(十二)緋色の追憶


 神が力を持つ為には信仰が必要だ。
 神は信仰と共に在り、信仰が在ればこそ神はある。
 例えば名前を呼ばれること。あるいは縁のある言霊を唱えること。口にされればされるほど神の力は強くなる。
 神に力を与えるのは人間の業なのだ。


 "彼"は久しく自分に縁が深い言葉と名が願いをもって口ずさまれるのを聞いた。
 繰り返し繰り返し口ずさまれるのを聞いた。

「私を呼んだか、娘」

 言霊を吐いた女はいつのまにか大社の前に立っていた。その場所は村中の信仰が集まる場所によく似ている。だが、何か空気が違う気がした。そもそも自分は先程眠りについたのではなかったのか。
 すると社の奥から何者かの声が響いて、娘を呼んだ。

「お前の思念は強力過ぎて耳に痛い。時代が時代ならいい巫女になったろうにこんな使い方しか出来ぬとは勿体無い事だ」

 その声に身体がぞくりと震える。
 娘には声の主が何者であるのか直感的に理解してしまった。
 声が続ける。

「もう一度私の名を、私の名を呼んでおくれ」
「妖狐、つく、も……」

 突如、目の前の中空に鬼火が現れる。炎は大きくなり、幾重にも枝分かれするとやがて獣の形をとり実体となって現れた。
 淡い青色に輝く毛皮。九本の尾。見開かれる血のような赤い眼。
 村娘の前に現れたのは十匹分の九尾の名を持つ炎の妖だった。

「いかにも、我が名は九十九」

 炎の妖として恐れられるキュウコンは嬉しそうに云った。

「お前の願いを叶えてやろう、娘」





 青年は大社の石段を登る。
 蝉の声がうるさいくらいに耳に届く。好みかあるいは怨念なのか。"この場所"のデフォルト設定ははいつでも夏だ。
 最後の石段を上がると九尾の妖が待ち構えていた。

「その様子だと首尾よくいったようじゃないか」

 色違いのキュウコンが青年に語りかけると

「フン、他人事だと思って」

 と、青年は悪態をついた。

「他人事などとは思っていないさ。お前が演じるのは私なのだから」
「あんなに練習があるなんて聞いていないぞ僕は」
「致し方のないことだ。素人を短期間でそれなり仕上げようというのだから密度というものは必要だろう」
「お陰でこっちは祭を楽しむ余裕も無い」
「それはお前次第だ。鬼火を連れし者よ。炎は暖を取ることも出来れば、命を奪うことも出来るように。すべては振舞い方次第だよ」

 無事に役をとった為だろうか、ツクモは上機嫌な様子だった。

「ただ、あえて苦言を呈するとすれば炎の舞台で雨を使うのは美しくない」

 どこで知ったのか妖狐は準決勝のことに言及する。
 ナナクサか、とすぐにツキミヤは理解した。夢の中の無意識とはいえ、余計な情報を与えるな彼は。そんなことを思いつつ、青年はちらりと妖狐を横目に見る。

「……やっぱり雨は嫌いかい?」

 雨。それは妖狐九十九を打ち倒した神の持つ名であり、業の名だ。
 天からもたらされた水は炎を打ち消し、妖狐の力を奪う。炎の妖に待っているのは敗北だ。
 青年は大社から見える風景に視線を映した。天気はカラリと晴れており、濁った雲は無い。風が吹いて青く背伸びした稲が海の漣のようにたなびいている。

「この土地に神の力で降らす水など必要無い」

 そのようにツクモが答えた。
 それは強い否定と拒絶を含んだ、憎しみの込もった言葉。
 その言葉が放たれると同時に、周りの空気に殺気が加わったように感じられた。弱く小さな鳥ポケモンならその空気に耐えられず飛び立ってしまいそうな。だが、むしろ青年の心は高揚していた。馳走を前に衝動は募るばかりだ。密度の濃い濃厚な負の感情を目の前にして影達も躍動せんとしている。
 けれども平静の面を被ったまま、彼は自身に取り憑いた影を精神力をもってけん制する。
 早まるな。まだ手を出してはいけない。ここは相手の土俵。存在の定義があいまいな夢の中だ。事がうまく運ぶ保証はない。奴が実体をもって現れたときに確実にしとめるのだ。それまでは手を出してはいけない。それまでは。
 もちろん、そのような駆け引きが青年の内部で行われていることなど彼は微塵も見せはしない。あくまで酔狂な協力者を演じ続ける。

「燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ」

 突然、ツクモは呪文のように呟いた。

「……?」

 今度は何を言い出すのだと言わんばかりに見るツキミヤ。すると、

「わからんのか。寝る前に台本くらい読んでおけ。一番最初にお前が詠う台詞だよ」

 ツクモが呆れたように言う。
 彼は詠った。炎の詩を。燃え盛る野の火の詩(うた)を。


 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ

 見よ、暗き空 現れし火を
 火よ我が命に答えよ

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ我が炎
 我が眼前に広がるは紅き地平

 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 恐れよ人の子 我が炎
 燃えよ、燃えよ、野の火よ燃えよ
 放たれし火 金色の大地に燃えよ


 稲穂の海にそびえる山。その上に立つ社から響く詩。
 それはかつての栄華。昔々の世界の光景。
 雨の神が現れる以前、人々はどのようにこの詩を聞いたのだろうか。
 田や畑は逃げることが出来ないから、ただ火の粉が降りかからぬようにと祈ったのだろうか。妖狐が火を放たぬように。

「かつてあの舞台の上で何十人、何百人の九十九がこの詩を詠ってきた」

 と、ツクモは語った。

「だが居ない。誰一人として居ない。神が雨降に替わってしまってから、我が炎の本質を真に解して詠ったものは誰一人居ないのだ」

 かつて妖狐は神だった。恐れの対象とはいえ、どのような形であれ、雨降の現れる以前、彼は神だったのだ。ここは彼の領土であり、九十九にとって雨降こそが侵入者。九十九に取って代わり、大社の名前を書き換えた偽者なのだ。
 後に妖狐は破れ、雨降がこの土地の神となった。神の座から降ろされ、妖怪と成り果てた九十九は収穫祭の間だけ復活する。だが炎はかならず雨に消されるのだ。幾年も幾年も、灯っては消される炎。野の火。

 けれど違う。今年は違う。
 雨は降らない。降らせはしない。炎は消えず、燃え上がる。

「私を忘れた者達に、私の炎を思い出させてやろう」

 放たれた火は祭の夜を赤く赤く染め上げることだろう。





 暑い。蝉はけたたましく鳴き続け、それだから余計に暑いと感じる。
 まだ若い村の娘は田に囲まれたあぜ道を進む。
 眼前には水を湛えた水田が広がる。どこまで歩いても水田だ。村の面積の大部分を占める水田周りを囲むのは青い山々ばかり。この光景を見ていて娘は時々ふと思うのだ。自分達は囚人なのではないかと。山里と云う監獄に閉じ込められて、ただひたすらに米を作り続ける囚人なのではないかと思うことがあるのだ。
 ただ囚人達はこの村の生活には満足しているのだと思う。幸い食べ物に困ったことがほとんどなかったからだ。ここは食べ物の豊富にある牢獄だったから。
 いつからこんなことを考えるようになってしまったのかを辿ってみれば、たぶんそれは村長の息子の家で見たテレビだった。それは村にはじめて来たテレビで、村人達は日が暮れると村長の家に集まったものだ。そこで娘は知ってしまった。山をいくつも超えた場所には別の世界があるのだと。山を越えた先に別の村や街がある。考えてみれば当たり前なのだが、百聞は一見にしかずという言葉があるように、それを視覚情報として得たことで実感してしまった。そこには泥臭い農作業とは無縁の生活を送っている人々が居る。そんな生活もあるのだということを娘は知ってしまったのだ。
 きっかけが欲しい、と彼女は思う。この村を出るきっかけが。
 蝉の声が絶えず鳴っている。彼女の前に伸びる舗装されていない道の先に一人の男がしゃがんで水田を見つめているのが見えた。歳はさほど離れていない若者だ。彼は娘が近づいてくると気がついたらしく声をかけた。

