6.

 ロケットの島トクサネを背にしてうきくじらは進む。
 波を割り、航路を開く。
 なるほど、彼女が自信たっぷりな訳だ。
 うきくじらの背中に立ってその様子を見つめながらトシハルは感心していた。
 彼女のホエルオー、シロナガは自分の乗りやすい潮の流れを作り出し、立ちはだかる波をものともせずにぐんぐんと進んでいく。
 乗り心地は完璧に近い。
 まだ、外洋というほど陸から離れていないところを進んでいるが、そこそこ波が立っている。
 それなのに彼らは揺れというものをほとんど感じないのだ。何より手すりも無しに、彼はこのポケモンの上で立っていられた。前方に開かれる視界、青い水平線を仰ぎながら、これなら船酔いをする人でもいけるかもしれないとさえトシハルは思った。
 後方に立っているアカリをちらりと見る。
 思うに、人を乗せない分にはポケモンにとってこんな配慮は必要ないんだろう。そういう類の技術をシロナガに身に付けさせたのは他でもない、この少女に違いなかった。トシハルは改めてこの子は只者ではない、そう思った。
 一方、アカリは何やら手の平サイズの小さな機械を見つめている。
「現在位置×××.××.×××-×××.××.×××、フゲイ島×××.××.×××-×××.××.×××、到着までには丸一日といったところかしら」
 近くに寄って見てみると、その機械の画面にトクサネからフゲイ島までの進路が映し出されていた。
「へぇ、その機械GPS機能がついてるのか。すごいな」
「ポケナビよ。タウンマップ機能に加えていろいろ付いてるわ。トレーナーにとっては必須アイテムね」
 トシハルが物珍しそうに言ったからか、アカリが解説する。
 近くに立っていた鶏頭にまたぎろりと睨まれたが、とりあえず彼は笑ってごまかした。
 オオスバメのレイランはうきくじらの周りをぐるぐると飛び回り、ときどきそのY字型に伸びる尾鰭にちょっかいを出して、鰭の反応を見ては喜んでいた。
 ああ、この感覚は何か懐かしい。
 気をよくした彼は、シロナガの背中を見物して回った。
 1メートル、2メートル、3メートル……トシハルは自らの歩幅を定規の代わりにして、海におっこちない範囲でもってシロナガの頭から尾鰭のほうまで歩いてみた。
 一歩は1メートルとして、歩ききれなかった分を計算に入れると、だいたい15メートルくらいだろうか。ホエルオーとしてはまぁ平均的な部類だ。
 それより、この個体に特徴的なのは背中の模様だとトシハルは思う。
 乗ったときから気にはなっていた。ホエルオーの背中には白い模様が四つあって、普通、楕円形の形が背骨に沿うような形で並んでいる。
 ところがこの個体はどうだ。四つの白い模様が肋骨に沿って伸びて、まるで縞模様だ。たとえるなら、そこを歩くのは横断歩道を渡っているような感じである。
「……ああ、そうか。シロナガってそういうことなのか!」
 彼は思わず叫んだ。
 白い模様が横にそって長く伸びているから、シロナガなんだ。
 それを聞いたアカリはフンと笑って、
「よくわかったわね」
 と、言った。
「普通のトレーナーでも、ホエルオーの背中の模様なんて注目する人はあんまりいないわ。ましてシロナガちゃんの名前の由来を言い当てる人なんてね」
 そして、トシハルの顔を観察するようにじっと見た。
「昨日から気になっていたんだけど、アナタ一体何者? ただの会社員にしては航海の準備だってバッチリだったし」
 アカリの鋭い一言にトシハルは少しばかり動揺する。
「言ったろ、よく船に乗ってたって。これから向かう離島が僕の実家だからね」
「でも、それだけじゃないでしょ」
 ヘタなごまかしは通用しなかった。なおも彼女に問い詰められた。
 トシハルにあるポケモンと関わる何か。もちろん彼はトレーナーではない。だが何かがある。それをアカリは嗅ぎ取ったのだ。
