウは眩暈を覚えた。
青年は言った。自分はシュウイチではない。だが、自分のうちにはシュウイチの記憶があると。
その血の色はどこまでも、どこまでも黒かった。
ずっと疑問に思っていた。ナナクサシュウジとは何者なのか。
血の色からするにどうやら人ではないらしい。そういう結論に至った今も実像が掴めないでいる。
シュウイチの縁者でも無いこの男がなぜ、シュウイチの記憶を持っているのか。
するとナナクサがキクイチロウのほうを見て言った。
「彼らの決着が着くまでまだ時間があります。少し昔話をしましょう」
「昔、話……?」
「そう、昔話です」
キクイチロウが聞き返すとナナクサが念を押した。
「ずっとずっと昔のことです。この村に一人のガキ大将がいました。その子は村では一番偉い家の息子だった。だから彼にはほとんどの子は逆らえませんでした」
自分のことだ、キクイチロウにはすぐにわかった。
「彼はミズゴロウを持っていました。ヌマジローという名前でそれはやんちゃだった。いつも彼はいろんなポケモンにヌマジローをけしかけました。村にいる野生のジグザグマ、アメタマ……それに村の子が持っているポケモン」
ナナクサの腕を黒い血が尚も流れ続ける。
すずりを黒い液体が満たしてゆく。
「彼はある時、村の女の子が持っていたアチャモを散々にいじめました。炎のポケモンは妖狐九十九の手先だ。だから雨降に退治されるのだ、そう言って。やりすぎでした。アチャモはずいぶん長い間起き上がってこれなかった。回復するのに十日はかかったでしょうか。その間中、女の子はずっと泣いていました。それを聞いた女の子の友達はたいそう腹を立てた。気の強い女の子でした。ですから彼女は男の子をとっつかまえて謝るように迫ったのです。けれど男の子は聞く耳を持ちませんでした。その子は友達に言いました」
"泣かないで。あいつを懲らしめる方法を知ってる"、と。
血の流れが鈍くなっていく。
ナナクサは太刀を持ってさらに傷を広げる。
黒い血が再び流れ始めた。
「当時の子ども達の間にはこんなウワサがありました。禁域の、妖狐九十九の殺生石にしゃもじを供えて願いを言う。そうすれば九十九が憎い相手を呪ってくれる……誰も試す者はいませんでした。ですがそのその女の子はそれを行おうとしたのです。けれど、一人で禁域に入るのは怖くて、だから幼馴染を連れて、二人で禁域に行きました」
「……、…………」
キクイチロウは知っていた。この二人が誰であるのか。
だが、それが自分を呪う為であったとは知らなかった。
おそらくは幼馴染のほうが口止めをしたのだろう。
「ですが、呪いは失敗に終わりました。村の大人達に捕まえられて、二人は連れ戻されたのです」
血が、黒い血がすずりになみなみと満たされると、ナナクサは止血をした。
ぐるぐると布を巻きつけて口と右手とで結ぶ。
右手が筆を取る。黒い血の池にそれを浸した。
血が通わず動きの鈍い左腕が震えながら、札を取った。
するすると文字を書き付けていく。古い時代の文字であろうか。キクイチロウがそれを読むことは出来なかった。だがその筆跡はシュウイチのものによく似ていた。今の若者が見れば古めかしい、とそう言うだろう。
「二度目はその七、八年後です。凶作が続いていました。彼女の幼馴染は妖狐九十九として祀り上げられました。その時です。殺生石にしゃもじが供えられたのは。彼女は願いました。燃えてしまえばいい。すべて燃えてしまえばいい、と。例年より早い祭の最中、野の火が現われたのはそのすぐ後だった」
キクイチロウに悪寒が走った。
真に恐ろしいのは、恋敵ではない。想い人のほうだった。そう理解したからだった。
いや、目を逸らしていたのかもしれない。想い人の信仰が自分達と違うこと。それを恋敵のせいにしたかっただけなのかもしれない。
「その後は貴方の知っている通りです。タマエさんは禁域に入ってはしゃもじを備え続けました。晴れの日も、雨の日も、可能な限り彼女はしゃもじを持っていきました。六十五年前から、ずっと、ずっと……それは積み上げられていきました。尤も、三年くらい前にごっそり持ち去られてしまいましたがね」
