7.

「ナギサさんちの息子さん、明日島を出ていくんだってよ」
「これで何人目になるかねぇ」
 あれはまだトシハルが幼い頃の記憶。近所の人と母がそんな話をしていたのを幼いながらに覚えている。それはなんともいえない哀愁の響きを含んでいて。あのころの親たちの会話、あれは自分の未来を暗示していたのだろうか。
「ねぇ博士、ナギサのおにいちゃんどこに行っちゃうの」
 親に尋ねるのはなんだか気が引けて、彼は近所の博士にそれをぶつけた。
「さぁな、ミナモかカイナか、それともホウエンでないもっと遠くかもしれないな」
「もう帰ってこないのかな」
「ん……どうだろうな」
「ねぇ、博士はどこかに行ったりしないよね」
「なんだお前、そんなこと心配してたのか?」
 そう言って、博士と呼ばれた初老の男性はまだ幼い彼の頭を撫でた。
「私はどこにもいかない。ずっとここにいる」
 そう、博士は続けた。
 あの頃は、まだ幼かった彼はまさか自分が島を出て行くなんて考えもしなかった。
 あの頃の自分にとってはあの島が世界のすべてだった。

「…………」
 夜のベールが覆う空をトシハルは見上げていた。何千、何万という星がちらちらと揺れる。その中で夏の大三角やさそり座、いて座など数ある星座が輝いていた。こんな夜空を見るのは久しぶりだった。ミナモシティではこんな満天の星空は見られなかったから。島にいたころはこれが当たり前の空だったのに。
「トシハルさん」
 …………。
「トシハルさん!」
 そこでトシハルは過去から現在へと引き戻された。
 ぼうっと暖かい光を放つランプを挟んで、赤いバンダナの少女と鶏頭のポケモンが座り両手にカップ麺をかかえていた。
「あ、」
「あ、じゃないわよ。のびるわよ」
 トシハルが自分の両手でかかえたものを見ると、カップ麺が僅かに開いた蓋の隙間から湯気を吹いていた。
 アカリがどこからか取り出したヤカンを鶏頭が腕の炎で沸騰させた。彼らの連携プレーがホエルオーの背中の上でカップ麺にお湯を注ぐことを可能にしたのだった。ポケモンの背中の上で、こういうものを食べる日がくるとは思わなかった。炎ポケモンってこんな使い道もあったのか、とトシハルは感心していた。
 目の前ではアカリと鶏頭がずるずると夕食をすすっている。アカリはともかく、鶏頭のほうが指が三本しかないくせに器用に箸を使って食べているところにトシハルはちょっと驚いた。
 日が完全に水底に落ちて、星空が輝きを増しはじめた頃、アカリはホエルオーの進行を止めた。今日はここまで。次の日に朝日が昇る時まで、ここで寝かせるとアカリは言った。
「で、どうなのよ」
 カップ麺のスープまで飲み干すとアカリが切り出した。
「どうって?」
「決まってるでしょ。あなたの素性について」
 アカリがそう言うと、トシハルの箸が一瞬止まる。
「…………」
 トシハルは困ったような顔をして少しの間黙っていたが、やがて一気に麺をすすり上げ、細切れの麺と細かい具ごとがーっとスープを飲み干すと、いよいよ口を開いた。
「素性っていっても、君に比べたら大したものじゃないよ」
 空になったカップをそっと足元に置くと、持ってきた固形の菓子を開いた。包装を破りひとかじりするとまた空を見上げる。
「つまらない話だよ。……さて、どこから話したらいいものか」
 満天の星空。その昔、あの島の上から見上げた空もこうだった。
「そうだなぁ、じゃあ島の話からはじめよう。昼間にも少し話したけれど」
 そうして彼は話し始めた。自分が生まれ育った島の話を。巨大なうきくじらの上で語り始めた。
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 なにもかもが変わってしまった昔と今の自分。
 見上げた空だけは昔と変わらない。
「あそこは本当に何もないところだ」
