(十六)狐の子


 仮初の世界に仮初の月が昇っていた。
 大鳥居の下に立った白銀のキュウコンは、九十九役の青年を待っていた。
 だが相当に疲れが溜まっているのか、その気が無いだけなのか。青年は一向に現れる気配が無い。

「つまらんな。気の利かぬ小僧よ」

 と九十九は毒づいた。たとえ他愛の無い会話でも、交わされる言葉に嫌味が含まれているとしても、ここにしか存在できない彼にとってそれはある種の楽しみであったのだ。
 だが不意にぴくんと見本の耳が立った。
 ぐすん、ぐすん、と誰かがすすり泣く声がしたのだ。
 振り返ると、そこには一人の少年の姿があった。

「お前は」

 九十九の声には少しばかりの驚きが含まれていた。
 どこからか何の前触れも無く現れたのももちろん彼を驚かせたのだが、その少年が待ち人によく似ていたからだ。まるであの青年をそのまま小さくしたような。

「お父さん、お父さん……どこ」

 少年は弱々しい声で呟いた。目からぽろぽろと零れるものを懸命に腕でぬぐっていた。
 九十九はこの少年を知っていた。会ったのは初めてではない。あの時、青年と九十九がはじめて顔を合わせたあの夜、少年は不意に姿を現したことがあった。

「誰かと思えば"小さいほう"か。どこからともなく現れる奴よの」

 するとやっと少年はキュウコンの存在が目に入ったらしい。

「ねえ、僕のお父さんを見なかった?」

 と、尋ねてきた。

「いいや、ここには私しか居ない」

 と、キュウコンは答えた。

「そう……」

 少年は気落ちした声で言った。
 そう、"囮"はあの時しか使っていない。実を言うなら少し後悔していた。あの方法は青年を相当に怒らせた。九十九を睨みつけたその目は殺意と表現しても相違ない、そういった光を宿していた。

「父さんがいないんだ。どこを探しても」

 少年はうつむいて涙をぬぐう。

「いけないな。"一人"でこんなところまでくるなんて」

 青白い毛皮のキュウコンは少年に歩み寄った。
 溢れ出る涙は留まることを知らないようで、次から次へと零れ落ちる。

「それでもまだ"大きいほう"に比べれば可愛げがあるというものだ」

 キュウコンは少年の足元にどっと腰を下ろした。
 すっと九の尾の一つを伸ばす。それがそっと少年の涙をぬぐった。

「おいで。お前の父親にはなれないが」

 なぜそうしようと思ったのかはよくわからなかった。別の尾が二、三伸びて少年の体を捕まえると、抱き寄せた。少年は少し戸惑い気味だったが、触れたその感触が気に入ったようで、キュウコンの体に寄りかかるように寝かされるとやがておとなしくなった。

「あったかいね」

 そう、少年は言った。
 暖かい、か。とキュウコンは思う。自身はもうそんな感覚を忘れてしまっていたことに今更気がついた。それは懐かしい感触だった。

「……お父さん、僕のことが嫌いになってしまったのかなぁ。だからどこを探してもいないのかなぁ」

 青白い毛皮に顔を埋めて少年はキュウコンに尋ねた。
 きゅっと長く伸びた毛の束を掴む。その瞳はまだ濡れていた。
「そんなことはないさ」とキュウコンは云った。

「どうしてわかるの」
「私にも息子達がいたからね。それに……娘もいた」
「そうなんだ」

 このキュウコンもまた誰かの父親であるのだ、そのように少年は思った。

「ねえ、息子さんや娘さんはあなたに似てる?」
「どうかな。息子のほうはともかく、娘のほうはあまり似ていなかった。はねっかえりだが泣き虫な娘でな、人の前では強がっているが、私といる時はよくこうしたものだ。ちょうど今のお前のように」
「ここで待ってれば会えるのかな」
「……いいや、今はもう居ないのだ。我が息子達も……あの娘も」

 赤い瞳が夜空を見上げた。

「…………そう」

 少年はそこまで言うともう何も尋ねなかった。青白い毛皮の中に小さなその身体を預けて、目を閉じる。キュウコンはその長くふさふさとした尾で少年の身体をそっと包みこんだ。

「今は休んでいくといい。けれど少し休んだら、元いた場所へお帰り。あの小僧のところへな……」





 朝になってもナナクサは戻らなかった。
 明日の夜までには戻ると書き残したのだからまだ戻っていなくてもおかしくはない。だが、穴守の使用人として忠実に職務をこなしてきた彼の行動として、それは今までに考えられないことだった。
 しかし、朝食の席でタマエは何も言わなかった。タイキも気にかけていたがタマエが何も言わないせいか、口に出そうとしなかった。少年の父親はまだ眠っていたし、客人の二人も何も言わず、彼らは黙々と朝食を口に運んだ。
 ナナクサがいない。それだけで穴守家の朝はいやに静かだった。

 喧騒が耳に入ったのは、稽古の為に雨降大社に入ってからだ。
 やけに人が多くガヤガヤしている。
 野次馬とでもいうのか、普段稽古に出入りしていないはずの人間が大社の境内の中をかなりの数うろうろしていた。宝物殿の近くで村長が複数の老人達と話しこんでいる。表情を見る限りあまり穏やかな話ではなさそうだった。

「何があったんだろう」

 ヒスイは関心がないとばかりにさっさと稽古場に行ってしまったが、ツキミヤはいぶかしんだ。
 村長が大社にいることなど珍しくないが、トウイチロウの稽古を見に来るのはたいていお昼近くになってからだと青年は記憶している。昼食の誘いがてらやってくるのだ。

「おはよ。ツキミヤさん」

 背後から声がかかった。
 すっかり聞き鳴れた声に振り向けばそこには「昼」の演出の姿があった。

「あ、メグミさん。それにノゾミちゃんも。おはようございます」

 ツキミヤが挨拶すると、姉の後ろにいたノゾミが軽く会釈をする。

「昨日は悪かったわね。突然午後の稽古を欠席してしまって」

 と、メグミが詫びてきた。

「とんでもないです。ずっと練習練習でしたから。体調が悪くなることもあるでしょう」
「医者には貧血じゃないかって言われたんだけどね。まぁとにかく今日は大丈夫だから」
「貧血? だめですよ。食事はちゃんととらなくちゃ」

 笑顔を絶やさずにツキミヤは言った。

「ちゃんととってるつもりだったんだけどねー。おかしいわね」

 メグミが苦笑いする。

「ところで何の騒ぎです? これ」

 すかさず青年は尋ねた。

「ええ、それがね……」
「泥棒が入ったんだって」

 姉より早く答えたのは妹のほうだった。

「泥棒?」
「うん、昨日の夜に」

 ツキミヤが尋ねるとノゾミはそのように返事をした。

「昨日の夜……」

 いやな予感がした。まさか。

「大社の宝物殿よ。普段見れるとことはちょっと離れた所に一般公開されていない別殿があってね……なんでも昨晩そこの警報が鳴ったらしいわ」

 メグミがそのようにフォローを入れる。
 青年は心配げな表情の仮面の裏側で何考えてるんだ、あいつは。と呟いた。
 もっとも青年がまっさきに思い浮かべた人物――その人物が犯人と決まった訳ではなかったが。

