替わらずの社-かわらずのやしろ-




 私のおじいさんは宮大工です。宮大工というのは神社やお寺を建てる大工さんのことで、何年も家を離れては、社寺のある地に住んで、仕事をするのです。
 今から私がお話しするのは、私のおじいさんから聞いた話で、おじいさんが若い頃にホウエン地方のさる大きな社殿の建て替えに関わっていた時のことだそうです。
 おじいさんが仕事をしていたのは職人の仲間内で、「赤の神宮」と呼ばれているそれは大きな神社でした。建物の外壁を赤く塗っているのが特徴的な建造物です。その昔ホウエンの民を洪水や長雨から救ったという日照と大地を司る神様を奉っているところだそうです。
 赤の神宮は敷地を東西の区画に分け、二十年ごとに建て替えを行っています。これは、職人の技術を継承することがひとつ、そして決まった年ごとに新しく建て替えることによって永遠を目指したからなのだそうです。建物を支えていた木材自体はまだまだ使えますから、橋になったり、もっと小さな神社の建て替え材料になったり、鳥居になったりするのだそうです。
 おじいさんがやってきた年は、東の建て替えが行われる年でした。
「よく来たな。まずは社殿を案内しよう」
 棟梁(とうりよう)が相棒であるゴーリキーと一緒に若き日のおじいさんを歓迎しました。棟梁とゴーリキーの後ろについて、おじいさんとその相棒は社殿を見学しました。
「にしても獏(ばく)が相棒たぁ珍しいなぁ」
 棟梁が言います。獏とは催眠ポケモンのスリープのことです。
 宮大工は仕事の相棒としてポケモンを何匹か持っておりますが、その大抵は格闘タイプのポケモンでした。特に重い荷物を運搬できるワンリキー・ゴーリキーや高所を移動できるマンキー・オコリザルが重宝されたのです。
「獏(ばく)蔵(ぞう)と言います」
 と、おじいさんは答えます。
「ケガしてたのを助けてやったら懐いてしまって。でも木材を念力で持ち上げたり出来ますから、重宝しますよ。大食いなのが玉にキズですが」
 若き日のおじいさんは笑いました。
 二人と二匹は広い敷地内を歩き周りました。棟梁はあの建物は何に使うとか、あの建物に見合う立派な柱を探すには苦労したとか、いろいろ聞かせてくれました。二十年に一度建て替えをしているというだけあって、今まで巡ってきた全国の社殿と比べても、建物は新しい感じです。
 しかし、回っていくうちに妙なことに気がつきました。
「棟梁、よろしいですか」
 おじいさんは尋ねました。
「何だ」
 そして、東の離れたほうにあるひとつの社殿を指しました。
 いくつもの大きな木と茂みに囲まれて、ひっそりと立っています。
「さっき通った建物だけ妙に旧いように見えますが」
 すると、棟梁が答えました。
「ああ、あれはな、替わらずの社だ」
「替わらずの社?」
「そうだ。昔は宝物殿として使っていたらしい。東にあるあの社だけは遷宮の年になっても建て替えんのだ」
「なぜですか」
「建て替えたくても建て替えられないからだよ。あの社に手を出そうとすると職人やその相棒がケガをしたり、いつの間にか材木が消えてたりするのよ。居なくなった奴もいる。忽然と姿を消してしまってな。それで何十キロも離れた町でぼーっとしてるのが見つかったんだそうだ」
「…………」
「とにかく、こいつを相手にしてると他の仕事に差し障るってえんで、誰も手を出さなくなった。神宮側も諦めとってな、あれには外壁の色を塗る以外は手を出さない約束になっとる。触らぬ社に祟り無しってとこだな」
「中を見てもいいですか」
「お前も物好きだなあ。長生きしないぞ?まあ、見るだけや掃除するだけなら問題ない。ただし、見たって面白くも何とも無いぞ。何も無いからな」
 そうして、若き日のおじいさんは社殿の中を見せてもらったそうです。
 観音開きの旧(ふる)い扉を開いて、中に入ってみると言われた通り、壁と床と屋根があるだけでした。
「本当に何もないですね……」
「だろう? 一体何が理由なのかさっぱりなのだ。さ、気が済んだろう。行くぞ」
 棟梁はそう言うと背を向けました。
「おいで、行くよ」
 なぜかスリープの獏蔵が社の中空をじっと見つめているので、おじいさんはそう声をかけて連れ出しました。
 後でよくよく思い返してみると、おじいさんが妙にはっきりとした夢を見るようになったのは、その夜からだったそうです。

