(十五)昔話


 祈念も呪詛も人の願い。思いの形。
 祈りによって神は力を持ち、行使する。

『お前の願いを叶えてやろう、娘』

 すべて燃えてしまえばいい。
 村人達が忌み嫌う禁域。炎の妖が息絶えた場所と伝わる苔むした岩。彼女がそこにしゃもじを供えたのは六十数年前の夜だった。
 その夜、娘の夢枕に立って、妖狐は云った。願いを叶えてやろう、と。
 だが、だがたて続けにこうも云った。

『ただし、その結果がお前の望みどおりとは限らないがな』





 川の水はその場に留まらない。流れ流れて入れ替わってゆく。
 さっき目の前にあった水はほんの一瞬後には別物だ。
 すべては移ろう。移ろいゆく。

「おかしいな。コクマルの奴、どこに消えたんじゃろう」

 川辺を一望してタイキが呟く。

「ついさっきまでおったんじゃがのう」

 次いで空を仰ぐものの、鴉の影はすでに見えなかった。

「……お前のヤミカラスならさっきどこかに飛び立ったぞ」

 すぐ隣で魚の身をつついていたヒスイが言った。

「む、すると屋台の菓子でも盗みに行ったか。あいつは甘いもんには目が無くてのう。特にモモンで作ったポロックが大好きなんじゃ」
「ポロック、か……」
「おまん、あのリザードにはやらんのか?」
「自分ではめったに作らないからな」

 ぼそり、と彼は無愛想に呟く。

「そうか」
「だがポロック、モモンと聞いて一つ話を思い出した」
「なんじゃ?」

 ヒスイは椀に盛られた白米をきれいに平らげ、椀をカタンと膳に置いた。

「……桃太郎の話だ」
「桃太郎?」
「そうだ。ストーリーは知っているか?」

 ヒスイが尋ねた。
 桃太郎。それはこの国において最も読まれ語られている昔話と言っても過言ではない。

「そんなの知っとる。大きなモモンから生まれた桃太郎が、ポチエナにエイパム、オオスバメをお供にして鬼退治する話じゃろうが」
「その通りだ。ちなみに土地がカントーになるとオオスバメがピジョンになったり、ポチエナがガーディになったりする。お供になった鳥ポケモンの種類を尋ねると答えた相手のだいたいの出身地方がわかるそうだ」
「へえ……」
「先生が、そう言っていた」

 そこまで言うとなんだかヒスイは黙ってしまった。
 どうやらタイキの反応が悪いのでこれ以上はどうかと思ったらしかった。

「……それで、なんじゃ?」

 そんな雰囲気のを察したのか少年は続きを聞いてやることにした。

「彼はポロックを使いポケモン達を懐柔(かいじゅう)した。共に鬼ヶ島に乗り込み鬼を退治する。そして自身の育ての親であるおじいさんとおばあさんの待つ家に鬼の宝を持ち帰る。これがこの物語の主だった筋書きだ」
「……カイジュウってなんじゃ?」
「良くいえば仲良くなること。悪く言えば物でつって従わせることだ」
「なるほど。この場合はポロックじゃな」
「そうだ」
「で、それがどうしたっちゅうんじゃ」
「あの時、先生は俺にこう言ったんだ。ヒスイ、お前はこのありふれた昔話をどう思うかと」

 ヒスイは食べ終わった膳を横によける。稽古に戻る時間だと言って立ち上がった。
 長屋を出る前に厨房に立ち寄り、軽く覗き込むと、

「……タマエさん、お昼ご飯ごちそうさまでした」

 と言った。
 竈を覗こんでいた老婆は顔を上げて、

「ん? あ、ああ。シュージとコースケによろしくの」

 と答えると、再び顔を戻して、竹の筒でフーフーと空気を送り込んだ。
 墨が赤く燃え上がる。まるで何かを思い出したかのように。
 炎がぼうっと勢いを増した。
 


「野の火だ!」

 最初にその名を口にしたのは。最初に叫んだのは、誰だったか。



 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ
 燃えよ、燃えよ、大地よ燃えよ

 蝉の鳴き止んだ雨降大社の夜。
 いつもの年より早く九十九の狐面を被ったシュウイチは詠った。九十九の声、炎の詩を。
 「火」が現れたのはちょうどその時だったと彼らは語る。

 今でも高齢の村人達はその時の光景を強く焼き付けている。
 それは火柱が立ったという表現が適切だった。
 雨降大社に集まった村人達のいくらかは直接に暗い空に現れたそれを見たし、暗い空を射るように照らした光に驚いて振り向く者も多くいた。

 見よ、暗き空現れし火よ
 火よ、我が命に答えよ

 "燃えよ"に続く文句に詠まれた通りの事象がそこには在った。
 発火地点から炎が四方に広がってゆく、舐めるように侵略するように領地を広げてゆく。

「野の火じゃあ!」
「なんちゅうことじゃ」
「野の火じゃ、九十九の呪いじゃ」
「おしまいじゃ、この村はもうおしまいじゃ」

 ある者は叫び、ある者は心底震え上がり、童子達は堰を切ったように泣き出した。
 彼らの多くがこう思った。醒めない悪夢のように続く凶作は妖狐九十九の呪いだったのだ。今まさに呪いが成就し、村が終わりを迎えるのだと。
 多くのものが混乱に陥り、舞台が中断したことは言うまでも無い。

「なんだ……? 何が起こってる……」

 泣き声や叫び声があちらこちらから上がる中、九十九の面を外したシュウイチは呆然とその光景を眺めていた。

「シュウイチ、貴様ぁ!」

 ぎゅうっと首が締め付けられる感触。
 気がつけば雨降役のキクイチロウに胸ぐらを掴まれていた。

「連日田を歩き回っておったのはこの為か! 貴様が呪いをかけおった! この村に呪いをかけおったんじゃあ!」

 キクイチロウの手はシュウイチの胸倉を掴みながらガタガタと震えている。
 そこには邪を払う戦士であり、豊穣を願う翁である雨降の仮面は無い。
 そこにいたのは妖狐九十九に恐れおののく一人の村人だった。

「いつからじゃ。いつから九十九に取り憑かれておった! 禁域に入ったあの時か!?」

 かつてタマエと二人で禁域に入ったあの時のことを蒸し返す。

「ちょっと、落ち着きなさいよ!」

 タマエは舞台に上がり、二人の間に割ってはいる。

「違うわ! シュウイチじゃない。シュウイチじゃ……」
「お前は黙っとれタマエ!」
「黙らないわよ!」
「お前はいつもそうだ! 何かあればシュウイチの味方ばかり、わしゃあいつも悪者じゃ」
「ちょっと、何よ! そんなの今は関係ないでしょう!?」