「それで誰か捕まったんです?」
「いいえ、誰も」

 よかった。少なくとも捕まってはいないらしいと青年は胸を撫で下ろす。

「何か盗まれたんでしょうか」
「幸い何も盗まれた形跡はなかったそうよ」
「そうですか。それは幸いでしたね」
「でも何もこんな時期に盗みに入らなくたっていいのにねぇ。村長さんもピリピリしてるしお気の毒だわ」

 真剣な表情で話し合う老人達をちらりと見やってメグミは言った。

「そうですね……」

 ツキミヤが追う様に相槌を打った。

「その一般公開されていない部屋っていうのは、何か貴重なものでもあるんですか。犯人はそれを盗みに入ったのかな」

 んー、とメグミは顎に人差し指をあてた。

「私もこの目で見たわけじゃないから、詳しくは知らないのだけど……なんでも雨降伝説の実在を証明するものがあるとかって」
「伝説の実在を証明するもの?」

 青年は反復する形で聞き返す。少し興味をそそられたらしい。

「だから私も詳しくは知らないのよ。数十年前ならお祭りの期間中だけ見られたらしいのだけど、今のご時世では倫理上問題があるからやめたとかで」
「倫理上の問題、ですか」
「だから詳しくは知らないんだって。生まれる前の話だし。村長さんも話してくれないしね」
「そうですか……」

 ふーむ……、と。ツキミヤはうなった。
 伝説の実在を証明するものか。ナナクサなら知っているかもしれないなどと考えた。あいつは昔のことにもいやに詳しいから、と。まったく、どこからそんな情報を仕入れているのやら。
 すると、ふとメグミが呟いた。

「あ、でも……ツキミヤさんは今年の九十九だから……もしかしたら見れるかも」
「本当ですか」
「トウイチロウさんが言ってたのよ。雨降と九十九ならその場所に入れるのですって。舞台本番前にお清めとでもいうのかしら。お神酒を一杯いただいてから舞台に立つっていう儀式があって、非公開で別殿でやるって話だわ」
「何があるかはその時に見られる、と」
「そうらしいわ。口外無用ってことみたいだけれどね」

 そこまで言うとメグミは、ツキミヤの両肩をわしっと掴み言った。

「そういうわけだから今は練習、とにかく練習よ! 今日は通し稽古やるから覚悟するのよ。いいわね九十九さん?」
「それは怖いな」

 ツキミヤは軽い調子で返事をする。

「お姉ちゃん、そんなに張り切っちゃって大丈夫? また竹林でぶっ倒れても知らないよ」

 ノゾミが茶々を入れた。

「もう、ノゾミは余計なこと言わないの!」
「何よ。本当のことじゃない」
「あんたはいつも一言多いのよ!」
「あ、ひっどーい。心配して言ってあげてるのに」

 デリカシーがないのよと憤るメグミだが、ノゾミも負けじと言い返している。
 彼女らのやりとりからは、少なくともメグミの口からは青年が先ほど思い浮かべた人物――ナナクサシュウジの名前が出る様子は無かった。
 今年の九十九はくすりと笑う。「まぁまぁ」とメグミをなだめるように言った。

「ともかく今日はお手柔らかにお願いしますよ? メグミさんは病み上がりなんですから」





 その日は朝から暗い雲が空を覆っていた。収穫期に入った田をしとしとと雨が濡らしている。
 月日の巡りは早い。空に消えた友を見送ったあの日から、いつの間にか季節は一巡していた。
 晴れの日が続かぬは摂理だが、雨の日は憂鬱だ。起きだして来る気になれない。大社の神殿の奥の奥にどさりと身体を横たえ目を閉じる白銀のキュウコン。その毛皮は妖艶な青みを帯びている。やる気がなさそうに垂れ下がる耳にも屋根から滴り落ちる水の音が響いていた。炎の力をその身に宿す九十九は元々雨が嫌いだった。

「ツクモ様!」

 ふと雨音に混じって神殿のどこからか声が響く。
 ぴくりと、九十九の垂れ下がっていた耳の片方が上がった。

「ツクモ様、ツクモ様!!」

 木造の床をばたばたと忙しく駆けて足音が近づいてきた。重い観音開きの木戸が開かれる。

「カナエか」

 と訪問者の姿を見るまでもなく九十九は云った。

「そんなに大声を出さなくてもさっきから聞こえている」

 扉の向こうから現れたのは若い女だった。見に纏う衣こそ粗末な木綿のものだったが、束ねられた長い黒髪が美しい娘だ。

「私の元にやってくる者はいつだって騒がしい。とくにお前は声は頭に響く」
「声なんか誰だって同じでございます」

 カナエと呼ばれた娘はそのように反論した。

「いや、お前は五月蝿い。だいたい私にそういう口の利き方をする人間はお前だけだ」
「そもそもツクモ様はほとんどの村人とは言葉をお交わしにならないじゃございませんか」
「むやみやたらに語るのは性にあわない」

 九十九はそのように答えた。

「そんなだから、怖がられるんでございます」

 九十九は、娘の物言いはまったく気にしていない様子で、
「結構じゃないか」と答えた。
「神とは畏れを抱かせてなんぼのものだ」と。

「それより何をしにきたのだ。まさか暇をつぶしに来たのでもあるまい」
「昨日の晩に村長(むらおさ)様が言われました。祭の準備を始めるようにと」

 粗末な衣を纏った娘は張りのある声で答えた。

「神楽の稽古も始まります。だから衣装を借りに参りました」
「……そうか」

 思い出したかのように九十九は言った。

「だが何も雨の日に来ぬでもいいではないか。濡れるぞ」
「だって、あれを着られるのはこの時期だけなのだもの。そう思ったら私、いてもたってもいれなくて」

 娘は待ちきれなかったのだと言った。
 それは村の中で決して地位が高いとは言えず、いつも粗末な身なりの娘にとって、何よりの楽しみであったからだ。村の娘ならば誰もがそれを着られる訳ではない。九十九に選ばれた者のみがそれを纏うことを許されるのだ。

「……それにしてもそうか。もうそんな時期か」

 雨の音に耳を澄ましながら九十九が呟く。

「あら、神様がそんなことをおっしゃっていいのですか」
「雨が憂鬱でな。そのような気分では無かっただけのことだ」

 赤い瞳が答える。

「神楽の衣装なら西の殿だ。もっともほとんどお前が管理しているようなものだから、場所など言わずもがなだろうが」
「はい」
「今日は袖を通してみるだけにしておけ。ただし……」
「ただし、なんでございますか」
「通しているうちに雨が止んだなら持っていってもよい」

