(十七)証(あかし)


「おかえり、コウスケ!」

 木で出来た穴守家の大きな入り口を潜って、ガラガラと玄関を開けると、バタバタと足音が聞こえてきて、「彼」はすぐに青年の前に姿を現した。

「……シュウジ、戻っていたのか」

 少しばかりあっけにとられて青年が言った。同時になんだか彼は日常に戻ったような気がしたのだった。

「ずっと留守にしていてごめんね。僕も今しがた戻ったんだ」
「まったく、どこに行ってたんだ?」

 青年は靴を脱ぐと靴箱に閉まった。その所作はすっかり慣れたものだ。

「コウスケこそちゃんと台詞は覚えてくれた?」
「あたり前だろう」
「へえ、あとでテストするからね?」
「……望むところだ」

 廊下に上がった。
 ナナクサが戻ってきただけでずいぶん賑やかなものだと思う。

「そうそう、コウスケ達にお土産があるんだ。こっちに来てよ」

 そう言ってナナクサは青年を誘導した。居間の襖を開く。するとまず最初にネイティが飛びついたのと同時に、先に戻っていたヒスイが目に入った。タイキとタマエまでちゃぶ台を囲って茶をすすっている。めずらしくヤミカラスのコクマルまでが、座布団に座って羽を膨らませていた。
 そしてもう一人、この家では見慣れない人物が青年の目に入る。

「あれ、ノゾミちゃん来てたのかい」

 ネイティを頭のてっぺんにのっけて、ツキミヤは言った。

「あ、どうもお邪魔してまーす」

 ノゾミはぺこりと軽くお辞儀するとずるずると茶を啜った。よく見るとテーブルの下で葉っぱのような形をした尻尾が揺れていて引っ込んだ。どうやらポケモン持参らしい。

「どうしたんですか? みなさんお揃いで」
「何、シュウジがご馳走してくれるっていうんでな。こうして待っとるんじゃよ」

 タマエが答えた。

「あ、いけない! 焦げるっ」

 そうナナクサは言うとあわてて台所にかけていった。

「そういえばなんだか、甘い匂いがするな」

 匂いにつられたのか姿を消していた"代表"のカゲボウズが現れて、後を追った。
 追いかけていくと、ナナクサが何かをフライパンの上でひっくり返していた。

「ホットケーキか?」

 ツキミヤが尋ねると

「ポフィンだよ」

 と、ナナクサが答える。

「ポフィン?」
「あれ、コースケはトレーナーのくせに知らないの? シンオウ地方のお菓子なんだけど、この村では結構作られてるんだよ。まあホウエンでいうポロックみたいなもんさ。本当はポケモン用なんだけど人の口にも合うようにアレンジしてあるから」
「ホウエンでいうポロックということは原材料は……」

 青年は台所の床に目をやった。
 そこにはどん、と赤ん坊を入れられるくらいの大きな籠が置いてあって、中に木の実が大量に放り込まれていた。オーソドックスなものから、少しめずらしいものまで混じっていたが、甘いものを中心に用意してあるようだった。
「なるほど、土産はこれか」と、青年は呟いた。

「で、君はこれを探しにずっと出ていたのかい?」
「そうだよ」

 ひょいっとフライパンを返してナナクサが答える。

「そうだよっ、て……」

 夜の舞台演出をほったらかしてまでやることか? と青年は思う。

「まあ他にも野暮用があったんだけどね」
「野暮用?」
「ちょっとした探し物。ちゃんと見つかったよ」

 まさかそのついでに雨降大社に忍び込んだりしていないよな? と青年は聞きかけたがやめておいた。
 冗談では済まなさそうだったからだ。

「できた!」

 ナナクサは木のしゃもじで、フライパンの型そのままのポフィンをすくいとると皿に乗せる。すでに皿の上には同じ円盤形のポフィンが六段重ねほどにしてあって、彼はさらにもう一段乗せして七段重ねとした。ベースにしている木の実が異なるのか、それぞれ違う色をしている。彼はそれを包丁を入れて八分割ほどにした。そして、あらかじめ用意しておいたブリーの実のジャムをたっぷりと上に乗せた。ジャムはとろりと溶けて、切り口から隙間に流れ込んでゆく。なりゆきを見ていたカゲボウズがごくんと唾をのみ込んだ。

「ちなみに、形を安定させる為に生地にスバメニシキの米粉を混ぜるのがこの村流なのさ」
「へえ」
「これはね、シュウイチさんが考案したんだよ。あの人は調理法の研究もしていてね。とりあえずこれ持っていってくれる?」

 ナナクサはフォークをいくつかつかみ出すと、小皿の上に乗せる。ツキミヤにほらこれだと指差して、自分はポフィンの皿を居間に運んでいった。

「みなさーん、お待たせしましたー」
「おー、まっとったぞー」

 歓声が上がって、彼らの食事は始まった。
 人間もポケモンもむしゃむしゃと食べる。
 タマエはこれじゃこれじゃと言って、自分の皿にありったけ盛りつけるとさらにジャムをかけた。ヤミカラスがテーブルに飛び乗ってきて、タイキはフォークに指したそれをヤミカラスに差し出す。ノゾミがおねえちゃんが作るのよりおいしい、と言った。ふーふーとよく冷ましてから、小皿をニョロモに差し出す。ちゃぶ台の上でカゲボウズとネイティが一つの皿から奪い合うように引っ張り合う。そのはずみでツキミヤの頬にジャムがひっかかった。ヒスイはその様子を見ながら黙って食べていたが、

「ほらほら、ヒスイもリザードを出していいんだよ。ただし畳は燃やさないように」

 そのようにナナクサが言うと、彼は小皿を持って庭の見える縁側に歩いていきリザードを繰り出し、食べさせ始めた。
 そんな彼らの様子をナナクサはにやにやしながらひとしきり見つめた後、席を立つ。

