■半人


 ニンゲンになりたかった。
 その手に筆を持ち、ノミを持ち、何かを作り出せるニンゲンに。


 一浪で入ったカイナ大の入学式、その入場待ち列は騒がしかった。多岐にわたる学部・学科、それだけの人数を一気に収容できる施設は大学構内に無かったから、それは博物館近くのコンサートホールで行われた。入学式も、卒業式も、この大学は伝統的にそうらしい。
 何、つまらないイベントだ。学長の長い挨拶に始まって、学部長の挨拶、教授陣の紹介が始まる。これがえらく長いのだ。こんなものは学校側の為にあるものだ。あるいは二階席で式を見守る保護者達の為のものだ。つまりは社会的対面を満足させる為のものに過ぎない。
 吹奏楽部の演奏が入ったところで一度、休憩が入る。その時点でオリベは抜け出した。入学式を抜け出した。ここには自分を監督する両親は不在である。要するに自身がここにいる必要は無いと彼は悟った訳だ。それならば少なくとも在学中は暮らす事になるであろうこの街を見ておいたほうがよほど有益であろう。彼はそう考えて、入学式を抜け出したのだった。
 カイナシティにはつい数日前に越してきたばかりだ。新居は間取りしか見ていなかったが、ひどいボロアパートだった。送られてきた荷物も大した量は無く、開けるのに時間はかからなかった。ホウエンの入り口、カナズミまでは寝台列車に乗り、それからは本数の少ないローカル線の乗り継ぎを繰り返した。ずいぶんと遠くに来てしまった。だが、彼自身の望んだ事だった。
 そういえば市場にはまだ行った事がなかったな。そう思って彼は目標をそこに定める事にした。バスを使えば近いらしいが、何せ金が勿体無い。ホールの近くに立っていた看板地図と睨めっこをして、カタヒラ川の河川敷を通って向かう事にした。カタヒラ川は大きな川であった。海に流れ込む直前である川の向こう岸は遠い。向こう岸に開花の時期が終わって葉ばかりになった桜が見えた。カイナシティはホウエンでは大きいほうの都市だったが、こうして少し外に出ればやはり田舎である。橋をかける以外の目的では人の手が入っていないように見えた。広い土手には石が転がっているか、背の高い草、あるいは低木が無秩序に生えている。時折盛り上がり丘になっている場所がいくつもあった。そんな風景がずっと続いているのだ。海に近いここの空ではキャモメがたくさん飛んでいた。きっと草原にも様々なポケモン達が潜んでいるに違いない。
 見れば数メートル向こうで、高い草ががさがさと揺れている。なかなか揺れが大きく、大物のようだった。オリベは少し身構えた。揺れる草がだんだんと上に近づいてきたからだった。
 が、草を掻き分けて歩道に現れたのは予想に反して人間であった。出てきたのは色の白い男だった。スーツを来ていたが、草の葉があちこちについていて台無しになっていた。その後に続いて何やら小さめの黒いポケモンが現れた。黒棒に大きな目玉が一つ、それは宙に浮いていた。
「…………、……」
 オリベがあっけにとられていると、そのトレーナーと目が合った。
「やあ、こんにちは」
 トレーナーが言った。
 それがツキミヤソウスケとの出会いだった。
 淡い色の髪でくせ毛、歳は同じくらいか。後に話を聞くと、同じく入学式をサボっていたらしい。
 奇縁という言葉がある。不思議な縁という意味であるが、ツキミヤとの関係はまさに奇縁であろう。今でもオリベはそう思っている。

*

 私の目はヒトより遠くを見つめる事が出来たし、ヒトが見る事の出来ないものを見る事も出来た。たとえば先の事だ。
 近いうちに雨が降るよ。
 そう伝えるとヒトは私に感謝を捧げた。
 私はヒトに無い能力をたくさん持っていて、ヒトビトはそんな私を神様と呼んだ。この土地では私達の一族は特に大切にされていた。ヒトが持たぬ能力。それをヒトは畏れ、敬った。
 けれどヒトのほうがずっと多くの事が出来るではないか、と私は思う。
 私はある時、一人の青年に出会い、一層強くそう考えるようになった。

*

 ツキミヤは志ある学生であった。何せ動機がしっかりしているのだ。考古学をやりたい、と彼は語った。それで人文科学科に入ってきたらしい。何でもホウエン地方というのは、遺跡の宝庫であるらしく、もっと高いランクの大学に行けるにも関わらず、わざわざここを選んだらしかった。
 実家から離れたい、行ける大学、そういう理由でホウエン地方を選んだ自分とはえらい違いだとオリベは思った。
「カタヒラ川の流域って古墳群なんだよ。ちょっと探検しててね」
 と、ツキミヤは語った。なるほど、入学式をサボっていたのはそういう事か。
 いわゆる「意識が高い」連中をオリベは毛嫌いしていたが、ツキミヤとはどういう訳か馬が合った。何というか彼は屈託が無かった。キャンパス内ですれ違えば挨拶をしたし、学食や講義で一緒になれば、隣に座って話しかけてきた。
 だがその一方で、オリベはだんだん講義に出なくなった。始まったばかりの講義にはたくさんの学生がいるが、そのうちのいくらかが抜けて、だんだんとメンバーが固定されてくる。学期が始まって一ヶ月も経つとそういう現象があちこちで起きる。オリベはどちらかと言えば抜ける側の学生であった。なぜなら学ぶ目的など無かったからだ。彼は下宿から大学へは行かず、行ってもすぐに抜け出して、海の近くの神社やカイナ市場で時間を潰す事が多くなっていた。
 大学から坂を下って海側に下りていくと神社があった。石段を登り青い鳥居を潜ると境内に入る。入ってすぐの所、松の木の下に海風がほどよく吹きつけるベンチがあった。オリベはそこに横になって、空を見上げる。無数のキャモメが輪を描きながら飛んでいた。目を閉じるとみゃあみゃあという声と波の音が響いた。彼はこれらの音が好きだった。こうして目を閉じて耳を澄ましている間は雑音が入らない。何者でもなく、捕らわれない自分でいられた。
「やあ、こんな所にいたんだ」
 声がしてオリベは目を開ける。見ると、ツキミヤとそのポケモンの大きな目玉が上にあった。
「……何しに来たんだ」
「最近見かけないからさ、どうしてるかと思って」
「講義は?」
「先生が風邪ひいてさ、休講」
「何でここが分かった?」
「こいつだよ。こいつ」
 ツキミヤは親指を立てると自身の後ろに浮かぶ黒いポケモンをくいっと指差した。ポケモンは丸い皿みたいな大きな目玉を軸に、申し訳程度に付いた枝のような胴をぐるぐると回している。アンノーンであった。様々な形があって遺跡などにいるポケモンだ。
「こいつね、探し物が得意なんだよ。目覚めるパワーって奴? 名前はクレフ」
「形がQなのに?」
「鍵って意味さ。形が鍵に似てるだろう?」
「まあ……」
 クレフと名付けられたアンノーンを見る。するとクレフはふわりと寄ってきて、一つしか無い大きな目玉でじろじろとオリベを見ると、ぐるぐると周りを回った。
「奇怪な奴だ」オリベが言うと、
「君の事を気に入ってるんだよ。だから見つけられたのさ」と、ツキミヤは答えた。
 ツキミヤは神社の自販機でジュースを買うと、缶をオリベに投げてよこした。モモンジュース、なかなか暴力的な甘さだが、オリベの好物であった。学食で飲んでいたからツキミヤも知っていたのだろう。
「いいのか、これ」
「昼寝の邪魔をしてしまったようだからね」
「じゃ、遠慮なく」
 かちりとスチールの蓋を開けて中に沈めるとぐびぐびとオリベは飲み始めた。隣でツキミヤも缶の蓋を開ける。彼の開けたのはサイコソーダであった。
「なあオリベ、明日は出てこいよ」
 缶の中身が半分程度になったところでツキミヤは言った。
「何かあるのか?」
 オリベが尋ねると
「考古学概論の野外実習があるんだ。場所はカタヒラ川古墳群」
 ツキミヤは目を輝かせて言った。
「へ、へえ」
「面白そうだろ?」
「どうかな」
「オリベも来るよな?」
「……分かったよ」
 大して興味など無かったのだが押し切られた。こんな事をわざわざ言う為にここまで来たのだろうか。変わった奴だと思った。気付けばクレフと名付けられたアンノーンがふらふらと境内を漂って行ったり来たりを繰り返していた。あのポケモンなりに楽しんでいるという事なのだろうか?
「オリベ、見ろよ。あれ」
 そんなQのポケモンの動きを追っていると、ツキミヤが言った。振り返ると、青年は海に浮かぶ小島を指差していた。石垣で出来た人口小島で、その上は草木で覆われている。
「あれがどうした?」
 オリベが尋ねると、
「台場だよ」
 とツキミヤは答えた。
「ダイバって何だ」
「昔ここのあたりに外国の蒸気船が来た事があってね、その時に砲台を置いたのさ。もう砲台自体は無くなっちゃって、草ぼうぼうだけど。あれでも史跡なんだぜ」
「へえ?」
 勉強熱心な男だと改めてオリベは思った。地中に埋まってるものしか興味が無いのかと思っていたのに。その後にも、ツキミヤはここの神社の言われなんかを語って聞かせた。何故そんな事を知ってるのかと尋ねたら、この間、ニシムラ教授の民俗学概論でやったと言われた。
「お前授業出てないからな、少しは出て来いよ。なんなら今までのノート見せてやってもいいぜ?」
 そう言ってツキミヤは笑った。
「じゃあ次の講義あるから戻るわ」
 そう告げるとツキミヤとアンノーンは石段を降りていった。忙しい奴だなぁ。そんな事を考えながら青年の背中を見送った。
 そうして彼は、後になって知った。その日、講師は風邪などひいておらず、講義も通常通り行っていたらしい事を。

 翌日にツキミヤの姿は大勢の学生と共にカタヒラ川にあった。オリベの姿には先にクレフが気が付いて、その動きから待ち人の到来を知ったツキミヤは軽く手を挙げて挨拶した。長袖長ズボンに軍手姿の発掘スタイルである。
 実習が始まった。何、つまらない授業だった。大雑把な部分をシャベルで掘って、細かい部分や遺構を移植ごてで掘り進めて行く。溜まった土は「ミ」という塵取りを大きくしたような道具に集め、溜まったら土捨て場に捨てに行く。早い話が土木作業だ。何か埋まっていればまだ面白いのだが、そういう物が出てきた場合、素人の手出しは許されない。即座に教授か専門スタッフが飛んできて、学生はお役御免だ。つまりは力仕事の要員に過ぎない。ふと脇を見るとツキミヤが汗を流しながら、移植ごてで溝を掘っていたが何が楽しいのかさっぱりだった。
 アホらしい。昼休憩を挟んで弁当を食べ終わった頃にオリベは現場を抜け出した。
 カタヒラ川の土手は広かった。現場を離れて歩いていてもあちらこちらに小さな丘のようなものがある。もしやこれがみんな古墳なのか、とオリベは思った。手付かずの古墳もたくさんあるに違いない。
「ツキミヤの奴、ここの古墳を全部掘り返すつもりなのかな」
 オリベはそう呟くとふかふかした草の生えた緩やかな傾斜の丘を選んで寝転んだ。天気はいい。海に近いこの場所にも、キャモメが飛んでいる。十字架のような形が逆光の黒になって空を舞っていた。さわさわと鳴る草の音を聞きながら、いつしかオリベは眠りに落ちていった。

 ――ユウイチロウ、ユウイチロウ。ちょっと来なさい。
 そんな声が聞こえた。
 振り返るとそこには母がいて、上からオリベを見下ろしていた。その手には何かの紙がある。
 ――またこんな点を取って。あなたこんなんじゃ進学危ないわよ。
 母が言って、幼いオリベは顔をしかめた。ああ、この記憶は確か中学受験だったか、あるいは高校受験だったか、と。
「そんなの、上を目指すからだろ。俺、行ける所でいいから」
 ――そんな向上心の無い事でどうするの。お祖父様だってそこに行って勉強したのよ。
「じいちゃんと俺は違うだろ」
 ――ユウジロウだってそこに行かせるつもりなのよ。
 始まった、と彼は思った。母はまた弟を引き合いに出した。
「勝手にすればいいだろ」彼は返す。
 ――だって、格好つかないじゃないの。あなたはお兄ちゃんなのに。
 オリベは静かに母を睨み付けた。それは違う。格好が付かないと思ってるのは貴女ではないのか、と。
 母にとっての成功モデルはオリベの祖父だった。彼は大学教授であった。そこはカントーでも随一の大学で。だから母は自分達兄弟に同じ道を歩かせようとしているのだ。同じ道、同じ学校に行き、同じ教育を受け、同じようなポジションに就かせる。それが母の教育の目的だった。それに対してオリベは反発を覚えたのだ。おそらくはポケモン関係の仕事をしている父の事も影響していたのだろう。彼はそのように理解している。一度ポケモントレーナーになりたいと言った事があったのだが、母の激しい反対に遭ったからだ。
 一方で素直だったのは弟のユウジロウであった。彼は驚く程素直に、母の教育方針に従った。利発な弟だった。頭が良かった。それ故に母が弟のユウジロウに傾倒するのはごく自然な流れであった。
 そのように母との確執が深まる中、ある夜に兄であるユウイチロウは聞いてしまった。ちょうど祖父が遊びに来ていて、母と二人で酒を飲んでいた。既に父や弟は眠っていた。その席で母が言ったのだ。思い通りにならぬ兄をこう評したのだ。
「あの子は半分なのよ」
 母は兄の事をそう言った。
 話を聞くに半分しか出来ないという事らしかった。人の言う事を聞かないし、半分しか出来ないのだと。テストの点も望む半分しか取って来ない。あの子は弟の半分しか出来ないのだと。
「せめてあの子が、ユウジロウの半分でも素直だったら」
 半分。その言葉が抉り込む様に突き刺さった。
 母との溝が決定的になった。母にとって理想の人間とは弟である。兄はその半分である。それはオリベにとって半分しか人間でないと言われたのと同義であった。
 半分。自分は半分。人として、半分。
 一浪をした時に、母はもはや自分を見放したのだろうと彼は思った。その視線は一年遅れで受験生となった弟にのみ向けられていた。浪人時代、人生の中でそこそこ必死に勉強をしたのは決して母の為などではない。ましてや見返したかったからでもなかった。ただ、遠くに行きたかった。考えられる限り遠くへ。ホウエン地方の大学を受けた事などあてつけでしか無かった。そこに目的は無い。大志は無い。やりたい事などオリベには無かった。

 汗を掻いてオリベは目を覚ました。
 ああ、また雑音だ。あの夢だ。ここは場所が悪いとオリベは思った。やはり海がいい、波音は雑音の入る隙を与えない。横たわっていた身体を起こす。場所を変えようと思った。神社に行こう。海に近いあの神社に。古墳らしき草ぼうぼうの丘の向こうに急な土手の上り坂を見、彼は歩き出した。
 だが、急な坂を登りきり、まさに河川の敷地の外側に出ようかと言う時になって、彼の動きは止まった。その視線の下に先ほど通り過ぎた古墳があった。そこに草陰で覆われた入り口のようなものが見えたからであった。
 それはまったくの好奇心であった。オリベは坂を降り、草を掻き分けて進んでいく。近づいてみて、その入り口が顕になった。周囲に粗末な石が転がって、地面にヒビを入れたみたいに三角形の口が開いている。膝を折ればなんとか入れそうな穴であった。暗い。懐中電灯も持っていないから、中は見えない。だが、好奇心がオリベを動かした。腰を屈めながら数メートル程進む。そこで急に天井が高くなったのが分かった。
 オリベはその空間で立ち上がった。手さぐりをしながら内部を把握する。あまり広くはない。畳にすると四枚程度であろうか。中心に何か、表面がざらざらとした、長方形の物が置かれている。
 これは何だろう? だが、暗闇では情報が分からない。明かりを取ってこないと。あるいはツキミヤを呼んできたなら……。そう思ってオリベが再び立ち上がった時、ばり、と何かが砕け散った音がした。靴から伝わってくる感触。どうやら何かを踏んだらしかった。

*

 里の景色をよく見渡せる丘の上、そこに私は立っている。その下に瓦屋根の集落が見えて、私は焦点を絞る。
 それは大きな屋敷の外れだった。軒先で、若い男が書き物をしていた。白い紙に黒い筆の線が走って、何らかの意味を作っていく。私達の多くは言葉を操れたけれど、文字にまでは興味が無かったから、誰も文字を読めなかった。だから内容までは分からなかった。
 青年は毎日、毎日、ずっと書き物をしていた。そうでなければ書物を読んでいた。
 丘の上から焦点を絞る。そうするといつも彼はそこにいた。
 私は彼に興味を持った。同時に彼の記す言葉に興味を持った。

*

「オリベ! オリベ!」
 聞き覚えのある声がしてオリベは目を覚ました。目線の先にはツキミヤとQのポケモン。手に伝わる感触はふかふかとした河川敷の草原のそれであった。どうやらまた眠ってしまったらしいと彼は思った。
「よう」
 と、オリベは挨拶をした。
「よう、じゃない。またサボって。もうみんな引き上げたぜ」
 ツキミヤが呆れ気味に言った。同時にふと、アンノーンと目が合った。するとどういう訳か、身を翻して、主人の背中のほうに回り込み、覗き込むようにしたのだった。
「……? 今、何時だ?」
 こいつこんなによそよそしかっただろうかと思いながら、尋ねた。
「四時過ぎだよ」
「ん、もうそんな時間か」
 ちょっとした昼寝のつもりだったのに、ずいぶんと長い間眠ってしまっていたらしい。一度は起きて、神社に向かったつもりでいたが、それもまた夢であったという事か。
「…………」
 唐突にオリベは起き上がると、古墳の丘を走り登り、周囲の草を掻き分けた。だが、そこには何も無かった。ただ草が生え、石が転がっているだけであった。
「どうしたんだよ?」
 ツキミヤとアンノーンが後から追いかけて来てオリベに問うた。
「いや、何でもない」
 オリベは言った。あまりにつまらない発掘実習に乗じて見た夢だったのだ。やはり入り口などある訳が無い。渡る風が河川敷の草原をざわざわと揺らしていた。

*

 文字を教えて欲しいのだと私は言った。
 この腕だから筆を握る事は出来ないけれど、読む事は出来るだろうからと。
 神様のたっての願いだからと、里の首長は私に講師をよこした。
 来たのはあの青年だった。いつも軒先で書き物をしていた青年だ。願ったり叶ったりとはまさにこの事だ。
 青年の名前を隼人(はやひと)と言った。
 彼は聡明な青年だった。若くして様々な教養を身につけていた。
 彼は私にかな文字を教えてくれた。本来は女性が主に使うのだが、これが使えれば、大抵の音は表現できる。いずれ多くの者達がまっさきにこの字を習う事になる。そう彼は語ったのだった。
 青年はかな文字とまだ読めぬ漢字を織り交ぜながら、誰かに宛てた手紙を書いた。私の右目が像を写した。職人の頭がそれを受け取った。それは職人衆に宛てた手紙だった。
 私は彼らにも興味を持った。