「何者か聞きたいのは僕のほうだよ。そりゃあ、僕はポケモンバトルにもポケモンコンテストにも疎いけど、今までの君の行動とか君のポケモンを見てれば、君が只者じゃないってことくらいはわかる」
 トシハルも負けじと切り返した。
 彼のほうもずっと疑問だった。彼女は一体、何者なのか。彼女に付きまとう視線、一体彼女の何が彼らにそうさせるのか。
「なるほど、お互いに興味があるってわけね」
 とアカリが言い、瞳を覗き込んできて、彼は少しドキッとした。
 押し負けてはいけないと思った。
「どうしてこの仕事を受けたんだい? 君くらいのトレーナーならバトルの賞金だってそれなりに貰ってるだろう。いくら石が欲しいとは言っても、実費だけで離島を往復なんて手間なだけじゃないの?」
 トシハルは彼女がバスでガイドに掲示していたものを思い出していた。あれはおそらくトレーナーとしてのランクを示す何かだった。
 自分を離島まで送り届けてくれる奇特なトレーナーに何を聞いているんだという思いもあったものの、これは彼の中に浮かんだ確かな疑問だった。
 彼女はナビのスイッチをオフにするとポーチに仕舞い込んだ。
「…………」
 アカリはなんだか怖い、でもちょっと困った顔をしてしばらく黙っていた。
 腕組みをした鶏頭がこいつ海に沈めてやろうかという顔で彼を睨んできたが、目を逸らし、誤魔化す。
「…………よ」
 しばらくしてアカリが口を開いた。
「え、何?」
 彼女にしてははっきりしない小さな声だったので、聞き取れずトシハルは聞き返す。
「……行きたかったのよ」
「……? どこに?」
「どこでもいい、どこか遠くに。私のことなんか知らない人がいる土地に」
「どういうこと?」
「もう、たくさんなのよ」
 そう言って彼女は水平線のほうを向いた。
 そのとき彼女はどんな顔をしていたのか、彼にその表情は見えなかった。見ようと思えば見ることができたけれど、たぶん見ないほうがいい気がした。
「そんなに知りたいなら話すわよ。どうせ島に着くまでヒマなんだしね。そのかわり」
「そのかわり?」
「その後でアナタの話もたっぷり聞かせてもらうから。誤魔化して逃げるんじゃないわよ」
「……わかったよ」
 トシハルは観念して、彼女との取引に応じた。海の上だ。逃げようたってそうはいかない。
 それにトシハルは興味があった。
 この少女が何を考えているのか、どういう理由でこの仕事を引き受けたのか。
 携帯の時計を見る。ゼロの数字が並んで午後になったことを知らせていた。アンテナが一本だけ立ってまだ圏内だったが着信は無い。先は長そうだと彼は思った。

「トレーナーになるきっかけは些細なことだったのよ」
 と、アカリは言った。
「パパの都合でね、十歳のころにミシロタウンに引っ越してきたの。あれは引っ越してきてから三日目くらいだったかなぁ、ミシロの郊外を散歩していたら、男の人がポチエナに吼えられて腰抜かしてて。それがオダマキ博士だったわ。割とホウエンじゃ有名な博士らしいんだけど……知ってる?」
 知ってる、とだけトシハルは答えた。
 オダマキ博士――彼の得意分野はフィールドワークだ。たしかそれに関する様々な論文を発表していたはずだ。そうか彼の研究所はミシロにあったか。彼は記憶を手繰り寄せた。
 そして彼女は続けた。
 近くに博士の鞄が落ちていたこと、その中にモンスターボールが入っていたこと、ポチエナを追い払うために投げたボールの中に入っていたのがあの鶏頭……バクだったことを。
「まぁ今思えば、わざとらしいったらないけどね。フィールドワークの権威がポチエナに吼えられたくらいで腰抜かしたら調査にならないじゃないの。たぶんあれは口実作りね。もしかしたらパパも一枚噛んでいたのかも」
 まったく油断も隙もないんだから、などと言いながら彼女は語りを続ける。