 と、トシハルは切り出した。
 島の住民は主に漁業とサトウキビ栽培で生活を営んでおり、船は二週間に一度きり。だから、島に生まれ、島に育った人間にとって島が世界のすべてだった。
「たまに外から人が来るとすれば、空か海から旅のポケモントレーナーがやってくるくらいで。それも道に迷ったとかそういう理由でね。だからトレーナーっていう発想自体希薄だった」
「トレーナーとして旅立った子は?」
「わからない。いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。ただ僕にはそういう発想はなかったなぁ。でもきっとなるっていったら反対されたんじゃないのかな。島の住人にはわからないものだから。自分のポケモンを持って漁の手伝いをさせる人はいたけどね。ただモンスターボールなんて上品なものは使わないよ。放し飼い」
「ふうん」
 トレーナーとして旅立つのが自然な世界であったアカリにとって、それは未知の世界の話だった。素っ気ない返事をしながらも、アカリはトシハルの言葉を聞き逃すまいとしていた。
「……でも」
「でも?」
「バトルって発想はなかったけど、研究をしている人がいた。もともと島の住人ではなかったらしい。僕が生まれるずっと前に移り住んできたのだと聞いた。研究者っていったら、トレーナーとはまた違う次元でポケモンに関わる人たちの憧れだ。けど、ポケモンの研究なんて島の人間には理解できない職業だったからね。最初はいろいろ苦労したらしい」
 トシハルはその後、研究者といえばカントーのマサラタウンに研究所を持ってるオーキド博士はあまりにも有名だなどと、説明した。
 だが、一方でこうも付け加えた。彼のように大きく世に知られる研究者もあるが、一方で多くの仕事をしても世に知られない研究者はもっと多いのだと。
 島に移り住んできたという「彼」はそんな研究者の中の一人だったとトシハルは語った。
「カスタニ博士って言うんだ。世間一般にはあまり名前が知られていないけれどいろんな仕事をした研究者でね。時には命の危険に晒されたこともあったらしい。僕はそんな博士の武勇伝を聞いて育ったんだ。ちょっと偏屈で頑固なところもあるけれど立派な人だよ」
 淡々とトシハルは語った。けれどその言動には博士に対する尊敬の念が含まれている――そういう風にアカリの目には映った。
「各町で旅立つトレーナーの面倒を見るなら、国から多くの援助が得られるらしい。もちろん博士にもそういう話がなかったわけではないらしいけど、どうもそれがいやだったみたいでね。そもそもあまりトレーナーが好きじゃなかったらしい。人がポケモンを飼ったり、使役したりするのは気に入らないと言って。なにより束縛無く自分の研究がしたかったみたいだ」
 と、トシハルは続ける。
「そんな人だから、昔僕がカントーからポッポをお持ち帰りしたときなんかずいぶん怒っちゃってね。野生ポケモンに餌をやるからそうなるんだって」
 トシハルは苦笑いをする。
「そのポッポどうしたの」
 興味ありといった風にアカリが尋ねた。
「しばらくはブツブツ文句を言っていたけど、傍に置くからには躾けなきゃならんとか言って、そのポッポ……名前はダイズって言うんだけど、仕込み始めたんだ。研究をサポートさせるためにね。博士の研究は野生ポケモンの観察がメインだ。鳥ポケモンなら生かせると考えたんだろう」
 しかしまあ、これがなかなかうまいんだ。
 と、トシハルは続けた。
「トレーナーは嫌いだなんて言ってたけど実はそっちの才能もあったんじゃないのかなぁ。ほどなくしてダイズがピジョンに進化してね」
 懐かしそうに語る。
「それで? カスタニ博士は何を研究していたの?」
 アカリが続けざまに尋ねる。いつの間にか会話に夢中になっている彼女がそこにいた。
