(十三)二人の訪問者


 不意に訪ねて来るものがある。
 黄金色に染まった田に風が吹く。風が吹いて吹き抜けて、それは大社へと上ってゆく。
 その来客は一陣の風を纏って、大社に舞い降りた。
 それはまだ大社の名前が九十九だった頃。

「ほう、お前が訪ねてくるとは珍しい」

 その姿を血のような赤い瞳に映して九十九が名を呼ぶ。

「白髭の翁よ」

 かの瞳に映されたのは両腕に風を起こす楓の団扇を持ったポケモンだった。
 足の先はまるで下駄の歯のように伸びており、獅子のように伸びた白い髪の間から、にょきりと耳が突き出している。妖狐の前に突き出されるは木の枝のように長く伸びた鼻。

「して、天狗の長が私に何用か」
「……別れを」
「何?」
「貴様に別れの挨拶をしに来たのだ。我が友九十九よ」

 それは気の遠くなるような遠い遠い昔のことだ。
 けれど、あの日のことを彼は今でもよく覚えている。雨の降りそうな天候の優れない日だった。
 大きな山々を隔てた隣の土地に在った歳経た樫の木。彼はこの日、妖狐に別れを告げにやってきたのだ。





 星屑が撒かれて夜空を彩っていた。
 夜が深くなり、穴守家の人間は皆眠りについている。
 とはいっても、使用人と来客二人は起きている訳だから、二対三で皆とは言えないかもしれなかった。提灯を持ったナナクサが家の玄関をそっと開けると、客人二人と共に抜け出した。
 提灯を先頭にして田のあぜ道を三人の影が歩いていく。

「どこに行くんだい?」

 と、ツキミヤが尋ねると

「穴守家の持ち物は僕達が泊まっている屋敷と田んぼだけではなくてね、この先に離れというか、別荘というか……まぁ、舞台の練習するには最適なところがあるんだ。近くに民家も無いから大声出しても大丈夫。たまに僕が掃除しに言ってる」

 提灯の反対の腕に持ったラジカセをぶらぶらと揺らしながらナナクサが答えた。

「……ここの村の農家は皆、このように豊かな生活をしているのか?」

 次に尋ねたのはヒスイだった。

「どういうこと?」
「君を雇っている家は相当に資産があるようだ。使い切れない部屋の数、二人暮らしには広すぎる浴場、離れまであるときている」
「これでも昔はもうちょっと人が居たんだよ」
「田舎の家ならあれくらいの部屋があってもおかしくはないだろう」

 そう言ったのはツキミヤだ。

「まぁ、風呂が豪勢なのは認めるけどね。ありゃどっかの旅館並だ」
「亡くなったタマエさんのご主人の意向だよ」

 ナナクサが答える。

「まぁでもそうだな。この村は収穫祭も手伝って今は潤ってるよ。だからどこの家も住む所に多少お金かけるくらいの余裕はあるんじゃないかな。その中でも穴守家は別格だと思う。……たぶん」
「別格?」
「タマエさん自身は倹約家だけど、あの家自体は結構資産家なんだよ」

 りりりり、と虫が鳴く。三人は緩やかな坂を上った。

「昔、苗の病気で不作が続いた時期があったってことコウスケには話したろ? 備蓄米はどんどんなくなるし、タネモミにする分でさえ危うくて。そんな中、いろんな種類の米を育てていた穴守家だけは無事だった。あの家がどうやって財を成したか後は想像に難くないだろ? だから、今でもこの村に植えられている苗の半分くらいは穴守家のところから出たタネモミの子孫なのさ。つまり収穫祭で振舞われる料理の半分は元を辿れば穴守家由来なの」
「ということは一昔前ならもっと……」
「そうだね。今でこそ村の外からいろんな品種が持ち込まれているけど」

 ナナクサの前で提灯の光が揺れる。
 その話を聞いてツキミヤはどこか納得していた。この村は今でこそ外からのものを受け入れるようになってはいるが、根っこのほうは閉鎖的で保守的であると思う。その中で一人だけ違う主張を通すのがどれだけ大変か。
 だが、村の人々が穴守の人間に向けている視線にさほど軽蔑や強い疎外は感じられない。せいぜいあの家には変わり者の婆さんがいるんだぜくらいの感覚である。

「なるほど、皆あの家に足を向けて眠れない」
「そう、恩があるんだよ。この村にある農家はみんな穴守家に助けられたんだもの。タマエさんの信仰が皆と違うって言ったってそうそう邪険にはできないよね」

