●霊鳥の右目


 少年は手を見る。
 固まりきらない血がまだ光を反射して輝いている。地面にはいくつかの血痕があった。
 その目の前では、ごめんなさい、ごめんなさいと、緑色の獣を腕に抱いた少女が必死に頭を下げている。
「本当よ。普段はすごくおとなしい子なの」
 彼女はそのように弁明する。たぶんそれは嘘ではないし、彼女は何も悪くないのだろう。
 だが、少女に抱かれたラクライは毛を逆立て、牙をむき、眉間に皺を寄せる。フーッフーッと息を荒くしていた。
「……気にしないで」
 少年は言った。
 ちらりと緑の獣を見る。獣は再びウウッと唸って毛を逆立てた。やはり見なければよかったと思い、急ぎ目を逸らす。嫌われたものだ。
 獣の瞳に映ったのは恐怖だった。忌むべき者を見た恐怖だ。手を出してはいけなかった。望むと望まないに限らず嫌われる者はいる。世の中にははみ出し者や除け者というものが必ず存在し、忌まれる者がいる。
 自分はどうやらそっち側の存在であるらしいと、この日、少年は理解したのだ。


 海の見える学校の、広い敷地の狭い部屋の中で何人かの男達が会合を開いていた。
 右上に小さな写真を貼った書類、そして写真の人物が書いた論文、考査の結果。それらを照会しながら彼らは品定めを行ってゆく。
「タニグチ君はいいね。卒業論文もしっかりしているし、うちの研究室で貰いたいのだがね」
「サカシタはどうだね」
「彼は考査の結果がねえ」
「だが体力があるだろ?」
「それは評価に含まれない」
「だが、フィールドワークでは重要だろ。よく働くんじゃないのかね、彼は」
「卒論はどうだった?」
「及第点といったところですかな」
「まぁいい。うちで面倒見よう」
 そんな風に彼らは学生達をふるいにかけていった。何人かを通らせ、何人かを落とした。
 しかし、ここまでの過程は彼らの予定の範囲内であり、予想の範疇であった。たった一人、最後の一人だけが彼らの本当の議題だった。
「さて、最後だが」
「彼か」
「ああ」
 教授達は選考書類に目を通す。
「考査の結果は?」
「……トップですな」
「卒業論文は?」
「発表会、聞いていたでしょう?」
「考古学専攻はみんな聞いていましたな」
「私は誰一人、質問しないので焦りましたよ」
「あの後、学生が一人質問しましたな。いい質問だったが、いかんせん彼の切り返しのほうが上だった」
 彼らはそこまで言ってしばらく黙った。誰も先に進めようとしなかった。
「欲しいのはおらんのかね」
 一人が沈黙を破ったが、誰一人手を挙げない。
「能力的には並みの院生以上と思いますがね」
「取るか取らないかは別の問題だよ」
「分野的には、フジサキ研だと思うが」
「学士までと約束しました。皆さんもご存知のはずです」
 その中でも比較的若い男が言う。
「しかし彼を落とすとなると、他の学生も落ちますよ」
「だから困っている」
「ようするに合理的な説明が出来るか否かという事だ」
「学士は所詮アマチュアだ。だが修士はタマゴとはいえ研究者。この違いは重い」
 結論は出なかった。グダグダと議論が続く。
 否、とっく結論は出ているのだ。議題の人物の受け入れ先など、最初から存在しない。後は誰が面倒な役回りを引き受けるか。結果を通知し、合理的説明をするのか。それだけなのだ。だが誰も関わりたくない。触りたくない。それだけなのだ。
「休憩にしますかな」
 一人の教授がそう言った時、キイと狭い部屋のドアが開いた。
「お困りのようですな」
 入ってきたのは一人の男だった。コースでは見ない顔だった。だがまったくの知らない顔、部外者という訳でも無かった。
「オリベ君、」
 一人が男の名前を口にした。
「民俗学コースの教授が何の用事かね」
 また違う一人が言った。少し不快そうだった。
 彼らの視線の先にいる乱入者はラフな格好だ。ネクタイは緩いし、履物は漁師の履くギョサンだった。大学教授などそんなものかもしれないが、年配には印象がよくない。だが乱入者は気にする様子もなく、
「例え話をしましょうか」と、言ったのだった。
「考古学コースには誰もが認める優秀な学生がいる。どの研究室も欲しがっているが、その学生がコースの変更届けを出したなら、皆諦めるしかありません」
「…………」
 しばらく皆が黙った。いや、食いついた。だが、腹の底で疑念が沸き起こる。
「オリベ君、何を企んでいるのかね」
「何も。私は優秀な学生が欲しいだけです。こっちでも院試がありましたがろくなのがいなくてねぇ。ただ……」
「ただ?」
「配慮いただけるのであれば、来月のあの件、譲歩いただきたい」
 目配せしてオリベは言った。
「来月の……」
「そう、来月です」
 オリベがにやりと笑う。その言葉の真意に部屋のメンバーも気付いた様子だった。
「つまり取引をしようというのかね。しかし彼が届けなど出すと思うかね」
「出させてみせます。万が一の場合、今日の事はお忘れくださって結構」
 あくまでひょうひょうとした態度でオリベは続ける。
「そうですね。とりあえずは院試の選考を今からでも民俗学・考古学コースの合同だったという事にしましょうか。他のコースも巻き込めるなら尚いい。それで責任者を私にするんです。院試に関する質問は全て私を通す事にしましょう」
 なるほど、と教授陣が目配せし合う。例の件はともかく、面倒事をオリベに転化できるのは彼らにとって都合がいい事は確かだった。
「……分かった」
 彼らの代表格が返事をした。
「決まりですね」
 オリベが言った。ずり落ちた眼鏡の位置は直さず、レンズを通さずに、下から覗き込むように教授陣を見据えた。そうして彼は二、三彼らに質問やら手続き的な頼み事をすると、部屋を出ていった。
 冬であったが、この日は比較的暖かかった。日光が差し込む廊下をポケットに手を突っ込んで、すたすたとオリベは歩いていく。時折、学生とすれ違ったが知らない顔だ。互いにこれといった挨拶は交わさなかった。
 とりあえず文書作成からかからなければなるまい、彼はそう考えていた。だが、
『一体何をしようっての』
 途端に声が聞こえて足を止めた。
「ん?」
 オリベはとぼけた声を発する。
『とぼけるな。あんな事言って。私は反対だと伝えたはずだよ』
 声が響く。
「あのなぁ、俺はいつもお前の言う事ばっか聞く訳じゃないぞ」
 面倒くさそうにオリベは言った。いかにもうるさいといった風に。
『どうして? いつもはあんなに素直なのに』
「これはこれ。それはそれ。前にも言ったけどな、お前の意見を聞くも聞かないも選択権は俺にあるの。たまたま聞く割合が多いだけだろ。あくまで選ぶのは俺だからな」
『私が言って、外れた事があった?』
「お前が勘がいいのは知ってるよ。だが、これはだめだ」
『だいたいあんなの無理だ。無理に決まってる。夏休み前に相当怒らせたくせに。あの時は本当に危なかった』
「怒らせるのはいつもの事だ」
『一緒にいた女の子を覚えてる? あれ以来学校で見かけない』
「だから? 大方、別れたんだろ? 男女にはよくある事だ」
『危険なんだよ。ユウイチロウ』
「お前はいつもそれだ」
『ユウイチロウは鈍いから分からないのかもしれないが、』
「うるさいな。あんまり喋るなよ。ただでさえ独り言が多いって言われてるんだ。文句なら部屋に帰ってからでいいだろ?」
 そこまで言うと声が止んだ。やれやれとオリベはまた歩き出した。ポケットに手を突っ込んで、ぺたぺたとギョサンを鳴らしながら、民俗学教授は歩いていった。
 日差しの差し込む長い廊下、そこにはオリベを除いて人は歩いていなかった。


 カイナシティの一番大きなポケモンセンターに青年の姿はあった。
 あまり来たい場所では無かった。大概のポケモンは自分を嫌っていると青年は知っていたからだ。しかしながら、今日は重要な日だった。トレーナー免許講習の最終日であったからだ。
「はーい、撮りますよ」と、言われた直後、表情をつけないままにフラッシュが光る。簡易なペーパーテストを受けると、その後は写真撮影であった。IDが発行され、ついにトレーナー免許証、通称トレーナーカードが交付される。
「それでは内容をご確認ください」
 眼鏡を掛けた、いかにも事務局員風の女性職員がそう言うと、ディスプレイに免許証の画面が映し出される。先ほど撮影したばかりの写真に写ったその顔はまったくと言っていいほど笑っておらず、ひどく無表情であったが、青年の関心事はそんなところには無い。
「登録内容は問題ございませんか」職員が尋ねる。
「はい、申請通りです」青年は答えた。
 再び画面を見る。トレーナーネーム欄に「ツキミヤ」という文字が見えた。
 ほどなくして再び呼ばれた青年はカッパー色のカードを手渡された。これにて免許取得の全過程が終了した。
 ふう、と青年は息をつく。たった数日ばかりの事がひどく長く感じられた。
 名前の事もあり、取ろうとは思っていた。それだけではない。トレーナーになる事によって受けられる法的な優遇措置も青年は知っていたし、取得メリットは十分にあるはずだった。
 にも関わらず、卒論の発表が終わって、最近一つ目のバッジを取ったという見知った仲に催促をされるまで実行に踏み切らなかったのは、やはり憂鬱だったからだろうと思う。
 それらの権利を手にする過程において予想される事態が青年には億劫であった。そうしてそれは現実に起こってしまった。
 取得の際、ポケモンとの触れ合いを含めた簡易講習がある。そこで早速青年は噛み付かれたのだ。
 フーッと荒く息を吐いて、講習に使われたジグザグマはごわごわの毛を逆立てた。なんだなんだと周りの視線が集中する。落ち着いて、大丈夫よと職員があやしたが、まめだぬきポケモンは青年の手が触れる事をあくまで拒否した。職員に抱かれたジグザグマに手を伸ばした時、青年は噛み付かれたのだ。
 仕方なくポケモンを取り替えたが、どのポケモンにしても結果は似たようなものだった。今度は噛み付きの前にストップがかかるものの、変えても変えても一向に結果が出ない。講習が先に進まず、周囲の視線が青年を刺す。これだから嫌だったのだと青年は思った。結局ポケモンに触れる事の無いまま、講習は先へと進んでいった。
 次に実際に技を指示してみるという実習が行われたが、青年の番が近づく度にポケモンは落ち着きを無くし、青年の番が来た時に持ち場から逃げ出した。急いで職員が捕まえたが、定位置に戻らない。結局、ポケモンを変えた。センターの中で最も大きくレベルの高い、落ち着いた個体を連れてきたところ、ようやく定位置につけさせる事が出来た。ポケモンはあからさまに嫌な顔をしたが、青年の指示をしぶしぶと聞いてくれた。
 ポケモンに噛まれる男。ポケモンが逃げ出し恐れる男。要注意人物。
 そのようなラベル付けをされ、すっかり職員にマークされてしまった青年は、早く大学に戻りたいと願った。今日このように免許が発行され、晴れて要注意人物が居なくなる事に職員一同胸を撫で下ろしているに違いないと彼は思う。
 トレーナーの集まるセンターのロビーでポケモンを避けて端のほうに座ると、青年は携帯でパチリとカードを撮影した。メールに添付し、送信する。これで義務は果たしたと思った。それにしたって、たかだかこれだけの為に生傷を作るのでは割が合わないではないか。
『免許取得おめでとう!』
 そんな返事がすぐに返ってきた。だが、次の行に『写真写り悪いね』と書いてあるのは余計なお世話というものだろう。
「ねー、聞いた? リョウ君、怪我しちゃったんだって」
「まじで? 大会近いのにもったいないね」
 などと、トレーナー達が会話しているのが耳に入ったが縁の無い話だと彼は思う。
 まあ、養わなくてはならないポケモン自体はたくさんいる訳だから、持っていれば何かの役に立つ事もあろう、と無理やりに自身を納得させる。
 戻ろう。青年はソファから立ち上がる。トレーナー達の世間話が遠ざかっていった。
 サーッと静かに自動扉が開く。追加の講習を申し込むでもなく、お見合いの参加登録をするでもなく、青年はセンターを出ていった。喉が渇いていたが、センター近くのチェーン店は通り過ぎた。あそこはポケモンが多過ぎるのだ。噛み付かれたり、唸られたりしてまでお茶をしたくはなかった。
 青年は明日を思った。明日には院試の結果が出る。
 冬の暖日、小春日和。明るい色のタイルが模様を作るセンター通りで青年の影が揺れた。


 薄汚れた研究室にコーヒーの匂いが漂っていた。この大学の敷地は広く、一教授に与えられる個室はなかなかに広い。それをいい事に部屋は教授の趣味の私物で占められる事がよくあった。マクノシタにバシャーモ、ダーテング、キュウコンと思しきもの、牙を見せたサメハダーをデフォルメしたもの等、壁に祭事用と思われるポケモンの面がいくつも掛けられている。にこやかに笑っているものもあれば、憤怒の表情を見せているものもあった。
 焦げた茶色の液の躍るカップには何も入れない。昔はシュガースティックを二本を開け、クリームも二杯は入れたものだが嗜好が変化してしまった。今はブラックのコーヒーを何度かふーふーと吹き、水面をへこませるのみである。一通り湯気を吹き飛ばすと彼はコーヒーに口をつけた。机より値の張ったお気に入りの椅子にもたれかかる。三年前を回想した。
 あれは新入生を迎え、一、二ヶ月経った頃の大学図書館だったと記憶している。これでも無駄に歴史だけはある大学だったから、蓄積した蔵書量は豊富である。オリベ自身もよく本を借りに足を運んでいた。それは同居人≠フ要請でもあったからだ。
 そこで出会った。タテバヤシコウスケに。
 尤も当時は名前も知らなかった。が、よく覚えているのは、いかにも図書館に通いなれた風のその学生が新入生独特の雰囲気を有していなかったという事だ。
 オリベはもう一口、コーヒーを口にする。
 同時に本棚と本棚の間の通路でその姿を見た時、ふと、姿がダブったのだった。
「ツキ、ミヤ……?」
 気が付くとオリベは小さく口に出していた。
『ユウイチロウ、』
 三口目のコーヒーを口に入れた時、不意に同居人が話しかけてきた。
「なんだ」
 ごくりと飲み干すとオリベは口を開く。カップを置いた。彼はどこに向かってでもなく、独り言を呟く風にそう言った。部屋にはオリベを除いて誰の姿も見えない。
『何じゃない。さっきの続きだよ。一体何を考えてる』
「どうするも何も、うちの研究室に入れるのさ。俺は前からタテバヤシを誘ってるじゃないか。お前だって知ってるだろう」
『夏の事だろ? あの時、はっきり断られたじゃないか』
「俺は諦めたとは一言も言ってないぞ。機を待ってただけだ」
『私は反対だ』
「お前の意見は聞いてない。だいたいなんでそんなに嫌がるんだ」
『あれは怖い』
「またそれだ」
 オリベは溜め息をついた。この同居人と来たら、自分がタテバヤシコウスケを意識したと知った時からそうだった。
『あの学生が気になるのか?』
 図書館からの帰り、学生課に寄って名簿を調べているとそう聞いてきて、言ったのだ。
『ユウイチロウ、警告するが、彼には近寄らないほうがいい』と。
「なぜ?」と、問うと当時も同じ答えが返ってきたと記憶している。
『あれは怖い』と、あの時も同居人は言っていた。
 写真付き名簿の中に青年の名前を見つけた。タテバヤシという姓だった。それで気が付いた。とうの昔に使われなくなり、すっかり忘れていたが、タテバヤシという姓はそうであった、と。
「タテバヤシの何が怖いってんだ」
 コーヒーを飲み干す。椅子から立ち、流しのほうへ歩きながらオリベは呟く。
『前にも言った。あれ、たぶん私達と同類だ。ただし、あれにくっ憑いてるのはもっととんでもない。あれに近づくと身の危険を感じる』
「身の危険ってお前が言うか?」
 オリベが突っ込みを入れる。蛇口をひねると水を流した。
「だいたいお前はいつもそう言うが、タテバヤシにくっ憑いているのが何か、説明できないじゃないか」
『……おそらくは怨霊の類』
「つまりゴーストタイプって事か? ベタだなぁ」
『確証は無い』
「無いのかよ」
『凝視すれば分かるかもしれない。でも、近づきたくない』
「お前、俺がタテバヤシに近づくと黙り込むもんな」
『あれは怖い』
「それが分からん」
 オリベはカップをすすぐ。カラン、と洗い物入れにそれを置いた。
『とにかく、あれをここに入れるのなら私にも考えがある。今まで我慢してきたが、ここまで話が進んだなら仕方ない。実力行使させて貰う』
「実体も無いくせに、何をしようってんだ」
 席に戻ったオリベは腕組みをし、呆れた様子で言った。くるりと椅子を回し、方向転換する。壁に並ぶポケモン面の横に整列するように子供の背丈ほどの彫像が立っているのが見えた。それは木彫りで、かなり古い。片目だけを開いたそれは、左目でじっとオリベを見つめているように見えた。
 そして、しばらくそれと睨めっこをしていると、同居人が意を決したように言ったのだった。
『……ストライキをしようと思う』


 広い大学の構内の一角で、青年は通知を開いた。
 予想はしていた。予感はあった。だが、予想はしていたし、予感はあったのだが、その結果は思っていた以上に作為的だと青年は思った。
 考古学コース、補欠。該当研究室無し。
 民俗学コース、補欠。該当研究室、織部研究室。
 その他、同学科にあるコースの結果が続いていた。解せない点がいくつかあった。
 院試がばらばらに行われてたはずの人文科学科の各コース。それがいつの間にか合同になっており、通知にはそれらの結果が書かれていた。一体これはどういう事か。
 考古学の結果にも当然の如く不満と疑念があったのだが、この民俗学コースの取ってつけたような補欠と該当研究室はいかにも作為的である。
 最後に誘うように、結果に対する問い合わせ、必要書類の提出および質疑等は○月×日、人文学部研究棟316号室、民俗学コース織部悠一郎(おりべゆういちろう)までとあった。青年は眉間に皺を寄せた。
 あいつだ。また出てきた、と。
 ざわりと影が蠢く。青年の瞳に仄暗い闇が纏わり付く。面倒だ。前期以来、なりを潜めていたはずだが、また顔を合わせなくてはならないらしい。
 そもそもオリベとの出会いは大学入学後の頃までに遡る。何度か図書館で顔を合わせていたのだが、どうもあちらがいつもそわそわしている。それで訝しんでいたところ、話しかけられたのだ。こちらの名前まで把握しているようだった。
 タテバヤシ君、学年が上がったらうちの研究室に来ないか。
 前後にいろいろと与太話が混じっていたが、かいつまんで言うとそういう事だった。
 もちろん断った。オリベ研究室は民俗学研究室であり、考古学では無かったからだ。
 しかし、オリベは諦めの悪い男だった。事あるごとに誘いをかけてきた。
 そうして一方で気付いてもいた。かつてこの大学の教授であったツキミヤソウスケ、そのツキミヤソウスケと自身の関係、それに最初に気が付いたのがオリベであったのだろうと。最初の一人が考古学教授陣の誰かで無かった事が意外であったが、彼らが気が付くのも時間の問題だった。
 そしてあの夏、前期の終わり頃、卒業論文の中間発表の後に彼はまた現れた。
 あれはえらくタイミングが悪かった。本当に間の悪い男だ。思い出して青年は胸くそ悪くなった。ずるりと影が再び蠢き、躍る。
「出てくるなよ」
 足元に向かい独り言のように呟く。だが足元から生えた角の生えた影達が徐々に登ってきて、青年の身体を舐めるように侵食し始めた。ずるりずるりと影が巻きつく。すうっと怒りの感情がなりを潜め、冷静さを引き戻す。ひどく喉が渇いている事に気が付いた。
 近くどこかで補給をしなければなるまい。そのように定めた後、青年は思考を再開する。
 期限は一週間後か。日付を再び確認した。
 何も道は一本ではない。まだ決まりではない。まだ道が無い訳ではない。見えぬ行き先を睨み付けながら自身にそう言い聞かせた。