「……あ、うちのパパもね、ポケモントレーナーをやってるの。前々から私をトレーナーの世界に引き込む機会を狙ってたのよ。正直、あのころはトレーナーに興味なかったんだけど、せっかくバクを貰ったんだから少しばかりトレーナーの旅に出てみないかということになって」
 いかにも周りの勧めだったのだ。積極的にやる気はなかったのだ、などと乗り気のなさそうなことを言った彼女だったが、トシハルがその過程を聞くにそれは彼女にとって悪いものではなかったらしい。
 それどころか話を追うごとに彼女はめきめきと頭角を現し、トレーナーとしての才能を開花させていったのがわかった。
「なんだかんだで、一つ目のバッジをとったわ」
 話が始まって、十五分後に彼女はバッジを一つゲットした。
「これよ」
 彼女はポーチからバッジケースを取り出すと開いて見せてくれた。
 ああ、そうかさっきバスでバスガイドに見せていたのはこれか。トシハルは理解する。
 バッジの数はトレーナーとしての実力の証だ。アカリのケースでは八つのバッジが輝いていた。彼女いわく、これを八つ揃えることで晴れてポケモンホウエンリーグの出場資格が与えられるのだという。
 なるほど、八つ揃っていたからバスガイドも黙ったのだ、とトシハルは思った。
「バクがワカシャモに進化したわ」
 そうしてさらに五分の後、彼女は嬉しそうにそう語った。
「赤い装束と青い装束の変な集団に会ったわね」「船に乗せてもらってムロタウンに行った」「洞窟に石マニアがいて」「バッジが二個になった」「すてられ船ってところに行った」
 そうして彼女の冒険は進んでいった。
「草ぼうぼうの道路があってね、そこで捕まえたのが今のライボルト」「三個目はちょっと苦戦したわね」「パパがね、バッジ四つになったら勝負してくれるって」
 彼女の冒険は進んでいく。順調に仲間を増やし、白星を重ねていく。
「バクがバシャーモになった」「パパに勝った。バッジが五つになった」
 と、彼女は得意げに続ける。
「六つ目のバッジの街は遠かったわね」「トクサネには何度か来たわ」「ルネシティになかなか入れなくて」「海に潜った」「古代ポケモンが復活したのよ」
 こういうのをサクセスストーリーというんじゃないだろうか、とトシハルは思う。
 そうして彼女と彼女のポケモン達は様々な困難を乗り越え、とうとうホウエン中のジムを制覇した。そしてついに彼女はホウエンリーグに出場することとなる――
 て……あれれ? それで結局彼女はどういう理由で今日に至ったんだ? と、トシハルは本来の疑問に立ち返った。
 今までの話を総合すると……
「あー……もしかして、予選で惨敗しちゃって落ち込んでいるとか?」
 と、トシハルはズバリ予想した。
 ほら、あんまりものごとが順調に行き過ぎていると、一度失敗しただけでふてくされたりするじゃないか。と、彼は考える。
 が、彼女はトシハルのちっぽけな予想を華麗に裏切ってみせたのだった。
「……優勝したわ」
「ぶっ」
 トシハルは思いっきり脱力したというか、後ろにのけぞったというか、あやうくホエルオーから落ちて海に転落しそうになった。なんとか体勢を立て直し、負けじとツッコミを入れる。
「なんだよそれ、超がつくほど順調そのものじゃないか!」
 というか、サラリとすごいこと言わなかったか今……とトシハルは思った。
 古代ポケモンがどうのって言ったのも気にはなるが、とりあえず彼女の言うことを総合すると、今自分の隣にいるのは、ホウエン地方で一番強いトレーナーということではないか。
 トシハルは自分には縁のない世界の話に首をひねる。が、一方で合点した。船でサインが欲しいと言っていた女の子、宴会場に見に来ていた野次馬達、バスで囁きあっていた乗客達……なぜ彼らが彼女に注目していたのかを。トシハル自身は見ていない。だが、ホウエンリーグといえばこの地方の一番のイベントで、ホウエン民の一番の関心事だ。少なくとも勤務先の会社が空になって、トシハルが一人さびしく留守番をする程度の威力はあるイベントだ。その時の働きのおかげで今、長期休暇を許されているわけだ。