「どこに行くんだい?」

 ツキミヤが尋ねると「ちょっとね。すぐに戻るよ」と彼は言った。

「ねえ、ツキミヤさん」

 いつのまにか隣に皿を持ったノゾミが隣に移動してきていて青年に話しかけた。
「ちょっと教えて欲しいことがあるの」と、ノゾミは言う。

「そういえばなんでノゾミちゃんが来てるんだい?」

 するとノジミは「別に来たかったわけじゃないけど」と、前置きした上で、

「タイキがニョロすけの水の石返してくれるっていうじゃない。だから」

 と、答えた。
 ああ、そういうことかとツキミヤは理解する。

「いやのう、どーゆー風の吹き回しか知らんが急にコクマルが水の石を持ってきおってのー、ノゾミんちに返しにいくって電話したんじゃが、どういうわけかノゾミのほうから来ると言い出したんじゃ」

 タイキが補足した。
 そんなタイキにはお構いなしにノゾミが話題を戻す。青年に小声で尋ねてきた。

「ねえツキミヤさん、お姉ちゃん、シュージお兄ちゃんと何かあった?」
「なんでそう思うんだい」
「いや、なんていうかお姉ちゃんおかしいのよ。その、私、お姉ちゃんの隣で通し稽古見ていたんだけどね、お姉ちゃんたら村長さんに『私ナナクサさんなんて方、知らない』って言うのよ?」

 なるほど、目的はそれか。と、青年は理解した。それを探るためにわざわざ来たというわけだ。ノゾミが青年に耳打ちする。

「私が思うにね、お姉ちゃんシュウジおにいちゃんに告白したんじゃないの。それでよっぽどこっぴどく振られたんだわ」

 あたり。まったくこういう時の女の子の洞察力というのは恐ろしい、と青年は思う。

「……そして竹林で悲嘆にくれてぶっ倒れたと」

 と、そのように返した。青年にはものすごく身に覚えがありすぎた。

「どうもそうらしいのよ。まぁそれは貧血か何かなんでしょうけど。でもそれにして変なのよね」
「何がだい」
「ほら、おねえちゃんって見たまんま執念深くてハブネークのような女じゃない? こっぴどく振られたからって簡単に諦めるようなタマじゃないと思うのよ。それでいて根に持つタイプっていうか」
「……まあ、わかるよ」
「でしょう!?」

 ノゾミは話が通じたとばかりにおおいに盛り上がる。タイキは話についてゆけず、つまらなさそうに青年と少女を見ていた。青年は苦笑いする。

「それなのに、きれいさっぱり忘れちゃって、憑き物が落ちてしまった感じなのよね」
「ふうん、そうなんだ……」
「その、シュージお兄ちゃん風に表現するなら、無洗米って感じね。とるものとってしまって、そのままでもいけます! とがなくても炊けます! みたいな」
「……無洗米ね」

 なかなか面白い表現をする子だなと、青年は思った。

「そうだ、米で思い出したんだけど」
「何?」
「ノゾミちゃん、穴守さんところの出店ブースには行ったのかい」
「え、そんなのあるの?」

 まったく知らなかったとばかりにノゾミは言った。

「タイキ君も手伝ってるんだ。ねえ、店長代理さん?」

 少年に目配せする。

「そうなの?」

 と、ノゾミがタイキのほうを向いて尋ねた。

「あ、うん。ま、まあ」

 タイキは顔を赤くして歯切れの悪い返事をした。
 ツキミヤはノゾミに耳打ちする。

「ものすごくおいしいってコアなファンの間で有名なんだ」
「へえ? でも私お米の味に関してはうるさいわよ?」
「僕も食べてみたけどこれがすごかった。お米ってものの概念が変わるね。あれは」
「えー、そんなに?」

 青年の評価を聞いてノゾミは期待を膨らませる。

「ねえタイキ、明日行っていいかな」

 と、ノゾミが尋ねた。
 すると、タイキがヤミカラスをむんずと掴んで、その羽毛をいじりだし、もじもじし始めた。

「どうしたの?」
「いや、その……非常に言いにくいんじゃが」
「何?」
「祭で出す分の米、今日のお昼になくなってしもうてのう……明日はもうやらんのじゃ」
「えー」

 ノゾミは悲嘆の声をあげた。
 タイキが申し訳なさそうに

「……すまんのう」

 と、言った。
 すると、何を思ったのかタマエがすっと席を立った。台所に入りしばらくごそごそと何かを漁ると、麻の袋に何かを入れて持ってくる。
「ん」と言って、老婆は少年の前に差し出した。受け取った少年はその感触から中に入っているものを瞬時に理解したようだった。それは二合ほど入っていた。

「タマエ婆、これ……」
「なあに。ちと必要があってとっといたが、そういうことなら仕方あるまい」

 と、老婆は言う。
 
「だって、これ……」
「ええんじゃ。それでご馳走してあげんしゃい。ただし炊飯器じゃだめじゃぞ。あそこで、ちゃんと釜をつかって炊いたってな」
「……わかった」

 少年は何か神妙な面持ちになって、そしてぼそりと言った。
「タマエ婆、ありがとう」、と。

「みなさーん、こっちむいてー」

 その時、縁側の向こうから陽気な声が聞こえてきた。ナナクサであった。
 何やら足が三本ある台を持ち出し、セットしている。

「どうしたんだよ。そんなもの持ち出して」
「決まってるでしょ。記念撮影」

 ツキミヤが尋ねるとナナクサはそう答えた。彼が用意してきたもの、それは三脚だった。

「だって明日は舞台の本番じゃない。舞台が終わればもう祭も終わりになるよ。そうしたらコウスケもヒスイもまた旅に出るんだろ? だからやるなら今のうち。ノゾミちゃんもいることだしさ、ちょうどいいじゃない」

 カメラを三脚の上に置き、セットする。

「さあ集まって! ポケモンも一緒にね」

 ナナクサが号令をかける。それはどこかからげんきのように青年に映った。
 青年は知っている。祭が終わったらここを去るのがヒスイと自分だけではないことを。もう一人、場合によってはもう一人いなくなる。
 だから彼は残そうとしているのだ。自分がいた証、自分「達」がここにいた証を。

「なんじゃあ、ずいぶん騒がしいのう」

 そう言って入ってきたのは、タイキの父親だった。

「あ、やーっと起きてきた。ささ、お父様もさっさと入ってくださいな」

 ナナクサが言う。
 邪険にしているように見えちゃんとカウントには入っているらしかった。

「ん? ああっ、ずるいやんか! みんなしてポフィンさ食いおって!」

 もうジャムしか残っていない皿を見てタイキの父はいった。たぶん匂いでわかったのだろう。

「父ちゃんがいつまでも寝とるからじゃ。ハトマッシグラの米酒飲んでからに」
「はいはい、お父様用には後で食べたいだけ焼いて差し上げますから、今は並んでくださいね!」

