9.

 ダイズは真っ先にレイランの洗礼を受けた。初対面の者の前で自分のコレクションを見せびらかすというあの行動を彼女はダイズにもやりはじめた。両翼を広げ、どうよどうよと横目にちらちらと確かめる。アカリが言うには、どうやら人相手だけでなく、ポケモン相手にもやることがあるらしかった。ダイズは、オオスバメの行動の意味がわからず、目をぱちくりさせて首を傾げた。それでもレイランは満足そうに、フフンっと鼻息を荒くした。
 彼女はこのピジョットのことが随分とお気に召したらしく、日差しが照りつけて相当に暑いというのにダイズにすりよって目を細めている。久しぶりに会ったダイズの顔は困り顔であった。
 アカリもホウエンではなかなか見られないピジョットがものめずらしいのか、ダイズのまわりをぐるぐると不審者のように歩き回り、トシハルさん触ってもいいかしらなどと断りを入れた後に、撫で回してみたり、抱きついてみたり、あげくの果てにほおずりしてみたりして彼を困らせた。アカリはさらに乗ってみてもいいかなどと聞いてきたが、さすがにそういう訓練はしていないと思うから、とトシハルは断った。
 二匹の獣ポケモンがふんふんと匂いを嗅ぎに近づき、サーナイトも遠慮がちに近づいた。
 その一方で、鶏頭だけはそういう趣味はないとでも言いたげに、ピジョットにまとわりつく一人と一羽、そしてその取り巻き達を離れた位置から見守っていた。
 バシャーモは格闘タイプだ。大きな鳥ポケモンは苦手なのかもしれないとトシハルは思った。
「行かないのかい、ダイズはおとなしいから大丈夫だよ」
 などとひやかしを言ってみたが、ぎろりと睨まれたので、それ以上は言わないでおくことにした。
 そんなことをしているうちに、トシハルの目線からも島を確認することが出来るようになる距離までホエルオーが到達した。
 肉眼で確認する約十年ぶりの島だった。
 ああ……!
 トシハルはわずかに口をあけて、そのままその光景に見入っていた。
 心臓がバクバクと鼓動を高鳴らせた。
 上陸の時が近づいている。
 突然、彼らが乗るホエルオー、シロナガの周りに、いくつもの潮が吹き上がった。
 無論、それはシロナガのものではなかった。潮吹きの張本人達が海面に顔を出すのに時間はかからなかった。彼らの周りに何頭ものうきくじら達が集まって、海面から顔を覗かせる。
 シロナガは同族達に潮吹きで答え、しょっぱい水がトシハル達に降り注いだ。炎タイプの鶏頭はちょっと迷惑そうだった。
「すごい……」
 海に落ちそうなほど身を乗り出して、彼らの群れを一望しながらアカリが感嘆の声を上げる。
 彼らの前に広がる碧色の海にはたくさんのうきくじらの影がゆらめいていた。
 オオスバメ、グラエナ、ライボルト、サーナイト。アカリのポケモン達も口をあんぐりとあけて、その様子に見入っている。
 うきくじらは数を増やし、シロナガを中心に艦隊を組み進んでいく。
「すごい。私、ホエルオーがこんなにいるところ見たこと無い。ホウエンにこんなところがあったなんて」
 前から、奥から、横から、碧い海に映る巨大な影の先頭から次々と潮が吹き上がる。その度に彼らは歓声を上げた。トシハルはそんな様子をずっと見守っていた。どうしてか涙が出そうだった。
 ダイズがばさりと翼を広げると、空へ舞い上がる。ニ、三周ほどホエルオー艦隊を一望するように旋回すると、瞬く間に島へと吸い込まれていく。おそらくは島民に来訪者のことを知らせる気なのだろうとトシハルは思った。もう向こうからもこちらが見えるはずだった。
 フゲイ島の集落、フゲイタウンは狭い町だ。ピジョットが知らせた来訪者のことは、瞬く間に島の住人に伝わった。
「博士の鳥ポケモンさ騒がしいぞ」
「さっき海のほうさ飛んでって、戻っできた。誰か来たらしい」
「それにしても、こんな時に、ねえ」