 道行きの家々の間に時折、光る海が見えた。漁夫達が愛用するギョサンを履いて、彼は道を歩いていた。それと言うのも同居人が出掛けたいと言い出したからだった。
 空は晴れ渡り、天気は良い。彼らの頭上をキャモメ達がみゃあみゃあと鳴きながら飛んでいく。飛ぶ高さが低い時は道路のアスファルトに黒い鳥影が横切った。海風に当たりながら二百メートルほど道を進むと、バスの停車場と階段が見えてきて、オリベはその先を見上げる。
「ここを登るのが毎回面倒でね」
 と、彼はぼやいた。
『ユウイチロウはこうやって連れ出さないと運動もしない』
 同居人の声が追いかけるように響いた。彼らのいつものやりとりである。
 仕方ないと言いたげな仕草をすると、オリベはゆっくりと階段を登っていく。階段の左手には落下防止を兼ねた鉄の粗末な手すりが上まで続いており、その左に海が見える。ざああ、ざああ、と波の音が聞こえた。カイナシティは海の町である。より海に近い施設では波の音が耳に張り付くのが常であった。オリベはこの音が嫌いではない。波の音が周囲の余計な雑音を掻き消してくれるような気がしたから、彼はこの音が嫌いではなかった。
 階段の右側では青い旗がばたばたと海風に棚引いていて、天辺まで等間隔に並んでいる。周囲の家々の屋根を見下ろせるくらいに登った頃、オリベの目に鳥居の影が映った。見上げた時、瞳に映し出されたその色は旗と同じ青だった。年月の経過からか、それとも海風の所為なのか色が褪せている。最後に塗り替えが行われてからどれほど経ったろうと考えた。鳥居の中心に額縁のようなものがついており、社の名前が書かれている。社の名を白羽波(しらはなみ)神社と言った。青い鳥居を潜り、男は境内に足を踏み入れる。
 ここでの彼の行動は決まっていた。鳥居を右に曲がると真っ直ぐに進み、社務所の正面を通り抜けると、まず拝殿の鈴をガラガラと鳴らす。そうして賽銭箱に硬貨を一枚、投げ入れるのだ。これはここでぼうっとする為の場所代のようなものだ。学生時代にこそ賽銭も払わなかったが、彼も相応の歳を重ね、社が在り続けるのはただという訳にもいかぬと考えるようになった。ただ、自販機で時々茶を買うものの、お守りや絵馬は買った事が無かったし、印を押して貰った事も無かった。
 不良民俗学教授。よく同居人に揶揄される。
「こんにちは、オリベさん」
 拝殿の箱に賽銭を投げ込み、引き返す折、まだ若い宮司が社務所から顔を出して挨拶をした。数年前に先代と交代した若い男であったが、落とす金の少ない参拝者にも愛想がいい。
「やあ」
 軽く挨拶を交わすと境内の端のほうのベンチに腰をかけた。海をバックにした、海風に強い松の木の下の古びたベンチである。松の影が石畳に映し出される。そこでもまた何羽かのキャモメの影が通り過ぎたり、輪を描いたりしている。
 社務所のほうに視線を投げると三、四人のトレーナーらしき少女達が絵馬を買い求めていた。大学からも海からも近いこの神社の絵馬に描かれているのはうみねこポケモン、キャモメである。プリントものと宮司の描いたものの二種類があるのだが、当然に手描きのものの値段は高い。ただそちらのほうが、御利益があるとか気持ちが伝わるとか言われ、あえて手描きを買う者達もそれなりにいるようだった。
 今の代が直接描いている絵馬は線が太い。先代に比べるといかにもか細くて力も弱そうな現行宮司なのだが、人は見かけによらないとオリベは思う。
 この神社の拝殿は海を拝む方向で建っている。その背後を覆うように松とウバメガシとが交じり合った林があって、そのあちこちに絵馬を掛ける小さな屋根付きの掛所が設けられている。絵馬を買ったトレーナー達は記帳台で思い思いの願いを書き記すと、林の中へ入っていった。
 と、それと同時に何か小さなポケモンが数匹、神社の石畳にぴょんぴょんと小さく跳ねながら出てきて、オリベの目に留まった。松の青葉の色に似た緑色の丸いフォルムにアンテナのような赤い冠羽を生やした鳥ポケモンだった。
「ネイティ、今日は居るんだな」
 と、オリベは呟いた。赤アンテナの緑毛玉数匹が黄色い嘴をあっちへこっちへ向け、周囲をきょろきょろと見回している。来る度に毎回では無いのだが、結構な割合で姿を見かける事があった。
 ネイティ、小鳥ポケモン。緑、赤、黄のカラフルな配色とじっと見つめるような大きな目が特徴的な種族である。飛ぶ能力はあまり高くないらしく、ぴょんぴょんと跳ねて移動する事が多い。かといって捕まえやすいのかと言えばそんな事はなく、近づくとテレポートで逃げていってしまう。彼らは小鳥の他にエスパーの顔を併せ持つ。
「なぁ、」
 オリベは同居人に語りかけた。
「前から思ってたんだが、なんであいつら遺跡やら神社やらに現れるんだろうなぁ」
 石畳の上をちょこまかと移動するアンテナの動きを目で追い、続ける。
『波動だね』
 と、同居人が答えた。
「波動だぁ?」
『そうだ。オーラだとかパワースポットって言ったほうが分かりやすいか? 土地から出てる波動ってのは、人間にとっての音楽みたいなもんさ。精霊(ポケモン)にもそういうのがある』
「音楽、ね……」
 それはそういう方向に疎い彼にとっていささか分かりにくい例えであった。
「つまりタバコとかコーヒーみたいなもんか」
『それは嗜好品だろう。そういうのよりは大事だよ』
「……」
 音楽との違いが理解できない。
『岩の物ノ怪(ポケモン)なら岩場がそれだし、草の精霊(ポケモン)なら森がスポットだ。念鳥(ネイティ)って種族にとってはこういう所が最適化されたスポットなんだ。理由は分からないが』
「わかんねぇよ……ところで」
『なんだ?』
「ストライキの件、考え直してくれないか」
 オリベはずっと話そうと思っていた本題を切り出した。
『いやだ』
 同居人は条件反射的に即答した。
「ストライキは困る。原稿が進まない」
『ユウイチロウがあれの研究室入りを諦めればそれで済む話だ』
「……それも困る」
『ならストライキだね』
「頼むよ。締め切り三日後じゃないか」
『いやだ』
「そこをなんとか」
『いやだ』
「…………」
 溜め息をついた。こんなやりとりはもう何回目になるだろうとオリベは思う。堂々めぐりを繰り返すばかりで一向に埒が明かない。分かっているのは締め切りのカウントダウンが進んでいるという事だけである。同居人が本気を出せば一晩で片付くのだが……。
 気が付けば数匹のネイティ達がまじまじとオリベを見つめていた。神社の境内でぶつぶつと独り言を繰り返す男はそれは奇怪に見える事だろう。こちらを見つめるその目は鳥と言うよりは人によく似ていた。
 見世物じゃないんだぞ、とオリベが睨みつけると、尾羽を上下させながらぴょんぴょんと林の奥へ去って行った。キャモメやスバメとは違い、この程度では飛ばないらしい。それにしたって何を考えてるのかよく分からないポケモンである。
「……前から思ってたが、ホントお前そっくりだわ」
『何か言ったか』
「いや、なんでも。それより、」
『私の答えは変わらない。ストライキだ』
「…………」
 オリベはうな垂れる。空を舞うキャモメの鳴き声を聞くばかりで無為に時間が流れていった。参拝者が絵馬を買い求め、林の掛所に掛ける。そんな光景が何度か繰り返された。
「……なあ、俺とお前は二人で一人だよな」
 海風が寒くなった頃にオリベは言った。
『その手には乗らない』
「そんなに嫌なら、タテバヤシには外を回らせるよ。誰かにやらせようと思ってたんだ」
 なんとか譲歩を引き出したかった。最初から予定をしていた事だったが、まるで今さっき思いついたようにオリベは言った。
『……』
「あいつにはホウエン中の神社とか伝説の発祥地を回らせる。そうすりゃあ、めったに会う事も無いじゃないか」
『……だめだ』
「幸いあいつはほっといても論文の一本くらい書けるだろうし……」
 無理やり入った事を前提に話を進めてみる。
『だったら他へやればいい』
 ばっさりと切られてしまう。だが、
「それはだめなんだ」
 と、オリベは言った。
『何故』
「……他に行く所なんて無いからだ」
『どうしてそんな事が分かる』
「そりゃお前、俺の右目には未来が見えるからさ」
 芝居掛かってオリベは言った。
『……霊鳥(ネイティオ)にでもなったつもり?』
 呆れたという風に声が返ってくる。だがオリベは先を続けた。
「人間にはな、未来が見えなくても経験の蓄積からだいたいの事は予想できんだ。天気予報がそうだろう。そういえばあれを初めて見た時、お前驚いてたな。だが、あれは要するに経験の蓄積さ」
 確信を持ってオリベは言った。天気予報は当たるのだ。高確率で。
『予報が外れたら?』
「そのほうがいいと思ってる」
『その感じは外れないって思っているね』
「ああ、そうだとも」
 そこまで言うと二人≠ヘ黙り、ベンチに座る男の独り言が止まった。視線の先でまた一人トレーナーと思しき参拝者が絵馬を受け取る。そうして林のほうへ消え、しばらくして戻ってきた。願を掛けたトレーナーは、石段を降りて去っていく。そんなトレーナーの行為を何度か見送った後、オリベはベンチから立ち上がった。松とウバメガシの林を頂く拝殿には背を向け、海を見る。波の音を絶えず運んでくる海はあの頃と同じように輝いている。
 視線の先には人口の小島がいくつか見えた。石をいくつも積み上げて出来たそれは小さな砦のようだが建物は立っていない。まるで建造が途中で止まってしまったピラミッドに蓋をするように草木が上を覆っていた。
 ――台場(だいば)だよ。
 かつて二人でここから海を見て、あの男が言ったのを覚えている。
 ――昔ここのあたりに外国の蒸気船が来た事があってね、その時に砲台を置いたのさ。
 男の研究の範疇からはだいぶ後の時代になってからの事であったはずだが、歴史には詳しかった。勉強熱心な奴だったとよく覚えている。
 史跡に指定され、手付かずの台場は昔と変わらぬ姿を見せている。波の音が絶えず耳に張り付く。離れない。
「なあ、長期的な損得を考えようぜ」
 オリベの口からするりと言葉が漏れた。
「もし約束の日までストライキなんかしたら、原稿が落ちたら、俺達の、オリベユウイチロウの信用は丸つぶれだ。機会損失だぞ。文章を書ける手があって、せっかく読んで貰う機会が出来たんじゃないか。たとえばファンレターが百通来るとするだろう。そのうちの一通がひどい中傷でカミソリまで仕込んであったとするだろ。そうしたらお前は書くのをやめるのか?」
『そういう事は論じていない』
「同じ事だろう。お前はたかだか一通のいやがらせの為に残り九十九を放り出そうとしてるんだよ」
 話運びが強引だという自覚はあった。なんだかよく分からない論理を押し付けている事も分かっていた。だが、それでも彼は言わなければならなかった。
『ユウイチロウ、それは無理やりだよ。屁理屈だ』
 案の定、そんな答えが返ってくる。しかし、レスポンスがあるならば押す事は出来る。
「分かったよ。じゃあ書くのをやめたらいい。明日、編集に連絡してやるよ。連載はやめだってな。まあ無くなってもなんとかなるんじゃん? そりゃあ面目は潰れるだろうけどな、それで教授の任まで解かれる事は無いだろ」
『…………』
「俺は今までの知識で適当に学生に教えるからさ。これぞ経験の蓄積だよ。蓄積」
『ユウイチロウ、君は』
「戻ってもいいぞ俺は。これでも人生最初の二十年くらいは半分で生きてきたんだ。なんとかなるさ、お前の助けが無くたって……」
 茶番だ、一人舞台だとオリベは思った。そんな気など無いくせに。それはたぶん、同居人のほうも同じで。つまり自分達は探しているのだと彼は知っていた。
『……ユウイチロウ、なんであんなにあれにこだわるんだ』
「決まってるだろ」
『私には分からないよ』
 それを言わせるのか、オリベは歯噛みした。同居人が自分の理解者である事に異論も反論も無かったが、こいつは何かが欠けているのではないかと時々思う。
「それはあいつの息子だからだ。ツキミヤソウスケの息子だからだ」
『まーたツキミヤか。私とツキミヤソウスケのどっちが大事なんだ』
 同居人は少し不機嫌に言った。
「……聞き分けの悪い女みたいな事を言うな。お前は俺の半分だよ。欠くべからざる相手だよ。だがな、あいつは俺にとって、ネイティにとっての神社みたいなもんだった。そういう存在だったんだ」
『あのいなくなった男が?』
「そうだ。少なくともコーヒーやタバコよりはよほど重要だったんだ」
 そこまで言うとオリベはベンチを立った。社務所や拝殿には目もくれず、足早に石段を降りていく。海風の寒さが増していた。
『大学に戻るの?』
「いや、市場に。セシナとコーヒー豆を買い足そう。切れかけてるからな」
『…………』
 オリベは一人、下っていく。石段に映る影がずいぶんと伸びていた。
 分かっている。つまり自分達は探っているのだ。決着の方法、妥協点を。それならばそれは同居人の好きな苦い木の実でも齧りながら考えようとオリベは思った。これもまた経験の蓄積から学んだ譲歩の方法の一つだった。
 石段を下りきる。その時、長い車両が西のほうから走ってきて、
「いいタイミングだ」
 と、オリベは言った。
 カイナ市場行き。石段を降りた先のバス停に丁度よくコミュニティバスが到着していた。オリベは駆け寄り、中に入ると一人分の乗車賃を支払った。空気の抜けるような音と共にドアが閉まり、バスは海辺のアスファルト道を走り出した。
 流れていく景色を望む。水平線が太陽を誘い、太陽がその誘いに応じて海にそのつま先をつけている。道を走る密室の中でオリベの独り言は聞かれなかった。ただバスの走行音と同居人の声だけが頭の中に響いていた。窓から見える海がオレンジに輝いている。
『なあユウイチロウ、君の気持ちは分かったよ』
 同居人の言葉が頭に響き、バスが揺れた。
『だが、あれを無理やり入れたってうまくはいかないよ』
『君もよく知ってるだろうが、憑いてる人間ってのは足りてないんだよ』
『しかも怨霊(ゴースト)だ』
『怨霊(ゴースト)が憑いているってのにはそれなりの理由がある』
『そういう人間は閉じた世界に住んでいる』
『捕らわれてるんだよ』
 ピンポンとブザーが鳴った。バスが止まり、人が降りていく。小さな獣型のポケモンを抱いた客が入ってきて席に座った。抱きかかえられるなら運賃は一人分だ。再びバスが走り出す。
『たとえ表面上は笑顔に見えたって、それは能面をつけているに過ぎない』
『むしろ仮面でもって外と内を遮断しているんだよ。分かるかい?』
 バスが走っていく。オリベは無言であった。太陽が海に片足を突っ込む。次はカイナ総合病院、そんなアナウンスがあってバスが停まった。人々が多く降り、その分乗ってくる。
 それからしばらくはブザーが鳴らなかった。誰も降りないし、誰も乗ってこない。バスがスピードを増していく。市場に向かい、走り続ける。
『ああいう輩はね、仮面の目に開いた小さな穴からしか世界を見る事が出来ないんだ』
『君には無理だ』
『半人前の君には彼を救う事なんて出来ないんだよ』 
『君がいくらあれに心を開いたって』
『あれは絶対に仮面を外さない』
 バスの中は静かだ。誰も無駄口を叩かない。あるのは走行音だけだ。オリベ以外には。
『基本的に嫌いなんだ』同居人が言った。
『人も、精霊(ポケモン)も、今立っているこの場所も嫌いなんだ』
『そういう奴は呪いを撒き散らすんだ』
『傷つけずにはいられないんだ』
『奪わずにはいられないんだ』
『あれの仮面の狭い視界になんかに入ってみろ。取り込まれるぞ』
『そうなったら何をとられるか分かったものじゃない』
『だから近づかない』
『これは本能だ。血が言うんだ。ああいうのは危険だって。だから精霊(ポケモン)はそういう人間の傍には寄らないのさ。視界から逃れようとするんだ。我々は生き残った経験と蓄積からそうするんだ』
『関わってはいけないんだよ』
 がたん、とバスが大きく揺れた。信号停止をする。オリベは海の方向を見たまま何の反応も示さない。
『君は腐ったって民俗学教授だからな』
『あんまりこういう事を言うと危険な好奇心を刺激するかもしれない』
『だから詳しくは言わなかったが』
 バスが再び走り出す。目的地までは一本道であった。またスピードを上げていく。
『あれは危険なんだよ』
 同居人が警告の言葉を繰り返す。何度も。バスは真っ直ぐに走っていく。
『君はもう何度も危険を冒してるんだ』
『分かってくれ』
『私は心配しているんだよ』
『私達の心配をしているんだ』
『君と私の心配をしているんだ』
『人とも精霊(ポケモン)とも相容れない、そんな男がうまくやっていける訳がない。むしろ君のリスクばかりが増え……』
 ピンポーン。遮るようにオリベがブザーを押した。
「次は終点、カイナ市場でございます」
 運転手がアナウンスした。
『わざと押したね』
『終点でブザーを鳴らす必要があるのか。嫌味な男だ』
 バスは減速して、終点に到着した。
 乗客達がぞろぞろと降車を始める。オリベも同様に降車した。特徴的な形のアーチが出迎え、役目を終えたバスが去っていく。振り返ると夕日に染まる海が見えた。その日最後の太陽の眩しさに男は目を細める。カイナシティは今、昼と夜の境にあった。
「いらっしゃい。そろそろ来ると思っていたよ。セシナかい?」
 市場の中ほどに差し掛かった時、馴染みの果物屋の店主が店先に現れて、オリベを出迎える。その後ろには色とりどりの木の実が並んでいた。カイナ市場に木の実を扱う店は多いが、苦い木の実はここが一番いい。
「十個くれ」と、オリベは言った。『十個』と、声が聞こえたからだった。
「教授、苦いの好きだよねぇ。今日はいいドリが入ったんだよ。持ってかないかい?」
 ギザギザの不恰好な木の実を袋に詰めながら、店主は尋ねる。
『それも食べたい』
「ドリは高いだろ」
「まけとくよ」
「それじゃあ二個くれ」
 オリベが答えると
「おい、ドリ三個持ってきてくれ」
 店主が店の中に声をかけた。並んだ果実の山の中から、帽子を被った何かがひょっこりと顔を出した。それは人の子くらいの背丈であったが、全身が緑色で、鳥の嘴に似た口は先が朱に染まっていた。店の奥に並んだドリアンに似た大きな実を三個、手に取って帽子の上に乗せるとひょこひょこと歩いてくる。
「一個まけとくよ」
 店主のすぐ下まで歩いてきたハスブレロ、その欠けたフライパンのような帽子からドリの実を持ち上げると店主は言った。オリベはお代を支払い、ずしりとした袋を受け取る。両手が塞がって、コーヒー豆を買う余裕は無いかもしれないと思った。重い片手で軽く手を振り、店主と別れる。元来た道を引き返していった。見た事のある人物が目に入って足を止めたのは店を三つ四つ過ぎたあたりであった。先に気が付いたのは同居人のほうだった。
『ユウイチロウ、』
「ん?」
『あそこ』
 白い服を着た淡い色のくせ毛の青年が一人、別の果物屋で買い物をしていた。どうやらあちらの目当ては甘い木の実であるらしく、ピンク色のモモンの実を指差している。
 お兄ちゃんいい男だねぇ、おばちゃんいっぱいおまけしちゃうよ。いかにもそんな感じで女店主が接客にあたっている。青年はパンパンに詰まったモモンの実の袋を二つ、受け取った。両の手に提げて去っていく。後姿が父親によく似ているとオリベは思った。
「……うまくやってるじゃねぇか」
 オリベが言うと、
『見かけに騙されてるんだよ』
 と、同居人は反論した。


 太陽がすっぽりと海に沈んだ。街全体を照らす大きな灯りを失った市場や港には無数の小さな光が灯り出す。それはカイナシティが夜を迎えた合図だった。日没と共に市場は次々に店仕舞いとなり、同時に周辺の人通りは目に見えて減っていった。
 モモンの袋を提げた青年が一人、港と市場の境を歩いている。より人のいないほうへ、より灯りの無いほうへ、より暗いほうへ、彼は歩みを進めていく。やがて地と海の境に行き着くと方向を変え、海沿いに歩いていく。コンクリートで固められた岸壁に波が当たるちゃぷちゃぷという音が耳に響いた。今日の仕事を終えた小型の船舶が波の揺りかごに揺られながら眠りについている。
 このあたりでいいか、と青年は船を繋ぐ係船(ビット)に腰をかけ、モモンの袋を置いた。おまけをして貰えるのは助かるが、人目を避けて歩き回るにはいささか量が多かった。
「出てきていいよ」
 そう青年が声をかけると足元で無数の眼がぱちぱちと開いた。三色の瞳だった。青年は袋から一つ、桃色の木の実を掴み出す。
「早いもの勝ちだよ」
 そう言うと、取り出した一つを齧った。唇から甘い果汁が零れ、つうっと喉を伝う。齧りつきながら強烈な喉の渇きが少しだけ楽になるのを感じた。
 いつの間にか無数の角付きてるてるぼうず達が湧き出して、足元に置いた袋に群がっていた。モモンの一つは袋から転げ落ち、一つは見えない力でもって宙を舞った。モモンが空中に放り出される度に、二、三のカゲボウズが飛びついて齧りつく。あれほどパンパンだった袋の中からはみるみるうちにモモンが失われていった。種だけになったそれを青年が海に捨てた時、袋の中身はあらかた食い尽くされた後だった。青年は軽く口をぬぐった。
 分かってはいたが足りない。全然だ。モモンを口にしたのは全体の半分にも満たないはずだ。暗い海の風が青年の髪をなびかせる。
「さて、木の実を食べた君達には頼みがある」
 青年がそう言うと闇に光る三色の瞳が一斉に彼を見た。
「君達には獲物を探してきて貰いたい」
 青年は言った。
 分かっている。甘い木の実など、ほんの一時凌ぎに過ぎない。青年も影達もよく知っている。濃厚な負の感情はモモンなんかよりもっともっと甘いのだという事、何より十分に喉を潤してくれるという事も。
「僕達にふさわしい獲物を見つけてくるんだ。皆でゆっくり味わって食べられる獲物をね……」
 人形ポケモン達の瞳が妖しく光る。青年がくすりと笑みを浮かべた。
 影達が青年を起点にして街のほうへ飛んでいく。夜色の衣をはためかせながら、カイナの夜景の中に散っていった。
 ふう、と青年は息を吐いた。ひとまず獲物の事はカゲボウズ達に任せておけばいい。腹が減ればつまみ食いだってするだろう。問題は自身の事だ。世の中には他によほどうまくいかない事がある。


 洋梨とひょうたんを足して二で割ったような形。セシナという木の実はしばしばそう表現される。きれいな緑色をした見た目は悪くないが、苦いのであまり人気が無い。だが、それはあくまで人間という範囲に限定した話である。
 セシナを軽く水で洗い、頭から包丁を入れ真っ二つにする。さらに二つに切り四つにすると、皿に盛り付け、机に戻る。欠片の一辺に齧りついた。男は良質なものは皮ごと食べてもうまい事を知っていた。
 苦味を口に含ませた時、コツコツとノックの音が響く。
「……タイミングの悪い」不機嫌そうにオリベの声が言った。
「ユウイチロウ、客だぞ」
 小声で言うと、同居人が引っ込む。すると、
「どうぞ」
 セシナの欠片を持ったまま、交代したオリベが答えた。
 まったく、皿に戻すくらいやれなどと思いながら、欠片を置くとキイとドアが開いたのが見えた。なるほど、あいつがすぐに引っ込んだ訳だ。客の姿を目の当たりにしてオリベは笑みを浮かべた。
「待ってたよ。タテバヤシ君」
 オリベはいかにも上機嫌な風に言った。訪問者はあの日の夕方、市場で見かけたくせ毛の人物、その人であった。机の前に用意した長椅子とパイプ椅子を指差すと、再び流しのほうへ歩いていく。
「コーヒーはブラックしか無いがいいかな?」と、尋ねた。
「お構いなく」訪問者の青年が答えたが、彼が聞いている様子は無い。
 ほどなくして、カシャンと音を立て、カップとソーサーが青年の目の前に置かれた。苦い焦茶色の液体がたぷんたぷんと揺れ、湯気を立てていた。
「…………」
 青年は黙ったままだ。手をつける様子は無かった。
「さて、どこから話そうか」
 カツカツと机まで戻り、再び椅子に腰掛けるとオリベは言った。
 広い部屋に置いた長椅子と机の間の距離は長い。それがそのまま今現在の青年との距離に思われた。無論、近づける事も出来たのだが、今はこれくらいが話しやすかろうと考えた結果だった。
 ――基本的に嫌いなんだ。
 同居人の声が蘇った。
 急に部屋に掛けた物ノ怪(ポケモン)達の仮面が自身を嘲笑っているように見えた。横に立った木彫りの彫像だけがいつもと変わらない表情を見せている。右目を閉じ、左目だけをカッと見開いて、何を言うでもなく立っている。これの印象だけはいつ見ても不変に思われた。
「さて、タテバヤシ君、考古学コースの補欠結果に関してだが、結果については希望に添えないと伝えなくてはならない」
 オリベは言った。仮面を被ったみたいに青年の表情は変わらない。だいたいの察しはついているのだろう。
 補欠なんて名前だけだ。一応の公平を与えただけなのだ。今年はみんな補欠だったのだから。誰がどこに入るかなど関係なかった。タテバヤシコウスケの受け入れ先など最初から存在せず、結論も最初から決まっていた。青年に補欠合格が出る事は無い。補欠は補欠のままだ。ただ一つ、誰が伝えるかだけが決まっていなかった。
 茶番だな。と、オリベは思った。その茶番劇に自ら足を踏み入れ、脚本作りに加わったのだ。
「残念だよ。本当に」と付け加えると、
「……結論は一度聞けば十分です」青年が言った。
「いや、そうではなく」
「?」
「他大学の結果さ」
 青年の眉が僅かにぴくりと動いた。
「君がこの大学の院試しか受けないはずが無い。考古学をやってるのはカイナ大だけじゃないからな。そうだろ? 君がここに来たという事はそういう結果だったという事だ」
「…………」
「俺の知ってる限り五日前はカナズミ大の発表だったし、三日前はミナモ学園か。他にもいろいろあったかもな」
「……、…………」
「受かると良かったんだが。言っとくがこう思っていたのは本当だ。信じる信じないは君の勝手だがね」
 そう言ってオリベはおもむろに机の上にあったセシナを齧った。苦かった。
「臆病者の、いや……横の繋がりっていうのは怖いな」
 青年は答えない。手をつけられぬカップの中で揺れなくなった焦茶色の水面が静止していた。
 オリベはセシナをもうひと齧りする。やはり苦い。芯ばかりになったセシナの欠片を皿に戻すと、再び木彫りの像が目に入った。その木像の顔は丸い。先端には長い嘴があり、先が少し曲がっている。とっかかりが欲しいと彼は思った。
「なあタテバヤシ君、こいつの事、君はどう見るかね」
 唐突にオリベは尋ねた。青年は怪訝な表情を浮かべたが、ちらりと木像に視線を投げる。
 木像は背の高い鳥の形をしていた。霊鳥(ネイティオ)、精霊ポケモン。それは丁度オリベと青年の間に立っていて、オリベには閉じた右目を、青年の側に見開いた左目の横顔を見せていた。
 不意にぐぐっと霊鳥が青年のほうを向く。席を立ったオリベが角度を変えたからだった。
「いいだろ? こいつ」
 ぽん、とその頭に触れるとオリベは言った。木彫りの霊鳥は左目を開けたまま沈黙している。
「…………」
 青年はしばしその霊鳥像を眺めていたが、
「……怨念を感じますね」
 と静かに言った。
「怨念?」
「ネイティオというポケモンは右目で未来、左目で過去を見ているのでしょう? 本当かどうかは知りませんが。わざわざ未来の右を閉じて、過去の左を強調したのですから、よほど忘れたくない何かがあったんです」
「何か、か」
「あるいは忘れさせたくない何か。たとえ他が忘れても作った本人は覚えている……」
 くく、と喉の奥でオリベは笑った。同時に嬉しくなった。
 本当にこの青年は父親にそっくりだ。少々、性格がひねくれてはいるが。
 喜べツキミヤ。こいつは間違いなくお前の息子だ、とオリベは内心に呟いた。
「こんなものがいいと言う、貴方の気が知れませんね」
「そうか? 俺は作者の感情が出てるもんは好きだよ。その点で見れば最高だと思うがね」
「貴方とは趣味が合いそうに無い」
 青年は否定の言葉を口にしたが、それでいいのだととオリベは思った。会話が無いよりはあったほうがいい。たとえそれが望む言葉で無かったとしてもだ。自然とその顔に笑みがこぼれた。
「一次試験は合格だな」
 オリベは言った。
「一次試験?」
 パイプ椅子に座った青年がきつい上目遣いでオリベを見る。
「君はあくまで補欠だからな。追加試験だ。ちなみに二次まである」
「待ってください」
「まぁ聞けよ」
「僕はこっちに進むとは……」
 青年がそう言いかけると、オリベは少し強い調子で言った。
「いいから。もちろんやるもやらんも君の自由だ。だが、ここは俺の部屋で、俺は試験責任者で、そして君は受験者なんだ。話だけは聞いていきなさい」
 そこには歳を重ねた者の迫力のようなものがあって、青年は押し切られてしまった。
「で、民俗学の二次試験だが、」
 オリベは仕切りなおす。
 そうして一言こう言った。
「ポケモンを一匹、捕まえてきたまえ」
「は……?」
 青年はあっけにとられた。これは、性質(たち)の悪い冗談ではないだろうか、と彼は勘ぐったに違いなかった。不意打ちである。悪タイプに同じ名前の技があるが、明らかな不意打ちである。誰が予想するのか。院試でポケモン捕獲などと。
 だがそれを気にする様子も無く、オリベは更に追い討ちを仕掛けた。
「聞こえなかったか? ポケモンだよポケモン。不思議な不思議な生き物、ポケットモンスター。縮めてポケモン」
「それは分かりますが、何故……」
 戸惑いを隠せない様子で青年は言った。よりによってポケモンとは。
 オリベは全て織り込み済みという様子で話を続ける。
「だって民俗学ってフィールドワークだろ? かの有名なトオノ物語だって、民俗学の父、ヤナギダが各地を歩き回って書いたんだぜ? 道行きで凶暴なポケモンに会ったらどうするんだ? 神社や伝承の地は山奥にだってあるんだぞ」
 怒涛の如くオリベは語った。今日この為に用意した論理武装だった。
「それに最近は物騒だからな。ポケモン使ってカツアゲする輩もいるかも分からんぞ。旅費を盗られてもいいのか、お前は。カツアゲ分をうちの研究費で補填するなんて俺は真っ平だ。ただでさえうちは配分が少ないんだ。つまり……」
 そこまで言って彼は仕上げにかかる。
「自分の身は自分で守れ。これがオリベ研の基本理念であり鉄の掟だ」
 どうだこれで満足か! オリベは引っ込んだまま、一言も発さない同居人に向かい叫んだ。内心で。ポケモンの捕獲。これが彼らの出した決着点、妥協点であった。ただし、次に詳細な条件を提示せねばならなかった。
「ただ俺も鬼じゃあないからな。ポケモンセンターで貰って来ても捕獲のうちに入れてやる。簡単だろ? その代わり、」
 次々に条件が飛び出した。同居人が定めた条件であった。
「ポケモンが君に懐いてなきゃ認めない。いざという時に使えないんじゃ困るからな。それと」
「それと?」
 やや食傷気味になって青年は尋ねた。
「俺、幽霊の類は苦手なんだ」
「……民俗学教授なのに?」
「そうだ。幽霊の話を聞くと身の毛がよだつ。だからゴーストタイプはだめだ」
「!?」
「連れて来てもカウントしないからな」
 青年は驚きを禁じえなかった。こいつは何かを知っているとでも言うのか、と勘ぐった。偶然にしては提示条件が出来過ぎている。だが、とてもオリベが見える側の人間とは思えなかった。たった一つ結論としてはっきりしている事項は、奥の手が封じられたという事だ。カゲボウズをモンスターボールに入れてくる、という奥の手が。
 カゲボウズはだめ、手に入れても懐いていなければ意味が無い。二つの条件が鎖になって絡みついた。
「貴方は僕を入れたいんですか、入れたくないんですか……」
 青年は戸惑いを口にした。今までの行動と今日の言動がちぐはぐ過ぎる。意味が分からなかった。
「私にも事情があってね」と、オリベが答える。
「だが、考えてもみたまえ。この程度がクリアできないようでは、君はどんな道も進めない。そうは思わないかね?」
 それがとどめの一言だった。返す言葉が無い。
「期限は一ヶ月だ。一ヶ月以内にポケモンを連れてきたまえ」
 青年は吊り橋を落とされた気がした。あらゆる道を選ぶその前に渡らなければならない吊り橋を。長テーブルに置かれた冷めたコーヒーカップに、苦悶が浮かんだ。
「タテバヤシ君、私は一度定めたルールは曲げない。どこかのコースの教授共とは違う。それだけは言っておく」
「…………」
「民俗学はそう悪くないと思うよ。考古学研の中には物的証拠に乏しいと馬鹿にする奴らもいるが……君の親父はもちろん違ったがね」
 茶色の液が揺れた。青年が立ち上がったからだった。
「オリベ教授」青年が含みを持たせるように言った。
「ん?」
「僕はね、何も民俗学を馬鹿にしている訳じゃない。入り口とアプローチは違っても目指すところは同じだと思ってますよ。ただ僕は、火事場泥棒とは一緒に研究したくないと言ってるんです」
「火事場泥棒?」
 今度はオリベが面喰らった。
「そのネイティオ像は、昔、父が管理していたものだ。どうやって手に入れたんです? 発掘品にそうそう手はつけられないはずですがね」
 そこまで言うと、青年は背を向けた。
「失礼させて貰います」
 バタンとドアが閉まる。お世辞にもいい音ではなかった。オリベはしばし呆然としていたが、
「火事場泥棒ね…………きっついな」と、呟いた。
『実際似たようなものだったしね』
 いつの間にか復帰した同居人が追い討ちをかける。
「お前はもう少し黙ってろ」オリベが返した。「とりあえず約束は守ったからな。これでいいんだろ?」
『ああ、いいとも』
 同居人は満足げに答えた。
「今度はこっちとの約束を守って貰うぞ」
『原稿は書くよ。もちろん』
「そうじゃない」
『まさか、本当に出来ると思ってるの?』
 自信たっぷりに言った同居人の声は少々の嘲笑を含んでいた。
「できるも何も……」
 そう言いかけた時だった。けたたましいサイレンの音が耳を貫いた。オリベは窓のほうを見る。
「何だ?」
 窓に張り付いて外を見る。音が近づいてきた。ほどなくして赤いランプを回転させて白い救急車が入ってきたのが分かった。ドアが開き、救急隊員達が駆け込んでいく。肩にプラスルを乗せた隊員はワンリキーを2匹ほどボールから放った。隊員が小走りに駆け込み、担架を担いだワンリキー達が後を追った。野次馬が何人も校舎外に出る。あたりが騒然とし始めていた。オリベはドアを開き、研究室から出る。廊下もざわついている。
「どうしたの?」
「怪我人?」
 話し声が聞こえた。走り出す。階段を下った。『野次馬め』と同居人の声が頭に響いたが無視する。階段の学生達をかわしながら、足早に降りてゆく。一階の入り口から校舎外に出ると更に野次馬が増えていた。
「教授!」
 学生の一人がオリベのほうへ走ってきた。来期に四年になるオリベ研の学生だった。
「何があった?」
「それが、考古学研の教授が大怪我したらしくて」
「考古学研?」
「どいてくださーい!」
 後ろから隊員の声が聞こえた。担架を持ったワンリキーが怪我人を運んでいく。体のあちこちに包帯を巻かれ血を滲ませた男が横たわって、オリベの前を通り過ぎた。
「フジサキ君……」
 と、オリベは口にした。
 怪我をした考古学教授は卒論時の担当教官だった。タテバヤシコウスケの。