*

 不快な音が耳に入った。目覚まし時計がけたたましく鳴っている。少し離れた所にあるそれに手を伸ばして黙らせると、オリベは起き上がった。窓の外は明るかった。
 流しで顔を洗った時に、片目に少しばかり違和感がある事に気が付いた。周りを触ると痛い。だが、炊事場と洗面が兼用であるこの場所に鏡などついているはずもなく、その状態を目視する事は叶わなかった。第一、彼はこだわらなかった。直後、激しい眠気が彼を襲ったからだった。もう少し、もう少しだけ寝よう。オリベはろくに顔も拭かず、己が欲求に従うままに布団に倒れ込むと毛布に包まった。そうして再び寝息を立て始めた。
 次に気が付いた時には午後を回っていて、とっくに四限までが終わっている時間であった。
 サボってしまおう。そう彼は思った。サボる事など日常だったから、その事に対する抵抗は無かった。起きているのか、眠っているかの違いでしかなかった。きっと慣れない野外実習などしたから疲れたのだろう。
 が、その日だけでは終わらなかった。オリベの惰眠体質は日を追うごとにひどくなっていった。朝に目覚ましが鳴って起き出しても眠くて眠くて仕方ない。身体もひどく疲れていて、彼は二度寝を繰り返すようになった。気が付けば午後になっているというのはざらだった。大学に行かぬ日が何日も続いた。それどころか夜まで眠っていた事が何度も何度もあった。心配したツキミヤが何度か下宿に訪ねてきたらしいのだが、ノックの音にも呼びかけにもまったく気がつかなかった。
 何かの病気ではないか。時々会うツキミヤが勘ぐったが、顔色は悪くないし、食欲もあった。
「それ、くれ」
 ツキミヤに引っ張られて行った久々の大学、学食を共にしたオリベはそう言うとツキミヤの残した分まですべて平らげてしまった。彼は奪ったフライを飲み込むと、お代わり自由のコーヒーに手をつけた。
「ん、砂糖一本にしたのか?」
 ツキミヤが尋ねた。
「それがどうかしたか?」
「いやだって、お前甘党じゃん。砂糖はいっつも二本入れて、クリームだって二、三杯は入れるのにさ」
「あんまり気分じゃないんだよ」
 オリベは答える。
 そういえば、と彼は思い返した。最近モモンジュースを飲んでいなかったと。だが思い出しただけですぐに記憶の沼底に姿を消してしまった。それは重要な情報として扱われなかった。
「そういえばお前、図書館にいたか?」
 ツキミヤが次に繰り出したのはそんな質問で、オリベはきょとんとする。
「……行く訳ないだろ?」
 そう返すと、
「そうだよなぁ」
 という返事がすぐに返って来た。今日のツキミヤは妙だ。唐突におかしな事ばかり尋ねてくる。図書館、おおよそ自分には似つかわしくない場所だと思った。
「一昨日の昼休みにさ、飯食おうと思って学食に行く途中で、お前に似たのが図書館に入って行ったんだよ」
「他人の空似だろ」
「その時何してた?」
「寝てたよ。下宿で」
 そうオリベは答えた。眠っていた。午前の十時頃に目を覚ましたが眠気がひどく、結局夜まで眠っていたのだ。
「サボりもほどほどにしとけよ」
 ツキミヤが言った。
「テストくらいは受けるんだぞ。ノートなら写させてやるから」
 そう続けて、自らもコーヒーに口をつけた。月が七に変わり、前期のテストが近づいてきていた。
 だが、テスト期間となってもオリベの意欲の無さは相変わらずであった。ツキミヤは、当初の約束通りノートを貸し出したが、オリベはコピーをとるだけとったのみで、その多くは学習される事が無かった。それでもテストだけは受けたのは、やはりそうした事への手前があったからだろう。彼は無為に時間を過ごした。案の定、テストの回答に時間はかからず、彼はその多くを瞼を閉じて過ごす事となった。
 そうしてテスト最終日が訪れた。最後の科目はニシムラ教授の民俗学概論であった。事前に申し訳程度にはツキミヤのノートを見ていたものの、記述式が多く、向かないテストだった。せめて選択式でもあれば適当に選んで丸をつけたものを。内心に彼はぼやいた。
 解答用紙二枚目の三分の二は自由記入欄であり、勉強した事などは自由に書けとの事だった。ヤマが外れた学生への教授なりの救済措置なのだろうが、当然にオリベには何も無い。彼は少ない選択問を適当に選ぶと、二枚を裏にして眠ってしまった。気が付くとチャイムが鳴っており、後ろから裏になった答案用紙が回ってきたのでばさりと覆って重ね、前へと回したのだった。もはや解答用紙への未練は失せており、この単位は貰えなさそうだと思った。
 長かった試験期間が終わって、がやがやと学生達が講堂を出て行く。狭い通路に列を成して、彼らは一人、また一人と出て行った。
「お疲れ」
 ずいぶんと人がはけた頃になって、後ろの席からツキミヤが歩いてきた。
「お前どうだった?」
 オリベが尋ねると、
「うーん、イマイチ。思ったより難しかった」
 と、答えた。それで少しオリベは安心した。ツキミヤでさえ難しいと言うのでは到底自分が太刀打ちできる内容ではないと思ったからだ。
「ヤマ外しちゃってさ。最後の自由記入欄頑張ったつもりだけど、それで何点貰えるんだか」
 そう言ってツキミヤは苦笑いした。
 学食はざわざわとし、周囲はそわそわしているように見える。当然だ。前期テストが終われば夏休みの始まりだったから。実家に戻る者もいれば、ポケモンを連れて小旅行に出る者もいる。皆この休みを待ち焦がれていたのだ。
「オリベは実家に戻るのか?」
 そんな事をツキミヤは尋ねてきた。
「いや。電車賃勿体無いし」
「ん、そうか」
 少し含みを持たせて、ツキミヤが返事をすると
「お前は?」と、オリベが尋ねる。
「発掘のバイトがあってね」ツキミヤが言った。
「物好きだな」
「これも勉強だよ。古墳群も把握しきれてないし、行きたい所もある」
 発掘のアルバイトの他に見たい遺跡があるのでホウエンを回るのだと彼は言った。
 眩しいと思った。その外見だけではない。ツキミヤは未来を見据えている。改めて自身との違いをオリベは思い知った。何も無い。ただ自分は休みを無為に過ごすだけなのだ。その男が座っているのは目の前なのにひどく距離が遠い気がした。

*

 隼人はある日、私を山のお堂へと案内した。
 最近出来たばかりなのだと、彼は話した。
 このお堂が建つ事を事前に私は知っていたけれど、実際に見るのは感慨深いものがあった。やはり未来として見えるのと目の前で見るのは違うと思う。
 私達がそこに入っていくと、職人達が幾人も待ち構えており、跪き、うやうやしく頭を下げた。青年は堅苦しいのはいい、いつも通り仕事をしてくれと言うと、彼らは仕事に戻っていった。
 彼らの仕事は彫る事だった。切り出された木材から何かを形作る事、それが仕事だった。彼らが彫刻刀をふるい、木が削れると様々な形が現れた。
 眩しいと思った。
 そのひ弱な手は、獣の噛み付きで穴が空き、翼の打撃で折れてしまい、獣一匹殴ったところで深手を負わせる事は出来ぬ。けれどその手は様々なものを作り出すのだ。
 時に詩を綴り思いを伝え、時に木を削り形を作る。削る為の刃をも作り出す。
 ふと、私は彼らとの違いを悟った。
 私とヒトは言葉で意思を伝え合う事が出来る。けれどひどく違うのではないだろうかと。

*

 ツキミヤから暑中見舞いが届いた。消印を見ればサイユウからで、葉書にプリントされた絵からグスク群を見に行っていたらしい事が分かった。かつてサイユウにはいくつかの国家があり、統一を争った時代があったのだという。石が運ばれ、積み上げられ、あちこちに城が建ったという。
 夏休み、オリベはその半分をカイナ市場近くの海で過ごした。海に出て泳ぎ、腹が減ればカイナ市場で何かを買って食べた。海で一日中思いっきり泳ぐと、ほどよく疲れた。そうすると暑い中でもよく眠れた。思いっきり泳いだ翌日は下宿で一日中眠り、その翌日にまた海に出る。また眠るという事をオリベは繰り返した。
 暑さ真っ盛りとなったカイナの砂浜は、いつにも増してポケモンを連れたトレーナー達が多かった。夏休み期間となり、普段は学校に通っている学生トレーナーが出てきた事もあるだろう。ポケモンリーグシーズンとも重なる為、長い夏休みを設定する企業も多いから、社会人トレーナーも増える。彼らは昼間は海で遊び、夜はスポーツバーで酒を片手にリーグ観戦としゃれ込むのだ。オリベはひとしきり海で泳ぎ、シャワーを浴びると、市場をぶらぶらと歩く。いつにも増して旅のトレーナーを多く見かけるのはそういった事情からだった。
「いらっしゃい、いらっしゃい」
 屋根のついたショッピングモールに並ぶ店からは、威勢のいい呼び込みが聞こえた。
「トレーナーさん? へえ、ジョウト地方から来たんだ? ホウエンでは木の実栽培が盛んなんだよ。砕いてポロックにしてもいいし、生で食べさせても喜ぶよ。試してみる?」
 そんな風に声をかけ、店主が刻んだ木の実をトレーナーに差し出している。ジョウトから来たというトレーナーはさっそく手持ちのポケモンに試食をさせていた。
「なるほどお客さんのオオタチは渋いのが好みなんだね。それなら……」
 奥のほうから、何やら太い椰子の木のようなポケモンが顔を出して、木の実を差し出した。
「これはビアーの実って言うんだ。ポロックのお勧めブレンドの説明書入れとくね」
 そう言って木の実を袋に入れるとトレーナーに差し出したのだった。
「…………」
 オリベはその様子をしばし見つめていた。そして、いつの間にかカントーで働いている父の事を思い出していた。
 ――ポケモンによって好みが違うからね、好みと栄養バランスを考えて、食事を出すんだ。
 かつて訪ねた父の職場。父はポケモン達の食事を用意しながら、そんな事を言っていた。
 ――木の実や野菜なんかの類は私も食べてみるんだよ。さすがにヘドロや電気なんかは無理だけどね……。
 動かす手の先に、木の実の色が染み付いた白い樹脂製のまな板があった。父の仕事は決して世間的に地位の高いと言えるものではなかったが、その仕事に対する彼の態度はどこまでもひたむきであった。
「お兄さんもトレーナーかい?」
 そんな風に声をかけられてオリベの回想は中断した。
「いや、別に俺は」
 咄嗟に返事を返す。
「よかったら試食していかない? うちのは人間にも勧められるのばかり入れているよ」
「はあ、まあ、それなら」
 店主が小皿を差し出した。その上には、桃色、黄色、緑……いくつかの色とりどりの木の実のかけらが乗っていた。楊枝でひとつひとつ口に運ぶ。一口目は甘く、二口目は渋かった。そうして三口目を口に含んだ時に、爽やかな苦味が口いっぱいに広がった。
「ん、これ、うまい……」
 オリベがそう呟くと、
「へえ、セシナの実が好みかい。苦いのが好みとはお兄さん通だねえ」
 と、店主が言った。
「セシナ?」
「おう、これだよ」
 店先に積んであった実を手に取ると店主は言った。洋梨とひょうたんを足して二で割ったような形、表面はつるんとして育ち始め若葉の色をしていた。
「リンゴみたく切ってもいいけど、オススメは丸かじり。皮ごといける」
「へえ」
「持ってくかい? まけとくよ」
 店主が調子よくそう続けるので、オリベはじゃあ、と返事をした。オリベはごそごそとポケットに手を突っ込み、お代を渡す。店主は籠に入った一皿を袋に入れ、さらにもう一皿、押し込んだ。
「まいどあり!」
 ぱんぱんになった袋を受け取った。
「また待ってるよ」
 去り際にそう声をかけられる。
 店主の言った通り、それは皮ごと食べられた。冷やすとより苦味が引き立った。毎朝の朝食代わりにとる事にしていたが、ついつい食べ過ぎてしまった。妙に減りが早かった。お陰で二日に一度海に行く度に、店に顔を出したものだから、すっかり店主に覚えられてしまった。
 海で思いっきり泳いだ後は相変わらず眠気がひどかった。

*

 私がすっかりかな文字を覚えると、隼人は漢字を教えてくれた。
 最初に覚えたのは私自身の名前だった。
 音でしか知らぬ私の名前を彼は紙に大きく書いた。四つの音がするそれは、漢字で表すと二文字になった。その形は美しかった。私は大いに満足した。
 やはり字というのはいいと思った。字を書く。それこそがニンゲンの特性だと私は言った。

*

 後期になって、まず驚いた事がある。教務課で受け取った成績通知を見た時であった。
 一番低い評価ながらもほとんどの単位が取れていた。ありがたい事であったが、少しオリベは面食らった。さらに信じられない事に、とある教科に唯一の最高評価がついていて、一瞬見間違いかと思った。覚えている。このテストの出来は壊滅だったはずだ。それなのに評価がA+。まったく意味が分からなかった。
 そんなに全体の出来が悪かったのか? いや、誰かの解答用紙と入れ替わったんじゃないだろうか。そうオリベは思った。学生は腐るほどいるのだから、そういう事が起きても不思議ではない。だが、悪い気にもなった。あのテストに一生懸命回答した誰かさんは今頃通知を見てがっかりしているに違いない。そう思ったからだ。
「お前、単位取れたのか」
 ツキミヤに会った時、まっさきにそう尋ねられた。やはりノートを貸した者としては結果が気になるのだろう。
「おかげさまで、まずまず」
 A+の評価の件を突っ込まれたくなかったのもあり、通知そのものを見せる事はしなかったが、功労者に一応の礼をオリベは述べた。
「お前さ、やれば出来るんだから少し真面目にやったらどうだ?」
 ツキミヤが言う。その背中の後ろでクレフが同意するように、上下に浮き沈みを繰り返す。丸い目が見えたり引っ込んだりしていた。
「おい、影で同意してないで出てこいよ」
 そう言って手を伸ばしたが、軽く空中でかわされる。近づいても一定距離を保ってクレフは逃げ回った。おかしな奴だと思った。出会った頃はあっちから近づいてきたのにどういう了見なのだろう。
「おい、あんまりいじめないでくれよ?」
 ツキミヤが言った。少し距離を置いて見た青年の色は出会った頃と変わらず白かった。
「……ツキミヤお前さ、発掘のバイトしてたんだよな?」
 アンノーンとの追いかけっこを止め、半袖ワイシャツを来たツキミヤをまじまじと見つめ、尋ねる。発掘は炎天下で行われるはずなのだが……。
「うん、暑くて大変だった。それが?」
 白い顔が笑みを浮かべ答える。
「いや、なんでもないよ」
 A+の件にしろ、世の中には不可解な事がたくさんあるのだ。そのようにオリベは理解する事にした。それでそれ以上は気にしないと決めたのだった。
 が、それだけでは終わらなかった。
 後期の始まり三日目の三時限目、ツキミヤに引きずられる形で行った教養の講義では、ドッペルゲンガーの事が語られた。ドッペルゲンガー、それは自分にそっくりなもう一人の自分で、それを目撃してしまうと本人は死んでしまうと言われている。西洋・東洋に広くその話は分布していて、教授が紹介したのは、この国のある旧家の話だった。
 さる旧家の当主はある日、自分そっくりな男が部屋の襖を開け、庭に出て消えていく様子を目撃する。それから幾日かの後にその男は死んでしまった。実はその家では、代々当主が自分そっくりな男がそうやって出て行く様子を見た直後に世を去っており、家族は当主には内緒にしていたのだという話であった。また、ドッペルゲンガーとは異なるものの、死が近づくとあるポケモンが見えるとか、かつて家に仕えていたポケモンが迎えに来るとか、様々なバージョンの話がある。
 ツキミヤはこの手の話が好きらしく、熱心に聴きながらノートを取っていた。オリベ自身は何とも言えなかった。嫌いではないという程度だった。ふと、カントーで教鞭を執っている祖父の事を思い出した。母への反発から、あえて深くを知ろうとはしなかったが、近いジャンルを教えていたような気がする。ノートは申し訳程度に取った。ドッペルゲンガーからポケモンへ、ポケモンから登場人物の変遷へ、話題の移り変わりと共に時計の針が回っていった。
 終礼の鐘の時間が近づいた。教授が持っていた本を閉じる。学生達の気が緩んだ。オリベもノートを閉じ、ペンをしまう。すると教授が言った。
「この中に、オリベという学生はいるか?」
 講堂内が少し、シンとした。そしてにわかにざわめきだした。オリベそして、ツキミヤは顔を見合わせた。すると、
「ああ、いいから。今すぐ出て来いとは言わないから。近いうちに研究棟の203号室に来るように。もしこの中にオリベの友達がいたら伝えてくれ」
 そう言って、教授は講堂を出て行った。それと同時に学生達が席を立ち始める。二人はしばしそこに動かずにいた。訳が分からなかった。
「……お前、ニシムラ教授と何かあったのか?」
 人がはけた頃になってツキミヤが尋ねてきた。
「いや、何も」
「だったら何で呼び出し食らってるんだ?」
「いや、そう言われても。話した事も無いぞ」
 ツキミヤに詰め寄られ、オリベは答える。だがそこで、そういえばと思い出した。
「……いや、待てよ。もしかしたら」
「ん?」
「……A+の事かも」
「は?」
 ニシムラ教授、後期の担当講義名は「民俗学概論U」だった。前期の受け持ちは「民俗学概論」。難しいテストだった。記述式ばかりでまったく歯が立たなかった。だが偶然にも単位は取れていた。しかも最も高いA+という形で。
「ツキミヤお前さ、民俗学概論の評価どうだった?」
「何だよいきなり」
「いいから教えろよ」
「Aだが、それがどうした?」
「なるほど、そういう事か」
 オリベは納得して言った。
「そういう事ってどういう事だよ?」
 ツキミヤは意味が分からず、少々いらついた声を出した。
「事故だよ」と、オリベは言った。
「俺、民俗の評価、A+だったんだ」
「えっ、お前が?」
 ツキミヤが驚きの声を上げた。失礼な野郎だとオリベは思ったものの、一方で無理もないと思った。ツキミヤですらAだった科目でA+。どう考えたっておかしいのだ。
「だから事故だ。放課後にでもそう説明してくる」
 せっかく取れた単位が惜しいような気もしたが、洗いざらい話してしまったほうがよかろうと思った。事故だ。やはり答案が入れ替わったのだ。

*

 私はよくお堂にも足を伸ばした。
 このお堂が建てられるのは、隼人の家の力によるところが大きい。
 隼人の家というのは、私達一族を代々崇めている。それでお堂が完成したので、次は私達の像を作って入れるのだという。
 兄弟達はあまり人前に出なかったが、私はよくヒトの事に関心を持って首を突っ込んだ。一族の中でも変わっているらしい。まあ字を教えろなんて言うくらいだから変わっているという自覚はある。
 隼人と別れた後に時折、お堂に寄ると職人達は喜んだ。彼ら曰く姿を見ると創作意欲が湧くらしい。翼を広げてくれとか、胸の模様をよく見せてくれとかせがまれた。一番若い職人が筆を持って懸命に私の姿を描いていた。こうすると形が頭に入るのだという。いくつ彫るのかと尋ねると
「できるだけたくさん」
 と、返された。

*

 研究棟に入ると人の影はまばらだった。階段を登ってすぐの所に203ニシムラ教授の個室はあった。教授と呼んでいるが正確には助教授らしい。オリベにとってはどちらでもよかった。トントンと薄汚れた塗装のスチール製のドアを叩くと中から「どうぞ」と声が聞こえた。
「失礼します」
 壁と少しあけたドアの隙間から、教授の姿が見えた。教授は読みかけの本を閉じると、入ってきたオリベのほうに顔を向けた。知らない顔だな。声に出さずともそんな表情が読み取れた。
「……あの、呼び出しを受けたオリベですが」
 そう名乗ると、ニシムラ教授は
「ああ、君がオリベ君だったのか」
 と、少し声を明るくして言った。君が? その言葉に少し引っ掛かりを覚えていると、まあ座りなさいと、教授は長椅子を指差した。長椅子が二つ、テーブルを挟んで向かい合っている。テーブルには編み込まれた魚型のポケモン文様のクロスが敷いてあり、汚れぬように上から透明の厚いシートがかけられていた。
「コーヒーしか無いがいいかな」そう言って教授が机から立ち上がる。
「え? あ、はい」
 オリベは咄嗟に返事をした。少しばかり釈明をして帰るだけつもりだったのに、どういう事なのだろうと思った。
「砂糖とクリームは入れるほうかね?」
「じゃあ、砂糖を少し」
 ほどなくして、マグカップを二つ持って教授は戻ってきた。二つのマグカップはその口から湯気を立たせている。
「まあ飲みなさい」教授はマグカップを置くと、砂糖のスティックとスプーンを隣に置いた。
「……はい」
 そう答えてオリベはスティックを破り、砂糖を流し込み、かき混ぜる。ふーふーと湯気を飛ばした後に、口をつけた。やけに甘い。失敗した。もう少し苦いほうがいい。そんな風に彼は思った。
 203号室は独特の空気を持った部屋だった。茶色い背の物々しい漢字タイトルの本がラックに並び、机近くに伝統芸能の舞台に出てきそうなポケモンの面がいくつも掛けられていた。笑う者、憤怒の表情の者、どこか悲しげな者――どれも表情が豊かな品ばかりだ。目線のすぐ下に先ほどのテーブルクロスがあった。魚の文様で藍色を基調としたデザインだ。ヒレには赤の刺繍が施されている。
「この文様は古代ホウエンにシンオウからもたらされたとされているんだ。シンオウの海にはケイコウオというポケモンが多く生息していてね。それが海の神に似ているというので好まれたんだ」
 オリベの視線に気付いたのか、そのように教授は説明する。向かい側の長椅子に腰を下ろした。
「……それでご用とは」
 マグカップをケイコウオの文様の上に置き、オリベは尋ねる。
「前期テストの件だよ」
 教授が答えた。ああ、やっぱりその事だったかと、彼は思った。きっと解答用紙が入れ替わった件に教授も気が付いたに違いない。だから単位の取り消しを伝えるつもりなのだろう。そう思った。だが、
「私はそうそうA+はつけないのだがね、君の回答は素晴らしかった。ツキミヤあたりもだいぶ惜しかったが、いかんせん君に比べるとね」
 と、教授は言ったのだった。
「え……」
「設問はまったく出来ていなかったが、自由記入の分だけで単位をやるには十分だった。それで……」
「ちょっと待ってください!」
 慌てて、オリベは話を止めた。まずい、教授は完全に誤解している。それは自分ではない。だって眠っていたのだ。何も書ける事などなくて、半分以上の時間を眠って過ごしたのだ。
「事故なんです」
「ん?」
「もう一回、解答用紙を確認してください。それ、俺じゃないです」
「何を言ってるんだね」
「きっと別の人の回答ですよ。入れ替わったんです。あるいは評価をつける時に一つ前の人とずれてしまったんじゃないですか? 確認してください」
 オリベは必死になって説明した。いっその事、そう思わせておけばよかったろうかとも少しだけ思わないでもなかったが、ここまで喋ってしまっては仕方ない。事故だ。今回のこれは何かの事故なのだ。そう釈明してさっさと帰りたいと思った。
「勘違いです! その回答は俺じゃないです!」
 オリベは言った。
 教授が眉を曲げた。しばし要領を得ないと云わんばかりに顔をしかめていたが、やがて机のほうに歩いていくとキャビネットを開き、A3の紙を二枚、取り出した。
「これが君の解答用紙だが」
 そう言ってオリベにその二枚を手渡した。一枚目は白ばかりの紙であった。上部に織部悠一郎と名前があった。間違いなく自身の回答である。だが、二枚目を見てオリベは驚愕した。
 二枚目の解答用紙、自由記入欄。びっしりと文字が書き込まれていた。細かい文字、お世辞にも綺麗とは言えぬ読み辛い字、それにやけに平仮名が多い。それがまるで解答用紙を占拠せんとばかりに紙面を覆い尽くしていたのだった。
 違う、これは俺じゃない! だが、そう言い掛けた時にオリベは別の事実に気付いてしまった。解答用紙には二つの氏名記入欄があった、という事に。すなわち一枚目と二枚目の両方にあったという事にだ。それはまさに「入れ替わらないように」と教授が配慮した結果であった。
 オリベはおそるおそる名前を見た。そこにあった名前は「織部悠一郎」であった。見覚えのある字面だ。間違いなく自身の筆跡だった。寒気がした。
 そんな馬鹿な! だが間違いない。これは間違いなく自身の解答用紙だ。
「な、君の回答用紙だろ」
 何を謙遜してるんだ、教授が言った。
「…………」
 オリベはしばし黙っていたが、
「…………、……はい、解答用紙は、俺のです」
 そういう風にしか答えられなかった。だが、あくまで解答用紙そのものに対する話だった。こんな解答は知らなかった。
「よかったよ。レポート一個出したようなものさ。短時間によくこれだけ書いたね」
 にこにこして教授は言った。
「君、夏休み中もよく図書館で勉強してたね。こんな事書くのはどんな学生かと思ってたけど君がオリベ君なら納得だ」
「え?」
「休み中よく来てただろ? いつも四、五冊積んでさ、読みふけってたからよく覚えてる。君は私に気付いてなかったようだがね」
 オリベは再び驚愕の表情を浮かべた。違う。それは俺じゃない。だが彼は言葉を飲み込んだ。今ここでこの教授と議論しても何もならないと悟ったからだ。何より、図書館。その単語に聞き覚えがあった。
 ――お前に似たのが図書館に入っていったんだよ。
 以前ツキミヤが似たような事を言っていたのが思い出されたのだ。
「三年になったらコースが分かれるのは知ってるね? 君にその気があるんなら、私の研究室に来るといい。希望者多数でも優先的に入れるし、歓迎するよ。今日はそれを伝えたかったんだ」
 教授が言った。が、受け止めている余裕が無かった。これではまるで講義に出てきたドッペルゲンガーではないか。自身の預かり知らぬところでそっくりさんが暗躍しているとでも言うのか。会ったら死ぬのか。けれど確かめずにはいられなかった。
「すいません、分かりました。失礼します!」
 オリベは軽く会釈をすると、一目散に部屋を出て行った。まだ閉まりきらぬスチールのドアの隙間から階段を降りていく足音が響く。教授はあっけにとられてしまった。変わった学生もいるもんだ、そう思ってぽりぽりと頭を掻く。文様で着飾ったテーブルの上にほとんど飲まれなかったコーヒーがぽつりと取り残されていた。