 さっきまで不機嫌そうだった九十九だったがにやりと笑った。

「あら、まるで雨が止むような物言いでございますね」

 娘がそのように言うと

「天候とは気まぐれなものだ」

 と、九十九は答えた。
 やがて娘は一礼すると西の殿に軽い足どりでかけていった。

「やれやれ。急がずとも衣は逃げたりしないというのに」

 九十九はしょうがないやつだとでもいいたげに娘を見送る。
 耳には愛も変わらず止まぬ雨音が響いていた。
 赤い瞳がどこか遠くを射る。視界は神殿の幾重もの壁に阻まれているはずだったが、彼にはその先が見えているかのようだった。
 横たわっていた九十九は重い腰を上げ、立ち上がる。
 赤い瞳が煌いた。先ほどまで娘に向けていた眼差しとは異質なものだった。





 朱、銀朱、鉛丹、茜、橙、緋色。
 炎の色とも言うべき何種類もの糸を複雑に織り上げた生地に黄金色の糸で文様が刺繍されている。
 その衣を纏った青年は、青白い色の面を被り赤い糸を結わく。
 ドコン、ドコン、ドコン、と不吉な出来事を予見するかのように太鼓が耳に届いた。

「ぐわあ!」

 名も無き村人役が叫び声を上げた。
 ドコドコドコ、と太鼓が打つ鼓動が早くなる。太鼓のリズムが変わる。盛上げては一瞬沈みまた盛り上げる。
 すると村人は奇妙な舞をはじめた。それは炎の熱に巻かれもがき苦しむ様だった。
 太鼓の打つリズムはまさに炎が踊るそのリズムだ。
 村人は、舞いながら身につけている衣を少しずつ剥ぎ取った。衣を剥がずその度に身を包む衣装は黒一色となってゆく。それは舞台が上演される夜であれば闇に紛れ消えるように出来ていた。

 ぽ、ぽん。

 鼓を打つ音が響いた。
 それは合図だった。多くの村人が恐れおののく炎の妖が姿を見せる。その合図。
 ぼうっと鬼火が灯った。黒い衣の物の怪が放ったものだった。
 名も無き村人が黒衣一色となり、舞台裏に消えるのと同時に面を被った青年がゆっくりと舞台へ上った。
 面から生えるのは大きな二つの尖った耳。睨みつける二つの赤い目。
 一人の村人が哀れな贄となり、その肉と骨を我が物として妖狐九十九が蘇ったのだ。
 妖狐は低い低い声で云った。

「……今宵、我、ここに戻れり」

 懐からすっと金色の扇を取り出す。
 開かぬままに聴衆に向けてそれを突き出した妖狐は扇に引かれるようにして前に前に進み出た。
 ぽぽん、とまた鼓の音が鳴って、ドロドロと地響きのように低く太鼓が鳴る。
 高い笛の音と尺八の音が、交互に絡み合って旋律を作り出した。
 ぱんと金の扇が開かれると舞が始まる。
 妖狐は詠った。

 燃えよ、燃えよ 大地よ燃えよ
 燃えよ、燃えよ 大地よ燃えよ

 地の底から響くような怨念の宿るその詩。
 ゆっくりと足を踏み出し、舞台全体を回るように妖狐は練り歩く。

 見よ 暗き空現れし火よ
 火よ 我が命に答えよ

 妖狐が舞台上手に扇をかざした。
 シャン、と鈴の音が響くと炎の妖、白い衣に赤い帯を巻きつけた妖狐の一族がぞろぞろと舞台に上がってきた。
 妖狐が同じように下手に扇をかざす。応えるように鈴の音。すると右手からも同じ一団が姿を現した。
 彼らもまた妖狐の呼びかけに応じ、その力を借りてこの世に姿を現したのだ。

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 我が炎
 我が眼前に広がるは赤き地平

 彼らを鼓舞するように妖狐は詠った。
 次の節から追う様に地唄(じうたい)が続く。

 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ
 恐れよ人の子 我が炎
 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ
 恐れよ人の子 我が炎
 燃えよ燃えよ 野の火よ燃えよ

 長の歌声に続くようにして妖達が口々に「燃えよ」と詠った。
 それは燃え広がる炎のようだった。

「放たれし火 金色の大地に 燃えよ」

 狐の面を被った青年が最後の小節を詠い終え、高らかに云った。

「我が名は九十九。十の九尾と百の六尾の長、炎の妖なり!」

 それは、戦いの狼煙を上がったかごとく、聴衆の耳に響く渡った。

「我に従え、六尾の者よ。我に従え、九尾の者よ。我に続け、炎の力宿らせし者どもよ」

 ドォンと大きな太鼓が響き渡った。
 蘇った妖達が沸きかえった。

「今年はよい仕上がりになりましたなぁ。メグミさん」

 通し稽古を間近で見、演出の横でうんうん、と深く頷きながら髭面の老人が言った。
 村長のキクイチロウだった。
「ええ、本当に」と、メグミが答える。

「ツキミヤさんは本当によく頑張ってくれました。雨降役はベテランのトウイチロウさんですし、例年に無い出来になりそうですわ。討伐のシーンも迫力のあるものになりましたし」

 彼女は満足げに言った。
 舞台に目をやる。通し稽古は次なる場に移り、稲を刈り、餅をつき、収穫を祝う村人達の踊りとなった。

「ええ、本当に今年の九十九は優秀です。優秀すぎてうちのトウイチロウが食われてしまうんじゃないかと逆に怖くなるくらいです」
「まあ! 村長さんにそこまで言わせるなんて。ツキミヤさんも役者冥利につきますわね」

 そこまでメグミが言うと、キクイチロウが鎌をかけるようにして言った。

「ツキミヤ君ももちろん優秀ですが、彼のバックにはあの男がついてますからなあ。相当仕込まれたと見えます」
「あの男?」

 メグミがきょとんとして聞き返す。

「ナナクサ君ですよ。ツキミヤ君が選考会に出たのもおそらくは彼の差し金でしょう」
「そうなんですか。だとしたら、そのナナクサさんという方、よほど舞踊に精通した方なのでしょうね。一介のトレーナーでしかないツキミヤさんをこの短期間にここまで仕上げたんですもの」

 感心したようにメグミは言った。それは見たことも無い在ったことも無い相手を想像するような言い回しで、キクイチロウに奇妙な感触を与える。

「……おや、メグミさんはご存知じゃなかったんですか」

 おかしな違和感を覚えながら老人は昼の演出に尋ねた。

「? え、ええ。ツキミヤさんがお仲間の……たしかヒスイさんといったかしら、銀髪の色の黒い方で。その方とと毎夜稽古してるのは知っていますけど……」
「けど、どうしたんです?」
「ナナクサさんって方のお名前ははじめて聞きましたわ」
「……メグミさん?」

 キクイチロウは顔のしわをよじらして、続けた。

「君、なんだね、ナナクサ君と喧嘩でもしたのかね」
「何を言ってるんです? 私、ナナクサさんなんて方、知りませんよ」
「…………」

 メグミは村長の顔をまじめじと見た。
 村長は狐につままれたような顔だった。
 そういえば。そう思って、村長はあたりをきょろきょろと見回した。
 そこではじめてナナクサの姿が見えないことに気がついた。