 タマエが顔を紅くして叫ぶ。

「とにかくこいつだ。こいつが……」
「違うわ」
「違うなら誰だと言うんだ」
「それは……」

 自分だ、と思った。九十九にしゃもじを供えた。この村に呪いをかけた。
 こんな村出て行きたかったから。
 すべて燃えてしまえばいいと思った。

『お前の願いを叶えてやろう、娘』

 背筋が凍った。
 九十九の声がはっきりと思い出される。
 精神が高ぶっていていた為に見た夢なのだと思っていた。
 まさか、まさか本当に現れるなんて。
 けれど現れた。詩にある通り暗き空に火は現れたのだ。
 キクイチロウを止めようと掴む手が震えていた。

「だいたいこの男は昔から信仰心が無かったんだ」
「やめて。シュウイチは違う!」
「二人とも五月蝿いぞ」

 ここに来てシュウイチがはじめて口を開く。その声は冷静だった。

「俺は稽古の通りに演じただけだ。憑かれてなんかおらんし、そもそも雨降も九十九も信じちゃいない。だが、それでお前の気が済むのなら好きに言うがいい」
「なんだと!」
「無様じゃなあキクイチロウ。タマエはともかく、おまんが慌ててどうするんだ。皆の注目する野の火の舞台じゃぞ?」

 たしなめるようにシュウイチは言った。

「これが九十九の仕業じゃと、野の火じゃと? なら雨降のおまんがなんとかしろ。次代の村長ならばこの場をまとめてみせろ」
「……」
「そげとも今年の雨降は腰抜けか? 九十九が怖くてこの場から動くことも出来ないんか」
「貴様!」

 キクイチロウはシュウイチを締め上げる手を強める。が、彼はいたって冷静だった。

「おまん、ヌマジローは連れて来ておるな?」

 目の前にいる相手がハッとしたと同時に、胸ぐらをつかんだ手が緩んだのがシュウイチにはわかった。
 彼は恋敵の前で取り乱したことを後悔していた。彼は突き放すようにシュウイチの胸ぐらから手を離すと集まった村人達に呼びかけた。

「皆落ち着くんだ! 水ポケモンをもっている者は舞台に集まれ! いや、水技が使えるポケモンならばなんでもいい!」

 村人の視線が戸惑いながらも集まった。
 何人かが舞台に上がって、ぼんぐりのボールから水ポケモンを出した。

「水ポケモンの無い者は火が回る前に、川の向こう側へ! 水ポケモンのある者はわしに続け!」

 そして今年の九十九を指指し言った。

「……それとシュウイチは拘束しておけ。憑いているかもしれん」
「キクイチロウッ!」

 タマエが叫ぶ。誰のお陰で頭を冷やせたと思っているのだこの男は、と。
 だがシュウイチは首を横に振ると、あえてそれを受け入れた。

「いいんじゃタマエ」
「でも……」
「今は村がまとまることが大事じゃ。格好つけさせてやらんと」

 雨降大社の長い石段をぞろぞろと村人達が降りていく。さきほどよりも水田がよく見渡せた。
 大地が燃えている。背丈の高い稲を次々に巻き込んで、次々に燃え移って広がっていく。炎の軍勢がこちらに向かってくるように見えて、彼らは恐れおののいた。
 石段を降りきった時、何匹かのジグザグマとマッスグマが彼らの前を走り去っていった。じぐざぐに、まっすぐに、走っていった。目指す先は明らかだ。
 集まった村人達が二手に分かれる。大きな集団はジグザグマ達と同様に川を目指す。そして、キクイチロウ率いる小さな集団が炎に立ち向かった。

「まさか本当の意味で雨降を演じることになろうとはなぁ!」

 当時はまだ珍しかった木の実で無いボールを握り締め、キクイチロウは自らを鼓舞するように言った。
 そのボールから繰り出されたのは大きなヒレとエラを持った両生類のようなポケモン、ラグラージ。小さい頃から一緒に育ってきたミズゴロウが立派に成長した姿だった。

「来るなら来い化け狐! 成敗してくれる!」

 叫ぶ主に呼応してラグラージが吼えた。

「ヌマジロー、雨乞いだ!」

 男は伝説を再現しようとするかように声を上げる。
 炎に染まった赤き地平に雨降の声が響いた。





「ナナクサがいないだと?」

 ヒスイが顔をしかめて言った。
 練習を終え、穴守家に戻ろうかというとき彼らは夜の演出の不在に気がついた。

「ああ、置手紙があった」

 ツキミヤがぴっと手紙を取り出す。

「あの野郎……よりによって人のポケモンを伝書スバメ代わりにしやがって」

 空が染まり始めた頃、稽古場の窓辺に見慣れた緑の毛玉がとまっていて、これを差し出したのだと青年は言う。
 こんなことをやる人間はこの村でナナクサしかいない。
 ツキミヤが手紙を開く。二人は手紙に走る文字を見た。しばし沈黙する。

「……すごい文字だな。筆か?」

 と、ヒスイが言った。

「ものすごいジェネレーションギャップを感じるのは僕だけだろうか……」

 同意するように、ツキミヤは漏らした。
 普段の人懐こい感じからは意外とも思える無骨な文字でそれは書かれていた。その筆跡には古本街に売っている数十年前にやりとりされた絵葉書に書かれた文字のような、そんな古めかしさがあった。

「達筆すぎて読めない」

 そんな文句をいいつつ、二人はなんとかそれを解読した。
 書かれていたはおおよそ次のような内容であった。


 コウスケとヒスイへ

 一日ほど出てくる。明日の夜までには戻る。
 稽古を空けてすまないけれど、これは僕達の目的を達するためには必要なことだから。
 あと、改変後の脚本がコウスケの部屋に置いてあるから二人とも読んでおくように。
 ヒスイはともかく、コウスケはちゃんと台詞覚えるんだよ。
 帰ったら試験するからよろしく。

 七草周二


「……余計なお世話だ」
「まったくだ」

 二人は呆れたように言った。

「でもまぁ、しかたない……台詞だけは覚えておいてやるか」
「うるさいしな」

 意見が一致した。諦めたように二人はため息をついた。





 ぼちゃん、ぼちゃんと川の中に何かが落ちる音がする。
 流れの中に足を踏み入れるその前で、九十九役の青年は立ち往生した。
 赤く染まった煙交じりの空に飛んだものが二つあった。

「こっちへ来るな! この狐憑きが!」

 両腕を拘束されたまま、自由にならない身体をくねらせやっとの思いで起き上がったシュウイチに、先に川を渡りきった村人達が投げつけたのは石の礫と、拒絶の言葉だった。
 キクイチロウは村人達にシュウイチを拘束するように命じた。おかしなことをしないように、と。シュウイチはただ黙って受け入れた。いたずらに場を混乱させたくなかったからだ。
 だが、彼らは打ち捨てた。火の手の届かない川の前でシュウイチを投げ捨てて、自分達だけが川を渡ったのだ。
 ぼちゃん、ぼちゃん、どぷん。
 投げた石が飛沫を上げ、鈍い音を立てて沈みゆく。
 川を挟んで彼らは対峙する。飛んでくるのは石の礫と言葉の矢だ。