じろり、とナナクサがキクイチロウを見た。
「違う! 私ではない!」
老人が否定する。
「わかっています。持ち去ったのはここにいるコノハナ達です」
ナナクサが静かに応答した。
「キクイチロウさん、九十九神(つくもがみ)ってご存知ですか。古い道具には魂が宿るっていう話。そうでなくても六十年以上も積み上げられた信仰の証ならば何かの力が宿るとは思いませんか」
ナナクサは淡々と語った。
キクイチロウは嫌な予感に段々と確信が深まっていく感覚を覚えていた。
「……さすがにそのままだと使えなくて、炭にして砕いたのだそうです。炎は苦手だから苦労したらしいです。それでもまだまだ"依頼主"の要求に足りなくて、毛皮を一枚使いました。元は別殿にあった小さな毛皮を、一枚。それを混ぜ込んで"肉"の用意が整いました」
老人の指先がわなわなと震えた。
"肉"という言の葉にはこの時期特有の特別な意味があったからだった。
収穫の祭り。そこで上演される舞台。野の火の脚本(ほん)にはこうある。
"村人が一人、炎に巻かれて犠牲となる"
"その『肉』と『骨』を手に入れて、妖狐九十九が蘇る"
荒唐無稽な話だ。
だが、それが舞台となると受け入れられる。
祭りという非日常。そこにある空気がそれを可能にする――。
「……お前は、お前達は」
キクイチロウの震えた声が聞こえた。
シュウイチが死んだのは三年前だった。
タマエが積み上げた信仰の証が持ち去られたのも三年前である。
そして、ナナクサシュウジが現われたのも、三年前。
意思ある何者かがこの世に実体として存在する為に必要なのは肉体。それを構成する"肉"、そして"骨"……キクイチロウの頭の中でおぞましい結論が導き出される。
「墓を暴いたのか! あの男の墓を!」
ナナクサが皮肉に歪んだ笑みを浮かべた。
おぞましかった。心の底からキクイチロウはおぞましい、そう思った。
血が黒いはずだった。この男の"肉"は供えられたしゃもじを焼いたその炭なのだ。
そして身体を支える"骨"は――。
「九十九様はね、人の形は嫌なんだそうです。だから、巫女代わりにと僕を作らせました。炎の妖が本来の姿で蘇る……その為のお膳立てをする。それが僕の役割です。奪われた一族の毛皮、それを"肉"にして、九十九様は蘇るんだ」
キクイチロウは恐怖に震え上がった。
妖狐九十九が蘇る。実体を持って。今度は村の田の一部が燃える程度では済むまい。そんな予感の雲が湧き立った。ああ、だから捕まえるべきだったのだ。警報が鳴ったあの時に。
キクイチロウは確信した。やはり数日前に別殿に侵入したのはこの男なのだ。宝の毛皮、それを手にするのが目的だったに違いない。
だが、身体の自由を奪われ、戦う力をも奪われた老人には何もなすすべが無かった。
「狂っておる……狂っておる」
そんな言葉を吐き出すのが精一杯だった。
ナナクサはそんな老人に構うことなく立ち上がる。
手には無数の札、いつの間にかそれらすべてに古代文字が書き連ねられていた。
「毛皮を集めて」
青年はコノハナ達に指示をくだした。
小人達が散っていき、そしてまた戻ってきた。
九尾の毛皮に六尾の毛皮それを手に携えて。
ぞんざいな扱いはしなかった。あくまで敬意を持って、丁重にそれらは扱われた。
ナナクサの目の前に、かつてこの地を駆けた者達の、その毛皮が折り重なって積まれていった。
血で書いた札を見つめ、ナナクサが言った。
「僕の血は"つなぎ"なのです。あとは各々に役割を与えてやればいい」
最後の一枚が積まれる。
そっと手を触れ、感触を確かめた。
「可哀想に……ずっとずっとこんな姿で吊るされ続けていたんだね。でももう終わり。今日で全部終わるから」
ナナクサは持っていた札の中から、一つを引き出した。
一番上の毛皮に触れる。
「まずは君だ。君は左の前足になる」