「で、結局何が不満なんだよ」
 トシハルは尋ねる。周りの視線が多いことだろうか? だがそれをアカリがあまり気にしているようには見えなかった。それともそれも見かけだけのことなのだろうか。
「話はここからよ」
 と、アカリが仕切りなおした。
「はぁ……」
 と、トシハルは気のない返事をする。
「ホウエンリーグってね、全試合テレビ中継されるの」
「うん、知ってる。見てはいないけど」
 トシハルは素っ気の無い返事をした。就職が決まって引っ越してきた今のアパートにテレビはない。関心が無い。ポケモンに関わる気が無かった。だから見る気がなかった。
「あなたって本当にテレビ見ないのね」
 アカリが呆れた顔で言う。
「悪かったな。それで?」
「それがまずかったわ」
「どういうこと?」
 トシハルはさらにのめりこむようにして話を聞く。
「ああいうのって試合前に出場選手の経歴なんかを放送するわよね。賞歴とか」
「ああ、まあ、そうだろうね」
 トシハルは相槌を打つ。そうだ、昔は惰性で見ていたんだと彼は思い返した。大学に入った頃までは。時期になるとテレビで流れるのはその話題ばかりだったから。
「あのとき…………、」
 そこで彼女は急に押し黙ってしまった。
 ちょうどさっきまで海水が満ちていた海岸線が引き潮で後ろに引いてしまったように。
 さっきまでの饒舌ぶりが嘘のようだった。
「あのとき……何?」
 トシハルは聞いてはいけないような気がしたけれどやはり聞いてしまった。興味に理性が負けた。
「私あのとき、これといった賞歴もなかったから。だから…………」
「だから?」
 彼はさらに聞いた。
「本当にいい迷惑。いくら他に言うことがないからって」
 アカリの声はあきらかに不機嫌だった。
 やっぱり聞くんじゃなかったかなぁとトシハルは罪悪感を感じる。
「ねぇ、あんまりおおっぴらにしたくないことってあるでしょ?」
 と、彼女は続ける。
「そうだね」と、トシハルが答える。
「あのとき、ポケモンリーグの第一試合の前、たくさん人が会場に集まってた。中継のためのテレビカメラもたくさん並んでて。会場にいなくともホウエン中がテレビ画面に注目してたわ。そんなときに。あろうことかリーグの司会はこう言ったのよ」
 シュゴオオオッ! と、うきくじらが潮を吹いた。
 霧状の海水が空に舞う。彼女の発した言の葉の音を、潮の吹き出る音が遮った。けれどトシハルは、はっきりと彼女の言葉を受け取った。
「私がパパの娘だって言った。トウカシティジムリーダーの娘だって言ったわ」
 その言葉がえぐりこむように胸を突き刺した。
「私がホウエンに引っ越してきたのはね、パパのトウカジム就任が決まったから。強さを追い求める男センリ……それがパパの通り名よ。パパはトレーナーの間ではすごく有名で……あなたは知ってる?」
 知らない、とだけ彼は答えた。
 ただジムリーダーがどんな存在であるかくらいはバトルに疎いトシハルでも知っていた。各地のジムで挑戦者を待ち構えているというジムリーダー、彼らは非常に優秀なポケモントレーナーでトレーナーたちの憧れの的らしいことも。
「一番……言ってほしくないことだったのに」
 アカリはぎゅっと拳を握って、斜め下の海に目線を向ける。
「私はその大会で優勝したけれど、あれから、周囲の私を見る目は変わっちゃった。バトルに勝てば、さすがはジムリーダーの娘。コンテストで勝っても、さすがはセンリさんの娘。ジムリーダーの娘なんだからバトルに勝つのは当然、強いのは当たり前、私が勝てるのはジムリーダーの娘だから。みんながみんなそういうことになっちゃったのよ」
 トシハルは黙ってそれを聞いていた。