「こっちに来るな!」
「わしらを呪い殺す気じゃ!」
「お前のせいだ。お前の所為で……!」

 青年のわずかな一挙一動に彼らは過敏に反応した。
 シュウイチが少しでも動くようならその度にわめきたてるのだ。

「来るな!」
「来るな」
「化け物が! 来るな」

 ぼちゃん、ぼちゃん、ぼちゃん。
 来るな、来るな、来るな。来るな、化け物め。
 礫が飛ぶ。ふっと耳の横を通り過ぎたかと思った次の瞬間、ごつんと別の礫が青年の額に当たった。
 川を越え、向こう岸から届いた礫がからんと川原に落ちる。
 つうっと生暖かいものが滴り落ちたのがわかった。

「シュウイチ!」

 罵倒と拒絶の嵐の中に若い村娘の声が混じった。
 対岸に立つ、血を流し呆然とする青年を見る。
「やめて!」と、彼女は叫んだ。けれどそれは狂乱の声の洪水に飲まれて誰の耳にも届かなかった。
 礫と言葉の矢は止まらない。対岸に立つ青年に向かって飛び続ける。
 いてもたってもいられなくなり、彼女は火の手の立つ対岸に飛び出さんとするが、烏合の衆の誰かが腕を掴んだ。
 どこへ行くのだ、と。

「離して!」

 と、タマエは叫んだ。

「どこに行く気だ」
「決まってるでしょ、シュウイチのとこよ!」
「なんだと!? お前はあれの肩を持つのか!」

 驚きの声が上がった。
 戸惑いと怒りの声が混じっていた。

「お前まで頭がおかしくなったか」
「近づいてはいかん!」
「焼き殺される」
「九十九が憑いておるんじゃ!」

 口々に彼らは言う。
 いいか、あれはもうわしらが知っておるシュウイチじゃあない。妖狐九十九が憑いとるんじゃ。お前も見たろう。あいつが炎の詩を詠んだ途端に火が現れたのを。九十九の呪いじゃ。シュウイチは九十九に魂を売り渡してしもうたんじゃ。
 悪いことは言わん。近づいてはならん。
 そう言って彼らはなおも石の礫を投げ続けた。
 川のあちこちから飛沫が上がる。ぼちゃん、ぼちゃん、と音がして、流れの上に飛沫が上がる。

 来るな、来るな、化け物め!
 来るな、来るな、来るな、来るな!
 ぼちゃん、ぼちゃん……

 村の娘は思う。
 青年は、シュウイチはただ、言われた通りに舞っただけ。言われた通りに詠い、踊っただけなのだ。それだけなのだ。
 対岸にたっているのは血を流しているたった一人の青年だ。では一体彼らは何を見ているというのか、ろくに焦点も定まらないまま、敵意むき出しのその目で青年の背後に九十九の影でも見ているとでもいうのだろうか。
 彼らの目は恐怖のせいでひどく乾いていて、それが対岸の青年に向け大きく大きく見開かれていた。
 その目は、異様な恐怖と狂気を併せ持った凄みを帯びている。彼女は全身に悪寒が走るのを感じた。

「…………だわ」

 言葉が漏れる。その声は震えていた。

「おかしいのはあんたらのほうだわ……!」

 そういって彼女は自分を掴む腕を振り払った、再びつかみかかったものには噛み付いて抵抗した。
 ばちゃりと川の流れを踏んで、燃え立つ対岸に向かって走り出した。
 もう一瞬だって彼らと同じ岸には立っていたくない、そう思った。
 
「シュウイチ、逃げて!」

 流れを両の脚で掻き分けながら、川の中腹に立って彼女は叫んだ。

「逃げて! こんなやつら相手にしたらいかん。早く目の届かんとこへ!」

 このまま行けば殺しかねない。そう思った。こいつらはシュウイチを殺しかねないと。
 殺したところで自分達が助かる見込みも無いのに、彼らは自分達が助かるためにシュウイチを殺しかねない、と。
 彼女は川を反対側に渡るべく進む。今彼女にとって怖いものは、シュウイチでも、野の火でも、九十九でも無かった。炎の無い対岸で吼える烏合の衆だ。
 対岸に火が燃えている。夜空を赤く染めている。野の火がすべてを飲み込もうとしている。

『お前の願いを叶えてやろう、娘』

 あの時、そう九十九は云った。だが同時にこうも言った。

『だが、その結果がお前の望み通りとは限らないがな』

 彼女は願った。こんな村出て行きたいと。すべて燃えてしまえばいいと。
 だが違う。望んだのはこんな結果ではなかった。彼女は、今、目の前で礫と言葉の矢を飛ばされているこの青年をこんな目に遭わせたいわけではなかった。
 呆然とした。ああ、なんという浅はかさであろうか。
 一番恐ろしいのは、九十九でも、野の火でも、村人達でもない。こんな願を掛けた自分自身ではないか――。

「わたし、私は、」

 脚が止まってしまった。シュウイチの元に行って自分は何と声をかけるつもりなのか。自分にそんな資格があるのか。彼をこんな目に遭わせた自分に……。
 ぼちゃん、とタマエのすぐ横に礫が落ち、飛沫が上がる。罵倒の声は止まらずガンガンと頭に響いた。
 炎は止まらない。夜の闇を赤く赤く染め上げる。

「逃げて!」

 川の中で動けないまま、彼女は叫んだ。どこへ逃げろというのだと自問しながら。

「逃げて……」

 シュウイチはタマエと村人達に背を向けた。自由にならない両手をそのままに、炎が燃える方向に向かってたどたどしく歩き出す。脚が動かない。彼女は追いかけることが出来なかった。

「あ……あ、あ…………」

 振り返らない青年の背中がまるで自分を見捨てたように見えた。
 言葉にならない言の葉。かけられない声。それは青年の姿が煙の向こうに消えた後で激しい嗚咽となって現れた。
 ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさ……
 口がたどたどしく動作だけを繰り返す。喉から出る音は荒い呼吸ばかりだった。
 苦しい、苦しい、苦しい。胸が焼けるように、締め付けられるように。これは何だろう。ここにあるのは彼をこんな目に遭わせた罪悪感だけなのだろうか。
 ……いいや、違う。
 刹那、彼女は到達に悟った。
 ああ、そうか……たぶん……嫌われたくなかったのだ、と。