「…………」
 主が運び去られた部屋の惨状を一目見ようと野次馬達がたかっている。彼らの話を総合するなら部屋の中には血があちこちに飛び散っていて、茶色く変質し始めているらしかった。その騒ぎの様子を冷徹に青年は見つめている。
「先輩……」
 誰かが声をかけた。振り向くとそれはフジサキ研の後輩であった。これ以上見ちゃいけない。そう言われ、部屋を出されたその学生は落ち着きのない様子でおろおろとするばかりだった。
「教授が、フジサキ教授が……いきなり外から何か飛んできて、ガラスが割れて、それで……それで!」
「落ち着いて」
 静かな声で青年は言った。野次馬達の足の隙間を縫って何かが青年のほうに向かって飛んできた。だが、青年以外にそれに気が付いた者はいなかった。彼らには見えていないのだ。何かは後輩の足をすうっとかわすと青年から伸びる影に吸い込まれていった。
 がたがたと震える後輩の肩に触れる。身体全体から恐怖が滲み出ているようだった。野次馬達が口々に何か言っている。喧騒はしばらく止みそうに無かった。


 視線の先にポケモンセンターの中庭が見えた。
 青年は思った。まさか「彼女」と同じ事をやる羽目になるとは思わなかった、と。
 ポケモンセンターの待合ロビーに人の姿はまばらであった。というのも十代の新規トレーナー参入にはシーズンがあり、カイナでは春や夏に多かったからだ。オフシーズンである今の時期のお見合いは参加人数も少なく年齢層もまばらである。お陰でその日に飛び入り参加できたのは青年にとってはありがたかった。
「今日はアチャモの日ですがよろしいですか」
 受付が言って青年は承諾を口にした。正直何でもよかった。オフシーズンである今の季節は三種混合のお見合いは行っていないらしい。整理券を受け取ったが、整理するほどの人数もいなかった。彼らは入場を何回に分けるでもなく、中庭に入っていった。
 中庭にオレンジ色のひよこポケモンがたくさん放されていた。黄色い冠羽をひょこひょこと動かしながら、走り回ったり、地面をつついたりしている。参加のトレーナー候補達は二十代以上が多いように思えた。無闇にひよこを追い回すでもなく、ある者はゆっくりと近づき、ある者はブリーダーに貰ったポロックで早速釣りにかかっている。皆落ち着きがあった。
「ねえ貴方、ポケモンを持つのは初めてでいらっしゃるの?」
 どうしたものかとオレンジの集団を遠巻きに眺めていたところ、急に声を掛けられた。
「ええ、まぁ」
 青年は答える。振り向くと自身より二周りほど背の低い年配の女性がにこにこ笑いながら立っていた。服装は小綺麗で、シックな色でまとめている。飾り立てず上品であった。いいところのマダムなのだろうなと青年は思った。
「ワタクシは二匹目ですのよ。前はミズゴロウを頂いたわ」
 マダムが言う。
「一匹目を貰って次は野生の子と思ったのですけど、すばしっこいし、ボールは当てられないしでね、かといって私もあまり走れないし。結局貰う事にしましたの」
「へえ、二匹目も貰ってもいいのですか」
 青年は返事をした。
「そうなのよ。本当はね、二匹目は野生がいいんですって。それが最初の子の自信にもなるからって。私は駄目なトレーナーね」
「そんな事無いですよ」
「そうかしら」
「最初の一匹で躓く人もいますから」
「そんな方がいるんですの?」
「ええ、僕の知る限りでは二人ほど。だから世の中には結構な数がいるんじゃないでしょうか」
 そう言って青年は笑った。カゲボウズはカウントに入れなかった。
「それにしてもなぜ二匹目を? 一匹のみの方も多いと聞きますが」
 関心など無かったが話ついでに青年は聞いてみた。こうやって話題を振るとこの手の人間は喜ぶものだ。人は基本的に話を聞いて欲しいものなのだ。
「実は主人の勧めですの」と、マダムは言った。
「貴方ご存知? 最近は物騒ですのよ。通り魔が出るんですって」
「通り魔、ですか」
「そうなのよ。まだ捕まっていないみたいなの。トレーナーの方も何人も被害に遭ってるんですって」
「トレーナーが、ですか」
「ええ、幸い死者は出ていないらしいんですけどね、刃物でね、いきなり切り付けてくるんですって! もう何人も運ばれてるって話だわ。物騒よね」
 怖いわ、両の手の指を結び、マダムは言った。
「それでね、ポケモンを増やしたらって主人が言い出したの。ベテランもやられてるっていうし、正直意味は無いと思うのだけど。でも手持ちの子はたくさんいたほうが賑やかだと思うし、だから乗っかっちゃったわ」
「なるほど」
「さあて、どの子にしようかしら。迷っちゃうわね」
 マダムはそう言うと進み出て、アチャモの群れの中にゆっくりと入っていく。動きこそ落ち着いているが彼女が一番はしゃいでいるのかもしれないと青年は思った。群れの中に割って入ったマダムは一匹を抱き上げ、また一匹を抱き上げて品定めを始めていた。
「通り魔ね……」
 青年は呟いた。院試やら免許取得やらでてんやわんやのうちにそんな事になっていようとは。
 ふと、二、三日前にフジサキ研で回収したカゲボウズの事を思い出した。血を流して倒れていたというフジサキ教授。後々後輩から聞き出した情報によれば鋭利な切り傷だったという。獲物探しに放ったカゲボウズが何かを感じてその場所に来たらしい事までは分かったが、それ以上の情報をその個体から得る事はできなかった。
 同じ者の仕業だろうか? どちらであるにせよ、大学のほうは後輩いわくガラスを割って入ってきた何かだ。わざわざ何かと表現するからには人ではあるまい。
「人で無いならポケモンだが……」
 気になった。通り魔とやらが。同一犯にせよ、複数にせよ、それが明確な意思でもってターゲットを定めているのなら、見所がある。
 喉が渇いたな、と青年は呟いた。カゲボウズ達を飛ばし数日が経つが、ちゃんとした獲物はまだ得ていない。
 何も出来なかった、怖かくて動けなかった、そう言って自身を責める後輩に居残りの影を向けてみたのだが、彼はどうにも薄くて駄目だった。恐怖にしろ悲しみにしろちゃんと摂る為には蓄積された濃さが必要だ。それも内向きよりは外に向いた感情のほうがいい。つまり恨みがいい、妬みや嫉みがいい。
 青年はしばし考え込んでいたが、ふと今はお見合いであったと思い返し、苦い表情を浮かべた。あの男は嫌いだ。だが、結局は二次試験に挑もうとしている。心と行動がちぐはぐだと思った。
 青年はアチャモの群れにゆっくりと歩み寄る。すると、途端にピヨピヨと騒いでいたオレンジのひよこ達の声が止み、青年から半径三メートルほどを維持するように逃げ出した。群れは青年の動きに合わせ、移動していく。
「あら、どうしちゃったのかしら」
 マダムが群れの後を追った。


「いよう、」
 横たわったまま窓を見ていたフジサキが頭だけ動かすと、そこにオリベが立っていた。
 海の博物館近くに病院はある。事件の後、救急車が走り込んだ先はこの場所であった。
「座っていいか」
 オリベが聞いて、ええ、とフジサキは答えた。
「具合はよくなさそうだな」
「意識は至極はっきりしてますけど、体が動かなくてね」
「そうか」
「というか、痛いですね」
「だろうな。ずいぶんひどく出血していたようだから」
「見たんですか」
「野次馬根性が昔から抜けなくてね」
「相変わらずですよ。先輩は」
 フジサキが言った。彼は二人きりになるとオリベを「先輩」と呼んだ。
 オリベが片手を上げる。右手の指に買い物袋がぶら下がっていた。
「見舞いの品と言ってはなんだが」
 色付きの袋にはフエンせんべいというロゴが見える。
「よく手に入りましたね」
「市場で時々入荷してるよ。お前、これ好きだったよな」
「ありがたく頂戴します」
「ここに置く」
「はい」
 そんな会話をして、ベッドの脇にあったキャビネットに袋を置いた。そして、オリベは先客があった事に気が付いた。キャビネットの上に別の紙袋が置かれていたからだ。
「息子さんかい」と、尋ねる。
「ええ、ここんとこ毎日来ます」
「そうか、いい子に育ったね。確か名前はアサト君と言ったっけ」
「ええ、そうです」
 フジサキは少し嬉しそうに言った。オリベは未だ独り身であったから、この感覚は良く分からない。ただ子を持つ親は皆似たような反応をする事も知っていた。
「あいつはポケモンコンテストをやっておりましてね、大事な大会があったのにすっ飛んで来ました。悪い事をしてしまった」
「あんたのせいじゃないさ」
「親は子の活躍を願うもんですよ。私は昇進遅かったから、余計にね」
「……そういえば、君の前任はツキミヤだったな」
 オリベは思い出すように言った。
「そう、ツキミヤ教授のポストが空いて入れたんです。僕の場合は助教授でしたけど。あの時は大変でしたが棚ボタでもありました。こういう事を言うと不謹慎ですが」
「棚ボタなんかじゃないさ。君に相応の実力があったからポストが回ってきた。それだけの事だ。ツキミヤは運が悪かったんだ。あの時の俺なんか……」
「それこそタイミングの問題でしょう」
「俺はいつだって間が悪いんだ。あれの息子の件だって」
 自らを卑下するようにオリベは言った。
「タテバヤシの件、うまくいってないのですか」
「いろいろ障壁があってな。三歩進んで二歩下がる感じだ」
 俺は独り身だからな、と彼は続けた。
「ガキの扱いはよく分からんよ」
「ガキって歳でもないでしょう」
「仕事もしてない、ポケモンも持っとらん奴は歳食ってもガキと一緒だ」
「それって先輩の事なんじゃないんですか?」
「うるさいな。少なくとも俺は仕事はしてるぞ」
「そういう事にしておきます」
 そこまで言って二人は笑った。せんべい食べたいな、とフジサキが言うのでオリベが包装紙を解く。小袋まで破くと渡してやった。フジサキは左手で受け取ったが、食べ辛そうであった。フエン名物を齧り、二人はしばし談笑した。
「ねえ先輩……私は間違っていたのでしょうか。だからこんな事になったのかなとそう思ってるんです」
「何がだ?」
「タテバヤシの件ですよ」
「気にしているのか」
「してないと言えば嘘になりますかね。それでも私は、我々は、あいつを上にやる訳にはいかなかったんですよ。修士は研究者のタマゴだし、博士ともなれば言うまでも無い。学士とは重みが違うんです。私にはタテバヤシを上に進ませる勇気は無かった」
「…………」
「もちろん、あの時の真相を調べる勇気もありません。私はポストに収まって見て見ぬふりをした……これはそういう事に対する罰なんじゃないのか。時々ふっと思うのです」
 オリベはしばらく沈黙していたが、
「俺の意見を言わせて貰うなら……」と、始めた。
「無差別の事故と人の行いに因果関係は無いよ。善人が死に、悪人が生き残るなんてよくある事じゃないか。天罰というのは人間が勝手に思い込んだものだ。その概念は後ろめたさからくるものだ」
「民俗学教授にしてはロマンの無い意見ですね」
「それは違う。だからこの国は神社だらけなんだ。後ろめたいから神に祀り上げる。後ろめたいから神にすがるんだ」
「ひねくれてますよね、先輩って」
「何でもいいじゃないか。少なくとも君は学士までは面倒を見た」
「それはタテバヤシの正体を知らなかったからだと思いますよ?」
「知った後にも全うはしただろう」
「タテバヤシはね、何のアドバイスも求めてこなかった。全部一人でやったんです。私は何もしていない。完成した論文を読んだだけだ」
「十分じゃないか」
「そうでしょうか……」
「人にはな、容量と優先順位というものがあるんだ。何を一番にして何を後回しにするか……何を切り捨てるか。その順位をとやかく言う資格は俺には無い」
「先輩の優先順位は高いって事ですか」
「私は独り身だからな。容量が余ってるだけの事だ」
 長居してしまったな、とオリベは立ち上がった。面会時間もそろそろ終わるし、大学に戻る旨を伝える。すると、
「待ってください先輩」
 と、引き止められた。
「何だ?」
「容量の余ってる先輩にお願いがあります」
 振り返ったオリベにフジサキが言った。


 サイレンが響いた。近づいてくる。ほどなくしてセンターの自動扉が開いて、ガラガラという音が入ってきた。
「救急です! 緊急対応をお願い致します!」
 ひよこの群れを蹴散らすだけに終わった見合いの帰り際、そんなアナウンスが耳に入った。
 ストレッチャーがガラガラと青年の横を通り過ぎ、切り傷だらけのワカシャモが血を流したまま治療室に運び込まれていったのが見えた。
 きゃあ、とか、うわ、とか、そんな声がセンター内に広まって、どよめきになる。
「トレーナーは!?」
 職員が救急隊員に尋ねると、
「カイナ総合に搬送されました」
 と、返事が返ってきた。
 またなの? そんな表情を眼鏡の女性職員が浮かべている。
「通り魔だ」
「また出たんだ」
 ざわざわとセンター内に波紋が広がっていくのが分かった。
「今度はどこ?」
「博物館近くらしい」
「やだ。あそこ結構行くのに」
 センターにたまたま居合わせたトレーナー達が口々に言った。
 青年はその言葉に集中した。言葉の中から状況を把握しようと努めた。しかしどうにも、精度があいまいでぼやけた像しか結ばない。確かな事は被害者達がいずれも切りつけられているという事項のみであった。
 センターの自動扉がまた開いた。今度入ってきたのはテレビカメラを担いだカメラマンとマイクを持った若いインタビュアであった。
「被害に遭ったポケモンが搬送されたのはこちらですか!?」
 インタビュアが職員にマイク向ける。その様子に青年は顔をしかめた。
「お引取りください。緊急対応中です」
 職員が静かに言うと、インタビュアはマイクを向ける先を替えた。センターに居合わせたトレーナー達、彼らの言葉と不安な表情を撮影する戦法に切り替えたようだった。
「最近は、怪我をする人が多くて……定例大会も何か盛り上がらなかったんですよ。そうしたら今度は通り魔でしょう? だから今度は申し込み自体が少なくなっているみたいで……」
「いつまでこんな状態が続くんでしょう」
「早く犯人が捕まるといいですね」
「被害はバトルするトレーナーだけじゃないですよ。コンテストのほうもやられてるみたいです。無差別ですよね」
 次々にトレーナー達が口にした。
「コンテストの練習したいんですけど、ママにあんまり出歩くなって言われちゃって」
 と、言ったのはミニスカートの少女であったし、
「システムで対戦相手を募集しても集まりが悪くって」
 と、言ったのはバッジをいくつか持ったトレーナーであった。
「怖くてポケモンが出せないですよ。うちのエネコちゃんに傷をつけられたらと思うとねぇ」
 年配の小太り男性がそう言い、
「お祓いでもして貰ったほうがいいのかしら」
 と、こぼしたのはオカルトマニア風の女性であった。
 インタビュアが音を録り、カメラマンが丁寧に絵を録っていく。今晩にもなればニュースで流れるのだろう。青年は背を向けた。音を録る機材も、絵を録る機材も、好きでは無かった。過去の苦い記憶が蘇った。影が騒がぬうちにセンターの外に出ていった。
「またなの?」
「昨日、第二センターにも運ばれたらしいよ」
 外でも噂が飛び交っている。天気はすこぶるよかったが、カナシティの雲行きは怪しかった。日差しが強い。レンガを敷き詰めた道路には影が濃く刻まれる。不意に青年の影の隣に、角を生やした小さな影が映り込んだのはその直後であった。
「何か見つかったのかい」
 青年は尋ねる。隣には誰の姿も見えない。青年はしばし歩くと人の目の無い事を確認し、木陰にあったベンチに腰を下ろした。つうっと指を伸ばす。傍から見ると何も見えないのにその指先は何かを撫でている。
「見て欲しい場所があるって?」
 指先に話かけるように青年は言った。


 みゃあみゃあと鳴き交わし、輪を描きながら白い翼のポケモンが空を舞っている。オリベは白羽波神社の石段を一歩ずつ登っていく。昔は駆け上がれたのだが、今はとても出来なかった。トレーナーらしき若い少女が一人、急ぎ足ですたすたと石段を降りていくのとすれ違う。彼は昔を思い出していた。
 まだカイナ大の学生であった頃、講義をサボってよく来たものだった。当時のオリベはあまり金が無かったから、こういう場所でよく時間を潰していたのだ。
 そういえば幾度か先回りをされた事がある、と思い出した。石段を登りきると、鳥居の下であの男が待っていて、言ったのだ。
 ――やっぱりここだったか。ほら、行くぞ。
 塗り替えたばかりの鳥居は青々しく、周りの風景からは少し浮いていたように思われる。その下で男は言った。
 ――少しは出て来いよ。なんなら今までのノート見せてやってもいいぜ?
 みゃあみゃあと声が耳に響く。あの時も同じようにキャモメが空を舞っていた。
「オリベさん、」
 石段を登りきると宮司に声を掛けられた。軽く社務所の前を掃除していた若い宮司は儀式用の礼服は着ておらず作業着であった。
「おう」
 オリベも返事をする。そろそろと宮司のほうに歩いていくと
「絵馬をくれないか」と、言った。
「え、絵馬ですか」
 宮司は意外と言った表情を浮かべる。
「珍しいですね。オリベさん普段はおみくじも引かないのに」
「何、ちょっと頼まれ用でな」
「ああ、そういう事ですか」
 オリベがそのように答えると宮司は納得したように言った。
「二種類ございますけれど」
「お前さんの手描きのほうを頼む」
「えー、今日はオリベさん奮発するなあ。雨でも降るんじゃないかな」
 宮司が言うと、あくまで依頼人の意向だとオリベは伝えた。
「すまない。手描きの絵馬、一個とってくれる?」
 社務所の小さな窓から首を突っ込んで、宮司は声を掛けた。するとしばらくして
「すいませんキヨフミさん、さっきの人でもう終わってしまいました」
 と、巫女が出てきて言った。出てきた巫女の袴(はかま)の色は鳥居と同じ青であった。数年前に入ったアルバイトだ。カイナはその昔、青のほうの支配圏にあったから、このあたり一帯の神社は大抵そうである。
「え、そうなの? 弱ったなあ」
 キヨフミと呼ばれた宮司がとぼけた声を上げる。それはどことなく若者特有の軽い雰囲気を与えて、先代に比べるとまだまだ貫禄が無い。
「品切れか?」
「ええ、申し訳ありません。最近妙に買われる方が多くって」
 若き宮司が答える。商売繁盛なのは結構だが、また来るのは面倒だなとオリベは思った。
「オリベさん、ちょっとお時間頂いてもいいですか」
「ん?」
「新しいのをご用意します。ヨシエさん、オリベさんにお茶でも出してあげて」
 はぁい、と巫女が言って、ぱらぱたと社務所の奥に引っ込んでいった。
「さ、お時間頂きますから、どうぞお上がりになって下さい」
 社務所の通用口を開いて宮司が言う。
「悪いな」
「いつも来ていただいてますから」
 そう言って宮司は箒を手に母屋のほうへ引っ込んでいった。ほどなくして青袴の巫女が茶を持って現れたが、オリベは外で貰う事にした。境内でベンチに腰掛けているほうが性に合うと思ったからだ。社務所横のベンチに腰掛けると、少し茶を啜った。海風が拝殿裏の林をざわざわと鳴らした。
『なあ、ユウイチロウ』
 と、不意に同居人が話しかけてきた。
「なんだ?」
『この神社、少し空気が悪くなったと思わないか』
「そうか?」
『澱んだというか、濁ったというか……気のせいかな』
「むしろ、俺はいい扱いを受けてるが」
『今日は上客だからな』
「まあな」
 オリベは苦笑いする。また茶を啜った。林が揺れた。
「ん?」
 視線のようなものを感じて、オリベは拝殿のほうを見る。見れば、賽銭箱に一匹のネイティがちょこんととまっていた。その緑玉アンテナは人のそれに似た瞳をじっと自分達に向けているように見えた。
「あいつ、こっち見てないか」
 オリベが言った。
『念鳥(ポケモン)だって人くらい見るだろ』
 同居人が答える。
「まあな、でもなんか妙な野郎だと思ってさ」
『世間一般の感覚から言えば私達のほうがよほど妙だがね』
「それを言っちゃおしまいだ」
 オリベは再び茶を口に含む。
 ネイティはしばしオリベを見つめていったが、やがてスタッと賽銭箱から地面に降り立ち、ぴょんぴょんとジグザグに拝殿の階段を下りていく。もう一度ちらりと振り返ると林の中へと消えていった。
「そういや、今日は一羽か」
『奥にいるんだろ』
「でもネイティって複数羽で行動するんじゃなかったか?」
 オリベは尋ねた。職業柄、神社や遺跡の類には数えきれぬほど足を運んだものだが、見かけるネイティというのは少なくとも五、六羽単位の群れで活動しているという事を彼は経験則から知っていた。
『じゃあ変わり者なのさ。そうでなければ嫌われ者なんだよ』
「嫌われ者ね……」
 彼の脳裏に青年の姿が浮かんだ。考古学教授達の誰もが引き受けようとしなかった青年の姿が。二次試験を言い渡したその日、つまりフジサキが運ばれてから五日ほどが経っている。二次試験をこなしているのか、それとも……そんな事を考え始めた矢先、同居人が言った。
『しばらく話しかけるな。嫌な奴が来たようだ』
「ん?」
 オリベは顔を上げ、鳥居のほうに目をやった。
「ツキ……」
 一瞬、かつての馴染みが入ってきたのと彼は錯覚して、でもすぐに気が付いて口をつぐんだ。
 青い鳥居を潜って入ってきたのは、白い服を来たくせ毛の青年であった。青年が顔を向ける。彼もまた気が付いたようだった。
「よう、タテバヤシ」
 いつの間にか君が抜け、呼び捨てになっていた。青年が少し顔をしかめる。分かりやすい奴だなとオリベは思った。
「お前、こんな所に何しに来たんだ?」
 無視して前を通り過ぎようとする青年にわざと声をかける。
「……説明する必要があるんですか」
 青年が冷たい視線を投げ、答えた。無視すればいいものを。だから捕まるんだ。オリベは内心に呟いた。二次試験の話題を振ってみる。
「ここにはキャモメとネイティくらいしかいないぜ。キャモメは空の上だし、ネイティはテレポートで逃げちまう。初心者には難しいと思うがね」
「鳥ポケモンには興味がありません」
 センターでのアチャモ大移動を思い出し、青年は機嫌悪く言った。センターに行った事は言わなかった。
「そもそもお前、免許持ってるのか?」
 挑発するようにオリベは尋ねる。
「持ってますよ。免許くらい」
 打ち消すように青年は答える。最近になって取ったとは言えなかった。ほお、とオリベが声を上げた。
「するともしかしてトレーナーネームは……」
「貴方には関係の無い事です」
 青年がまた打ち消した。たぶん図星なのだろうとオリベは思った。青年は嫌いを前面に押し出した表情を浮かべ、顔を逸らした。だが、通り過ぎようとしたその時に宮司が戻ってきた。
「オリベさんすみません、お待たせしました。ついでにいくつか描いてしまいました。思ったより乾かすのに時間がかかりましてね」
「いやいや、気にしないでくれ」
 オリベは答える。青年を見た宮司は「そちらの方は教え子さんですか?」と尋ねてきた。
「違います」
 青年が電光石火のごとく返答する。
「おい……」と、オリベは突っ込む。
「お前、俺の講義取った事あっただろう。教養過程の時に」
 と、反論した。
「あんなの自分の小説を読ませただけじゃないですか。本の押し売りですよ」
 青年が言う。ばっさりと斬られてしまった。
「それは無いだろ。あれはちゃんと時代考証とかがあってだな。読むだけでホウエンの歴史の勉強に……」
「読まなくても僕はちゃんと勉強してますから」
「ははは、仲がよろしいんですねぇ」
 宮司が笑った。青年は宮司に遠慮したのか悪態はつかなかった。
「では千二百円頂きますね」
 宮司が言って、高いなぁとオリベはこぼした。長い財布を開き、紙幣と硬貨を取り出す。
「人件費がかかってますから。その代わり気持ちはこもってますよ。ひとつひとつ表情が違うんです」
 宮司がお代を受け取り、絵馬を差し出す。オリベが財布を閉じ、それを受け取った。絵馬にはポケモンが一匹、描かれている。
 軽く視線を投げた青年の目に飛び込んだのは、への字を二つ並べたようなシルエットだった。簡略化した社殿の形をした五角形の木の板に白い翼を広げたキャモメが一匹、描かれている。勢いのある筆の黒線が翼の白を縁取っていた。最初に地の色を引いてから輪郭を描くのだろう。白羽波神社、達筆な筆文字で左脇に文字が書き付けてあり、右脇に神社の印が押してある。その色は青であった。
「この神社の祀神はキャモメなんですよ」
 興味深そうにそれを見つめる青年に宮司は解説する。
「古代ホウエンに賢鵬(けんほう)という軍人がいましてね。彼はキャモメを使って、いち早い情報を自軍に届ける事で勝利を収めました。キャモメのお陰で出世した彼はキャモメ達を祀る社を建てさせたそうです。これが白羽波神社の始まりと言われています」
 なるほど、だからキャモメか。青年は納得する。
「尤も最初の社がどこにあったのかもよく分からないんですけどね。キャモメが祀神になってるのはうちだけじゃないし。他に同名の神社とか似た名前の神社がホウエン中にあるんですよ。うちが本家だとか言う気は毛頭無いですけど、ただ、云われとしてはそうなっているんです」
 宮司の視線に誘われるように空を見た。相変わらず白い翼のポケモンがみゃあみゃあと鳴き交わしながら空に輪を描いていた。
「御利益は賢鵬の故事にちなんで勝負事です」
「勝負事……」
「ポケモンバトルとか、コンテストとかの勝利祈願をする方が多いですね。だから参拝者はトレーナーの方とそのご家族がほとんどです」
「なるほど」
 青年はオリベを見た。そうなると少し分からなかった。オリベはバトルやコンテストに無縁のように見えたからだった。
「ん、俺か? 俺じゃないよ。フジサキ君に頼まれたんだよ」
「フジサキ教授に?」
「ああ、入院中だからな。代わりだよ。奴の息子がコンテストやってるんだとさ」
 今更ながらに面倒な事を頼まれてしまったとオリベは思った。この分では願いを書いた絵馬をまた納めに来なくてはならなさそうだ。青年をちらりと見てオリベは言った。
「……フジサキ君ならカイナ総合に入ってるよ。学士までとは言え、お前さんの担当教官だからな、一度見舞いに行ってやったらどうだ?」
 フジサキは青年を上にやらなかった。それを知っていて尚、オリベは言った。青年の反応が見てみたかったのだ。
「来て嬉しい相手と嬉しくない相手がいると思いますがね」
 予想通りの反応が返ってきた。だが、思いつきにオリベはもう少し踏み入ってみる事にした。
「それを決めるのはお前さんじゃない。お前さんは単にひやかしに行けばいいんだ」
「ひやかしに、ですか」
「そうだとも」
 そう言って、オリベはおもむろに財布をもう一度開いたのだった。
「宮司さん、キャモメ絵馬もう一枚貰っていいかい」
「? もちろん」
 宮司がそう答えるとオリベは宮司に紙幣を渡した。追加で百円玉を二枚支払った。そうして彼は二枚目の絵馬を受け取った。
「やる」
 受け取った絵馬を差し出した先は青年の眼前であった。
「いらないですよ」
 青年が受け取りを拒否する。だが、オリベはぐっとそれを押し付けるようにした。
「いいから。君に願いが無いなら友達に使えばいい。使い方は色々だぞ?」
「勝負事以外でもいいんですよ」宮司がフォローする。
 結局、宮司のいる手前、青年が押し切られる形になった。
 青年の手の中に収まった絵馬に満足したのか、オリベは去っていく。最初に買った絵馬は早速病院に届けるのだと言って、鳥居を潜ると石段を降りて見えなくなった。
「願いを書いたら、裏の林に掛けてください」
 と、宮司が言った。残った絵馬を社務所の巫女に渡して、今日の手描き分はこれまでの旨を伝える。じゃあ僕は仕事があるから後よろしく。そう言って奥へ去っていった。
 上空でキャモメ達が鳴いている。キャモメ絵馬を手に青年は黙り込んでいた。カゲボウズに案内されてここまで来たが妙な展開になってしまったものだ。
 青年はぐるりとあたりを見回す。カゲボウズがわざわざ連れてきたくらいだからと期待したのだが、濃い負の感情を持った獲物の気配は感じない。そもそも人間自体、神社の人間以外には見当たらなかった。
 カゲボウズは何かを感じ、ここへ来ているはずだ。それには必ず意味がある。ならば、獲物となる人間は帰ってしまったのだろうか。ここで張っていれば会う事もあるのだろうか。
「?」
 不意に青年は拝殿のほうを向いた。視線のようなものを感じたからだ。だが、あるのは拝殿とその裏に広がる林ばかりだった。
 裏の林に足を踏み入れる。拝殿とその奥に繋がる本殿、それを囲む林は意外に広かった。昼間であったが木陰は涼しく仄暗い。時折ざわざわと樹上の木の葉が擦れて鳴った。青年はこの雰囲気を嫌いで無いと思った。表より暗く、少し湿気のあるこの場所は心地よい。
 林の中には掛所がいくつも立ち並び、キャモメ絵馬が何列にも、幾重にも束になってかかり、奉納されている。青年は白い手を伸ばす。気まぐれに絵馬を一枚、めくってみた。
<カイナ月例大会一回戦突破!>
 そんな事が書かれていた。
 控えめだな、と青年は思う。しかし、その控えめさには好感を持った。それくらいがいいのだ。優勝まで全てが神頼みなんて、そんな人間なら面白くあるまい。
「願いの集まる場所……か」
 青年は呟いた。それにしてはここは暗い。