「おう、タマエか」

 娘が幼い頃から知っているその顔はどこか疲れていて、あまり景気のよい会話にはなりそうになかった。

「よくないん?」
「ああ」

 娘の質問に男は気落ちした声で答える。
 空に向かって青々と伸びる稲に目をやると彼はため息をついた。

「去年と同じだ。丈ばかりが伸びて肝心の実がつきやせん……」

 稲は瑞々しく見え、はたから見れば健康そのものだった。だが幼い頃から稲と向き合い、ずっと彼らを見つめ続けて来た彼にはそれが特異な、異常な姿に映った。風が吹き水田がざわざわと鳴っている。それは不吉な音色に聞こえた。

「むしろ状況は悪くなっとる。村全体に広がっとるわ。この分じゃあ、どこの家も収穫は望めまい。一昨年、去年以上の凶作になるだろう」
「あんたがそう言うのなら、本当なんやろうね」

 男を立てるわけでもなく、お世辞でもなくタマエが言う。彼は村のことならなんでも知っていたから。それは幼い頃に彼と駆け回っていたタマエ自身が一番良くわかっている。
 村中を駆け回った。ある時は山に登り、ある時は沢や溜め池でポケモンと戯れ魚を獲った。四季折々の花が咲くところを彼は知っていてよくタマエを連れて行った。村の大人達に言いつけを破って禁域に入り怒られたこともあった。時が経ちやがて男が家業を本格的に手伝いだしてからはなんとなく疎遠になっていたが……。
 水面に映る男の顔を見る。悔しそうな苦い顔をしていた。雨も水の量も十分、条件は整っている。それなのに。

「生き物の気配が無いと思わんか。アメンボもオタマもいやに数が少ないし、元気が無い。ポケモン達の姿もあまり見んしのう。五月蝿いんは蝉だけじゃ」
「そうかも、しれない」

 そこまで言葉を交わすと二人はしばし無言になった。
 水田に映った空の雲がゆっくり、ゆっくりと流れていく。生の気配が無い田に波紋は鳴らず、空はそのままの姿を映し、踊らなかった。

「……なあタマエ、キクイチロウとの縁談なんで断った」
「うちの勝手やろ。そんなん」
「なんで? 将来の村長の家に嫁に行けば、お前さんの両親もお前自身も安泰だろ」
「あんたに言われるこっちゃない。それにこんな時期にお嫁にいってなんになるん。去年は備蓄米があった。今年の分もなんとかあるとして、来年はどうなるか。村長の家だからって安心なわけじゃあない。……それに」
「それに?」
「そもそもキクイチロウは気に食わん。土下座されてもあいつの嫁だけはごめんだわ」

 彼女は迷い無くすっぱりと言い切った。
 ハハハ、と声を上げて男が笑う。タマエらしいな、と言った。

「ほんに昔っからお前は村の連中を手こずらせてばっかりじゃ」
「何よそれ」
「よくキクイチロウと喧嘩して泣かせてた」
「あん男が威張ってばっかりいるからよ」
「お前は天邪鬼だから喧嘩するなといえば喧嘩するし、喋るなといえば喋る、入るなといえば入る」
「そんなことなか」
「又の毛も生えんガキだった頃、呪いを試すんだ言うて、家のしゃもじ持ち出しておまんと一緒に禁域入ったことがあった。あんときは大目玉じゃった。俺は一晩納屋に閉じ込められた挙句に雨降大社の落ち葉掃きと雑巾がけ一週間やらされた」
「そうやったっけ?」
「おまんはすぐ帰されたけん、覚えてないんじゃ。言い出しっぺはそっちじゃったのに……」
「ふうん、なんでんなことやろうと思ったんかね」