 馬鹿だ、そう思った。
 こんな時になって、胸の内の本心に気が付くなんて。私は馬鹿だ。

「焼け死んでしまえ、狐憑きめ!」
「二度と姿を見せるな!」

 背中ごしに罵声が響いた。彼女ははっと我に帰る。見上げた夜空が赤く染まっている。

「……やめて」

 と声が漏れた。
 それは村人達への言葉だったのか、あるいは九十九への言葉だったのか、彼女自身にもわからなかった。たぶん両方だったのだと思う。

「……お願い……もうやめて」

 この世とは思えぬ空を見上げて、彼女は言った。
 ぽつ、と何かが頬を叩いた。

「え……」

 ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。





 沸き立つ湯気の先に満天の星をたたえた星空が見えた。
 傍らにはなぜかカゲボウズが一匹、湯船から頭を出してぷかぷかと浮いている。ツキミヤはいろいろ言いたいことはあったのだが、いい湯だわぁとばかりにふや〜っとした人形ポケモンの顔を見て、やはりいろいろと諦めたらしい。今更湯船に沈めるようなことはしなかった。
 平和だ。広い湯船の中にぽつんと座ってそのようにツキミヤは思った。
 宿題は出たにしろ、今夜だけでもあの猛特訓が無いと思うとそれがこの上なく幸せだった。
 が、それも束の間、突然カゲボウズがぴくりと硬直したかと思うと、ぎらりと三色の瞳を光らせた。誰かがこっちを見ているという合図だった。
 なんだ、また"彼"か……。
 そんなことを思った。

「性懲りも無いコだね」

 青年はくすっと笑みを浮かべる。

「大丈夫、何もできやしないさ」

 カゲボウズを安心させるように言った。
 直後、浴場の扉をがらがらと開ける音がした。湯気の向こうから何かが青年のほうへ向かってきて、やがて小さな影が現れた。ヒノキでできたと思しき、洗面器を片手に持っている。

「なんじゃい。コウスケが先に入っておったか」
「やあ、お先に失礼らせてもらってるよ。タイキ君」

 青年は家の主の孫に挨拶をした。
 タイキは湯船から湯をくみ上げるとざあっとかぶり、ツキミヤの隣にどぷんと沈んだ。
 入った時に起こった波が湯船に浮かぶカゲボウズを一瞬おぼれさせたが二人とも知らん顔だった。

「練習はおわったんじゃな。ヒスイは一緒じゃないのか」

 そんなことを尋ねてくる。

「ああ、彼はみんなでお風呂入ろうとかそういうタイプじゃないからね」

 出会った晩に焼き殺すなどと物騒なことを言っていたのを思い出す。

「そうかー、残念じゃなぁ。昼間の桃太郎の続きでも聞いたろかと思っていたんだが」
「桃太郎?」
「そうじゃ。コクマルはどこぞほっつき歩いているかわからんし、ヒスイはおらんしつまらんのう」

 タイキは本当に残念そうに言った。
 あの時、ヒスイは何を言おうとしていたのだろうか。それが妙に気になっていた。
「つまらなくて悪かったね」と、ツキミヤが笑う。
「別にそういう意味じゃないわい」と、タイキが答えた。

「なあ、コウスケは桃太郎の話は知っとるか」
「そりゃあね、この国の男子が聞かされる昔話の定番じゃないか」
「そうじゃよな……知らんわけあるまい」
「それがどうしたんだい」
「じゃ、コウスケは桃太郎のことどう思う?」
「そりゃまたおかしな質問だな」
「やっぱりそう思うか」

 タイキはうーんとあごに手をあてた。あの時、ヒスイは何を伝えたかったのだろう。くびを捻ってみてもさっぱり想像がつかなかった。
 ツキミヤはざぶんと音を立てると、湯船の船頭にひじをつく。しばらくの沈黙ののち、こう言った。

「……そうだな、これは僕の意見じゃないんだが、ひとつおもしろい話をしてあげよう」
「なんじゃ」
「桃太郎をどう思うかだよ」

 青年はすっと腕を伸ばすと、湯船の中ですっかりのぼせているカゲボウズをつまみあげた。

「昔話はね、昔の人達が何を考えていたかを、彼らが何に喜び何に悲しんだのか。それを知るための重要な手段だよ。けれど話も時を経て話は変わっていく。場合によっては都合よく作り変えられるものなのさ」
「? 何が言いたいんじゃ」
「そのまま受け止めてはおもしろくないってこと。もっと想像力を働かせないと」
「想像力……」
「そう、たとえば鬼の立場になってごらん。違う桃太郎が見えてこないか」
「コウスケもヒスイも難しいことを言うんじゃな。桃太郎は桃太郎じゃろうが」

 少年はますますわからないという顔をした。

「桃太郎に関する一説にこんなものがある。その説を唱える学者が言うには桃太郎は征夷大将軍なんだよ」
「セーイタイショウグン?」
「すごく昔の軍隊の一番えらい人って言えばわかるかい? 後の世では、政治をも行うことにもなる役職さ。当時の征夷大将軍の仕事は周りの小さな国をまとめて一つにすることなんだ。これってまとめられる側から見れば侵略でしかないんだけどね」

 湯舟から掬い上げられたカゲボウズはぼうっとしている。
 しょうがないなという感じで、彼は湯船から上がると、蛇口をひねって冷水を洗面器に溜めた。
 タイキはしばらく黙っていたが、やがて、

「それじゃあ、お供のポケモンと鬼っていうのはなんなんじゃ」

 と言った。

「いい質問をしてくるじゃないか」

 予想以上の反応にツキミヤは少し嬉しくなる。

「ポケモンっていうのは単純に一匹を表さない。すでに統一を済ませた国の人々や彼らの持っているポケモン達だ。鬼は自分達の言うことを聞かない者をひっくるめて鬼と呼ぶんだ。従わない者はみんな鬼だ。本当に角が生えているかどうかは関係が無い」
「そんならポケモンにやったポロックってえのは」
「言うことを聞いて貰うにはそれ相応の見返りがなくちゃあね」
「……カイジュウか」

 タイキはひどく納得した様子だった。

「へえ、難しい言葉を知っているんだね」

 感心してツキミヤは続ける。そして問うた。

「タイキ君、もし君ならどうする」
「どうするって、どういうこっちゃ?」
「君がもし鬼だったら、桃太郎に従うかい。従えば見返りにポロックが貰える。けれどそのポロックが美味しいとは限らないよ。黒い色のまずいポロックかもしれないし、ちらつかせるだけで一口だってくれないかもしれない。そういうことを考えたことはあるかい」

 ツキミヤはいつになく楽しそうだった。

「桃太郎の狙いは鬼の持つ宝なんだ。じゃあ、鬼の宝って何だと思う? 君ならポロックと引き換えに宝を渡すかい?」

 溜めた冷水をカゲボウズにかける。
 ぱっちりと目を覚ましたカゲボウズは飛び上がり、ぶるぶるっと震えて飛沫を飛ばした。

「少なくとも僕にこの話をした父さんなら、渡さないだろうな。どんな上等のポロックが目の前に置かれても、宝を差し出したりはしない。たとえ鬼や化け物と呼ばれても」

 別の洗面器にいれてあった手ぬぐいをカゲボウズの頭上に落とす。
 ふわりと包み込んで抱き上げる。

「だからね、僕はそういう風にありたいんだ」
「……、…………」

 タイキは青年を見つめるばかりで何も言わなかった。
 少年の目にも入った青年の胸の傷。それが彼の決意を物語っているように見えたのだ。

「まあ、そのなんていうのかな? ノゾミちゃんと仲良くしたいなら、誘えばって話」

 先ほどのどことなく重苦しい雰囲気から一変、青年はからかうように言った。
 突然、そんな話題を振られて少年ははげしく動揺する。
 ぶわっとオクタンのように赤くなったのが見て取れた。