 カメラのピントを調整しながらナナクサが言った。

「はーい、じゃあ撮りますよ!」

 住人、旅人、そのポケモン達。去るもの、残るもの。穴守の家の庭先で人とポケモンが一箇所に固まる。
 ツキミヤの隣にナナクサが並んだとき、カシャ、と自動シャッターが降ろされる音がした。





「よう、久しぶりだな。キクイチロウ」

 一面黄金色に色付いた大地に二人の青年が立っているのが見えた。
 収穫無き秋が過ぎて、村は不毛の冬に耐えた。
 春になって田植えの季節になり、夏が過ぎて、再び実りを迎える季節となった。
 黄金色に色づいてお辞儀をする稲にはずっしりとした実がたわわに実っている。
 シュウイチはまるで愛しい人の髪を撫でるようにしてそれに触れた。

「立派なもんだろ」

 シュウイチが言った。

「ああ。だが散々だ。お前の家以外はな」

 やがてこの村の長になる青年はそのように答えた。

「まともに実ったのは、穴守の家だけだ」

 目の前につきつけられた結果を確認するようにキクイチロウは続ける。
 風が吹いて金色の野をさわさわと揺らした。

「どんな手を使った?」
「……外から種を持ち込んだのがよかったのかのう」

 シュウイチはキクイチロウのほうを向かないまま淡々と言った。

「数を集めただけだ。いろいろ持ち込んだ。スバメニシキ、オニスズメノナミダ……他にもいろいろだ。下手な狩人もありったけぼんぐりを投げればジグザグマの一匹くらい捕まえられるだろ。そういった感じでだ」
「…………」

 キクイチロウは黙って耳を傾けた。
 村の者皆が皆知りたがっていた。稲に実をつける方法を知りたがっていた。
 だが、村の者達は皆、シュウイチに近づこうとしなかった。

「どれか一つでも実がつけばいい、病に強い稲が見つかればいい。そう思っていた」

 シュウイチが続ける。
 彼らが彼を見る目には二つのものが見え隠れしていた。村でただ一軒実をつけた者へのやっかみ、そしてうしろめたさだ。
 去年の少し前、この村に住まう者達がシュウイチに何をしたかはまだ記憶に新しい。

「だが困ったことに、明確な説明が出来なくなっちまった」

 と、シュウイチは言った。

「教えられんということか」
「そうじゃ、教えられん」

 彼は即座にそう答えた。キクイチロウは顔のあたりが熱を帯びた感じがした。
 わかっている。この青年の感情を考えれば、当たり前の答えなのだ。だが、この緊急事態に意地を張る青年に彼が怒りを覚えたのも確かだった。
 だがシュウイチは

「だってそうじゃろう? どれもこれも全部が全部びっしり実をつけたのでは、これを育てたら良いと教えられんじゃないか」

 と言った。

「……それは教える気があるということか」
「あるもないも、俺は結果が出たらそうするつもりじゃった」

 青年が振り向く。
 キクイチロウは昇った熱が引いていくのと同時にどうにも度量の差を見せ付けられた気がした。
 あそこまでの事をされておきながら、今なおそういう立場にありながら、なぜこうも彼は屈託無くそう答えられるのか。
 胸のあたりが苦しくなった。きっと自分には耐えられないと、そう思う。

「キクイチロウ、おまんの立場はわかっておるつもりじゃ」

 シュウイチのその言葉がキクイチロウを追い詰める。
 彼の後ろには彼の持ってくる「答え」を期待しているもの達がいるのだ。皆、顔を合わせるのがいやだから、代わりにキクイチロウがここに来ている。この男は彼らに「答え」を持っていかなければならない。それが将来、村の長となるキクイチロウに振られた役回りなのだ。

「だが、わかってくれ。俺だってどうしたらいいものか悩んどるんだ。いい加減な答えを言うわけにはいけない。だから悩んどる」

 シュウイチはたわわに実った稲を見つめてそう言った。
 ふうっとキクイチロウは静かにため息をついた。わかっている。こいつはそういう男なのだ。

「……シュウイチ」
「なんじゃ」
「おまん、わしん立場がわかっとると言ったな」
「ああ」
「そんならば、純粋に取引といこう」
「取引……」
「商売の話をするっちゅうことだ」

 シュウイチは理解した。つまりこういうことだ。この田で出来た米の種もみを売れ、とこの男はそう言っている。おそらく彼はそれを村人に配るなり、貸し付けるなどするつもりなのだろう。
 キクイチロウにはわかっていた。ある意味でもっとも卑怯な手だと。権力を使って無理やり口を割らせることもできず、かといってまともにシュウイチに頭を下げることも出来ないのだ。だから、こうして取引を持ちかけている。対等なように見せかけて、結局は面子を保ちたいだけだ。だが、

「わかった」

 と、シュウイチは言った。
「キクイチロウの立場は理解しておるつもりじゃきに」、と。
 そうして、若者二人は口頭でそろばんをはじき始めた。
 安く買うつもりはなかった。買い叩いたとあっては、その価値が疑われる。
 安く売るつもりはなかった。遠方のあちこちから苦労してかき集めた種を、孤独に耐えながら育てた。
 この田で出来た米には通常の何倍も何倍もの値段がつけられた。この田の米にはそういう価値があった。それは病気にならない種、秋には実りを約束する種なのだから。

「では、こんなものでどうだ」

 最終的な値をキクイチロウが算出し、示した。
 シュウイチは概ね了承したようだった。

「それでいい。ただ、一つ条件をつけさせてくれ」
「なんだ」
「対価はその半分でいい。そのかわりおまんに用意して欲しいものがある」
「用意して欲しいもの?」

 キクイチロウは怪訝な表情を浮かべる。

「あの時のことを気にしているのか。それなら村の者には決してあの時の話題に触れないように言うつもりだ」

 キクイチロウは己の中で自嘲する。その口でよく言えたものだ、と。あの時最もシュウイチを恐れたのは誰よりも自分自身ではないか。

「そうとも、あれは妖怪の仕業なんかじゃない。祭で大社に人が集まっている隙に何者かが火をつけた。おまんはただその時に詠っただけ、舞っただけ、だ」
「実際はそうだろう。だが、村の者はそうは思っていない。この村のもんは今だ迷信を信じつづけとる。権力はその手の信仰に勝つことはできん」
「そんなことはない。止めるさ」