 タマエがあまり覚えてなさそうに言う。けれどそれは彼にとって予想済みの反応であったらしく、仕方ないなという風に苦笑いしただけだった。

「とにかく、そんなお前が嫁に来いと言われて素直に行く訳が無い」

 若者はそのように総括した。

「けど、残念やな」
「何が?」
「てっきり俺は、お前が俺の嫁になりたいから蹴ったんだ言うてくれると期待しとったのに」

 白い歯をにかっと見せて彼は言った。

「シュウイチ、」
「なんじゃ?」
「あんたのその根拠の無い自信はどっから来るん?」

 タマエは呆れたように答えた。

「ご愁傷様。うちはこの村に留まる気ないんよ。今に出てってやるんやから」
「……そうか。寂しなるなあ」

 彼は本当に寂しそうに言った。けれども止めはしなかった。彼女が言い出したら聞かないことを誰より理解していたからだ。
 それに彼女は村一番の器量良しだ。たぶんそれは田舎の閉鎖空間にだけ通用するローカルなレベルではなく、村長の家で見たテレビに映る都会の女達にも決して見劣りしない。
 たまたま村にやってきた都会の若い紳士が見初めるなんて事は十分にありえる話だった。
 それに。
 それに、蓄えはあとわずかだった。村に残された蓄えは。
 ちびちびと遠慮するように食べているとはいっても、人がいる限りそれは確実に減っていき、いつかは底が見える時が来る。
 原因不明の稲の病。もしも来年も米がとれなかったとしたら。何人が村を出るかわからない。それはタマエの家も例外ではない。
 ここは食べ物の豊富にある牢獄というのは娘の論だ。だからこそ食うものがなくなれば脱獄者が出る。
 もう娘は村に出るきっかけをつかみ掛けているのだ。





「はーい、詠い直しー」

 雨降大社の集会場に声が響く。
 ぱんぱんと手を叩いて舞台演出は言った。

「ツキミヤさん、詠い方に怨念が込もってないわよ。そんなんじゃぜんぜん怖くないわ」
「はあ」

 メグミの指摘にツキミヤは冴えない返事を返した。

「村の外から来たあなたは知らないかもしれないけど、妖狐九十九はこの村では非常に恐れられた存在なの。いたずらばかりして言う事聞かない子には"九十九さ来てお前を焼いて食っちまうぞ!"っていうのが常套の叱り文句なくらいのよ。だから本番は小さい子が泣き出すくらいじゃないといけないわ」

 メグミはそのように妖狐九十九の恐ろしさを説明した。
 脚本の開始のト書き。早々に村人が一人焼き殺される。肉体を失っている九十九は焼き殺した村人の肉と骨を平らげて、人の形を手に入れるというのだ。それの姿が他でもない、ツキミヤ自身だというのが脚本の筋書きだ。
 おいおいツクモ、あんた人を食うことにまでなってるよ……青年は心中そんなことを思い、ほんの少しだが炎の妖に同情した。たしかにあれは野を焼き、田を焼く恐ろしい妖なのだろうが、たぶん人肉を好んで食う趣味は無いと思う。

「それと声も小さいわね。本番は仮面被ってやるのよ? ますます声が篭もるわけ。わかってる?」

 メグミはこの後にもマシンガントークを続けた。
 はじめて会った時にやたら舞台の話をされると思ったら関係者だったのか。どおりで出場規定に詳しかったわけだ。

「つまり妖狐九十九というのは――――で、――――だから――――という訳なのよ。わかった? ツキミヤさん」
「……精進します」

 言い返す言葉もなくツキミヤはやるせない返事をした。
 だから嫌だったんだ、と思う。食欲に任せてやってやるなんて本人の前で宣言してしまったが、やはりナナクサにやらせるべきではなかったのか。いやむしろ決勝戦でヒスイに負けておけばよかった。理由はよくわからないが、あいつも雨降を倒すつもりでいた訳で……。
 脚本を開き、青年の隣に座っていたヒスイは知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。試合には勝ったが、勝負には負けたとはこのことではないだろうか。反則ワザまで使って勝ったというのに。
 それにさっきから、右斜め後ろのほうにやたらと暑苦しい視線を感じる。ぎろりと睨みつけると、集会場の縁側に腰掛けたナナクサがニヤニヤしながら稽古を見物していた。
 この野郎、覚えてろよと無言の圧力を彼に向ける。