「まぁた迷ったトレーナーじゃながとか」
 様々な憶測が飛び交った。だが。
「ありゃ、あれはもしかしてトシじゃないのかい……!?」
 誰かが双眼鏡を持ち出して、高台から彼らの姿を確認し、言った。
「トシだって!?」
「そりゃあ確かか、お前さんの見間違いじゃあないんかい」
「次の船は十日くらい後じゃろ。トシが来れるわけねぇ」
「いや、間違いない。あれはトシじゃ。トシがホエルオーさ乗っとる。ホエルオーさ乗って帰ってきた」
「ホエルオーさ乗って? あれまー、トシさ、いつのまにホエルオー乗りさなったんじゃい」
「ありゃトシの奴、女の子と一緒に乗っとるなぁ。誰だろか。かわいい子じゃい」
「そんなことより本当にトシさ、間違いないんじゃな」
「ああ、間違いない。トシじゃ」
「おおい! 誰ぞツグミさんちさ知らせでこい! トシさ帰ってきだってな。それと……」
「それと?」
「それと……博士にもな」
「そうだな。博士さ伝えなげればな。トシさ帰ってきたってな」
 何人かが小走りに道を急いだ。
 ほどなくして、ぞろぞろと島民達が海岸へ集まった。もう島からも向かってくるうきくじらを確認できた。うきくじらが島の海岸へと近づいてくる。両者の距離が互いに近づくにつれて、彼らはお互いの姿をはっきりと認識する。
 島民達はそれがたしかにトシハルであると確信した。
 トシハル達は彼らを見る。島民達は口々に何かを叫んでいる。
 それはかつて島を出て行った者に対する拒絶の意味合いは感じられず、むしろ彼の帰郷を歓迎しているようだった。
「よかったじゃない、トシハルさん」
 そんな彼らの様子を見、アカリは言った。
「あなたが深刻そうな顔して話すから、心配してたのよ。でもこの様子なら大丈夫だよね。博士だってきっと…………トシハルさん?」
 アカリは振り返りざまにトシハルを見た。だが、島民達の歓迎ムードにも関わらず、彼はどこか影を落とした深刻そうな顔をしたまま、島民達の様子をじっと見つめていた。それは誰かの姿を探しているようにも見えた。
「ねぇ、もしかしてあの中にいたりするの?」
 と、アカリが続けざまに聞いたが、彼はずっとその方向を向いたまま黙っているだけだった。
 澄んだ鳴き声がまた聞こえてきて、ダイズが島から飛んでくる。またホエルオーの上に着地するとてくてくと歩いてきて、彼の傍らに立つと、嘴で服の袖を引っ張った。
 何をしているんだ、早く行こうとでも言うように。
「あ、ああ……。そうだね」
 と、トシハルはつたない声で言った。
 どうにも様子がおかしい、とアカリは思う。
「トシぃ、よぐ帰っできたなぁ! もうお前は間に合わないだろうって諦めていたんだ。けんど間に合ってよかった。本当によかった!」
 二人は、島民の一人がそう言ったのを聞いた。
「間に合った? 何のこと?」
 と、アカリが尋ねる。
 トシハルはまたしばらく沈黙していたが、今度はかすかに言葉を漏らした。
「間に合った、だって……? 最初から間に合ってなんて……いないんだよ」
 震える声でトシハルは言った。口を閉じてからも唇が震えていた。震え続けていた。
「どういうこと?」
 するとトシハルは自嘲するように、悲しく笑った。
「君が言うようにあの中に、カスタニ博士がいればよかったんだけどなぁ」
「だから、それってどういう……」
 ハッとしてアカリはもう一度島のほうを見る。海岸に立つ島民たちを……。
 その瞬間、彼女は気が付いた。あることに気が付いてしまった。
「トシハルさん、」
 そして、理解した。
「確かめなくちゃいけないことって、これだったの?」
 いつの間にかそう問うていた。
 ああ、どれくらいの時間が経ったろう。どれくらいの時を費やしただろう。
 と、トシハルは回想した。
 どんなに時間をかけたって、結果は同じだった。ただ、認められなかっただけだ。事実は歴然と存在していたのに。頭の中で、受け入れ拒否をしていただけだった。