 田の用水路で月が揺れている。木の板で橋渡しされたその場所を彼らは一人ずつ渡った。
 順番待ちの合間に青年は空に浮かぶ月を見ようと顔を上げた。村に着いた時より大きくなっている。野の火の上演ごろには満月になりそうだ。
 月は村を囲う山々を照らしている。昼間に見た紅葉も黒く鬱蒼と樹木の生い茂る山。耳を打つこの水音も元を辿れば山のほうから来ているのだろうか。

「……そんな訳で、偉大なる穴守家当主に挨拶をしていこう」

 ナナクサはラジカセを提灯を持つ手に移し変えると、空いた手で浴衣の袖に隠していた線香を取り出した。

「行く途中にお墓があるんだ」

 穴守家当主の墓があるという墓地は山に続く林と田の境目ほどの場所に寂しげにあった。
 そこには内と外をとを区切る柵など無く、実質どこからでも入っていけたが、二本の石柱が入り口となっているらしく、三人はそこを通って中へと入ってゆく。
 ナナクサが立ったのは墓地の端のほうであり、そこからは田がよく見渡せた。
「いい場所でしょ」と、彼は言った。
 ナナクサは線香に火をつけるとツキミヤとヒスイに渡す。三人はそれぞれ墓に線香を立てた。

「それでは、故アナモリシュウイチ氏に感謝を」

 三人は手を合わせ、目を閉じる。

「……ん、シュウイチ?」

 黙祷が終わってから、ツキミヤは妙な共通点に気がついた。
 たしかに墓標には「穴守周一」とある。

「そ、タマエさんのご主人で、タイキ君のおじいさんだよ」

 と、ナナクサが答える。

「そうじゃなくて、シュウイチって名前なのか。タマエさんのご主人は」
「そう、シュウイチ」
「ねえ、ナナクサ君、君の下の名前なんだっけ」
「シュウジだけど?」
「…………」

 ツキミヤはしばらく黙っていたが、やがてプライベートに突っ込む質問をした。

「ナナクサ君、君ってさ、もしかしてシュウイチさんの隠し子か何か?」
「はぁ? そんなわけないでしょ」

 ナナクサはあっさり否定する。

「僕に隠し通せると思うのかい?」
「あのね、僕はシュウイチさんに会ったことも無いんだよ。この村に来た時はすでに墓の中の人だったし」
「ははあ、つまり愛人に育てられた君は、父親の姿を一目みようとこの村にやってきた。だが、父はすでに……そして君はより父を知る為にアナモリの使用人となった訳か」

 ツキミヤがにやりと意地悪そうな笑みを浮かべる。

「違うって! だいたい何なんだよ。そのシュウイチさんの浮気前提みたいな発言は! 本人の墓の前だぞ!?」
「……資産家にはよくあることだな。万国共通だ」

 ヒスイがぼそりと言う。

「ふむ、かなり歳がいってからの子と思われる。老いても元気だったんだな」
「お前、財産を狙っているのか。穴守家は資産家だとさっき聞いたしな」

 ツキミヤが援護射撃して、ヒスイが物騒な発言をする。

「二人とも何言ってるの! シュウイチさんはタマエさん一筋だって! 小さい頃から隙あらばタマエさんを嫁にしようと虎視眈々……念願叶って結婚した後も、米のことになると目の色が変わる性質だからいつも田んぼをうろうろしててとても浮気するヒマなんか」
「なんでわかるんだよ。会ったこと無いんだろう?」
「……いや、その、勘?」
「勘かよ」
「と、とにかく! タマエさんとシュウイチさんを馬鹿にするんならたとえコウスケと言えど、許さないからね!」
「はいはい」

 おお、悪口を言われて腹を立てる範囲が一人から二人に増えたぞ。そんなことを考えながら青年は聞き流すように返事をした。

「じゃあ、彼の墓前に謝ってくれ」
「…………」

 鼻息を荒くしてナナクサが言うので、ツキミヤ仕方なく墓前で手を合わせ
「ごめんなさい、疑った僕が悪かったです」と、謝罪した。

「よろしい」

 まるでシュウイチ本人であるかのようにナナクサが言った。
 生真面目な奴……あんまり冗談を真に受けるなよ、とツキミヤは思う。
 少なくとも今の反応を見る限りでは、財産狙えるタマではないだろう。