「ツキミヤさん、余所見しない!」

 メグミが喝を入れる。

「ほー、あれが今年の九十九かいな」
「ずいぶんひょろい兄ちゃんじゃの。大丈夫か」
「さっそくメグミの尻に敷かれとるやないか」
「メグは鬼演出やからのー、ある意味九十九より怖か。かわいそうにのー」
「それにしても、綺麗な子やねー」
「なんでもタマエさんちば寝泊りしとるらしいぞ」
「へえ、あのタマエさんが人泊めるなんてめずらしかね」
「だからシュージば見に来とるのね」

 稽古を見物に来た暇な村の老人達が口々に感想を述べている。お願いだから、自分に聞こえないようにもう少し小さな声で話して欲しいと青年は思う。

「そういえば、雨降様は今年もトウイチロウなんか」
「ほんとじゃ。トウイチロウじゃ」
「すっと今年も勝ったんか。外のポケモン使いば手ごわいと聞くけんど村のもんも捨てたもんじゃなかね。さすがは村長のお孫さんじゃ。頼もしい限りじゃのー」

 村長の孫?
 その言葉に反応して、ツキミヤは雨降の役者を見た。舞台上に集められ、脚本を手渡された時に見ていたから顔だけは知っていた。そういえばどことなく似ている気がしないでもない。雨降大社の宝物殿で見た掛け軸の雨降図に似てなかなか体格のいい男だった。

「トウイチロウさんは去年もやっているもの。要領はわかってるわね。見本がてらやってみてくださらない?」

 と、メグミが言う。
「わかりました」と彼は答えた。
 彼は詠った。炎の妖を打ち倒す雨の神の詩。炎の詩と対を成す雨の祝詞を。経験者というだけあって太い声で盛大に謳い上げた。


 降らせ、降らせ、天よりの水
 降らせ、降らせ、天よりの水

 見よ、空覆う暗き雲を
 雲よ我が命に答えよ

 降らせ雨を 降らせ雨を 消え去れ炎よ
 降らせ雨を 降らせ雨を 消え去れ悪しき火
 我が眼前に広がるは豊かな田

 降らせ、降らせ、大地を濡らせ
 恐れよ妖 我が力
 降らせ、降らせ、野の火を流せ
 降らせ雨を 金色の大地を濡らせ





 じりじりと蝉の歌が鳴り響いている。
 雨降大社で宮司が杖を振るとお決まりの祝詞が捧げられた。
 収穫祭で毎年飽きるほど聞いている雨降大神命を讃える詩だ。
 だが、祈りの内容がかみ合っていないのじゃないかと彼女は思った。雨も水も十分にある。問題は稲の病気なのだから。

「雨降様、我らをお救いください」
「この村をお救いください」

 困った時の神頼みと云う。馬鹿になった稲の前に手も足も出ない村人達は連日家族ぐるみで雨降大社に押しかけた。この場に居ないのはシュウイチくらいだった。諦めをつけることもできず、田を駆け回って打開策を見つけようとしている。お手上げ状態を一番よくわかっているのは彼なのにだ。
 村人達はただ祈ることしか能がなかった。
 実がつかないのは祈りが足りないからだ。信心が足りないからだ。いつしかそのように妄執するようになっていった。
 下らない、とタマエは思う。

「収穫祭の神事を前倒しして執り行おう。稲が実をつけるように」

 息子を隣に従えて、村長が言った。
 稲が実をつけないから収穫祭の神事を前倒しか。うまいことをやるもんだ。ある意味タマエは村長の手腕に感心した。実りの無い収穫祭ほど村の首長の格好のつかないものはないからだ。