 キクイチロウはそう言ったがシュウイチは首を振る。

「皆の信仰を支えるものはあそこの、別殿にあるきに」

 と、言った。

「……"あれ"か」
「そうじゃ。俺に言わせれば"あれ"も寄せ集めのインチキだが……だいたい"あれ"の中にはない。一番重要な"色"がないじゃないか」
「……あの"色"のものは大昔に焼失したと聞いている」

 苦々しく答えると「それがインチキだと言っておる」と即座に指摘した。
 少し腹が立った。あれは雨降大社で遠い昔から伝えられてきて、代々受け継いできたものだ。だが、シュウイチの感情を考えれば致し方の無いことだと、彼はそれを飲み込んだ。今、何より優先しなければならないことは、この青年から「種」を手に入れることだ。すると、

「だが、重要なのは真偽じゃあない。実際に皆が信じているかどうか、だ」

 シュウイチはそう言った。

「信じられているのなら逆に利用してしまえばいい」
「どうすると言うんだ」
「"あれ"のうちの一つを俺にくれないか」

 キクイチロウが凍りついた。

「それは……」
「何も大物をよこせとは言わん。一番小さなものでいい」
「それはできん!」

 キクイチロウは脊髄反射のごとくを返した。
 シュウイチにとってそれは予想通りの反応だった。キクイチロウが難色を示すことなどわかっていた。だが、彼はさらに続けた。

「なあ、キクイチロウ。俺はこの村の人間だろう。俺を認めてくれるんなら、九十九が憑いているのでないと認めてくれるならその『証』が欲しい。もし"あれ"をおまんの手から俺に渡したなら、雑音は一気に吹っ飛ぶだろうよ。それがたとえ、一番小さいものであってもだ」

 たしかに、有効な方法ではあるとキクイチロウは思った。人々は甘んじて狐憑き由来の米の種を受け取りたいとは思っていないはず。事をすんなり運ぶにはそういうパフォーマンスが必要かもしれない。

「俺自身は何を言われてもいい。だがうちのお父やお母、じいさんばあさんはどうなる。俺ん為にこれ以上惨めな思いをさせとうないんじゃ」

 それにキクイチロウは初めてのような気がした。

「次の村長になるおまんになら、それくらいの力はあるじゃろう。どうか俺を立てておくれ」

 初めてのような気がした。シュウイチが自分に頼みごとをし、そういった弱みを見せるなどといった事は初めてのような気がした。

「…………わかった」

 最後の最後にキクイチロウはそう答えた。





 フライパンの上、ポフィンの生地が焼き固まってゆく。ナナクサはそれをしゃもじで器用にひっくり返す。

「おー、これじゃこれじゃあ」

 その隣の部屋でそう言って、タイキの父は食べ始めた。
 タマエに負けないくらいブリーのジャムをかけると口の中に運んだ。

「うまぁい!」
「はいはい、まだありますから好きなだけ食べてくださいね」

 ナナクサが追加で焼き上げたポフィンの山を運んでくる。
 ドン、とちゃぶ台に置いた。

「こいつは昔を思い出すのう。父ちゃんもときどき山に入ってのう。木の実を見つけてきてはこうしたり、ポロック作ったりしたもんよ。ほんま懐かしい味じゃあ」
「それはよかったです。まだ足りなかったら焼きますから、声をおかけください」
「おう」

 と、タイキの父は機嫌よく返事をした。

「なるほど母ちゃんがあいつを雇った理由がよくわかったわ」

 もごもごしながら彼は息子に言った。

「ああ、俺んもはじめて食った時は驚いたわ。じいちゃんの作ったもんにそっくりなんだもの。俺もタマエ婆も散々試したけどあの味は出せんかったってーのに」

 そう言ってタイキも手を伸ばした。
 さきほど食べたばかりだというのに飽きずに鴉もそれをつつく。

「コクマル、コクマル、ちょっとこっちにおいで」

 すると、台所からナナクサの手が伸びてカラスを手招きした。
 鴉は首をかしげるとちょんちょんと飛びながら、入っていった。
 見るとナナクサがなにやら小さな籠を手に抱えていた。木の実を入れた大きな籠とは別のものだった。彼はその籠を傾けて見せる。
 するとコクマルの表情がみるみる変わったのが見て取れた。

「どうだい、なかなかのもんだろう。見つけるの大変だったんだよー」

 中にあったのは木の実だった。中にあったのはカムラの実、ブーカの実、ホズの実……いずれも上等で、めったに食べられないめずらしいものばかり。それらは甘味の強い木の実ばかりであることを鴉は知っていた。

「ねえコクマル、これでポロックを作ってあげる」

 と、ナナクサは言った。
 これらをブレンドすれば、どんなポロックが出来るか。ポフィンを食べたばかりだというのに想像しただけで鴉はよだれが出そうだった。

「もちろん全部君のものだ。全部君が食べていいんだよ。でも……代わりに一つ頼まれてくれないかな」

 そのようにナナクサが言うと、鴉は目をぱちぱちとさせて、そしてまた首をかしげた。



「シュウジは?」
「調理中だ。だが、すぐに追うと言っていた」

 脚本をぱらぱらとめくりながら内容を確認するツキミヤにヒスイが答える。

「そうか」

 と、ツキミヤが返事をした。
 彼らの姿は別荘にあった。最後の詰めの打ち合わせをする為だった。面倒だったがあの家の中でやるにはやはり物騒な相談だった。

「なあ、どう思う」
「何がだ」
「大社に侵入した人物について、だ」

 台詞を頭の中で反芻しながら、ツキミヤはそんな質問をぶつけた。
 すると「そういうお前はどう思うんだ?」とヒスイは聞き返してきた。

「可能性は高いと思っている」
「ふむ」
「あの中に神事にかかわる重要な何かがあるとすれば、彼ならやりかねないだろ」

 メグミが言うに、あそこには伝説の実在を証明する何かがあるという。明日になれば見れるとわかっていたが、ツキミヤは妙に気にかかっていた。

「だが、疑問が残るんだ。仮にシュウジがあそこに何か盗みに入ったとしてだ。あんなヘマをやらかすだろうか」
「ヘマ?」
「警報が鳴った。それで村長さんもいぶかしんでいる。それになんだろう……」
「なんだ」
「僕が思うに、シュウジだったら警報の存在を知っている気がするんだ。わざわざ鳴らすような真似をするだろうか」
「……なぜそう思う?」
「村のことなら何でも知ってるのがシュウジだからさ。同じようにあそこに警報があることも知っていると思う。あれかじめ解除してから入る方法とかさ。だから正直わからない」