*

「大きな建物を建てられる、たくさんの像を置けるというのは一種の力の誇示なのです。野獣が毛を逆立てて、身体を大きく見せるのと同じです」
 次の日に隼人が言った。
「最近、周辺の里同士でも色々あるようで我が父は里の結束を高めようと考えています。結束を高めるには象徴が必要なのです」
 それが私かと尋ねると隼人は頷いた。
「父は近隣の里の首長とも会合を繰り返しています。何か揉めているらしい」
 揉めている? 何に? と、私が訪ねると、
「どちらにつくか、です」
 と隼人は言った。

*
 
 図書館に入ったのは入学して以降、二回目だった。一回目はオリエンテーション、学校内の案内をされた時で、本を借りる手続きを簡素に説明されたのだがまったく関心が向かなかった。館内に入ると冷房が効いて涼しかった。静かである。司書らしき女性職員がオリベを見て軽く会釈をした。つられてオリベも会釈をした。雑誌や新聞のコーナーを通り過ぎ、奥に歩いていくと自習机や、読書スペースが設けられている。まばらに人がいて、何人かが座っていた。大抵は本を読んでいたが眠っている学生もいた。オリベは階段を上がり、二階へと登っていく。行き着いた先もまた本が整然と並んでいた。学科数の多い大学だけあってその数は膨大である。
「あら、オリベ君」
 そんな本の森の中を彷徨っていると、不意に声をかけられた。眼鏡をかけた小太りの女性職員だった。脚立に上がり、高い所に本を戻していた。オリベはきょとんとする。なんとなくだが、マクノシタ似だと思った。それにやけになれなれしい。
「休み中、貸し出し中だった本、返ってきたわよぉ」
 と、彼女は言った。
「えっ」
 教授の部屋に続き、またオリベはあっけにとられた。
「ちょっと待ってて。持ってきてあげる」
 そう言ってマクノシタ似の彼女は脚立を降りる。とことこと小走りに本棚の向こうへ消え、しばらくすると戻ってきた。
「はい」
 オリベの手に古めかしい本が手渡される。書簡から見る海那(カイナ)の歴史、そんなタイトルが印字されていた。
「オリベ君も借りていけばいいのに」
 と、マクノシタ職員は言った。そうして返却本のカートをがらがらと押しながら次の場所へと移っていったのだった。オリベは無言のまま、渡された本を見つめるだけだった。だが、少なくともこれではっきりした。どうやら学内を自分そっくりな男が徘徊しているらしいという事がだ。
 正体を確かめようと思った。ドッペルゲンガーの正体を。オリベは本のあった位置を確かめ、その本を持ったまま、席に座った。入ってくる学生を確かめられる位置だった。オリベは渡された本の適当なページを開き、その時を待った。だが、なかなか人は現れなかった。
 そうして三十分ほど時間が経った時、どこからか声がした。
『いくら待っても、来ないよ』
 それがドッペルゲンガーの第一声だった。
 オリベはばっと後ろを向いた。だが、後ろにいたのは本を読んでいる学生が二、三人いるだけで、誰も声を発したようには見えなかった。次にオリベは、この位置からは見えぬ本棚の裏を覗いた。だが誰も居なかった。
「………………」
 図書館ではクーラーが静かに息を吐いている。
『違う、違う』
 と、声がした。振り返ったが誰もいない。
『ここだよ。ここ』
 声が響く。どこからともなく聞こえるその声にオリベは混乱した。
『よかった。少なくとも君には聞こえるんだ。そろそろ潮時かと思っていたけれど聞こえるなら話は早いね』
 姿の見えぬ一人が話を続ける。
「……誰だ、お前。どこから喋ってる」
 オリベは呟いた。ドッペルゲンガーと話すのは危険な気がしたのだが、思考よりも先に口が動いた。幸いまだ姿を見てはいない。死ぬ事は無いだろうと根拠の無い事を思った。
『それを説明するには少々時間がかかるね』
 声が響いた。よく言えば落ち着いた声だった。だが一方であまり抑揚の無い、棒読みのようでもあった。それが不気味さを伴って耳に響いた。
『場所を替えよう。人気の少ない所がいい』
 続けざまに提案してくる。
『ああ、それと』
「……それと?」
『さっきの本、借りて貰えないか。持ち帰って読みたいんだ』

 波の音が聞こえた。オリベは一人、白羽波神社の石段を上がっていた。
 ざあざあという海鳴りと、波が岩にあたって砕けるその音が雑音からオリベを遠ざけても、彼を呼ぶ声が止む事は無かった。出て来いと何度かオリベは迫った。が、出来ない相談だとその度に退けられた。
「いい加減姿を見せたらどうなんだ?」
 青い鳥居が見えてきた頃にオリベが言うと、
『鈍い男だ』
 と、声がした。そして、
『君は認めたくないだけだ。いい加減、気付いているだろう?』
 と、それは言った。オリベはつかつかと境内の石畳を歩き、松の木の下にあるベンチに腰を掛けた。海がよく見えた。夏はもう終わりだが、そこに浮かぶ台場の緑はまだ青々と葉を茂らせていた。海風が吹いてオリベの前髪を揺らした。そして、
「……ドッペルゲンガーは、いない」
 観念したようにオリベは言った。
『その通りだよ』
 と、それも答えた。
「最初にツキミヤから聞いた時はそっくりさんが出たのかと思っていた。だが、図書館に通っていたのも、民俗学のテストで回答したのもすべて俺だった。そういう事なんだろ?」
『世間的に見ればそういう事になるね』
 声が肯定した。オリベはやけくそになって続けた。
「おおかたセシナをつまみ食いしたのもお前だろう。やけに減りが早いと思ったんだ」
『あんまりおいしかったものだから。苦いのが好きなんだ。あそこの店のは上等だよ』
「最近、味覚が変わったのはその所為だな?」
『……そうなの?』
 あくまで抑揚の無い声が答えた。
「そうなの、じゃねえ! 俺は昔から甘党だったんだ! 俺の時間と味覚を返しやがれ、この悪霊! 人のあずかり知らないところで勝手に動き回りやがって!」
 海に向かってオリベは叫んだ。どうりで眠いと思ったんだ、と。まだ夏の名残のある空ではみゃあみゃあとキャモメが鳴いていた。
 あの後、図書館を出て、本を借り、まっすぐに神社に向かった。道すがらオリベは既に気付いていた。いや、認めたくはなかったのだが認めざるを得なかった。
 ドッペルゲンガー、その声の発生源。それは周囲のどこでもない、自身の内からだった。声が頭に響いているのだ。周囲には聞こえていない。自分の頭の中にだけだ。身体の中に反響し、決して外には漏れぬ声だった。
 ただし、声の主がこの身体を動かしている時は別だ。声の主は、オリベの声で語り、そして動くのだ。そうしてそれは図書館に足繁く通い、テストに回答し、市場で買ったセシナをつまみ食いした。その間、本来の主は何も知らずに眠っていたのだ。
「いつからだ?」
 オリベは声に問うた。
「いつから俺にくっ憑いた?」
『……君が踏んづけた時からだ』
 それは答えた。
『君が墓に入って……ああ、君達の用語じゃ古墳って言うのだっけ? とにかくその中に侵入して副葬品だった私を踏んづけて目が覚めたんだ。気が付いたら君の中にいた』
「あの時か!」
 オリベは叫んだ。なんとなくではあるが感覚を覚えている。ばりっと何かを踏んだ感触だった気がする。だが結局入り口など無かったはずだ。気付けば草原に寝転がっていた。同じ箇所を探したが、入り口はどこにも見当たらなかった。
「だが、あれは夢だったはずだ」
『いいや、君は入ってきた。そうして私を踏んづけたんだ。私を封じてたぼんぐりを踏んづけたのさ』
「入り口なんてどこにも無かった」
『それは違う。本来入り口なんてどこにだってあるんだ。入れる人間とそうじゃない人間がいるだけさ。現に君は入ってきて、私を踏んづけたんだ。それで私がここにいる』
「…………」
 オリベはそこで言葉の応酬を止めた。入り口の議論をしても何もならない。現にこいつは
憑いて≠「るのだ。だったらそれをどうにかしなくてはなるまい。
 オリベはベンチから立ち上がると、つかつかと社務所に向かって歩き出した。
『何をするつもり?』と問う声がすると「決まってるだろ」と、オリベは返した。
「すいません! 宮司さんいますか!?」
 オリベは社務所に首を突っ込むと、茶を啜っていた巫女を大声で呼んだ。
「は、はい! 呼んで参ります」
 勢いに押された巫女が反射的にばっと席を立って、履物を履くと、社務所のドアを開ける。ぱたぱたと母屋のほうへ駆けていった。
『ちょっと待て。本当に何をするんだよ!?』
 抑揚の無かったそれが、初めて声を大きく上げた。
「決まってるだろ!」
 負けずにオリベが返す。神社、宮司、自分に憑いたなんだかよく分からない霊。これらが揃ったらやる事など決まっていた。
「お前を祓って貰うんだよォ!」
 自分自身が知らず知らずのうちに動くなどまっぴら御免に決まっている。

*

 どちらかにつく。その事で近隣の里の首長達が揉めているという。
 隼人が言うには、周辺の里のいくつかでまとまった結論を出したいのだが、意見がまとまらないという事だった。それぞれの利害もあるし、信仰もあるからという。特に信仰の問題は重大で、これに関しては里同士干渉しないのが暗黙の掟だった。
 ある里は森に住む大樹の化身を信奉したし、ある開けた低地の里では雷と雨を呼ぶ雷獣がそうだった。人の住む里の単位、それは人ならぬ私達がお互いに干渉しないと定めた土地そのものであった。私達には代々守っている土地があり、間にある緩衝地帯で力比べをする事があっても相手の領域はめったに侵さなかった。ニンゲン達もそこを理解しており、その境界を見極めて里の境界とした。首長達は土地の主と繋がりを持ち、神やら精霊やらと持ち上げて、その畏怖を借りる形で里をまとめてきた。だから、天狗やら雷獣やらの威を借る首長達は「神様」の意見をとても気にした。何か事を起こすにも神様の同意を得ねばならなかった。その点において我らが里は緩いほうかもしれない。ヒトに好き好んで絡むのは私くらいなもので、一族の長老も親兄弟達もまあどうしてもというのなら、呼ばれれば来てやらんこともない。まあ適当にそっちで決めてくれとそんな感じであった。お堂が建って、私達の姿を彫った像が作られ始めても、あまり関心が無いようだった。元々一日中動かないでぼーっと空を見ていても飽きないような種族なので致し方ない。言葉も喋れるし、知っているはずなのだがえらく口数が少ない。表情も読めないらしく、隼人からも我らが里の神様達は何を考えているのかよく分からないとしばしば言われる。

*

「で、何の霊が憑いてるって?」
 空がオレンジに染まり始めていた。白羽波神社の宮司は恰幅のいい男で、その肌はよく日に焼けていた。いかにもスポーツマンタイプ、オリベの描く細くて眼鏡をかけた宮司像とはおおよそかけ離れている。どちらかと言えば破戒僧のほうが似合っているというのが彼の感想であった。
「……よく分からないですけど、たぶんポケモンです」
 だいぶ威圧され気味にそう答える。声の主はぼんぐりと言っていたから、たぶんポケモンなのだろうとの予想からであった。これだったら本人に聞いておけばよかったなどと少し彼は後悔した。
「ポケモンで、喋ります」
 オリベは説明した。抵抗の一つでもされるかと思ったのだが、声は引っ込んだまま出てこなかった。破戒僧宮司に恐れをなしたのか、声は聞こえなくなっていた。
「ポケモンで喋る、ねえ……」
「棒読みみたいで、とても不気味なんです」
「それから?」
「味覚が変わりました。甘いものより苦いものが好きになって……」
「他には?」
「人が寝ている時、身体を乗っ取って動き回るんです!」
 自身の持つ表現力とジェスチャーを最大限駆使して、オリベは語った。
 だが、浅黒い肌の宮司は腕を組んだまま訝しげな表情をオリベに向けている。そして、
「兄ちゃん、」と、前置きした。
「霊障の九割は偽者だって知ってるか」
「は?」
「だいたいは思い込みとか、何かの病気だったりするんだ」
「いや、ちょっと」
「君はカイナ大の学生か?」
「そうですが……」
 オリベが不満げに答えると、やっぱりかという調子で宮司は続けた。
「あそこ、学生の数多いからさ……多いだけあって必ず、変なのが毎年一人は出て来るんだよ。特に人文科学だ。あそこは想像力が豊かなのが多くてねえ。君、学科は?」
「人文ですが」
「ほら、やっぱりだ。あそこの教授が学生の時なんか特にひどくてねぇ。やれ霊界から電波をキャッチしただの」
「え、ちょっと待ってくださ、」
 言い終わらないうちに、宮司はぽん、と肩を叩いた。
「いつも神社に来てくれるのは嬉しいが、霊障は授業をサボる理由にはならんぞ?」
「ちょ、」
「おそらくは夢遊病の類だな。一回カイナ総合で診て貰うといいよ。あそこの病院は色々扱ってるから」
 そう言うと私は忙しいんだと、ばかりに宮司は背を向けた。待ってくださいと、オリベは引止めにかかる。だが、
「はいはい、絵馬を描く途中なんだ。邪魔しないでくれよ」
 と、一蹴されてしまった。宮司はすたすたと母屋のほうへ戻っていく。ふと視線に気付き横を見ると、チャーレムみたいな顔の巫女が、いかがわしい者を見るかのような視線をオリベに向けていた。
「……よかったら、夢遊病平癒祈願に絵馬はいかがですか」
 巫女が言った。手にキャモメを描いた絵馬がぶら下がっていた。当社の御利益は勝負事、病気との闘いもある意味勝負事だからいいと思います、と言うのが、巫女の論だった。宮司の手書き絵馬の値段は千円であった。学食が三、四回は食べられる。
「すいませんね。あの人、絵馬描きに命懸けてるから。たぶん祈祷より念がこもっていると思いますよ? あと、厄除けのお守りもあります」
 などと訳の分からない営業文句を聞かされた。
「……お守りにはいい思い出が無いんです」
 オリベがそう答えた時、
『残念だったね。病院行くかい?』
 いつの間にかそれが表に出て来て言った。
「ちっくしょう! この野郎!」
 オリベは叫んだかと思うとばっと駆け出した。何も買わずに鳥居を潜って出て行った。

*

 それぞれに土地神を擁し、里単位で政(まつりごと)を行う。それが当たり前だと思っていた。だがそれが崩れつつあるらしいと隼人は言った。隼人の父が里の首長となった頃から、もしかすると彼の祖父の代から、既にその動きは見られたという。互いに干渉しない。境界は侵さない。人ならぬ私達の境界に沿う形で守られてきた秩序、それを破壊する神とニンゲン達が現れた。彼らは手を組んで、他の土地を侵し、支配下に入れているという。元いた土地神は殺されるか、追い出されるかするらしい。それは初めこそ遠方のあずかり知らぬ出来事であったが、彼らの支配圏はだんだんと大きくなって、無視できない存在になってきた。自治の維持を条件に彼らに手を貸す首長も出てきているという。境界を侵す蛮族達にはいくつかの勢力があるが、中でもそれぞれの信仰から赤、青と呼ばれる二つの勢力が幅を利かせているという。
 赤と青、どちらにつくか。里の首長達はその事で揉めているらしい。
 けれどそんな事を話しても、やはり兄弟達はあまり関心が無いようだった。
 皆揃って明後日の方向を向いている。一族がよく分からないのは何も隼人や里のニンゲン達に限った話ではない。私もだ。