 二日後のお見合いには片方の手で数えるほどしか人が来ていなかった。
 ばちゃばちゃと水音を立てて、ミズゴロウ達が逃げていく。青い身体にオレンジ色のエラを持ったそのポケモン達は、すいっと池の中を泳ぐと反対の岸に辿り着き、青年をちらりと見た。沼魚ポケモン達は絶えず青年に注意を向けているのに、絶対に瞳の奥を覗き込もうとはしなかった。ポケモン達は一定距離を保ちながら、決まってそういう行動をとる。
 またか。青年は溜め息をついた。お見合い、それはポケモン達を人間が品定めすると同時に、ポケモン達からも選ばれるという側面を併せ持っている。が、青年は最初から範疇に入っていなかった。
 お見合い後にボールに収まったポケモンを貰おうか、青年は揺れた。実際、センター職員もそれを勧めてきたが、結局はしなかった。貰っても駄目なものは駄目。選ばれる範疇に入っていない人間にポケモンは懐かない。いや、そもそも人間扱いをされているのか、それすら青年は疑っていた。今なら「彼女」の気持ちがよく分かる。
 所有する事は容易い。だが、それでは駄目なのだ。
 それはポケモンを迎える心構えとしてもそうありたかったし、二次試験の条件からしてもそうだった。懐いていなくてはならない。ゴーストであってはならない。二つの条件が今更ながらに重くのしかかる。来週は森とかげのブリーダーが訪問してくるというが、同じ結果になりそうだと彼は思った。結局、何の手続きもしないままお見合い会場を後にする事になった。
「聞いたか」
「またやられたってよ」
「今度はかなり重体らしい」
 センターを訪問した時と同じ会話がまだ繰り返されていた。青年が再び見合いをするまでの間に、また二、三の被害者が出たらしい。テレビのニュース番組でもやっているし、大学でも噂になっている。
「ざっくり切られたんだって」
「どんどんエスカレートしてるって事?」
 言葉が不安を煽り、増長していく。青年は飛び交う言の葉を拾い集める。今度はカイナ市場の近く、それに海辺近くという事だった。時刻は夜近い夕方頃、ちょうど視界が悪くなる時間帯だ。場所はばらばらだったが、被害者はやはりトレーナーだという。心なしかセンターの人口密度が減っているように思われた。その減り方が先ほどのお見合い人数にそのまま反映されているように思われた。
 大学に戻ろうかと思ったが、卒論発表も終わってしまった今、特別にやる事は無かった。あの資料室からもあらかた目ぼしいものは手に入れて、データとしてパソコン内に収まっている。
 本屋にでも行くか、と青年は考えた。トレーナーという職業が花形とされる昨今において、トレーナー指南書やらポケモンゲットの解説書やら、トレーナー関係の書籍は溢れるほどにある。その中の一体どれが役に立つのか怪しいものだったが、とにかく何かとっかかりを掴みたかった。少なくとも初心者用ポケモンとの見合いを繰り返すだけでは埒が明くまい。幸い大型の書店が徒歩十分程度の所にある。
 鞄を左の手で担ぐと青年は歩き出した。道すがらに右手で携帯を開く。見れば新着メールが届いていた。
『負けちゃった』
 一行目に書かれていたのはそんな内容であった。
 送り火の灯る山に修行に出た「彼女」は、時折山を降りて、ホウエン各地の小さな大会やらジムやらに挑戦している事を今までのやりとりから知っていた。今回は二個目のバッジが欲しかったようだが、どうもそれは叶わなかったらしい。尤も、あと一匹というところで負けたらしく、対策を練って近日中にリベンジ戦を行う予定だという事だ。既に日程は決まっているのでまた報告すると書いてあった。
『ツキミヤ君は最近どう?』
『卒論発表会は終わったんでしょ?』
 最後にそんな二文が書き連ねてあった。
 発表は問題なく終わったと打ったものの、後が続かなかった。とても見合いに苦労しているなどと書く気にはなれなかった。
 今欲しいもの。それは場であり、道であり、肩書きであった。つまり青年は研究者としてのキャリアが欲しかった。人は名目や肩書きで人を判断するものだ。どこどこの名の通った誰々が発言するから影響力を持つのであって、無名や名無しの発言など相手にはされないのだ。
 いつか降りかかった汚名を返上する。そうする為にはそれ相応の力や肩書きが必要だ。相応の実力を持ったポケモントレーナーの証としてバッジの数が指標となるように、学問の世界なら学問の世界の肩書きが必要なのだ。その為に前に進まなくてはならない。
 本当は分かっているのだ。あらゆる扉が閉ざされて、残された扉が一つ。その扉には鍵がかかっている。だから鍵を手に入れ、開かなければならない。たとえ扉の先に厭な人間がいようとも、閉ざされた扉が名残惜しくても、心がまだついていかなくても、今は進める道を行くしか無いのだと。
 だが実際はどうだ。鍵すら手に入れられず、腹が減って、喉が渇いてどうにもならない。
 ――約束は守る。扉の向こうの男はそう言ってそれを閉めた。
「……くそ」
 珍しくそんな言葉が口からこぼれた。たかだかポケモン一匹を懐かせられないばかりに足を掬われるのか。
 ほどなくして書店についた。ノズク堂書店、看板には濃い青地に白い文字でそう書かれており、右端に本を読むヨルノズクのロゴがあしらってあった。建物は五階建ての凝った作りだ。エスカレーターが各階に通り、フロアの端には読書スペースまで設けてある。商品を傷つけられては困るという理由からか、さすがにポケモンの同伴は禁止されていた。一階にレジと雑誌が並び、二階がトレーナー向けコーナーであった。エスカレーターで二階へと進み、初心者向けの指南書などを取り出してぱらぱらとめくった。
 リーグ出場者に学ぶポケモンのしつけ方、ファーストポケモンとの出会い100、ポケモンゲットマップホウエン編――いずれの著書にもカゲボウズ男がポケモンと仲良くなる方法のようなニッチな情報は無い。
「オカルトおねえさんのゴーストポケモン入門」――たぶん著者より経験豊富である。
「霊場、送り火山のゴーストガイド」――供給は足りている。
「古代の人造ポケモン? ヤジロンの魅力」――惹かれたが、生息域その他で挫折した。砂漠地帯、ひどい砂嵐の為、ゴーゴーゴーグル着用。バッジ四つ以上中級者向け。ゲットのお供は水ポケモンがお勧め。生息域を同じくするサボネア対策には炎ポケモンをその他色々。前提条件からして詰んでいる。
「失敗しないアチャモの選び方」――ひよこはもういい。
「カントー旅行新定番、ピジョン牧場へようこそ!」――ええい、なんだこの本は!
 本棚一面を一通り見ていっぱいいっぱいになり、空気を変えようと青年は思った。トレーナーの世界というのはどうも肌に合わない。
 エスカレーターで四階に上る。人文・歴史コーナーに足を踏み入れた。やはり落ち着く。
 カイナシティの歴史、ミナモ文化史、ホウエン遺跡ガイド――巡っていくうち、民俗学系の本棚に辿りついた。シンオウ創世神話、イッシュ地方の伝説、ジョウトの昔話、円寿(えんじゅ)百鬼夜行記、ナナシマ漂流記――そんな各地方の本が雑多に並ぶ棚を過ぎると、ホウエン地方関連専門の棚に辿りつく。さすがはホウエンの書店である。本棚のまるまる一面が関連書籍、層が厚かった。ホウエン地方の昔話、呪詛で見る豊縁の歴史など、いくつかを取り出し見ていくうちに、ふとある本の背表紙に目がいった。それもそのはずで著者名に織部悠一郎とあったからだった。
 豊縁昔語(ほうえんむかしがたり)。それが著作の名であった。
 内容は知っている。というのもオリベが自身の授業に使っていたからだ。ホウエン地方に伝わる民話や昔話を収集し、そこからオリベがアレンジを加えて書いたものだ。改変していいのかなどと思った事があったが、民話は時を経て姿を変えるし、いくつかのバージョンがあったりするものだから、これもその枝葉と考えればまぁよかろう。いい事にしておいてやる。
 教養課程で使ったのは第一巻であったが、いつの間にか二巻目が出ていた。隣に小翼録(しょうよくろく)というタイトルも見られる。こちらはマイナー古典の現代語訳らしい。ひょっとすると、今の教養課程はこの二冊も買わされているのではないだろうか……。可哀想にと思いながら、おもむろに二巻のほうを開いてみる。話の一つ一つには白黒の版画のような挿絵が添えられていた。
 適当に開いたページに見えたのはドーブルのそれで、屏風にキャモメを描いている場面であった。中からキャモメが抜け出し、空を飛び始めている。話の大筋は城主に屏風絵を依頼されて千のキャモメを描いたドーブルが、絵を抜け出したキャモメと共に姿を消してしまうというものであった。
 一巻を読まされた時も同様であったが、あのガサツなオリベが書いたにしてはずいぶんとファンタジックではないかと青年は思う。モデルは海の博物館の企画展にあった屏風だろうか。
 ぱらぱらとページをめくる。その中には研究室にあったあの片目の霊鳥(ネイティオ)像の話もあった。
 霊鳥の左目と題した短いその話には、古代の仏師の無念が綴られていた。赤い色の侵略者に彫像を焼かれてしまった彼は、唯一運び出した両目を閉じた霊鳥像の左瞼にノミを突き立て、左目を開けるのである。それは過去を忘れない為であった。霊鳥(ネイティオ)の左目は過去を見ており、右目は未来を見ている――閉じられたままの右目は決して未来を見る事は無く、ただ左目だけがじっと過去を見続けている。今もずっと……。
 ――こいつの事、君はどう見るかね。
 ――怨念を感じますね。
 ふと研究室での会話が蘇った。あの男と同じ意見とはヤキが回ったものだ。青年はぱたりと本を閉じる。本を戻したその時、何羽かの鳥ポケモンの影が書店と外とを隔てたガラス窓の向こうを通り過ぎるのが見えた。キャモメのように見えたが、確信には至らなかった。逆光が強く、空が赤い。黒っぽくしか見えなかったからだ。キャモメはこんな市街地にも入ってくるものなのだろうか。
 結局、「カイナ周辺のポケモン生息域ガイド」を選び、一階レジに並んだ。とにかくポケモンとの接触回数を増やさなければならないと考えての事だった。
 財布を取り出そうとした時に青年は気が付いた。白羽波神社の絵馬を鞄に入れたままであった、と。
「千二百円になります」ヨルノズクの羽色に似た制服の店員が言った。
 騒ぎに気が付いたのは自動扉の向こうに出た後であった。


 部屋のテレビが、ニュースを映し出している。
連続通り魔事件、犯人はトレーナーか!?
 そんな見出しが画面の右下に出て、有識者の意見をコメンテーターが聞いていた。
「傷口がね、刃物で切ったような感じなんですよ」
 ポケモンを使った犯罪に詳しいと紹介された眼鏡の男が語っている。
「加えて、事件の前後で鳥ポケモンの影を見たという報告が相次いでいます。被害者も鳥ポケモンだったと証言しています」
「鳥ポケモンですか」
「ええ、おそらくは鎌鼬(かまいたち)か鋼の翼といった技を使って攻撃したのではと」
「鳥ポケモンの種類は?」
「それがよく分からないらしいのです」
「分からない……?」
「皆一様に黒かったとか、逆光でよく見えなかったとか言うのです。種類がはっきりしないのですよ」
「黒いと言えば、ヤミカラスとかスバメといったポケモンを思い浮かべますが」
「しかし、どうもそれとは違うという事らしい。指示を出しているトレーナーが判別できないよう何らかの細工をしている可能性もありますね」
「野生のポケモンであるという可能性は無いのでしょうか?」
「ゼロとは言いきれませんが、そのセンは低いと思います。場所がばらばらですし、繁殖期の巣の近くならともかく市街地の真ん中で人を襲うとは考えにくいのです」
「ではやはり、トレーナーによる犯行ですか」
「ええ、警察もそのセンで調べているようです。主に夕刻の時間帯が多いそうです。人目の無いタイミングや少なくなったところを狙っているようですから、なるべく一人で動かないようにするのが大事ですね」
 そんな箱の中のやりとりを横目に見ながら、オリベはコーヒーを飲んでいた。研究室には一人だけだ。机の上に三、四冊、積まれた本があった。同居人の要請で買ってきたものだ。図書館に無いものは買い与えてやらなければならなかった。尤もこれは投資だと思っている。同居人に仕事をして貰う為に必要な出費だ。
 大学内はいたって静かで、いつまで経っても目的の訪問者は現れない。いつ来てもいいようにとなるべくいるようにしているが、やはり苦戦しているのか。あるいはその気が無いのか。最後に会ったのは白羽波神社だっと思い返した。昨日、フジサキに頼まれた絵馬を奉納しに行ったが、その時には会わなかった。
「こちらが被害のあった場所の地図になります」
 コメンテーターがパネルを出して、画面にカイナシティの全体図が映し出される。赤の円形シールがあちこちに張ってあって、通り魔事件の起こった場所を示していた。
「そしてこちらが」
 そのように言うとコメンテーターが新たに赤いシールを貼り付けた。
『物騒だねえ』
 同居人が言った。
『こりゃあ、おとつい行った本屋の近くじゃないか』
「被害者はまた若いトレーナー、か」
 画面に映った年齢を見てオリベが続く。
『若いのが血気盛んなのは今も昔も変わらないね。怪我するのも若いのなら、させるほうも若いほうさ。こういうのは大抵そうだ』
「お前も犯人はトレーナーだと?」
『ポケモンバトルもコンテストも勝負事は妬み嫉みの渦巻く世界だろう。そういう名称じゃなかった頃からそうだ』
「それはどの世界でもだろ」
『違いない。それも昔から変わってない。ただし、媒体は変わってきたな。今はインターネットで呪詛を飛ばすのが流行っているそうじゃないか。151ちゃんねるに書き込んだり、呪詛を書き付けたメールを飛ばしたりするんだろ?』
「どこで覚えたんだ。そんなもの」
『もちろん、ユウイチロウが寝てる時に見たのさ。原稿の合間にだよ。ありゃひどいもんだ。昔はああいうのは和歌にして匂わせたり、神社の神様とかにお願いしたもんさ。今のやり方は風情が無いねえ』
「神様にお願いね……」
 そっちのほうがよほど性質(たち)が悪くないだろうか、とオリベは思った。
『呪詛と言えば、買った本だよ。ちょっと替わってくれよ。まだ読み残しがあるんだ』
「せめて俺が寝てからにしてくれ」
 机に積まれてた本をちらりと見てオリベは言った。一番上に「呪詛で見るホウエンの歴史」というタイトルが見えた。同居人はこういうのが大好きだ。まったく、いい趣味をしている。今読み出したら止まらなくなって、晩まで身体を乗っ取られそうだった。これも一種の呪いと言えるのかもしれない。
 とにかく今はダメだ。そう答えた。すると、
『もしかしてあれを待ってるの? ユウイチロウ』
 と、同居人が言った。見透かした雰囲気がその言葉には含まれていた。
『残念だがいくら待っても来ないよ。言ったじゃないか。あれには無理だって』
 オリベは黙ってコーヒーに口をつけた。テレビ番組は次の話題に移って、三分間ポケモンフーズクッキングが始まっている。壁に掛けた仮面があの時と同じようにこっちを見て笑っている錯覚に陥った。そのすぐ横に立つ霊鳥の表情だけが不変である。右目は閉じられ、先を見つめていなかった。


「あれ、この間のオリベさんの……」
 波の音を聞きながら石段を登りきると、境内で宮司に声をかけられた。社務所のすぐ近く、竹箒で境内を掃いていた。
「……タテバヤシです」
 青年は名前を言った。オリベとセット扱いされたくなかった。その名詞を聞くと何か調子が狂ってしまう。トレーナーネームとどちらを名乗ろうかと迷った末にタイミングを逃してしまった。
「オリベさんなら昨日いらっしゃいましたけど、今日はご一緒ではないんですか?」
 だから違う。青年は内心で突っ込みを入れた。
「絵馬を奉納しに来ただけですから」
「ああ、あの時オリベさんに貰ったやつですね」
「ええ、そうです……」
 否定したかったが出来なかった。押し付けられたとはいえ、渋々受け取ったのは紛れも無い事実だったからだ。
「もうお書きになりました?」
「いえ、まだ」
「なら、林の入り口にマーカーを置いてますから」
 そう言って宮司は林のほうを指差した。拝殿横の小さな松の木の下に記帳台が備えられ、紐で繋がれたマーカーが三本ほどぶら下がっていた。
「ありがとうございます」
 青年はそうお礼を言うと、記帳台に絵馬を置き、文字を入れようとした。
 だが、書かれた線を見て青年は顔をしかめた。引いた線は黒い一本の線にならず、髪の毛よりも細い無数の線がひょろひょろと引かれるばかりであった。これでは文字など書けない。ペンを持ち替える。だが結果は同じであった。更に持ち替えるが三本目も同じ。全滅である。
「すみません」青年は宮司に声をかける。「マーカー全部切れています」
「え、本当ですか。ちょっと待ってください。お取り替えしますから」
 宮司が竹箒を立て掛ける。社務所の中に入り、ほどなくして出てきた。ぱたぱたと青年のほうに駆けてくる。手には黒いマーカーが三本握られており、紐を解き、新しいものに交換した。
「なんか近頃、消耗激しいんですよね。確かにここのところ、絵馬の出がいいんですが、そんなに願い事びっしり書いてるのかな」
 宮司は不思議そうに言った。
「めくって確かめたらどうです?」
 青年が尋ねる。
「いや、僕の主義としてそういうのはね」
 と、彼は答えた。願い事は見ない主義なのだと付け加える。
「そりゃあ、めくれば見れますけどね、僕はこういうのってインターネットの書き込みとは違うと思ってますから。わざわざ足を運んで絵馬を買って書くお願いなんですよ。神様に託されたものを無闇に覗き見するものではありませんよ」
 そう言うと再び社務所のほうに戻っていってしまった。
 青年は記帳台に向き直ると新しいマーカーで線を引き、きゅっきゅっと文字を書いた。事前にあれこれと悩んだのだが、自分では無く他の者に掛ける事に決めていた。単純にポケモンが欲しい、と書けばいいのだろうが、ある種のプライドがそれを許さなかったのだ。神頼みは好きではなかった。詣でても信じてはいなかった。こんなものは気休めに過ぎないのだと。
 願い事を書くと林に足を踏み入れた。相変わらず暗い所であったが、やはり雰囲気は嫌いで無かった。どうしてだろう。ここには独特の心地よさがある。
 このあたりでいいだろうかと、あたりをつけて青年はキャモメ絵馬の一番上に新たな一枚を重ねる。この神社の御利益は勝負事――彼は願掛けの相手を想った。神など信じてはいなかったが、誰かの為に足を運び、願を掛けるのは悪くないかもしれない。こんな事を考えるのも追いつめられて、ヤキが回ったからかもしれなかった。
 御利益か。運べるものなら運んでみせろよ。
 青年は内心で呟くと、白い翼を広げた鳥ポケモンを軽く撫でる。来た道を戻り始めた。尤も「彼女」なら、こんな事をしなくても叶えるだろう。そんな事を思いながら。
 湿った落ち葉を踏みしめながら青年は戻っていく。用を済ますと関心が薄れたのか振り返るような事はしなかった。
 ただし、からん、と乾いた音がするまでは、であった。
「?」
 絵馬と絵馬とがぶつかりあって鳴らす音。青年は振り返った。
 見れば先ほど絵馬を奉納した掛所に、小さな鳥ポケモンが一羽、ちょこんととまっていた。
 緑玉。そのように青年は思った。緑の玉に赤いアンテナと黄色の嘴がついている。向けられる目線は鳥というより人に近い。なんというか目に力がある。
 ネイティ、小鳥ポケモン。遺跡や神社に現れる彼らは、鳥ポケモンという側面の他にエスパーの顔を併せ持つ。
「………………」
「……、……」
 両者は一定の距離を保ったまま、しばし互いを見つめていたが、先に緑玉が動き出した。屋根に足を引っかけ、ぐぐっと小さな身体を伸ばす。青年が先ほど掛けた絵馬の紐をくわえると、ひょいっと掛所から降り立った。同時に絵馬が落ちた。先ほど願を掛けた絵馬が。
「……え」
 緑玉の思わぬ行動に青年の反応は遅れた。地面に降り立ったネイティは、今度は絵馬の板そのものをくわえ、しっかりと持つ。まるで邪魔なものを除けるのだと言わんばかりに、ぴょんぴょんと移動を始めた。
「おい、ちょっと待てよ!」
 状況を察した青年が踵を返した。が、ちらりとネイティが振り返って目が合ったかと思うと、次の瞬間にぱっと姿が消えてしまった。
「テレポートか!」
 青年は叫んだ。訳が分からなかった。今掛けたばかりの絵馬が持ち去られた。何の為に? まったくもって意味が分からなかった。
 待て、落ち着くのだ。青年は自身に言い聞かせた。確かこの前ガイドで読んだ。ネイティのテレポートはそう遠くには移動できないらしい、と。
「……出ておいで」
 落ち着いた声になって青年は言った。足元から伸びる影がざわざわと蠢いて、無数の影が飛び出した。
「行け」
 青年は言った。この林にいるポケモンを炙り出せ、と。角付きてるてるぼうずが足元から次々と湧き出して、無数の影が林の中を飛んでいく。緑玉の探索が始まった。
 そうして、すぐに場所は特定された。キキッと斜め上のほうでカゲボウズの声がしたからだ。
 捕らえたか。そう思ってその方向をむいた瞬間、パシイッとハリセンで叩くような炸裂音がしてカゲボウズが落下してきた。
「!?」
 青年は落ちてくるカゲボウズを受け止める。見れば目を回して、気絶していた。後頭部に強い力で思い切り叩いたような痕がついている。がさっと音がして少し離れた場所に何かが降り立った。ネイティだった。絵馬を嘴にくわえたままのそれはちらりと青年を見、消えた。
「……逃がすな」
 その一言で動きを止めていた影達が再び動き出す。だが、また数メートル先でパシイッとハリセンで叩くような音が響き、またカゲボウズが一匹、落ちた。
 ネイティが別の掛所の上に姿を現す。行け、と青年が叫び、影達が向かっていく。が、また消えた。と、思うとカゲボウズのすぐ後ろにふっと姿を現して角の生えた頭に小さな翼を勢いよく叩きつけた。
 スパンッ。林に音が響く。カゲボウズがまた一匹、地面に落ちて目を回した。
「……!」
 青年は目を丸くした。まさかこの小さな鳥ポケモンがそこまでやるとは予想していなかった。
 青年の動揺はそのままカゲボウズ達に伝わった。スパンッ、パシイッと連続して炸裂音が響く。近くの動けずにいるカゲボウズ達が緑玉に落とされていった。周りに邪魔者がいなくなると、ジャンプとテレポートを繰り返し、緑玉は逃げていった。結局、青年と影達はその姿を見失ってしまった。
「…………嘘だろ」
 青年は唖然として、そうとしか言う事が出来なかった。誰が予想するのだろうか、神社でポケモンに絵馬を盗られるなどと。不意を突かれたとはいえ、多数対一羽で負けを喫するなどと。
「………………」
 ポケモンというものを甘く見ていた。青年はある種の概念を打ち破られた気がした。
 だが、いや、と彼は思い直した。そういえば昔あったではないか。たった一匹に痛い目に遭わされた事が。ここのところ痛んでいなかったからな、と青年は胸を撫でた。だがそれにしたって、相手は一匹の小さなポケモンだ。こう鮮やかにしてやられた事自体は驚きであった。
「的が小さいからな……人間と違って」
 そう青年は小さく呟いた。不意を突かれて逃がしてしまったが、今度は逃がしはしまいと思った。御利益を信じていないとはいっても、邪魔をされるのは気に食わない。一度、灸を据えてやらなければなるまい。
 林が風でざわざわと鳴った。再び静けさを取り戻した林は先ほどより暗く、湿っているように思われた。
「すみません、絵馬を一つ」
 林を出た青年は社務所に声をかけた。あれから宮司はどこかに出掛けたのか姿が見えない。代わりに顔を出したのは青袴の巫女だった。先日に一度訪れた際にちらりと顔だけ見た覚えがある。
「あれ、この前も買っていませんでした?」
 さすがに彼女も覚えていたらしく、そう尋ねてきた。まあ、買ったというより押し付けられたのが正確であるのだが。
「ちょっと必要が生じましてね」
 青年がそのように言うと、
「あ、お兄さん、もしかしてあの口ですか?」
 などと、巫女は聞いてきた。
「あの口?」
 青年が聞き返すと、いえ、何でもないです。勘違いです、などと巫女は慌てて言った。何の事だか分からなかったが、興味も無いので追求はしなかった。青年は黙って支払いだけを済ませる。千二百円はやはり高いと思った。更には奉納タイミングが迷いどころであった。さすがにあのネイティも今日はもう現れまい。だが、奉納しても知らない間に持っていかれそうだ。そもそもなぜ自分の絵馬が持っていかれたのか。それもよく分からない。
 しばらく通ってみるか。そう青年は考えた。どうもそもそもの目的がおかしくなっている気がしたが、ポケモンセンターに通うのもうんざりし始めていたところだ。それならば、たとえ一匹とはいえ、野生ポケモンを追いかけたほうがマシではないだろうか。
 帰りの石段の途中、複数の影が青年を待っていた。もの言わぬカゲボウズだが、触れてやればだいたいの察しはついた。集まった影達は皆、同じ事を伝えに来たようだった。
「またトレーナーがやられたんだね?」
 青年が尋ねると、三色の瞳のポケモン達は頷いた。
「報告は他の子からも聞いてるよ」
 まるでエネコでもあやすようにカゲボウズの喉を愛撫しながら青年は言った。というのもあの日の夕刻、本屋を出た直後に放った一匹に合流したからだった。本屋だけでは無い。帰り道の途中にも何匹かの影を取り込んで同じ報告を聞いたところであった。そうでなくても連日のニュースや噂で流れている。やり方がエスカレートしており、件数が増えていると。そしてニュースの伝えるところによれば、犯人は黒い鳥ポケモンを使っているという。今日の絵馬の件もある。鳥ポケモンは案外攻撃的な種族なのかもしれない。影を取り込みながら青年はそのように思った。
 黒い鳥ポケモン。カゲボウズのうちの何匹かは姿を見たに違いない。だが鳥の飛ぶ速さに追いつけなかったのだろう。どこに消えたのかまでは掴めていない様子だった。
「ん、」
 あらかた戻し終わった時、青年はカゲボウズが一匹だけ残っている事に気が付いた。
「君は違う報告なのかい?」
 尋ねると、そのカゲボウズは遠慮がちに頷いた。控えめな個体だな、と青年は思った。手を伸ばしその個体にそっと触れる。その瞬間、青年はにわかに口角を上げた。
「見つけたんだね」
 上機嫌になって彼はそう言った。
 その個体には、ほのかに甘い匂いがついていた。