「たとえ、何企んでいるの変態と言われても」
「なな、ななななな何を言い出すんじゃ! 桃太郎とノゾミは関係なかろーが!」

 広すぎる風呂場にタイキの声が木霊する。

「そうだな。まずはお昼にでも誘ったらいい。君の家も出店しているんだからご馳走してあげたらどうだい?」

 青年はそこまで言うと、タオルに包まれて南瓜祭の仮装のようになったカゲボウズと共に煙の向こうに消えていった。

「鬼が島に突っ込まないと宝は手に入らないよ」





 ぽつり、ぽつりと雨が降る。

「くそ、やはり、伝説のようにはいかんか……」

 悔しそうにキクイチロウは舌打ちした。
 雨乞いは高度な技だ。水を司るポケモンといえど一度に大量の雨粒を、それも広範囲に降らせるには相当の地力を必要とする。燃え広がる野の火を消し去るのは水ポケモンといえど容易なことではない。だからこそ野の火を払うことの出来る雨降は特別であり、神と呼ばれるのだ。
 これだけの溜めと時間をかけて、小雨。これが今の彼のポケモンの限界だ。広範囲に力を行き渡らせるのは彼の考えている以上に消耗を強いるものであったのだ。

「すまんのうヌマジロー。きばっとくれ」

 彼は、汗をぬぐう。傍らにいるラグラージを励ました。
 小雨の中、他の水ポケモンとその持ち主達が少しでも進行を食い止めようと局地的な火消しにあたっているのを彼は一歩遠くから見わたす。時折、声を張り上げては、精鋭たちを鼓舞した。
 負けるわけにはいかない、そう言い聞かせた。
 俺は雨降なのだ。ゆくゆくはこの村を治めていく男なのだ。俺は。
 状況はどうだろうと、雨降は考える。気のせいかも、そう思いたいだけかしれないが、思いのほか先ほどより炎に勢いがないような気がする。

「いける……か?」

 確かめるように言葉を口にした。
 するとその声に答えるものがあった。

「いけるかじゃない。いってもらわにゃ困るんだ」

 雨降が振り返れば、四、五歩先に立っていたのは今年の九十九だった。
 
「シュウイチ…………!」
「よお、雨降」

 青年がフッと笑った。その顔には赤黒い何かが流れた跡があった。ぬぐうことも出来ず、そのままになっているのが痛々しい。

「川を渡らしてもらえなかったでな、戻ってきてしもうたわ。腕はこのとおりだし、石は投げられるし、タマエは泣くわで散々じゃった……。ところでこの雨を降らせとるんはヌマジローか? やりおるの」
「…………、……」

 キクイチロウは答えなかった。ただ無言でシュウイチを睨みつけた。
 それは内心に激しく動揺している己を悟らせまいとしての行動だった。
 何で戻ってきたのだ。そう思った。

「……なんだ。おまんはまだ疑っとるのか」

 呆れた様子で青年は云った。雨降は答えない。
 こいつは違うのだ。頭ではわかっているのに、震えが止まらなかった。
 九十九……九十九、九十九………………つくも。
 滅びてもなお、村を恐怖に陥れる炎の妖。
 倒されるべきだ。九十九ならば、九十九ならば雨降である俺が倒さなければならない。今年の九十九は……シュウイチだ。
 もしも、ここで……。
 キクイチロウはすうっと人差し指をシュウイチに向けた。

「……皆……いるぞ。九十九はここに」

 何かに操られたかのように口から濁音が響いた。
 皆ここだ。九十九はここにいる。こいつを退治すれば皆助かる。
 その声は震えていた。

 もしも今ここで…………もしも、今ここでこの男を殺してしまっても誰一人咎めはしないはずだ……。

 彼は認めた。ずっと目を逸らしていた、気付かない振りをしていたことを、認めた。
 ずっとシュウイチに嫉妬していた。シュウイチを憎んでいたことを。
 人より多くのものを持って生まれてきた。生まれながらに約束された地位。裕福な家。それなのに同じ年に生まれたこの男はどうだ。何も持たずに生まれてきたのに、気がつけばすべてを持っているじゃないか。
 皆に慕われるこの男が嫌いだった。全てを知り、何でもできるこの男が気に喰わなかった。自分がどんなに欲しくても手に入れられないものを、この男は何もするでなく。
 キクイチロウは知っている。村一番の器量よしのあの娘が、なぜ自分との縁談を断ったのか――。
 ああ、なんだって遠ざけたのに舞い戻ってきてしまったんだ。俺の前に。
 シュウイチ、俺は。

「こいつだ。こいつが……」

 その時だった。ラグラージが咆哮を上げた。ざあっと一瞬だが雨が強まった。
 キクイチロウはハッと我に返る。
 視線の先で雨に濡れた青年が、自分を指差す男を見つめていた。青年の瞳は波紋ひとつも波打たない水面のような、感情の感じられない冷めた色だった。雨粒がするりと流れて、顎から滴り落ちる。
 キクイチロウはぐっと拳を握ると青年に背を向けた。
 炎の燃えるほうに向かい黙って走り出す。決して振り返らなかった。
 どうしようもない敗北感が胸の中を吹きすさんでいた。

「皆集まれ! あの田の境界でもって食い止めるんだ」

 彼は叫んだ。
 舞台の続きを。中断した舞台の続きを演じなければいけない。
 負けるわけにはいかない。雨降は炎の妖に敗北してはならないのだ。

「皆一列に並べ! 決して炎を通すな! これ以上の侵略を許すな!」

 小さな農道を挟んだ田の境界線。一列に並び、彼らは炎を迎え撃つ。
 この境界のことを彼はよく知っていた。自分にとって目障りな輩がよくうろついている場所だからだ。
 因縁めいている、よくできた脚本ではないか。そのように彼は思った。
 記憶に間違えがなければここはちょうど"境目"のはずだ。

 ラグラージが吼える。水ポケモン達が呼応するように雄たけびを上げた。
 今宵、男は雨降となった。
 雨が降る。天よりの水が金色の大地を濡らしていく。

 降らせ 降らせ 天よりの水
 降らせ 降らせ 天よりの水

 見よ、空覆う暗き雲よ
 雲よ我が命に答えよ

 降らせ雨を 降らせ雨を 消え去れ炎よ
 降らせ雨を 降らせ雨を 消え去れ悪しき火

 炎の詩は、雨の詩によって打ち消されなければならない。



 結果として、火は消し止められた。
 雨のおかげだったのか、いつのまにか炎の勢いが落ち始めたからか。真相はよくわからない。
 ただ村人の多くは、今年の雨降を賞賛した。この男が村を救ったのだ、と。

