隈取-くまどり-







 カントーの中心地が江戸と呼ばれていた頃です。
「控えい! 御用の筋である!」
 いかめしい面をした男達がこのように言って、大勢なだれ込んできたものですから、賑やかな歌舞伎小屋は騒然といたしました。三味線の音は掻き消され、豪勢な弁当を食べていた町人は箸を落としましたし、芝居見物の女達は悲鳴を上げました。
「江島との密会の廉で詮議(せんぎ)致す! ひっ捕らえい!」
 捕り手の頭が命じます。舞台の中央で一人の役者が捕らえられました。
 捕らえられたのは村山座の看板役者で、名を生島新五郎(いくしましんごろう)と言いました。
 大奥――つまりは将軍の寝所、その大奥の重役に就く女中、江島と通じたとして、彼は舞台の上で捕らえられたのでした。
 確かに数日前の夜、新五郎は江島を茶屋でもてなしておりました。大事な客は舞台の後でそのようにするのが慣わし。それはよく見られる光景でした。しかし、茶屋遊びに夢中になるあまり、江島は門限に遅れてしまったのです。
 大奥の規律が緩んでいる――燃え上がった火が瞬く間に広がるかの如く、事件は大きく大きくなっていきました。
 火は多くの者に飛び火致しました。江島のお付の面々は大勢が裁きを受け、その多くが追放されたといいます。女中達だけではありません。歌舞伎小屋の面々にまで火の粉は降りかかりました。新五郎はもちろんのこと、彼の属する山村座の座長も裁きを受けました。
 大規模な風紀粛清事件となったこの出来事は、後の世でも小説や映画、お芝居で語られていくことになります。
 新五郎と座長に下された処罰は流罪、今で言うナナシマへの遠島でした。ついに山村座は興行できなくなってしまったのです。

 さて、ここに新五郎の帰りを待つ者が一人おりました。新五郎に師事していた若き歌舞伎役者でした。咎こそ軽くて済んだものの、彼はすっかり途方に暮れておりました。
「兄さん、あんたがいなくなっちゃあ、誰が俺を仕込んでくれるんだい」
 幕府に夕刻の営業が禁止された歌舞伎小屋に人はおらず、静まりかえっておりました。彼は新五郎の残した黒い小さな獣を抱きかかえながら、ただ空っぽになった席を見るばかりでした。
 彼にとって新五郎は恩人でした。大胆に立ち回る荒事(あらごと)を作り上げた自らの父とは違い、体格に恵まれなかった彼は、父のように演ずるには力量不足と悩んでおりました。ですが、そんな彼を支えたのが新五郎だったのです。
 新五郎は細やかな男女の情愛を扱う和事(わごと)に優れておりました。ですから彼はつとめてそれを取り入れようとしてきたのです。けれども新五郎はもういません。和事の艶を教えてくれた師匠はもういないのです。
 黒い獣がするりと手を離れました。藍に近い黒の毛皮に朱の色の麻呂眉。珍しいもの好きの新五郎がどこからか手に入れてきた獣でした。主人がいなくなってしまったので、今は彼が世話をしているのです。新五郎から、豊縁にあるという「出島」を通してやってきた舶来の獣だと自慢されたことがありましたが、よくは知りません。ただ、在来の赤い犬などとは明らかに姿が違っておりました。
「兄さんをはじめて見たのは、「夕霧名残の正月」を演じた時だったか。子供心にも艶っぺえと思ったもんよ」
 若き歌舞伎役者は客席に降りると、舞台を眺め回想しました。
「俺は兄さんの艶を自身のものにしたいのだ。だから、こうして俺は、兄さんの演技を毎夜浮かべ確かめるのだ。だが、足りん。どうも俺の想像力だけでは足りないのだ。俺はどうしたらいい……」
 床に置いた行灯だけが光る舞台を眺めながら、彼は嘆きました。
 行灯の火が揺らめきます。大きく大きく伸びた獣の影も同時に揺れました。

 ある時、獣がいなくなりました。若き歌舞伎役者は江戸中の芝居小屋や新五郎と行ったであろう場所を探しましたが見つかりません。珍しい獣でしたから、攫われてしまったのかもしれないと彼は思いました。それでも新五郎の残した獣だからと、律儀に人に聞いて回ったりもしておりましたが、公演に向けた稽古の忙しさもあって、だんだんと忘れていってしまいました。