「おおそうじゃ」
「それがよい」
「そうしよう」
「野の火じゃ、舞台の準備をせい!」

 それはおかしな盛り上がりだった。
 救いの無い提案とわかっていてもそれにすがる。皆、今の現実を忘れたいからそれにすがる。
 村長の家にテレビが来て、毎日真新しい情報が入ってくる。それなのに村の人々は根本は何もかわらない。古臭い伝統とこの土地に縛られ続ける。
 娘の思いはますます強まった。ああ、こんな村早く出て行きたい。

「配役はどうする」
「そうやのう、雨降様はキクイチロウさんにやってもらうのがよかろう。この村をしょって立つ未来の村長だからのう」
「九十九はどうする」
「九十九か。こんな時期に人柱みたいなもんやな」
「誰もやりたがらないんちゃうか」
「だが、必要な役だ」

 村の人々が口々にいろんなことを言う中、キクイチロウが声を上げた。

「皆さん、それなら適役がおります」
「誰じゃ?」
「皆さんがこうして大社に集まられているというのに、一人だけどこかをほっつき歩いている男がいる……これは雨降様への我が村の守護神への冒涜だ」

 まるで演説するように彼は言った。
 まさか、とタマエは思う。

「なんてやつじゃ」
「けしからんのう」
「愚かな奴じゃ」
「だがだからこそ、妖狐九十九にはふさわしいと言えるでしょう」

 まさか。
 まさか、彼のことを言っているのか。

「彼を探し出してここへ。たぶん田んぼをほっつき歩いているはずです」

 違う。彼はそんなんじゃない。そりゃあ、多少空気の読めないし変人のきらいはあるが、彼はこの村の誰よりリアリストだ。考えも無く、神にすがるのではなく自身で解決策を見出そうとしているのだ。彼は強い。こんな状況になっても自分を見失わない。……愚か者はお前達のほうじゃないか。
 だが、娘の思いとは裏腹に群集を煽り立てるようにキクイチロウが叫ぶ。狐狩りをはじめる領主のように叫ぶ。

「シュウイチをここへ!」

 タマエの中で、何かが切れた気がした。





「……ひどい目にあった」

 空の色はとっくに暗くなっていた。
 もう散々だと言わんばかりに疲れきった顔をして青年は呟く。
 役者達はそれぞれの宿泊先に帰ってゆく。皆同じように疲れきった顔をしていた。
 集会場の壁に寄りかかるツキミヤとヒスイは、ナナクサを待っている。彼は襖の開いた大部屋の出口でメグミと何やら話し込んでいた。
 疲れていて何の話をしているのかまで耳に入らなかったが、メグミは相変わらずのマシンガントークでナナクサはやや圧されている感があった。昼間にあれだけ叫んだり、怒ったりしていたのに見た目に似合わずパワフルな女性である。もしかしたらタマエさんもあんな感じだったのかもしれないな、などとツキミヤは考えた。
 やがて集会場に彼女の妹が現れる。姉の手を引っ張ると外へと連れ出した。ナナクサに手を振って別れる。

「ごめんごめん、二人ともお待たせ」

 ナナクサが軽い足取りで歩み寄ると疲れ顔の二人を見下ろした。

「メグミさんって喋りだすと止まらなくてさー、ノゾミちゃんが来てくれて助かったよ」
「何の話をしてたんだ」
「別に。内容自体は他愛のないことだよ」

 ツキミヤが尋ねるとナナクサはそのように答えた。本当に関心の無い内容だったらしい。
"あの子自身はどこか村の人間とは距離をとっているんだ"
 青年なぜかタマエの言葉を思い出していた。

「とりあえず帰ってご飯を食べよう。そしてお風呂でさっぱり汗を流す」
「賛成だ」

 と、青年は答える。

「風呂に入ってさっぱりしたら、夜の特訓だ」
「!?」

 ツキミヤとヒスイは目配せする。
 互いに逃げ出そうとしたが、ツキミヤは右肩を、ヒスイは左肩をがっちりと肩をつかまれてあえなく御用となった。二人の両肩の間でナナクサが邪悪に笑う。

