その黒い狐は元来、豊縁よりははるか遠い地にいる種でありました。
 小さいうちなどは豊縁の灰色犬などに似ておりますが、ひとたび成獣となりますとまるで人のように二本足で立ったりいたします。
 北の地には波導と呼ばれる不思議な力を使う犬人もおりまして、その狐はそれにも似ておりましたが、赤黒いその姿はどちらかというとおぞましく、人々からは恐れられておりました。
 そして何より北の地の犬人との最大の違い、それは「化ける」ということでございましょう。
 たびたび人に化けては悪さを成すものですから、人々は彼らを悪狐――"わるぎつね"、
"あっこ"などと呼んでおりました。

 さて、ここ豊縁にも一匹の小さな悪狐がおりました。
 もともとは豊縁よりも遠く離れた地に住んでいたのですが、この悪狐ときたら成獣前だというのに、わるぎつねの中でも特に悪さの度が過ぎたものですから、悪狐の間でも煙たがられておりました。
 そしてある時、さる高僧によって木の実の中に封じられてしまったのです。
 仲間は誰も助けてくれません。
 悪狐はとうとう海に流されてしまいました。

 悪狐を入れた木の実は潮の流れに乗って、長い長い旅をしました。
 そうして長い旅路を経て木の実が漂着し、流れ着いた先、それが秋津国の南、豊縁であったのでございます。

 打ち上げられた木の実を拾ったのは、海辺を歩いていた青い装束の男でありました。
 男は木の実から転がり出た悪狐を見て、
「おかしな顔の灰色犬だなぁ」
 と言いました。
 傭兵であった男は内陸の部族と戦うためにたくさんの灰色犬を育てていたのです。
 この頃の豊縁は戦乱の真っ只中にありました。
 赤い色の部族と青い色の部族が互いににらみ合い、周辺諸国を巻き込みながら争っておりました。
 男のいる青の陣営、すなわち海の神様を信仰している青の一族は地を走る獣をあまり好みません。
 しかしながら、人が争うのは陸の上が主でありましたから、やはり地を走る獣の助けを借りる必要があったのであります。
 灰色犬とその成獣、噛付犬は比較的扱いやすかった為、陸上戦の戦力として重宝されておりました。
 男は灰色犬の群れの中に悪狐を放り込みました。
 そうして、噛付犬にする為の訓練をはじめたのです。
 悪狐はそれはそれははねっかえりでありましたから、反抗したかったのですが、なにしろ長旅のせいで化ける元気もありません。
 それに訓練の後、男は海で手に入れた食べ物をくれましたから、適当に言うことを聞くふりをしながら、しばらく灰色犬のふりをして厄介になることにしたのです。
 男のところに転がり込んで、しばらく経つと灰色犬達とも仲良くなりました。
 なにしろ同じ悪の属性を持つもの同士、容姿も似ておりますから通じ合う部分があったのでありましょう。
 ですが、別れは無常に訪れました。
 彼らが進化し、成獣となった時、同じようなタイミングで悪狐の姿も変わりました。
 その時、彼と彼らの違いは明確になったのであります。
「なんなんだこいつは!」
 と、男は叫びました。
 相変わらず四足で立つ噛付犬に対し、悪狐は二本の足で立ちました。
 噛付犬は黒いたてがみですが、悪狐のたてがみは血のように赤い色でした。
「こんな獣を持っていたら、お役ご免になっちまう!」
 赤い色の生き物などこの世にごまんとおりましたが、彼らにとって赤色の地をかける野獣は敵に他なりませんでした。
 こんな獣を持っていたら、青い装束の仲間から勘違いされかねません。
「早く俺の前から去れ! どこかへ消えてしまえ!」
 かくして、男は悪狐を犬の群れから追い出したのであります。
 悪狐は大変に怒りました。
 もともと長居などするつもりなどなかったはずなのですが、何しろ大変なはねっかえりでありましたから、とにかく怒りました。
 ある夜、悪狐は男に化けると鍵を持ち出し、犬達の鎖や束縛を解いてしまいました。
 こうして男の元からは犬達が全頭逃げ出しました。
 けれど、狐は犬達と一緒に行くことは出来ませんでした。
 彼らはもうお互いにあまりに違いすぎたのです。