 それから一年ほど経ってからのこと。
 書き入れ時の公演も終わって、ひさびさにゆったりとした眠りに落ちていた彼は、誰かの声で目を覚ましました。
「……郎、二代目……郎、目を覚ますのだ」
 誰かが言います。懐かしい声のように思いました。
 目をこすりながら、体を起こして声のする方向を向くと、少しばかり開いた部屋の襖から光が漏れて、一年程前に居なくなった黒い獣が覗いておりました。
「ああ、お前は!」
 彼は飛び起き、近くに掛けてあった羽織を身に付けると、とたとたと駆けてゆく獣を追いかけました。外の寒さが肌を刺しますが、お構いなしです。獣を追いかけて入っていった先は先日まで自身が出演していた芝居小屋でした。そうして、深夜の暗い席に入った時に、彼は目を見開きました。ぱっと無数の明かりが灯り、三味線が鳴り出したのです。
 舞台を見ると幼い頃に見た「夕霧名残の正月」、その最初の場面でありました。上方、城都(じようと)にある扇屋という店で、主人と女房が遊女夕霧の四十九日(なななぬか)の法要の支度をしているというところです。広間の中央には夕霧の形見である打掛(うちかけ)を飾っておりました。
 そうして二人が去ると、ついに舞台の主役が現れました。遊女の夕霧に肩入れしすぎて、実家を追い出された豪商の若旦那、伊左衛門(いざえもん)でありました。金子がないのか、紙衣に身を包んだ姿です。
「紙衣ざわりが、荒い粗い」
 そう言って姿を現したのは七島に流されたはずの新五郎その人でありました。そうして彼は思い出しました。自分を起こしたのはこの声であった、と。
(ああ、兄さん! 新五郎兄さん……!)
 若き歌舞伎役者はその名を叫ぼうとしましたが、うまく声になりませんでした。
 舞台は進んでいきます。夕霧の死を知った伊左衛門は嘆き悲しみ、せめて供養にと念仏を唱えます。すると内掛けの裏側から夕霧が姿を現しました。
 二人は再会を喜んで昔を懐かしみ合います。恋心を語る男女の動き、その駆け引き。その艶こそが新五郎の芝居なのです。
(ああ……兄さんだ。これこそが兄さんの芸なのだ!)
 男女は再会に涙します。若き歌舞伎役者の男も新五郎の芸が見れたその懐かしさ、嬉しさに涙致しました。
 しかし、喜びを分かち合ったのも束の間でした。夕霧の姿は突如消えてしまいます。
「伊左衛門さん、伊左衛門さん、目を覚ましてくだしゃんせ」
 扇屋の主人と女房の声で目を覚ます伊左衛門。そうして、夕霧だとばかり思っていたのは形見の打掛だったと知るのです。
 けれどせめて夢でも会えたことを伊左衛門は感謝します。そうして芝居は終わりました。
「兄さん! 新五郎兄さん!」
 終劇と同時に何かから開放され、若き歌舞伎役者は声を張り上げました。やっと声を上げた若き歌舞伎役者に応え、舞台袖に去ってゆく新五郎は振り向きました。
 しかし、その顔は新五郎ではありませんでした。
 振り返ったのは長細い獣の顔でした。黒い獣で、目や口に赤い縁取りをしています。改めて見ると紙衣すら着てはおりませんでした。黒い身体に赤い爪。長い長い赤い鬣(たてがみ)が伸び、先のほうで結んでおりました。
 驚愕する若き歌舞伎役者に、獣が言いました。
「我は新五郎の悪狐……人を化かす修行を重ね、今は化け狐である」、と。
 そうして化狐は続けました。
「案ずるな、二代目よ。この私ですら、新五郎になれるのだ。現にお前を騙したのだ。お前にやれぬはずはない。己を信じ精進せよ、二代目よ」
 獣の声。それは新五郎の声でした。少なくとも若き歌舞伎役者にはそう聞こえたのでした。
 化け狐は鬣の中から派手な色の傘を取り出すと開き、決めの型をとると、放り投げました。その傘の動きを追ううちに狐の姿は忽然と消え失せてしまいました。

「團十郎(だんじゅうろう)さん、團十郎さん、目を覚ましてくださいな」
 若き歌舞伎役者が居なくなったのを心配して、探しに来た部屋子がそう言って、彼は目を覚ましました。薄い光が差す芝居小屋はもぬけの空。團十郎と部屋子以外は誰もおりませんでした。

 それから、若き歌舞伎役者――二代目市川團十朗は修行を重ね、ついに江戸一番の人気役者となり、ついには千両役者と呼ばれるまでになりました。彼は荒事に和事、実事、あらゆる役柄を演じこなす幅の広い役者であったと伝えられています。
 歌舞伎役者のメイクとして有名な、あの赤い隈取。最初にやったのはこの二代目であると言われています。