「ホエルオーだよ」
 と、トシハルは答えた。
 ホエルオー、それは今まで見つかった中で最も大きいポケモン。
 それは、今まさに彼らを背中に乗せ運んでいるポケモンでもあった。
「あるとき129番水道で偶然それを見かけた博士はすっかり虜になってしまったらしい」
 それからトシハルは、博士が水生のポケモンを得意とする研究者であること、島に来てからは研究のほとんどをホエルオーに費やしていたと説明した。
 そしてこうも言った。
 生まれ育った島は何もないところだ。あるのは周りに広がる海だけだと。けれど、ひとつだけ誇れるものがあるのだと言った。
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 その周りを囲むのは晴れ渡る青い空と揺らめく碧い海ばかり。空は何者にも占領されず、海からの水蒸気を吸い上げもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていく。
 ふと、そこに海から海水が噴き上げられる。
 その海水を噴き上げたもの、そいつは巨大な、とても巨大な――
「一般にはほとんど知られていないけれど、フゲイ島の周辺海域はホエルオーの一大生息地なんだ。これだけホエルオーを間近に見れる場所は他に無い。奇跡のような場所だと博士は言っていた。そのことを島民に気づかせたのは、生まれたときから島にいる人間ではなく、島の外からやってきた博士だったんだ」
 そうして博士は徐々に島民に受け入れられていった。調査のために漁師に協力してもらったり、島の様々な援助を受けられるようになった。
「僕にとって博士は、三人目の親のような存在だった」
 と、トシハルは言った。
 気が付けば、博士の助手のようなことをしていた。博士と一緒に数え切れないほどの回数船に乗った。いつも洋上からホエルオーを見ていたと彼は語った。
 そうしてアカリは理解した。なぜ彼が航海の準備を整えることができたのか、なぜ自分の持つホエルオーの特徴をすぐに掴むことができたのかを。ジムリーダーの名前を知らない彼が、オダマキ博士だけは知っていたのもおそらくはこのためである、と。
「海の鳥ポケモンもよく観察したなぁ。調査用の発信機をつけるために一時的に捕まえることもあった」
 昨日のコンテスト会場前、ぺリッパーを捕まえたことを思い出しながらトシハルは言う。ずいぶん鈍っていると思っていたのだが案外身体は覚えているものだ。
「あの頃の僕は、自分は研究者になって博士の後を継ぐんだと思って疑わなかった」
 そこまで言うと、トシハルはまた黙ってしまった。
「…………」
 鶏頭が眠そうにあくびをする。それを見て彼女はついにバシャーモをモンスターボールに戻すことにした。アカリは無言でトシハルを見つめる。ホエルオーの背中の上でついに彼らは二人きりになった。こんな場所で無用心な、とトシハルは思ったが、それは彼女が真剣に話を聞くサインのような気がした。
「つまらない話だよ……それでもまだ聞きたい?」
 トシハルがそう尋ねるとアカリは黙って頷いた。
 仕方ないな……トシハルは寂しそうに笑った。
「寝袋出そう。話はそれから」
 トシハルはそう言ってカップ麺のカップをつぶすと、袋にいれて口を縛った。
 夜の海上。彼らの進路には漆黒に染まった海面が広がっている。その漆黒の海はどこまでも暗く、どこまでも深く感じられた。
 トシハルは寝袋に身を包むと、同じように寝袋に身を包んだアカリとのその間にランプを置いた。
 意識を夜の海に潜らせた。
 記憶という名の深い深い海に、夜の海に潜らせた。
 いや、ただ巡って来たこの機会。その場の空気に抵抗することができず、沈んでいるだけなのかもしれないとも彼は思った。本当は思い出したくなんかなかったのだから。