 犬の群れが去って、男が青から去った後も、青に対して悪狐は執拗(しつよう)に悪さを繰り返しました。
 漁業用の網が破られたことは一度や二度ではありません。
 訓練中の魚や海獣が逃がされたり、武器庫が荒らされたりしたことが何度もございました。
 しかも犯人の姿がその度に違い、たいてい味方の姿をしているものですから、陣営にいる者達はほとほと困りはてておりました。
 ですが悪事は長く続きませんでした。
 青い男達の一人がどこからか、逃がされた犬達の代わりにと大変に鼻の利く、よく訓練された噛付犬をつれてきたからです。
 獣の臭いを嗅ぎ分けた噛付犬は男達の一人に襲い掛かり、飛び掛られた男は即座に悪狐の正体を現したのでございます。
 悪狐は青装束の男達と彼らの獣達に取り押さえられてしまいました。
 もはや逃げ場はありません。 悪狐の命もここまでと思われました。
 ところがその時、陣のあちこちから火の手があがりました。
 夜空を無数の火付矢が飛び、あちこちに刺さりました。
 火の手はさらに増え、夜空を赤く照らしたのでございます。
 それは彼らが敵とみなしている者達の奇襲攻撃でした。
 陣の中に赤い装束を纏った者達がなだれ込んでまいりました。
 彼らは地の力、炎の力を持った野獣達を好んで使っておりました。
 夜襲をかけた赤い装束の者達は、まずはじめに魚や海獣のいるいけすを押さえると、武器庫に火を放ちました。
 陣は騒然となりました。こうなっては悪狐を構っているどころではありません。
 青い装束の者達はある者は捕らえられ、ある者は斬り殺され、ある者は命からがら逃げ出しました。
 夜が明けたとき、そこにいたのは赤い装束の男達ばかりでありました。
 赤の男達は、役に立ちそうな野獣を残して、使わぬ獣や魚達を放しました。
 その多くは海に住む魚達でしたので海に放しました。
 獣達を仕分けた後に、悪狐が一匹残りました。
「こいつはどうする」
 と、赤い装束の男が別の赤装束の男に言いました。
「どうするも何もこんなやつは見たことが無い」
 と男は答えました。
 彼らの疑問ももっともでした。
 悪狐は本来もっと遠い所に住んでいるのです。
 するとどこからか彼らのお頭(かしら)が現れ言いました。
「悩むことは無い。水かきがついていないのなら、使えばよいのだ」
 もっともだと男達は納得しました。
「それにこのたてがみと爪の見事な赤を見ろ。我らが持つ獣としてはふさわしかろう」
 その一言で悪狐は頭のものとなりました。

 赤装束のお頭は野獣達を強く育てるのが上手でありました。
 より強い技を教え、誰よりも早く進化させました。
 あの青の装束の男が、半年かけてやることを一月や二月でやってしまうのです。
 彼の下にはそれは立派な火山を背負った駱駝(らくだ)や、飛ぶ鳥を蹴り一つで落としてしまう軍鶏(しやも)など強い野獣がたくさんおりました。
 赤い集団には荒くれ者が多くいましたが、そんなお頭には誰も頭が上がりませんでした。
 お頭は悪狐に言いました。
「お前の姿は書物で見たことがある。人に化けるとは真か」
 悪狐は黙って頷きました。
「ならば一つ、この俺に化けてみせろ」
 お頭がそう言うので、悪狐は宙返りしました。
 再び地上に足をついた時には赤装束のお頭が二人になっておりました。
「うむ、見事だ。ならば一月はそのままでいるように」
 と、お頭は言いました。
 赤装束の集団の中に同じ顔のお頭が二人。
 赤装束の男達は皆そろって変な顔をしましたが、二人は気にも留めませんでした。
 お頭の姿をした悪狐に彼は所作や言動を真似るよう言いました。
 お頭が遠くを指差すともう一人のお頭も指差しました。
 お頭が「火を放て」などと言うと、もう一人も「ヒをハナて」と言ったのであります。
 そして一月の後にお頭はこう言いました。
「俺の真似をさせたのは他でもない、人間の所作や発音を覚えさせるためだ。次はこれだ」
 そうして今度は紙と筆を与えました。
「お前には読み書きもできるようになってもらう」
「ヨミカキ?」
 悪狐は、一丁前に人の言葉を発して目をぱちくりさせました。
「心配には及ばん。なぜなら俺が教えるからだ。それにお前は才能がある」
 と、お頭は言いました。
「サイノウがある……」
 悪狐はその時、生まれて初めて褒められた気がしたのでした。
 読み書きの訓練が始まりました。
 お頭が予言した通り、悪狐は文字通り人とは思えないスピードで文字を覚えてゆきました。
 そのうちにこの赤装束の中では、頭の次に読み書きができるようになりました。
 これには赤装束の荒くれ者達も驚きました。
 すっかり人と同様になった悪狐にお頭は言いました。
「お前にここまで教えたのは他でもない、お前にやらせたい仕事があるからだ」
「シゴトですか」
「そうだ。今よりお前は僧侶に化け、この国に入れ」
 お頭は地図を広げると豊縁の中にある一国を指差しました。
 その頃の豊縁は小さな国や里がたくさんあったのです。
 ここではお頭の指した場所を仮に新緑の国とでも呼ぶ事にいたしましょう。
「この国を盗れと、我等が長より直々に命が下ったのよ。だが、この国はなかなかに手ごわい。世襲の大王(おおきみ)はボンクラだが、参謀の天(てん)昇(しよう)上(しよう)人(にん)とかいう坊主がやっかいなのだ。お前には坊主になってこの国に入り、情報を集めてもらいたい。出来るなら上人に近づけ」
「ミッテイというやつですか」
「そう、密偵だ。いいぞ、それでこそ仕込んだ甲斐があるというものだ」
 訓練の成果を感じてお頭は喜びました。