「二人とも今夜は逃がさないよ。特にコウスケはたっぷり稽古をつけてあげる」

 語尾にハートマークをつけんばかりに存分に感情を込めてナナクサは言った。
 敵はメグミにあらず。真の鬼演出はこいつだ。
 青年の耳にはナナクサの言葉が呪詛のようにしか聞こえなかった。





 タマエは田の道をゆく。
 青い稲穂の海の上に立つ社がだんだんと遠ざかってゆく。

「燃えろ、燃えろ、燃えてしまえ」

 娘は口ずさむ。呪いを込めた言霊を。
 もう嫌。もうこの村は嫌。出て行ってやる。出て行ってやるんだ。

 夏の日の蜃気楼。
 ゆらゆら揺れる稲穂の海に彼女は炎の幻影を夢見る。
 もしこの稲の青が真っ赤に染まったなら。
 彼女はついに気がついてしまった。自身の望み、自身の願いに。
 たぶん以前にも考えたことがあったのだ。けれどその時は忘れたのだ。
 そうだとも。すがるものがなくなってしまえばよい、いっそすべてが灰になってしまえば、この村から出て行ける、自由になれる。
 そうこれこそが私の望み、私の叶えたい望みなんだ。

 あれから五日ばかり経って、蝉の鳴り止んだ夜に神事は執り行われた。
 彼女が禁域に再び足を踏み入れたのはその前の晩のことだ。

 家から持ち出したしゃもじを握り締め、彼女は暗い山の道を行く。
 今ははっきりと思い出せた。あの時、自分がシュウイチと禁域に入った理由を。
 キクイチロウを呪おうとしたのだ。当時、子ども達の間でもっぱらの噂だった方法で。
 彼は舞台ごっこと称して、タマエの仲の良かった女の子のアチャモを、自分のミズゴロウで散々にいじめたのだ。炎のポケモンはみんな九十九の手下だ。俺が成敗してくれる。そう言って散々にいじめたのだ。腹を立てたタマエは妖狐九十九に頼んで、彼を懲らしめようとした。けれど一人で禁域に入るのが怖くて、シュウイチを付き合わさせたのだ。
 呪いの方法はこうだ。雨降様に供えるのと同じように九十九にしゃもじを供えるのだ。場所は禁域にある大きな岩だ。そこにしゃもじを供えて、望みを言えばよい。そこは妖狐九十九が力尽きた場所で、その岩は九十九の怨念で出来ているのだ――。
 だが、その時の呪いは失敗に終わった。岩を見つける前に大人たちに捕まってしまったから。

「……あった。本当にあったんだ」

 まるで彼女が来るのを待っていたかのように、それは月光に照らされて横たわっていた。
 苔むした岩。けれどそれは野ざらしにされていても、存在感があり、何かしらの力が込められていそうな岩だった。
 彼女はおそるおそる岩の上にしゃもじを乗せた。
 愚かだとは思う。結局自分も村人達と同じであって、神頼み――いや妖怪頼みをしようとしている。自分で火をつけることはできない。自ら手を汚す勇気が無いのだ。

「……ツクモ様」

 と彼女は呟いた。
 雨降に願うのと同じように手を合わせ、神の名を呼んだ。
 
「九十九様、九十九様、どうか田を燃やしてください。雨だけは降り、背の丈だけは伸びるから、皆希望を捨てきれないのです。皆が田から離れるにはもっと決定的な出来事が必要なのです」

 祈念も呪詛も人の願い。
 信仰のあるところに神は宿り力を持つ。

「燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ」

 彼女は呟いた。
 明日にシュウイチが詠うであろう炎の詩を。



 妖狐九十九よ。我が望み叶え給え。



 村に大火が起こったのは次の日の夜だった。
 巨大な炎が上がったのは、ちょうどシュウイチが野の火の舞台で詩の一行目を詠んだ時であったという。