『どういう事だ。また空気が悪くなった』
 波の音が聞こえる。白羽波神社の石段を登り始め、中腹まできたあたりから同居人がぶつくさと言い始めた。
「またそれか?」
 オリベが尋ねる。確かフジサキの依頼で絵馬を奉納しに言った時も、その前も、そんな事を言っていた。
「いつもの通りじゃないか」
『いや、また悪くなった。今までで一番駄目だ。来る度にひどくなっていやがる』
「俺には分からん」
『ユウイチロウは鈍いんだよ。改善しないんだったら散歩コースの変更を考えなきゃいけないよ』
「え、嫌だぞ俺」
 歩みを止めると、オリベは言った。
「ここが一番大学に近いんだから我慢しろよ」
『ユウイチロウが場所を変えないならストライキするよ?』
「またそれか!」
『空気が悪いのは僕にとっちゃ害悪だからね。実体が無い分だけ、そういうのが大切なんだ』
 そうして同居人はとうとうと語り始めた。悪い気が起こす悪影響について。こうなると止まらない。出会った当初から博識な者であったが、こうしてくっ憑いてから更に余計な薀蓄(うんちく)を溜め込むようになったから始末に負えない。
『サイユウあたりの民家なんかね、建てる時にすごく気を遣うんだ。特に水周りの位置が悪いと最悪だ。住む人が病気になったり、ポケモンが怒りっぽくなったりしてだね……』
「…………」
 こうなるとちょっとした攻撃(テロ)である。耳を塞ぎたいところであったが無駄だ。他には聞こえない頭に響く声は、耳を塞いだのではとても防げない。同居人の攻撃ターンは尚も続く。
『――という訳で、とにかく気とか波動とかは大切なんだよ。ユウイチロウは私が倒れて原稿出来なくなってもいいのか!』
「倒れないだろう!? お前さっき実体が無いと言ったばかりじゃないか!」
 オリベは突っ込んだ。が、直後に黙った。ちょうど神社から石段を降りてくるトレーナーに遭遇したからだ。トレーナーが目を丸くしてオリベを見つめている。
「………………」
 バツが悪くなってオリベが黙ると、絵馬を二枚ほど抱えたトレーナーはぱたぱたと石段を降りていった。その後姿が小さくなった事を確認すると再び口を開いた。
「あーもう、分かったよ! だったら宮司二世に変な事無かったか聞いてやるよ。コース変えするかどうかはそれからだ」
 オリベはそう言って、石段をつかつかと登っていった。いつものように青い鳥居が出迎えた。
「おう、宮司さんいるかい?」
 オリベは社務所に声をかける。
「キヨフミさんですか?」
 アルバイトの巫女が答えた。オリベも皆も、宮司、宮司と呼んでいるが、彼女だけは下の名前で呼んでいる。
「たぶん、母屋のほうで絵馬を描かれているんじゃないかなと。呼んできます?」
 続けざまに巫女は答えた。あまり邪魔をして欲しくないという雰囲気がそこにはあった。
「ん、そうか。あいつも忙しいなぁ」
「最近、売れ行きがいいんですよ。手描きのほうがよく出てて。多めに描いてるんです」
 巫女は少し嬉しそうに言った。
「ふうん」オリベは少し、含みを持たせてそう言うと、
「まーちょっと待たして貰うわ」と、答えた。
「俺、しばらくぶらぶらしてるからさ、宮司さん戻ったら伝えてくれよ」
 そう言って拝殿に歩いていくと五十円玉を一つ、投げ入れた。
 ぱんぱんと二回かしわ手を打つ。いつものように願は特に掛けなかった。あえて言うなら、来期に考古学の問題児が研究室に来るかどうかが気に掛かったが、なるようにしかならんだろうと彼は考えた。それに神様の所為にはしたくなかった。もしも同居人との賭けに負けてしまった時、それをここの神様の所為にしたくなかったのだ。仮にも学生の頃から入り浸っていた場所だ。だからあえて掛けなかった。
 オリベは拝殿に背を向ける。少し歩き、自販機でウーロン茶を買って、そうしていつもの席に座り込んだ。海の見えるベンチである。今日もいい天気だ。空を滑るキャモメの行く方向に海に浮かぶ台場が見えた。かつてあったという砲台はもう見えない。ただ草木だけが茂って、小島全体を覆い隠している。
 すまないなツキミヤ、お前の息子、まだ来ねえんだよ。オリベは内心に呟いた。
 面倒見ようかと思ってたが、駄目かもしれん。その時は勘弁してくれな。俺にはしがらみなんか無いと思ってたが、たった一つが引っ掛かった、と。
 キリリと蓋を開け、ペットボトルに口をつける。天気予報も、同居人の予想も高確率で当たる事をオリベは知っていた。
 だが、あれはお前の息子だ。と、再びオリベは念じた。お前の息子ならば何かやるかもしれん。もしも本当に課題をクリアしたなら、私の下に来ると言うのなら――。
 ウーロン茶をもう一度口に含む。風が吹いた。海からの風だ。
『何を考えてるんだ。ユウイチロウ』
 同居人が言ったが、
「なんでもねぇよ」
 と、オリベは答えた。
『宮司さん出て来ないねえ』と、同居人が言い、
「ああ」と、彼は返した。
 すっかり茶を飲み干すと、くずかごに空のボトルを投げ入れる。
「ちょっと歩くか」
『ええ? やだよ。空気が悪いんだもの』
「仕方ないだろ。仕事させてやれ。飽きたらその時は呼ぶからさ」
 同居人がぶつぶつと文句を言ったが、オリベは強行した。再び鳥居を見上げる。てくてくと拝殿のほうに戻り始めた。気まぐれに手水舎の水を柄杓(ひしゃく)で汲み取り、だばだばと中に戻してから、社務所を通り過ぎると奥のほうに母屋が見えた。おそらくは今、宮司がせっせと絵馬描きに勤しんでいるのだろう。
 拝殿の右に入ると、小さな松の木の下、絵馬の記帳台が目に入った。一度、絵馬を納めに来たが、病院でフジサキに書かせたから出番が無かった。
『ユウイチロウ、やめよう』
 少し黙っていた同居人だが、また言い出した。
「ん?」
『なんか気持ち悪い』
「気持ち悪い?」
 妙な事を言うものだとオリベは思った。気持ち悪いというのは肉体あっての感覚ではないのだろうか?
「俺はそうでもないぞ」
 オリベはそう言うとつかつかと林の中に入っていった。同居人が文句を言うかと思ったが、奥に引っ込んでしまった。タテバヤシコウスケに遭遇した時と同じ反応である。こいつはなんでこう好き嫌いが激しいのだとオリベは思ったが、沈黙をいい事に更に奥へ歩いていった。
 薄暗い林の中、そこにはいくつもの掛所があって、たくさんの絵馬が奉納されている。ここも昔と変わらない。久々に足を踏み入れてそのように思った。左手に見える拝殿はご神体を納める本殿に繋がっており、林が囲むようにそれを守っている。本殿を左手に見ながら、オリベは林の中を進んでいく。途中にいくつも絵馬を掛ける小さな掛所が立ち並び、どれにもびっしりとキャモメが並んでいた。ここは願いの集まる場所だった。
 この絵馬は定期的に処分をする。その昔、正月明けのどんど焼きで先代が境内で絵馬を焼いていた様子が思い出された。燃やす時の煙に乗って、新年に訪れた神様が天上に帰っていく儀式である。そこにツキミヤソウスケと行った。お互いに実家との折り合いが悪く、正月に帰らなかったからだった。餅やらぼんぐりやらを焼いていて、貰って食ったのがうまかった。それ目当てに次の年も足を運んだ。
「だがツキミヤは三年次にタテバヤシとくっついて」
 と、オリベはぼやいた。それで彼女とばかり過ごすようになったツキミヤとは初詣に行かなくなった。そうしてツキミヤが博士号をとった年に、彼らは籍を入れ、そのうちに子供ができた。それがタテバヤシコウスケ――旧姓、ツキミヤコウスケだ。よく覚えている。あの時のツキミヤの喜びようはひとしおであった。ジョウトに転勤していたから、実際に会ったのは五歳ほどになってからか。あの様子だと本人はまったく覚えていないらしいが。
 拝殿の背を眺めながらぐるりと回り込み、左側に入る。波の音が聞こえてきた。こちら側は海に近い。
「む」
 林の左側に入った時、オリベは小さく声を上げた。赤アンテナをつけた緑玉が一羽、落下防止柵の石柱にとまっていたからだった。黄色い嘴に何かをくわえている。
「何やってんだ、あれは」
 すると、緑玉がぱっと海のほうに降りて見えなくなった。
「んん?」
 オリベは緑玉が消えた方向に歩いていくと下を見下ろした。長い石段を登らせるこの神社はなかなかの高所にある。下は石垣、その下は切り立った岩盤で細い木々が生えている。とても人が降りたり登ったりは出来ない崖であった。下りきるとそこは海だ。海と地の境は砂浜ではなく岩がごろごろとしている。
 しばらくすると、岩と細い木をたくみにつたいながらぴょんぴょんと緑玉が跳ねて戻ってきた。嘴に絵馬はくわえていなかった。境内まで登ってくる。戻った場所はオリベの立つ数メートル先であった。
「あいつ、絵馬を捨ててきた?」
 オリベは小さく口に出した。
 緑玉が掛所に飛び移る。まるで絵馬と絵馬の隙間から中身を覗くようにじっと見つめている。オリベにはそれがまるで品定めを行っているかのように見えた。すると緑玉は、前から三番目くらいの絵馬をぐいぐいと引っ張り始めた。にわかにバシッと翼が空を切る音がして、ばさっと落ち葉が絵馬を受け止めた。
「……」
 今使ったのは鋼の翼であろうか。ネイティって種族は意外と乱暴だとオリベは思った。地に降り立った緑玉が絵馬を嘴にくわえる。再び飛び立つと海のほうへ下っていった。
「本当に何をやってるんだ……」
 ざんざんと鳴る海を下に見ながら、オリベは呟いた。こういうのは一応、宮司に報告したほうがいいのだろうか。すると、
『ようやく分かった。たぶんあいつのせいだ』
 頭に声が響いた。
「引っ込んでたんじゃなかったのか」
『気持ち悪いのでそうしたいところだ。とりあえずこんなとこさっさと出て散策ルートを変えて貰おう。下だ』
「ん?」
『下だよ。お前さんが今見てた場所だ。確かめたい事がある』
「めんどくせえ」
『どうせ宮司が出てくるまで暇なんだろ?』
「…………」
 同居人に促されるままに、彼は林を抜けた。社務所の前を通り過ぎ、鳥居を潜った。石段を降りていく。帰りにもう一回登るのかと考えると少しうんざりした。学生時代の記憶を掘り起こす。石段を下りた場所から海側へ回り込めば行けたはずだ。ただ、岩以外は本当に何も無い場所だったら、一度入ったきり行く事も無かった。
 ざんざんとより強い波音が耳にへばりつく。ごつごつとした浜は歩きにくかった。履きやすいという理由で使っていたが、ギョサンを履いていてよかったとオリベは思った。海を見る。神社とは違う角度で台場が見えた。石垣の上に草木の屋根をしたその小島は上から見るよりも暗い感じがする。足場の悪い道ならぬ道をしばし歩き、目的の場所へ辿り着く。
「なんだこれは……」
 上のほうからはよく見えなかったが、ネイティが降りていったその場所にはたくさんの絵馬が打ち捨てられていた。この場所に捨てたのか、あるいは海中に捨てられたものが波で寄せられたのかは定かではない。ある絵馬は岩の間に挟まれ、ある絵馬は悲しげに波間を漂っていた。こつん、こつんという音を立てて波に揺すられながら、波間の岩を叩いている。
 塩水に浸かって、いくつかのキャモメの色が消えている。皮肉な事に絵が消えているのは宮司の手描き絵馬のほうであった。プリントのほうは絵が残っている。
『願いを見てくれ』同居人が言った。
 オリベは膝を曲げるとそのうちの一つを拾う。キャモメの消えた絵馬の願いを読み上げた。
「なになに、お兄ちゃんが月例大会で優勝できますように」
『もう少し見てくれ』
 オリベは手近な場所に漂っていた絵馬を四、五枚、拾い上げる。
<リヨコちゃんのコンテストデビューがうまくいきますように>
<うちのスバクロウがうまく技を決められますように>
 そんな願いが書き記されていた。油性マーカーのお陰で字は消えずに残っている。
 次々と確認し、最後の一枚を見た。手描き絵馬だったようでキャモメの姿が消えている。
「友人が二個目のバッジをとれますように、か。……殊勝な心がけだねえ」
 彼が見たのは人やポケモンに掛けた願いだった。親はよく学問の神様の神社のお守りを買ってきたりするが、そういう心理であろうか。そういえばフジサキに頼まれて奉納した絵馬もこんな願いだったな、とオリベは思い出した。確か、息子がコンテストで勝てるように。そんな内容であった。まさに親バカだ。まぁそれがほほえましくもあるのだが。
『……やっぱりそうなんだ』
 同居人が言った。
「やっぱりって何がだ」
『捨てられた絵馬の共通点だよ。人に掛けた願いなんだこれは。願掛け相手の幸せを願って書かれた絵馬なんだよ。ここに捨てられているのは』
「なんだって?」
『あの念鳥(ネイティ)がそういうのを選んで捨ててるんだ』
「ちょっと待てよ。ポケモンに人の字なんて読めるのか?」
『失礼だな。字くらい読めるさ。現にここにいるだろう』
「……そりゃそうだが、一介の野生ポケモンだぞ?」
『読めなくても雰囲気で分かるんだよ。何度も言ってるじゃないか。空気が悪くなってると』
「……」
 オリベはしばし上にそびえる神社の石垣を見上げ、考えた。
 捨てられた絵馬の内容は人に掛けられた願いである。それも相手の幸せを願って奉納されたものばかりだ。絵馬の願いにも色々あるだろうが、ある意味こういうのが一番尊いと言えなくも無いかもしれない。
「お前さ、友人がバトルで勝てますようにって書いてある絵馬と負けますようにって書いてある絵馬、どっちが雰囲気いいと思う?」
『聞くまでも無いだろ』
「そうだよなぁ」
 するとどういう事だ、とオリベは訝った。神社の雰囲気がこういう親バカな願いの割合で決まると仮定する。とすれば、これらを排除する事で相対的な空気は悪くなるはず。とすると、あのネイティはわざわざこういう絵馬を排除して空気を悪くしているという事なのか。
 するとお前の考えは読めているぞとでも言うように
『だからあの念鳥(ネイティ)はおかしいんだ』
 と、同居人が言った。
『あいつ、この前見た奴だろ? おかしいと思ってたんだよ。あいつ一羽だけだなんて。でもこれで説明がついた。だからあいつは一羽なんだ』
「つまり、どういう事だ」
『他の個体とは決定的に嗜好が違うんだよ』
「つまり、ひねくれていると?」
『前にも言った通りだ。変わり者かつ除け者なのさ』
 除け者ね、その言葉が妙にオリベの心を刺した。脳裏にある一人が浮かんだからであった。
『そうと分かったら戻るぞユウイチロウ。上に残ってる絵馬も確かめる』
「行きたくないんじゃなかったのか?」
『嫌だが検証は必要だ。それに気にならないの? この前、奉納した絵馬がどうなってるか』
 むむ、とオリベは唸った。先日に奉納した絵馬は確かに人に掛けた願いだ。だとしたら被害に遭っている可能性が高い。
「つまり、ここに落ちていると?」
『たぶんやられてるよ。だが、ここで何十枚もめくるより元あった場所をあたったほうが早いだろ。絵馬を移動させる奴なんか他にいないし。宮司の話も聞きたいしな』
 そう言われ、オリベは再び来た道を引き返した。どうもいいように使われている気がしたが、身体の主導権は自分にあると常日頃から主張する以上は仕方の無い事であった。だがやはり石段を往復するのは面倒だ。一段抜かしに駆け上がれた昔とは違う。歳を取ったものだ。
「あ、オリベさん」
 いつの間にか宮司が戻ってきていて、参拝客に絵馬を渡していた。彼は参拝客からお代を受け取るとそのように声をかけた。
「よかった。ヨシエさんからオリベさんが帰っちゃったって聞いてたので。僕に何か御用で?」
「いや、用ってほどのもんでもないんだがな」
 オリベは声を濁しながら言った。
「変な事を聞くが、最近神社で変わった事なかったかい?」
「変わった事ですか?」
 宮司はあまり覚えが無いといった風にあごに手をあてた。が、やがて、そういえばと前置きして言った。
「最近、マーカーがすぐ切れるんですよ」
「マーカー?」
「ほら、そこの記帳台の」
 拝殿の右隣にぽつりと立つ記帳台を指差して、宮司は言った。
「昨日、教え子さんが来た時もそうだったんです。確かタテバヤシさんでしたっけ?」
「ん、タテバヤシ来てたのか」
「ええ。絵馬を奉納しにいらっしゃいました」
「そうか、タテバヤシがね……」
 その事実はオリベに妙な感覚と感慨を与えた。勢いで絵馬を押し付けておいておかしな話だが、いかにも一人で生きてきたという風のあの青年が神社で願を掛けるというのは奇妙な光景に思えたからだ。あの男は地中から掘り出された現物しか信じなさそうだ。一方で、渡した絵馬を使ったという事は少しは期待していいのだろうかとも考えた。それともさっさと処分したかったという事であろうか。
 そんな事をあれこれ考えているうちに『ネイティはどうだ』と、同居人が耳打ちした。
「そういえば、最近ネイティって来てますか。一匹しか見かけませんけど」
「ああ、そういえばここのところ、一匹しか来てないんですよねぇ。以前は何羽も来てたんですが、行く場所を変えてしまったのかな」
『やっぱりか!』同居人が叫んだ。
「分かった。ありがとう」
 オリベは宮司に礼を言うと、再び林のほうへ歩いていった。頭の中に『早く』という言葉が響いていた。
『まずはフジサキの絵馬からだ。場所は覚えてる?』
「……だいたい」
 オリベは本日二度目の突入を果たすと、記憶を辿った。
「確かこの辺だったと思ったが」
『ここだ。そこの木の下の三列目の上から二番目だった』同居人が言う。
「お前が言うならそうだろうな」オリベが応えた。
 同居人は記憶力がいい。読んだ本の事もよく覚えているし、少なくとも自身の記憶よりはあてになる。くだらない事も覚えているのが難点だが。
 キャモメ絵馬をめくってみる。めくった絵馬に書かれていたのは自分の字ではなかった。
 もう一枚めくってみる。するとその瞬間に
『うえっ』と、同居人が吐くような声を漏らした。
「どうした?」
『なんだ……このすごく嫌な感じ』
「嫌な感じ?」
 オリベは絵馬に書かれた願いに目をやる。
〈下に書かれた願いを隠せ> と書かれていた。
「何だこれは」
『違う! それは単なる蓋だ。その次だ』
「次がなんだってんだ」
 そう言って、次の絵馬を見た瞬間にオリベは凍りついた。なぜなら、絵馬をめくらないうちから願掛けがろくでも無い内容だと分かってしまったからだった。
 絵馬に描かれた手描きのキャモメ。
 それがマーカーで真っ黒に塗られていた。