*

「出てけ! この悪霊め!」
 白羽波神社の石段を駆け下りて、坂道を上がりながらオリベは叫んだ。日没が近かった。空がオレンジに染まり始めていた。
『それは無理だよ』
 と、声がした。
『君が踏んづけたから、くっ憑いてしまったんだ。これは私がどうこう出来るもんじゃないんだよ』
 興奮するオリベとは対照的にあくまで抑揚の無い声が頭に響く。
『だいたい悪霊とは失敬な。確かに私に実体は無いが怨霊(ゴースト)と一緒にしないでくれ。私はもっと誇り高い種族なのだよ』
「ほお? 誇り高い種族は人の身体を勝手に使うのか?」
 オリベは悪態をついた。何が誇り高いだ。人の物を勝手に使うなど、ろくな種族ではない。それが身体だとしたら尚の事とんでもない。だが、
『どうせ、やる事も無くてサボってたんだろ?』
 と、声がした。
「うるせえよ!」オリベが声を荒げた。すると
『むしろ私に感謝すべきじゃないのか?』
 と、それは言った。
『夏休み前のテスト、私がツキミヤのノートを読んでおいたから通ったんだぞ。君が寝てる間にいくつか回答を書き換えさせて貰った。まったくひどいもんだ。君からはやる気が感じられないよ』
 ぴしゃりとそれは言った。幾分か声に抑揚がついたように思われた。
『特に民俗学は感謝して欲しいねぇ。君がぐうぐう寝ている間、私がびっしり書いたお陰で、A+だぞ? 他にそんな教科無かったろう? しかもあのニシムラって人からのお墨付きだ。これは君単独では為し得なかった事だ。そうだろう?』
「誰も頼んでなんかいねえよ!」
 オリベは悪態をついた。だが、強がるなとでも言いたげに
『成績通知を見てほっとしていたくせに』
 と返された。ぐうの音も出なかった。彼はしばし無言で不機嫌そうに道を進み、
「だいたい字は汚いし! 平仮名ばっかりだし!」
 と、言っただけだった。自分でもどうかと思った。苦し紛れのいちゃもんもいいところだった。いやむしろ攻撃の材料を作ってしまったかもしれなかった。墓穴を掘ったと彼は思った。が、今度は少し反応が違った。
『よ、読めたんだからいいじゃないか! 慣れなかったんだよ、仕方ないだろ。これでも練習したんだ。そりゃかな文字が多かったかもしれないが……減点にはならないだろう……?』
 声が少し弱気になっていた。そこは動揺するような場面なのだろうか。基準のよく分からない奴だとオリベは思った。と、同時に緊張が少し薄れたのが分かった。そんなに悪い奴ではないかもしれない、ふとそんな考えがよぎったのだ。
 いやいや、とオリベは首を横に振った。こいつは人の身体を乗っ取って好き勝手やっていたのだ。とんでもない悪霊、とんでもないポケモンなのだ。だが、同時にポケモンという単語に引っ掛かりを覚えたのもこの時だった。
「いやいや待てよ! お前嘘吐いてるだろ! 何でポケモンが喋るんだよ!」
 オリベは突っ込んだ。小さい頃に見たマンガや絵本で喋っている所為なのか今まですんなりと受け入れていたが、よく考えればおかしな事だった。今自分の身に起こっている事態が超常現象過ぎてうっかり見逃していたのだ。すると、
『何言ってるんだ』
 と、それは言った。
『精霊(ポケモン)が喋るなんて普通の事じゃないか』
「普通じゃねえよ!」
『君の周りの精霊は喋らないのか?』
「喋る訳ないだろ?」
『ええ? それはおかしい』
「おかしくねえよ! お前のほうがおかしいよ!」
 そこまで言ってオリベははっと口をつぐんだ。道を行く主婦らしき女性と目が合ったからだった。主婦は自転車にまたがり、かごに小さなポチエナを乗せている。おかしな者を見るように目を丸くしていた。
「ワンッ」
 ポチエナが鳴いた。早く行こうよとでも言いたげだった。そうね、と言うように目配せをしたその女性はやがてペダルを踏み込むとその場を去って行った。
「………………」
 ああ、もう。オリベはバツが悪くなって、さらに早足で歩いた。何でもいい、早く下宿に帰ろうと思った。空はすっかり暗くなって街灯が灯り始めていた。不思議な事に道すがらそれは声をかけてこなかった。再び声をかけてきたのはオリベが下宿に戻り、小さな炊飯器が湯気を吐き出し始めてからだった。
『ユウイチロウ、教えて欲しい』
 と、急にかしこまってそれは言った。
「気安く名前を呼ぶな」
 ぶっきらぼうにオリベは応える。目の前では乳房を露わにした女性があられもない姿で寝転んでいた。気まぐれに雑誌など開いて眺めていた訳だがどうも気分が乗らない。もちろん、そんな彼の心理状態や雑誌の内容とかには構うことなく、質問は飛んでくる。
『図書館に通いながら薄々感じてはいたのだが、本当に精霊は喋らないのか……?』
「だから、喋らないだろ。普通」
 炊飯器がピーッと鳴ってオリベは雑誌を閉じた。蓋を開く、しゃもじを中に入れて、中のご飯をひっくり返す。碗に白い飯を乗せていく。何だかんだでやはり腹は減る。
『そうか……本当に喋らないのか』
 か細い声でそれは言った。その事実はそれにとって相当ショッキングな事らしかった。
『おかしいと思ってたんだ。精霊は喋らないし、ヒトの食う飯は白いし、あれから一体どれだけ経ったんだ……』
 ご飯が白いなど当たり前ではないか。そんな事を思いながら、彼は納豆パックを開く。醤油をかけて混ぜるとご飯にかけた。再び混ぜる。一気にそれを掻き込んだ。
「喋る、喋るって結局お前、何のポケモンなんだよ? ポケモンに喋る種類なんていたか?」
 頬についた米粒を指で取り、口に入れるとオリベは言った。指がべとべとした。すると、
『分からないんだ』
 と、それは答えた。
「はあ?」
『ヒトでなかった事は覚えている。だが種族を忘れてしまったんだ』
「乗っ取り遊びの次は記憶喪失ごっこか?」
 呆れた。精一杯の嫌味を込めてオリベは言った。だが、それはあくまで淡々と続けたのだった。
『はっきり覚えているのは、手が欲しかったって事だ』
「ん?」
『私はね、手が欲しかったんだ。字を書いたり、何かを作ったり、本を開いたりする手が欲しいと思っていた。私はニンゲンになりたかった』
「…………」
 なるほど、字が汚いと言われてたじろいだのはそういう事か。こいつなりに頑張ったのかもしれないとオリベは思った。だが、図書館で平仮名を練習されていたのかと思うと恥ずかしかったが。
 そして何より問題なのは、自身を取り巻く事態が何も解決していないという事であろう。少しばかり相手を知った事と自分の身体の事、それとこれとは別問題であった。
「……はっきり言っておくが俺の身体は俺のもんだ。お前の好きにはさせないからな」
 オリベは立ち上がり、流しのほうへ歩いていった。蛇口をひねる。碗を洗うと、ひっくり返して置いた。

*

 ある日、隼人が珍しい物が手に入ったと言って私に見せてくれた。
 見るとそれは紙の束で、決まった大きさの紙を束ね、四辺のうちの一辺を紐で綴じたものであった。
「この書物の形態は冊子と言うそうです」隼人が言った。
「私達が普段使っている巻物だと目的の部分を探すのに時間がかかるでしょう? その点これは画期的です。目的の部分の参照がたやすく、保管もしやすい。さっそく職人達に作らせています」 
 冊子、これに日々の事を記す事にしたのだと隼人は言った。自身の思考の記録を残したいのだと。それで今はその記録に何という名前をつけるのか悩んでいるのだと言った。書き出しは既に決まっていて、職人が物を納めに来次第、書き始めるつもりだという。どういう訳か以前に私の言った事に感化されたらしく、最初にそれを書くらしい。
 後日、里の職人の手による冊子が到着した。隼人は早速筆を走らせ、書き出しにこう記した。
 人が人たるは字を書く故なり、と。
 隼人は日々の記録を蓄積していった。ある時は職人達の仕事の進み具合の事を書いたし、ある時は私の事を書いた。それを読む事が私の日課になった。時々読めない漢字が出てきたけれど、それは隼人に教えて貰った。隼人のそれを読む事は私の楽しみであり学びであった。
 読んでいて嬉しいのは、その中に私の名前を発見した時だった。私の名は漢字二文字。一字目は色を表し、二字目は一族の特徴を現す漢字だった。私は書かれた自分の名が好きだった。
 ただ残念なのは私自身はその名を記せない事だった。私のニンゲンの腕と手にあたる部分は、ニンゲンとは大きく形が異なっていた。だから私は筆を持つ事が出来ない。字を書く事が出来なかった。それだけが残念だった。触れずに物を動かす能力ならばあったが、せいぜい冊子の一枚一枚をめくる程度が限界だった。それはより大きなものを遠くに動かす方向に鍛える事が出来ても、細かい方向には融通が利かなかった。もちろん何度かはやってみたのだが、紙が破けるか筆が折れるかでうまくいかなかった。だから私はひたすらに読み手であった。

*

 カイナシティを囲う山や森が色づいてきた。朝ともなれば冷え込んで、布団が恋しくなる、出られなくなってくるのがこの時期だが、そんな事には考慮せず、当然に始業のチャイムは鳴った。出席簿が回されて、学生が丸をつけていく。名簿の上のほうにある自身の名前にオリベは同じように印をつけた。
 オリベの変化に最も驚いたのはツキミヤであった。いや正確にはオリベの事をよく知るのがツキミヤくらいしかいなかったと言うべきであろう。
 人が変わったように、という言葉がある。それはまさにオリベに当てはまった。ニシムラ教授に呼び出しを食らったあの日から一週間程後だったと彼は記憶しているが、一時限の教室にオリベは既に到着していた。珍しい事もあるものだとツキミヤは思った。が、その次の日も、またその次の日も、彼は同じように教室に現れた。それは三日坊主になる事なく、ずっと継続されて今に至っている。
「ニシムラ教授と何を話したんだ?」
 ツキミヤは尋ねたが、オリベはちょっと話しただけだで、大した用件ではなかったとの一点張りだった。それでも彼は何度かその話題に触れたが、何度聞いても同じだったのでそのうちに諦めてしまったのだった。ただなんとなく、ニシムラ教授の一言か何かで、オリベが俄然やる気になったのだと彼は想像した。
 一方のオリベは必死であった。別に好き好んで勉強している訳ではなかった。だがサボったり、眠ったり、気を抜いたりしていると、自身の中にいるもう一人≠ノ出し抜かれる。そういう思いがあった。大切な物は失って分かるというが、それに近い。身体を乗っ取られるなどまっぴら御免だった。それだけは許せなかった。だが、俺の身体は俺のものだと言うからには相応の格好をつける必要がある。なんたって相手の目は行動のほぼすべてを見ているのだから。
 やりたい事があれば一番よかったが、それも今は分からない。そうなると差しあたっては大学生を大学生らしく頑張る事に尽きる。休まず講義に出席したし、サークルにも入った。
 そしてオリベはしばしば図書館に立ち寄った。来る度に本を返し、その度に持ち帰った。借りる本も返す本も同じ数だ。借りられる最大の数を借りていった。
「いつから読書好きになったんだ?」
 ツキミヤが尋ねると、
「俺の平穏の為だ」
 と、オリベは答えた。
「……よく分からないが今のほうがいいよ」
 と、ツキミヤは評した。喜ばしい事だと思った。前期のオリベは死んだテッポウオみたいな濁った目をしていたから。だからこれが本来の彼なのだろうと言った。鍵型アンノーンは相変わらずツキミヤの後ろからそっとオリベを覗き込んでいた。
 あれから、憑いた何か≠ニいくつかの取り決めを交わした。いくつかの条件を飲む代わり、オリベは主導権を得る事となった。この身体はオリベユウイチロウのものであるという合意を彼らは互いに確認したのであった。正直なところ、向こうから勝手に転がり込んできたのだから、本来なら折れてやる義理もなかろうくらいの事は思っていた。だが、頭の中であれがしたいこれがしたいとわめかれてはそのうち気が狂ってしまうだろう。だからオリベも多少は譲歩する事にしたのだ。
 何かが提示した条件はだいたい次のようなものだった。
 第一に本を借りてきて欲しいという事。第二に放課後、それらの本を選ぶ時間を設けて欲しいという事だった。そうして第三にそれを読む時間であった。自分が眠った後にそっと起きてきてやってくれとオリベは言った。もちろん翌日の活動に支障が無い範囲でだ。その交換条件としてオリベが得たのは学業のサポートであった。テストのピンチ時は交代を頼む事にした。
 そして何よりも、昼間に勝手に出歩くなとオリベは強く要求した。だが、それに関しては、
『君が二度寝とかしなければ、そんな事はしなかった。君に隙があり過ぎたんだ』
 と、言われて、返す言葉が見当たらなかった。
 とにかくこれらの取り決めを経て、侵入者であった何かは晴れて同居人≠ニなったのだ。
『ユウイチロウ、私は私の事が知りたい』
 と、同居人は語った。
『それを知る手がかりはたぶん、旧い記録にある』
 そのようにも彼は言った。尤も、彼なのか彼女なのかその点もはっきりしない。
「お前、名前は?」
『覚えていない』
 オリベが尋ねると、そういう答えが帰ってきた。
 ただ、はっきりしているのは、過去に生きた記憶はおぼろげながらあるという事、少なくとも人間ではなくポケモンだったという事らしい。
『ただ、私が私の身体にあった時、ヒトは私達をポケモンとは呼んでいなかった』
「だったら何と?」
『ある時は、獣、野獣。ある時は妖、物ノ怪。ある時は精霊……そしてある時は神だった』
「……神、か」
『ひとと けっこんした ポケモンがいた ポケモンと けっこんした ひとがいた』
 同居人は最近読んだ本のワンフレーズを口にした。
『これは深奥(シンオウ)の旧い詩の一つだが、私達とヒトとの関係を示す上で重要なものだ。この詩の後には、昔は人もポケモンも同じだったから普通の事だったと続く。昔はヒトと我々の境目が曖昧だった。ヒトとポケモンは言葉を交わす事が出来た』
「はは、まさか」
『ユウイチロウ、私の件があってそれを言うのかい?』
「正直あまりポケモンという気がしない」
『だから言ったろう。境界は曖昧なんだ』
「記憶違いや思い込みという可能性だって否定できない」
『だから、色々読んでいる。糸口を掴みたいんだ。それに私は字を教えて貰った』
「誰に?」
『ヒトにだ。姿形こそおぼろげだが、あれはヒトだった。間違い無い。なぜなら字を書くのはニンゲンだけだからだ』
「人間だけ、か」
 なんとなくオリベは意外な発見をした気になった。しばしば人は他の生物との違いを言葉を話せるか否かで区別するが、それは正確ではないのかもしれない。同居人の言うようにかつてポケモン達が言葉を話せたのだとしたら、言葉の先にある字を書く、記録する過程まで辿り着いて、初めて人独自の特性と言えるのかもしれない。記録は蓄積され本になり、収集されて図書館になる。だとすると、そこにポケモンが足繁く通っている光景は何とも妙であった。
『我々は多くの子を持つ事をよしとする。多くの子がいる事、その子らの誰かがまた命を繋ぐ事、それこそが自分が生きていた証となるからだ。だがニンゲンはそれに限らない』
 同居人は言った。
『ニンゲンは素晴らしい。文字を書き、想いを残す。絵を描いて、姿を残す。形を作って証を残す事が出来る』
 そう言葉にした時、記憶にかかった霞がほんの少しだけ晴れた気がした。
『だからこそ私はニンゲンに憧れたんだ』

*

 疑問に思っている事があった。
 何かと言えば、隼人は長男であるという事だ。それなのに何故いつも文字を教えにやってくるのか。家長を継ぐ身なら、そういう事をしている暇などなさそうなものだが。するとその問いに関して、
「家督は弟が継ぐと決まっています」
 という返事が返ってきた。彼の弟というのは次男坊である。歳は一つか二つ下だったか、細身で優男な兄に比べるとがっちりとした体格のいい男だ。
 何故と私は尋ねた。私達の場合ならば生まれた順に関わらず、優れたものが集団の上に立つ。その基準は身体の大きさとか放つ技の強さ、あるいは美しさだ。だが人間は異なっている。能力の優劣に関わらず生まれた順が決定的な序列となっているはずなのだが。すると、
「それは私に種が無いからです」
 と隼人は言った。
「あれは弟に先に来たのです。それ自体は珍しい事ではなかった。ですが、待っても待っても私にそれが来なくて、さすがにおかしいと思ったのです。それで診て貰う事にしました」
 そうして隼人はとある仙女の事を語った。両腕のそれぞれに赤と青の花を咲かせた仙女の事であった。彼女は花を咲かす同族達の中でも特別で、ある時、不思議な石の光を浴びて、より大きな花を咲かせるようになったという。彼女の一族は山を三つほど越えた里にその多くが暮らしている。
「彼女達の一族は春になると種を持って山から下りてきます。花の精である彼女は、種の事ならば何でも知っている。彼女は°Cを吸引する技を持っていますが、それで相手の状態が分かるのだそうです。それで分かりました。私は子を成せないのだと。種が無いのです。私の中に種は無かったのです」
 おかしいと思っていたのだと彼は言った。弟と自分は違い過ぎる。より男らしくたくましい体つきに成長していく弟と比べ、自身はどうにも変化に乏しい。まるで子供のまま、大きくなってしまったように。それで彼は疑ったのだという。自分は男として不完全なのではないか、と。
「でも、分かってよかったと思っているのです。そのまま家の主になっていたら私の娶る女性を不幸にしてしまうところでした。彼女は石女(うまずめ)と罵られた事でしょう」
 だから隼人は、自ら家督を弟に継がせるように提案したのだと言う。
 彼は聡明だった。冷徹に自身を見つめる事が出来た。そしてあまりにも優しくて誠実過ぎた。人間は順番を優先する。黙っていれば家長になれたのに。
「家にとって、産めない女は人間ではないのです。だからこれでよかったのです」
 人間ではない、と隼人は言った。その言の葉の刃で自らの身を刺すように彼は言った。

*

 いくらかの時を共に過ごして分かったのは、やはりオリベと同居人には時代認識の差があるらしい事だ。オリベの当たり前は同居人にとっての新鮮だった。
 尤も、車やバスなどには既に反応を示さなくなっていたが、勝手に出歩いていた当時は相当に驚いたという。最初は自分の知らないポケモンだと思ったらしい。だがそのうちに、これはからくり仕掛けを相当高度にしたものである事に気付いたという。
『一番感動したのはやはり図書館だ』
 と、同居人は言った。これだけの本が並んでいる光景を今までに見た事が無かったという。
 本の字が小さく、均等に並んでいるのにも驚いたらしい。それで、生身だった頃とは相当に時間が経っているらしい事を実感したのだという。
『君がツキミヤのノートを機械で写した時も驚いた。だが、それであんなに本がある事にも納得がいったんだ。こういう事が出来るならたくさん書物を作る事も可能だろうとね』
 同居人はいわゆる歴史もの、伝説や昔話の類を扱ったものに強い興味を示していた。歴史書を読むのは自身のルーツを思い出す事でもあったし、眠っていた間の空白を埋める為に必要な作業だった。そうして昔話や伝説の類はとても懐かしい感じがすると同時に最も興味深いと同居人は言った。ポケモンにポケモンという呼称が無かった時代、その時の彼らの人から見た立ち位置、ポケモンを通して顕れる人々の感情と振る舞い。時に喜び、時に畏れ、蔑み、愛す。それらを知る事は自らを知る事なのだと。
『昔話や伝説の中にも、読み書きを行う野獣の話が出てくる』
 と、同居人は続けた。そして、それらの話を収集するうち、それについて論じてみたくなったのだという。実施場所は前期テストの解答用紙の上だった。それがニシムラ教授のハートを射止めてしまった。
 休日に海の博物館近くの大型書店に連れて行った時は、えらく興奮していた事も思い出される。結局、閉店間際まで足止めを食い、当分行くまいとオリベは思った。図書館には無かったマンガ雑誌が気に入ったらしく、月刊誌を一冊買ってやったが失敗だった。発売日になると本屋へ行こうとせがまれる。週刊にしなかったのが幸いと言えば幸いだった。
『今日の予報は夜まで雨だったね』
 ある日、図書館で本を選んでいるとふと同居人が呟いた。その日は静かな雨で、窓が雨粒でいっぱいになっていた。時折つうっと雫が滴り落ちる。同居人は天気予報というものの存在にも驚いていた。驚くと同時に何か脅威のようなものを感じるとも語っていた。
「やあ、オリベ君」
 声をかけられたのは本をいっぱいに抱えて、貸し出しカウンターに向かう道すがらであった。
 少し話さないかと、民俗学教授は言った。
 しとしとと雨が降り続いていた。ニシムラ教授の部屋は相変わらずで、仮面が泣き、笑い、テーブルクロスに文様の魚が泳いでいた。今度はコーヒーでなく茶が出され、ついでに羊羹までもが出てきた。教授いわく、シンオウ地方のハクタイという町の名物で、名前を森の羊羹というらしい。
 教授の専門はあくまでホウエンの民話や伝承であった。が、最初にその道に目を開いたきっかけはシンオウ地方の神話に触れた事だったという。昔は人もポケモンも同じであった。その記述に強く惹かれたらしい。教授のシンオウ贔屓、それは部屋のラックに並ぶ本の中にも、彼の講義にも反映されている。
 最近はどんな本を読んでいるのか。そんな事を教授は尋ねてきた。しばし黙っていたら、同居人は自分の出番と察したらしい。『出るぞ』と頭に声が響いて、オリベは身体と声を委ねる事にした。彼らは共通に知っている民話について語らい、議論を交わした。オリベは黙って聞いていたが、彼らの見ている次元は高く、雲のかかっている山の頂上の話をされているみたいだった。同居人と共有の目に映る教授は楽しそうであった。
「そういえば、ちょっと聞きたい事があるのだけれど、いいかな」
 話がひと段落した頃に、羊羹を口に含み茶を啜ると教授は言った。
「カントーのタマ大に、携帯獣文学史のオリベ教授という方がいるのは知っているかい?」
 引っ込んでいたオリベが固まった。『どうやら君の話のようだ』と声がして、彼らは入れ替わったが、替わった後も数秒ほどは黙っていた。
「……それは祖父です」
 ぼそりとオリベは答えた。
「ああ、やっぱりそうなのか! もしかしたら親戚か何かなのかとは思っていたんだが」
 教授は相変わらず楽しそうだ。予想が的中して嬉しいのだろう。なるほど、どおりでね。教授は一人納得していたが、一方でオリベの気持ちは沈んでいた。部屋の窓に灰色の空が映っていた。
「でも、祖父とはあまり関わりがありませんので」
 否、関わりや因果関係はあるのだ。ホウエン地方のこの大学に籍を置いた事、それには関係がある。だがおそらく教授の想像、期待するような形ではなく、だ。
「そうなのかい? 君もそういう道を目指すのかと思っていたが……」
 教授は意外だという顔をした。無理もない、教授にとってのオリベはよく出来る、それも勉強熱心な学生のはずだから。
「違います。まだ何をするかまでは決めていません」
 ただ実家を出る口実が欲しかっただけなのだ。どうせ出るならより遠くに、手の届かない所に。ただそれだけだったのだ。
「君なら目指せると思うけれどね、研究者」
「……教授」
「ん、」
「影に徹するような仕事をする事はそんなに悪い事でしょうかね」
「んん?」
「誰かの影で、汗まみれになって働く事はそんなにみっともない事でしょうか。表舞台でない場所に居続ける事は」
「何の話だい?」
「……俺はそうは思いません」
 オリベはそこまで言うと腰掛けていた長椅子から立ち上がった。
「羊羹おいしかったです。失礼します」
 スチールの扉が静かに閉まって、足音が去っていく。
 相変わらず変わった学生だなぁ。そう思ってニシムラは頭を掻いた。
『そういえば君の実家の話は聞いた事が無かったな』
 階段を降りるその途中で同居人は言った。
「語るほどの話も無い」
 オリベは答える。
『うまくいってないのかい?』
「その話はしたくない」
『君は長男?』
「それがどうした」
『ふむ、そうか……長男というのは大変なものだ』
 ふと、そんな言葉が出た。何故だかは分からなかったが、唐突に言葉になった。そう言ったきり、しばらくは語らなかった。雨が降り続いていた。