そう言って、裏側が見えるようにして持ち上げた。
左の前足、それが古代の文字で記された札を貼るつもりだった。
だが、毛皮を裏側に翻したその時に、ナナクサの顔色が変わった。
「……っ、どうして……」
その顔は驚きの色に彩られていた。
それに驚いたコノハナや天狗、そしてキクイチロウの視線が、毛皮に注がれた。
「なぜ、一体誰が」
翻された毛皮の裏側。
そこには既に別の札が貼られていた。
九尾達は走った。もはや一刻の猶予も許されなかった。
一箇所に留まるのは危険だった。
血の匂いにつられてまたあの魚達が集まってくるだろう。
農道の左右にはどこまでも水田。自分たちは自ら敵の懐に飛び込んでしまったのだ。
田や用水路が増水して、彼らの独壇場。水の中に引き込まれればすべてが終わる。
もはや彼らが追いつけないよう走るしか道はなかった。
(早く、早く父上の下へ。石舞台へ急がねば……)
だが、地はぬかるみ、滑り、雨は熱を奪ってゆく。
そうして彼らに追い討ちをかける者達が現われた。
陸地に上がることの出来る敵だった。
その身体は魚のようでもあり、獣のようでもあった。
後ろ足や前足は地を駆けるようにはできていない。水を泳ぎまわる為のものだった。
だがその顔は魚のそれというよりは、自分達に近いものがあった。顔の左右には立派な髭を蓄えている。
その海獣達は農道にゆっくりとした動作で上がると、九尾達の進路を塞いでしまった。
シラヌイが吼え、威嚇をする。だが、彼らが退散する様子は無い。
九尾は炎を吐いた。
普段もっぱらそれは威嚇に使われるものだった。力を持つ獣達とて無駄な殺生は好まない。
しかし、この時ばかり手加減をしなかった。やらなければこちらが殺されるのだ。
だが、激しく降る雨が射程に届く前に炎の威力を半減させる。
さらに驚くべきは陸の海獣達が炎に当てられても涼しい顔をしていることだった。
もともと水の力を持つ者に炎の力は通じにくい。が、それ以上の何かが海獣達に働いているように思われた。
海獣達が攻撃に転じた。
冷気を吐き出す。雨粒が氷の礫に変じ、九尾達を襲った。
「ぎゃう!」
シラヌイの後方で、悲痛な叫びが聞こえた。
足止めを喰らっているうちに先ほどの魚達が集まってきていた。
農道に跳ねた魚が、六尾の後ろ足に喰らいついた。
赤い口に黄色の棘。毒々しい色の怪魚だった。身を翻し跳ねる。六尾が水の中に引き込まれた。水を掻く音、最期の抵抗。その音は魚が餌に群がる水音で遮られた。
新たなる犠牲を求め魚達が跳ね、陸上に躍り出る。火の玉が飛び炸裂した。ダキニが跳ね上がる魚を炭にして、煙が立った。
だが、キリがなかった。
境界線の無くなった田と用水路。次から次へと赤の黄の棘の魚が泳ぎ集まってくる。
シラヌイの炎に圧されて、海獣の一頭が水田の中へ退却した。
だが、一頭いなくなって道が空くわけではない。
そうしている間にも目に見えて六尾の頭数が減っていった。
ある者は水に引き込まれ、逃れた者でも傷を負った者から力尽きていった。降り続ける雨は熱を奪われた小さな身体が休むことを許さなかったのだ。
「おのれ。おのれ、おのれぇ……!」
シラヌイはぎりりと歯軋りした。
一体何がどうなっているというのだ。
里に入るには、南か北から入るしかない。
ならば、この大量の青の獣たちは一体どこから入ってきたというのだ。
魚はもちろんのこと、歩くことに適さない海獣が山の急斜面を登ることなど不可能である。細い木々が生い茂る中、三つ首の鳥はその中を走ることが出来ず、分け入る者あっても里の上空を飛ぶ燕達に気づかれる。知らせはすぐに里の守護者に伝わるだろう。
ただひとつはっきりしているのはこの豪雨が彼らの仕業だということだった。
一介の獣が操れる気象はごく局地的、短期的なものだ。だが、侵略者達はそれを数を投入することで賄った。彼らは里全体に雨を降らせることに成功したのだ。
そうして、考えはぐるぐると回って結局は同じところにたどり着く。
では、この獣や魚達はどこからやってきた?
