16.

「びえーっくしょん!」
 トシハルが巨大うきくじらの肋骨の下、盛大にくしゃみをした。
 寒い。だが濡れた身体を乾かさなくてはならないのでそこは我慢した。
 彼らは今、二手に分かれて濡れた体と服を乾かす最中だった。

「トシハルさん、私が出てくるまでこっちきちゃだめだからね!」
 広い倉庫に少女の声が響き渡る。倉庫の端に積まれたコンテナの影に隠れてのアカリの台詞だった。コンテナの後ろで光が漏れ、その前で鶏頭が腕組みをしている。
「何言ってんだよ! 言われなくても見たりしないよ! こっちも服絞るからしばらく出てこないでくれよ」
 トシハルが反対側の端で、服を絞りながら言った。ダバダバと水が落ちる。
 その傍らにはアカリから貸してもらったライボルトが光球を口にくわえながらものすごく嫌そうな目を向けていた。目つきの悪いライボルトだったが、アカリいわく女の子とのことだった。
「あーあ。靴もズボンもかわかさなきゃだめだな。これは」
 トシハルはズボンを脱ぐ。トランクス一丁の情けない姿になり絞る。また水が落ちる。
「ダイズ、かぜおこし頼む。軽くな」
 そのように依頼すると、ピジョットが片翼を使ってうちわを仰ぐようなしぐさをした。びゅうっと風が吹く。彼はそこで盛大にくしゃみをした。
「ダイズ、もう少し弱く。そうそうそれくらい」
 ピジョットにそんな贅沢を言いながら、今度は髪を乾かす。冷たい風だからなかなか乾かない。またくしゃみをする。
「すいません。ちょっと借ります」
 そういって巨大ホエルオーの前鰭に上着を引っ掛け、靴を引っ掛けた。ぽた、ぽたと靴の先から雫が落ちる。ズボンを干せないのは無念だが仕方あるまい。これ以上水が出ない程度によく絞った後にトシハルはそのまま履くことにした。上半身は許してもらうにしろ、この状況で履かない選択肢はない、と判断した。
 ライボルトと共に歩く。倉庫から数少ない資材を探したところ、ダンボールのようなものは見つかった。もう少しまともなものが残っていてもいいのに、などと思いながら、二、三枚下に敷き、座る。
「まぁ、コンクリート直寝よりはいくぶんかいいか」
 トシハルは呟いた。少なくとも雨が上がるまではここで過ごさなくてはならない。天井から雨打つ音、ガタガタと風の鳴る音が響いてくる。ダイズがぴょこぴょことトシハルに近寄り、隣に座った。
「ダイズ、お前本当は知ってたんじゃないのか。鍵のこと」
 トシハルがそう言うとピジョットは彼を見、首をかしげた。
「とぼけてるのか? 本当に知らないのか? まあ、いいけどさ……」
 そこまで言うとトシハルはもう追求しなかった。
 おそらくは骨を掘り出したことは知っていたのだろう。だが、それの学術的価値や意味はダイズに理解できなかったに違いない。博士が骨を掘り出して、この場所に収めた。それを言葉にして表現する力を彼は持っていない。博士がダイズが知らない間に鍵を作った可能性もあった。
 ミズナギは知っていたのだろうかとも考えを巡らせた。彼のことだから骨を掘り出す手伝いくらいはしたのだろう。だがそこまで考えてもういいや、とトシハルは思った。
 知りたかったのは鍵を開けたその先だ。それがわかったなら、それらはすべて些細なことなのだ。
 伏せていたライボルトが顔を上げ、立ち上がった。コンテナの裏からアカリが出てきたからだった。バンダナはしていなかったが、赤い服はしっかりと身につけていた。
「もう乾いたの?」
 ポケモンをぞろぞろ引き連れてやってくるアカリにトシハルが尋ねると、
「速乾性なのよ。最近のトレーナー用品ってよく出来てるの」
 と、返された。トレーナーの旅の大きな悩みのひとつが洗濯だ。だから衣服は日々進化しているのだと彼女は言う。リーグの賞金を使って、以前着ていたものと同じデザインでオーダーメイドしたのだと説明した。
「そりゃあ研究者にも喜ばれそうだな」
 トシハルが返す。
 アカリはポーチから、モンスターボール程度のカプセルを出すと、中身を取り出して栓を抜いた。するとそれはみるみるうちに膨らんで寝袋になった。さすがは野山を歩き回るトレーナーである。準備の仕方が違っていた。ぼすん、とアカリがその上に座る。ポケモン達が隣に座ったり、足元に擦り寄ったりした。よしよし、とアカリがグラエナを撫でてやる。
 海の上で少女は言った。ポケモンが好きなら、バトルが好きなら、自分はトレーナーでいられる、と。トシハルはその言葉を思い出していた。
 いずれ島を発つであろう彼女がどこへ行くのか。それをトシハルは知らない。けれどその言葉の通りに彼女はトレーナーであり続けるのだろう。
 トシハルは後方に手をつくと、再び巨大ホエルオー、島鯨の骨格を見上げた。同じようにダイズやアカリ達もそれを見上げた。暗い倉庫の中、光に照らされた巨大な顔の骨。それを短い首が支えてる。それはやがて背骨となり尾まで続いてゆく。その間に巨大な肋骨が半円を描くように、何かを掬い上げるように伸びている。
 博士の手により既に掘り出されていた全身骨格。まるでそれ自体がひとつの建造物だった。その中に収まってしまう自分達はまるでホエルオーの血肉か内臓になってしまったかのように思われた。
「大きいな」と、トシハルが言う。
「うん、大きい」と、アカリが答えた。
 トシハルは思う。いつの頃からか人は数字という概念を発明し、使い続けてきた。それは自分達がポケモンという生物を認識する為にもしばしば用いられてきた、と。図鑑で名前の次に挙げられるのは、ポケモンの高さ、そして重さなのだから。
 一匹、十匹、百匹、千匹。10メートル、20メートル、30メートル。1キログラム、10キログラム、100キログラム。数や長さ、重さを言葉だけで言うのは簡単だ。だがそれだけでは、単に口に出すだけでは実感を伴わない。だから数字を知っているだけでは、大きさを知っているとは言い難いのだとトシハルは思う。
 実際に対峙して、ちっぽけな自らと比較したときに、人は数字の実際を理解する。その数の多さ、大きさ、重さを理解する。ちょうど傍らの鳥ポケモンに触れたその時、はじめてその暖かさ、感触、匂いがわかるのと同じように。
 一番大きなポケモン、ホエルオー。
 けれどそれが大きいと知っている者は少ない。
 皆、14メートルという数字だけは知っている。けれどその大きさまでは、知らない。
「トシハルさん、これからどうするつもり?」
 不意にアカリが尋ねた。
「君こそ、どうするんだい」
 トシハルが返す。
「もう決めてるくせに」
「そっちこそ」
 鼓膜に響く雨の音。ポケモン達のフラッシュが消えたのが先か、トシハルかアカリが瞼を閉じたのが先か、それは両者とも覚えていない。
 雨が降り続いている。いつ止むだろうか。もし明日が晴れならば、シャッターを開けてみよう、そんなことを考えながらトシハルは眠りに落ちていった。