 青年はソファに腰掛けている。本を開き、目的の者が現れるのを待ち続けていた。
 緑玉に灸を据えようと思った矢先、またポケモンセンターに来る事になるとは思わなかった。しかし、状況が変わった。見つかったのだ。まずは接触しなければなるまい。
「マーキングは出来たのかい」
 その場でそのように尋ねると、カゲボウズは首を振った。近くに仲間が居合わせず、やりたくても出来なかったようである。よって、そこから始める事にした。獲物の発見地点は皮肉にもポケモンセンターであった。青年は本のページをめくる。先日書店で買い求めた本を流し読みしながら、接触機会を待つ事にした。
 果物が熟して食べ頃になるように、感情にも発露というものがある。つまり感情という目に見えないものが溜まりに溜まり、行動や言動になって現れ始める。その直前直後に人から放たれる「匂い」にカゲボウズ達は敏感に反応する。少しのいらいらや、突発的な怒りでも食べない事は無いが、野生ならともかくとして、青年の飼うカゲボウズ達はそれにあまり興味が無いようだった。悪く言えば味にうるさいのである。だがそれは一人を大勢で分け合う分、良質のエネルギー源を確保する為でもあった。
 センター内のあちこちにカゲボウズを配置する。該当の人物が近くに現れれば、彼らが報せてくれる手筈になっていた。果実がよく熟れているならば、匂いで分かるはずだ。
 自動扉が何度も開き、ポケモントレーナー達が出入りする。青年はぱらぱらとページをめくる。ジグザグマ、ポチエナ、キャモメ、スバメ――ホウエンに広い分布域を持つこれらの種はカイナ周辺のポケモンを紹介するこの本にも「よく出るポケモン」として掲載されていた。
 特にジグザグマ、ポチエナといった種は特定のテリトリーを持っており、その範囲内で活動をする。テリトリー内からあまり出る事が無い為、空を飛ぶ鳥ポケモンに比べると一匹に標準を定め易く、対策が立てやすいとあった。ジグザグマにポチエナ、どちらも初心者の捕獲対象にはぴったりのポケモンで、人にも懐きやすいという。だが遠い昔の記憶と最近の資格取得時の記憶が相まって、青年はそれらを読むだけで終わらせた。おそらく彼らとは合うまい。これ以上手に穴を開けられるのはごめんだと思った。
 キャモメ、スバメの項目を読み終わると、「ときどき見かけるポケモン」に移った。それは特定の狭いテリトリーを持たず、広い範囲を渡り歩いているポケモンなのだという。その中でも比較的見かける種が掲載されていた。読み進めるうち、ネイティの項目に辿りついた。
<ネイティ、小鳥ポケモン。タイプ、エスパー・飛行。数羽の群れで行動する。遺跡や古墳、神社などで見かける事がある。他の鳥ポケモンに比べると羽が小さく飛行能力が低いが、捕獲難易度は高い。群れで警戒するほか、バトルを好まず、近寄ってもテレポートで逃げ出す為である。捕獲の際はスピード勝負。速攻を仕掛けて動きを封じるか、すぐにボールを当てて勝負に出よう。テレポートの範囲は狭いので、周囲をよく見る事も大事である。>
 バトルを好まない……ね。昨日の俊敏な動きと技のキレを見ているとあまり信用ならぬ記述だと思った。ボールだって当てる前にテレポートされるか、あの翼で打ち落とされそうだ。ただ、あちらに少しでも反撃の意思があるのなら、逃げ回る相手よりは隙が出来るかもしれないとも思った。
 そうして自動扉の開閉が今日の百何十回目かを数えた頃、獲物が現れた。一匹のカゲボウズがそっと青年の右肩後ろに回り込み、耳打ちするかのようにそれを報せた。周りの人間には見えていない。不特定多数の中に紛れた青年を注視する者は誰もいなかった。
 青年はぱたりと本を閉じ、顔を上げる。自動扉から入ってきたトレーナーに目をやった。十三、四歳ほどであろうか。スポーティーな格好をした細身の少年トレーナーであった。
「ふうん、彼ね」
 トレーナーを品定めするかのように観察し、言った。視線の先でカゲボウズが三匹ほど、その背後についていく。二匹が鞄の中にすうっと入り込んで、一匹はジャケットの襟に衣を巻きつかせた。
 マーキング完了。三匹も憑かせておけばカイナのどこへ行っても発見できるだろう。
「まだ手を出しちゃだめだよ?」
 トレーナーの発する匂いに興奮し、ざわざわと騒ぎ出す影を抑え、小声で言った。発露した負の感情は甘い匂いがするのだ。
「他のカゲボウズも呼び戻さないとね……」
 青年はそう言うと、立ち上がった。獲物を見つけたなら、もうここに用は無かった。
 影を従えた青年が再び動き出したのは、カイナシティから太陽が去った後であった。
 人気の無い高台を選んだ青年は夜空を指す。すると青白い炎がいくつも上がっては、輪を描くようにして弾けた。それはカゲボウズの鬼火であった。青年はそれを一時間ほど、分間隔で繰り返した。遠目には季節はずれの花火のように見えただろう。が、カゲボウズ達にとってそれは「集まれ」「戻れ」の信号(サイン)であった。始めの五分で何匹かが戻ってきて、打ち上げをやめた後もいくばくかの時間を青年は待った。冬の夜は寒く、海風が冷たかった。マフラー越しに吐く息が白い。手に持っていたカップ入りココアは中身が無くなりすっかり熱を失っていた。高台に寂しく立つ街灯が一つ、青年の影を映し出している。また角の生えた影が一つ、青年の中に還っていく。あらかたの影を回収した事を確認すると青年は歩き出した。後は待つばかりである。獲物に憑けておいたカゲボウズが信号(サイン)を出すのを待つばかりであった。
 そうして、意外な時間に青年は起こされた。大学近くの下宿で眠りについているところをカゲボウズに揺り起こされたのだ。十匹ほどのカゲボウズが三色の眼を爛々と輝かせて、布団と毛布の隙間から顔を出す。チームプレーで青年のかぶる毛布を引き剥がすと、ひらひらと舞う衣の部分を青年の腕に同化させ、引っ張り上げた。
 青年はさすがに最初はぶつぶつと言っていたものの、着替えをして、そっと下宿を出たあたりでスイッチが入ったらしい。言動がいつもの調子に戻っていた。カチリと携帯を開くと午前の一時を少し過ぎたあたりであった。空に浮かぶ月は半目を開けており、カゲボウズの眼の形に似ているように思われた。
 どうやらマーキングのカゲボウズから信号(サイン)があったらしかった。カゲボウズに案内されながら、青年は歩いていく。深夜ではバスも出ていないから面倒だったが、獲物を得る為ならば仕方あるまいと思った。だが結局、思ったほどは青年は歩かされなかった。連れて行かれた場所は大学からそう離れていない、知った場所だったからだ。
 それは海と地の境にあるものだった。高い石段と石垣、訪れる者を迎え入れる青い鳥居――カイナの海を臨むその社の名は白羽波と言った。ペンライトか携帯の光であろうか。小さな光が灯って、石段を登っていくのが見えた。
 カゲボウズの光る眼が獲物を映し出す。青年もぱちりと眼を閉じると、再び開いた。するとその眼にはもう、カゲボウズのそれと同じ光が宿っていた。石段に足を掛ける。ゆっくりと獲物の後をつけた。入り口の一つしか無い神社という空間に入ったのなら、ゴム袋の中のプラスルマイナンも同じであった。
 小さな灯りが鳥居の柱を照らした。闇に溶けた鳥居に色は無く、照らされた部分だけが青だった。少年は境内に足を踏み入れ、進んでいく。小さなランプは手水舎を照らした後に蛇行して、拝殿の鈴を浮かび上がらせた。そうして次に横に逸れると記帳台を定め、そこで止まった。光が記帳台を照らす。その上に乗せられたのは二枚の絵馬であった。
 少年はマーカーを手に取るとペンライトの灯りを頼りにさらさらと一枚目を書いた。その後に、今度はじっくりと二枚目に文字を綴った。そうして、文字を綴った後に彼はおかしな行動に出た。絵馬をひっくり返し、絵のある面にマーカーを入れ始めたのだ。マーカーは横方向に運動を繰り返す。狭い範囲を何度も往復する。奇妙な光景であった。
 ――なんか近頃、消耗激しいんですよね。
 青年の脳裏には宮司の言葉が蘇る。ちらりと母屋のほうに目をやるが、明かりは消えていた。朝の早い神社勤めは夜更かしなどしないらしかった。
 獲物は散々に塗りたくった絵馬を持ち、林の中へ入っていく。ざくざくと落ち葉を踏みしめながら、本殿の位置くらいまで奧に到達すると、彼は二つに重ねた絵馬を掛けた。ふうと息を吐く。夜の寒さに息が白かった。
 瞬間、ぼうっと青白い光が灯った。それは中空に浮かび、燃え盛る炎であった。一つではない、三、四つが次々に灯って、まるで少年を囲うように現れた。
「ひっ!」
 突然の事に叫びそうになってるトレーナーの前に、青年は現れる。
 声を立ててはいけないよ、とでも言いたげに人差し指を立て、口に当てた。傍らにはカゲボウズの姿が見える。それで少年は鬼火の出所を理解したらしく、少し落ち着いた様子だった。
「こんばんは」
 ほのかに口角を上げて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。青年は夜の挨拶をした。燃え盛る鬼火がゆらゆらとその表情を彩る。青白く浮き立つ青年の立ち姿は、暗い闇から生まれてきたばかりのように思われた。
「……、…………」
 時間は深夜二時近く。その時間に神社で行われた絵馬奉納。その行為を見られてしまった驚きと緊張からか、少年はうまく言葉を返す事が出来なかった。そんな彼の動揺を全て察しているといった様子で青年は話しかける。
「奇遇だね。君も絵馬を奉納しに来たんだ?」
 まったくの嘘であったが、相手はそれで安心したらしかった。
「……あ、ああ、そうか。君もかい」
 同類に対し、彼は気を許した様子であった。
「そう。僕もなんだ」そのように言うと、くす、と青年は笑みを浮かべた。
「でも、少し困っていてね。この時間に絵馬を奉納するといいと聞いたんだけど、作法がよく分からないんだ。教えてくれないかな?」
 青年は仕掛ける。先ほどの行動が気になっていた。
「なんだ、知らないのか。トレーナーの間では結構噂になってるけど」
「そうなのかい。でも僕はあまりトレーナーの友達が居なくてね。ぜひ君に教えて欲しいな」
「……構わないけど」少年は承諾したが「ただ」と、付け加えた。
「なんだい?」
「ここで見た事は他言しないで」
「もちろん」
 そう言って青年はにっこりと笑った。
「簡単だよ。バトルで負かしたい奴の名前を書けばいいんだ。誰々が負けますようにって。プリントよりは手描きの絵馬のほうが効果があるそうだよ」
「なるほど。ライバルを潰す願を掛けるのか」
「そうだ。そうすれば黒いキャモメが願いを叶えてくれるんだ」
「黒いキャモメ?」
「これだ、これ」
 トレーナーは一枚目の絵馬をめくり、二枚目の絵をペンライトで照らした。
 そこに見えたのは、黒いキャモメだった。キャモメの白い翼も、黄色の嘴も、全てが真っ黒に塗りたくられていた。さっきマーカーを懸命に動かしていたのはこれの為だったらしい。
「後はもう知ってるだろ? 最近ニュースにもなってるしな」
「書かれた相手が怪我をする? 通り魔に襲われて?」
 青年は尋ねる。
「そうだ。犯人は黒い鳥ポケモンを使ってる。それがこいつさ」
 少年は絵馬の黒いキャモメを指差して言った。
「なるほどね……」
 青年はくくっと笑った。皮肉なものだ。世間であんなに騒がれている通り魔が、深夜の神社でこんな遊びに転化されているなんて。トレーナー達は怖い怖いと言いながら恐怖刺激を楽しんでいたのだ。こんな形でもって。絵馬をマーカーで塗って黒いキャモメにする。負けて欲しい相手の名前を書く。なるほど。なかなかよく出来ているではないか。確かに日頃、負け戦ばかりのトレーナーが鬱憤を晴らすには丁度いい。
「笑うなよ。本当に御利益があるんだ。この前、名前を書かれた人が怪我をしたんだ。本当にキャモメは行くんだ! 憎い相手に不幸を届けに行くんだよ!」
 悲しいものだ。人間は思い詰めるとこういう事に縋るのだ。そんな少年を、青年はあくまで笑顔を絶やさず見つめていた。甘い匂いがする。とろけるような甘い匂いが青年を誘った。さあ、そろそろ喰ってしまおうか。青年から伸びる影が我慢できないとざわついている。
「ただ、一つ注意点がある」
「注意点?」
 少しばかり影を静止して、青年は訪ねた。
「宮司に気が付かれてはいけない」
「宮司に?」
「言ったろ。プリントよりは手描きがいいって。この絵馬を描いてる宮司はそういう方面の才能があるんだよ。だから、念が強いと分かってしまうんだって。もしも見つかって処分されてしまったら効果がなくなるから、だから勘付かれないように、まじないをかける必要がある。それがこれだ」
 そう言って少年は、二重になった絵馬の一枚目を手にとった。こちらは黒く塗られていない。
「これを本命の絵馬の上に重ねるんだ。黒いキャモメを隠す意味もあるし、こうしておくと宮司が勘付かないんだって」
 そう言って、彼はひらりと絵馬をめくった。
<この下の願いを隠せ>
 絵馬にはそうあった。本当に手が込んでいる。青年はまたくくっと笑った。そうして、
「分かった。もういいよ」
 と言ったのだった。
 瞬間、勢いよく青年の足元から影が吹き出した。まるで地面から大きな手首が生えたようにしてそれは獲物を掴み取った。躍動する影、捕らえられる今夜の贄。だが、まるで小さなポケモンが女の子にじゃれつく様子を眺めるように、あくまで青年の表情は穏やかだった。目の前では先ほど、呪詛の手ほどきをしてくれた少年トレーナーが影に巻きつかれ、縛られていた。
 口に猿轡(さるぐつわ)を噛ませるように影に回り込まれ、後ろで腕を縛られる。下半身はぐるぐると布で簀巻きにしたようにされて、彼は動きを封じられてしまった。ポケモンを出して対抗するという手段はものの数秒で奪われた。贄を拘束したカゲボウズの群体は、次の段階へと移行する。
 束縛する影が溶け出した。侵略するように、身体に同化し、内へ内へ入り込んでいく。ドクン、と巻き付く影が脈動して、びくりと獲物が痙攣した。ドクン、ドクン。それは溶け合いながら脈動を繰り返す。そうしてより奥へ、より内側へと晩餐の内側を侵食していった。今や影の脈動と獲物の反応は連続した一つの運動と化していた。
 それは文字通りの掌握であった。外側からだけでなく、内側をも貪欲に同化して、心を喰らってゆく準備であった。トレーナーを掌握するその影には三色の眼が無数に開き、ぎょろぎょろと眼球運動を繰り返している。
「ふうん、願掛けの相手は弟さんかい」
 涼しい表情で同化を眺め、青年が呟く。影に侵されたトレーナーは驚愕の表情を浮かべた。くすくすと青年が笑う。鬼火が冷たくその表情を照らしている。
「一歳下なんだ。競争意識もあるだろうね」
 ここまで入り込ませてしまえば、負の感情とその要因など手に取るように分かってしまう。
「先輩風を吹かせられたのも最初だけだった。あっと言う間に追いつかれちゃったんだ? それからずうっと勝てなかったんだ?」
 やめてくれ、と言わんばかりに哀れな獲物が首を振り、もごもごと口を動かした。だがそれはぴったりと猿轡を噛ませるように取り憑いた影に阻まれ、言葉にはならなかった。
「君のお母さん、弟さんの成績ばかり気に掛けてるんだろ? 君はいつもほったらかしだ。誰も君を見ない。君は決して省みられない」
 青年が近づいて、白い腕を伸ばす。両腕を絡め、震える肩をそっと抱いた。 
「可哀想に。そうやって君はずっと憎しみを育ててきたんだね」
 耳元でそう囁いた。獲物を言葉で嬲り、揺さぶりをかけてゆく。
「でも弟さんが本当に怪我をしたら、やっぱりお母さんは弟さんにかかりっきりになるんだろうなぁ。皮肉なもんだね」
 怒りとも悲しみともとれる眼差しが青年に向けられた。青年は口角を吊り上げる。自身の言葉による獲物の反発や苦悶すら影達にとって心地よいものであり、糧であると知っているのだ。染み渡る柔らかな声。贄の耳元で青年はそれを何度も何度も響かせた。
「弟さんは一途だよね。それに努力家だ」
「毎日トレーニングを欠かさないし、順調に強くなってる」
「この間、新しいポケモンも手に入れた」
「バッジだって」
「君との差は開いていくばかりだ」
 贄の目から涙が零れ、青年がぺろりと舌なめずりした。ドクンとまた影が脈動する。全身の感覚を掌握され、明け渡してしまった哀れな獲物は、侵略者から与えられる感覚に為すがままとなった。痺れるような甘い感覚が全身を襲う。身体をくねらせ、短い間隔の呼吸を繰り返す。その度に感情は影達に吸い上げられていく。
 記憶を伴った生のままの負の感情。それは影達にとって甘い蜜の味であった。掌握した神経系に甘い感覚を再び走らせると、若きトレーナーは細い身体をのけぞらせる。負の感情、その泉が枯れるまでそれは何度でも繰り返された。闇に浮かぶ息の色が白かった。
 獲物が動かなくなった。力無くうな垂れて、生気を失った抜け殻から影が引いていく。啜り喰らった感情の甘美さに青年は大いに満足していた。が、
「溜め込んでいた割りにボリュームは無かったね」
 と、総量に関する所感を語った。満腹を十とするなら四割程度であろうか。モモンやつまみ食いでごまかすよりは、よほど良い食事であったが。
 地に伏した獲物を見る。防寒はしているようだから、凍え死にはしまい。神社の朝は早いから、宮司にでも発見されるだろう。自身で目を覚ますのが先かもしれない。
「戻ろうか」
 と、青年は言った。食事を済ましたら長居は無用である。先ほどまで貪り喰らっていた獲物にはもう関心が無いとばかりに背を向けた。
 が、林を抜けようとしたその時になって、引っ込んだはずの影達が騒ぎ出した。足元でぱちぱちと三色の瞳が無数に開いたのだ。
「どうした?」
 そう青年が尋ねたのとほぼ同時に、からん、からんと絵馬と絵馬がぶつかる音が響いた。青年は最初、風かと思った。が、そうでは無かった。
 からん、からん。からん、からん。
 草木も眠る暗闇の中、近くで、少し奥で、右で、左で、複数の絵馬が鳴っている。風では無い力で揺すられている。
 青年は鬼火を指示する。十数ほどの鬼火が林に広がって、闇に秘められた絵を暴き出した。
 その数は十枚程度であろうか。奉納された絵馬の、一番上やあるいは二番目、それらが下で蠢く何者かの動きでもって揺すられていた。それはある種、今まさに誕生せんとするポケモンが、タマゴの殻を破ろうとしている場面に似ていなくも無かった。
 だが、殻は破られず、やがて薄平たい何かがするり、するりと抜け出した。絵馬と絵馬の間から抜け出した。それにはどことなく非生物的な不気味さが感じられた。
 抜け出したそれは、それぞれが掛所の屋根の上で形を成した。身体は黒かった。まるでマーカーで塗りたくったみたいに嘴から翼の先まで黒い。心なしかはみ出しや、塗り残しがあるように見える個体もあった。形はキャモメによく似ている。
 青年は驚愕の表情を浮かべた。すぐそこで気を失っている獲物の言葉が思い出された。
 ――黒いキャモメが願いを叶えてくれるんだ。
 そんな馬鹿な、と青年は思った。これはあのトレーナーの空想では無かったのか。だが青年は気が付いた。黒キャモメは複数、先ほど、少年が奉納したのは二枚。一枚は目隠しで、黒キャモメは一枚だけ。なぜ、複数いる?
 答えは明白だ。他に奉納者がいたからだ。黒キャモメに願を掛けたトレーナー達が。最近、噂になってるのだと彼は言っていた。彼は丑の刻参りを選んだが、実際には朝に昼に夕に、少しずつ黒キャモメは増やされるのだろう。遊び半分? 恨み骨髄? それは分からない。けれど今まさに彼らの呪いは形を成し、絵馬の間から姿を現したのだ。
 まるで小説である。あのオリベが書いた屏風の話にそっくりだと青年は思った。あの屏風を抜け出したキャモメ達の物語に。
 ゾクリという感覚が背を走った。無論、怖かったからではでは無い。絵馬と絵馬の間から生まれ出たそれらが、負の感情をふんだんに含んだ塊だったからだ。いわばこれは負のエネルギーの実体化であった。
 青年は理解した。先程喰らった獲物の感情総量が少なかった理由を。こっちだ。弟に嫉妬した若きトレーナーはこの黒いキャモメに感情の大半を移してしまったのだ。
 カゲボウズ達が「それ」に向かい飛び出した。感じた事は同じであったらしい。だが、形を成したキャモメの動きは早かった。カゲボウズ達が捕らえるその前に、闇空へ飛び立った。
 にわかに風が沸き立って、青年の髪を揺らす。意図してか、そういう性質なのか彼らは四方八方に散って、その行方は追えなかった。
 だが、青年は悲観しなかった。闇夜を見上げるその表情には笑みがこぼれていた。青年は新たな獲物を見つけたのだかから。まじないで隠されていたご馳走に。
 新たな獲物に夢中になる彼らは、林の小さな住人には注意を払わなかった。
「…………」
 夜の騒ぎに目を覚ました緑玉。それは一部始終を観察していたが、やがて姿を消して見えなくなった。