 たぶんこれには自分の前に立つ彼女への嫉妬や羨望、様々なものが含まれているのだろうと彼は思った。きっと誰もがトレーナーとして華々しく活躍できるわけではない。若干十五歳で頂点を手にした彼女に対し、人々はわかりやすい理由を求めたのだ。
「昨日だってそう。コンテストにレイランを出して優勝しても、出場者に言わせれば勝ったのは私がジムリーダーの娘だからで、私のポケモンが努力したからじゃないの。みんなね、私を透明にして私の後ろにいるパパを見てるの」
 ジムリーダーの娘。
 それはとてもシンプルで。わかりやすくて。
 だからそれは人々が飛びつきやすい格好の材料だったに違いない。
「対戦相手も、それを見ている観客も私や私のポケモンのことなんか見ちゃいない。私が私のポケモンと出会ってやってきたこれまでの過程なんか見てくれない。みんな私の背後にいるパパの亡霊だけを見ているのよ」
 だって努力するのはめんどくさい。
 けれど人々は嫉妬深くて、自分の努力と比べようともしないで、成功者の上っ面だけを見ようとする。あの人は生まれつきの才能があるから、あの人の子どもだから。
 あるいは、あの人の弟子だから。
 もちろん生まれ持った能力が重要な構成要素なのはトシハルも認めている。人は生まれたときから平等などではない。
 ……けれど、生まれ持った才能だって水をやらなければ育たないのに。
「今まで我慢してきたけど、昨日のでほとほといやになったわ。別に何を考えてたわけじゃないの。ただ、なんとなくポケモンセンターの掲示板を見ていたら」
「……僕の依頼があった、ってわけかい」
「そうよ」
 彼女は答えた。
「書き込みを見て気が付いたの。遠くに行けばいいんだって。誰も私を知らないところに行けば、知らない土地でなら、私はジムリーダーの娘じゃない。ただの私として見てもらえる。そう思ったから」
 一応、僕の実家もホウエンなんだけどね……などと思いつつ、トシハルは彼女の話に耳を傾ける。
 しかし彼の実家は離島だった。テレビ中継くらいは見るだろうが、ポケモンリーグなど、島の人間にとっては外の世界の出来事なのだ。主にサトウキビの栽培と漁業で生計を立てる島民はポケモンバトルとかコンテストの類には相当疎い。そこにジムリーダーの娘だからどうこうという理由付けは存在しないのだ。
 今の彼女が求めているものがあの島にはあるのかもしれない。そうトシハルは思った。
「……贅沢な悩みだと思う?」
 と、アカリは聞いてきた。
「いや……そんなことはないさ」と、トシハルが答える。
「本当に?」彼女が聞き返す。
「ああ」と、また彼は同意する。別に彼女を慰めるために言った訳ではなかった。
「わかるさ。僕の場合は君とはまた違うんだろうけど」
 けして言葉ばかりの慰めではない。これはたぶん彼の本心だった。
「誰でもあることなんじゃないのかな。今いる世界がいやになることってさ」
 そう答えてあとは黙った。
 ホエルオーは洋上を順調に進んでいた。海風がばたばたと当たっている。寒くなってきたな、とトシハルは思った。
 キャリーバッグを開ける。防寒着を取り出し羽織ることにした。さらに中をごそごそと漁るとカイロをいくつか取り出す。いくつかは自分の防寒着のポケットに入れた。残りを海風が当たって寒そうなアカリに差し出す。彼女は黙ってそれを受け取った。
 日没まではだいぶある。だがそれでもいずれ日が落ちるだろう。空が赤くなって、すぐに陰って、青い夜のベールが空を覆い始めるだろう。
 彼女は話した。自分の傷を。自らの弱さを見ず知らずの自分に晒した。
 太陽が水底に沈んだなら、今度は自分のことを告白しなくてはなるまい。
 トシハルはどこまでも続く碧い海原を眺めながらそのように思った。
 潮風が絶えず吹き続けていた。





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