 けれどしばらくの間、その名残は村に留まっていた。
 煙がすっかり晴れてしまうまでに数日を要したと彼らは記憶している。
 だが煙が晴れたその後も、炎を呼んだ娘、雨を降らせた男のその中で、何かがずっとくすぶり続けていた。





 野の火。
 遠い遠い昔、田畑を炎の赤で染め人々を苦しめたという妖狐九十九を豊穣の神、雨降が打ち倒す、この村の伝承(いいつたえ)。
 それはいつしかその物語は祭の儀式となり、村の石舞台で上演されるようになった。より一層の豊穣を願って。
 結末はお約束。炎は雨に打ち消されるのだ。火が水に消されるのは自然であり、村人にとってそれは約束された安心できる結末である。
 だが、二人の青年は脚本を広げる。別の結末を知るために。彼らが見るのはもう一人の青年が書き換えたもうひとつの物語。それはまだ三人だけの秘め事、共犯者達の秘密。
 その脚本の中で、妖狐九十九は雨降を打ち倒した。

「恥を知れ、偽の神め」

 そう九十九は云った。

「この土地から立ち去れ。元よりここは我ら一族の土地。ここの神は私だ。雨降ではなくこの九十九」

 そうして九十九は謳う。勝利を。毎年謳い踊る雨降の代わりに。
 彼らは詩の載る次のページを開いた。

「……!?」

 二人の手が止まった。
 どこかで見たような文字の羅列だったからだ。

「炎の詩そのままじゃないか、芸が無いな」

 手抜きもいいところだとばかりにツキミヤが言った。

「いや待て」

 そう言って脚本のある部分を指差したのはヒスイだった。

「よく見てみろツキミヤ。この文字と、この文字がオリジナルと入れ替わっている」
「……本当だ」

 炎の詩のところどころに見られる文字の入れ替え。それなのに詩の韻に変化はなく、今までの練習で十分にカバーできる内容であった。何より青年を驚かせたのは、その内容の変化だ。

「驚いたな。二つの文字を入れ替えるだけでこれだけ詩の意味が変わるとは」

 ひどく感心した様子でヒスイが唸った。

「言葉というのは興味深いな。それにこの解釈は面白い」
「ああ」
「先生にも教えたい。これは新しい九十九像だ」
「しかも、だ。収穫祭の意味を壊さない内容になっている」

 ツキミヤも納得した。ナナクサが書き換えたい内容とはこのことだったのか。これならタマエも喜ぶに違いない、そう思った。祭りを壊しさえしなければ、これは今年のサプライズだったなどと説明できる。観客の支持を得られれば予想される批判はかわせるかもしれない……。

「でも待てよ」
「なんだ」
「文字を見ている僕達はいいが、聞こえる音自体はほとんど一緒なんだぞ。イントネーションもこれといって変わらない。字幕でも出ない限り、観客は意味を理解できないんじゃないか?」

 意味が通じないのであれば、脚本を改変する意味はない。
 すると、ヒスイが冷静に言った。

「それは奴なりに考えがあるんじゃないのか? 今ここに居ないのはその準備の為だと思うがな」
「そうか。たしかにあいつのことだから、それなりの演出を考えているのかも……」

 ツキミヤはうんうんと頷いた。
 するとヒスイがすっとツキミヤに脚本を押し付けた。

「なんだい」
「そんな訳だから、せいぜいちゃんと台詞を覚えることだ。俺はほとんど台詞がないからお前にやる」
「……」
「心配するな。あのカメックスを倒す時はちゃんと手伝ってやる」

 そう言ってヒスイはすっくと立ち上がった。
 すたすた部屋の出口と歩いていき、襖を開ける。

「どこに行くんだよ」
「風呂だ。個人的にやることもある」

 そう言ってぴしゃりと襖を閉めた。
 あいかわらず無愛想というかつれないやつだ、そう思いながら青年は頭をかいた。
 再び脚本を開く。ナナクサが五月蝿いからとりあえずは脚本を覚えなければなるまい。だが……
 あの雨降とカメックスを倒すところまではともかく……

「それ以降は正直意味が無いな……」

 くっくと青年は低い笑いを吐き出した。
 九十九は云っていた。舞台上で九十九が雨降を倒したとき、歴史が変わる、と。私は滅びず実体を持つと。
 つまりその後は本物が本物の脚本を演じることになる。伝統的な脚本でも、今手元にある脚本もない、九十九自身が望む脚本を。

『私の炎を思い出させてやりたい』

 そう妖狐は云っていた。
 そこにあるのは紅い赤い炎の海だ。あの金色の海は炎に飲まれる。九十九の欲望のままに……。すべては灰に帰す。幾重の月を重ねて実った金色の粒、人々の願い。それら全て。脚本を持つ手に汗が滲んだ。
 ……いいのか? 本当に。このまま妖狐の望むままに演じてしまって本当にいいのか。
 青年の心の内に少しだけ迷いが生じていた。




 山から風が吹く。よく伸びた緑色の稲をさわさわと揺らす。稲はよく成長していたが、それが花となりやがて結実する兆しは一向に見られなかった。
 野の火は消えた。雨降によって野の火は流された。けれど村の抱える問題までが共に消え、流されたわけではなかった。
 人々は再び祈りの日常へと舞い戻っていった。祈りが届く様子は無かったが他にやることもない。

 そよぐ緑の海のその中に、黒く焦げた波の立たぬ場所があった。神事が執り行われたあの夜に起こった炎、それが舐めた傷跡だ。その場所を一望するように一人の青年が立っている。今年の九十九だった。縄はかけられておらず、もう血も流れていなかったが、その顔に生気はない。
 ざくざくと農道を通って誰かが近づいてきたのがわかったが、振り返らなかった。

「……シュウイチ」

 背後から声がかかる。

「タマエか」

 力なく青年は返事をした。
 本来ならば水面越しに二人の表情が映ったろう。しかし今は見ることが出来ない。

「いいのか、俺に近づいて。今や俺は妖怪、村じゃ腫れ物扱いだ」
「見てる人なんかおらん。みんな大社にいっちまった」
「……そうじゃな」

 黒く焦げた稲の残骸をその目に焼きつける。

「皆、誰かのせいにしたいんだ。何か悪いことがあれば九十九のせいさする。米が実らんのは九十九のせい。田が焼けたにも九十九のせい。真実を探ろうとはせん。そう考えるのは楽だからだ。だから雨降なんぞ下らないものにすがる……」