 翌早朝の白羽波神社はちょっとした騒ぎであった。
 太陽が顔を出してすぐの頃、宮司が境内を見回っていると人が倒れていた。死体かと思ってぎょっとしたが、息があった。ただ、ひどく身体が冷えていた為、社務所に寝かせて暖めると、救急車を呼んだ。石段をワンリキーと隊員がたったと登ってきて、そして患者は運ばれていった。警察が来て事情を聞かれる。林で倒れていたのだと答えた。昨晩は? 寝てました。朝早いですものね。ええ。そんなやりとりをして警察が帰っていく。倒れていた青年に外傷は無かったから、通り魔事件とは関係なさそうだと片付けられた。そんな事をしていたものだから、本殿に供え物をするのがすっかり遅れてしまった。
 朝食を済ませた頃、境内を掃いていると、私服姿の巫女がやってきた。
「おはよう、ヨシエさん」
「おはようございます、キヨフミさん」
 二人はそんな挨拶を交わし、巫女は社務所に入って着替えるといつものスペースに陣取った。そのあたりになって、やっと神社はいつものペースを取り戻したのだった。
 だがその時を見計らったように、おかしな行動をする二人組が現れた。いや正確には一人はそれを否定したのだが、宮司が見るにそれは二人組であった。二人揃って同じ事をしていたのだから、二人組と見るべきであろうというのが彼の主張であった。
 その一人目はオリベであり、先にやって来たのも彼だった。いつもと同じポロシャツとジーンズ、ギョサンのルックで神社に現れた彼は、賽銭箱に小銭を投げ入れると、かしわ手を打ち拝殿に詣でた。が、それからの行き先が異なっていた。彼は絵馬が奉納される林に入っていったのだった。
「オリベさん、何してるんだろ……」
 普段とは違う馴染みの参拝者の行動が気にはなったものの、追加の絵馬を描くために宮司は母屋へ引っ込んだ。最近本当に引き合いが多いのだ。
 巫女が言うには、通り魔除けに買って奉納するのだという。未だ捕まらない通り魔に遭わぬようにトレーナー達が願を掛けるのだと。そういえばここのところ、少々お祓いの依頼が入っているが、そういう事なのだろうか。おかしな流行だと思った。絵馬が出るのは嬉しかったが彼は何か複雑であった。
『さあユウイチロウ、昨日見つけた絵馬の確認だよ』
 同居人の声が頭に響く。
「分かってる」
 そう言ってオリベは昨日の黒キャモメ発見地点で絵馬をめくった。
 だが、無かった。昨日に発見した黒いキャモメの姿が消えていた。残っているのは神社の印と神社名を書いた筆文字だけで、キャモメの姿だけが忽然と消え去っていた。
「……おいおい、冗談だろ」
 オリベは苦笑いし、顔を引きつらせて言った。
 表面を触ってみる。滑らかだ。削り取ったといった様子も無い。誰かのいたずらかと思いたかったが、ここで自身が絵馬をめくった事を知っているのは同居人くらいしか思い当たらない。
『他もあたってみようか』
 同居人が事務的に言った。同居人は目の前の事象に関してあくまで冷静であった。
「…………」
『何を固まってるのさ。こんなの君の中に私が同居してる事に比べたら平凡だろ』
「どこがだ。絵が抜けたかもしれないんだぞ」
 あまり言いたくなかった。目の前の事実はどうやらそうらしい事を示していたが、やはり頭が、今まで生きてきた常識というものが、受け入れを阻んでいた。
『そうかい? 私が小説で書いた事があるじゃないか。似たようなもんだよ』
「小説と目の前の事象は違う。人間は怪談が好きでも本物は見たくないものだ」
『そこがよく分からない』
「そういうものなんだ」
 あの時、黒キャモメの絵馬を見るとその裏に〈ヒダカマサヨシがバトルに負けますように〉と尖った字で書いてあった。フルネームを書いた上に、負けろ。ろくでもない内容だとオリベは思った。
 そうしてその後に、オリベと同居人は他の絵馬もめくって見てみたのだ。あれだけここは気持ち悪い、空気が悪いと嫌がっていた同居人が異様な興味を示し、オリベに探させたからだ。
 気持ち悪いんじゃなかったのかと問うと、気持ち悪いが原因が分かったなら追求すべきだと答えが返ってきた。こうなると止まらない。知りたい事は徹底的に追求するのが同居人の性分であった。最終的に彼らが見つけた黒いキャモメは十羽。いずれも〈この下の願いを隠せ〉で蓋をされていた点にも同居人は興味を示した。
 第二発見地点に移動する。オリベ自身はこれ以上めくりたくない気がしたが、同居人にせかされた。
「ここもか……」
 隠しの絵馬を持ち上げてオリベは言った。
 黒いキャモメを見つけた時もドキリとしたが無い、いない、という事がここまで心胆を寒からしめるものだとは思わなかった。
 三枚目、四枚目、五枚目、とオリベは蓋の絵馬を持ち上げて、黒キャモメの所在を確認した。いずれも飛び去った後であった。
 いや、飛び去ったなどとはまだ想像だ。オリベは首を振った。目の前にある事実は、黒く塗られたキャモメの絵が消えているという事のみを示している。他は想像でしかない。だが、同居人は追い討ちをかけるように言った。
『願いも筆跡も変わっていない。どの絵馬も誰々が負けますようにで一致。こいつは面白い』
「面白くない」
 オリベは言った。昨日の黒キャモメ探しにはもう一つ、続きがあった。
 黒キャモメを探して次から次へめくっていくうちに彼らは別の、奇妙な絵馬を発見する事になったのだ。
 見つけたのは、キャモメの描かれていない印と文字だけの絵馬であった。それは黒いキャモメよりも多く見つかったくらいで、同様にその中身が〈負けますように〉であった。その上の絵馬も決まったように〈隠せ〉の記載であったのだ。
 同居人は言った。ここに元々描かれていたのは黒いキャモメに違いないと。だったら黒キャモメの経過を見てやろうじゃないか、と。その結果が今、目の前にある。
『後は待つだけだ』同居人が言った。
『帰ってテレビをつけっぱなしにするだけだ。近いうちに絵馬に書かれた十人の誰かが読み上げられたら、そういう事だ』
 そこにあったのは純粋な、この呪詛に対する興味だった。同居人は十人の行く末そのものに関してはひどく無関心な様子であった。
 宮司に報告すべきか、とオリベは悩んだ。だがこんな事を誰が信ずるのであろうか。
「まだ決まった訳じゃないだろ。少なくとも、名前を聞くまでは」
 この場はそう返すのが精一杯であった。すると、
『ちょっと引っ込む』
 と、同居人が言った。嫌味な返しをされると思っていたのに意外であったが、その理由はすぐに分かった。林の中に一人の青年が足を踏み入れたからであった。
 色の白い青年であった。髪は透き通るような淡い色で軽くウェーブがかかっている。白い腕が伸びて、長い指が絵馬に触れた。その立ち振る舞い、やはり旧友によく似ていた。
 林の入り口付近に立ったその青年は絵馬をめくると、一枚、二枚、三枚と丹念に内容を確認した。
「よう、タテバヤシ」
 声をかけると青年が顔を上げる。声の主を認識して露骨に嫌な顔をした。が、構わすオリベは近づいていく。
「……なんでここにいるんですか」
「なんでって、実地調査だよ」
 散歩コースなんだ文句あるか、と言いたかったがノリでそのように答えた。まぁ嘘ではない。
「実地調査?」
「そうだ。民俗学の調査だよ」まぁたぶん嘘ではない。
「へえ?」
 いかにも信用ならないというような口調で青年は返す。そして絵馬めくりに戻ってしまった。青年はめくっては戻し、めくっては戻しを繰り返した。奇妙な光景だとオリベは思った。考古学の学生が絵馬めくり? 
「お前、一体何を始めようってんだ」
 オリベは尋ねる。返事は無い。
「課題のほうはやってるのか?」
 返事は無い。
「…………」
 つれない奴だ、とオリベは思った。
 にしても奇妙である。なぜタテバヤシは自身と同じ事をやっているのか。よほど興味があるのか青年は熱心に絵馬をめくり続ける。まるで何かを探している風であった。
 ん……何かを探して? そう問いかけてオリベの脳裏に浮かんだのはたった一つの事柄であった。まさか。
「……黒キャモメなら消えたぞ」
 軽く鎌を掛ける程度に問いかけたら、青年の動きがぴくりと止まった。そうしてそっぽを向いていた顔がしっかりとオリベのほうに向いたのだった。
「あれを見たのですか」
 青年は落ち着きを払おうと努めていたのだが、明らかに食いついていた。
「おうよ。昨日見つけたのは十枚だ。だが、みんな消えたよ。いなくなってる。絵馬からキャモメが消えちまった」
「十、ですか」
 青年は昨晩の記憶を辿った。空に飛び立った黒キャモメ。正確な数は数えていなかったが、おおよそそんな数だったはずだ。
「そうですか。貴重な情報をありがとうございます」
「ん? あ、ああ」
 オリベは青年に礼を言われた事など初めてだったものだから、調子が狂ってあいまいな返事を返した。だが、会話が続いたのもそこまでで、青年は絵馬めくりに戻ってしまった。一枚、二枚、三枚、めくっては戻しを繰り返している。
 この目の前の状況を一体どう解釈したらいいのだろうと悩んだ。昨日、絵馬に描かれた黒キャモメを見つけ、同居人に尻を叩かれる形で調査に乗り出したら、どういう訳か青年が現れ、同じ事をし始めた。青年はどこからか黒キャモメの件を嗅ぎつけてやって来たらしい。これをどう解釈したらいい? オリベはしばらく反応に困っていた。
 が、急に思い立って、そしてふっと笑ったのだった。
 馬鹿だな、何も悩む必要は無いじゃないかと。こういう時は――。
 オリベは手近にあった絵馬をめくった。そうして自身も内容を確認し始めた。めくっては戻し、めくっては戻す。青年に合わせるようにそれを繰り返した。
「…………」
 オリベが始めたその行動を青年は始めちらちらと見ていたが、当の本人はまったく意に介さないといった風だった。そんな調子で五分が経ち、十分が経ち、三十分が経った。そのあたりになって青年はようやく痺れを切らしたらしく、
「……何してるんですか」
 と聞いてきた。
「何って、絵馬めくりだよ」
「それは見れば分かります」
「奇遇だな。俺もちょうど同じ事を調べてたんだ」
 にやっと笑みを浮かべ、オリベは答えた。青年には嫌味に聞こえただろうが、本当の事ではあった。
「…………」
 青年はまた露骨に嫌な顔をしたが、この場で絡むのも、追い出すのも時間の無駄と判断したらしい。勝手にしたらどうだとばかりにそれ以上追求しなかった。そうして二人の奇妙な共同作業がしばし無言で続けられた。時々絵馬と絵馬がぶつかる音がするだけで、彼らは言葉を交わさなかった。海からの風が吹いて、林をざわざわと揺らす。葉陰で覆われた空の上では、白い翼のキャモメがみゃあみゃあと鳴いていた。
 オリベはまた絵馬をめくる。今度はまた妙な文言に出会った。
<私に気付け 私の声を聞け 私はここにいる>
 妙に言い聞かせるような文面だった。誰が誰に宛てたのかも分からない、けれど訴えるような。直接言えばいいじゃねぇか、とオリベは思った。直接、そうだな、直接言いたかったと。
「昔、お前の親父にノートを借りた事があってな」
 いくばくかの時間を経た後に、ぼそりとオリベは言った。
「教養の授業など、面倒で出なかった。いつもここで時間を潰していたんだ。そうしたら考査の前、ツキミヤがノートを貸してくれた」
「……、…………」
 それでよく教授になれたものだと青年は思ったが、言葉には出さない。手元の絵馬をめくるとまるでタイミングを見計らっていたかの如く <カイナ大人文学部に合格できますように> とあった。受験もある意味勝負事だから、こういう願掛けはありかもしれない。この後輩候補は来期現れるのであろうか。それは分からない。そもそも青年自身の行き先さえも今は見えない。
「俺はあいつに借りるばかりでな。何も返さなかった。ノートの一冊さえも」
 何を告白しているんだ、とオリベは思った。
 ようするに未練だ。その未練をなんとか息子で誤魔化そうとしているのだ。だが、語り出すとどうにも止まらなかった。
「……奴と出会ったのは入学式の時でな」
 と、オリベは始めた。
「入学式なんざウザったいから、サボったんだよ。で、市場に行こうと思ってカタヒラ川の河川敷を歩いてたらツキミヤに会ったんだ。あいつもサボっていたらしい。探索やってたんだと。あそこは古墳が多いから」
 分野こそ違ったが、ツキミヤソウスケと大学に残った。交友が続いていた。だが、古典の調査に出ていた時に事件は起こり、ツキミヤは姿を消した。死んだとは思いたくない。が、あれが別れだったのなら、何故もっと言葉を交わしておかなかったのだろう。それをずっと悔やみ続けてきた。何故あの時、せめて近くにいなかったのかと。
 ――あんたも同じだ。見棄てたんだ!
 あの夏の言葉が胸に刺さって、抜けない。
 そうだとも。考古学の奴らと自分自身。大した差などありはしない。ありはしないのだ。
 けれど、それでも。
「タテバヤシ、お前は何を探しているんだ?」
 オリベは口に出した。次にめくった絵馬にあったのは <行く道が見つかりますように> だ。抽象的な願いだが人は皆そうかもしれない。
「私が昨日見つけたのは、黒いキャモメの絵馬、絵の抜けた絵馬、そしてそいつらを隠す絵馬だ。お前の探し物はこの中のどれかか?」
 返事は無い。
「ツキミヤにもうノートは貸してやれない。だが、ここで息子の探し物の手伝いくらいならしてやれるがね。少なくともお前さんにとって、ポケモンを探すよりは大事な事らしいからな?」
 やはり返事は無い。無言のまま青年は作業を続けるのみであった。
 まぁいい。おかしなものを発見したら教えてやればよかろう。
「調べた所には、松の葉でも掛けておくかね?」
 青年は無言であった。なめるな、とオリベは歯を見せ笑った。こちとらお前より三十年は長く生きているんだ。それくらいで見限ってなどやるものか。居座るのは俺の勝手だ、と。
「……あのオリベさん、それにタテバヤシさんでしたっけ? 何やってるんです?」
 そのうちに宮司が林に出向いてきて、言った。
「フィールドワークだ。民俗学のな。タテバヤシはアシスタントさ」
 オリベが答えると
「違います」と青年が言って、また絵馬をめくった。
「ええ? どういう事です?」
「だからフィールドワークだよ。二人でな」
「違います」
「どういう事です?」
「まぁまぁ、忙しいんだろ宮司さん? 参拝客の目は避けるようにするよ」
 などとオリベは適当な事を言い、宮司の背を押して退散させようとする。だから何を。まぁまぁ。そんなやりとりが五分ほど続いた。それでも宮司はあくまでやめさせようとしたのだが、運の悪いことに、お祓いの予約時間が迫り、準備にかからなければならなかった。ここのところ、特に今日は予約が多いのだ。宮司は仕方なしに、人目は避けてくださいよ? 特にこの時間はあれこれなどと言って、去って行った。
「さて、続けるか」
 絵馬をめくる青年に問いかける。やはり返事はない。
 そうしている間に太陽は高く昇り、時々参拝者が足を踏み入れるようになった。作業を中断して、茶を飲んだ。
『もう帰ろうよ』と、同居人が出てきて言ったが、
「お前は黙ってろ」
 とオリベは言って、林に戻っていく。青年は黙々と絵馬をめくり続けている。オリベもまた松の葉を結んだ。その間にかなりの数、絵の抜けた絵馬を発見した。二人はキャモメのいない絵馬を数えながら林の奥へ分け入り、ついに本殿の左側まで到達した。
 が、そこで思わぬ邪魔が入った。始まりは、カンと絵馬に絵馬がぶつかった音であった。
 直後、ばさりと地面に絵馬が落ちた。どうやらそれは林の先から飛んできたらしかった。青年が先を見る。一羽の鳥ポケモンが掛所にとまっていた。人に似た大きな瞳が青年とオリベを見つめている。緑色の丸い身体、頭には赤アンテナ。くわっと瞳を見開いたネイティだった。
「あ、あいつ!」オリベが言うと、
「ご存知なんですか?」と、久々に青年が口を利いた。
 するとまた絵馬が飛んできた。ブーメランのようにくるくると回りながら、青年とオリベを襲う。オリベは腰を屈め、青年は松の木の裏に隠れるようにした。
 ネイティの周りの絵馬がニ、三宙に浮かぶ。一枚ずつ順番に、またブーメランのように飛んできた。念力である。
「おいおいなんだ、危ねぇ!」
 オリベが言った。緑玉は明らかに二人を狙っている。これでは先に進めない。
「あれをご存知なのですか」
 木の裏側に身を隠しながら、もう一度青年が尋ねた。
「知ってるよ。あいつ、絵馬めくりの俺達より性質(たち)が悪いぜ。絵馬捨て犯だ。この下の海に絵馬を捨ててやがった。俺がフジサキに頼まれて奉納した絵馬も無くなってたんだ。たぶんあいつがやった」
「奇遇ですね。実は僕も絵馬を盗られまして」
「お前もかよ!」
 オリベは声を上げ、次の瞬間にはっとした。
「おい、一応聞くが何て書いたんだ?」
「それは、」
 青年は少し恥らっていたが、やがて観念したように
「……友人が二つ目のバッジを取れるように」
 と、言った。
「あれお前かよ。それなら海に捨てられてたぞ」
「…………」
 青年はしばし黙っていたが、やがて静かに怒りを抑えるようにして
「念の為、伺いますが、フジサキ教授は何と?」
 と、尋ねてきた。
「息子がコンテストで勝てるように、だ。まったく親バカもいいとこだ。自分は怪我して寝てるってのにさ」
「ふふ、黒いキャモメとは正反対な願いですね」
 青年は何かが分かったという風に言い、少し笑った。
「まったくだ」
 オリベもまたにやりと笑った。
「それならますます灸を据えないといけませんね。ただ、今はどいて貰うのが先だ。失敗しましたよ。どうやら、広く浅く全体をあたればよかったらしい。たぶん目的のものは近いですよ」
 青年は木の後ろから出、緑玉の眼前に姿を現した。
 ぎゅんぎゅんと回転しながら絵馬が飛んでくる。避けると、後ろでカツーンと音が響いた。二枚目が来る。今度は腰を屈め、かわす。三枚目はおかしな方向へ逸れてそのそもが当たらなかった。どうにもコントロールが悪い。
「念力か。あの時のバトルでレベルが上がったのかい?」
 青年は問うた。ネイティが羽毛を逆立て、アンテナ冠羽をピンと立てる。翼を広げた。威嚇をしているつもりらしかった。
「悪い事は言わない。そこをどくんだ」
 青年が言った。ネイティは羽毛を逆立てたまま動かない。
「そこをどいてくれないかな?」
 再び、今度はゆっくりと青年は言った。ただ、前の一言と決定的に違ったのは、そこに明確な圧力が込められていた事であった。青年を退けようと宙に浮き始めていた絵馬が力を失い、ばさり、ばさりと地に落ちたのをオリベは見た。
「鬼ごっこと力のぶつかり合いは違うよ?」
 小鳥ポケモンの目を見据えた青年の眼には鋭く三色の光が宿っていた。
「本気で戦って、まさか僕に勝てるとは思うまい?」
 林全体がざわりと鳴ったように思われた。言葉と同時に放たれたそれは殺意と言い換えてもよかろうものだった。聞かせた相手を圧倒し、場を支配するだけの言霊。ゾクリという悪寒がネイティ、そしてオリベまでもを貫いた。
 ――これは本能だ。血が言うんだ。ああいうのは危険だって。
 瞬間にオリベは理解できた気がした。同居人が怖れたのはまさにこれだったのだと。彼は青年の目の前からネイティが退散していくのを目の当たりにした。
 青年が掛所の絵馬に手をつけた。一枚一枚をめくって確認していく。そうして二列目の一番奥を取り出し、めくってみた時に、
「ありました」
 と、上機嫌に言った。
 オリベは青年が裏返した絵馬を確認する。
〈黒い鳥の塒を隠せ〉
 青年の手に握られた絵馬には一言、そう書かれていた。
「塒(ねぐら)……?」
 オリベがそう言葉を発すると、青年が言った。
「ずっと疑問でした。飛んでいった黒キャモメがなぜ見つからないのか。どこに隠れているのか。例の十羽だけじゃない。今までに消えた分の含めてどこかに潜んでいるはずです」
 黒いキャモメ、それは呪いの産物で、負の感情の容れ物だ。それを青年やカゲボウズが察知できなかったのは〈隠せ〉の絵馬で蓋をされていたからだ。ならば飛んでいった後も何かしらの術で隠されているはず。そのように青年は考えていたのだ。
「オリベ教授」
「ん?」
「あのネイティ、絵馬を海に捨てていたそうですね」
「そうだが」
「だったら、これを海に捨てたらどうなるでしょうね?」
 見つけた〈塒〉の絵馬をちらつかせて、青年は言った。太陽が海に足先をつけ始めていた。青年がくすくすと笑う。林を引き返すと、木に立て掛けた鞄を拾い、絵馬をしまった。
「長居をしましたね」
 社務所の前を通り、青年は巫女に言った。後をオリベがついていく。宮司はお祓い中であるらしく姿は見えなかった。
 青年は石段を降りると脇に回り込み、海と地の境目に入っていく。それは昨日オリベが歩んだコースと同様であった。オリベは海を見る。沈む太陽を背に台場が黒く浮かんでいた。
「このあたりでいいですかね」
 青年は鞄から戦利品を取り出すと海に向かって放り投げた。波音に阻まれて、着水音は聞こえない。だが確かに、たぽん、という鈍い音を立てるようにして、黒い海に絵馬が落ちた。
 瞬間、目の前で起こった出来事にオリベは戦慄した。
 最初に情報が飛び込んできたのは、耳であった。羽音が周囲を包んだのだ。同時に、無数の影が飛び立った様を、民俗学教授は目の当たりにした。
 オリベは見た。夕日の逆光で黒いシルエットだけになった台場から、群れ成した不気味な鳥影が飛び立っていった。何十あるいは何百、相当の数である。この中の十分の一でも人に襲い掛かったら、人に向け技を放ったら、やられたほうはひとたまりもないだろう。目の前に見えるその数が奉納された黒キャモメ分ある事も、オリベは理解していた。鳥影が逆光のせいで黒く見えるだけだと思いたかった。だが、同居人が言ったのだ。
『あーあ、藪をつついて牙蛇を出しちまったねぇ』と。
 それは夕映えの空に何秒かの間、模様を作り出し、あちらこちらへと飛散していった。羽音も飛散し、小さくなってやがて消えた。だが、鼓膜にざらざらと残り続けた。まだ羽音がしている錯覚にオリベは陥った。
 青年が笑っていた。くくく、くくくっと声を上げて笑っていた。さも嬉しそうに。
「そうか迂闊だったな。灯台下暗しとはこの事ですね。これは反省点だ」
 それは邪悪な笑みであった。青年のそんな表情を今までオリベは見た事が無かった。
「オリベ教授」
 青年に呼びかけられ、はっとした。
「今日はありがとうございました」
 そう言って青年はふっと横を通り過ぎると、
「後は自分でなんとか出来ます。助かりましたよ」
 と、言った。
「………………」
 昔話をモチーフにした小説の出来事は、少し違う形で実在した。
 昔話でしばしば人は、狐や狸に化かされる。もし九尾の狐ポケモンに化かされたら、こんな気分になるのであろうか。青年が視界から消えて『帰ろう』と同居人が言うまで、彼は終始無言であった。夜が近づいていた。



 月が半分ほど目を開き、地上を見下ろしている。
 波の音のする以外、白羽波神社は静かであった。
 闇に紛れて人影が登ってくる。慣れた足取りで、小さな光すら灯してはいなかった。人影は片手に絵馬を握っている。

 黒い鳥の塒が暴かれた。
 封印の絵馬の願掛け主は焦っていた。犯人は決まっている。いつもやってきているオリベ、そしてあの青年だ。特に青年のほうに油断をした。迂闊であった。二枚目を買いに来た彼は呪いの実行者かと思っていたのに。
 隠さなければ。黒い鳥が飛び立って、もう宮司は気付きかけている。あれが元々自身の描いたものに呪いを上塗りしたものなのだと。それは駄目だ。それは避けねばならない。
 木を隠すには森の中、見つけられる訳がないとタカをくくっていた。だが間違いだった。場を離れても二人を止めに行くべきだったのだ。
 林の中で絵馬を外していく。なるべく奥にそれを隠したくて、願掛け主はその様にした。
 絵馬を掛けなくては。黒い鳥を人から隠さなくては。誰にも見つからぬように、闇に紛れて。
 だが、それは掛けられなかった。
 ぽうっと灯った青白い鬼火に驚いて、彼女は身を強張らせたのだ。
 続けざまに、まるで道を作るように鬼火が灯って、冷たく周囲を照らし出す。それが林の入り口まで続いた。そうして、その道をざくりざくりと落ち葉を踏みしめながら、鬼火の主が歩いて来るのが見えた。
「こんばんは」
 と鬼火の主が言った。それは昼間に神社で見た顔であった。絵馬の二枚目を購入したあの青年であった。
「あ……、あ……」
 見つかった。ほとんど声にならないか細い声を彼女は上げた。
「何してるんだい? こんな夜遅くに。宮司さんだって寝てしまっているだろうに」
 くすくすと青年は笑う。その背後から二、三の影が顔を出して同じようにくすくすと笑った。角を生やしたてるてるぼうず――カゲボウズであった。
「あの時、絵馬を買ったあの時、貴女は言いましたね。お客さん、あの口ですか、と。最初は何の事だか分からなかったけれど……」
 がくがくと彼女は震えた。知っている、この男は既に全てを知っているのだと。
「ようするに二枚目は蓋の事だったんだ。宮司さんから黒いキャモメを隠す為の」
 青年はさも楽しそうに言った。
 目の前では、社務所で絵馬を売っていた巫女ががくがくと震えている。彼女の服装は私服であった。胸のラインを強調したその衣装は巫女姿とは対照的だ。けれど青年には、そちらが彼女の本心であるように思われたのだった。震えている。今までの行為が丸裸にされる恐怖。それが手に取るように伝わってきた。心地よいと思った。
「最初に呪いの噂を流したの、君だろ?」
 青年は巫女に結論を突き刺した。巫女の表情が恐怖に歪む。
「今日も何人か来てた。ほとんどが通り魔回避の願掛けだったけど、いくらか黒いのが混じってたよ。トレーナーの間にずいぶん蔓延しているんだね。そういう中毒性を含めて呪いなのかもしれないけどね?」
 くすくすと青年は笑った。
「尤も今日は出て来ないよ、黒キャモメ。奉納分はカゲボウズ達が全部食べちゃったから。遊び半分だったのか、気の抜けた感情ばかりだったけどね」
 次の瞬間、青年の影が吹き出して巫女に襲い掛かった。あっと言う間にがんじ絡めにされた彼女をすぐに影は侵食し始めた。手加減が無かった。すぐさまびくりびくりと彼女の身体は痙攣を始め、その侵入を受け入れていく。影が中に入り込むにつれて、青年はその中身を把握していく。にたりと笑った。これは、いい、と。
「そう、君はあの人が好きなんだね」
 白い指で巫女の顔を引き寄せると、青年は言った。
「……やめて」
 か細い声で巫女は言う。声が震えていた。
 感情の発露はまだだった。だが、彼女の脈動するそれに触れて、青年は敏感に時期の到来が遠くない事を感じ取った。彼はにわかに口角を上げた。一押ししてやればいい、と。
「役に立ちたかったんだ? 噂が広まれば絵馬が売れる……そうすれば、彼が喜ぶ。そう君は考えたんだ。けど見つかりたくない。知られたくない訳だ。矛盾だね」
 ずぶり、ずぶりと影が侵入を続けていく。
「アルバイトに入った時から宮司さんの事、好きだったんだね。……いや、だからこそ入ったと言うべきか」
 いやだ、やめて。巫女が訴えるけれど、当然にそれは聞き入れられなかった。
 青年が耳元で囁く。人の内側には栓がある。黒くてどろどろしたものを封じる栓が。人は理性という栓で封じている。
「君の思いは絵馬に書かれている」と、青年は言った。
「でも知ってるかい? 宮司さんは絵馬は見ない主義だ」
「それを君は丁寧にもう一つの絵馬で覆って隠してしまったんだ。これではますます見つけて貰えないね」
 内側の栓。けれど、その周りを少しやさしくさすってやれば、それは簡単に抜けてしまう。
「ひどい男だ。君にこんなに思われてるのに」
 やめて、と獲物は訴えた。だがその苦悶は青年を悦ばせても、同情は与えない。
「恨んでいいんだよ?」
 ねっとりと染み渡らせるように声を響かせた。合わせるように影がドクンと脈動する。甘い感触が足先から駆け抜けるように広がって、全身を侵していく。
「彼は気付かない。絶対に」
「これは報われない恋だ」
 影が一斉に根を伸ばし、びくりと獲物の身体が震えた。そう、彼女は獲物たりえた。
 青年が言葉を繰り返す。恨んでいいのだと。同じ場所を何度も何度も撫でるかのように繰り返した。同時に供給される甘い感覚に、締まっていたものが緩んでいく。
「矛盾だよね。もしも彼が気が付いた時は君のした事も分かってしまう」
 青年が言った。さらなる深部へ。ゆっくりと入り口を押し広げながら、入り込んでゆく。
 縛る影が脈動を繰り返す。そこに浮かび上がった眼が、爛々と輝いている。悦んでいるようだった。そうして奥底の栓は抜かれた。じわりと黒い泉が湧き出した。その水は甘い。影達にとって、それはかけがえの無い糧だった。飲み干してゆく。ごくりごくりと彼女の想いを飲み干していく。そう、いいね。それでいいんだよ。青年は囁いた。
「……そうよ。キヨフミさんてば鈍いのよ。自分に向けられたものに限って鈍いの。才能はあるくせに、受け取るのが苦手なのよ」
 黒の感情が飲み込まれる刹那、彼女は最後の呪詛を吐き出すように、呟いた。
「だから……私のほうに行っちゃった。私が考えたのは黒キャモメまで……絵馬を隠すのも、塒を隠すのも……こ、」
 次の瞬間に身体を大きく仰け反らせ、がくりと巫女はうな垂れた。青年が唇を舐める。
 さっさと引き上げたいところだったが、もう一つやる事があった。それは更に大きな獲物を獲る為の下準備だった。


 時折、窓の外の半月を眺めながら、男はキーボードを叩いていた。
 それは彼の夜の仕事であった。昼間は貸して貰えないからこうするしかなかった。その姿はオリベユウイチロウそのものであったが、動かしているは別の何かである。
 キーボードを叩く傍らにドリの実を四分の一にカットしたものが乗った皿がある。ドリには切れ込みが加えてあり、皿にフォークが掛けてあった。ドリは高価だから、オリベはめったにそれを買わない。だから少しずつ味わった。それは同居人の執筆時の楽しみであった。
 オリベは引っ込んで眠っている。散々絵馬めくりをして疲れたのだろう。ニュースも聞かず、夕食も食べずに眠ってしまった。
「まったく、面白くないね」
 同居人はオリベの声で呟いた。
 昔からそうだ。ツキミヤ、ツキミヤとオリベはうるさかった。やれ、誰と付き合い始めただの、やれ結婚しただの。いなくなったと思ったら、息子が出てきて、またオリベは追い掛け始めた。気に入らないと思った。あいつらは親子揃ってユウイチロウを引き回すのか、と。
 特に今は息子のほうだ。あれは怖い。だが怖い以上に、別の意味で怖れている事を認めざるを得なかった。
 要するに嫌いなのだ。怖い以上にあれが嫌いなのだ。
 欠くべからざる相手。そのようにオリベは自身を評してくれたのに、どうしてこうも自信が無いのだ。
 タテバヤシコウスケを怖れている。かつてツキミヤソウスケを怖れたのと同じように。
 ドリの欠片を一つ、口にいれた。苦味は好きだ。冷静さと集中力を運んできてくれる。
 タタン、と彼はキーボードを打った。人間の手と道具は便利だ。何だって作り出せる。だから今のこの生活は気に入っている。これを守る為なら何だってやってやると思った。
 ふと思い立ち、ブラウザを起動させるとブックマークからニュースを開く。開いたのはカイナ日報のウェブ版で、夕方から数度目の確認であった。が、やはり目的のものは見当たらなかった。通り魔が出ればまっさきにニュースになるはずだったが、そういう記事は見つからない。被害者名を確認しようと思っていたのだが、やはり塒を暴かれた影響なのだろうか。飛び去った黒キャモメ達は今日、活動しなかったらしい。そこで彼はブラウザを閉じる。再び小説のほうに目をやった。
 進みは半分程度か。きりのいいところまで行ったら、眠ろうと考えた。あまりに身体を酷使すると翌日の反動がひどい。同居人はマウスをいじってカーソルを動かすと、今作っている文書を保存しようとした。
 が、その時、右目に違和感が生まれた気がした。
「夜更かしし過ぎたか? ユウイチロウも歳だ」
 すると次の瞬間に、びりっと痛みが走り抜けた。しばし、右目を押さえる。だが、痛みは抑えられるどころか強く増した。そして、彼はどうやらこれが歳の所為ではないらしいと気が付いた。右目がぼやけながらも違う像を映し始めたからだ。パソコン画面を捉えている左目とは違う像を。この感覚を、知っている。
「……ッ! 何でこんな時に!」
 同居人は痛みにあえぎながら叫んだ。もう十年は現れていなかった。何故今更と彼は混乱した。加えて「これ」は突発性であった。出てくると制御が利かなかった。
 右目が像を結んだ。激痛が走る。当たり前だ。人の眼で見ようとするから無理が出るのだ。だが勝手に見開いた右目は像をより鮮明にしていく。
 そこに映ったのは一人の青年だった。白い服に白い肌、淡い色の髪。ツキミヤソウスケ? いや、違う。これは息子のほうだ。タテバヤシのほうだ。像が途端に切り替わった。そこは朝を迎えた空だったが、黒い鳥影が群れをなして占拠していた。飛んでいく、彼らには何か目標があるようだった。飛んでいく先に先ほど結んだ像が見えた。青年だ。目標はタテバヤシコウスケ。黒い鳥達が翼を硬化させて急降下していく、青年に向け、突進していく。
 だがそこで、バチンと映像は消えて、真っ暗になってしまった。
「痛いんだよ! いらないんだよ!」
 右目を押さえて、同居人は涙を流した。机をバンと叩く。キーボードが跳ね上がった。
「いらない! いらない! いらない! もう能力(ちから)は要らないんだ! 二度と出てくるな畜生め! 見えたところで何もならない! 誰も助けられない! あの時も、あの時、あの時もそうだ。変わらない未来なら見せるんじゃない!」
 オリベの声で同居人は叫んだ。右目が涙を流し続けている。それはかつて自身が流した涙なのか、オリベが流した涙なのか、あるいはその両方なのか。
『人として生きるんだ! もう精霊(ポケモン)だった頃を思い出させるな!』
 次第に痛みが引いてきた。両目を開くと、デスクトップに映された書きかけの小説が像を結んだ。
「ユウイチロウには報せない。未来は変わらない」
 言い聞かせるように同居人は言った。