「おかしいな。彼はいつもツキミヤ君に付き添っているはずなのに……」

 妙な不安が彼を襲った。
 わけがわからなかった。なぜそんなことを自分は気にしているのだろうとキクイチロウは思った。
 そもそもあの男はツキミヤの付き人ではなく、穴守の使用人だ。タマエに何か別の用を言付かったのだろう。それだけのことではないか。
 収穫祭であの家も忙しい。シュウイチが死んでからというもの、今や穴守家のブースを切り盛りしているのは彼女だけ。彼はきっとそんな彼女を手伝っているに違いない。
 それなのに、それなのになんなのだろうか。胸に広がる漠然とした不安があった。
 あの男、何を考えている……。

「村長さん、そんなにナナクサさんって方の事が気になりますの?」

 メグミが尋ねた。
 
「……気にしている? 私が、彼を?」

 キクイチロウは昼の演出に聞き返した。

「ええ。でも何だか気にしているというより」
「なんだね」
「村長さんはまるでその方のことが怖いみたいだわ」
「怖い……ですって?」

 受け入いれ難かった。だがキクイチロウは真意を突かれた気がした。
 なぜだか思い出したのはシュウイチが死んだ頃の事だった。
 シュウイチがあの世に旅立ってからというもの、以前にも増してタマエは頑固で偏屈になった。彼女は頑として他人を受け入れず、ただ黙って田に手を入れる日々を過ごしていた。来る日も来る日も悲しみを紛らわすかのようにして彼女は黙々と働いた。キクイチロウには何も出来なかった。
 そして、シュウイチと入れ替わるようにして現れたのがナナクサだった。

「あっ、申し訳ありません。言葉の選び方がよくなかったですね。その、なんて言ったらいいのかしら……とても意識されているというか。あ、結局最初に戻ってしまいました」

 ナナクサシュウジ。
 キクイチロウの聞いたところによればナナクサはどこからか村にやってきて真っ先に穴守家を訪れたのだという。働き口を探している、ここで雇って欲しい、そう言って。
 どこのギャロップの骨だかもわからない。決して過去を語ろうとしない。だがあの老婆は受け入れた。余所者であるはずのナナクサシュウジを受け入れたのだ。それからだ。頑なだったあの老婆は少しずつだが人当たりが柔らかくなっていった。
 キクイチロウは悔しかったのかもしれない。またタマエをとられた気がした。シュウイチにとられた気がしたのだ。
 もちろんナナクサはシュウイチの縁者などではない。シュウイチ生前の身辺をある筋から洗った結果としてキクイチロウはそれを知っていた。ナナクサはそこに浮かび上がらなかったのだ。
 だが、シュウジの名がシュウイチからとったように映ったからかもしれない。シュウイチに似て、米に詳しかったからかもしれない。外見や声、喋り方はまったく似ていないのに、かもし出す空気が同質である気がするのだ。

「そういえば、トウイチロウさんも稽古の後に特訓をしてるのですってね」

 メグミが言った。

「聞きましたよ。村長さん自らタカダさんをひっぱって来て相手をさせてるって。三年前の九十九まで引っ張ってきて特訓なんて村長さんの入れ込みようも相当ですわね」

 そのように彼女は続けたが、キクイチロウの意識はもはや別にあった。
 老人は気がかりがもう一つあったのだと思い出していた。宝物殿で鳴った警報だ。
 何者かが侵入した昨晩の宝物殿別殿。姿を見せないナナクサ。これは単なる偶然なのだろうか。
 その時、ドォン、ドォンと太鼓が轟いて、無数の鬼火が宙を舞った。村人達が踊る収穫の舞台、そこに九十九が現れ、炎が上がったのだ。
 九十九が云った。詠うように、高笑いするように云った。
 燃えよ、燃えよ、燃えよ――

「我を忘れし愚かなる者共よ。今ここに我が炎思い出すがいい!」





 雨が降り続いていた。
 大社の奥から姿を現した九十九は不機嫌そうに空を見上げる。屋根の向こうに見える空は灰色に濁っていた。
 天から雨が降り注ぐ。境内の石畳も敷かれた玉砂利も、雨に濡れている。

「気に入らぬ」

 と、九十九は呟いた。
 ひたひたと前に進み出ると、ついに雨粒をしのぐ屋根の比護の下から抜ける。
 九十九の青白い毛皮をも濡らそうと雨粒は当然に彼に降り注いだ。
 だが、天から毛皮に落ちたそれはじゅうっと音を立てると、湯気となって立ち上った。
 九十九が一歩、また一歩を踏みしめるごとにそこから湯気が立ち昇り、乾いた。
 それは妖狐の意思の現れであった。

「出てくるがいい」

 九十九の声が響き渡った。
 その声は大社のある山全体に轟いた。
 だが、山はしんとして雨の音以外には耳に入って来ない。

「姿も見せぬか。よほどの器小さき者と見える」

 九十九は冷めた声で云う。
 そして次に、別の者にこう呼びかけた。それは同胞に対する呼びかけだった。

「ダキニ、シラヌイ」

 そのように彼は呼びかけた。

「ツクモ様、ここに」
「ここに」

 いつのまにか九十九の左と右に二匹のキュウコンが現れた。
 九十九が続ける。

「もうお前達も気がついているだろうが、朝から招かざる客が入り込んでいるようだ」

 一匹と二匹は互いの意思を確認するように目配せした。

「つまらぬ者共よ。この九十九が相手をするまでも無い」

 九十九は語った。
 晴の日あれば雨の日もあるもの。雨は好かぬが、雨あってこそ快晴が心地よく感じられるもの。故に放っておこうかと思ったが少しばかり事情が変わった、と。

「一時の炎を許そう。相手をしてやるがよい」

 すると二匹が目にもとまらぬ速さで駆け出して、軽やかに跳ねながら瞬く間に石段を駆け下りていった。
 九十九はさらに進み出ると大社の入り口である大鳥居の下に立ち、里全体を見回した。
 収穫期を控え、田はいよいよ金色に染まっていた。
 今、シラヌイが東から、ダキニが西からぐるりと里を走り回るだろう。
 彼らの後に一族達が、同胞達が続く。
 招かざる雨をもたらす客人達はさほど時を待たずしてあぶりだされるに違いない。

「問おう」

 シラヌイとダキニが去って、自分しかいないはずの場所で唐突に九十九は云った。

「これは祭の時期が近いと知ってのことか?」

 誰に向かうとでもなく九十九は問うた。
 するとちょうど妖狐の斜め後ろほどに生える大きな木の枝が鳴ったかと思うと、ぼたり、ぼたりと何かが三つほど玉砂利の上に墜落した。
 九十九はそこではじめて振り返り、