「クワをかけたのか」

 再びヒスイがぼそりと呟いた。

「……ん、まあね。それよりヒスイさん」
「何だ?」
「それを言うならカマをかけた、だ」
「……覚えておく」

 言葉を間違えたことを恥じるでもなく、赤面して余計なお世話だと吼えるでもなく、彼は素直にそう言った。

「……それとツキミヤ、」
「なんだい」
「呼ぶときはヒスイでいい」
「…………わかった」
「ああっ、ずるい!」

 唐突にナナクサが割り込んでくる。

「ずるい?」
「コウスケ! これからは僕も呼び捨てでいいから!」
「なんだよいきなり」
「シュウジって呼んでくれ! いいだろ!?」

 彼はいかにも必死な様子で懇願してきた。

「……? 別にいいけど」

 何をムキになっているんだろうこいつは。そんなことを思ったが青年は承諾した。
 ふと故アナモリシュウイチの墓標を振り返る。五月蝿がっているだろうなと思った。

 ほどなくして二人は禁域の境界近くにまで案内される。そこにぽつりと立つ建物。穴守家の持ち物だと言う離れだった。ナナクサが定期的に掃除をしているせいか埃はさほど溜まっていない。襖という襖を開けばそこは三十畳ほどの広さとなり、練習をするには十分な広さだった。

「二人とも昼間の練習お疲れ様。けれど本番はこれからだよ。君達は昼間と違う脚本を演じなくちゃいけないんだから」

 片手に脚本を持ち、部屋の中心に立つ。

「昼は脚本通りの台詞を。夜は九十九の呪詛を」
 
 まるで昼間のメグミに取って代わったかのようにナナクサが言った。

「とりあえず二人とも声がまったく出ていない。腹式呼吸から始めよう。さあ、いつまで座ってるのさ。立った立った!」

 ナナクサにどやしつけられる形でツキミヤとヒスイが立ち上がった。

「腹から声を出す。あれにはコツがあるんだ。鼻の穴から息を吸うこと。そうすれば空気がお腹に入る。口からすうと胸に入る」

 ナナクサが鼻から息を吸うとアーと声を出した。
 アメタマ青いなアイウエオ、などと言い始めた。

「知ってたか?」

 と、ツキミヤがヒスイに尋ねる。

「中学の合唱コンクールでよく先生に腹から声を出せなんて簡単に言われたが、まったくやり方がわからなかった。なんだって教えてくれなかったんだろう」
「あいにく中学とやらに行ったことがないんだ。そういう話はわからない」
「……そうか」

 いわゆるトレーナーの十歳旅立ちコースだろうかなどと思案しながら返事をする。

「そこ! 喋ってないでさっさとやる!」
「……はいはい」

 二人は渋々とナナクサの声の後に続く。
 学校の文化祭じゃあるまいし、こういうことをやる日がくることになるとは思わなかった。
 夜の深い山里に声が木霊する。





 収穫期を迎えた田に不穏な風が吹く。
 色違いの妖狐が天狗に吼えた。

「どういうことだ、それは」
「どうもこうも無い。言葉通りの意味だ」

 天狗が重苦しい声で言う。

「去らなければならない。私はあの土地の神ではなくなったのだ」
「何を言っているのだ」
「私はもはや神では無い。さ迷う一匹のポケモンと成り果てた」
「何があった」

 妖狐は耳を張り、天狗の髪の間から覗く金色の瞳を見据えた。

「私は、我が一族は森の恵みを願い、根の下に水を蓄え、川が暴れぬようあの場所を守り続けてきた……」
「そうだとも」

 九十九は同意する。

「たとえ雨の無い年でもお前の治める土地で川が枯れることが無かった。お前は山の民の神。木を育て慈しむ森の化身がお前だ」

 睨み付けるように、けれど案ずるように目を向け問う。
 赤と金の視線が交差した。

「それが何故」
「より強大な神の使いと名乗る者達がやってきた。大勢の信奉者を連れてな」

 天狗は続ける。
 我らが土地が奴らが版図に飲み込まれた時に命運は決まった、と。
 
「我が一族の宿る神木が倒され、森の社は取り壊された。私の名が忘れ去られるのも時間の問題だろう」
「……なんということだ」

 山々を隔てているとはいえ、隣の土地。その土地の神が他所者に追い出された。
 そこで起こった異変はこの里を根城とする妖狐に大きな衝撃を与える。
 何代も何代もの間、そこに彼らは在った。森に棲み、守り、人間達に畏れられた天狗の一族が土地を追われたというのか。

「気をつけろ九十九よ。奴らは二大勢力。赤と青」
「赤と青……」

 その名前なら風の噂で聞いたことはあった。だが……それほどまでに、力のあった存在であったのか。天狗の一族が土地を追われるほどの。
 
「私の所にやってきたのは"青"だった」

 天狗は警告する。

「お前は炎の力を持って畏れられる者。"赤"が来たならうまく取り入れ。そうすれば残る道もあろう。だが"青"が来たのなら……」
「青が来たらどうしろというのだ」
「悪いことは言わない。戦ってはいけない。一族を連れて早々に土地を去れ」

