エピローグ.

 昨日、トシハルが干した上着は湿り気が気にならない程度に乾いていた。靴はまだ湿気があったけれどとりあえず履くことにした。多少の湿り気があったって歩けないことはあるまい、とそう思う。
 きょろきょろとあたりを見回す。目的のものはすぐに見つかった。
 手をかけた。だいぶ固くなっていたが、体重をかけるとそれを回すことが出来た。閉ざされていたシャッターがガラガラと開き始め、一挙に光が差し込んだ。
 音につられてアカリ達が目を覚ます。見れば、レバーを懸命に回すトシハルの姿があった。彼女は寝袋から這い出してゆき、ガラガラと開いてゆくシャッターの下を潜る。倉庫を出て、見上げた空はからりと晴れていた。
 がちゃん、といって音が消えた。倉庫のシャッターが全開になる。雨の夜は暗く、部分部分しか見えなかった島鯨。その全貌をようやく彼らは目の当たりにした。
「カイナの館長が欲しがるはずだよなぁ」
 ぐるりと囲うように歩き回りながら、彼らは改めてその大きさを体感した。
 大きい。四枚の鰭といい、背骨のひとつとったって、パーツパーツの大きさが半端ではないのだ。頭部だけでも圧巻だった。小さな船一隻程度ならば余裕で丸飲みに出来そうである。
 もしかしたら博士はこれを一人でこれを眺めてはニヤついていたのかも分からないと、トシハルは想像した。まぁダイズくらいは連れていたかもしれないが。
 これに乗っかっていたのか。博士はこれに乗って、そしていってしまったのか。
 トシハルは空の上に思いを馳せる。
「ねえ、アカリちゃんってバンジージャンプ好きだったりする?」
 何の躊躇もなく雲に飛び込んだアカリを思い出し、気まぐれにトシハルは尋ねたが、アカリに変な顔をされたので、いやなんでもないよ、と彼ははぐらかした。
「戻ろうか」
 彼が言うと、アカリは同意した。
「お腹がすいたわ」
 と、彼女は言った。
 昨日の昼から何も食べていない。早く何か食べたい、と。
 晴れた空の下、かつてのサトウキビ道を獣達が駆けていく。昨日は出さなかったからと、運動に出されたオオスバメの影が彼らを追い越していった。
 道路を道なりに進み船着場に到着する。船は無事だった。
 驚いたのはどこで嗅ぎつけたのか。あるいは何かを予感したのか。島に着いたその日に放しておいたアカリのホエルオーがすぐ近くで潮を吹いていたことだった。
 彼女は驚き、なんでここにいるの、どうしてわかったのなどと言っていたが、手持ち全員揃ったとも喜んで無邪気にはしゃいでいた。
 そうしてトシハルとダイズは船に、アカリ達はホエルオーに乗ってフゲイ島に戻っていった。

 島に戻るとずいぶんとトシハルは怒られた。
 心配したじゃないか、また遭難したのかと思ったという声が大半だった。中には昨晩はお楽しみでしたね、などととんでもないことをぬかす輩がいたが、彼は断固として否定した。ダイズがやれやれとでも言いたげに足で冠羽の後ろを掻いていた。

 アカリは二日ほど島をぶらつくと、ついに島を発つとトシハルに告げた。
 北上すると彼女は説明した。まずはシロナガに乗って西へ移動し、リーグ本部のあるサイユウシティに渡る。野暮用を済ませた後に、飛行機に乗り、さらにカナズミの飛行場からカントーへ飛ぶという。
「カントーでしばらくぶらぶらするつもりだけれど、シンオウに行こうと思ってる」
 と、彼女は語った。化石をたくさん掘るのだという。
「もうホウエンには帰らないつもりなのかい」
「今は、わからない。あなたこそどうするのよトシハルさん」
 アカリが返した。結論などもうわかっていたけれど、はっきりと言葉で聞いておきたかった。
「……そうだな。今度の定期便で一旦本土に戻るよ。いろいろ片付けなくちゃいけないこともあるし、でもすぐに戻る。今度は十年とかじゃなくて……」
「そう」
 アカリはいつものように素っ気無く返事をしたが、口は笑っていた。
 そうしてアカリは再びホエルオーに乗ると島を去った。レイランがダイズとの別れを惜しんでいた。終始島のほうを振り返っては名残惜しそうにしていたが、ダイズはほっとした様子だった。

 時はあっと言う間に流れていった。
 島に戻ったトシハルは、町長に許可を受け、研究所の土地と施設を借り受けた。今は事実上住み込みで、そこから毎日海へ出ている。
 すぐに秋が終わり、師走が駆け抜けて、正月になる。彼は十年以上の間を経て久々に浮鯨神社に初詣をした。そうして元旦から三週間くらい過ぎた頃に見慣れない消印がついた便りが届いた。
 ダイズの嘴に挟まれたそれを見るとアカリからで、シンオウのポストカードに最近のことが少しばかり綴られていた。
 それによると、ここから遥か北にあるシンオウはよく雪の降るところであるらしい。化石堀りを思う存分にやった後のブームは犬ぞりなのだそうだ。グラエナのロボ、ライボルトのラーイのコンビにそりを引かせ、大会に出るのだという。
 はるかに続く白一色の大地。グラエナとライボルトにそりを引かせ、犬ぞり遊びに興じる彼女の後ろを、置いてけぼりを食らって、懸命に追いかける鶏頭を想像し、トシハルは少し愉快になった。今日もあのバシャーモは彼女に引っ張りまわされているに違いない。そうに違いない。
 追伸に妙なことが書かれていて、トシハルはしばしダイズを見つめていたが、ピジョットは首を傾げるばかり。決定的な証拠も無いので、あまり気にしないことにトシハルは決めた。
 当分はこの地方にいるつもりだと彼女は続けていた。ホウエンに帰るつもりは今のところないらしい。
 でも、いつか。と、彼は思う。
 いつか、いつの日か、それが何年後になるか、あるいは何十年後になるのかはわからないけれど、うきくじらの背中に乗ってきっと彼女は帰ってくる。そんな風にトシハルは思うのだ。
 トシハルはしばしの間、ポストカードを眺めていたが、やがてそっとそれを机の上に置いた。
 そうして代わりに手に取ったのはフィールドノート。ポケットにその小さなノートを突っ込むと、傍らのピジョットに行くよ、と告げる。海に出る時間だった。
 誰もいなくなった研究所の一室は静かだった。
 ポストカードの置かれた机。その前で開かれた窓の向こうに、青い空と碧い海が覗いている。
 碧い海の上にある青い空は何者にも占領されず、水蒸気を吸い上げもくもくと成長した雲を背にキャモメたちがミャアミャアと鳴き交わしながら宙を滑っていく。
 ふと、その風景に海から吹き上げられた海水が混じる。
 それはこの付近の海域に棲む巨大な生物の仕業だった。
 吹き上げられた海水。それは空中でキラキラと輝いて、ほどなくして海へと還ってゆく。


 波の音が、聞こえる。
 星砂で覆われた白い砂浜に寄せては返す、波の音、海の音色が。
 少年はもういない。
 耳の鼓膜に残った故郷の音。それを探す少年はもういない。

 海が鳴っている。
 かつての少年は噛み締める。
 自分はここにいる。自分の居場所はここ。ここにあるのだと。

 海が鳴っている。
 息をしている。脈を打っている。

 波の音が、聞こえる。









少年の帰郷「了」


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