*

 右目に勝手に未来は映る。意識せずとも呼吸を繰り返すように、心臓が勝手に動くようにだ。ただ、呼吸は意識すれば止められるから、それはどちらかといえば心臓に近いのかもしれない。よって、映ったら見ざるをえない。見たい、見たくないに関わらずだ。見える場所、視点はその時によって違う。法則性はよく分からない。ただ、それがいつ頃起きるのか。どういう訳だかそれはなんとなく判ってしまうから不思議だ。その理由はうまく説明が出来ない。あえて言うならば直感としか言いようが無い。
 私が見たのは隼人とその父――つまりは里の首長であった。二人は何か議論をしている様子だった。見えるだけなので声までは聞こえない。けれど、とても真剣は話をしているという事は分かった。
 近いうちに隼人が書くか、話すかするだろうと私は思った。

*

 正月は帰るのかと聞いたら、ツキミヤは帰らないと言った。さすがに正月は帰るだろうと思っていたのでオリベは驚いた。そうしたらツキミヤは
「いや、実は俺、実家と仲が悪くてさあ」
 とあくまで笑い飛ばすように言ったのだった。どうやら彼の両親はこの進学には反対していたらしい。
「両親は俺に家業を継がせたかったんだ。こう見えて一応、長男だからね。だから、こっちの道に進みたいと言ったら猛反対だった。学費はね、祖母が援助してくれているんだ」
「そういえば、お前の実家って何してるんだ」
 オリベは尋ねる。考えてみれば、聞いた事が無かった。それはオリベ自身も実家……特に母との折り合いが悪かったからかもしれない。費用的な事は父に援助して貰っていた。
「実家はブリーダー業をしている。トレーナーやコーディネーター向けにポケモンを育ててるんだ。繁殖相手の斡旋みたいな事もしている。最近は木の実の栽培とかもやってたかな」
 家業にはそこそこ古い歴史があるらしく、その昔は土地の有力者にポケモンを供給する役割を担っていたという。今でこそポケモンセンターや研究機関がそういった事をするようになって、免許を持ちさえすれば誰でもポケモンを貰う事が出来る。だが、昔は「貰う」のが一種のステータスだったのだとツキミヤは言った。有力者は供給者を養い、ポケモンを手に入れる。そうして家臣達に下賜するのだ。その行為は下賜するほうに権威、されるほうに栄誉を与えた。ポケモンにはそういう意味があった。また、ポケモンの世話は自ら行わず、訓練のみを行ったのも当時のスタイルであったらしい。
「いや、今でも金持ちとか、何十匹も持ってるジムリーダー業なんかにはよくある話だろ」
 と、オリベは言った。
「特にジムリーダーなんかは挑戦者レベルに合わせてポケモンを替えないといけないからな。なかなか日々の世話で手持ち全部を構ってはいられんのよ。だから世話する人間を使ってたりする」
「へえ、ジムトレーナーがやるのかと思ってたよ」
「いや、あれはジムの客だから。ジムリーダーというのは師範でもあって、バトルを教えて受講料を取ってたりする。ジムトレーナーって良家の子息って事も多くて、そういう仕事はさせられない」
「やけに詳しいんだね」
「まあ、親父がそういう仕事をしているからな」
 言うなれば、ポケモンの世話に特化した家政婦みたいなもんさ。男だけどな。と、オリベは続けた。
「昔はトレーナーをしててバッジもそれなりに持ってるが、リーグで勝てるような飛び抜けた才能は無かったらしい。で、引退して今の仕事に就いた。俺や弟が生まれたのもあって、安定した収入が欲しかったんだと言ってたよ。母とはトレーナー時代に出会って、結婚したんだ」
 だが、母はどう間違ったのか、そんな父を情けなく思ったらしかった。もちろんそういう経済的背景があって、引退したのは頭で分かっていたはずなのだ。だが母が惚れていたのはバトルが強い、何個もバッジを持っている現役トレーナーの父だった。ジムリーダーの下でポケモンを世話する男ではなかったのだ。それで母は自分の子をトレーナーというものに近づけまいとした。トレーナーになっても勝てなければ下働き、それはどうやら母にとって許せない事だったらしい。
 だから母は替わりを探した。そうして定めたのが父の父だった。オリベにとっての祖父であった。ある意味トップに立った男だからだ。タマムシ大学の教授職ともなれば社会的ステータスとしては十分だ。それで祖父と母の距離は急速に近づいた。彼女の誇りはトレーナーの恋人である事ではなくなり、高い地位にある義父の娘である事に変わったのだ。
「幸い父はジムでは重宝がられているらしい。一定レベル以上のトレーナーには違いないから、ポケモンもよく言う事を聞くし、バトルの基礎だって教えられる。ああ見えてフード作りがうまいんだ。食が細いポケモンも父の出したものなら食べるんだとリーダーが言ってたよ」
 父は職を変えた。けれど腐ってはいなかった。立派に勤めて、頼られて、その仕事に見合う稼ぎを持ち帰ってくる。現役トレーナーだった頃よりずっと多いらしい。それなのに母は父の仕事を嫌っている。ああいう仕事は地位が低いと蔑んでいる。たとえ表立って口には出さなくても、オリベにはそれが分かってしまった。祖父も祖父で、父が自分の望むような道に進まなかったのをよしとしていなかったらしい。だから考えの近い母に祖父は援助を惜しまなかった。
「正月、俺もサボるかな」
 と、オリベは言った。
「サボるって何をだ」
「実家帰りだよ。帰ってもどうせ口うるさいのしか居ないし、父はたぶん仕事だろうし」
 年賀状だけ送ればいい、そう思った。
「白羽波の初詣行こうぜ。年が明けたらどんど焼きもあるらしい」

*

 変化の時というものがある。私にとっては丸い小さな身体だったのが、大きく背を伸ばして変わり、視線が高くなり、右目に未来を見るようになった事がそれだった。それで一族の間でも一応の大人として扱われた。だが心の在り様はそこまで変わっていなかったように思われる。
 私が隼人の変化らしきものを見たのは、日々の記録の蓄積の中にであった。第一に書く文量が多くなった。それに話題が自身や私だけでなく、周辺の里や家の事に広がってきた。それによると彼の父は、相変わらず会合での意見がまとまらずに苦労しているらしい。最近は家督を継ぐ予定である弟も同席しているという。父や弟が里に戻り、何らかの報告をする度に彼はそれを記録した。それでそのうちに気が付いた。
 どうも彼は里の首長たる家の中で、自らの立ち位置に悩んでいるらしい。本来なら家長になり、ゆくゆくは里をまとめていくはずの男だった。けれど彼は自ら水を掛け火を消したのだ。同時に未練も消した。だが、それは見えない所で埋火となって残っていたらしい。それがぶすぶすと燃えて、煙となって立ち上がってきている。彼の記録の行間に私はそれを見た気がした。

*

 目の前でぱちぱちと火が燃えていた。昨年に掛けられた絵馬を燃やす炎であった。白羽波神社と言えば、知っている者は誰だってキャモメ絵馬を挙げる。勝負事に御利益のあると言われる絵馬は願いを書くと裏の林にある掛所に掛けられ、それらは蓄積されていく。それが一度リセットされるタイミングがこのどんど焼きの時である。それは正月明けに行われる。燃やすついでに串に差した餅を焼いたりもする。神社側でもいくらかを用意するが持ち込みも自由だった。火の中で芋を転がす人もあれば、串に刺した肉を用意する人もいる。カイナ市場に並んだ魚を持ってきて焼く人までいる。神社に肉や魚を持ち込んでいいのだろうかとオリベは思うが、宮司はお構いなしの様子であった。
 そろそろいいか。オリベは串の一つを手にとると焦げ目のついた餅にかじりつく。一緒に来ていたツキミヤもまた同様だ。煙が昇っていく様を見た。昨年の願い達が空へ昇っていく。
「オリベ、俺は教授になろうと思うんだ」
 串一本食べ終わった頃、唐突にツキミヤが言った。
「ん?」
「色々考えたんだけどさ、将来的に研究を続けていく事を考えたらそれがいいと思うんだ」
 と、ツキミヤは言った。特に俺は反対されてる立場だから、と。
「肩書きというのは重要だよ。もし教授職までいければ両親もあるいは……」
 そう言って、もう一つ串を取った。
「……そうか」
「オリベはどうするつもりなんだ?」
「まだ一年だぞ、俺達。そんな事考えているのはお前くらいだよ」
 前から意識の高い奴だとは思っていた。だが、ツキミヤがもうそんな事まで考えている事に驚いた。オリベもまた餅を食べ終わり、もう一つの串に手を伸ばした。ふうふうと冷ましていると後ろから声がかかる。
「よお、ボウズ」
「あ、これはどうも」
 見れば宮司で、手にいくつかの串を持っていた。食欲旺盛な参拝客の腹を満たす為、宮司も忙しい。
「夢遊病は治ったのか?」
「いやあ、あれはまあ、なんとか」
「夢遊病?」
 ツキミヤが聞いてくる。
「ああ、こいつさ、ポケモンの悪霊に憑かれたから祓ってくれと言ってきた事があって」
「いやあ、あの、それはですね……」
「まあ、その様子だと大丈夫そうだな?」
 返事に窮している様子を見せると、宮司はがははと笑って、去っていった。
「悪霊って何だ?」
「……人を無気力にする悪霊だよ。取り憑かれると大学をサボるようになる。前期でやる気が無かったのはその所為でね」
 オリベは嘯いて言った。頭の中で『失敬な』という声が聞こえたが無視した。
「……なるほど?」
 ツキミヤもあくまで冗談と分かって返事を返す。
「なんとか祓えたんで、おかげさまで今は真面目にやってる」
 そう言うと、『よく言う』と声が聞こえた。
 実際は祓えてなどおらず、もちつもたれつといったところだ。身体を乗っ取られるのが嫌で前期と態度を変えたお陰で、テストの出来はまずまずだと思っているが、そこから更に上乗せ出来たのは間違いなく憑いている誰かのお陰だ。後期の単位取得と成績は期待できそうである。
 同居人はポケモンであるという。その正体は未だに不明だ。だが確かな事はこいつは勉強熱心であり、頭もいいという事だ。さすがに英語・数学に関してはお手上げの様子であったが、この国の言語を使う限りにおいては、敵う気がしないとオリベは思う。
『なあユウイチロウ、私はむこうのが食べたいな』
 そんな声を聞いて、宮司の行った方向を見ると、宮司が何か火の中から掻き出していて、ごろごろと丸い物が転がり出た。それは焼いたぼんぐりの実だった。硬い殻を叩いて、軍手をつけた宮司が開いた。中から香ばしい匂いが漂う。
「焼きぼんぐりか。うまそうだな」
 ツキミヤの視線もいつの間にかそちらに向いていた。丸々一つを宮司から分けて貰い、半分ずつ食べた。身体は一時的に同居人に譲ってやった。
「なあ、ツキミヤ」
 再び身体の主導権を戻した時、不意にオリベは尋ねた。
「お前、どうして、俺に声をかけたんだ」
「どうしたんだ急に」
「お前みたいに前を向いている人間にとってさ、俺みたいなのは足を引っ張るだけじゃないのか」
「…………」
 ツキミヤはしばし考え込むような素振りを見せて、
「でも君は変わったじゃないか」と、言った。
「……そりゃそうだが」
「確かに前期の君はひどかったさ。どうしようもなかった。それは俺も認めるよ」
「だよなあ」
 オリベは同意した。ツキミヤもずいぶんはっきり物を言う。
「……もしかしたら、昔の俺に似てたからかもね」
「昔のお前?」
「昔の俺も無気力だった。将来なんか決まってて、だから何の為に勉強するんだってそう思ってた。俺の目を開かせてくれたのはクレフなんだ」
 ツキミヤが目線を上に向けた。Qのアンノーンはさっきから立ち上る煙の周りをぐるぐると飛んでいる。何が楽しいのかオリベにはよく分からない。一瞬目があった気がするが、すいっと向きを変え、そしてまた回り出した。
『やっぱりあいつ、私に気付いてる』同居人が言った。
「中学生の時、実家で新しい木の実を栽培しようって事になって、近くの山を伐採したんだ。その時に色々な土器とかが出てきて、緊急発掘になった」
 緊急発掘。建物を建築する工事の際などに遺跡が出た場合、急遽行われる調査の事だ。
「発掘隊がやってきて、近所の人にも手伝って貰って……そうしたらある日、妙な干からびた曲がりくねった棒みたいのがたくさん出てきたんだ。何だろうってみんな首を傾げてた。いろんな形があってそれを並べて遊んでいたら、その晩に高熱を出した」
「おい……」
「その時に頭の中で喉が渇いた喉が渇いたというような声を聞いた気がしたんだよ」
「で、どうしたんだ」
「ちょうど収穫した木の実が家にあって、それを絞った。それで曲がりくねった棒の一個一個に絞った果汁をかけたんだ。妙な確信みたいなものがあってね……。そしたら、そのうちの一個だけ起き上がって宙に浮いた」
「それがあいつか」
 相変わらずぐるぐると飛び回っているQのアンノーンを見てオリベは言った。
「そう。次の日には熱が引いてた。えらい目に遭ったけれど、それで俺は好奇心に取り憑かれてしまった」
 メッセージを貰ったような気がするんだとツキミヤは言った。
「Q、つまりクエスチョン。疑問、問いかけ……尤もアンノーンの形も今見つかってる種類を無理矢理アルファベットに当てはめているだけだ。批判も多いし、今後分類が変わる事は大いに有り得る。だが俺はそう読む事にした」
「そういう風に受け取れるから、お前は違うんだ」
 オリベは言った。誰にでもきっかけはある。だがきっかけはきっかけでも自分とは質が違うと思った。自分は所詮、離れたくてここに来たに過ぎない。乗っ取られたくなくて頑張ったに過ぎない。行動原理が嫌悪からきているのだ。結局、自分はどうしたいのか、どうなりたいのか。結論は出ていない。
 けれど今日、一つだけ気付いた事があった。
 自分はツキミヤに憧れている。そして対等になりたいと思っている。
 この男と対等になりたいのだ。

*

「しばらく里を留守にする事になりました」
 ある日、隼人がそう言った。
 何故と問うと、今までの経緯を説明された。大抵は隼人の書いた記録にあるものであったが、早い話が戦に行くという事だった。ついにこの里もどちらかに協力する事に決めたらしい。その支援として、彼や里の何人かが赴く事になったのだという。当然に私は反対した。何も君でなくてもいいじゃないか、と。だが、
「いいえ、私でなければだめなのです」
 と、隼人は言った。
「私の役割はいわば記録係のようなもの。里の誰もが字を書ける訳ではないのですから」
 だったら私も行くよ。そう言うと隼人は首を振った。
「だめです。あなたは里の象徴なのだから、ここにいてください。ここで私の帰りを待っていてください。父は支援と引き換えにこの里の自治を守るつもりなのです。あなたが出てきたら意味が無いのです」
 それに、と隼人は付け加える。
「それにね、これは私の望んだ事なのです」
 君の望んだ事? 私は尋ねた。すると隼人は私の名を呼び、言ったのだった。
「私はね、人間になりたいのです」
 ああ、ついにそういう方向に向かったか。そう私は思った。だって彼は続けて言ったのだ。
「子が成せないと分かった時から、私は人間ではなくなった」と。
 家督を弟に譲り、人たる事を諦めた。日々を記録しながら生きようと思った。けれど我慢できなくなったのだと。いや、むしろ記録すればするほどに自身の本心が明らかになったのだと彼は語った。
「そして私は見つけた。人間になれる方法を見つけたんです」
 それは家の役に立つ事だった。里という形を守る為に人柱になる事だった。

*

 三年になってコースが分かれた。ツキミヤは当初の希望通り、考古学のほうへ行った。一方のオリベは民俗学を選んだ。どうせ行くなら歓迎される所がいいだろうとニシムラ研を選ぶ事にしたからだ。同居人もそれに賛成した。
 初めてのゼミで顔を合わせると男女比は三対ニくらいで比較的女性の割合は多いほうだった。学年全員の顔など当然把握していなかったので、初めて聞く名が多い。特に女性陣はそうだった。当然、男子学生達の話題は彼女達に集中した。
「やっぱタテバヤシだよな」
「タテバヤシだな」
「あいつは頭一つ飛び抜けてるな」
 学食でそういう話になった。くだらない話題だとは思ったが、適当に相槌を打っておいた。確かに容姿で選ぶならそうなる。それにはオリベも異論が無かった。タテバヤシは美人だと思う。顔はテレビドラマの女優並に整っているし、綺麗な長い髪にウェーブがかかっていて、歩く度にふわっと舞った。だが同時に苦手なタイプだとも思った。そうしてその予想は的中した。きっかけはゼミでの議論であった。
 確かあれは空白の時代≠ニ呼ばれる時期について、教授がゼミで取り上げた時の事だ。ホウエンに残された文字資料におけるポケモンの表記、それが歴史のある期間においてひどく乏しくなる、という話であった。これはポケモンという存在に対する大きな価値観の変化であると教授は位置づけており、重要視していた。
 それに対する意見をオリベが述べた時、タテバヤシが別の意見で反論した。すると『出せ』と同居人が言ったのだ。同居人は今まで読んだ本の事例を五つくらい挙げて、真っ向から対抗した。それでタテバヤシとの関係がひどく悪化したのは言うまでも無かった。
 タテバヤシは事あるごとに挑んでくるようになった。だがその度に同居人は彼女を返り討ちにした。それはゼミにおける一種の名物となり、それでますます教授からの評価は上がったのだが、ますます彼女を意地にさせてしまった。彼女とのちょっとした戦≠同居人は楽しみにしていたようだが、自分の身体で好き勝手語られるオリベとしては気が気ではなかった。
「オリベ君、椅子は元に戻してくれないかしら」
 ゼミの教室を出る時によくそんな事を言われたし、他の件でもたしなめられた。言葉に棘を感じた。正直あまり近づきたくなかった。そんな状態が続いていたものだから、
「オリベ君、ちょっと話したい事があるんだけどゼミの後いいかしら」
 などと言われた時は、本気でゼミをサボろうかと思った。尤もそんな事を同居人が許すはずもなく、結局は出席したのだが。
 ゼミが終わり、少し時間をずらして待ち合わせ場所の学食に赴くと、窓際の席で彼女は待っていた。コーヒーをついで席につくと、「急に呼び出して悪かったわね」と彼女は言った。
 今度は何のいちゃもんだろうか。オリベが構えていると
「単刀直入に言うわね」
 と言葉が飛んだ。
「オリベ君、私ね、ツキミヤ君と仲良くなりたいの。紹介して貰えないかな」
 女というのは身勝手な生き物だ。

*

 隼人から手紙が届いたのは、彼が里を発って、一月ほど経った頃だ。
 そこには我々の里がついた陣営の、様々な事が記されていた。驚くべき内容ばかりであった。
 彼らは神を従える事が出来るのだという。彼らは自ら剣を振るい戦うばかりではない。人ならぬ者達を捕らえ、従え、戦場へと送り出すのだという。従えるには不思議な木の実で作った容れ物を用いるという。不思議な木の実の名はぼんぐりと言うらしい。尤も里の神を捕らえられるような性能は無いらしく、せいぜい特定の土地を持たぬ移動する野獣達、あるいは土地神の土地に住まわせて貰っている下級の者達、成獣にならぬ者達を従えるのが主と言う。
 だが、私はこれを脅威に思った。何せ人間は記録が出来る。記録が出来るという事は知識を蓄積していくという事だ。今は無理でも世代を重ねるごとに容れ物はより丈夫に、高度になっていくだろう。いずれは神と呼ばれる私達でさえも従わせられるのではないか、そう思えてならなかった。