 妖狐の毛が逆立つ。
 九の尾の一つがぴしゃりと地面を叩いた。

「この九十九に尻尾を巻いて逃げろというのか」
「滅ぼされたくなければな」
「白髭よ、お前がそこまで腰抜けだとは思わなんだ。先祖から代々受け継いだ神聖な場所をみすみす見捨て逃げ出してくるとは」
「抵抗はしたさ。だが、あのまま戦い続ければ我が一族は壊滅しただろう」
「取り入るのも逃げ出すのも私はごめんだ」

 九十九が牙を剥き出して言った。
 くるりと向きを変えると大社の境内を見る。大社に供えられ、立てかけられた大量のしゃもじが狐と天狗の目に映った。
 稲が無事育つように、収穫できるように。願わくば多くの実りがあるように。
 しゃもじの首に刻まれているのは九十九の字。
 並べられあるいは詰まれたしゃもじの目方は彼の妖狐の力の大きさをそのままに表している。

「……そう言うだろうと思ったよ。お前は強い。炎の力をもってこの里に君臨するのがお前だ。お前ならば、あるいは……」

 天狗は無くした自身の場所を思い出していた。
 もう居ない。自分の名を呼ぶものはもう……
 改めて妖狐に警告した。

「だが、覚えておけ九十九よ。自分達こそが正しいと思っている人間共はどんな神よりも恐ろしい。奴らは何でもやるぞ。同じ色に染める為ならばなんでもやる。他の色が混じることを認めようとしないのだ」

 中津国の南に根を降ろす土地。その場所を人々は豊縁(ホウエン)と呼んだ。
 豊かな緑(みどり)と数ある縁(えん)を結ぶ場所。
 緑の地図に色が塗られる。赤い色と青い色。二つの色はぶつかり争う。緑多きこの大地により多くの色を塗ろうと。あわよくば互いの色を塗り潰そうと。緑の地図に赤と青が広がってゆく。





 こういうものは決まった型がある。僕が教えればコウスケもヒスイもすぐに出来るようになる。
 そのように論するナナクサの指導の下、特訓が続いていた。

「ふむ、声量はだいぶいい」

 ツキミヤの詠う炎の詩を繰り返し聞いて、ナナクサが言った。彼はほっと一息をつく。
 やはり彼はメグミ以上の鬼演出であった。声量が足りなければ拳で遠慮なく腹を押されるし、抑揚が違えば容赦なくどやしつけられ修正をかけられる。その様子は普段の態度からは想像できない激しさで二人を驚かせた。
 今や場を支配しているのは他でもないナナクサだった。墓地でからかわれていたあの時とは大違いである。
 思い返せば、あんまりに彼の要求が厳しいので、一度ヒスイとキレかけて、じゃあお前やってみせろなどと言ってしまったのがそもそもの間違いだったのだ。


「いいだろう、見せてやるよ」

 ナナクサはあっさりそう言った。
 土壁についたコンセントにプラグを差して、持ってきたラジカセにスイッチを入れる。そこから神楽舞の壮厳な音楽が流れ始めると、部屋の明かりをすっかり消してしまった。彼の持ってきた提灯の明かりだけが残って妖しく揺れる。部屋は一種の異空間へと変貌した。
 彼は和服の袖から扇を取り出した。扇を一振りする。鳥の翼のようにそれは開いた。音に身を委ね、ゆらりと揺れたかと思うと舞に転じた。昼間に見た雨降のトウイチロウに負けない威厳のある声が空間に響き渡る。

 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ

 遠い昔に雨降によって滅ぼされた炎の妖。その恐怖の対象が舞台の夜だけ蘇る。
 彼は詠う。赤く紅く大地を染め上げる炎の詩を。自身の恐怖を思い出させんと詠う。

 見よ、暗き空 現れし火を
 火よ我が命に答えよ

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ我が炎
 我が眼前に広がるは紅き地平

 怨と震えるその響き。詞にこめられた念が鼓膜に届いて染み渡って、彼等はぞくりと戦慄した。
 九十九とはこの村で非常に恐れられている存在。舞台に九十九が現れたとき、村の小さな子どもが泣き出すくらいでなければならない――そうのように言ったのは昼間の演出メグミであったが、彼の演舞はまさにそれを体現しているではないか。彼のいくつにも結われ揺れる髪が九十九の尾のゆらめきのようにさえ映ったくらいだ。

 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 恐れよ人の子 我が炎
 燃えよ、燃えよ、野の火よ燃えよ
 放たれし火 金色の大地に燃えよ