「ふん、雨虫か……」

 と、呟いた。
 雨に濡れた石畳の上で、奇妙な形の羽を僅かにバタつかせながら水色の虫ポケモンがもがいていた。

「それで気配を殺したつもりか。この九十九もバカにされたものよ」

 彼らは何か見えない力に体を押さえつけられているらしかった。
 懸命に羽根をばたつかせるが、飛び立つことが出来ない。

「この里にも雨虫は多くいる。だが、貴様らは匂いが違うな」

 そういって、九十九は一匹の羽根を踏みつけた。

「我が里の雨虫達は領分と云うものを弁えておる。むやみやたらに雨を呼んだりはせぬ」

 踏まれた羽根がじりっと焦げ付いた。
 不意にチリッと音がしたかと思うと、火の粉が踊る。
 それが残り二匹の羽根に付着するとじりじりじりと焦がしてやがて消えた。
 九十九が押さえていた一匹を蹴り飛ばすようにして二匹のほうへ払いのけた。

「居ね。消し炭にされたくなければな」

 そのように九十九が言うとふっと虫達を押さえつけていた力が消えた。
 炎に焦がされぼろぼろになった羽根をばたつかせて、彼らはその場を逃げるように去っっていった。

「そのほうらの主に伝えよ。この九十九の土地で勝手はさせぬ」

 追いかけるように九十九の声が響いた。


 雨虫達が視界から消えて、半刻ほど経った後、雨が止んだ。
 灰色の空から光が差込みはじめたのはもう半刻ほど経ってからだった。

「ツクモ様の云った通りだ。雨、本当に止んだ」

 祭の衣装を取り出し、着付けてみては愛でていたカナエは空を見て呟いた。
 自身の衣装を桐の箱に詰めると、廊下を渡り、草履を履くと境内に出る。
 水溜りがいくらか残る石畳の先、大鳥居の下に白銀のキュウコンが立っているのが見えた。
 その眼差しはじっと遠くを見つめている。

「ツクモ様、」

 そのように娘が呼びかけると

「カナエか」

 と九十九は答えた。

「……雨が止みましたね」
「ああ」
「雨が止んだから、これ、持っていっていいんですよね」

 桐の箱を見せるように差し出す。

「好きにしろ」

 そっけなく九十九は答えた。

「……ツクモ様」
「なんだ」
「何を考えておいでですか」

 そっけないその態度が気になって、娘は尋ねる。

「……友のことを考えていたのだ」
「ご友人ですか」
「ああ」

 と、九十九は反芻するように返事をした。
 見ろというように、指差すように鼻先をある方向に向けた。

「あそこに山が見えよう。そこをひとつ越えたところがかの一族の土地だった。だがあの日、友はこの空に消えたのだ。今はどの空の下にいるか……」
「今はいないのですね」
「そうだ。今は居ない。もういないのだ」

 風が吹く。一面に広がる稲穂が波打った。

「カナエ、」
「……? はい」
「お前の踊る舞には期待している。前の年以上に励め」
「…………! はい」
「今年の祭は盛大にやろう。何百何千の灯を用意して、一斉に火を灯すのだ。この里に住まう者、すべての眼前に燃え盛る野の火を見せようぞ」

 金色の大地を仰いで妖狐は云った。
 九の尾が風に合わせるように揺れた。





 祭の夜に現世に現れ、田畑を燃やし、灰に変えてゆく炎の妖、九十九。
 野の火が燃える。田を舐める。
 一方で、神の名が叫ばれる。村人達は雨を待つ、炎を流す雨を乞う。
 雨降の名が繰り返し叫ばれる。
 多くの口から、その名が呼ばれる。それは信仰の証。祈りによって神は現れる。
 それは本番ともなれば聴衆を巻き込んだコーラスとなるであろう。
 九十九を再び沈めるべく、再び退治すべく、祈りによって神は現れる。

「いかにも、我が名は雨降」

 昼の演出と村の長の背後から、太く通る声が響いて、彼らは振り返った。
 その先には青い衣装を身に纏ったトウイチロウが翁の面を被って立っている。
 赤い衣を纏った狐の面もそちらを向いた。
 主役は遅れてやってくるのだ。昔何かの舞台で誰かがそう言っていた記憶がある。
 ぽ、ぽんと鼓が鳴って、鈴の音が二つ程追った。

「我、呼ばれたり」

 舞台を仰いで翁の面が云った。

「呼びかけに応え、目覚めたり」

 翁が纏う青い衣には朱の刺繍が施されている。
 この色の組み合わせを狐面の青年は知っていた。
 ホウエン神話の二つ神の片割れ。海に在り、雨を司る神の色。穴守の家で見たあの絵巻の大きな魚の形をしたあの神の色なのだ。この村で信仰されている雨の神は、間違いなくその流れを汲んでいる。この村は「青」の版図の中にある。
 雨降はずっしりと地に足をつけながら、ゆっくりとしかし確実に舞台へと近づいてくる。
 ドロロロ、ドロロロと寄せては返すように轟く太鼓の音が盛り上げる。

「橋掛り……雨降の為の道……」

 青年は仮面の内で誰にも聞こえぬ小さな声で漏らした。
 野の火の本番に向けて、石舞台では今、着々と工事が進んでいるはずだ。
 夜の稽古の時にナナクサが言っていた。予定通りならば、今頃は橋掛り――歌舞伎で言うところの花道が設営されている頃だ。
 それは役者達が舞い踊る舞台に向かって、まっすぐに伸びる長い長い一本の道であり、そこを通るのは舞台の主役、村の守り神であり豊穣の神である雨降である。道は大社へ伸びているという設定だ。雨降はここから現れ、そして役目を終えると再びここを通って大社へ戻っていくのだ。
 ナナクサはこうも言っていた。
 九十九がその道を通ることは許されないのだと。
 炎の妖は舞台の上だけで復活し、神の力によって再び舞台に沈められるから。だから妖は決してあの橋を渡ることが出来ないのだと。
 それは神の為だけに用意された橋掛り――花道なのだと。

「我が名は雨降。悪しき火を払い、流し、今一度田に恵もたらす為、参った」

 雨降が仮の花道を渡り切って、舞台に立った。
 舞台の上手と下手で、青の衣と赤の衣、翁の面と狐の面が向かいあう。

 降らせ、降らせ 天よりの水
 降らせ、降らせ 天よりの水

 青い衣は雨の詩を詠い始めた。
 まるで空の雨雲を掬い、集めるかのよう扇を広げ、舞いしめた。
 呼びかけに応えるようにして白地に青の帯を巻きつけた役者達が次々に舞台上に現れた。
 そして翁は扇を閉じる。まるで矢で狙いを定めるようにして狐の面に向けた。
 討伐が、狐狩りが始まる合図だった。
 ドォンと三度ほど大きく太鼓が鳴った。
 赤い帯と青い帯の役者達が各々ポケモンを連れ、舞台を入り乱れるように交差していく。炎が舞い、水が踊る。青年はその流れに身を任せる。好きなようにしたらいいと思った。
 トウイチロウ扮する雨降がカメックスを繰り出した。大きな大砲が九十九陣営に向けられる。
 対する狐面の青年がすうっと腕を上げる。それに応えるようにして青い炎がいくつも生まれた。