 するとヒスイは「どちらだろうと構わん」と、言った。
 モンスターボールからリザードを繰り出す。同時にポケモンを出せという視線を送った。

「面倒な事はあいつに任せておけ。俺達は演技だけに集中すればいい」





 とうに日が昇った時刻だったが空はどんよりと曇っている。その下をどかどかと地を蹴りながら駆ける三ッ首の鳥の姿があった。それにまたがった男がぴしりと手綱の振動を伝えるとほどなくして、鳥はスピードを落とし始める。彼らが目指す先に矢倉のようなものが見え、旗が揺れている。何者かが陣を張っているらしかった。木組みの門をくぐった時、鳥は足を止めた。どちらにしろ夜通し走り続け、そろそろ休みたいと思っていたのだ。
 だがその主には休む暇がないようで、彼は駐屯していた兵に三ッ首を預けると陣の奥に奥に入っていった。

「ただいま戻りましてございます。親方様」
「グンジョウか」

 暗い部屋。長細いテーブルがあって奥に奥に伸びていた。
 その一番奥に一際背もたれの高い椅子があって何者かが鎮座している。
 
「はい」

 と、グンジョウは返事をした。

「誠に骨折り。その分だと一晩中走ってきたのだろう。座ってよいぞ」
「かたじけのうございます」

 グンジョウは遠慮がちに隅の粗末な椅子に腰をかけた。

「して、里の返答は?」
「……我らが里はどこにも属さぬと」
「そうか……だがお前の声の明暗からだいたいの想像はついていた」
「恐れいります」
「ふむ、やはり狐は尻尾を振らぬか」
「はい」
「だろうな。ひそかに放った雨虫が羽根を焦がして帰って参った」
「……雨虫が」

 どうやら男はグンジョウ以外も使って情報を集めているようであった。

「左様。お前と違って"遠周り"しておらぬ故、戻ってくるのは早かった」

 カツカツと足音が近づいてくる。
 陣の奥から青い衣をつけた男がグンジョウの眼前に現れた。まだ若い男だ。
 グンジョウは立ち上がり、そして跪いた。

「所詮は"赤"に近き者か。もとより相性は水と油」
「……ウコウ様にはあれだけ別格の条件をご用意いただきながらこのざまとはこのグンジョウの力不足。情けのうございます」

 男は深々と頭を垂れる。

「ふ、気に病むでないグンジョウよ」
「しかし」
「無理をしてお前が黒こげにされても困るわ。お前にはまだ働いてもらわねばならんのだからな。さあ表をあげよ。立つがよい」
「しかし」
「里に"種"は撒いたのであろう?」
「は……、里の長に渡してございます。失敗した時は土産を渡せとのご命令でしたから」
「ならばよい。お前はお前の役目を果たしたのだ」

 ウコウ、そう呼ばれた男は長いテーブルに敷かれた。一枚の大きな地図を指差した。
 それは秋津国の南、海に囲まれた南の地。

「青に塗られた部分が我等が版図、赤に塗られた部分が奴等が版図……そして今我等がいる場所がここに」

 トントンとその場所を指の先で叩いた。

「このようにして見れば瞭然よ。あの里の重要性が。奴等が版図に加わる前に早急に」

 先ほど叩いていた場所から指を少しばかり移動する。彼は里のある場所を指差した。

「あの狐は強い。土着の妖が強いと平定も一苦労よ。抵抗が激しく奴らも苦労していると聞く。……特に人の言葉を操るものは厄介……だが」

 男はグンジョウを横目に見る。

「今や地の利は我らにある。その為にまずはこの地を手中に収めたのだから」
「はい」
「ならば、水の流れこそ我らが味方」

 男は地図を線を引くようになぞって不敵に笑った。

「天狗にも手を焼いたが、得たものは大きかったな。この地に実をつけるあの奇妙な実……我等が為にあるようなものだ」
「はい。あれを安定的に供給できればさまざまなことが可能になります」
「お前がおらぬ間にも準備は着々と進んでおる。栽培のほうには課題が残るが、腕利きの職人を引き抜いたゆえ加工と細工は上々だ」

 グンジョウは答えない。ただ黙って主を見た。自分がいない間にもこの男は次々にあの手この手を用意する。先代に比べてもこのお方の才は抜きん出ている。そのように彼は思った。

「心が躍るのう。狐の地の者共が我等が神に膝をつく日も近い」

 ウコウとグンジョウが薄暗い陣の奥の奥を見た。
 ウコウが座っていた椅子のさらに奥。
 そこには大きな絵がかけられている。青い顔料で描がかれたそれは、巨大な魚のように見えた。





「いいねいいね、合格、合格」

 ナナクサは青年に向けてぱちぱちと手を叩いた。

「ちゃんと覚えてるか心配していたけど、しっかり覚えてるじゃない」
「それはどうも」

 扇を下ろすと、ツキミヤはあまりうれしくなさそうな顔で返事をした。
 正直覚えたという感じがしない。意味が違っても聞こえてくる音はほとんど同じだからだ。

「それより心配なのは、雨降のカメックスだ。あれは手ごわい」

 そのように青年が言うと「同感だな」とナナクサの隣に座っていたヒスイが言った。

「あれを倒さないことには、でっち上げた脚本も、覚えた歌詞も台詞もすべてが水の泡だ」
「……水の泡とはうまいこと言うね、コウスケ」
「おい、こっちは切実に悩んでいるんだぞ」