 土壁に大きく映し出された影が揺れ蠢く。
 妖狐は謳う。炎の詩、緋色の呪詛を。
 ナナクサはすべての台詞を一字一句丸暗記していたのはもちろんのこと、指先に至るまで完成された舞を披露してみせた。ここまで徹底的にやられてしまっては文句のつけようが無い。
 その手並みに呆けているうちに舞が終わって、開かれた扇の向こう側からナナクサの瞳が覗く。

「四の五は言わせない。ここにいる間だけは僕がルールだ」

 視線が二人を射抜いて云った。
 圧倒的な雰囲気に飲まれていた。彼らは異議を唱えなかった。



「やっぱり君にやらせたほうがよかったんじゃないか」

 夜の風が心地いい。猛練習から開放された帰り道にツキミヤが言う。
 後ろを歩くヒスイが無言の同意を返していた。

「言っただろ。僕じゃ選考会に出れなかった。なにより僕は君にやって欲しいんだ。コウスケ」

 ナナクサは夢枕に立った誰かと同じ台詞を吐く。
 まっすぐ行き先を見つめてツキミヤのほうは振り返らなかった。

「それにね、僕がいくら舞えて詠えても意味なんか無いんだよ」
「どういうこと?」
「僕自身は過去の人間の動きをなぞっているに過ぎないんだ。そこに思いや感情は無い。僕自身は空っぽだから」
「空っぽ?」
「そう」

 ナナクサはやはり振り返らない。
 提灯だけが行き先を儚げに照らし揺れている。

「だから中身のある人間にやってもらわないといけない。君のような人でなくちゃだめなんだ」
「君は時々おかしな理屈をこねるね」
「神楽は器だよコウスケ。神楽の中に、詩の中に感情が入るから舞は奉納となり、供物となる。だから、空の器に君自身の感情を入れて欲しいんだ。形と心の両方を得て、はじめて舞は完成する」
「……僕の入れる感情なんてロクなもんじゃないぞ」
「そんなことは無いよ」

 あいかわらず訳のわからない理由を言う奴だと思う。
 すると、

「ナナクサ、お前は野の火に出たことがあるのか?」

 と、割って入るようにヒスイが尋ねた。

「無いよ」
「それにしては、ずいぶん踊り慣れているようだったが」
「だって毎年見ているから。それこそ何十回もね」
「……何十回? ナナ……いやシュウジ、君がこの村に来たのって三年前くらいじゃなかったのか」

 タマエの発言を思い出してツキミヤが突っ込む。

「……練習を繰り返し見ていればそのくらいの数にはなるだろ?」

 と、ナナクサが返す。だが……
 それはおかしい、とツキミヤは思う。村長が言うには彼は普段雨降大社には近づかないはず。今年でこそ自分達が出演しているから出入りするようになっただけのはずなのだ。

「それよりコウスケ」

 ここに来てはじめてこちらを振り返った。

「なんだよ」
「やっと名前、呼んでくれた」
「ん? あ、ああ」
「嬉しいな」

 ナナクサはその時ばかりは本当に嬉しそうに言った。そんなことで喜ぶのも珍しいと思う。
 それよりどういうことなのか。なぜ大して見てもいないはずの舞をいともたやすく彼はやってのけたのだろうか。何十回と見る必要が無い、数回見れば覚えてしまえるのだと言われてしまえばそれまでだが、そんな特殊な能力を持った者がそうそういるとも思えなかった。
 いつのまにか天真爛漫な外ヅラに騙されて、彼という人間を見くびっていたのではないだろうか。雇い主のタマエでさえもナナクサの素性はよく知らないという。青年は認識を改めた。彼もまた面を被った演者の一人であるのだと。
 それに不可解なのは、彼だけではない。ヒスイもだ。舞台本番に雨降を倒すという条件を提示してから、彼はそれ以上を語ろうとしなかった。こちらの行動に特別異議を唱えるでもなく、黙々とついてくるその様子はある種不気味でもある。
 尤も、隠し事があるのは僕も一緒だけれどな……と青年は頭の中で呟いた。

 "舞台の筋書きを書き換える"

 その不安定な力の下に三つの分子はつかず離れず結束している。
 暗い道中に三人の足音が静かに響く。

「……あれ?」

 それから道をだいぶ進んだあたりで突如ナナクサが声を上げた。

「どうしたんだ?」
「家の灯かり、ついてる」

 彼はタマエさんもタイキ君も眠っているから消してきたはずなのに、と呟いた。
 青年は虫の鳴く暗いあぜ道の向こうを見る。その先には確かに小さな灯かりが見えていた。





 空が紅い。沈みゆく陽が大地を照らしている。
 夏が過ぎ、緑から黄金色に変わった稲穂の群れを夕日が染めている。
 その稲穂の海の中にある小高い山の頂上に立つ大鳥居。その下に伸びる二つの影の主達はその下に広がる土地を見渡した。