 かくして悪狐は若い僧の姿に化けますと新緑の国に入りました。
 戦乱の世にあって新緑の国は国境を常に守護しておりました。
 また関所を設け、そこを出入りする者に特別の注意を払っておりました。ですが僧侶は別でした。
 赤も青もそれを知っておりましたから、幾度と無く頭を剃った兵士を送ったのですが、誰にも上人には近づけずにおりました。
 上人は異国からの僧侶は皆、はじまりの寺に放り込むように触れを出しておりました。
 寺で認められない限りは国の中を自由に行き来できないのです。
 そこでのあまりの修行の厳しさに皆、逃げ帰ってきてしまうのでした。
 それは厳しい修行でありました。
 日も登らぬうちから起き出して、滝の水を浴び、険しい山一つ越えた場所にある鐘を鳴らします。
 お腹をすかせて戻ってきても、出されるのは一椀の粥のみでございました。
 ろくに食べることもできずとても頭など回りません。
 それなのに七つの日が巡るごとに長い長い経の書かれた巻物の一つをそらで暗唱できるようにならなければいけませんでした。
 覚えられない者からどんどん脱落してゆくのです。
「こんなこと人間では無理だ。仙人でないと」
 同じ頃に寺に入った男は悪狐にそう言うと寺を去りました。
 しかし悪狐は仙人ではありませんでしたが、人間でもありませんでした。
 野を駆ける獣である悪狐にとって山を一つ越えることなど散歩に行くようなものです。
 彼は颯爽と山を越え、言われた通りの数、鐘をつくとさっさと戻ってきて、早速お経の暗記に入りました。
 寺は粥一杯しかくれませんでしたが、山で木の実や茸を見つけ、腹を膨らましました。
 驚いたのは上人の部下である寺の住職です。
 お頭仕込の悪狐は驚くべき速さで経を身に付けていったのであります。
「今度の外からやってきた若い僧は只者ではないらしい」
 そんな噂が天昇上人の耳にも入りました。
 彼はその僧をひと目見てやろうと新緑の都から国境近くの山寺にやってまいりました。
「お主、名は何と申す」
 と、上人は尋ねました。
「白(はく)蔵(ぞう)子(す)と申します」
 そう答えた悪狐は上人の顔を見て非常にびっくりいたしました。
 上人はかつて木の実の中に悪狐を封じ、海に流した高僧に瓜二つであったのです。
「国(くに)許(もと)はどこじゃ」
 と上人はまた尋ねました。
「豊縁よりはるか彼方にございます。一月ほど海を渡って参りました」
 悪狐は緊張して答えました。
 すると、上人は
「ふむ、偽りなきようじゃ」
 と仰って、才あるものは都に迎えようと言いました。
 かくして白蔵子こと悪狐は上人に近づくことに成功したのであります。

 天昇上人は若い頃の名を常(じよう)安(あん)と言いまして、徳の高い僧でありました。
 新緑の国では摂政(せつしよう)を任され、大王に替わり政治に携わっておりました。
 また、都には彼の開いた学院があり、政治の傍ら教鞭をとったのです。
 学院へと入った悪狐は上人の教えを受けることになりました。
「新緑の最も大切にする教えは寛容です。すなわち、受け入れること、許すことなのです」
 上人はしばしばそのように言われました。
 悪狐には教えのことはよくわかりません。
 けれど、上人が出す課題は黙々とこなしてゆきました。
 かつて悪狐を封じた僧に瓜二つの上人が出す課題です。
 怖くてとても手が抜けません。
 さらに上人の出す課題は、宗教上の教えだけではありませんでした。
 地理学、政治学、文学、数学、天文学など多岐にわたりました。
 上人は特に白蔵子の出す地理学の報告を評価なさいました。
 それもそのはず、地理学は悪狐にとって重要であったのです。
 お頭からは情報を集めろと言われておりました。
 この新緑を攻めるには、この国の地理を知ることが何より欠かせませんでした。
 ですから、悪狐は熱心に地理を勉強したのです。
「ここが険しい山、このあたり一帯が蕎麦(そば)の畑……」
 白蔵子は大きな紙に墨の線を引きます。
 誰にでもわかりやすいよう地図を作りました。
 日を追うごとにそれはより詳細な地図となりました。