 日が暮れかけていた。
 桐の箱を抱えて、カナエは道を急いでいた。
 日が西に隠れ、野良仕事が終わると、村の娘達が村の長の屋敷に集まることになっている。祭に向けて舞の稽古が始まるからだ。

「カナエ」

 小さな石橋を渡った時、人のもので無い声がして彼女は立ち止まる。
 ちょうど彼女の足元から声が聞こえたと思うと、橋の下からするりと金色の何かが現れて、颯爽と上に駆け上がったかとぐるりと小回りして思うとカナエの前に立った。

「あら、シラヌイさん」

 それは一匹のキュウコンだった。九十九とは違い、普通の色のキュウコンである。九十九が自分の中で普通になってしまうとむしろこっちが色違いに見えてしまうと彼女は思った。

「どこに行くのだ?」
「村長(むらおさ)様のところよ。今晩から稽古だから」

 そう言って、持っている桐の箱を見せた。すると、
「はああ、そういうことか」とシラヌイは納得したように言う。

「まったく、父上は本当にカナエに甘いのう。実の息子達は駒のように扱うというのに」

 仕方ないなぁというようなニュアンスでキュウコンは続けた。

「どういうこと?」
「なあに、少しばかり野暮用があってねえ、里をひとっ走りしただけのことさ」
「そう……それならいいけど」

 要領を得ないままにカナエは答えた。

「じゃ、俺はもう社に戻るから」

 用事は済んだとばかりにシラヌイは言ってそして、駆け出した。
 瞬く間に見送るカナエが小さくなっていった。
 だが、追う様にシラヌイの耳にカナエの声が届いた。

「あ、シラヌイさーん! サスケさんやダキニさんによろしく。それとフシミさんにも!」

 もうずいぶんと離れているのに、キュウコンはその声をはっきり聞き取ることが出来た。カナエの声は頭に響く――よく父である九十九がとそのように語っていたのが、こういう時よく理解できる。
 そういえば、彼女にはじめて出会ったのは「声」に気がついて父と共に村の境へ来たあの夕刻の時だったか……とシラヌイは思い返した。
 気がつけば、あれから十数年が経っていた。カナエは大きくなったなあ。父上もさぞかし感慨深かろう。そのようにシラヌイは思った。

 空に青みがかかってくる。
 田の道の向こうに消えたシラヌイを見送って、カナエは再び村長の屋敷の方向に目をやった。しばらく行くと、同じように村長の屋敷へと向かうらしい村の娘達と出会う。少し浮かれた様子で何かしゃべっているようだった。だが、カナエの姿に気がつくと彼女達は黙って、そしてすっと道を空けた。
 カナエは黙って通り過ぎた。いつものことだった。何を言っているのかはわからなかったが、自分の背後で彼女達が何かを囁いていることがわかった。
 くだらない、と娘は思う。どうせあの娘はまた狐と話していたとかそんな類のことなのだろう。
 九十九は完全に人の言葉を操ることが出来る。だがその息子達といえば、時々人語になったり、獣にしか理解できない言葉になったりとちぐはぐなのだ。彼らと円滑に言葉を交わせるのは里の中でもカナエ一人だけだった。
 ほとんど沈んでしまった夕日に照らされて、彼女の長く長く伸びた影が揺れている。屋敷に続く長い長い一本道を一人で歩き、いつの間にか彼女はかつて村長が云った言葉を思い出していた。
 それは、この里における彼女の立場の話だ。

「この里の人間は余所者に冷たい」

 最初、そのように村長は云った。
 そして彼女の生い立ちをこのように語ったのだ。

「カナエ、お前はこの里の境目に捨てられていたのだ」

 周囲の自分を見る目があまりよくないことを物心ついた彼女は既に知っていた。
 おなじような年の子ども達に「余所者」とはやし立てられた事は一度や二度ではなかった。

「赤子の泣き叫ぶ声を最初に耳にしたのは、お前の前に現れたは九十九様だった。九十九様はお前を私の前に連れて来てこう言われたのだ。我が里に捨て置かれたからには、その命は我が下にありと。この赤子を里に受け入れ育てよとな。それがお前だった」

 頭の中にあの時の声が響く。

「そうして、九十九様は名も無きお前に名を下さったのじゃ。カナエ、と」

 カナエを実質的に養ったのは村長だったが、彼は決してカナエに自らを父と呼ばせることはなかった。それは彼女に乳をやった乳母も同様だった。そこに義務はあっても、愛情はなかった。それを知っていた彼女は十と少しを過ぎた頃には屋敷を出て、一人で暮らすようになっていた。そうしたいと願った時に、村長はすんなりと住む場所を用意してくれた。
 村長は言った。お前には役目がある、と。だからその役目に対して、私は相応の見返りを用意しよう、と。
 その結果、与えられたのは粗末な家で、待っていたのは貧しい暮らしだったが、気は楽だった。

「お前は九十九様に選ばれたのだ」

 そのように村の長は続けた。
 お前も知っての通り、九十九様は炎の力を司りし神、荒ぶる神じゃ。九十九様がその気になればこの里を燃やし尽くすことなどいと容易きことよ、と。

「だが、お前が居る。お前は選ばれた。お前は九十九様の子、九十九様の娘。九十九様の巫女。荒ぶる神を鎮めるのがお前の役目よ。それがお前の生きる意味……お役目をしっかりとお果たしなさい」

 カナエは自らの持つ桐の箱を横目で見、再び目を離した。
 里の者達は皆、カナエを一度はこう呼んだ。
 捨て子と、余所者、狐の子、と。
 彼女は九十九の巫女として、時に九十九の言葉を村長に伝え、村長の言葉を九十九に伝えた。彼女は種族の境界に存在し、人と狐の間を行き来した。人にもなれず、だが人の形をしているが故に、狐にもなれなかった。そんな立場を割り当てられた彼女を憐れむものも少しはあった。だが、彼女は憐れみはいらないと云った。

「……私は、自分を不幸だと思ったことは無いわ」

 そのようにカナエは呟いた。
 人は冷たいけれど、彼らは違った。この里に古くから在り、君臨する神たる九十九、そしてその息子達。彼らは自分によくしてくれる。だから寂しくは無かった。自分は決して一人でも、不幸でもない。
 でも、それならば。

――いっそ私自身も尻尾を生やして生まれればよかったものを。

 そのようにもカナエは思うのだ。





「みなさん、今日までの練習お疲れ様でした」

 田が赤く染まっている。西の空には沈む夕日が見えていた。

「いよいよ明日の晩が本番です」

 出演者を一同に集めて昼の演出が言った。.