 一日目の夜に見た光景は、赤い炎の燃え盛る建物から人々が逃げ出している光景でした。泣き叫ぶ者もおりましたし、中に残した品を取りに行こうとして制止される者もおりました。火の粉が風に舞い上がり、熱風が頬に触れました。あまりにも熱かったものですから、自分の寝泊りしている宿舎が火事になったのかと思ったそうです。うなされて目を覚ますと、獏蔵が心配そうに覗き込んでいました。
 二日目も火の夢を見ました。おじいさんはノミで何かを一生懸命彫っています。それはネイティオの木像でした。ふと気がついて後ろを見ると今までつくったたくさんのネイティオ像が並んでいます。今まで一生懸命彫り上げてきたものでした。けれど一体に火がつき、二体に火がつき、それはどんどん燃えてなくなっていきました。
 三日目もまた火の夢でありました。今度のおじいさんは欄間(らんま)の職人でした。木をノミで彫って水流を表現しました。そこに遊ぶアズマオウやギャラドスを泳がせました。けれどもまた火がつきました。欄間は消し炭になってしまいました。
 四日目は赤色に悩まされる夢でした。おじいさんは青や緑を使うポケモンの絵を描いているのですが、色を足そうとして絵皿を見ると、赤い顔料しか乗っていないのです。橙、朱、緋色、どこを見ても赤系の色しかありません。
「色を、別の色を持ってきてくれ!」
 おじいさんは言うのですが、運ばれてくるのは赤い顔料ばかりなのです。赤。赤。赤。みんな赤です。
 仕舞いには描いている絵が下から赤い色に染まり出しました。
「違う! 違う! その色じゃない!」
 そう叫んで目が覚めました。
 そうやって、五日目も六日目も、燃えたり赤く染まったりする夢が続いたそうです。どういうわけか形のあるものを作ると燃え落ちて形が崩れてしまい、色とりどりの絵を描いても赤く染まってしまうのでした。
 その日の夢では何かが割れる音がしました。丁寧に絵付をされた色とりどりの皿が粉々に割られていました。
「さあ、こちらに来るのだ。仕事をやろう」
 誰かが言っておじいさんの手を引っ張りました。
 気がつくとおじいさんは夢の中で、炎のポケモンの像を彫ったり、赤い顔料で炎を描いたりしていました。皿を絵付けする時の色も赤です。赤。赤。赤。みんな赤い色をしていました。これは違うのだと自分の中の何かが言うのですが、それ以外を作ることは許されないのです。
「違う。違う。この色じゃない。この色じゃないんだ……」
 気がつくと、昼間の仕事で柱に朱の色を塗っている時もそんなことを呟いている始末でした。
「すまないが、一緒についていてくれないか」
 そう言っておじいさんは獏蔵を抱いて眠るようにりました。すると獏蔵が夢を食べるからでしょうか。悪夢の内容がぼやけて、うなされて目を覚ますことが少なくなるのでした。
 そうして、工事に加わって一月程が経ったでしょうか。もう大丈夫だろうと思って、獏蔵を抱いて寝なくなったのが失敗でした。おじいさんはまた夢を見ました。
 しかし、今度は少しばかり内容が違っていました。
 今度のおじさんは棟梁でありました。彼の役割は造営だけでなく、神宮に飾る襖の絵や絵皿、欄間その他もろもろの進行を管理する役柄であるようでした。そしてどうもその風景に見覚えがあることに気がついたのでした。
 おじいさんが歩いているのは、赤の神宮の境内でした。しかし今と様子が違うのは、いくつかの社殿が建っていないということ、特徴的なあの朱の色が塗られていないということでした。どうやらこの神宮は今まさに造営中らしいのでした。
 そして、おじいさんはひどく悩んでいました。それと言うのも自分が監督している時以外、職人達が仕事をしないからでした。彼らは意図的に仕事を拒否しているようでした。彼らはホウエンの様々な地域から集められてきた、様々な技能を持つ職人達でありました。
「欄間はどうじゃ」
「天井の絵の進み具合は」
「朱の色は」
 そう聞いて、見て回りますが、職人達ははぐらかすばかりなのです。
 時々赤い服を来た役人がやってきて、進み具合が遅いと苦言を呈しました。
「造営が進まねば、いずれお咎めを受けることになろうぞ」
 しかし、彼らの士気は上がりませんでした。
 そしてある晩のことです。
 おじいさんが眠りにつくと、夢の中で職人の一人が棟梁を尋ねて参りました。そうしてこう言ったのでした。
「棟梁よ。いくら脅しても無駄です。我々の意思は決まっています」
 それは造営に関わる職人達から一目置かれた年老いた宮大工でした。
「我々は赤に手を貸さぬ。ある者は故郷の神の像を焼かれ、ある者はその姿を赤く染められた。我々の腕はこんな馬鹿げたものを建て、飾り立てる為にある訳ではないのです。このまま奴らの言われるままの形を作って、言われたままの色を塗るくらいなら咎を受けます」
「今はいい。だが、こんなことを続けていればいずれ殺されるぞ」
 棟梁は言いました。けれど老職人はこう言いました。
「それで職人がいなくなれば、造営は大きく遅れる。やつらが面目は丸潰れでしょうな。いいですか棟梁よ。これは我々の精一杯の抵抗なのです。それで死ぬというなら、私達は命を捧げる覚悟です」
 老職人の決意は固いように見えました。そうして彼は突き刺さる矢のような問いを放ったのでした。
「貴方にこそ誇りはないのか。貴方だって奴らに無理やり連れてこられた一人だろう」
「私は」
 棟梁は言葉に詰まりました。彼自身もその昔、遠いところから連れてこられた職人の一人だったのでした。
「私は……それだけが道とは思わぬ」
 棟梁はやっとそれだけ言いました。けれど具体的な言葉を返すことが出来ませんでした。