 青年は今言える精一杯の不満を焦げた田の肥やしにした。

「シュウイチはただ舞っただけだわ」
「当たり前じゃ」

 シュウイチが静かに言った。だが、タマエはびくりとした。
 私のせいだ。そう思った。

「し、シュウイチは……これから、どうするつもりなん……?」

 タマエは恐る恐る尋ねた。

「そうだな。次の田植えの次期まで出稼ぎに出よう思てんねん。村ではこんな扱いやし、何より田んぼがこんなんじゃな」
「え……?」
「なんじゃタマエ、気付いておらなんだか。今回の大火で黒焦げになった大部分は俺んちの、穴守の家の田なんだよ」

 そう言われ、タマエははっとした。
 迂闊だった。各々の家の境界くらい知っていたはずなのにそんなことにも気がつかなかったとは。
 あの時、キクイチロウ達が必死で炎を食い止めたその境界。それは穴守の家の田と他の家の田を区切る境界であったのだ。
 その心中は察するに余りあった。目の前にあるこの風景のように荒廃しているに違いなかった。
 田に水は満ちておらず、土は乾き始めている。シュウイチの目からは涙さえ出なかった。

「……わかっておった。今年の稲はもうだめだと。けど悲しいなぁ」

 ぎりりと胸を締め付けられた。よりにもよって。よりにもよって……!

「シュウイチ、ごめん。ごめんなさい……私……私……」

 タマエは手で顔を覆うとわっと泣き出した。
 私の所為だ。私の……。

「何でおまんが謝るんじゃ」

 力なくずっと黒い大地を見つめていたシュウイチだったが今のでさすがに振り返った。
 シュウイチは何も知らない。ただ思った言葉を口にしただけだ。無論、タマエを責めようなどと思って口にしたわけではなかった。

「泣くなよタマエ。俺はしばらくいなくなるけども、その間に病気に強い種もみを捜してこようと思う。来年はいろんな種類の米を育ててみよう。いくらかは成果があがるかもしれん」

 そういってシュウイチはタマエの頭を撫でた。小さかったあの時のように。それでもタマエはしばらくの間泣き続けていた。
 けれど空は青く青く晴れて、村を囲む山々の間を蝉の合唱が木霊して彼女のすすり泣く声を掻き消した。
 こんな村出て行きたかった。
 けれど待ってみようと彼女は思った。シュウイチは諦めていない。少なくとも来年の田植えの時期にシュウイチが帰ってきて、その成果を見届けるまで、彼女は待ってみようと思ったのだ。





 穴守の家は広い。ヒスイと別れたツキミヤは少し頭を冷やそうと、この家を歩き回ってみることにした。始めて訪れた時に入ったあの絵のある部屋の前を通り過ぎぐるぐると歩き回る。そのうちによく整えられた広い庭が目に入った。青年は軒先の端のほうに腰掛けると庭を見やる。そこは松や苔といった地に根を下ろす緑に彩られ、りーりーという虫の音と明かりの灯る石灯籠に演出された空間だ。
 ゆったりとした時間が流れている。夜の練習が無いだけでこんなにゆっくりしたものなのか。虫の音が心地よい。青年はしばしその世界に身を委ねた。
 ふと、羽音が聞こえた。屋根の上のほうから何者かが軒先に降り立ったのだ。
 
「どうしたの」

 と、青年は尋ねた。そこには見慣れた緑色の毛玉。そしてその少し後ろに黒いぼさぼさの麦藁帽子の姿があった。入浴中に言葉を交わした少年のポケモンだ。

「ああ、その子……友達になったんだ?」

 ツキミヤが尋ねる。タイキのポケモンであるヤミカラス。たしか名前をコクマルと言ったはずだ。緑の毛玉はほら行けよと言う様に、小さな身体で後ろから黒の麦藁を青年の前に押し出した。
 一方黒色は迷いがあるらしく、緑と青年の間で、視線を交互に投げかけるばかりでなかなか、視線が定まらない。
 すると青年はくすりと笑みを浮かべ、

「だいたい想像がつくよ。君が何をしに来たのか」

 と言った。
 すると矢で射られたかのように鴉は固まって、観念したかのように青年を見た。

「君は視える子なんだね」

 と、青年は続ける。
 人間でこれが視えるのはほんの一握り、少数だ。だが、より自然というものに近く、ゆえに神的なものに近いポケモンには視える者が多く居る。
 だから多くの場合、青年はポケモンに嫌われる。見えていないポケモンですら何かを感じるらしく、あまり近寄ろうとはしないのだ。

「僕がはじめてあの家に来た時、窓の外から、湯煙の向こうからずっと僕を観察していたのは君だろう。タイキ君はただ寝室を覗こうとしたに過ぎない」

 あの夜を思い出しながら青年は言った。

「あの時だけじゃない。君は可能な限り僕を監視していた。シュウジと村を巡っていた時、舞台の練習をしていたとき、さっきのお風呂の時…………カゲボウズ達の食事の時」

 鴉がぎくりとしたのが分かった。
 そう。ポケモン達はは知っている。感じ取っている。青年が自らの中に飼っているもの。彼らを満足させるために、どんな行為を繰り返しているのかを。

「おいで」

 そう言ってツキミヤは右手を差し出した。
 びくりと鴉が固まり、羽毛は縮まって細身になる。
 交差する一羽と一人の視線。
 僕という人間を推し量りに来たんだろう君は。青年の瞳はそう語りかけていた。
 僕の真意が知りたいんだろう。だったら実際に傍に来て僕に触れてみるといい、と。
 青年は鴉を誘う。ヤミカラスがおそるおそる青年のほうへ歩み寄った。
 青年は腕をを伸ばすと細く長い指で黒く艶のあるの羽毛に触れた。赤い瞳の黒い鳥ポケモンはぎゅうっと目を閉じる。ツキミヤは鴉の細い首に蛇のように指を絡ませてから、麦藁帽子のつばをそっと撫でる。不安げに瞳を開き青年を見る鴉は震えていた。

「僕が、怖いかい?」

 鴉の体温と拍動を感じながら、楽しげに、けれど少しだけ悲しそうに青年は笑った。

「けど、僕が君に悪意を持っていないのはわかってもらえただろう?」

 そこまで言うと指を離し、束縛から鴉を解放してやった。
 鴉が何かを訴えるように青年を真っ直ぐに見つめている。

「家族思いなんだね、とても」

 と、青年は言った。

「心配しなくていいんだよ? 僕はこの家の人達に何もしない。約束するよ。でも……そうだな」

 鴉の瞳の奥を覗き込むようにツキミヤは言った。

「その代わり君も一つ約束してくれないか」

 鴉はなんだ? とでも言いたげに首をかしげた。

「ノゾミちゃんに、水の石を返してあげて。ね?」

 すると鴉はそんなことかと少し安堵したような表情になって、やがて遠慮がちに背を向けて翼を広げると飛び去っていった。

「信用が無いね、僕って」

 闇に消えて見えなくなった鴉を見送って、青年は緑の鳥ポケモン、ネイティに語りかける。

「彼、君に相談してきたんだ?」

 ネイティがこちらを見た。
 それは無言の肯定だ。

「君が傍にいてくれるだけでポケモン達はずいぶんと安心してくれるみたいだ。僕が嫌いな事は変わらないにしろ、ね」

 青年は思う。さっきのはコミュニケーションがとれているほうだ、と。
 ネイティがぴょんぴょんと跳ねて近寄ると、ひょいっと青年の膝に乗ってきた。
 青年は手のひらで包み込むようにして膝に乗った小さなポケモンに触れる。暖かかった。