「いいですか。本番は一度きりにして祭のクライマックス。気を引き締めていきましょう。今晩は体をゆっくりと休めて本番に備えるように。明日は夕方の六時に祭会場の石舞台に集合してください。くれぐれも時間厳守でお願いします。それでは解散!」

 メグミはそこまで言うと、ぐるりと背を向けぐっと片腕を伸ばしてストレッチする。凝った肩をほぐすようにして左右に首をかしげる動作をとった。すると、出演者達も緊張が解け、彼は続々とその場を離れていった。大社と村を結ぶ長い石段を降りてそれぞれの場所へ帰ってゆく。
 ある者は屋台で晩御飯にありつくし、ある者は宿の湯で体をほぐすのだろう。連日の疲れがたまってすぐに寝るものもあるかもしれなかった。

「僕達も戻ろうか」

 人の流れてゆく様を眺めながら、そのようにツキミヤが言うと、ヒスイは黙って頷いた。
 だが、足畳を渡って大鳥居の下を潜ってちょうど大社を出ようとしたその時、声がかかって二人は立ちどまる。

「ツキミヤ君、ちょっといいかね」

 聞き覚えのある声に振り向くと、村長のキクイチロウだった。

「なんでしょうか、村長さん」

 今更何か用事があるのかとも思ったが、青年はあくまで柔らかく返事をする。

「あー、すでにメグミ君から聞いているかもしれないがね」
「はい」
「まあ、祭の決まりごとというか形式としてだね。雨降様と九十九、つまりうちのトウイチロウと君なんだが、本番の前に清めの儀式をやることになっているんだ。まあなんだ、儀式といっても少しばかりお祓いを受けてお神酒を一杯いただくだけなのだけなのだけどね」

 ああ、そういえばとツキミヤは思い出す。
 朝に挨拶を交わした時にメグミが言っていたのだ。雨降と九十九の役者は儀式の為に別殿に入れるのだと。そこで伝説の実在を証明する代物を見ることが出来るのだと。

「まあ、そういうことだから石舞台に集合する前にまたここに来てね。そうだな、五時くらいに頼むよ」
「わかりました」

 青年は老人に了解の旨を伝える。
 すると、

「そういえば……今日はナナクサ君の姿が見えないようですが」

 まるで村長はこちらが本題とばかりに青年に尋ねてきた。

「……ええ、何か用事があったみたいで」
「用事?」
「僕達もくわしくは聞いていないんですよ」
「ふうん、こんな時に用事ですか……毎日のように見にきていたのにねえ」

 髭をいじりながら村長がわざとらしく首をかしげる。

「おかげさまでこっちはリラックスして演技できましたよ。どうにも彼の視線は暑苦しいもので」

 ツキミヤがそのように応えると、村長はさぐるようにして、さらに尋ねてきた。

「それで、ナナクサ君なんだけどね。最近変わったこととかなかったかね」
「変わったこと、ですか? 彼は会った時から変わっていましたから」

 探られていることを察したのか、青年はそのようにはぐらかした。
 実際に思い当たる節もなかった。自分達の「企て」など最初からだったからだ。

「ヒスイ君、といったかね。君は何か知らないか」

 ツキミヤから情報を引き出すことを諦めたのか村長は銀髪の青年に話を振った。
 ヒスイは村長を見つめたまましばらく仏頂面で黙っていたが、やがて「そういえば」と口を開いた。

「何かあったのかね」
「ナナクサから直接聞いたわけではないが、あいつ、辞めるらしい」
「辞める? 何をだい」

 今度は青年がヒスイに問うた。

「あの家の使用人を、だ」
「……なんだって?」
「暇を貰いたいと言ったらしい。タマエさんから聞いた」

 ツキミヤは驚愕した。たとえ村長が逆立ちして村を一周したとしてもそれはないと思っていた。
 だが、タマエがそう言ったのであれば確かなのだろう。あの老婆は冗談を言うような人間ではない。
 これにはさすがに村長も驚いたようで、しばし言葉を詰まらせていた。

「……そ、そうかい。あのナナクサ君がねえ」

 そう言うと、顎にしわだらけの手をあてて、何かを考え込んでしまった。
 顔色が悪かった。まるで何か悪い予感にますます確信を深めたような。
 ずいぶんと彼を気にするのだな。前から何かと自分達に絡んでくる老人ではあったが、ここに来て青年はこの老人のナナクサへの執着のようなものを感じ取ったのだった。

「そろそろ行くぞツキミヤ。さすがに腹が減った」

 村長をいぶかしげに見つめるツキミヤにヒスイが声をかける。
 すっと背を向けて、一人、石段を降り始めた。

「あ、ああ」

 ツキミヤは歯切れの悪い返事をすると

「では、僕達はこれで。失礼します」

 村長にそう告げてヒスイの後を追った。

「いつ聞いたんだ。そんな話」

 石段にギザギザに刻まれた影が這いずるように移動する。
 淡々と石段を下るヒスイに青年は問うた。

「昨日だ」

 とヒスイは答える。

「別行動をとっただろう。お前達はどこをほっつき歩いていたのか知らないが、川辺のあそこに昼食をとりに行っていてな。その時タマエさんに聞いたんだ」
「……そうか」

 ナナクサが穴守の家を出る。青年は、未だ信じることが出来なかった。
 青年は知っている。ナナクサがあの家の人間を、特にタマエをどんなに大切にしているか。
 タイキの父親が帰ってきた時の彼の提案に疑問を持ったこともあった。だが、あれは彼なりに少年の意見を重んじとしようた結果なのだろう。またそれが使用人の精一杯だったのだろう。あの川岸の料亭でのやりとりを通し、青年はそのように納得していた。

「タマエさんは何と言ってるんだい」
「祭が終わるまで。そう言っていた」
「つまり祭が終わったら、あそこを出る。タマエさんも承知している。そういうことか」
「そういうことだろう」

 ヒスイは淡々と答え、淡々と石段を降りてゆく。

「……何だか置いていかれた気分だな」

 ヒスイの背中を追いかけながら、そのようにツキミヤは吐いた。
 それは青年にしてはめずらしい吐き出し方だった。
 
「置いていかれた? 何にだ?」

 振り向かぬままにヒスイが言った。

「あいつは当の本人だから当たり前として、それでも君とシュウジだけが知っていたわけだろう。僕は知らなかった。今のさっきまで。僕だけが知らなかった。だから」

 すると、「意外だな」と銀髪の青年は呟いた。

「意外?」
「お前はそういうことに執着が無いものと思っていた」

 そう言って、相も変わらず淡々と石段を下っていく。

「そうだろう? 俺達三人は他人だ。たまたま利害が一致して集まっているだけの」

 そうだった。
 そのように青年は思い返した。所詮、ここだけの関係なのだ。祭が終われば散々になるだけ、お互いに忘れてゆくだけ。それだけの関係なのだ。
 では、この胸にあるしこりは。今さっきから感じているこの置いていかれた感覚は。