「見ろ白髭、ここから見降ろす景色は格別だろう」

 風が吹く。染められた稲の海がうねっている。
 少し影を落とした昼間とは違う波の色。だんだんと夜に染まりゆく合図。
 田のあぜ道を六尾の狐が二匹、三匹と走ってゆくのが見えた。

「特に夕刻はいい。私が二番目に好きなのがこの時刻の風景だ」
「二番目に?」
「そう二番目だ。一番は……お前なら尋ねずともわかっているだろう?」

 天狗は九十九にちらりと視線を移す。
 田を吹き抜ける風にたてがみが煽られたなびいている。
 赤い赤い血の色のような瞳は真っ直ぐに地平を見据えていた。

「……ああ、そうだな」

 と、一言そのように天狗は答えた。
 それは詩に詠まれた風景。炎の詩に詠まれる紅き光景だ。

「……お前の心は変わらないのだな、九十九」
「当たり前だ」
「そうだろうな。まあお前ならばそう言うとわかってはいた」

 親だろうか、あぜ道を走っていた六尾の狐たちはその先に立っていた九尾の狐の懐に飛び込んだ。ぐるぐると足の下を駆け回る。

「そうとも。ここから離れて生きるなど考えられぬ」

 静かな声で、けれども確かな意思を込めて、九十九は云った。

「お前の色がまだ白くて、尻尾が一本だったころから知っているが、生意気になったものだ」

 九十九は長。この地を駆ける六尾と九尾の長。
 天狗は知っている。彼は尾が九になる前から九十九を知る数少ないポケモンだ。尻尾が二又になり三又になった頃、彼の色の違いは他と顕著になりはじめ、六尾として落ち着いた頃にはすっかり目立つ存在になっていた。やがて石の力を受け成獣となり、九十九と云う名で呼ばれるに至るまでそう時間はかからなかった。
 百の六尾と十の九尾を率い、豊かなこの地を闊歩する、神。

「渡さぬ。たとえ滅されたとて我が炎は消えず」

 瞳の赤が揺らめく。
 ふっと天狗が笑った。

「お前には余計な忠告だったようだ」

 たんと地面を踏み鳴らす。ひゅうっと一陣の風が舞った。

「行くのか」
「ああ、皆を待たせている。長居をしたな」
「そんなことはないさ」

 風が渦を巻く。天狗の長い髪が舞い上がった。

「良き旅を。風が向いたならいつでも来るといい、我が友白髭よ」

 呼ばれたその名。
 それが天狗の内に重く重く響き渡った。

「さらばだ。我が友九十九よ」

 巨大な風が吹く。
 山の木の葉を大きく巻き上げて、風の去る音と共に天狗は消えた。
 その身体はもはや地上に無く、社のある山がどんどん小さくなっていくのが見えた。
 視界に一面に広がる黄金色の地。
 沈みゆく陽に染まる大地。
 彼はもう米粒ほどになった妖狐を見て呟いた。

「先程お前が呼んだ名が、私の名が呼ばれる最後やもしれん」

 虚空に声が木霊する。九十九よ。炎を司る六と九の尾の長よ。我が友よ、と。
 九十九も白髭も名づけられた名。名づけられた神の呼び名。

「願わくば、その名が呼ぶ者が私で最後とならぬよう」

 風を纏って友は去った。
 それが白髭と呼ばれたダーテングと九十九と呼ばれるキュウコンの今生の別れとなった。





「何かあったのかもしれない」

 そう言ってナナクサが穴守家へと駆けて行った。二人もつられる形で彼の後についてゆく。
 近づいてみて異変に気がついた。門の前に停めらている一台の車があった。この村の風景にはあまり似つかわしくないメタリックな色のスポーツカーだった。

「誰か来ているらしいな」

 と、ツキミヤが言うと

「こんな時間にこの家に上がりこむなんて、いい度胸じゃないか」

 明らかに機嫌の悪い声でナナクサが言った。
 玄関に至ると、ブランド物と思しき靴が無造作に脱ぎ捨てられており、ますますナナクサの怒りを買った。
 家の奥のほうから何やら話し声が聞こえてくる。
 ナナクサはつかつかと廊下を進み、声の漏れる襖の戸をばっと開いた。