「君には感謝しているよ」

 そう言って、頭を撫でてやった。ネイティはすっかり暗い時間のせいか眠かったらしく、やがて目を閉じると、膝の上で寝息を立て始めた。鳥ポケモンのくせに無防備な子だなと思う。
 そして青年はふと思い出した。そういえば名前を考えていなかった、と。

 ――きっと名前をつけてやれば喜ぶぞ

 老婆の言葉が思い出される。

 ――コースケ、名前はな、大切な人に呼んでもらう為にあるんじゃ

 少し偏屈で頑固なところもあるけれど、自分によくしてくれたタマエ。思えば、ここに来てから彼女には世話になりっぱなしだった。好意とはいえ、本当によかったのだろうか。自分はタマエに何か少しでも返したのだろうか。
 ナナクサはタマエを喜ばせるために脚本を変えたいと言った。
 では、自分は? 自分は何の為に九十九を演じるのだ。

「ふん、何を迷っているんだ。答えなんか最初から」

 決まっているじゃないか。

 ――僕はこの家の人達に何もしない。約束するよ

 先ほどの自分の言葉が思い出された。ああ、何故あんなことを言ってしまったのだろう。迷いが生じるようなことを。
 青年は再び自問した。





 どこからか戻ってきたナナクサは禁域に立っていた。
 片手には何か丸いものを握っていた。

「ずいぶん山奥だったけど、あった。おおきな緑のぼんぐりの木。本当にシュウイチさんは何でも知っている」

 九十九が息絶えた場所と言われる苔むした大きな岩。今は雨に直に晒されることがない。そこには後に岩を囲うように立てられた祠があるかからだ。それはタマエが、村の外の職人に依頼して立てさせたものだった。
 祠近くには、まるでそこを見守るかのように大きな木があった。地面に剥き出したその根に一本に腰を下ろすと、ぼんぐりと呼ばれる木の実をかざし、見つめる。
 月光を浴びて光る、つるつるとした面に刀を突き立てる。コルク栓ほどの穴を開けると中を取り出しにかかった。
 シュウイチさんはおかしな人だ、とナナクサは思う。
 自分ではポケモンをつかまえないくせにこうしてぼんぐりでボールを作るのはやたらとうまかった。ぼんぐりならなんでもいいわけではない。選び方のコツは手ごろな大きさ、外皮の艶、帽子の付き具合、いろいろんな要素があるのだ。彼はどんなぼんぐりがより良い容れ物になるか知っていた。その昔、機械球が高価で高値の花だったころ、シュウイチはこうして作ったボールを近所の子ども達に分けてやっていた。
 穴が広がらないように中身をくりぬき、加工作業を進めるナナクサの耳に、遠くから何かが近づいてくる音が伝わった。複数の何者かが木々の間を飛んでこちらに近づいてきている。その音はナナクサが腰掛ける木のてっぺんまで来たところで止まった。

「やあ、お疲れ様。ひさしぶりだね」

 手を止めないままナナクサは言った。

「このところずっと忙しくてさ。ずっとこれずにいたんだ。……ところであっちの様子はどうだった?」

 大きな木に宿った何者かが、がさがさと音を立てた。
 それだけで彼はだいたいを察したらしかった。

「そう。あっちはあっちで……ね。どうあっても邪魔をする気なんだ。しょうがないな」

 ナナクサは予想はしていたよ、というように答えた。

「まぁいいんじゃないの。どちらにしろあの人にはおとなしくして貰うつもりだったし。この際だからちょっと脅かしてやろう。……たぶん僕にならそれが出来るしね」

 中身をすっかり出し終わった。ナナクサはくるりとぼんぐりを回転させ出来栄えを確かめる。簡易なモンスターボールの完成である。本当は中を洗ったり、乾かしたりしたかったのだが、あまり時間がない。この際、用途を達せられればいいだろうと考えた。
 彼は腰を上げ、再び立ち上がった。何者かの宿る木を見上げた。

「さて、はじめようか」

 がさがさと音がして、彼らはひょいひょいと木から降りて来る。
 身長はナナクサの半分強ほどだろうか。数は五、六いるように見えた。

「さすがに全員というわけにもいかないので、代表を決めてくれ。君達の中で一番取組に強いのは誰だい?」

 一匹が進み出た。準備がいいじゃないか、とナナクサは言った。
 ナナクサもその一匹の前に進み出て、コン、と今まで作っていた即席のボールを額に当てた。その一匹は瞬く間に吸い込まれていった。

「ではよろしく……、……」

 彼はよろしくの後に種族の名を言いかけた。だが、口をつぐんだ。そして少し考えるとこう言った。

「いや、一時的にはせよ。容れ物に入ったポケモンにはニックネームというやつが必要だな。種族の名前ではない、彼だけの名前が。できれば残った君達をも代表するような名前がいい」

 残ったポケモン達を見て云った。

「では、こうしよう。彼の名は――――」

 風が吹いて黒い森をざわっと鳴らせた。
 また会おうとでも言うように残った者たちが深い山の中へと消えて行った。
 残されたナナクサはぼんぐりをじっと見つめると、来るべき日を描いて呟く。
 なぜか、ぼんぐりを持つ手が小刻みに震えていた。

「僕に出来るだろうか。米の栽培や舞とは違う……これは僕が初めてやることだ」

 興奮か、それともこれが緊張か。
 自問する。こんなことは初めてだった。この村に来て三年だぞ。今更? ずっと演じ続けてきたじゃないか……。そう彼は自問する。
 だが、それは唐突にぴたりと止まった。思い出したのだ。

 ――……君にとって僕らのことは単なる仕事なのか

 それは青年の言葉。今年の九十九の言葉。
 そうだった、とナナクサは思い返した。

 ――僕らは……君と僕、それにヒスイ。同じ目的の下にこうしている。事を起こそうとしている。これは僕達だけが共有できる記憶……思い出だとは思わないか

「ふふ、そっか。初めてってこういうことなんだ」

 そうだ、しっかりしろシュウジ。お前はもはや一人ではないのだ。
 彼は自分自身にそのように言い聞かせた。

「そう、僕だけの……僕達だけの……シュウイチさんのじゃない、これは僕自身の……」

 夜の山は黒く黒く染まっている。青黒い空にわずかに木々の輪郭が見える。大きな何かが今まさに目を覚ます、開眼せんとするような、そんな形をした半月の晩だ。
 雨降大社の宝物殿に何者かが侵入したのはその月の下での事だった。