「ヒスイ、君だって」
「なんだ」
「もし告げもせず消えてしまう人がいたら、寂しいだろう。悲しいだろう」
「…………」
「君にそういう人はいないのか?」

 何を言っているのだろう。なぜこんな小さなことにこだわっているのだろう。

「…………いるさ」

 しばしの沈黙の後にヒスイはぼそりと呟いた。

「もしもその人が目の前から消えてしまったなら、たとえ地の果てまで行ってでも探し出すだろう」

 振り向かぬ青年のその表情は見えない。
 だが、いつもぶっきらぼうなヒスイにしてはめずらしく感情の入った言葉だった。

「もっともナナクサは俺にとってのそれではないがな。やはり他人だ。俺にとってはな」

 そのように言い切ると、彼は石段を下るスピードを速め、ぐんぐんとツキミヤとの距離は離れていった。
 残された青年はどうにも気が削がれてしまって無理に追いつこうとはしなかった。





 いくつかの行灯に火を灯して、その部屋は光で満たされていた。
 部屋の隅で一人が琴を奏で、一人がぽぽんと鼓を鳴らす。
 すると障子が開かれて何人もの村娘達が入ってくる。皆、綺麗な羽織を纏っていた。
 だが、最後に入ってきた娘の衣装の前にはその色彩も単なる引き立て役になってしまった。
 真緋(あけ)、紅(くれない)、韓紅花(からくれない)、炎の色を複雑に織り上げた生地に刺繍された黄金色。その色彩がゆらゆらと揺れる行灯の光に照らされて、艶やかに燃えるように映った。
 自身の頭部を衣で覆うようにしてして入ってきたカナエがするりとそれを取った。
 昼に大社から持ってきたその衣に身を包んだカナエは美しかった。これを来ている時だけは誰も彼女を余所者呼ばわりしなかった。
 ぽぽん、と再び鼓が鳴った。



「これはこれはグンジョウ殿、毎度毎度遠いところからよくいらっしゃいますな」

 その頃、稽古が行われている部屋とは別の部屋で、神楽の音を耳にしている者がいた。
 村長と一人の男。男のほうは里の人間では無い。

「昼間はずっと雨が降っていましたから、ここまでいらっしゃるには骨が折れたことでしょう」

 窓の外に目をやりながら、村長は言った。
 音の出所からわずかばかり光が漏れている。娘達の影がゆらゆらと踊った。

「形だけの挨拶など不要……」

 別室の入り口に仁王立ちする男が言った。
 まあお座りなさいと村長は言った。先ほど男が尋ねてきたときに侍女が引いた藁の座布団は冷えたままだった。
 そう言われて、男は長の正面にあぐらを描くと一通の書簡を差し、

「我らが親方様からの書状を預かっております」

 と言った。

「あなたの親方様も懲りませぬな」

 長の口から出たのは冷めた声だった。
 書状に記された内容など読まなくとも分かっている。
 一方的な要求であり、一方的な都合の押し付け。ただ、それだけのことだ。
 これを届けるためにこの男は幾度と無くこの村を訪れているのだ。

「グンジョウ殿、何度いらしても同じことですな。我が里はどこにも属さぬ」
 
 長は男にそう告げた。
 これは長である私の意思であり、里の者の意思である、と。

「あなたがたの長の事は私もよく知っております。非常に長けたお方だ。貴方達も頼もしい限りでしょう。だが、あの方のほうにつくということは、あの方の信ずる神の神の下につくということなのです。そのようなこと、我等が神がお許しになるはずがない。この土地に君臨する九十九様はそういうお方です。我等とて意思は同じです」
「長殿、今この豊縁は大きく動いております。時代は食うか食われるか……混沌としております。弱ければ強きものに飲み込まれる。我らが殿の提案はこの里にとって悪い条件ではないはず」

 グンジョウと呼ばれた男は力説した。

「違う。あなた方は怖いのだ。あなた方の敵に我らが里が奪われるのではなかとそれが心配でならない。だから我先に手に入れようとする。同盟と云う名の服従を強いて」
「長殿、私は」
「ご心配には及びません。先ほども申し上げた筈。我々はどちらにも属さぬ。だが、今までの通り余剰になった兵糧あらば、相応の対価と引き換えにお渡ししよう。それが我らの精一杯の譲歩です」

 本当は、長は知っていた。
 この年、この里では里の人間が食うに困らない程度の米しかとれないだろう。
 それは九十九が「野の火」をそのように使い、そうなるように仕向けたから。
 九十九は気に食わない。彼らに兵糧が渡ることをよしとしていないのだ。

「早々にお帰りなさい」

 そのように長は続けた。

「本当はこうして会っているだけでもまずいのです。我らが神は機嫌が悪いようだ。今日は九尾と六尾達がやけに騒がしかったと聞いています。あなたが見つかったら何をされるか……。私は里で丸焦げの死体など見たくありません」

 そこまで長が言うと、男は諦めたように黙ってしまった。

「少なくとも祭が終わるまではいらっしゃるな。その後での"商談"ならば相談に乗りましょう」

 そのように長は締めた。もうこれ以上の話をする気はないようだった。
 曲が終わりに近づき、にわかに活気付く。
 こちらの部屋にも、あちらの部屋にも太鼓と笛の音が満ちていた。

「……わかりました。また機を見て参上することにいたしましょう」

 男は村の長に頭を下げる。

「これにて失礼致します。わが主から土産を預かっておりますのでどうぞお納めください」

 そう言い残して部屋を後にした。
 笛が奏でている曲は何度も何度も同じ旋律を追いかけて、太鼓が締めの音を響かせた。



「よろしい。今晩はここまでと致しましょう」

 座敷の隅で稽古を見守っていた女が云った。
 この里で昔から舞を指導している老婆で、彼女の稽古は厳しいことで有名だった。娘達がほっとした表情を浮かべて、力を抜くと、普段の衣に着替え、やがてぞろぞろと屋敷を出て行く。

「巫女殿」

 老婆がカナエに声をかける。

「ひさしぶりとあって少しばかり鈍っていましたが、よろしゅうございました。この調子で仕上げれば九十九様もお喜びになるでしょう。しっかりとお励みなさい」
「は、はい!」

 カナエはうれしくなって、おもわず笑みがこぼれた。
 だから祭の時期は好きだ。こういう時だけは人の輪の中にいられる。そんな気がした。
 夜は更けすっかり暗かったが、娘は上機嫌だった。
 ふんふんと鼻歌を歌いながら衣装を桐の箱にしっかりと納めて、娘は村長の屋敷を後にしようとしていた。
 その時、

「カナエ」

 と、声がした。振り向くと村長の屋敷の塀の裏手からキュウコンが姿を現した。

「……シラヌイさん? 社に帰ったんじゃなかったの?」
「父上の使いで少しな。我が父はあいかわらず狐使いが荒い」

 とシラヌイは答えた。そして村のはずれのほうに目をやって続けた。

「あの男、いやな感じだ。村長と何か話していたようだが、お前何か知っているか?」
「いいえ」
「今朝、村に入り込んでいた雨虫、あの男と同じ匂いがした」

「雨虫?」とカナエが聞き返す。
 シラヌイは険しい顔をして

「いやな奴だ。手を出すなという父上の命でなければ、俺が手を下してるところだ」

 と、悔しそうに言った。
 キュウコンは鼻腔の奥にしっかりと刻み付けている。
 あの雨虫達からは鉄と血の匂いがした。