 あれは、この神宮を建てる時の出来事だろうか。
 おじいさんは仕事をしながら、何度もその言葉を頭の中で反芻(はんすう)していました。
 別におじいさんはこの仕事が嫌ではありません。旧い社殿の修復依頼があればどこにでも行きました。そうして、仕事をすればみんな喜んでくれました。ぼろぼろだった社殿が蘇った、当時の姿を取り戻したとみんな喜んでくれたのです。それが技を継いだおじいさんの誇りでした。
 そんな折、おじいさんはホウエンの職人からこんな話を聞きました。
 その昔、ホウエンでは二つの有力豪族(ごうぞく)が争っていた。ひとつは日照の神を擁する赤い衣の一族で、もう一つは雨の神を信奉する青い衣の一族だった。彼らは領地の広さを争って、そして権勢を争った。その力の象徴がこの神宮や多くの宝物なのだ、と。
 彼らは支配した土地から腕のいい職人達を連れてきて、自分達の神の姿や力を表現させた。より多くの職人を囲っているというのは、それ自体多くの地を支配しているという証だった、と。
「今の我々は、赤の建てた社だろうと青の架けた橋だろうと、必要とする者あればそこに駆けつける。古より伝わる知恵と技の伝承こそが役割だからだ。誇りだからだ。だが、一方でこんな詩(うた)が伝わっている――」
 柱に朱の色を滑らせながらそう職人は詠いました。

 豊縁の その掛軸の絵の青の色
 それは人の涙の色
 精霊達の涙の色

 豊縁の その像を塗る赤の色
 それは人の滲んだ血の色
 獣の流した血潮の色

 今は耐えて 血を繋げ
 技を磨き 技を継げ
 耐えて 絶やすな 夜明けまで

 旧い、雅楽のような旋律に乗せて、そんな意味の詩を歌いました。
 そうして、これは職人への技の精進と継承を怠るなとの戒めであると説きました。各地を巡る自分達には本来、帰るべき故郷があって、その腕はそこでこそ発揮されなければならないのだと。渡り歩いて仕事をする我々だが、いつか忘れてしまった故郷に帰った時、腕が衰えていないように、途絶えていないように、今はこうして仕事をしているのだ、と。

「何を見てるんだ」
 スリープの獏蔵が仕事に集中しないので、おじいさんは声をかけます。すると獏蔵ははっと気がついたようにして作業に戻るのですが、しばらくしてまた落ち着きがなくなるのでした。よくよく観察しているとどうも獏蔵は、替わらずの社を気にしているようでした。
「あそこには何もないよ。お前だって見ただろ」
 おじいさんは言いました。けれども獏蔵はやはり終始気にしているのでした。
 そうしてここの二、三日に至っては、社のほうに歩いていっては観音開きの扉を開けて中をしきりに覗くのです。ですが、やはり何もありません。
「気が済んだか」
 おじいさんはため息をつくと。獏蔵の背中を押すようにして、外に連れ出そうとしました。
「ん?」
 その時、おじいさんは一瞬誰かに見られている気がしたそうです。
 けれど振り返ってもそこには空間があるだけで誰も立ってはいませんでした。