 短くもあり、長くもある抵抗だった。でももうその時間は終わったのだ。結果は何も変わらない、と。
 島へ連れて行ってください。
 彼はそう依頼した。海を渡ることが出来ないから。
 でも今はこうだったのではないかと思う。
 島へ連れて行ってください。一緒に来てください、だったのではないか、と。
 道連れが欲しかったのだと思う。だって一人で行くのは怖いから。逃げ出してしまいそうだから。一人では立っていられないから。
 そうだったんだ、と彼は気が付いた。本心はそうだったのだ、と。
「会社にさ、母から電話があったんだ…………」
 と、トシハルは言った。
「それは僕にとってあまりにも唐突で、突然過ぎて、受け入れられなかった。信じられなかった。何かの冗談だって思った。だから考えないようにした。自分の目で見るまでは考えないようにしようって僕は決めた」
 トシハルは言った。アカリにそのように言った。けれど目を合わせることは出来なかった。アカリはずっと島の方向を見つめ続けていた。
 島の人々は皆一様に同じ色の服を着ていることに、彼女は気が付いていた。身につけている形はそれぞれ違うのだが、皆一様に同じ色の服を着ているのだということに。
 彼女はもう理解していた。あの日、自分とトシハルが出会ったあの日、この島で何が起こっていたのか。何の準備が進んでいたのか。
 なぜ彼は帰郷したのか。
 トシハルの独白が続いた。
「だから僕は……行かなくちゃいけなかった、確かめなくちゃならなかった」
 潮騒が、波の音が聞こえる。海と陸の狭間で響いている。
「本当はさ、いつこうなってもおかしくはないって知っていたんだ。いつかはくることだったんだ。だってあれから十年以上経っていたんだ。僕の知る博士は僕が幼いころから、僕が少年だったころから、とうに幾十も年を重ねていた人だったんだから」
 南国の太陽が差す。うきくじらの身体に彼らの影を濃く濃く刻みこんだ。ミャアミャアと鳴く海鳥の影が通り過ぎてゆく。
「いつかは来るって頭のどこかでわかっていたのに、ずっと考えないようにしてた。電話を受けたときもそうだった。認めてしまったらすべて終わってしまうような気がして」
 波が、揺らめく。白い砂浜に寄せては返す。繰り返す。
「…………だけどもう認めないといけないんだね。受け入れないといけないんだね」
 海と陸の狭間を挟んで旅人と島民は向き合っている。うきくじらの上に立ち、そこから見る彼らの衣装は黒だった。
 黒。それは悲しみ、悼み、祈りを捧げる色だ。
 島の住人達。彼らは皆、一様に黒の衣装を纏っていた。
 トシハルはくるりと方向を変えると歩いてゆき、うきくじらの背中に置きっぱなしだったキャリーバックを開く。そうして何かを取り出した。
 それはミナモのショッピングセンターで買ったネクタイだった。
 包装を開ける。そのネクタイに模様は無かった。
 トシハルは傍らに立つピジョットに、海岸に降ろしてくれないかと依頼した。
 そうして深くお辞儀をすると、アカリに詫びた。
「ごめん……こんなことにつき合わせて本当にごめん」
 頭を下げるトシハルが片手で握っているネクタイの色は黒。黒一色だった。
 黒。それは去ってしまう誰かを送るための色。
「僕は博士に会ってくるよ」
 トシハルは顔を上げるとそう言った。
「……会って、お別れをしてくるから」
 波の音が聞こえた。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す波の音が。
 島で育った少年は、キャリーバックから取り出した黒い色のネクタイを、締めた。





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