 暗い母屋にインターホンの音が響いて、宮司――キヨフミは目を覚ました。
 眠りは深いほうで、普段だったら絶対に目を覚まさないところであったが、昨日はいろいろあり過ぎた所為だろう。朝見回れば、人は倒れているし、おかしな二人組みに絵馬はめくられまくるし、夕刻にお祓いをしていたら不気味な影が神社上空を飛んでいったのだ。それを見て巫女が青い顔をしているし、とても嫌な感じがした。形はキャモメに似ていたが、あれは別の何かである。そこまではキヨフミにも見当がついていた。それにしても、気になるのは自身もそれに見覚えがあるような気がした事だ。あの黒い影に何か自分自身縁があるのではないか。そんな予感がキヨフミを支配していたのだ。
 だからそのインターホンは、すっきりしないまま浅い眠りに付いた自身に何かを伝えに来たのではなかろうか。キヨフミにはそのように思えてならなかった。だからキヨフミはしっかりと着替えた。毎朝神社に出てくる時のように自身の服装を整えたのだ。
 ピンポーン、ピンポーン。インターホンは二回鳴った後、一分ほど間隔を置きながら繰り返された。それはまるで、いつかキヨフミが出ると確信しているようでもあり、いくらでも待つとその立場を強調するようでもあった。先代が亡くなってからキヨフミはここで一人暮らしであった。自分が出なければ誰一人出る者はいない。そうして、インターホンがそのパターンを六、七回繰り返した頃に彼は玄関に明かりをつけ、引き戸を開いたのであった。
 その先に立っていた青年の姿を見て、キヨフミはある種の確信を得た。来るべき者が来たのだと。
「こんばんは、宮司さん」
 白い服に白い肌、淡い色の髪をした青年はにこりと笑って言った。夜分遅くに申し訳ありません、とも。青年のその色は昼間のように明るいのに夜のほうが似合っていると彼は思った。
「タテバヤシさん、でしたよね……?」
「いいえ」
「あれ、違いましたっけ……」
「そちらは本名でして。出来ればトレーナーネームで呼んで欲しいですね」
「では何と?」
 宮司がそこまで尋ねると、くす、と笑って青年は言った。「ツキミヤ」と。
「ツキミヤと呼んでください。ツキミヤコウスケと」
「はあ、」キヨフミは気の無い返事をした。なかなか本題に入らない。
「で、ツキミヤさん、御用は?」
 そう尋ねると、待っていたかのように青年はにやりと笑った。
「宮司さん、お祓いはやりますか」
「そりゃあ、時々は」
「それなら僕には逆をやって欲しいな。僕に呪いをかけて貰えません?」
 意味が分からなかった。それどころか拍子抜けした。来るべき者が来たと思ったのに、何なのだ。呪いをかけてくれとは。
「深夜に押しかけて何を言い出すかと思ったら」
「あれ、僕は本気ですよ?」
 青年が笑う。
「馬鹿にしないでくださいよ。だいたい僕は貴方に恨みだって無いし」
「そうでしょうか……?」
 青年はあくまで調子を崩さずに言った。
「なら、これを見たら気が変わるかな」
 ぱちんと青年は指を鳴らした。瞬間、青年の背後の闇の中、何かがぼうっと浮かび上がった。青白く浮かび上がったのは境内に生えた一本の木のうちの一つであった。が、そこに誰かが縛り付けられていてキヨフミは目を見開いた。
「……!! ヨシエさん!」
 思わずキヨフミは叫び、そして駆け寄った。木に縛り付けられていたのは、昼間に顔を合わせている巫女、その人であった。青白く燃え盛る鬼火が巫女そして、彼女を縛る不気味な何かを照らし出している。黒とも灰色ともとれぬ色のそれは、巫女の身体を覆い、常に形を変えながら蠢いていた。その身体には無数の眼が開いていて、キヨフミをじっと睨み付ける。彼は触れる直前に立ち往生をした。脈動を繰り返す闇の塊。それがおぞましくて、恐ろしかった。
「カゲボウズですよ」青年が説明すると
「カゲボウズだって!? これが?」
 と、キヨフミが声を上げた。
「そう。人間一人からより効率的に感情を吸い尽くす。その為の形態です。その証拠に、ほら」
 もごもごと動いていた闇の塊から、角が一つ、つうっと伸びて、苗床から芽吹くように頭が生えた。頭が完全に顔を出すとすぐ下がくびれる。首の付け根から三角錐を作るように衣が伸びると、ぱちりと眼が開いた。ふわりと闇夜に浮かび上がる。群体から一匹が分離した瞬間であった。青年は言った。
「遅い時間に境内をうろついてたから、食べさせました。もちろん死んではいませんが」
「ツキミヤさん、貴方は……」
 キヨフミが振り向き、青年を睨み付けた。握った拳が震えて、そしてゆっくりと青年に掴みかかった。掴んだ腕が震えている。
「少しは僕を恨む気になりました?」
 襟首を掴まれた感触。向けられた感情は心地よかった。
「いい顔だ。貴方には願を掛けて貰います。尤もこの巫女さんが何をしていたか知ったら、夕刻に飛んでいったキャモメが何か知ったら、やらざるを得ないと思いますけれど」
 青年は言った。笑っていた。


 太陽が再びカイナに顔を出した。
 肌寒い早朝だった。オリベは教授室のソファで目を覚ますと、朝食を摂った。冷蔵庫にセシナの実が残っていたので、それを軽く彼は齧った。それに関してうるさい声は聞こえてこない。昨晩、原稿をしていたのだろう。同居人はまだ眠っているらしかった。
 彼は机のパソコンを起動すると、ブラウザを立ち上げた。カイナ日報のウェブ版を開く。通り魔事件に関する新しい記事は見あたらず、ほっとした。だが、昨日の嫌な感じがまだ残っている。台場から空に散っていった黒いキャモメ達、それを思い出して、問題は何も解決していない、そう思った。
 五分ほどの間、彼はパソコン画面の前でウンウンと悩んでいたが、やはり宮司に報せなくてはなるまい、と思い立って顔を上げた。信じる信じないは別にして、やはり報告だけはしなければなるまい。一人で何とかすると言っていた青年の発言も気になった。
 研究棟を出ると自転車を持ち出した。普段は健康の為に歩いている――否、同居人に歩かされているのだが今日は違う。早く神社に行きたかった。
 ペダルを踏み込むと坂道を滑り降りた。海のほうへ滑っていく。途中に何羽ものキャモメの影とすれ違って上を向いたが、皆、白い翼だった。カイナの街を切り取るように自転車は坂を滑っていく。視線の向こうに高台が見えた、白羽波神社だ。やがて高台のふもとに辿り着くとキキッとブレーキを踏んだ。石段の脇に自転車を立て掛けて石段を駆け登る。普段は一段ずつ登る石段を一段抜かしで。鳥居が出迎える頃には、ぜーぜーと肩で息をしていた。
「オリベさん、」
 石段のすぐ上、宮司がいて声がかかった。
「よ、よう」
 オリベは余裕の無い返事をした。石段を登りきると、
「実はあんたの耳に入れておきたい事があるんだが」
 と切り出した。すると宮司が、
「黒いキャモメの件ですか」
 と落ち着きを払って言った。
「! あんた、全部知って……」
「タテバヤシ……いえツキミヤさんが全部教えてくれました。絵馬の呪いの件も、黒いキャモメの件も、それがトレーナーの間でやられてるって事も。そして誰が噂を広めていたかもね」
 宮司は空を眺めて行った。
「それであんた、どうするつもりなんだ」
 オリベが尋ねる。
「新しく奉納される黒い絵馬は僕が見つけて処分します。問題は残りだ。既に飛び立った分。ただこちらも今日で終わる予定です」
「今日で終わる……どういう事だ?」
 空は薄く曇り、風が寒かった。彼は何かを待っているようだった。
「ツキミヤさんが昨日の夜にいらっしゃって、何とかするとおっしゃいました。だから僕はツキミヤさんの言う通りにしましたよ。たぶん彼ならなんとか出来る」
「何をしたって言うんだ」
「僕が僕自身の絵馬を黒く塗って、願を掛けました。<ツキミヤコウスケが負けますように。朝一番、一羽残らず彼へ向かえ> とね」
「なんだって!?」
 オリベは戦慄した。そうして彼は気が付くと、宮司に掴みかかっていた。
 宮司があくまで冷静にそう言ったのにも頭に来たが、続けざまに、
「元を作ったのが僕だから、僕が呪詛するのが一番効くだろうと」
 と言ったのが、余計に彼の感情を逆撫でした。
「この野郎!」
 オリベは精一杯に力を込めて宮司の顔を殴った。宮司が石畳の上に倒れ込む。続けざまにオリベは言った。
「今はこれで済ませてやるよ。だがもし、タテバヤシが歩けなくでもなってみろ! 今度は俺がお前を呪う」
「……分かりました」
 宮司は殴られた頬を押さえ、返した。
「きっとこれも罰ですね。さっきヨシエさんが目を覚ましました。でも彼女、何も覚えていなかった。神社の事も、僕の事も。だからきっと罰です……。後ほどご両親が迎えにいらっしゃいますが、もうたぶん、ここには二度と戻ってこない」
 嗚咽がオリベの耳に入った。何故こうなってしまったのだろうと宮司は考えた。絵馬の裏に書かれた願い。それに自分は気付けなかったのか。どんなに後悔しても、零れた水は戻らない。
「タテバヤシの行き先に心当たりは?」オリベが聞いた。
「カタヒラ川河川敷だと言ってました」
「古墳群か!」
 オリベは叫んだ。カタヒラ川古墳群。カイナ市場の先にあるカタヒラ川にある遺跡だ。今でも繰り返し発掘が行われており、大学の実習でも使う場所だった。
 オリベは石段を駆け下りる。だが、どこからか無数の羽音が近づいてきたのに気が付いて上空を見上げた。それは黒い鳥の群れであった。石畳を無数の鳥影が滑っていく。その進路はまっすぐにカタヒラ川の方向に向かっていた。
<ツキミヤコウスケが負けますように。朝一番、一羽残らず彼へ向かえ>
 呪詛の言葉が蘇る。そんな事はさせるものか。
 オリベは石段を駆け下りると自転車のペダルをがむしゃらに漕いだ。海沿いの道を全速力で疾走する。幸いにしてそこは緩やかな坂道であった。間に合え。間に合え。間に合え! どんどん遠くなっていく鳥影を睨みつけながら彼は漕ぎ続けた。途中で同居人が目を覚ました。
『朝から何をしているのさ』と眠そうに彼は言った。
「タテバヤシが、タテバヤシがやばい!」
 オリベが叫ぶ。もう知ってしまったのか、同居人は思った。相棒は既にどこからか右目に見た未来の事を知ってしまったらしかった。だが、変えられまいと思った。黒キャモメはタテバヤシコウスケを襲う。それはオリベがどんなに足掻いても変えられない。
 可哀想に。同居人は己が半身を哀れんだ。この男はまた℃クう事になるらしい、と。
 黒キャモメが見えなくなった頃になってようやくオリベは目的地に到達した。自転車を投げ出して河川敷を駆け上がる。あちらこちらに大きなでこぼこがある。一つ一つが古墳だった。
『僕らが出会った所だねぇ』
 同居人はそう言ったが、オリベの耳には入っていない。青年の姿を探した。河川敷は広い。
「タテバヤシ! タテバヤシ!」
 馬鹿みたいにオリベは叫んで、そして走った。もう後悔したくなかった。あの時のような後悔は、もう。川原に吹く早朝の風は冷たかった。
「馬鹿野郎!」
 オリベは悪態をついた。馬鹿だ、お前は。何でもかんでも一人でやらなくていいのに。どうしてお前はそう一人なんだ。
 もう走れないというくらいに足ががくがくとなるまで走って、オリベは草原に膝をついた。びゅうびゅうと風が鳴っている。左右にせわしなく動く眼球はまだ青年の姿を探していた。
『もう気が済んだだろう』
 そう、同居人が言いかけた時に、オリベが叫んだ。
「タテバヤシ!」
 小高い丘を二つほど隔てた向こうに、人一人の影が見えた。
 駆け寄っていく。近づいていくと、そこにいたのは、確かにタテバヤシコウスケであった。力が抜けた。少なくとも立ってはいられる身体らしい事を確認したからだ。
「お前、黒キャモメはどうしたんだ」
「……終わりましたよ。全部ね」
 ゆっくりとした調子で青年は言った。
「ただ、ずいぶん服が汚れてしまいましたけれど」
 青年は上着を脱いで見せた。いつも青年が身に着けている白いジャケット、胸から背中周り、袖まであらゆる場所が黒く染まっていた。
「マーカー何十本分ですかね」
 青年は笑った。
「やっつけたのか?」
「やっつけました」
 オリベが尋ねると、青年はジャケットを畳み、言った。
「どうやって?」
「それは秘密ですね」くすりと笑って返される。
「教授こそ、何か右目が赤いけれど大丈夫なんですか?」
 と、尋ねられた。
 青年は状況を思い返す。実際、向かってくる方向が決まっているならば、受け止めるのは楽だったのだ。あれは感情の塊だ。それが青年に向かってくるのは、大きな浮鯨の口の中に小魚やらプランクトンやらが自ら飛び込んでくるのと同じだった。カゲボウズ達は大いに喜んだ。群体になったそれは、つるのムチを使うように、一羽一羽を捕らえると引き込み、瞬く間に飲み込んでしまった。元々は人間一人を効率よく捕らえ、喰らう為の機構であったのだが、相手が鳥型でも有効らしい。相手の数は多かった。ただ、青年側も数なら負けない。
 ただ一つの難点はマーカーの黒であり、カゲボウズが中身を喰らう度に、黒い飛沫が飛んだ事だった。これだけはいかんともし難かった。
「これ気に入ってたのに。新しいの買わないといけないな」
 あちこち黒くなったジャケットを抱えて、青年はくすくすと笑った。
 もったいぶりやがって、とオリベは思ったが、けれど無事ならいいのだと思い直した。疲れたな。彼は草原に倒れ込んだ。
『ユウイチロウ、やっぱりこいつ危険だよ』
 同居人が警告の言葉を発する。
『だってそうだろ。無傷だって事はさ、呪いを全部飲み込んだって事だよ?』
 だが、
「うるせえ」
 と、オリベは返した。
「何か言いました?」
「いや、何でもない。独り言だよ」
 草原に仰向けになると大きく息を吸った。身体中が痛くて今日一日はもう動きたくなかった。


 それは昼食の時間を少し過ぎたあたりであったとフジサキは記憶している。
 あと数日で退院という頃に、自身の教え子は訪れた。いや、元教え子と表現するのが適当であろうか。本来であればその関係は継続されるはずであったが、諸事情により、断絶していたから。
 だから尚更、その訪問はフジサキにとって意外であった。それとも入試に対する恨み言の一つでも言いに来たのであろうか。だがそれも仕方あるまいとフジサキは思った。それに彼がどんな言葉を自身に浴びせたとて、今更結果が覆るはずもなかったからだ。
 ベッドに腰をかけたフジサキの目線の先には一人の青年の姿があった。真新しい白い服を着て、片側の肩に鞄を提げている。
「タテバヤシ、」フジサキがその名を呼ぶと
「ご無沙汰しています」
 と、青年はにこりと笑みを浮かべ、言った。
 まあ座りなさいとフジサキが席を勧めると、失礼しますと言って彼は座った。
「お加減はいかがですか」
「お陰様でなんとか動けるようになったよ。様子を見ながらだけど、数日後には退院する事になりそうだ」
「そうですか」
 青年はあくまで穏やかにそう言った。
 嫌味の一つでも言われるのかと思っていたが、フジサキは毒気を抜かれてしまった。
「オリベ教授が、学士で世話になったのだから、見舞いくらい行けとおっしゃるので」
 そんなフジサキの考えを見透かしたかのように青年は言った。
「ああ、そうかい。オリベ教授がね……」
 そういう繋がりか、とフジサキは納得した。なるほど先輩のやりそうな事だと思った。
「それともう一つ、確かめたい事がありまして」
「もう一つ?」
「通り魔の件ですよ。少しお話をお聞きしたいと思いましてね」
「その件か。その件なら警察の方にも散々話したよ」
 少し食傷気味になって、フジサキは言った。そういう方向で来るとは思わなかった。
「同一犯だと思われますか?」
「犯人の件か」
「ええ」
「同一犯かどうかはともかく、やり口は同じだな。黒い鳥ポケモンみたいのが突っ込んできたよ。翼で身体中切りつけられて、それでこのザマだ。……正直あまり思い出したくないんだがね。お陰で鳥ポケモンが嫌いになりそうだ」
 息子の手持ちに鳥ポケモンがいるのに、参ったな。そうフジサキは内心に呟いた。
「ねえ、フジサキ教授……」
 青年がふっと口角を上げて尋ねる。
「変な事をお伺いしますが、息子さんいらっしゃいます?」
「……? いるが、それがどうしたんだ」
 ただならぬ雰囲気を感じ取って、フジサキは身構えた。この訪問は予想外だらけだ。
「もしかして、下の名前がアサトさんだったりしませんか?」
「!」
 フジサキは驚愕の表情を浮かべた。目の前の青年に家族の話などした事がなかったからだ。それに対し、フジサキは異様な不気味さを感じ取った。いや待てよ、と思い直す。オリベが話したのかもしれない。
「いかがですか?」と青年は尋ねる。
「あ、ああ、確かにそうだ。息子の名前はアサトだよ。だがそれがどうしたんだ」
 すると青年がくすっと笑い、
「なるほど。これで謎が解けました」と言った。
「タテバヤシ、何なんだよ。さっきから……」
 訳が分からずにフジサキは少しばかり声を荒げる。すると、
「連日の通り魔報道を見て、おかしいと思った事はありませんか?」
 と、青年が尋ねた。
「被害者はみんなポケモントレーナーだった。それなのになぜ教授は狙われたんでしょうね?僕にはそれが分からなかった。でも、今ので全部分かりました」
「だから一体何だって」
「これですよ」
 そう言って、青年が鞄から取り出したのは一枚の絵馬だった。
「これ、白羽波の」
「そう。白羽波の絵馬です。御利益は勝負事。宮司さんが言うにはバトルやコンテストの勝利祈願が多いそうですね」
「でもキャモメが描いてないぞ。これ」
「飛んで行っちゃいましたから」
「飛んで行った?」
「そう。願掛け対象に不幸を届ける為にね……」
 くくく、と青年は笑った。
「裏面を見てみてください」
 フジサキは裏面をめくる。そうしてギクリとした。その裏面に自身の息子の名前が書いてあったからだ。小刻みに腕を震わせながら彼はその内容を目で追った。
<フジサキアサトがコンテストを欠席しますように。負けなくてもいい、欠席してくれればいい。欠席して、お兄ちゃんが勝てますように。>
 神社で絵馬を探していて、その時に見つけたのだと青年は言った。
「他の絵馬はみんな <負けますように> だったのに、この絵馬だけやけに遠慮がちなんです。だから教授の所に行っちゃったんだと思いますよ? 教授が入院したって聞いて、飛んで来たんじゃないですか? 息子さん」
 見ると、フジサキの絵馬を持つ手がまだ震えていた。
「じゃあ、なんなのかい。君は一連の事件が、全部絵馬の所為だって言うのかい? こんなのいたずらじゃないか……性質の悪いいたずらだ」
 フジサキはそう言ったが、震えが止まらなかった。フジサキ自身、オリベに奉納を頼んでいたのもある。だが、それ以上に不気味だった。何もかも見透かしているような青年の存在が彼はひどく恐ろしく思えたのだ。
「……そういう事にしておきましょうか」
 青年は反論する事もなく言った。だが、フジサキは震えを止める事が出来なかった。
 災厄は人の思い込みで、因果関係は無い。そのようにオリベだって言っていたのに、震えは収まらない。怖くて怖くて仕方が無かった。
「あ、それとこっちはお見舞いの品です」
 青年が鞄から二枚目の絵馬を取り出し、手渡した。震える手でそれを受け取ると今度はちゃんとしたものであった。裏面は無地であったし、何よりちゃんとキャモメが描かれていた。
「長居をしましたね」
 そう言って青年は立ち上がると、椅子をベッドの隅に寄せた。
「おい、これはどういう……」
「退院したら、息子さんが勝てるように願でも掛けてください。オリベ教授が掛けた分は意地悪なネイティが捨ててしまったので」
「は?」
 フジサキは訳が分からず、二枚の絵馬と青年の間に視線を行き来させるばかりであったが、青年はつかつかと歩いていって、部屋の引き戸に手をかけた。
「教授、」振り向いて青年は言った。「学士の時はお世話になりました」
 軽く一礼をした。すうっと引き戸の間隔が狭くなって、タンと閉まった。
 病院を出ると白羽波神社へ向かった。宮司に報告をする為であった。バスを降りると石段を登っていく。上で煙が上がっているのが見えた。おそらく宮司が絵馬を焼いているのだろう。そうして尚も青年は石段を上がる。その足がふと止まったのは不意に、鞄の中から振動が伝わってきたからだった。
 携帯にメールが届いていた。開いてみると「彼女」からで、その内容は吉報であった。
『バッジ二つ目とったよ!』
 一行目にそう書かれていた。青年はふっと苦笑いした。間に合わなかったなぁ、と。ほうら、やっぱり思った通りじゃないか。願掛けなんかしなくたって、彼女にはそういう力が備わっている。
 白い翼のキャモメがみゃあみゃあと鳴きながら飛んで、影が石段を横切っていく。四、五羽が交互に横切った頃に青い鳥居が青年を迎えた。
 思った通り、母屋の近くで宮司が絵馬を焼いていた。煙が高く高く昇っていた。宮司が顔を上げる。青年に気付いたらしい。
「ご無事だったんですね」宮司がそう言って
「当たり前でしょう」と、青年は答えた。
「ええ、うまくいったのだとは分かってました。川のほうに黒キャモメが飛んで行ってから嫌な感じがどんどん消えていきましたから」
 二人はその後もいくらかの言葉を交わした。主に秘密の保持に関する事項であったが、通り魔が出なくなれば、世間がここに目をつける事も、騒ぐ事もないだろうと思われた。
 それに、誰が信じるのか。絵のキャモメが抜け出すなどと。当事者であるフジサキでさえ信じようとはしなかった。願を掛けたトレーナー達もそのうちのどの程度が本気だったのか。真実を知っているのはほんの一握りだけだ。そうして証拠も滅却されていく。煙になって空に昇っていく。青年と共に空を見上げながら宮司が言った。
「ちょっと分からないのは、ヨシエさんが何故あんなに巧妙に隠せたかって事なんですよね。黒いキャモメくらいなら冗談で思いついて、偶然に成立しそうなものだけど、彼女は絵馬はおろか塒まで僕から隠していた訳でしょう」
「ああ、それは」
 青年は吸い尽くされる間際の巫女の言葉を思い出しながら言った。あんなものは断末魔のうわ言だろうが、ここで宮司をからかっておくのも一興だろう。
「たぶん、ここの神様に教えて貰ったんじゃないでしょうか」
「ええっ?」
「宮司さん、鈍いらしいから」
「どういう意味ですか、それ」
「言ったままの意味ですよ」
 ぱちぱちと火が燃える。午後の日差しが徐々に傾いていく。青年は宮司に茶を貰って休む事にした。
「ん、」
 ベンチに腰掛け、茶で喉を潤していると、林のほうから数匹の鳥ポケモンが出てきたのが目に入った。ぴょんぴょんと跳びながら移動する緑玉、それは小さな群れであった。黄色い嘴のすぐ上から、赤いアンテナのような冠羽が伸びている。
「ネイティか」
 青年は呟いた。今回は本に書いてあった通り、数匹の群れだった。青年は鞄から、赤と白で象られた球体を取り出す。新しい服を買うついでにショップで購入したものだった。
 試しにネイティの群れに向かい、投げてみる。だが、ボールは地面にぶつかって、ころころと石畳を転がった。ネイティ達が瞬く間にテレポートしたからであった。
 青年はベンチから立つと歩いて行き、ボールを拾った。あたりに目を配る。先ほどのネイティ達が数匹、林の入り口でじろじろと様子を伺っていた。青年は一歩を踏み出す。その瞬間に彼らの姿はふっと消えてしまった。やはり駄目か。
 そういえば、と青年は思い出した。あのネイティはどうしたろうと。絵馬を海に捨てていたあのネイティは。あれだけは自分に向かって来たのに。もうどこかへ行ってしまったのだろうか。
 あの時に脅かすべきでは無かったかもしれないと青年は後悔した。ただでさえポケモンに嫌われているのに、あれだけ脅かしてしまったのだ。もう二度と現れまい。
「どうするかな……」
 またポケモンセンターでお見合いでもすべきか。砂漠での遭難覚悟でヤジロンでも獲りに行こうか。人工物系のポケモンであれば、獣や鳥よりは望みがあるかもしれない。
 青年は鞄にボールをしまう。そうしてふと視線が下に移動した時、石畳に映る影の一つが妙なアンテナを立てている事に気が付いた。

「で、その肩に乗っかってるのはなんだ」
 自室のソファでぐったりとしていた民俗学教授は言った。
 霊鳥の彫像が無言で立っている部屋で、彼は臥せっていた。今朝の疲れからだった。今日はもうこのまま眠ろうと思っていたのだが、夕日が落ちかけた頃になって、青年が訪問してきたのだ。
「ネイティです」と、青年は答えた。
「分類は小鳥ポケモン」
「そんな事は分かっているが、そいつって、まさか……」
 ソファに臥せったまま、オリベは緑玉を指差した。
「ええ、絵馬捨て犯です。さっき神社で捕まえました」
 青年がまるで当然だという態度で言って、肩に乗った緑玉が胸を張った。
 オリベは苦笑いした。おいおい、問題児が増えたじゃねーか、と。だが、一方でそれは嬉しさを抑えられないという笑いでもあった。
 来たのだ。タテバヤシコウスケが来た! オリベ研に入る為にやって来たのだ!
 おい見ろよ! お前は無理だと言ってたが、連れてきやがったぞ! 内心にオリベは叫んだ。
『詐欺だ……これは詐欺だ。これは反則だ』
 同居人のうめくような声が頭に響いた。
 だが約束は約束であった。もう同居人が認めるしかない事をオリベは知っていた。
『こいつ、引越ししやがった……』
 と、同居人が言った。
『こいつ嗜好が普通と違うから、神社が元通りになっちまったから、居辛くなったんだ。だからってよりによってこの男に居付かなくたっていいじゃないか! 信じられない! こいつ本当に念鳥(ネイティ)なのか! 感性を疑うよ!』
 そこまで言うか? と、オリベは思った。ぎゃあぎゃあと頭の中で同居人がわめき散らしている。が、彼はそんな騒音をよそにソファから飛び起きると、言った。
「二次試験、合格だな」と。
 ポケモン一匹、ゴースト以外。条件は懐いている事。肩に乗っかるくらいなら無論、同居人も反論は出来まい。
「本当にいいんだな? タテバヤシ」
 オリベが確認すると、
「ええ、お世話になります。これからご指導よろしくお願いします」
 と、青年は言った。以前のように嫌な顔はしていなかった。
 それでオリベは舞い上がった。疲れもどこかに吹き飛んでしまった。よーし、よーし、じゃあ手続きするからな? などと言いながら、机の上の書類をいそいそとめくり始めた。青年はそんなオリベの様子を見守りながら、
「ここにいれば食事に困らなさそうなのでね……」
 と、呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
「何でもありませんよ。ただ」
「なんだ?」
「タテバヤシって呼ぶのやめて貰えませんか」
 青年は言った。オリベが変な顔をする。
「じゃあ何て呼べばいいんだ?」
「ツキミヤでお願いします。ツキミヤコウスケで」
「…………」
 オリベの動きが止まる。不思議そうに彼は青年の顔を見た。
「どうしました?」
「だってお前、」
 あの初夏の事が頭にちらついていた。青年は言ったのだ、二度とツキミヤの名を口にするなと。だが、青年はそんな発言などちっとも覚えていないという風に
「トレーナーネームですよ。一応公的な名前なんですから問題ないでしょう」
 と、言ったのだった。
「そ、そうか。分かった」
 少々戸惑いを覚えながらオリベは答えた。ぼりぼりと頭を掻く。手続き書類の残り一枚が見つからなかった。すると、
「それじゃあ、書類は明日にでも取りに来ますから」
 と、まるでそうなるのを見越していたかのように青年は言って、踵を返すと肩の緑玉と一緒に部屋を出ていった。カチャリと静かにドアが閉まる。以前、部屋にやってきた時とはえらい違いだとオリベは思った。頭の中で同居人がまだぐちゃぐちゃと文句を言っていた。
「なあ、」
 オリベは同居人に語りかける。
「あいつは確かに能面を被ってるかもしれないが、目の覗き穴は大きそうだぜ?」
『どうだかね。さっさとフィールドワークに出してくれよ?』
 同居人が悪態をついた。「ふふ、」とオリベは笑った。
「そうと決まったら再来週の会議、予算は多めにぶんどってやらないとな? 考古学のも譲歩してくれるだろうから」
 オリベは上機嫌になって、机の探索を開始する。すると、書類の束を持ち上げた拍子に、ひらりひらりと紙が一枚落ちた。それは探していた書類で、ここにあったかと彼は呟いた。腰を屈めると拾い上げる。これで揃ったと顔を上げた。
 ちょうどその前には霊鳥像が立っていた。
 霊鳥は両の目を開き、オリベのほうを見つめていた。
「えっ」
 オリベは短く声を上げて瞬きすると、再び像を見る。
 するともう霊鳥はいつもの通り右目を閉じ、左目だけを見開いて沈黙する像に戻っていたのだった。
 見間違いか、とオリベは呟いた。


 木像は今に伝える。古の地の信仰の姿を。
 その昔も、人はポケモンと共に在ったのだと。
 ネイティオ、ネイティの進化系。
 精霊と呼ばれるそのポケモンは、左目で過去を、右目で未来を見つめているのだという。



<霊鳥の左目> / <表紙> / <半人>