「君がトシハル君かね」
 彼は、誰かがそう言ったのを聞いた。
「あのカスタニ博士の推薦だそうだね。君には期待しているよ」
 島の外の世界を知った。外に出たからこそ見えるものがある。
 知りたくなんかなかったのに、思い知ったことがある。
 自分の存在のなんと小さいことだろう、そして彼の人のなんと大きいことだろう。

「博士、お話があります」
 散らかり放題の博士の部屋に入って、彼は話を切り出した。
 博士の部屋は薄暗かった。電気が付いているものは机にあるスタンドライトだけで、その弱い光からかろうじて部屋の全体像をつかむことができた。

 海に潜る。
 記憶という名の深い深い海に潜る。

 ねえ博士、僕には重いよ。
 僕には重すぎる。
 このまま持っていたら、沈んでしまうよ。

 トシハルは記憶を呼び覚ます。走馬灯のように過去の事象が巡る。彼は過去へ舞い戻る。
「この話をするのは君が初めてだ」
 ランプをはさんでトシハルは少女にそう言った。
 言葉を形作る唇がランプの光に照らされていた。
「島には中学校までしかなくってね。高校は通信制を出たんだ」
 と、トシハルは始めた。
 高校を出てからは特に考えていなかった。ただ、なんとなく親父のサトウキビ農園の仕事や博士の手伝いをするのだろうと思っていた。ところが博士の考えは違っていた。
「トシハル、お前は一度島を出て大学に通え」
 通信の卒業証書を受けた日に唐突に、博士は言った。
 進学は考えていなかった。というかそういう発想が元からなかった。そもそも大学に進むような者が島にはいなかったからだ。
「君のご両親にも許可はとってあるし、入試の手続きは済ませといた。明後日は船が来るだろう。だからその足でカントーに行って来い」
 そう言って、地図とカントー行き飛行機のチケットを渡された。わけがわからなかった。
 博士に言われるがままに飛行機から降り立ち、地図に導かれるまま行った場所はカントーの大都市で、タマムシシティと呼ばれていた。その郊外に立派な大学があった。こんなに大きな学校をトシハルは見たことが無かった。その中で博士と同じくらいの年齢の男の人が何人か待ち構えていて、いくつか質問をされた。
 やったことといえばそれだけだった。それで、彼はその大学に通うことになった。
「最初は島とあまりに環境が違うので戸惑った。ポケモン学の授業は楽しかったけど、ときどき何を言っているのかわからなくて、ずいぶん苦労したんだ。まわりの友達にはさ、お前よくそれでこの大学に入れたなと言われたよ」
 後々になって彼は知った。
 その場所は、通信制高校を出ただけの学生には到底入れない所だったと。
 今自分が通っているこの大学に入るために、周りはみんな猛勉強してきたことを。
 ペーパーテストで何人いや、何十人のライバルを蹴落として、高いハードルを越えてきたのだと。
 ならば、あの「試験」は一体何だったのかと彼は自問した。
 あとで両親に聞いたところによると、博士は両親に進学の許可を取ったのち、すぐに大学に電話をかけて、「実はおたくのとこの大学で面倒を見て欲しいのが一人いるからよろしく」というようなことを言ったらしいのだ。電話の相手は二つ返事でOKしたらしい。これには彼の両親も驚いたそうだ。
「僕はさ、必死に勉強したよ。だいぶかかったけどニ年の中ごろにはなんとか追いついて、あの大学にふさわしい程度の教養も身につけたつもりだ。だから、他と違う方法で大学に入ったことに引け目は感じてないさ。でも……」
 けれど、勉強をすればする程に、新しい段階にステップアップすればする程に僕の中で博士の存在が重荷になっていったんだ、とトシハルは語った。
 勉強して勉強して、理解が進むほどに、それがわかってしまったのだと。
 カントーで一番大きい大学柄、様々な人に会う機会がトシハルにはあった。大学で教鞭を振るう高名な教授達、名誉教授達、そして高名な研究機関の所長達。皆、携帯獣研究における各分野のプロフェッショナル達ばかりだ。
「みんながみんなね、同じように博士のことを話すんだ」

 ――博士は恩人さ。彼のアドバイス一つでぐんぐん研究が進んだもんさ。
 ――あの人はほんとすごい。次元が違うよ。いつ寝てるんだというくらいに画期的な論文をボンボン発表していった。
 ――ちょうどあの時期は、携帯獣研究が大幅に進んだ時期でね、その中で活躍した人はたくさんいるけれど、間違いなく五本の指に入るんじゃないかな。
 ――でも、いつだったかな。急に俺はホエルオーを研究するんだとか言い出して、大学から出ていっちまったんだ。ほぼ完成していたたくさんの研究も全部周りに譲って、金にもならない研究をするために離島に隠居しちまった。
 ――だから私達がね、今こうしてこの椅子に座っていられるのは、あの人のおかげだよ。共同研究の成果を博士が全部譲ってくれたおかげさ。この大学であの人に足を向けて寝られる奴なんてそうそういないね。
 ――オーキド? 俺達の年代じゃ彼も相当だけどなぁ。あのままあの人が大学に残って研究を続けていたら、世間一般にポケモン博士として名を馳せたのは、オーキドじゃなくてカスタニだったかもしれないよ。オーキドは所詮後発の研究者だ。先駆けだよ、あの人は。
 ――とにかくその博士が君を推薦してきたんだ。我々が断れるわけないだろ?