*

「ツキミヤもツキミヤだ。あんな女のどこがいいんだ」
 オリベは帰り道にぶつぶつ呟いていた。
 あの二日後、オリベはしぶしぶツキミヤにタテバヤシを紹介した。紹介してやる義理など無かったが、顔を突き合わせる度にせがまれるのはまっぴら御免だった。ただでさえ、ゼミの対決で神経を擦り減らしている事もあった。それで当人に悪いとは思ったのだが、すぐに紹介してやった。会ってやって欲しいと言ったらツキミヤはあっさり「いいよ」と言った。
「ねえツキミヤ君、私と付き合って貰えないかな」
 開始早々にタテバヤシがそう言って、紹介の席にいたオリベはコーヒーを噴き出しそうになった。論文は結論から書け。そんな事を常日頃言われてきたニシムラ研究室ではあったが、いきなり結論が飛び出した。尤も、紹介しろなどと言うからにはそれが目的に決まっていたのだが、それにしたって早過ぎだろうとオリベは思う。だが、
「いいよ」
 あっさりツキミヤが言って、今度は飲み込んだコーヒーが気管に入りかけ、オリベは激しく咳込んだ。
「お前ら早過ぎるだろ!」
 オリベは突っ込んだが、そうかな、そうかしらと同じように二人は返したのだった。
「こういうのは早いほうがいいのよ、オリベ君」
「そうそう、付き合ってみないとよく分からないしね」
 そう彼らは口を揃えた。初見にしてこのシンクロの仕方は何なのだろう。まるでエネコロロを被ったみたいにタテバヤシは穏やかで、終始二人はいい感じだった。それは傍から見れば美男美女のお似合いカップルであり、見る者に説得力を与えた。
 だがオリベは終始不機嫌だった。そうして帰り道に愚痴っている訳である。
『ユウイチロウは彼女が嫌いなのかい』同居人が問うて
「当たり前だ!」と、オリベは吼えた。
『まるで姑だ』
 同居人は呆れたように言った。
『私は嫌いじゃないんだけどねえ』同居人は続けてそう言ったがオリベの耳には入らない。
「どうせすぐ別れるに決まっている」と、オリベはぼやいた。
 だが、二人は別れなかった。一緒に行っていた初詣とどんど焼きは、ツキミヤに彼女が出来た三年次に、オリベと同居人だけの侘びしいイベントとなり、ツキミヤとも顔を合わす頻度が激減した。もちろん友人としての付き合いは継続していたのだが、オリベはぶーぶー文句を言い続けていた。ゼミでの議論がマイルドになったのは助かったが、タテバヤシが明らかにそわそわしているのを察知したオリベは、ゼミの間中、機嫌が悪かった。
 ただ、その分だけ暇になったオリベは同居人を様々な場所に連れて行った。書店や博物館、休日になれば足の届く範囲で伝説の縁の地に足を伸ばした。だから同居人はそういう部分も含めて彼女には感謝していたし、好感も持っていた。知識や情報を入れるのは怠っていなかったが、自身の決定的な手がかりはまだ掴めていなかったのだ。

 四年の初め頃に一度、下宿の大家に実家から電話が入った。弟からだった。なんでも父が倒れて入院したので、一度顔を出したらという事だった。四年次ともなれば授業も極端に少なくなる。ゼミを休む旨をニシムラ教授に伝え、オリベは飛行機でカントーに飛んだ。初めての飛行機に同居人は興奮を隠せない様子であった。だが、オリベがカントーに降り立つと、父は既に仕事復帰した後であった。
「おーユウイチロウ、久しぶりだな。元気だったか?」
 タマムシシティ、植物園を兼ねた広いポケモンジムは日差しがよく照ってやや蒸し暑かった。トレーナー達の集まるカフェテラス、そこで父と息子は約三年ぶりの再会を果たした。
「親父こそ、もう大丈夫なのかよ」
 オリベがそう尋ねると、
「大した事は無かったよ。悪かったな、わざわざ来させて」
 と、父は言った。三年も帰らないところを見ると、ホウエンはよほどいい所なんだろうな、とも言った。
「悪かったよ」
「いや、分かってる。お前母さんと仲悪いし。正月でも俺は出ないといけないから、家にいてもっていうのは分かる」
 というのもここのジムリーダーはタマムシシティでも有数の旧家の出であるらしく、正月に色々な式典があるからだった。それで父も駆り出される。もちろん、その分の報酬は貰えるし、頼られ信頼されている証でもあったのだが。
「大学はどうだ」
「まあまあうまくやってるよ」
「単位取れてるのか」
「人並以上には。卒論も順調だから心配しなくていい」
 オリベはさらりと言った。本当の事だった。頑張っておいてよかったと思った。
「へえ、お前がねえ」父はなんだかえらく感心している様子だった。ちょうどいい、とオリベはさらにその先を切り出した。
「親父、相談がある」
「何だ?」
「学費の件」
「学費?」
「進学したいんだ」と、オリベは言った。
「教授から修士課程に進んだらどうかと勧められていて」
「お前が……?」
 父が問うとオリベは頷いた。
「博士過程も視野に入れたい。どうせ院に行くならそこまで行きたいと思ってる。もちろん、ユウジロウの件もあるだろうから、都合がつかないなら諦める。あるいはこっちで方法を探そうと思ってるんだ」
「………………」
 父はしばらくあっけに取られていたが、
「……そうか、三年経てば変わる事は変わるもんだな」
 と、何か納得したように言った。
「誤解しないでくれよ。別に母さんの為とかじゃなくて」
「分かってるよ」
「突き詰めてみたい事が出来たんだ。学士だけでは時間が足りなさそうなんだ」
 オリベは慎重に言葉を選んだ。が、結局言葉足らずになってしまったような気がした。進学は教授の勧めもあったし、同居人の望みでもあった。同時にツキミヤと対等になりたいという自身の願望でもあったように思う。だがそれは果たして純粋な動機と言えるのか。オリベにはいささか自信が無かった。だが、
「どうやら、親父の血はお前のほうに出たみたいだな」
 何か宿命を受け入れたように父は言った。
「もちろん、ユウジロウの件があるのは分かってるから、無理にとは言わない」
「いや、いいよ。あいつはね、これ以上は進学しない。就職するそうだ」
 そう言うと父はアイスコーヒーをストローで啜った。
「え……」
 意外な言葉に、耳を疑った。父がストローを口から外し、話を続ける。
「ポケモン関連の仕事に就きたいんだそうだ。ただあいつは理系じゃないから、営業とか企画とか、まあ出来る事を探してる。今は就職活動中だ。まったく誰に似たんだか」
「…………」
 今度はオリベがあっけにとられる番であった。三年、変われば変わるものだ。いつの間にかそんな事になっていようとは。同時に母は荒れたろうと思った。あれだけ従順だった弟が突然に裏切ったのだ。仮にも祖父と同じ大学を出る弟は学歴も味方して、それなりの職にはつくだろうが、アカデミックな世界以外のポケモンを持ち出された母は心中穏やかでなかったに違いない。
「もちろん、ユウジロウの選択が進学だったとしても費用は出したさ。俺自身、好き勝手生きてきた人間だからな。それくらいはするつもりだ」
 父は言った。彼自身、自分の親の意図に反したのには少なからず負い目があったらしかった。父は頂には立てなかったから、それもまた影響したろう。だが、父は立派に得たものを生かしている。それで十分ではないかとオリベは思う。
「すまない。そろそろ仕事に戻るよ。よかったら夜に飯でも食おう。もう酒は飲めるんだろう?」
 そう言って父は席を立つと、植物のアーチの向こうへ消えていった。
『君の親父さんは立派な人だね』不意に声がして、「ああ」と、オリベは返事をした。

「オリベ、俺、結婚する事にした」
「ぶっ」
 久しく二人で白羽波を訪れた折、突然ツキミヤがそう言って、オリベは飲んでいた茶を噴き出した。彼がそう宣言したのは、学士を経て院に進み、晴れて博士号を取った頃の事だった。
「まじかよ」
「もう六年付き合ってるんだからおかしくないだろ」
 何を驚く事があるのだとツキミヤは言った。博士号がとれたら、籍入れるつもりだったのだとも言った。
「むしろお前が大学に残っている事のほうが驚きだよ」続け様にそう言われた。
「悪かったな」と、オリベがいじけた声を上げると「そっちも博士号おめでとう」とツキミヤは付け加えた。
「キャモメ絵馬で願掛けした甲斐があったね」
「なくても取れてたさ」
「その言い草は民俗学博士としてはどうなんだい?」
「御利益は必要ないんだ。俺には夜寝ている間に仕事してくれる妖精がついてるんでね」
 オリベがそう嘯くと「それは頼もしい」とツキミヤは笑った。
 ツキミヤとタテバヤシは籍を入れたが、タテバヤシがツキミヤ姓になっても、あまり変化は無かった。旧姓タテバヤシのほうは、海の博物館の学芸員になったらしい。オリベとツキミヤの二人はそれぞれのコースの助手という形で大学に残り、しばらくはそんな状態が続いた。変化が訪れたのは、やがて講師になり、助教授に抜擢された頃であった。
「できちゃったよ」
 その頃、一時的にジョウトの大学で講師をしていたオリベは電話越しでそう言われた。とうとうタテバヤシとの間にガキができたらしいとオリベは悟った。
『ははあ、出世にかこつけた計画的犯行だな』そう同居人が言うので、
「計画的犯行か?」と、尋ねてみる。すると、
「勿論」という返事が返ってきて、別の意味で呆れた。ツキミヤらしくはあると思った。早くも名前に悩んでいるらしかった。そうしたら数日後にまた電話がかかってきた。
「名前、決めたわ」
「わざわざそんなんでかけてくるな!」
 オリベは怒鳴ったが、名前だけは聞いてやった。
 ツキミヤジュニアの名は、コウスケといった。
 年賀状で成長過程を追ってはいたが、実際にその目で顔を見たのは、助教授としてカイナ大に戻ってきてからだった。

「先輩、ご無沙汰してます。ツキミヤ教授がお待ちしていますよ」
 そう言われ、フジサキ助手に案内された。フジサキはオリベが修士課程に進んだ頃、入ってきた学生だった。たまたまオリベとサークルが一緒になり、どういう訳か妙に慕われて今に至っている。通されたのは人文科学の研究棟の隅のほうで、かなり広い部屋であった。
「や、久しぶり」
 そう言ってツキミヤがオリベを迎え入れた時、部屋に息子であるコウスケが一緒にいた。今年で五歳なんだとツキミヤが言う。
「今日来るって聞いたから連れて来たんだ」
 そう言ってしゃがみ込むと息子の頭を撫でた。息子を見せたくてたまらなかったらしく、満面の笑みを浮かべてオリベを見上げる。一方のオリベは苦笑いを浮かべた。
「さ、コウスケ、挨拶しなさい」
 息子の両肩に手を乗せて親バカ親父は言った。だが、当の息子のほうは
「やだ。このおじさんこわい」
 そう言って、父親の手を振りほどくと部屋の奥に引っ込んでしまった。
「…………」
 オリベが顔をひきつらせていると、いやあごめんごめんとツキミヤが笑う。
『あーあ、嫌われちゃったね』と同居人が言って、うるせえとオリベは小声で呟いた。
 二人はしばしテーブルを囲い茶を飲みながら、談笑した。時々ツキミヤジュニアが飛び回るクレフを追いかけて、ばたばたと後ろを駆けたり、父親の膝に乗りに来たりしたのだが、相変わらず警戒を緩めてはいないらしい。とうとうオリベの隣に座る事はなかった。
 そのうちに会話も落ち着いてきて、最初に部屋にある『それ』に気付いたのは同居人だった。
『ユウイチロウ、奥にあるのは何だろう』
 そう同居人が言って、オリベも奥に視線を投げた。
 見ると、ツキミヤジュニアが逃げ出そうとするクレフの胴を引っ掴んだままそれをじっと見つめ合っていた。ジュニアと同じくらい、それは木像のようだった。
 オリベは席を立ち、つかつかと歩いていく。木像を見下ろした。入れ替わりにツキミヤジュニアがばっと駆け出して父親に抱きついた。
「……ネイティオか」
 と、オリベは言った。眼下で立っているのは霊鳥の木像だった。左目だけを見開いたそれはただ沈黙し、立っていた。細かい細工の入った台座の上に立ち、大きな翼にも花や草木の模様が彫られている。いい品だと思った。
「いいだろ、それ」
 ツキミヤが続く。オリベの隣に立って言った。
「ちょうど君がジョウトに行った頃に緊急発掘があって、その時に出てきたものだ」
「触っていいか」
「そっとなら」
 オリベはその頭に触れ、しゃがみ込む。まじまじとネイティオと見つめ合った。右目は閉じられていた。左目には黒硝子と思われる丸い球体がはめ込まれている。何で片目なんだろう、そう思った。異様な雰囲気の像であった。それに何か執念のようなものをオリベは感じ取った。
「譲って貰ったんだ」と、ツキミヤは言った。
「これをか?」
「そうなんだ。価値のある物が出てきた場合って、土地の権利者と発掘者、半々に権利があるのは知ってるね」
「ああ」
「でも地主が気持ち悪がってしまって、持ってけって譲ってくれたんだ。さすがに悪いのでいくらか払ったけどね」
「いつの時代のだろう。よくこんな完全な形で出てきたな」
 オリベが言うと
「まったくだ。なんだか執念を感じるよ」
 と、ツキミヤも返した。
 オリベはしばらくじっと木像を見つめ撫で回していた。彼は絵を描かせてもうまくはないし、ましてや目利きなど出来ないが、単純にこれはいいと思った。作者の念と言ったらおかしかろうか。そういったものが感じられて、それに魅せられてしまったのかもしれない。地主は気持ちが悪いと言ったが、それはアクが強いという事だ。誰かの嫌悪を呼び起こす物は別種の人間を強烈に惹き付ける。さっきから頭の中で同居人も感嘆の言葉を連呼している。『いいなあ、これいいなあ』ずっとそんな事を言っていた。民俗学的にも興味深い物だとオリベは思った。
「……ツキミヤ、これ譲ってくれないか」
 唐突にオリベは言った。
「やだ」
「だよなあ」
 もちろん予想はしていたのだが。
「そうだなあ、俺が死ぬか行方不明になったら譲ってやってもいいぜ?」
 ツキミヤは冗談めかしてそう言った。
「分かった。じゃあその時は引き取りに行く」
 オリベもそれに乗ってそのように返した。
 二人はまたしばし談笑し、やがてオリベは自分の部屋の整理があるからと出て行った。
「へんなひとだったねー」
 オリベの足音が聞こえなくなった頃、息子がそう言って、父親は顔をしかめる。
「おいおい、それは無いだろ。あれは父さんの大事な友達だぞ?」
「だってー」
「だってなんだよ?」
「あのおじさん、はんぶんなんだもの」
「半分?」
「うん、はんぶんなんだ。一人なのにはんぶんずつにわけて二人ですんでるの。二人で一人!」
 鍵型アンノーンをぎゅっと握ったまま息子は言った。小さい子の見ている世界は不思議だとツキミヤは思った。

*

 唐突に右目が像を結んだのは、手紙を読んだ二、三日の後だった。
 私の目に映ったのは、見るも無残な光景であった。人や獣があちこちに倒れていた。陣を組んでいた柱は焼け焦げ、中の者達は誰一人息をしていなかった。その多くは血を流し地面に伏せっていた。青い色の旗は無残に折られ、大将と思われる男の首は無くなっている。首から上が持ち去られていた。
 そのすぐ近くに見覚えのある人物が倒れているのを私は見てしまった。
 震えた。私はこんなもの、見たくなかった。
 彼は喉笛を真っ赤に染めていた。
 すぐに首長に伝えるべく、里の屋敷に私は飛んだ。
 かの国に迎えを出してくれ。早く連れ戻さないと、死んでしまう!
 後悔した。やはりあの時に止めておくべきだったのだ。念の力で足の骨を折ってでも止めておくべきだったのだ。
 私は飛んだ。迎えの到着を待ってはいられない。私自身も飛んで行き、隼人を連れ戻そうと思った。それなのに行けなかったのは、兄弟達が邪魔をしたからだった。
 何故邪魔をするのか! 早く行かねば死んでしまう! そう言ってはねのけようとしたが多勢に無勢であった。私の翼は兄弟達の念で重くなり、ついに私は墜落した。そうして、地に墜ちた私に兄弟達は言ったのだった。
 我々が右目に見る絵=Aそれは不可避である、変える事は出来ないのだと。
 お前は隼人の死を見た。だからそれは不可避だと。
 私も見た。私も。兄弟達は口々にそう言った。
 だがお前は違うのだと彼らは言った。
 あの絵の中にお前はいなかった。いなかったという事は不確定なのだ。生きて帰るかもしれない。流れ矢に当たって傷を負うかもしれない。あるいは狂犬に噛み付かれて命を落とすかもしれないと。
 ならば足止めすべきだというのが兄弟達の意見だった。
 兄弟達は言った。隼人はお前の死を望まぬと。
 私は涙を流した。たとえ矢に当たってもいい、噛み付かれて死んでもいい。彼の所へ行きたかった。けれども兄弟達はそれを許さなかった。ただひたすらに翼が重たかった。

*

 ツキミヤが教授になったのはそれから三年後、異例の若さでの出世であった。教授ともなれば、使える予算や権限が大幅に増える。それはツキミヤの欲しがっていたものだった。
 これで思い切りやりたい事がやれる。祝杯の席でツキミヤは語り、笑顔を浮かべた。その表情は歳を重ねただけでオリベと出会った頃と変わっていなかった。まだ青い学士の一年だった頃に教授になると青年は言った。その言葉通りのものを彼は手に入れたのだ。
「とうとう例の発掘か」オリベが尋ねると、
「勿論」と、ツキミヤは答えた。前々から目をつけていた土地があった。
「他大学とも連携している。国に予算を申請中だ。たぶん下りると思う」
「……敵わんよ。お前には」
 オリベはそう言うと、ぐびっとワインを一口、飲んだ。
 おそらくは助教授の頃からあちこちで手を回していたんだろうと想像した。ツキミヤは確信していたのだろう。この時期に教授になれると。確信を持って行動していたのだ。
 オードブルや菓子の並ぶテーブルの真ん中に目をやる。大きめのワイングラスが置いてあって並々と赤い液体が注がれたそこに、Qのアンノーンが胴を浸す形で刺さっていた。あれは、飲んでいるのだろうか……? 無機物系ポケモンはよく分からない奴らが多いと思った。
 などと余計な事を考えていたら、減っていたグラスに追加のワインが注がれた。ツキミヤであった。
「オリベはどうなんだ」ツキミヤが尋ねる。
「どうって」
「昇進だよ」
「さあ、どうだろうなぁ。教授次第じゃないか」
 ニシムラ教授の顔を思い浮かべ、答える。彼は引退が近かった。
「うまくやれよ? 昇進したら何か祝いをやらないとな」
「なるようになるさ」
 オリベはそう返事をすると、ワインを飲み干した。

*

 隼人が死んだという報せを受け取った。
 陣が奇襲に遭った。犬が放たれて、黒い波となって押し寄せた。その時に喉笛を噛み千切られて、隼人は死んだ。それは右目に映った像と同じ情報だった。
 それは名誉の戦死だった。そうして里の首長を輩出してきた彼の家は、隼人を人間として認めたのだった。その証として、彼は家長と同等の墓に入る事を許された。私が口添えした事もあったし、彼の父親や弟もそれを望んでいるようだった。彼は彼の望み通り「人間」になった。なったはずだった。
 だが私には分からなかった。ただ釈然としない気持ちだけが胸にあった。「人間」であるという事は、「人間」になるとはどういう事なのだろう。分からなかった。
 隼人がいなくなって、字を教えてくれるニンゲンはいなくなった。新しい師を求める気にもなれず、しばしば山のお堂で過ごす事になった。職人達は相変わらず手を動かして、私達の姿を彫っていた。隼人が死んで、彼らはますます仕事に精を出しているように思われた。皆、彼の死を悲しんでいた。だからこそ里の里たる形を遺そうとしていたのかもしれなかった。
 日に日に私達を模した像は増えていった。彼らはしばしばこう言った。いずれここに千の像を並べようと。
 だが私は見てしまった。呪わしい右目で見てしまった。
 瞳の奥で、お堂が真っ赤に燃えていた。