唯一思い当たるフシがあるとすれば、ウコウと名乗った者が持っていたあの木の実の存在だ。獣を出し入れすることの出来る木の実。この戦にはそれが大きく関わっているような気がした。
が、考えはそこで遮断されてしまった。
尾の一本に痛みが走った。
水面から跳ね上がった魚がシラヌイの尾に喰らいついたのである。
「俺の尾に触れるんじゃねェ!」
金毛の九尾が咆哮すると、そこを中心に炎と熱風が吹いた。
喰らいついた魚が、黒こげになって地面に転がった。
シラヌイは眩暈を起こしながら、荒く息をした。
やりたくはなかった。たしかに爆発力は相当なものがある。ひどく疲れる上に後の炎の威力が弱まってしまう。ここ一番で使うべき技だった。
唯一幸いだったのは、海獣達が水中に退却したことだった。これで先に進める。
「走れ!」
シラヌイとダキニは目に見えて減ってしまった六尾達を伴い走った。
だが、その速さは先程よりも勢いの無いものだった。
消耗していたのはシラヌイだけではなかった。
ダキニも、生き残った六尾達も降り続ける雨と魚の猛攻に明らかに体力を削られていることがその足取りから判断できた。
早く。早く父に、九十九に合流しなければ、いずれ全滅する。
だが天は彼らに味方をしなかった。
農道を塞ぐように一際大きな海獣が立ちはだかった。
先ほどの髭の海獣の一周りも二周りも大きな身体、口には肥大した二本の牙。
シラヌイ達はまたしても足止めを食ってしまう。
おそらくは六尾に対する九尾と同じ。先ほどの髭の海獣の上位種にあたる獣。
二つ牙の海獣が吼える。強力な冷気が放たれて雨が巨大な氷球に変質し、落ちてきた。
シラヌイとダキニはそれをかわし、ありったけの炎を放つ。
だが、海獣は動きを止めるだけで、その場を明け渡す様子は見られなかった。
髭獣の時と同じだ、とシラヌイは思う。
魚の息の根を止められても、海獣に決定打を与えることが出来ない。おそらくは海獣の蓄えた冷たい水にも耐える分厚い脂肪が炎からをもその身を守っているのだ。
またしても魚達が集まってくる。六尾達との小競り合いが始まった。
そんな彼らに追い討ちをかけるように、声が響いた。
「いたぞ! 狐共だ!」
それは人間の声だった。だが、里の者の声ではない。
それは青の追っ手がついに自分達に追いついてきたことを物語っていた。
あの場を離れた時からそれは決まっていたことだった。が、シラヌイは慙愧に耐えぬ想いをかみ締めた。とうとう里の中によそ者の侵入を許してしまった。それが耐えられなかった。
三つ首の鳥に乗った男達が幾人か、木の実から噛付犬を繰り出した。
既に進むしか無い、引き返せぬ道ではあった。
だが囲まれた事は彼らにこの上の無い精神的負荷を与えた。
前方には海獣、後方には人と噛付犬。左右に逃れようにも増水した田に血に植えた怪魚達が満ちている。
逃げ場は無い。
(畜生! ここで、こんな場所で果てるのか。こんな場所で!)
シラヌイが死を覚悟したその時だった。
爆音と共に猛火が道を走り抜けた。
まず最初に巻き込まれたのは海獣だった。今まで炎の技に涼しい顔していた海獣はその熱量に悲鳴を上げた。
運悪く、陸地に向かって跳ねていた魚の身体は焼かれ地に、あるいは水の中に落ちた。
間を置かずに犬達が巻き込まれる。炎をまともに浴び断末魔の声を上げ絶命するもの、水に飛び込んでなんとか難を逃れた者もいた。
その場にいた男達と三つ首鳥も同じ運命を辿った。
無傷でその場に残ったのは炎の力を持ち、その熱から力を得ることの出来る狐達のみだった。
化け物だ。炎が消えた後、後方にいて難を逃れた青の男はその主の姿を身、震え上がった。
雨がその主の身体に当たると、湯気になって立ち上る。
道のその先に銀毛の九尾が立っていた。
血のような赤い瞳が怒りに燃えている。
「妖狐九十九……!」
「父上……!」
各々が各々の思いと共にその者の名を口にした。
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