「一体誰ですか。こんな時間に!」

 襖を開いた先に居たのはタマエと痩せた無精髭の中年の男だった。
 ちゃぶ台を中心にし、向かい合って座っている。

「……お前は」

 そうナナクサが言いかけるとタマエが口を開いた。

「ああ、シュージは会うのがはじめてだったねぇ。こいつがお前が来る前に自分の息子をほっぽって、ほっつき歩いていたうちのバカ息子さ」

 男はひじをついていた腕を降ろす、じろりとナナクサを見た。
 高級そうなスーツに目に痛い色のワイシャツ。腕に金色の時計が光る。

「…………これは、タイキ君のお父さんでしたか。失礼しました。この家で働かせてもらっているナナクサと申します」
「フン、こいつに改まった挨拶なんざ不要さ。ホントは家の敷居をまたがせる気も無かったんだけどね。こんな時間に押しかけて来よって、気がつけば座り込んでたわ。まったく昔から常識ってえのが無い子だよ」

 深夜の訪問者にすっかり目を覚まされてしまったタマエは、吐き捨てた。

「そーゆー母ちゃんもスミに置けないね。こんな若い子をたくさん雇って。やっぱり寂しいんじゃないのかい?」

 男は白い歯をにかっと見せて老婆に言った。視線を廊下側に移す。

「……? 雇っているのはシュウジ一人だが? ……ああ」

 タマエは部屋の前で立ち往生している二人の青年を見て納得した。
 やっぱり近づかないほうがよかったんじゃないかと互いに目配せしている。
 
「残り二人は客人だよ。シュージの友達さ。今は祭だからね。見物に来たのさ」
「……ツキミヤです」
「ヒスイだ」

 二人は気まずそうに名を名乗る。

「まぁ、そんなところに立っているのもなんだ。寝るか入るかするんだな」
「それならお茶でも淹れてきましょうか」

 そのようにナナクサが提案するとタマエは頼むと答えた。



「そうか。今は収穫祭の時期なんか。懐かしいの」

 そう言ってタイキの父は出された茶をずずっとすすった。

「さすがにこの時間じゃ明かりも消えとるけん、気付かなんだわ」
「…………」

 狭いちゃぶ台を五人の人間が囲っている。おかしな光景だった。
 やっぱり寝たほうがよかったろうかなどと思いつつ、茶を淹れてくると言ったナナクサがこの場に留まってくれと言っているような気がして、ツキミヤは輪の中に入ることにした。ヒスイは黙って同席した。

「へえ、にいちゃん、ツクモさやるんか。お前さんも物好きやね」
「え、ええ……」
「あれやろ、お袋の差し金やろ。お袋の九十九様好きは有名だからのー。ワシの小さいころなんかお前の母ちゃん狐憑きだとかよう言われたもんや」

 そう言って彼はタバコに火をつけた。
 ふうっと煙を吐き出す。

「まあワシはお袋の信仰どうこう言う気ないけどなあ。狭い村やし、他に話題もなかったんだと思うわ。みんな妙に信心深いというか。視野が狭いというかね。だからワシ小さいころから決めとってんねん。大きくなったらこの村の外に出てやるんだってな」

 そんな昔の思い出話を一通り語ると彼は、灰皿にタバコを押し付けた。

「でだ母ちゃん。さっきの続きやけど。ワシもようやく落ち着けそうやねん。ミナモシティに家建てるけん、一緒に暮らさへんか。お母ちゃんももういい年や」
「三年も連絡よこさんで、タイキさほっぽって、今更何を言い出すんだか」
「……タイキんこつは悪かったと思っとる。あいつにも寂しい思いばさせてきたばい。だから尚んこと」
「サナエさんばどうした」

 切り込むようにタマエは言った。
 タイキの母の名だった。

「……あいつとは今だ別居中や」
「話にならん」
「サナエかて落ち着いたら戻ってきてくれるわ。確かに今までは家をあけてばかりやった。んだとも事業も軌道にのってきた。これからは家族との時間も作れるばい。母ちゃんにも来てほしいねん」
「……お前は私を金のかからん子守くらいにしか思っておらん」
「そんなことはなか」

 タイキの父と祖母の応酬が続く。
 取り残された使用人と客人二人は黙って耳を傾けるのみだ。
 やはりさっさと寝ればよかったとツキミヤは思った。明日も舞台の稽古がある。

「おまんは私にこの土地を捨てろと言うのかい」
「そうは言うておらん。時々なら遊びに来たらええやんか」
「田が荒れる」
「お母ちゃんはもう歳や。いい加減農作業なんか引退せんと。隣の農家にでも貸しとっららええねん」
「つまりわしに死ねというんやな」
「そんでそうなるねん! いつまでも意地張ってからに!」