*

 教授になってからのツキミヤは輪をかけて忙しそうであった。就任一年目はあっという間に過ぎ去って、年の終わりに国の予算が下りた。だから二年目は尚の事忙しくなった。ツキミヤは担当する授業がある日以外は大学外にいる事が多くなった。
 オリベにも一つの節目が訪れた。弟から父の訃報が伝えられたのだ。ちょうど、前期の考査が終わった頃で、暑い日であった。じわじわみんみんとセミが合唱をして、時折テッカニンの騒音が混じっていた。
 同居人と共にカントーへ飛んだ。久方ぶりの帰郷であった。博士号を取った折、助手になった折、一時的にジョウトに赴任した折などには二人で会っていたのだが、それからはずいぶんと間が空いてしまっていた。
『こういう時、今風には何と言うんだい』
「それはお前なりに気を遣っているのか」
『まあ……』
「ポケモンに気を遣われるとはね」
 正直なところ、報せを受けただけではあまり実感が湧かなかった。祖父はまだ健在であったから、父が先に逝くとは思っていなかったのだ。空港に降り立ち、電車を乗り継いでタマムシシティに到着しても、やはりピンと来なかった。ただ、確かな時間の経過を感じた。かつての学校の帰り道を通って実家に向かうが、周りの風景が所々変わっていたからだ。
 かつてあった個人経営のスーパーはチェーン店に置き換わって、ニャース達が日向ぼっこをしていた空き地には六階ほどのマンションが建ち、日陰を作っていた。ライフステージと共に付き合っていく人間が移り変わるように、町もまた少しずつ変化をしているようだった。
 緩やかな坂道を登りきって、右折と左折、直進を一、二回ずつ配分した頃に見慣れた一軒家が見えてきた。インターホンを押すと、
「はい、オリベです」と懐かしい声が聞こえた。弟であった。
「俺だ」と、返事をする。
「兄貴か! 今開ける」と、すぐに声が返って来た。
 久しぶりに見た弟の顔は当たり前でがあるが歳を食っていた。心なしか少し父に似ている気もしたし、祖父の面影もあるように思われた。お互い老けたなと言うと、もう四十代だからなと返された。
「親父は?」
「病院から葬儀場に搬送させたよ。母さんとじいちゃんがついてる」
「そうか」
「明日の夕方から通夜になる。喪主は母さん。大体の人には俺から連絡を入れておいたから」
 明日、車で行こうと弟は続けた。
「分かった。……悪かったな。何から何までやらしちまって」
「気にするなよ。こういうのは近くにいる人間の仕事さ」
 そんな会話をしながら二人はリビングに入った。久々に入ったそこは以前とあまり変わっていなかった。小さな額縁に入った版画は相変わらずの位置にあったし、ニョロモを模した置時計も昔のままだった。
「コーヒーでいいかい」と弟の声がして、「ああ」とオリベは答えた。
 ほどなくして、コーヒーとクリーム、シュガースティックが盆に乗せられ運ばれてきた。だがコーヒーには何も入れなかった。オリベはブラックのままそれを飲んだ。
「兄貴、砂糖入れなくなったんだな」
「二十年も経てば色々変わるさ」
「そうだな……」
 そうして二人はしばし黙った。口に広がった味は苦かった。再び会話が再開されたのは、カップが空になってからであった。
「三日くらい前に検査入院したばかりだったんだ。まさかこんな事になるなんて」
「前から悪かったのか?」
「体力は落ちてたね。それで仕事も減らして、週に二、三度にしていたんだ。親父は病院なんてと嫌がっていたけどな、歳が歳だからって何とか説得して入れたところだった」
「……そうか」
 オリベは短く返事をする。
「親父のポケモンは」
「おそらくはジムのほうで預かって貰う事になる」
「そうだな……」
 そうして兄弟はぽつりぽつりと会話を続けた。兄と弟でこんなに長い時間話した事はかつて無かったかもしれなかった。父の話をし、今の仕事の話をした。父から断片的に聞いてはいたが、弟はポケモン関連の書籍を出版する会社に勤めているらしい。ポケモンと関わる人間にアポを取ったり、取材をしたりする事が多いという。父の影響かな、と弟は語った。久々の再会であったが、父を通して多少は情報も流れている。
「大学に残るのかと思っていたよ」
「俺も兄貴が残るとは思ってなかった」
 そう言い合って彼らは苦笑いした。
 人生で三度、その人の為に人が集まると言われている。一度目は生まれた時、二度目は結婚をした時、三度目は葬式の時だ。父の通夜にはたくさんの人々が訪れた。かつてのトレーナー仲間もいたし、親戚もいた。遺族席に座り、焼香していく人々に頭を下げながら、改めて父という人間を思い返す。弟の隣で同じように母が頭を下げていた。この人は今、父の死をどう受け止めているのだろうか。そんな事をオリベは思った。
 焼香の列に黒い着物を来た婦人と少女が並んだ。婦人のほうはタマムシのジムリーダーだった。ジムには何度か足を運んでいたので顔は知っている。唇の下に一点、ほくろがあって覚えやすかった。一緒にいる少女は彼女の娘なのだろう。上品な面立ちの少女であった。
 一通りの参列者を受け入れた後、上の階に上がった。畳が敷かれたそこでは、既に焼香を済ませた人々が靴を脱ぎ、料理に手をつけ、閑談していた。腹が減っていたので、少しつまもうと思い、テーブルの近くへ寄ったところで声がかかった。
「この度はご愁傷様でございます。心よりお悔やみ申し上げます」
 そう言って正座し、お辞儀をしたのは、先程のジムリーダーであった。さすがにタマムシの旧家の出とあって立ち振る舞いが上品である。脇にいた娘がそれに習った。
「これはどうも……恐れ入ります」
 オリベは反射的にそう言って、彼女の動きに合わせ、頭を下げた。
「ユウイチロウさんですね。この度は突然の事で」
 二、三度顔を合わせただけなのにしっかり認識されている事にオリベは驚いた。
「お父様には大変お世話になっておりました。我が家は代々ジムリーダーを努めておりますが、お父様には新たに学ばせていただいた事も多く……」
 そう言って、ジムリーダーは様々な思い出を語った。以前に語ったフードの事、ポケモンが脱走した時の事や、逆に野生ポケモンが入り込んだ時の事。ポケモンの体調不良をいち早く父が察知した時の事……。いつの間にかトレーナー仲間や、同じように参列したジムトレーナー達が話の輪に加わっていた。
 ああ、よかった。父はちゃんと愛されていたのだ。そう思った時に、水門が開いて水が流れ込んだような感覚があった。今までピンと来なかった父の死の実感がようやく押し寄せてきた。ああ、亡くなったんだ。父は本当に死んだのだ。
 思い出話が盛り上がる中、そっと席を外した。会場の庭に一人出て、オリベは静かに涙をこぼした。
 翌日に告別式を終えて、家に帰った。今度は骨になった父、母と祖父も一緒だった。こうして実家で顔を合わせるのは何年ぶりだろうと思った。
 母は黙っていたが、祖父には色々聞かれた。今、どの大学で何をやっているんだ。研究分野は? そんな話だ。大学に残って何かしているらしい情報だけは伝わっていたようだった。
「じいちゃん、兄貴はカイナ大の助教授になったんだ」
 弟が言った。「ええと、分野は何だっけ?」
「民俗学」
 兄が答える。
「ほほ、民俗学と言うと、ニシムラ君かな。彼の論文は読んだ事があるが面白い」
 祖父はゆっくりとした口調で言った。今はタマ大の名誉教授をやっており、執筆活動をしながらゆっくりと過ごしているらしい。
「ああ、ニシムラ教授には世話になってる。俺が入った頃は助教授で、こっちの道を勧めてくれたのも教授なんだ。感謝してる。他にも世話になった人達が何人か……」
 まっさきにツキミヤの顔が浮かんだ。そうして顔こそ浮かばないが重要な者が一人いた。
「兄貴がホウエンに行ったまま帰ってこないんで、どうしてるかと思ってたんだけどね、まさか教授になって帰ってくるとはね」
 ちらりと母のほうに目配せして弟は言った。
「まだ助教授だよ」
「見込みはありそうなのか」
「どうだろうな……」
 ニシムラ教授を頭に浮かべながらオリベは返事をした。あるいはと思っているが過度な期待は与えたくなかった。元々期待などされていなかったのだから。オリベは一瞬、母のほうを見たが、何も言わなかった。
「兄貴、俺はね、普通に就職してしまったから、だから兄貴が大学に残ってくれて本当によかったと思ってるんだ」
 母の期待を背負っていたのは弟だった。弟もそれはよく知っていたから、だから負い目のようなものがあったのだろう。
「お前、何をうしろめたい事があるんだ。一流大学を出て、就職。十分じゃないか。世間的に見ればそれは成功だ」
 少し棘のある言い方をオリベはした。弟が明らかに母を意識している。それを感じ取ったからだ。母がどれほど弟に入れ込んでいたか知っている。学問の神様の神宮からお守りは貰ってきたし、夜食や菓子などもよく用意していたのを覚えている。一方で……
「なあ、母さん」
 ついに明確な方向性を持って弟の言葉が飛んだ。
「母さんからも何か言ってやってくれよ。兄貴が久しぶりに帰ってきたんだよ。出世してさ」
「ユウジロウ、」
 オリベが軽く止めにかかったが、弟は止めなかった。
「母さん」と、再び弟は呼びかけた。おそらくは負い目があったのだろう。母にだけにではなく、兄にもだ。なぜならば、弟もおそらくは知っているのだ。気が付いているのだ。
 すると、母がようやく口を開き、言った。
「十年以上も家を空けていた人の事なんて知りません」
 まあ、そうだろうなとオリベは思った。父を愛さない、評価しない母の事が嫌いだった。オリベは憎んでいた。愛情の偏っているこの家庭を憎んでいた。だから家を出る事にした。だが出て行った以上、何を言うつもりもなかった。
「そんな言い方は無いだろ。俺には出来なかった事、兄貴はやったんだよ。母さんだってそう望んでいたじゃないか」
 違うのだ。弟は誤解している。もはや兄がどうしたからという問題ではないのだ。
「……私はユウジロウにそうして欲しかった」
 母が言った。ほうら、やっぱり。心の中で呟いた。初めから期待などしていなかった。期待など。
「母さん」たしなめるように弟が言ったが「ユウジロウもういい」とオリベは止めた。
 母が弟に運んだ夜食、菓子、学問の神様のお守り。それは一切兄に与えられなかった。
 つまりはそういう事だ。一生懸命に餌を運んで育てたポッポと早々に巣から落ちた何か。もはや視界から消えたそれが大きなピジョットになって戻って来たところで、親鳥は立派になったなどと喜ぶまい。
 分かっていたはずだ。期待などしていなかった。していなかったのだ。
 オリベは静かに立ち上がった。
「兄貴、どこへ」弟が問う。
「久しぶりに来たんでな。古いダチにでも挨拶してこようと思う」
 そう言ってオリベは部屋を出た。玄関を出て、家から飛び出した。
「お前、どこか行きたい所はあるか?」
 同居人に話しかけた。
「図書館でも博物館でも、書店でもどこでも連れてってやるよ。タマムシにゃあ大抵のもんは揃ってる。どこもホウエンよりでかいぞ」
 緩やかな坂道を下りながらオリベは言った。
『ユウイチロウ、無理はしなくていい』
「無理なんかしてない」
『君はどこかに行くとかそういう気分じゃない』
「いいから言えよ」
『ユウイチロウ、』
「頼むよ……どこだっていいんだよ。これ以上言わせるな」
 少し震えた声でオリベは言った。
「あそこから離れられりゃ、どこだっていいんだ。遠くに行きたいんだ」 
『……分かった。じゃあまず近くの書店に。本命はそこで観光案内でも見て考える』
「オーケー。駅前に本屋がある」
 目的が定まって少し気持ちが落ち着いた気がした。
 空き地の上に建ったマンションを行き過ぎて、個人経営ではなくなったスーパーのチェーンを通り過ぎ、オリベは歩いていった。ふと、ボロボロな一軒家が目に留まる。まだここに住んでいた頃からこんな感じであったと思い出した。壁は蔦に覆われて、家の作る日陰にナゾノクサらしき球根が葉っぱだけを出して埋まっていた。いつになったら建て直すんだろうな。再び蔦だらけの壁を見上げ、そう思う。だが、長年住むとそうも言えなくなるのだろう。愛着か未練か、説明の仕方は人それぞれだが。だいたい壊すのにだって金はかかるのだ。つまるところエネルギーが要る。
「俺は半分だった」
 唐突にオリベは言った。
『半分?』
「あの人がそう言ったんだ。俺は半分なんだと。俺はあの家じゃ半分しか人間じゃなかった」
 ボロ屋を見上げてオリベは言った。まだ建っていたなんて思わなかった。
「あの人が敷いたレールの上を歩くつもりなどなかった。あそこが嫌いで家を出た。半分なりに勝手に生きようと思っていた。だが今のこの状況はどうだ。俺は人間になりたかったんだ」
 
*

 炎が上がっていた。赤く赤く燃え盛る炎が。私が見たのは夜空だった。本来は暗いはずの山の空。その空が赤々と染まっていた。その山にはお堂があって、火元はまさにそこであった。炎が勢いを増す。燃え広がっていく。そこにいた者達は一目散に逃げ出し、勢いを増す炎を避けた。誰かが叫んだ。その視線の先、お堂の中では彫像がいくつもいくつも立っていたが、皆赤に飲まれ、崩れていった。
 たぶん同じ奴等だ。あの時、隼人がいた陣に攻め込んだのと同じ勢力だ。
 兄弟達も同じものを見ていた。いや、兄弟達だけではない、親も長老も皆同じものを見ていた。そうして私達は悟った。里の象徴たる私達を象った像。それが焼ける時、おそらく里は滅びるのだと。右目で見た未来は不可避である。
 長老は言った。不可避な未来を見た上で、どうするかは各々に任せよう。あくまで戦うか、里から逃れ流浪の身となるか。それぞれが選べと言った。そうして皆の多くは後者を選ぶ事にしたらしい。情けなくもあったが責める事も出来なかった。右目が映したものは不可避と知っていたから、それは仕方の無い事だった。あるいは翼があったからかもしれないと思った。もし私達が別の種族だったなら、断固戦う道を選んだかもしれなかった。それがいいのか悪いのか私には分からなかったけれど。
 首長にはありのままを伝えた。炎が見えた事、おそらく里が滅びる事を。だが彼が選んだのは抗戦だった。ヒトは空を飛ばないから、翼を持つ私達とは違う結論に至ったようだった。戦った隼人の手前もあったのだろうと思った。隼人が戦う事で「人間」になろうとしたように、首長も同じように考えているのかもしれなかった。あるいは同じ土地にいるのが長過ぎたのかもしれない。本来、この地を治める首長一族は、私達が見る絵を知る事で災厄を避け、生き延びてきた一族だ。だが次第にヒトが知識を集積し、私達との関係が薄くなって、昔ほど私達を頼らなくなった。だから我々は違う道を歩んだのではないだろうか。ちょうど、今までの秩序が崩れてきているのと同じように。
 ふと、首長が職人達に彫像を作らせたのもそういう事ではないのかとの考えに及んだ。私達がどこかへ飛び立っても、形の上で残す為ではなかったのか、と。

*

 同居人が本屋で観光案内を吟味して選んだのは、国立の博物館であった。この国の歴史や美術を石器時代から追う事の出来る施設だ。国立博物館があるあの一帯は美術館だの科学館だの、コンサートホールだのが密集している文化の中心地である。同居人はガイドを見ながらあれこれ悩んだが、結局はそういう方向に落ち着いた。
 というのも同居人が未だ自身のルーツを探しているからだろう。オリベに居ついて四半世紀近くが経っている。なんとなく当時の断片が思い出されつつあるとは語るものの、その正体は未だ不明だ。尤も、同居人はそれを悲嘆してはおらず、正体不明なりにこの生活を楽しんでいるように見えた。
 ニンゲンになりたい。そう同居人は言った。だが、オリベの中ではそもそもポケモンという感じがしなかった。種族不明な上に、姿が見えないのは大きい。それは人とポケモンの境を曖昧にした。
「じゃ俺、寝るから。適当に見とけ」
 チケットを一人分買ってオリベは言った。
『いいのかい』同居人が尋ねると、帰る時に起こしてくれと返された。
 オリベの言った通り博物館は広かった。企画展は混雑していた為、とりあえずは常設展を回る事にした。
 初めの部屋に入ると石器や土器が並んでいた。初期こそ単純な形をしていたが、順路を進み、時代が進むにつれてそれは形を複雑にし、模様や色が増えていった。開けた大展示室には大きな埴輪が並んでいる。ポニータやギャロップ、それにガーディを模したと思しきものが目に入る。ホウエンから出土していたのはドンメル型の埴輪であった。
 この時代はまだピンと来ないと同居人は思った。自身が生身の身体を持って生きていたのはもう少し先の時代になってからだ。
 先に進んでいくと金属の刀や、馬具、装飾品が出現を始める。このあたりになると、認識が近くなってくる。ぼんぐりの出現もこの頃だ。鉄製の農具が進歩して、栽培技術が向上した為か、あるいはより多く、より大きく育つように育種が進んだ結果なのか、ぼんぐりという物が人間達の間に流通を始めたのだ。ぼんぐり、中身をくりぬけばポケモンを収容する道具になる。尤も当時はぼんぐりの中身をくりぬいて栓をした程度の簡素な物で、捕獲率は散々であったと記録にある。
「このあたりなんだ。それは分かっている。後は何かきっかけがあれば」
 同居人はオリベの声で呟いた。間違いない、自分が生きた時代はこのあたりだ。
 言うなれば探しているのは鍵だった。もう扉の位置は分かっている。あとは扉を開ける為の鍵が必要なのだ。
 時代が進んでいく。豪奢な鎧が同居人を迎え入れ、鉄砲、大砲が出現した。やがてからくり仕掛けの人形や時計が飾られ、エンジンが並びだした。人はポケモン無しでも高速で地を走り、海を渡り、空に飛び立った事になる。
 何かを作り出し、次世代に継承し、蓄積していく。それこそがヒトだと同居人は思う。
 時代を重ねていくごとに、様々な物を生み出したヒト。道具の発展に伴って、ポケモンとの関わり方も変わっていった。今やポケモンはヒトにとってただの生物であって、神でも、精霊でも、物ノ怪でもなくなった。大きなきっかけはボールだ。今や高度な機械球となりモンスターボールと呼ばれるそれは、フレンドリィショップへ行けば安価で手に入れられる。恐るべき時代になったものだ。
「それだけじゃない。いつの間にか言葉を語る野獣はいなくなったのだ」
 同居人はぶつぶつと呟いた。彼らは滅びたのだろうか。もう民話や昔話の中にしかいないのだろうか。
「もし我々が文字を書いていたら違ったのだろうか」
 知の蓄積が出来る生物。それがニンゲンだ。

*

 残された時間は少なかった。目に映った出来事が不可避な今、私は隼人の遺品をよそへ移す事を考えた。彼の残したもの。それは文字だった。これだけは守りたい、そう思った。
 第二に気になったのはお堂で仕事をしている職人達の事だ。だが、彼らの腹もまた決まっているらしい。彼らの支援者は他ならぬ首長であったから、彼らはそれに従うという事だった。私達にとって、見えたものは不可避で災厄は逃げるのみの事象だけれどニンゲンの解釈はまた違うのかもしれない。
 一つだけ私は助言を行った。あの私の絵を描いていた一番若い職人にこう言ったのだ。
 首長が家に置く像を欲しがっているそうだ。子供の背丈くらいでいい、と。
 これは無駄な足掻きかもしれない。だが可能性はあったほうがいいだろう。
 隼人の残した何冊かの記録。それを紐で結んで貰うと嘴にくわえ、飛び立った。できるだけ遠く、奴らの手の届かない所に。炎の届かない所に。

*

 常設の展示を回り終わって、企画展に足を伸ばした。相変わらず混雑していたが、そのタイトルには興味をそそられた。語られる古〜古典文学の変遷と絵巻の世界〜、そう題されていた。入っていくとまず最初に大きな屏風絵が目に入った。朱色の背景に金粉の絵の具で描いた豪奢な鳥ポケモンが描かれていた。タイトルには鳳凰とあった。
 展示室に進んでいくと、奥へ続く長いケースに絵巻が広げられ展示されていた。この国で初めて書かれたとされる長編小説、それを絵巻としたものだった。優美な着物を着た女性達が描かれ、時に小さなポケモンを愛でていた。烏帽子を被った男は恋の行方を占わせていた。予言をしているのは黄色い身体の髭を生やしたポケモンであった。美しい女がいた。たくさんの男達が彼女に求婚し、中には人に扮したポケモンが混じっていた。ポケモンの作った恋の歌を文字に起こし盗んだ男もあった。彼は壮絶な仕返しに遭い、非業の死を遂げた。
 何とも言えぬ懐かしさを覚えた。この頃は人とポケモンが入り混じっていた。解説には、ポケモンを物語中に取り込んだ作者の想像力溢れる一作とあったが、それは違うと同居人は思った。尤もポケモンが自ら語らぬ現代においては致し方ない気もした。
 さらに奥へと進んでいくと、掛け軸が並ぶブースであった。掛け軸一枚につき一首の和歌、それに絵が添えられていた。同居人も本で読んだ事のある有名な和歌が多かった。蓮見小町の和歌に添えられた水芙蓉の絵は特に美しかった。
 次のブースに足を伸ばすと今度は日記文学を扱っていた。貴族の女が書いたもの、武士の女房の書いたもの、僧の旅日記、後の時代になり、それらに絵が加えられ、編纂されたものだった。巻物だった書籍はいつの間にか冊子に変わっていた。時代の流れを感じさせた。
 順番にそれらを見ていくうちに不意に一つの冊子に目が留まった。
 小翼録。そのように題されていた。
 そこには緑色の服を来た髭を生やした仙人のような男、そして書き物をする若い青年が描かれていた。書き出しにはこうあった。
翠羽、我に語れり。人が人たるは字を書きたる故なり。
 雷に打たれたような衝撃が走った。
 知っている。この書き出しを知っている。
 
*

 生まれ育った里が炎に包まれたのは、私がとある国で目的を遂げた頃だった。
 敵の戦力は圧倒的だった。赤と呼ばれる者達の中でも名高い将が兵達を率いていたという。驚く事にその将は複数の炎の野獣達を従えていたらしい。首長は抵抗する間もなく討ち取られ、その後継者も同じ末路を辿った。やはり運命は変えられなかった。
 右目が像を結んだ。職人達が赤い衣装の男達に連れて行かれていた。ただあの若い職人だけ、姿が見当たらなかった。どこに行ったのかは分からない。逃げおおせたのか、あるいは焼け死んでしまったのか。その行方は杳として知れない。
 時代が変わる。これまでの秩序は崩れ去って、今までとは違う世界になるだろう。この先、多くの里が故郷と同じ運命を辿るに違いない。その先には何があるのか、こうして生きている限り、私はそれを見届けてみようと思う。
 私が容れ物に入ったのは、その後ずっと年老いてからの事だった。私をそれに入れたのは青い服を着た目の不自由な老人であった。彼は私に書物を読ませた。残ったいくばくかの時間を私と彼は共に過ごした。隼人があのまま生き、年老いたならこのような感じだったろうかと考えた。その間にも様々な本を読んだ。それは誰かの日記であったり、和歌であったりした。老人はそこそこ身分の高い家の出で、彼が死ぬと立派な墓に葬られた。
 右目が像を結んだ。私が見たのは私自身の死であった。死期を悟った私は自ら容れ物に入り、老人と同じ墓に入れられた。