 また夢の中に妙な変化がありました。
 夢の中でおじいさん――あの棟梁が神宮近くの山や草原を彷徨っているのです。たしかに宮大工は造営の材料となる木を山や森に求めたり致しますが、どうもそういうことではなさそうでした。
 彼はその手に丸い木の実を握っていました。それは緑色のぼんぐりでした。上部に丸い穴を開けて、栓をしています。ぼんぐりはポケモンを入れることが出来る不思議な木の実です。探しているものは明らかにポケモンでした。
 日差しが強い日も、雨が降り続いている日も彼は探し続けました。何日もそんな夢が続きました。
「精霊を。精霊を見つけねばならぬ」
 棟梁はうわ言のようにそう呟きました。
 きっと、きっと自分の気持ちを分かってくれる精霊がいるはずだ。彼はそう自分に言い聞かせて草原や山を歩き回っていたのでした。

『……。……』
 誰かが自分を呼んだ気がして、おじいさんは振り返りました。けれど自分の後ろには誰もいません。あるものと言えば、その先にある替わらずの社だけです。見ると獏蔵も同じ方向を見ていて、おじいさんに目配せしました。
 おじいさんは何か少し怖くなりました。
 替わらずの社には何も無い。何も無いし、誰もいないはずなのに。
 けれどあそこには何かがある。何かがいるというのを、その時はっきり感じたのだそうです。

 山と草原を歩き続けた棟梁はついに精霊を見つけました。それは彼が木陰で一休みしていた時のことでした。がさがさと茂みが鳴ったかと思うと、そこから精霊が現れたのでした。
「お前は、私の心を知って現れたのか」
 棟梁は小さな精霊に問いました。
「旅の操り人から聞いた。お前は、人の想いを受け止めて強くなると。だから私はお前を捜し求めていたのだ。もし私がお前を私のものにしたのなら、きっと私の……否、私達の想いでもって、お前は強い力を持った精霊になるだろう。だがそれは長い間お前を苦しめることになるやもしれぬ」
 再び棟梁は問いました。
「それでもいいのか」
 小さな精霊はこくりと頷きました。

『……して。ここ……ら……して』
 おじいさんは声を聞きました。前よりもはっきり聞こえました。もはや気のせいではありません。それはやはり替わらずの社の方角から聞こえてくるように思えました。
 おじいさんはいよいよ恐ろしくなりました。そうして替わらずの社には近寄らなくなりました。本当は実家に帰ろうと思ったそうですが、さすがに仕事を投げ出すわけにはいきませんでした。昼間はなるべく社から離れて仕事をし、夜は漠蔵にしがみついて眠るようになっていました。
 けれど毎夜見る夢は、ぼやけるどころかますますその輪郭をはっきりさせていきました。

「さあ、お前達の望む者を連れてきた」
 棟梁は月の無い夜、密かに職人達を集めて言いました。皆の前に姿を現した精霊は、棟梁に出会った時より一回り大きくなっていました。
「皆聞け。東の離れた場所に宝物殿を建てようと提案した。私はそこに我らのすべてを納めようと考えている」
 棟梁が続けました。
 すると次の日から職人達は、まるで人が変わったようにきびきびと働きはじめました。
 赤の神宮の造営は瞬く間に進んでいきました。その中を飾る絵や欄間も次々に形を成しました。
 夕刻に仕事を終えると棟梁は言いました。
「伝えるべき我らの形と我らの色、夜の暗き色、あらゆる色を内包する黒の色に紛れて、密かにそれを作るのだ」
「木を隠すには森の中。案ずるな。精霊の力を持ってすれば見つかることはない。昼間の仕事も怠るな。今後は我らの作るすべての赤のもの、我らの建てるすべての赤ものが、我らが技に磨きをかけ、我らの宝を隠す木となり森となろうぞ」
「生きようぞ。血を繋ぎ、技を伝えようぞ」
「いつの日か時は変わる。永い永い夜は明ける」
「その時まで――」
 赤い二本角の精霊がすっと白い手を上げました。その手が中空を切ると、空間が裂けました。その先に見たこともない風景が見えました。

 カーン、カーンとノミの音が響きました。
 木材を削るノミの音です。
 その道具を操って、職人達は様々な形を成すのです。
 その音がだんだんと曖昧になって、自分の心音になっていることにおじいさんは気が付きました。