 正直なところ行き当たりばったりで無計画すぎたと青年は思った。舞だの台詞だのそういうことを見せられる程度に持っていくのに時間の多くを持っていかれ、肝心のところがおろそかになっている。こういうことを本末転倒というのだ。

「お得意のイカサマを使えばいいじゃない」

 と、ナナクサは言った。

「ほらなんて言うんだっけ、ドーモ君とか言う雨降らすポケモン」
「ドータクンだ」

 とツキミヤは訂正する。

「ヒスイと検証したが、ハイドロポンプの軌道を逸らしてもらうのが精一杯だろう。攻撃に回す余裕は無い。相手の主砲は二つもあるんだ」
「ネイティは?」
「彼はドータクンの眼だ。ひき続きな。増援は見込めない」
「問題はそれだけではない」

 割って入るようにヒスイが言う。

「俺のカグツチとツキミヤのカゲボウズ、敵の攻撃を防ぎながら攻撃を続ければそのうちは倒せるだろう。だがそれではだめだ。俺達の意図に気がつかれるその前に勝負をつけなければならん」
「そう。そうしないと、お偉いさん方に舞台そのものが止められる可能性があるからね」

 ツキミヤが同意した。やはり相性の壁は大きいのだ。
 できれば巨大シャドーボールのような派手な真似はしたくなかった。

「もちろん最善は尽くすが、大いに不安が残る」
「弱点をつけばいいじゃない」

 するとナナクサはいとも簡単に言った。

「馬鹿か君は。そんなことができたらとうにやっている」

 ツキミヤはあきれた声で返す。

「あ、ひどいなー。僕が何の考えもなしにそんなこと言うと思うの? なんの為に一晩も留守にしていたと思うのさ」
「手があるのか?」

 と、ヒスイが尋ねるとナナクサはふふっと笑った。

「ちゃんと考えてある。僕は君達を勝たせる為にいるんだ」

 懐に手を入れる。

「そういえばコウスケ、もうネイティの名前は決めたの?」
「まだだ……」
「そう。それはそろそろ決めなくちゃいけないねえ」

 そんなことを言いながら彼は取り出したものを見せる。
 ツキミヤとヒスイが怪訝な表情を浮かべた。





 日が暮れかけていた。里の広場では太鼓や笛の音が聞こえ始め、火が炊かれる。人々は活気付いていた。
 だが、陽気な人々とは魔逆に里の境界では緊張が支配していた。
 九十九が息子達に命を下した。
 侵入者を決して許すな。里に入れるな。神聖な祭を汚すものは排除しろ、と。
 シラヌイは大気の中にある匂いに注意を払った。
 もともと縄張り意識というものが強く、外から干渉されることを嫌う傾向が父にはあった。だが、隣接する樫の里から天狗が去ってからというもの、父はより神経質になっていることをシラヌイは知っていた。
 シラヌイとダキニは北に、サスケとフシミは南に他の兄弟達は村の要所要所に散った。
 ある意味自然の要塞たるこの里は四方のほとんどを山に囲まれている。もし父の嫌う者達が、大手を振って押しかけるなら、多少なりとも平坦な道が開けた南か北しかない。
 四つ足の旅人や行商人はほとんどそこからやってくるし、三ッ首に乗った"あの男"も南からやってきていた。

「シラヌイ、悪い知らせだ」

 西南西のほうからダキニが駆けてきて言った。

「里を飛ぶ燕からの伝令よ。奴等が動き出したぞ」
「そうか……」

 とシラヌイは答えた。あの夜、かいだあの匂いが思い出される。いやな匂いだった。

「父上の予感は当たったのだな」
「ああ」
「燕は何と言ってる。やつらはどう動いているんだ」
「三ッ首に乗った男達がかなりの数、奴等が陣を出たらしい。この里に向かっている」
「愚かな。よりによって神事の時に」

 シラヌイは上あごにしわを寄せる。
「冷静になれシラヌイ」とダキニはいさめた。

「過去百年を振り返ってもこのような事何度もあったではないか。敵は皆、豊かなこの地を欲しがっていた。だが、その度にその侵入を防いできたは我等が一族の力よ」
「そうだな。有事の際に土地を守るは我らが務め」

 ひたすら農耕の技術を磨いてきた里の人間達は武力を持たなかった。その果実を搾取せんとする者達から土地を守るのが彼ら。その分業でこの里は栄えてきた。だからこそ狐の一族の筆頭は神だった。毎年、毎年、大社に供えられるしゃもじ。それは感謝と彼らへの畏れの証なのだ。
 空気がざわついた。風が匂いを運んでくる。

「来たな」
「ああ」
「迎え撃つぞ」

 彼らの鼻をついた、それは戦の匂い。

「六尾達、体制を整えよ!」
「侵入者を許すな! この里に一頭、一人たりとも入れてはならん!」

 北からも南からも遠吠えが響いた。戦の狼煙が上がった。





 結局最後の日もナナクサに散々絞られ、ずいぶんと夜が更けてから寝込んだ覚えがある。
 だが、気がつくと黄金色の田の暗い空の下に青年は立っていた。そこが普段自分が立っている地平でないことをすでに青年は知っている。しばらく歩くとじきに石段のある小高い山が見えてきて、彼はそれを登り、大鳥居の下に立つこととなった。
 だがその奥にある大社はしいんと静まり返っている。主の姿は見えなかった。