 タイキの父は声を荒げた。ばんとちゃぶ台を叩いた。
 だがタマエも負けてはいなかった。

「おまんはわかっとらん! 苗を植えるいうことは息するのと同じじゃ。稲を育むつうことは生きるつうこっちゃ。わしゃあん人からそれば学んだ。おまんはあん人の子のくせになぜそればわからんのじゃ!」
「わからん。こげん田舎に閉じ込められて、果てた親父の気なんか知れんわ。姉ちゃん達かて誰一人ここには残らなんだ」
「五月蝿い! わしゃ決めたんじゃ! あの時に誓ったんじゃ! ここで生きていくと決めたんじゃ!」

 悲鳴にも似た叫び声が木霊した。
 飛び交いすれ違う悲しみの入り混じった怒りの感情。それがびりびりとツキミヤの影に響いた。
 ちらりとナナクサに目をやった。正座したまま黙っているが、膝に置かれた手が震えている。相手が雇い主の息子、タイキの父親でなければとっくに食ってかかっているに違いなかった。

「……私の気持ば変わらん。ここから離れて生きていくことなど考えられん。ここにはあの人の墓だってあるんだ」

 客人たちの前で声を荒げたことを恥じているのかもしれなかった。さっきとは打って変わって落ち着いた声で、けれども確かな意思を込めて、老婆は言った。

「ここば離れん。この土地に生きて、この土地で枯れるんじゃ」

 そこに青年は地に深く根を下ろした大樹のような揺るがぬものを感じ取った。
 それは少なからずタイキの父にも伝わったらしい。彼は諦めたようにふうっとため息をついた。一言、

「もうええわ」

 と言った。

「母ちゃんが折れんことはわかったわ。これ以上は言わん。けれんども、」
「けれんどもなんじゃい」

 まだ何かあるんかと言わんばかりにタマエが尋ねた。

「タイキは連れてくで」

 老婆が凍ったように見えた。

「当たり前やん。俺の子やで」
「お前……三年もほっぽといて、今更何言っとるんや」
「母ちゃんはタイキばこの家継がせたいかもしれんけど、そうは問屋が卸さんわ。あいつかてこんな田舎にいつまでも居たいとは思っとらん」
「あん子がそう言ったわけじゃあるまい」
「聞かんでもわかるわ」
「お前はいつでも勝手に決めよる!」

 再び場が険悪な雰囲気に包まれた。言うなればこの話題はかまどに投げ込まれた真新しい薪だった。紅い光を宿すかまどの墨はまだ十分な熱を帯びていている。ひと扇ぎすれば簡単に燃え上がるだろう。

「お二方とも落ちついてください」

 そんなかまどの墨を踏みつけて砕き、熱を奪うようにしてナナクサは割って入った。

「僭越ながら僕の提案を聞いてはいただけないでしょうか」
「なんじゃ」
「なんだ」
「お二人の希望はわかりました。けど当の本人を置いてけぼりにしちゃいけないと思う」
「…………」
「……フン」

 穴守家の視線が集中している。だが彼は動じる様子も見せず淡々と続けた。

「彼はたぶんお二人が思っているよりずっと大人です。もうすぐ十歳だ。十歳といえば正式にポケモン取扱免許を受ける、ある意味大人として扱われる年齢。カントーのとある田舎町では最初のポケモンを貰って当たり前のように旅に出、三年は帰らないといいます。いかがでしょう。ここは彼に決めてもらうというのは」

 ナナクサは老婆と男を見る。対照的な反応をしているのが見て取れた。

「……シュージ」
「いいじゃないか。君は話がわかるねナナクサ君。ワシは構わへんで。なあ、お母ちゃんここはひとつそういうことにしようや。お互い恨みっこなしや」
「…………わかった」

 観念したようにタマエは承諾した。

「ではここにいる客人二人には証人になっていただきましょう」

 ナナクサはとんとん拍子に話を進めた。
 ツキミヤとヒスイがお互いの顔を見る。この為に残したのかと思った。
 だがツキミヤは思う。この条件、不利なのはタマエのほうだ。それは二人の反応を見ても明らかだった。シュウジ、君はタマエさんの味方じゃなかったのか。何を考えている。今までのあれは全部演技だったとでも言うのか。……そう思わせてきたのだとしたら大した役者だ。
 シュウジ、すべて計算しているのか。廊下に微かな足音が聞こえた事に気づいてそう言っているのか。
 青年の影は先程から察知していた。青年の影は見ていた。二人の争う声に気がついて、襖の裏で話を聞いていた当の本人――アナモリタイキに。
 ナナクサという役者の被っていた面がとられたような気がした。

「回答期限は祭が終わるまででどうでしょう。お客人の都合もありますし」
「よっしゃ。それで行こう」

 タイキの父が威勢のいい声を張り上げる。
 早足気味の小さな足音が部屋から遠ざかっていった。