 ある時、上人は白蔵子を食事に誘いました。
 白蔵子が緊張した面持ちで正座をしていると、じきに食事が運ばれてきました。
「なんですかこれは」
 出された食事を見て、白蔵子は尋ねました。
 上人は一瞬驚いた表情を見せましたが、すぐにどういうことか理解をしたらしく、
「蕎麦ですよ」
 と答えました。
「蕎麦。これが」
 文字の上では知っていましたが、彼は今まで蕎麦を見たことがありませんでした。
 とりあえずは上人の真似をして食べてみることにします。
 つゆにつけた鼠色の麺をつるつると啜りました。
「……これは美味い」
 と、悪狐は感想を述べました。
「蕎麦を知らなっかたとは驚きました」と、上人が言うと、
「海を渡ってきましたから」と、悪狐は答えました。
 それは偽りの無い答えでありました。
 悪狐はおそらくいい意味で、知識や偏見が無かったのです。
 何かを学ぶにあたっての吸収力はそこからきているのかもしれないと上人は思いました。
「白蔵子よ」
「はい」
「今、この豊かなる縁の土地には二つの渦が廻っておる」
「二つの渦……」
 反復するように悪狐は答えました。
 渦が何であるか、悪狐は知っています。
 どちらの側にも身を置いたことがあったからです。
「相対する二つの渦は周辺の小さな国々を蹂躙(じゆうりん)し、自分達の色に塗りかえていっておる」
 食べ終わった後のつゆに蕎麦湯を注いで上人は続けました。
「のう、白蔵子よ。赤があるから青が引き立つのではないのか。青があるから赤が引き立つのではないのか。他の色とて同じことよ。我らは違いと多様を受け入れねばならん」
 かつて、青の側に属していた時、この豊縁を青に染めることこそが役目と青装束の男は言いました。
 赤装束のお頭は赤に塗り変えることこそが正しいと説き、実際にそうしてきました。
 悪狐の主人、お頭の目的はこの国を盗り、天昇上人を捕らえることです。
 新緑の国は戦略的に重要な土地でありました。
 また、天昇上人を野放しにすればいずれどこかで障害になるだろうと、彼もその上にいる者達も考えていたのです。
「……私には教えていただいた知識があるだけです。何が正しいのかはわかりません」
 と、白蔵子は答えました。
「お前、こういう時は私に同調するもんだぞ」と上人は笑いました。
「申し訳ございません」と白蔵子は言いました。
「白蔵子、私はな、龍のようでありたいと思っている」
「リュウ……?」
「そう、龍だ」
「龍とはどんなものですか」
「姿はとてつもなく大きな蛇と言ったところか。だが、翼も無いのに空を飛ぶ。摩訶不思議な存在だ」
 白蔵子が尋ねると、上人はそのように答えました。
 それはどこか昔を懐かしむような言い方でした。
「龍を見たことがあるのですか」
「若い頃にな。その日は雲からいくつもの光の梯子(はしご)が下りておった。ほんの一刻のことだった。角を生やした碧(みどり)の龍の頭が掠めたかと思うと、腹を少しばかり見せて、すぐに雲の中に引っ込んだ。少しだけ地上を覗きに来たのかもしれぬ。今ではそれが夢であったのか現であったのはかわからぬのだ。だがそれはさほど重要なことではないのだ。いずれにしてもその時から私は龍のようでありたいと思った」
「龍のように、ですか」
「龍は空を飛ぶ鳥よりも高い高い場所を悠々と飛びながら、この豊縁全体を見ておろう。一生を地に足をついて生きる人には見れぬ境地がそこにはある。そういう風にこの世界を見ることが出来たなら、あるいは何が正しいのかわかるかもしれぬ」
 天昇上人は言いました。
 私も結局の所は人の子であるのだと。
 人の子に見ることのできる世界は限られているのだと。
 人の子だけでは真理には至れないのだと彼は言いました。
 悪狐には、真理のことなどよくわかりません。
 けれど上人の語る龍というものを一度見てみたいと思いました。
「上人殿、さらに貴方の下で学ばせてください」
 と、白蔵子は言いました。
 上人には真の姿も、真の目的も偽っていました。
 けれどその言葉自体に偽りはありませんでした。