「九十九はいないのか」

 青年は呟く。
 大鳥居の先に足を踏み入れ、きょろきょろとあたりを見回した。すると先ほど自分が潜った大鳥居のあたりから子供の声がした。

「九十九なら今は居ない」
「誰だ?」

 驚いて振り返ると、大鳥居の柱の裏から十歳くらいの少年が顔を覗かせた。

「……なんだ、君か」

 少年の姿を見た途端に、青年はそれが何者であるか理解したらしい。驚かせやがってといったようにふうっと息をついた。

「君は九十九の居場所を知ってるのかい」

 青年が問うと少年は「ううん」と答えた。

「でも、招きたいお客がいるって言ってた。だからきっとその人のところ」
「招きたい客……?」

 誰だろうかと青年は一瞬思案した。が、それを遮るようにして

「コウスケ、明日はいよいよ本番だね」

 と、幼い頃の青年の顔をした少年は言った。
 無邪気に浮かべるその笑み。それは遊んでほしくてたまらない、構って欲しいといった時のカゲボウズによく似ていた。

「ねえ、僕に見せてよ。特訓の成果をさ」

 幼いツキミヤコウスケは、青年にせがむ。

「悪いが今そんな気分じゃないんだ。鬼コーチの特訓から帰ったばかりでね……」
「ええー」

 青年がやんわりと拒否すると、少年は悲嘆の声をあげる。そして、

「そんなことないよ。コウスケはまだやりたいと思ってるだろ」

 などと訳のわからないことを言い出した。

「……疲れてるんだ。放っておいてくれ」
「疲れてるならなんでここに来たのさ。昨日は来なかったくせに」
「…………」
「コウスケはやる。やるったらやるの!」

 少年は柱の影から飛び出してきて叫んだ。
「うるさいな……」いかにも煙たがっている表情をうかべ青年は呟いた。すると、少年が

「ほら、それを証拠にコウスケはもう着替えてるじゃない」

 と、指差して少年は言った。
 
「……?」

 青年は驚いた。自分を包む衣服を見ると、それは朱の生地に金色の刺繍の布。それは舞台衣装だった。舞台上においてそれは妖狐の毛皮と云うにも等しい。

「さ、コウスケ……」

 少年が青年の前に進み出る。後ろに組んだ腕を解き、何かを取り出す。それはにたりと笑う狐の面だった。少年はすっと両腕を伸ばし青年に差し出した。

「今晩九十九はここにいない。だから今日ここでは君こそが九十九なんだ。さあ」

 少年の瞳がを覗き込む。その瞳は三色の光を帯びていた。それに呼応するように青年の目の色もまた同じ光を宿した。唐突にわかった気がした。今日ここに自分を呼んだのは――。
 彼はすうっと腕を伸ばすと面を手に取った。

 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ
 燃えよ燃えよ 大地よ燃えよ

 気がつくと青年は面をつけ、そして呪詛を紡いでいた。
 繰り返し繰り返し口にしたこの詩をいまや青年は息をするように口ずさんでいる。
 するとその詩に呼応するように暗き空に火が灯って、いくつもいつくも夜の闇に現れ田の中に堕ちた。ごうっと夜空が明るく燃えた。

 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ炎よ
 燃え上がれ火 燃え上がれ火 燃え上がれ我が炎

 青年は謳う。夜の帳が下りた村の田に、「彼ら」は燃える地平を見た。
 黄金色の大地に、紅き火が放たれ、広がってゆく。地平線が赤く彩られていく。
 燃え落ちる稲穂、すべてが灰になってゆく。幾重の月をかけて育んだすべてを瞬く間に灰に変えてゆく炎。それは田と生きる民にとって絶望に他ならない。青年の眼前に広がるのは詩にある紅き地平だった。
 ふと、彼の耳に喉の奥から低く響く笑い声が届いた。どうやらそれは青年自身から発せられたもののようだった。青年自身が見ることができぬその口元は醜く醜く歪んでいるのだろう。

「そうだ。それでいいんだよ……コウスケ」

 満足げに少年は言った。炎に照らされたその顔は濃い影を刻み付けていた。
 
「忘れてはいけないよコウスケ。この世界が僕達に何をしたのか。あの夜に僕達は決めたんだ。恨んでやると、決して許さないと、この世界を許さないと」

 声変わりをする前の、まだ幼かった頃の声が語りかける。
 神社の石段で父の背中を追っていたあの頃の声だ。
 この声を耳にすると青年はいくらでも残酷になれる気がした。

「許さない。父さんを棄てたこの世界を許さない。僕達はそう決めた」

 石畳の上で大小二つの影が踊っている。
 炎は暴く、照らし出す。暗い暗い青年の闇。猩々緋(しょうじょうひ)の炎は赤く紅く炙り出す。揺らぎ揺らめく火が踊り歪に歪に照らし出す。
 さあ、絶望するがいい。世を恨み、憎むがいい。
 燃えろ燃えろ燃えてしまえ。すべて灰になってしまえ。
 この地に絶望の証を刻みつけよう。





 穴守の家、人の寝静まった深夜に起きだす者があった。
 その人は台所へ入っていくと、水を一杯グラスに注ぐ。ごくりごくりごくり、と三回ほどに分けてと飲み干した。
 目がひどく冴えていた。再び眠れる気が起きず、隣の居間の灯りをつける。
 灯かりは瞬く間についた。すると、ちゃぶ台の上にラップをかけて保存してあるポフィンの皿が目に入った。夕べにタイキとその父が散々に食べ散らかしたその残りだった。

「こいつはちょうどいいわい」

 彼女は台所に戻り、茶を淹れた。湯のみと急須をトンとちゃぶ台に置き、座布団を敷いて正座し、ラップのかかった皿に手を伸ばす。半分ほどそれをはがすと中のポフィンをつまんで口に運んだ。こぽこぽと湯のみに茶を注いで、ふーふーと二、三度吹いてからすすった。

「ふう」

 タマエが一息を淹れたところで、居間に足音が近づいてくるのが聞こえた。
 
「シュージか」

 と、タマエは言った。足音の伝える歩き方でそれがわかる。

「すみません、足音が聞こえたのですが戻ってこられないので、どうしたのかと思って……」

 半開きのままだった襖から顔を出してナナクサが言った。
「何、少し一服してるだけのことよ」と、タマエは答える。

「起きてきたんなら、シュージも飲むか」

 そう言って、よっこいしょっと彼女は立ち上がった。
「とんでもない。僕がやりますから」と、ナナクサは言ったが「いいんじゃ」とタマエは言い、そうして湯のみをひとつ持ってくると、それをちゃぶ台の上に置いて、茶を注ぎはじめる。