 さて、君はあのカスタニ博士の推薦だ。
 君は、博士の秘蔵っ子の君は、我々に何を見せてくれるんだい?

 なんだこれ。
 トシハルは眩暈がした。
 携帯獣研究が飛躍的に進歩したのは今から約四、五十年ほど前だと言われる。その時に博士は様々なプロジェクトを打ち立てて、若い研究者達に助言を与えながら、同時進行していたのだという。
 これが。これがあの博士の実際なのか。彼にとってカスタニ博士という存在は、小さいころからすぐ近所に住んでいて、ただ当たり前のようにそこにいる人だった。だから、島民が当たり前のように親の家業を継ぐように、僕が博士と同じように研究をするのが、自然な流れだと思っていた。両親もそれには暗黙の了解を出していて、黙ってついていきさえすれば博士のようになれるのかと思っていた。
 だが、今ここに立ちはだかるこの歴然とした違いはなんなのだ、と。
 ――見られている。
 ここには博士はいない。博士は島にいるはずなのに、自身の後ろにはいつも博士が立っている。まるで亡霊のように立っている。
 無論、そんなものを連れてきたつもりはなかった。
「だが、見ていた。あそこにいる人達は見ていた。僕の後ろにいるカスタニ博士を見ていたんだ。だから、博士は立っていたんだろう。僕の後ろに確かに博士は立っていたんだ」
 幼いころから博士の武勇伝を聞いて育った。育ったつもりでいた。
「でもよく考えてみればそれは島に来てからの話ばかりだったんだ」
 博士は島に来る以前の自分ってものを語らなさすぎなんだとトシハルは思う。
 自身の影響力ってものを理解していない。世間一般にはどうだか知らないが、ここでは、あなたが僕を送り込んだこの世界では、みんなが貴方の名を知っているじゃないか。
 みんなが見ている。僕の後ろに立っている貴方を見ている――。
 博士の期待に応えなければ、という気持ちは持っていた。自分は博士に選ばれたのだと。
「けれど勉強すればするほど、新たな知識を得れば得るほどにわかってしまうんだ。あの人の凄さってものが。論文を読めば打ちのめされるんだ。理解すれば理解するほどに遠いんだ」
 そうだったのだ、とトシハルは悟った。
 そもそも僕は貴方に才能を認められて、選ばれてここに来たわけじゃないんだ、と。
 たまたま博士のいる近所に生まれて、たまたま近くにいただけ。自分がここにいるのはたまたま。
 ああ、跡を継ぐなどと、なんとおこがましい愚かな考えだったのだろう。
 絶望した。自分には何も無い。この大きな世界の流れに必死についていくのが精一杯なのだ。
「凡庸な僕は、きっとあなたの劣化コピーにすらなれない」

 ねえ博士、僕には重たいよ。
 僕に貴方の名前は重すぎる。
 このまま持っていたら、僕はその重さで沈んでしまうよ。

 どうして僕を大学に行かせたのですか博士。
 どうして島の外に出してしまったのですか。
 どうして。
 おかげで僕は知ってしまった。知りたくもないことを知ってしまった。
 自分は限りなく平凡でとりえのない人間だと、知ってしまった。

「僕の入学をきっかけに、博士と大学との交流も復活してね。島では何人かの実習生を受け入れることになったんだ。みんな僕なんかよりずっと優秀で、これなら僕はいらないと思った」