 白蔵子は上人の下で学び続けました。
 朝早くから起き出して、経を読み上げると、書物を読んだり、書き写したりいたします。
 昼になると蕎麦を食べにゆきました。
 晴れた日には上人と蕎麦の畑の道を通って、様々な所へ出かけて行きました。
 そうして、地図はどんどん書き込まれ、黒い部分が増えてゆきました。
 今や国のどこになにがあるのか、国の成り立ちや仕組みがよくわかります。
 新緑の国は周辺諸国に比べても優れた制度や技術が多くありました。白蔵子はそれをなるべくわかりやすく文章にいたしました。
 白蔵子はここでの生活が好きでした。できればずっとこうしていたいとも思いました。
 しかしながら、新緑の国の学問や知識を多く修めた白蔵子はついに「戻る」ことにしたのであります。

「話とは何だ。白蔵子」
 まだ日も昇らぬ暗いうちに尋ねてきた若い僧を見て、天昇上人は言いました。
「貴方は私に才があると言って下さった。今まで目をかけてくださった事に感謝しています。しかし私は戻らねばなりません」
「戻る? どこにだ」
 上人は眉をしかめて尋ねました。
「私達が赤と呼んでいる者のところです」
 と、白蔵子は答えました。
「上人殿、私には知識があるだけです。ですから何が正しくて、何が正しくないのかはわかりません。しかしながら、最初に私を認め、読み書きを教えてくれた、学ぶことを教えてくれたあの人には報いなければならないのです」
 そこまで言うと白蔵子は悪狐の正体を現しました。
 赤黒い獣の姿が上人に一礼して、次の瞬間に大きな燕の姿になりますと暁の空に飛び立ったのあります。

 上人もお頭も彼には才能があると言いました。
 悪狐の伝えた情報は正確でした。
 新緑の国はまたたく間に赤によって制圧されました。
 軍勢を指揮した悪狐の主人は、その功績によって大いに出世し、新緑の国の政治を任されるまでになりました。
 けれど、政治を行う彼の横に悪狐の姿はありませんでした。

 悪狐は新緑の国に攻め込む前の主人に次のように語ったといいます。
 私の持ち帰った地図をもとにして貴方が戦をするならば、ほどなくして勝利できることでしょう。
 けれど、貴方がいつもやるように、あの国でむやみに火を放つのはお止めなさい。
 蕎麦の畑に火を放てば、美味しい蕎麦が食べられなくなります。
 都の学院に火を放てば、あの国にある多くの知恵は失われるでしょう。
 私があそこで学んだことを伝えるにはあまりにも時間がありません。替わりに私は多くの書物をその場所に置いて参りました。
 どうか燃やすのではなく、取り入れてください。塗りつぶすのではなく、受け入れてください。
 これを破ればいずれ貴方は失脚します。
 ああ、それと。
 貴方に謝らなくてはなりません。
 貴方は天昇上人を捕まえることはできないでしょう。
 渡した地図は正確ですが、一箇所だけ抜け落ちた部分があります。
 その抜け落ちた部分から上人は他国へ逃れるでしょう。
 そうしてどこからか貴方を見ているでしょう。
 悪狐はそのように言い残し、姿を消しました。

 悪狐は二重の裏切りを犯しました。
 主人への裏切り。
 上人への裏切り。
 どちらにもつかなかった故にどちらにも帰れなかったのです。

 龍を見たいなあと悪狐は思いました。
 いつの日か天昇上人が見たという龍を、空を飛ぶ鳥よりも高い高い場所を悠々と飛びながら、この豊縁全体を見ているという、一生を地に足をついて生きる者には見れぬ景色を見ているという龍を見てみたいと思ったのです。
 悪狐はかつて新緑の国と呼ばれたその土地で一番高い山に登ると、一本の樹に化けました。
 山の頂上に立った樹は、晴れの日も雨の日もひたすらに空を見続けていました。
 数年が経ちました。
 数十年が経ちました。
 樹はいつしか本来の姿を忘れてしまったようでした。

 悪狐は果たして龍を見ることが出来たのかどうか、それは誰も知りません。
 けれどある時、山に登った旅人がその樹の下で宿をとった時に、その樹が実をつけたことがあったといいます。
 お腹をすかせた旅人はすっかり実を食べると残った種を持ち帰って、故郷の土に埋めました。
 芽を出して若木は成長し、また実をつけて、その地にどんどん根付いていったそうです。
 その地では、今も人々が樹と共に暮らしています。

 ヒワマキシティ。
 それが今のその地の呼び名だということです。