「……すみません」
「シュージにはやらしてばかりだったからの。たまにはわしがやりたいんよ」

 湯のみがいっぱいになると傾けた急須を戻し、置いた。

「今のうちだからのう。おまんをもてなそうと思ったら、な」

 静かな部屋にタマエの声が染みわたる。

「…………タマエさん」
「なんじゃ」
「僕はもてなしをうけていいような人間ではありません」
「またそれか。その手の台詞はこの三年でもう聞き飽きたわ。おまんは何だってできるくせに変なところで卑屈じゃのう」
「そうでしょうか」
「自分を人で無しだと言ったこともあったねえ」

 そうだそうだ、そんなこともあった、と彼女は思い返す。たしかあの時はそんなことは二度と言うなと言ってめずらしくナナクサを叱ったのだ。それで彼は二度とその言葉を吐かなくなったが、ごくたまに思い出したように自分はからっぽだとか、人の気持ちが理解できないなどと言い出すことがあった。
 彼はここにいた三年間、友人も恋人も決して作ろうとしなかった。決して機会がなかったわけではないのに、だ。それは彼のそういう気質に由来するのかもしれなかった。
 タマエは半分かかっていたラップをすべてはがすと、まあお食べと勧めた。

「……まあなんだ、おまんが作ったものを勧めるのもおかしな話だが」
「いえ、いただきます」

 そう言ってナナクサは皿に手を伸ばして自身の作ったポフィンをとると、端をかじる。
 だがタマエはここ最近ほっとしていた。偶然村にやってきたというツキミヤ、祭を見物しに来たというヒスイ、ナナクサは彼らとよろしくやっているようだったからだ。こそこそと夜に皆して出かけていくなど、いかにもこの年の男の子というものがやりそうなことではないか。

「言いたくないなら言わんでもいいが……、故郷(くに)に帰るのかい」
「そんなところです」

 そう答えるとナナクサは茶をすすった。
 タマエもポフィンをもう一つとる。

「タイキには昨日伝えた。寂しがっていたよ」

 ほおばった後に少しお茶も口に入れた。
 上目遣いに青年を見、この子の事は結局何ひとつわからなかった、とタマエは思った。
 だがなぜだろう。最初からどうも他人である気がしなかった。まるで昔から一緒にいたような感覚を老婆は彼に覚えるのだ。だが、その相手ももうすぐいなくなる。それはとてもとても寂しく、悲しいものだった。

「そういえばおまんがここば尋ねてきた時もこんな感じだったのう」

 と、タマエは言った。

「いきなり働かせて欲しいと押しかけてきよって、てこでも動きよらん。そうしたら台所を借してくれとおまんは言いおった。今から僕の一番得意な料理を作る。これを食べたらあなたはかならず僕を雇うだろう。おまんはそう断言した。あんまり自信たっぷりに言うもんだから、じゃあやってみろとわしは言った。結果は、」
「……雇っていただきました。タマエさんはお茶を淹れてくれました。そしてお前も食べろ、と。僕が作ったポフィンを勧めてきました」
「ああ、あのポフィンはうまかったよ。この味を出せるのをわしは二人しか知らん。シュージと……」
「シュウイチさん、ですね」
「そう、シューイチじゃ」

 タマエはふたたび茶をすする。

「……シュウイチさんは、僕の憧れです。会ったことも話したこともないけれども僕の憧れなんです」

 ナナクサはポフィンをかじる。また少し茶を口に含んだ。

「もうここにはいなくとも、皆シュウイチさんを覚えている。タマエさんにタイキ君、それにタイキ君のお父さん、みんな楽しそうにシュウイチさんの事を語ります。村長さんも口には出さないけれど、ものすごく意識していますし」
「そりゃあまぁキクイチロウとはいろいろあったからのう……因縁じゃなぁ」
「そんなシュウイチさんに僕は憧れたんです。僕も彼のように人の記憶に残る人になりたかった」
「何を言っとる。おまんが故郷(くに)帰ったって、ずっとわしは覚えとる」
「……ありがとうございます。でも、タマエさんの中にはもうシュウイチさんがいますから」

 ナナクサは湯のみを両手に抱えたまま、さみしそうに笑った。
 それは諦めたような悟ったようなそんな笑みだった。
 ふうっと息をふきかけると彼はごくごくと茶を飲んだ。タマエは空になった湯のみに再び茶を注いでやった。

「……そういえば」

 と、沸き立つ湯気の向こうでナナクサが話題を転換する。

「なんじゃい」
「こんな夜遅くに起きだしてきて何かあったんですか、タマエさん」
「おい、ちょいとばっかし聞いてくれるのが遅くないかい?」
「すいません……。でも、いつもぐっすり熟睡のタマエさんがめずらしいなと思って」

 そうだった。そもそもそれが気になってナナクサは布団から這い出てきたのだ。

「ああ、ああ。そうじゃった。夢を見ての……」
「夢?」
「ああ」

 カナエは自身の記憶を確かめるようにして言葉にした。

「夢に出おった。六十五年ぶりにじゃ」
「それはまたずいぶん昔ですね」
「ああ、じゃが六十五年ぶりに現れた。あのお方が現れおった」
「……! あのお方……?」

 ナナクサが目を見開いて老婆を見た。タマエがあのお方と呼ぶこころあたりはひとつしか無かったからだ。

「あのお方って、まさか……」
「ああ、九十九様じゃ」

 老婆の口から出たのは炎の妖の名。

「九十九様がわしの夢の中においでになったのよ。間違いない、あの白銀のお姿を見間違えるはずがない」
「……九十九様が」

 神妙な顔つきで語るタマエを見るナナクサの目は真剣だった。

「そうして九十九様はお告げを残していかれた」
「……九十九様は何と」
「今年の野の火を観に来るようにと、そう仰った。コースケの出る舞台を観に行くようにと。そこですべてを見せるとあのお方は云った」

「すべて……を」とナナクサはおうむがえしにする。
「ああ、」と、タマエは頷く。

「絵巻の上でも、口伝でもない、本当の野の火を見せようと。本当の怖れとはどういうものか見せよう、と。九十九様はそう仰った。わしゃあ夢の中で何かを言おうとしたんだが、そのまま目が覚めてしもうたのじゃ」

 その後の二人は、妙に言葉に詰まってしまって部屋はしんと静まり返った。
 先ほどタマエが茶をついだばかりのナナクサの湯のみからゆらゆらと湯気が立ち上っていた。