 そうさ、僕のかわりはいくらでもいる。
 僕なんかより博士の後継に相応しい人間はいくらでも…………

「博士、お話があります」
 大学最後の春休み、島に帰省中のトシハルはそう切り出した。
「博士、これから部屋の掃除はご自分でやってください」
「なんだいきなり」
「データの整理もご自分でやってください。僕はもうやりません。書類や計測機器がなくなっても僕はもう探しません」
「そんなことか。そもそもお前が大学行ったときから、そんなことは期待しとらんよ。そりゃあ、休み中はまぁ手伝わせたがな…………トシハル?」
 ほの暗いこの月灯りの中では弟子の顔はよく見えなかった。
 だが、弟子が声色の端々から、なんだか妙な空気を漂わせているのを感じて博士は顔をしかめた。
「何か言いたいことがあってここに来たんだろ。論文は結論から書くように、回り道せずにはっきり言え」
 じれったいという様子でそう言う。
「博士、僕は大学を卒業したら、島を出て行こうと思う」
「……なんだって?」
 がたり、と音がした。博士が椅子から立ち上がった音だ。
「もう、就職先も決めてきました」
「なんだそれは。お前、私にはそんな話ちっとも……」
「そりゃそうでしょう。博士にはそんな話しませんでしたから」
「理由を言え」
「もういやなんですよ。別に僕は、研究が好きなわけでも、ホエルオーが好きなわけでもなかった。もう飽き飽きなんですよ。僕はただ、たまたま貴方の近所に生まれて、たまたま貴方の近くに居ただけだ。もう貴方に付き合うのは終わりにしたい」
 彼は言った。これは博士に対する拒絶の言葉だ。
 これでもう、二度と元には戻れない。
「……ずっと、そういう風に思っていたのか」
 しばらくの沈黙を置いてから、静かに博士は言った。
「そうです。毎日毎日、海に出てホエルオー、ホエルオー、ホエルオー……僕はそんなことをしてこの先の人生を浪費したくない」
 これでいい、これでいいのだ。自分は博士にはなれない。
 自分は平凡でとりえの無い人間だ。だから茶番は終わりにしよう。
「博士も知っているでしょう。今年も島から何人も若者が出て行った。このままこの島に居続けて、博士の二番煎じをしながら、お金にもならない研究を続けていたって、僕に将来は無い……」
 トシハルは言い聞かせる。器ではないのだと。
 荷が重すぎる。自分にはできない。博士のように立派には出来ない。僕は決して博士のようにはなれない。
 世界を知らぬ少年の、短く愚かな夢だった。
 そうさ、最初っから器じゃなかったんだ。
「貴方には感謝していますよ博士。あなたが僕に外の世界を教え、いち島民にはとうてい手にいれられない学歴を与えてくれたおかげで、僕は島の外でも十ニ分にやっていける。バカなことをしましたね。僕を島から出さなければあなたは僕を好きなように使えたでしょうに」
 今までありがとうございます。そして、さようなら。
 もう戻らない……戻れない。
 島を出る前日、ピジョンのダイズには博士をよろしくと頼んだ。
 君は替えのいる僕とは違う。空を飛べる君には君にしかできないことがある。僕はもう手伝えないけれど、君は違う。君はこれからも博士の傍にいてやって欲しい、と。
 ダイズは了承したかしないのか、一声悲しそうに鳴いた。

「そうして僕は島を出て行った。博士の下から逃げ出したんだ」
 ランプが弱々しく揺れていた。
 アカリは無言だった。ただランプがまだ目を覚ましている彼女の顔を照らしていた。
「……つまらない話だったろ?」
 トシハルは光り輝く満天の星々を仰ぎ見る。鏡がなくてよかったとトシハルは思った。今自分は一体どんな顔をしているのか。どんな情けない顔を彼女の前に晒しているのか。それを見ることがなくてよかったと思った。
「小さいころから目をかけてくれて、大学にまで行かせてくれたのに、僕は博士を裏切った。それ以来、島には帰っていない。帰れなかった」
 彼は今、あの時のように海を渡っている。
 そして語る。かつて、何を思いどんなことを考えて島を去ったのかを。
「でもあなたは、今こうして帰ってるんでしょう。帰るからには、会うんでしょう。博士に」
 長い間、黙っていたアカリが口を開いてそう言った。
「……そうだね。でも正直どの面下げて会いに行けばいいのか見当もつかないよ」
 トシハルはそう答え、やがてそっと目を閉じた。
 自分と少女がその身を委ねているうきくじらに波が当たる。それがちゃぷんちゃぷんと音を立てていて、それがやけに耳に響いた。
 その音を耳に残しながら、トシハルは眠りに落ちていった。





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