*

「起きろ、ユウイチロウ。調べて欲しいことがある」
 まだ先に展示は続いていたが、眠りこけていた身体の主を起こす事にした。
 この文面に見覚えがあると同居人は言った。この本の事を調べて欲しい。現存するなら原著をと。
 小翼録。聞いた事の無い名だとオリベは思った。おそらく名の通った古典ではあるまい。
「とりあえず王道はあそこか」
 オリベがまず足を運んだのが国立図書館であった。百年程前から現在のうちにこの国で出版された本であれば、大抵が収まっている。だが、該当は無かった。つまり図書館が収集を始めてから、現在まで、この日記が復元されて書籍として出回った事は無いという事になる。研究自体がなされていないと思われた。
『写しも無いのか。この図書館は古書も相当数収蔵していると聞いたが』
「かといって全部ではない。写しだって発行数が少ないのかもしれない。となると原著を見つけ出すか、あの写しを見せて貰うかだ」
 だが、少なくとも企画展の開催中は不可能であった。終わり次第、持ち主を調べて見せて貰おうかと考えたが、博物館側からは守秘義務があると言われ、持ち主の情報を聞き出す事すら出来なかった。
「小翼録? 聞いた事ないね」
 ホウエンに戻ってから、ツキミヤにも聞いてみたが案の定、知らなかった。
「そういうのはやっぱり専門家にあたらないと」
 バッグにぎゅうぎゅうと荷物を詰め込みながらツキミヤは言った。それで心当たりを一人、思い出した。
「じいちゃん、力を貸して欲しい」
 ろくな挨拶もしないまま実家を後にしてしまったから、後ろめたさがあったのだが、祖父に電話をかけた。依頼したのは展示品の持ち主の調査、そして原著あるいはそれに相当する写しの行方の調査であった。原著、つまり作者の直筆だ。長年携帯獣文学を研究していた祖父のコネを使えばあるいはと思った。幸い祖父は快く引き受けてくれた。
 報せが来たのは一ヶ月後だった。大学の電話が鳴って、その日のうちに速達の手紙が届いた。住所を書いた紙と紹介状が入っていた。
「ありがとう。本当にありがとう」
 オリベは電話越しに何度も何度も頭を下げた。
「喜べ。一番欲しい情報が出てきたぞ。原著の収蔵場所が見つかった」
 オリベは同居人に告げた。原著の収蔵場所はホウエン地方の中にあった。
「ツキミヤいるか」
 出掛けに研究室に寄ったが、姿は無かった。そういえば発掘で出掛けていたのだっけと思い出す。プロジェクトが本格的に動き出してあの男も忙しいのだろう。研究生達が出入りしている所為か鍵は開けてあって、部屋の脇にいつかの霊鳥像が立っているのが見えた。像はまるで留守番をしているのかごとく寂しそうに佇んでいた。
「同居人がうるさいんでな、ちょっくら俺も行ってくるわ」
 片目だけを開く霊鳥にそう挨拶すると、オリベは部屋を出て行った。

 原著の保管場所。それはキンセツシティからヒワマキシティに向かう途中の山中にあった。調べてみるとひどく交通の便が悪い場所で、ホウエンを旅するトレーナーが通る道路の中でも難所と言われていた。オリベはキンセツシティで一泊する事に決め、その間にガイドを探す事にした。ポケモンセンターのシステムに依頼を登録したところ、幸いにもバッジをいくつか所持するトレーナーの案内を得る事が出来た。
 聞いてはいたがひどい道だった。背の高い草を掻き分けて進むと雨に降られ、道がぬかるんだ。マッスグマやトロピウスといった大型のポケモンにも出くわし、相手によってはガイドの手持ちと戦闘になった。結局、目的地に辿り着いたのは日がとっぷりと沈んだ頃だ。暗くて全体像が掴めなかったが、そこは山の斜面に建った寺院であった。すぐ下に谷があるらしく、滝の音が耳に響いていた。
「これはこれは。遠い所からよくお越しくださいました」
 袈裟を着た細身の僧侶が出てきて挨拶をした。この寺院にはよくトレーナーや登山客が宿泊するらしいと聞いていたから、自分達もそんな中の一人だと思われているのだろう。だが、紹介状を見せたところ、
「ああ、オリベさんでしたか。そろそろいらっしゃる頃だと思っていました」
 と、言われて彼は面食らった。どうやら事前にだいたいの話は通っていたらしい。今更ながら祖父の顔の広さ、人脈に恐れ入った。
「ご目当ては小翼録でしたね。すぐに出せるようにご用意しています。ご覧になりますか」
『無論だ』
 一日中山中を歩いていたオリベは疲れきっていたが、同居人の声がした。オリベが後を任せたのは言うまでも無い。
 夕食を出された後、オリベを動かす同居人は滝の見える畳敷きの一室に通された。部屋には小さな漆塗りの机があって、そこに古びた冊子が五冊ほど置かれていた。表紙に記された文字を見る。小翼録とあった。薄手の手袋を手渡され、はめた。
「それではどうぞごゆっくり。布団は下の階に用意しています」
 僧侶が襖を閉め、去っていた。十分に人の気が無くなったのと、オリベが寝静まっているのを確認すると、同居人はページをめくった。
翠羽、我に語れり。人が人たるは字を書きたる故なり。
 書き出しが目に飛び込んできた。間違い無い。この字は間違い無い。
「久しぶりだね。隼人」
 同居人はその文字を書いた人物の名を呼んだ。
「私だ。翠羽だよ」
 同居人はそう名乗って呼びかけた。
 見覚えがあるなどまったくもって嘘だった。なぜならもうとっくに思い出していたのだから。あの博物館で小翼録の写しの一文を見た時に、とっくに。だから今日は記憶を取り戻しに来たのではなかった。もっともっと大切な事だった。
「隼人、今日は君に会いに来たんだ」
 同居人――翠羽は言った。
 翠羽。かつて神として、精霊として存在していた時、その姿からそう名付けられた漢字二文字の名であった。色と種族の証、それは二つの意味を持っていた。
 霊鳥(ネイティオ)。過去と未来を見つめていると云われるその種族は大きく背の高い、翠の鳥の姿をしていた。その大きな翼は風を起こし、空を飛ぶ事が出来たけれど、筆を持つ事が出来なかった。
 だから霊鳥は憧れた。筆を持ち、文字を書く事の出来るニンゲンに憧れた。ちょうど後生の写しに添えられた絵のように彼はニンゲンになりたかった。
「あれからずいぶん経ってしまった。私は単なる意識になって、君は古の記録になってしまった」
 そう言って同居人は冊子の頁をめくった。流れるような筆文字が目に飛び込んできた。自身の書くつたない字とは違う、美しい文字だ。彼はこの字体が好きだった。ふと、声が再生された。書かれた文字を目で追う度に、それが声となって彼の中に響き渡った。
 翠羽、翠羽――翠羽。
 文中に自身の名が登場する度に繰り返し名が呼ばれた。するとどうだろう。その度に記憶に色が加わった。線だけの絵に色を乗せて、絵が息づくように。濃淡をつけながら。より濃く、より鮮やかに。翠羽は指で文字を撫でた。
「隼人、君は子を成せなかった。君は戦に行って死んだ。里にも火がかけられて一族も滅亡してしまった。私を模した像は焼けて、職人達もいなくなってしまった。けれど、君は証を残した。たとえ子が成せなくても、滅びてしまっても、君というニンゲンがいたという証を」
 今よりずっと昔、もう誰も知らぬ里に青年は生きていた。
 そうして青年は人間になりたいのだと言った。
「隼人、君の望みを叶えよう。今の私には手がある。ユウイチロウも協力してくれるだろう。君の名を世に出してくれるだろう。君の言葉を誰かが読んで、君は「人間」になるんだ」
 小翼録、それは一人の人間が生きた軌跡。苦悩し、求めた記録。
 頁をめくった。めくって、めくって。そうして彼が里を出たところで日記は終わった。そっと本を閉じて、元のように置いた。余韻の中、滝の音が耳に響いていた。
 右目に異常を感じたのはその直後だった。
「!?」
 びりっと右目に痛みが走り、翠羽は思わず目を覆った。
 だが手で覆ったにも関わらず、右目が像を結び始めた。目が開いている時と同様に見え出したのである。
 見えたのは暗い部屋で、そこに座っていたのは今はもうツキミヤ姓になったタテバヤシであった。後姿だったが、あの長い髪は彼女に間違いない。暗い部屋でテレビがこうこうと光っていた。少し視線が移動する。見えたのはやはりタテバヤシで彼女はぶつぶつと何かを呟いている。後ろを振り向いた。直後に黒い影のようなものが覆って視界は闇に染まった。
 バチィッと音を立てるように像が弾ける。次第に痛みが引き出した。
「おい、何だよこれ……」
 右目に残る痛みに涙を流しながら、翠羽は言った。もう肉体は朽ちたのだ。今はオリベに同居しているに過ぎない。それなのに右目に像が映るとはどういう事だ。だが、
「……いや、だからか」と、翠羽は呟いた。
「ユウイチロウの身体だから、無理が出ているのか。だから痛いのか……」
 しかし今見えたあの未来は一体何を暗示しているのだろう。情報が不足し過ぎている。こうこうと光っていたあのテレビにヒントがありそうだったが、内容までは分からなかった。それにタテバヤシを覆ったあの影は……。だが、思考は遮られた。その直後に再び痛みが襲ってきたからだった。
「痛い! 痛いッ!!」
 激痛に喘ぐ中、再び像が結ばれた。
 映ったのは大学だった。大学に撮影機材を持った人々が押し寄せて、口々に何を叫んでいる。どう見ても友好的な雰囲気ではない。何かを非難している様子だった。テレビカメラが構えられる。フラッシュがいくつも光る。大学の学食や構内でテレビ画面が光っていた。今度はテロップの文字を読む事が出来た。
カイナ大教授、発掘現場にて捏造指示か
 ツキミヤだ! 翠羽は確信した。詳しい背景は分からない。だがこれはやばいと思った。
 いつだ。明日か? 明後日か? どちらにしろ霊鳥の直感で判ってしまった。時期はすぐそこに迫っている。見えた未来はすぐに現実になるだろう。ツキミヤはおそらく失脚する。
 回避は、不可能。
 ユウイチロウを足止めしなくては。咄嗟に思ったのはそれだった。少なくとも今見た未来にオリベの姿は無かった。ならばコントロール可能だろう。遥か昔に明確に見た青年の死とこれは異なる。わざわざ戦場≠ノ己が半身を送り込む事はあるまい。
 もしも未来を教えたなら、オリベはすぐにでも山を下りるだろう。たとえそれが回避不可能な未来だとしても、この男は行くだろう。知っている。オリベにとってツキミヤという男がどんな存在か分かっているつもりだ。彼はやる。なんとしても助けようとするだろう。だが彼がツキミヤの擁護に回ったらどうなるか。巻き込ませる訳にはいかなかった。
 オリベは言っていた。自分は半分だと。半分しか人間でないのだと。彼は自分を埋める半分を求めていた。知っていた。あの男と対等になる事でそれを埋めようとしていた事も。オリベにとってツキミヤとは……。
 翠羽は一人、呟いた。
「去るなら一人で消えろツキミヤ。私の半身は渡さない」
 お前にユウイチロウは渡さない。
 今度こそは。今度こそは、守ってみせる。
 やるならば今夜のうちだと彼は思った。今一度、私は私に立ち返らなければならないと。霊鳥としての感覚を呼び起こさねばならない。本来の姿を失った私はいわば半分の存在。だが、痛みと引き換えに未来が見えたのなら、なんとかこちらも使えるだろう。
 いや、やってみせる。やらなければならない。
「電子機器など脆いものだ。要するに一番重要な繋がりを絶てばいい。むしろ厄介なのは……」
 ぶつぶつとオリベの声で彼は呟いた。
 翌日の朝、寺では奇妙な事が起きていた。テレビがつかなかった。ラジオも声を拾わなかった。あらゆる情報の発信源が遮断されてしまっていた。ただ、朝餉を用意する事は出来たから、その生活は問題なく進行した。もちろん少し困った程度には思ったろう。だが元々山奥に住んでいる人々の事であった。この程度はなんでもなく、何者かの作為を疑う者は誰も居なかった。
 筋肉痛がひどい状態でオリベは目を覚ましたが、彼自身も疑わなかった。昨日に散々歩いた反動だろうと考えるのが普通だった。機器の内部破壊に使った念力の反動。それはより大きな理由によって隠されてしまったのだ。
 一方で翠羽はオリベに小翼録の更なる解読を勧めた。まだ研究が世に出ていないからチャンスだと。写真を撮らせ、記録させた。寺にあった他の古書もついでだと言って参照させた。滞在期間を引き延ばすべくありとあらゆる理由をつけた。
 問題は泊まりに来るトレーナーだった。なるべく引き合わせないようにオリベの関心を他へ向けさせるよう注力したのは言うまでもない。新聞は週一で鳥ポケモンが運んでくる。住職より早く起き、待ち伏せをして何食わぬ顔で受け取ると、余分な情報を廃棄した。
 結局ガイドがオリベを迎えに来たのは三週間ほど経った頃であった。
「ずいぶん長いご滞在でしたね。なかなか伝書スバメが来なかったんで、心配しましたよ?」
 精進料理ですっかり痩せたオリベを見、ポケモンレンジャーの男はそう言った。


 久々の大学はどうにも雰囲気がおかしかった。妙な感覚に陥り、訝しんでいると
「先輩、どこに行っていたんですか!」
 まっさきにフジサキが声をかけてきた。
「三週間ほど山に籠ってた」
 オリベが答える。するとフジサキが
「ツキミヤ教授は?」と、聞いてきてオリベはまた顔をしかめた。
「は?」
「ツキミヤ教授は一緒ではないのですね!?」
「何を言ってるんだ?」
 まったく訳が分からなかった。そして――
 留守にしていた三週間のうちにあった事、そのおおよその話はフジサキから聞く事になった。もちろん最初は何かの冗談かと思った。信じがたい話だった。だが一向に変わらないフジサキの態度、そして騒がしい大学内の様子がだんだんとオリベを現実へと引き寄せた。
 第一報を報じたのはミナモテレビだったという。ツキミヤが自身の発掘現場で捏造を指示したという報道だった。大学にもホウエン中の報道各局が押し寄せた。報道が過熱するうちにツキミヤは失踪、考古学会からの除名が決定したという。
「おい、どうなってるんだよ!」
 オリベは叫んだ。
「俺がいない間に何がどうなっちまったんだ……!?」
 新聞や雑誌で事件の経過を追ったが、とても信じられるものではなかった。
「罠だ。罠に決まってる! あいつがそんな事をする訳がない!!」
 机を叩きオリベは吼えた。だが敵の実態は見えない。どこへぶつける事も誰に訴える事も出来なかった。ツキミヤは若くして出世した。当然に敵や、面白く思わない者もいただろう。だが、オリベは畑違いの人間だ。ツキミヤの世界の事を深く知っている訳ではない。彼を取り巻く事情はオリベには把握しきれなかった。
 判っているのは、真実がどうあれ世間的に事件がツキミヤの仕業とされ、そういう処分が断行された事だ。こうなってしまっては覆せない。それを覆す力はオリベには無かった。
 人文科学の研究棟、ツキミヤの部屋のある階は閉鎖されていた。同じ階にいた教授や講師達は別の場所に移ったという。余計な詮索をされない為にそうしたらしい。ほとぼりが冷めるまで開く気配はなさそうだった。
 三週間、それは決定的なタイムラグを生んだ。ツキミヤ一家の住んでいた家は既に引き払われた後であった。残されたタテバヤシは行き先も告げす、息子とどこかへ消えてしまった。未だ行方が掴めない。連絡すら叶わない。
「ツキミヤ、ツキミヤ……どこに行ったんだ」
 持ち帰った研究資料や成果は山ほどあったけれど、当然に手につかなかった。山から帰ったオリベは痩せていたが、それに拍車がかかったようにますます細っていき、顔からは生気が失われていった。
「何で……何があった。ツキミヤ……何でだ」
 翠羽は知っている。オリベはあの男と対等になりたかったのだと。なろうとしていたのだと。それはずっと一緒に歩いていく為だった。けれど置いていかれた。ツキミヤは一人でどこかへ去った。オリベは置いていかれたのだ。
 そして未来を知った半身もまたそうなるように仕向けたのだ。
 時を待つしかあるまいと翠羽は思った。だから何も言わなかった。今はどんな言葉も彼を癒すまい。
 そんなオリベに声がかかったのは、それから一週間後であった。ニシムラの部屋に呼び出されたのだ。すっかり目が死んでしまった彼にニシムラは言った。
「さて、こんな時であれだが、君を私の後継に推薦しようと思う」
「は……?」
「もちろん決めるのは大学だがね。こんな時に募集も出来ないだろうし、ほぼ内定と思っていいだろう。ただ……」
「ただ?」
「分かっているとは思うが発言には気を付けるんだな。君がツキミヤと親しかった事は知っている。だからこそ不用意な言葉は出さぬよう気を付けるんだ」
「…………」
 ニシムラは続けた。少なくとも彼は、君が出世を棒に振る事を望んだりはしないだろう、と。
「…………」
 いくばくかの時間を経てオリベは力なく頷いた。
 ――うまくやれよ? 昇進したら何か祝いをやらないとな。
 ツキミヤがかつてそう言っていたのを思い出したのだ。馬鹿野郎、そう思った。何がうまくやれだ。
 皮肉なものだ。無意識に認めさせたいと願っていた母には拒絶され、ツキミヤもいなくなった。そんな時に教授職が転がり込んでくるなんて。これを皮肉と言わずに何と言うのだろう。
 まるで道化だ。人生というシナリオの、喜劇の登場人物だ。
「……ニシムラ教授、少々お願いが」
 しばらくの沈黙の後にぼそりとオリベは言った。
「ん?」
「閉鎖されている階のツキミヤの部屋に行かせて下さい。実はあの部屋に忘れ物が……あいつから昇進祝いを貰う約束をしていたのです。それをいただきたく思います。そうしたら、それが済んだら余計な事は言いません。お願いします」

 久方ぶりに開けられたその部屋は暗く、埃っぽかった。
 オリベは目的の物を探した。場所は変わっていなかった。誰がかけたのだろう、それは布を被っていた。
 ――俺が死ぬか行方不明になったら譲ってやってもいいぜ?
 かつてこれを欲しいと言った時、ツキミヤは冗談めかしてそう言っていた。
「約束だ。貰ってく」
 布はかぶせたままそれを抱き上げた。

 自身の部屋に戻り、布を取ると像は変わっていなかった。
 木彫りの霊鳥像は子供の背丈ほど。相変わらず左目を見開いたまま、無表情で立っている。
 オリベは椅子に座ったまま、何時間も何時間もそれと対峙していた。時折、座ったまま太腿に肘をつき、涙を流した。
 翠羽――同居人は何も言わなかった。ただあの山寺でオリベに言った嘘を繰り返し、繰り返し思い出していた。後悔はしていない。だが後悔していない事と後味の悪さは別であった。
 彼は思う。ずっと嫉妬していたのだろうと。嫉妬していたのだ。ツキミヤソウスケに。
 卑怯だと思った。自分はどこまでも卑怯だと。この卑怯さはどちらかといえばニンゲンのものだろうとも思った。嫌な意味でニンゲンに近づいてしまったものだ。
『確かに知っている文章だったよ。これだけは確かだ。だが無かった。私に繋がる鍵はここには無かった』
 旧き友との再会から一晩が明けたあの日、同居人はオリベにそう報告をした。
 結局、自身の正体までは分からなかったのだと彼は言った。嘘をついた。
『手間をかけさせて悪かった。ただ研究的な価値はあると思う。相応の埋め合わせはさせてもらうつもりだ。論文という形でね。だから時間が欲しいんだ。しばらくは付き合って貰いたい』
 今の同居人には手があった。ペンを持ち字を書く事も出来るし、キーボードを叩いてタイプする事も出来る。隼人のように日記をつけるのもいいかもしれない。あの博物館で見たたくさんの名を残した者達のように物語を書くのもいいかもしれない。
 そうして同居人は二人のヒトに誓いを立てた。聞こえぬ声で誓いを立てた。

 隼人、私は先に進むよ。未来を生きようと思う。放っておけない奴がいるんだ。
 ユウイチロウ、君に謝らなければならない事がある。私はいくつか嘘をついた。一番重大なのは君にとって大事な情報を隠した事だ。私はそれを隠した事をこれからも隠し続けるだろう。その替わりにはならないだろうが、私は私を棄てようと思う。私は名を棄てよう。種族も棄てよう。もう精霊としての能力を自ら使う事はしないだろう。

 ニンゲンになるのだ。自身の手で筆を持ち、字を書けるニンゲンに。
 人間になろう。君の半分に私はなろう。私達は二人でオリベユウイチロウなんだ。
 君と生きよう。
 半分の君と半分の私、二人で。二人で――一人で。

 オリベはまだ肘をついたままだった。霊鳥の左目がじっとその姿を見つめていた。
 薄暗い部屋に人と霊鳥、その影が一つずつ佇んでいた。


<霊鳥の右目> / <表紙> / ----------