 はっとおじいさんは目を覚ましました。
 まだ空気の寒い夜明け前でした。けれど、おじいさんは誰かに呼ばれた気がしたのでした。
 おじいさんが布団から這い出すと、一緒に獏蔵が目を覚ましました。
 襖をあけて、廊下に出ると声が聞こえました。
『……して。……して』
 不思議ともう怖ろしさは感じませんでした。
 おじいさんは宿舎の外に出ると、玉砂利を踏みながら走っていきました。走りにくかったけれど、おじいさんと獏蔵は走りました。耳に響く声がだんだん大きくなっていきました。
『出して』
 もうはっきりと聞こえます。何を言っているのかがはっきりとわかりました。
『出して』
『出して。ここから出して』
 複数の声がそう言っていました。
 夜明け前。一人と一匹は荒く肩で息をしながら替わらずの社の前に立ちました。
 そして、替わらずの社の扉を開け放つと、おじいさんは叫びました。
「夜明けだ!」
 と、おじいさんは叫びました。
「聞け! もう夜は終わったんだ! もうどんな形を彫ってもいいんだ。誰もそれを燃やしたりしない! どんな色を使ってもいいんだ。誰もそれを赤に染めない! 好きな形を作っていい、好きな色を塗っていいんだ!」
 太陽が顔を出しました。東の空と地の間から光が生まれ、空は瞼を開くように目覚めました。
 その時、おじいさんは目撃しました。社殿の部屋の中心の空間。そこに異次元の入り口のような小さなヒビが入っているのを。ぴしり、ぴしりとヒビが広がっていきます。
「獏蔵!」
 おじいさんがそう言うと、スリープの獏蔵が両腕に念の刃を構えました。
「きりひらけ!」
 獏蔵が光る念刃(サイコカツター)をしならせ飛ばしました。いつもは材木を切るときに使っている技です。
 パーンと何かが硝子の割れるような音を立てて弾けました。社殿の空間のあちこちにヒビが入って、これまで何も無いと思っていた風景が崩れ落ちてゆきました。そうしておじいさんは目を見開きました。崩れ落ちた風景の先に、今まで見えていなかった様々なものが姿を現したからでした。
 最初に目に入ったのは、自分の身長ほどもある大きな彫像でした。ネイティオのように見えました。それだけではありません、様々な色をした様々な彫像がそこには並んでいました。魚の形をしたもの、竜の形をしたもの、獣の形をしたもの。海の者、山の者。奥にはたくさんの巻物が積んであります。その更に奥には色とりどりの色で描かれた屏風がいくつも立っておりました。
 今まで見ていた何も無い風景が完全に崩れ落ちたその時、おじいさんは彫像の並ぶ部屋の真ん中に一匹のポケモンがぽつんと立っているのに気がつきました。
 小さな、踊り子のような白い身体、頭には両端に伸びる緑の傘のようなものを被り、二本の赤い角が生えていました。
 そのポケモンと目が合いました。踊り子に似たエスパーポケモンはにこりと笑うとすうっと消えていきました。
 おじいさんは屋殿の中を進んでいきました。職人達の故郷の神を象ったものでしょうか、床にも数え切れないほどの小さな彫像が並べてありました。
 そうして、その中に何か丸いものが転がっているのを見つけました。すっかり黒くなったぼんぐりでした。周りにある彫像達はみんな仕上がり後のように真新しい感じがするのに、それだけがひどく旧いのでした。手にとるとぼろぼろと形が崩れて、無くなってしまいました。
 若き日のおじいさんは涙を零しました。その場に崩れ落ち、涙を止めることが出来ませんでした。身体中が熱くなって、血が沸騰するのが判りました。

 豊縁の その掛軸の絵の青の色
 それは人の涙の色
 精霊達の涙の色

 豊縁の その像を塗る赤の色
 それは人の滲んだ血の色
 獣の流した血潮の色

 今は耐えて 血を繋げ
 技を磨き 技を継げ
 耐えて 絶やすな 夜明けまで

 いつか職人が歌った詩のその意味を、おじいさんはその時、真に理解したのだそうです。

「ホウエンの神宮から大量の彫像発見」
「例を見ない発見、ホウエン古代史研究に新たな光」
「――ほとんどが重文級か」
 当時の新聞の見出にはそんな文字が躍りました。

「呼ばれたのだ。たぶんずっと呼んでいた。彼らは時を知りたがっていた。外に出る時を。私がたまたま声を聞いたのだ」
 おじいさんは語ります。
「夢の報せがあったのは、お前が相棒だったからかもしれんな」
 ゆったりした椅子に腰掛けたおじいさんはそう言って、今ではすっかり背の高くなった催眠ポケモンに同意を求めました。
「あの出来事だけは色褪せぬ。つい昨日のことの様だよ」

 今はもう、替わらずの社はありません。
 あれから月日が流れ、遷宮の年がやってきて、その時に建て替えられたのです。
 今はその場所におじいさんの建てた新しい社殿が構えています。