 …………。

 ……。

 はっと彼は目を開く。
 エンジン音に気が付いて、目を開いた。
 気が付くとトシハルは船の甲板に立っていた。博士の船の甲板に。ああ、たぶんこれは夢だな、とトシハルは思った。昔はよくあった。明日船に乗るぞと博士に言われると博士の船に乗っている夢を見る。
 けれど洋上になかなかホエルオーが見つからなくて。うまくいかなくて。焦っていると、起こされる。朝を迎えているのだ。
 海風が吹く。船は猛スピードで洋上を進む。
 デッキのほうから誰かと誰かが話す声が聞こえて、トシハルは近づいていく。
 覗いてみると二人の人物がそこにはいた。一人は船の舵をとり、一人は双眼鏡を持って、海を覗いていた。
「どうだトシハル見えるかー」
 舵を持つ男が、双眼鏡の少年に尋ねる。
「見えないですねぇ」
 そこにいたのはカスタニ博士、そしてかつての自分だった。
「うーむ、今日は不漁だなぁ」
「そうですねぇ」
「飯にするか」
「そうしましょう」
 師弟は軽妙なノリと共に、提案と同意を交わし、船は停まった。彼らは洋上で昼食を摂り始めた。今日の昼食はトシハルの母が持たせた弁当だった。師弟のそれぞれが島自生の植物の葉の包みを取ると、海の幸の詰まった具の入ったおにぎりが、三つほど並んでいた。
「ダイズ、おいで」
 と、クジラ博士の弟子が言う。
 デッキから一匹のピジョンが降りてきて、弟子のおにぎりを一つ、つつきはじめた。
 彼らはしばしの間、食事に集中した。
「トシハル、ホエルオーとは、何だと思う」
 不意に博士が、口をもごもごさせながら弟子に問うた。
「…………何なんでしょう」
 口にご飯粒をつけた頼りない弟子は返して、ピジョンのダイズが首をかしげる。少しくらい考えろよともトシハルは思ったが、いかんせん博士の問いかけも抽象的過ぎる。
「ホエルオーとは……」
 と博士は続けた。
「ホエルオーとは?」
 弟子がオウムがえしする。
「ホエルオーとは、…………ロマンだ」
「……はい?」
 弟子とトシハルは同時に突っ込んだ。
 だが、大真面目な顔で博士は続けた。
「なあ、トシハル。私はなんであの日、129番水道でホエルオーなんて見てしまったんだろうなぁ」
 と、彼は続けた。
「おかげで私は知ってしまった。自分はひどく小さく、弱い生き物だと知ってしまった」
 どこかで聞いたような台詞だとトシハルは思った。
「狭い世界の中でつまらんことにこだわって、虚勢を張って生きていたんだと知ってしまった。自分が一生懸命追いかけてきたものが急に馬鹿らしくなってしまったんだ」
 博士はおにぎりをすべて口に入れると、葉を丸め、海に投げ捨てた。
「ホエルオーはデカい。バカみたくデカい。そのデカさは人の価値観を変えちまう。人間のどんな業績も名誉も、こいつの前にはかすんじまう。実にくだらん。俺はこいつに出会ったとき、自分のいる世界が、自分の抱えているものがどうでもよくなっちまった。私は決めた。私は、私の残りの人生をかけて、とことんこのホエルオーってやつに付き合おうと決めた」
 トシハルはどきりとした。博士がトシハルを見た。
 傍らでおにぎりをほおばるクジラ博士の弟子でなく、トシハルのほうを。
「忘れるなトシハル。この島に生まれたお前にとってホエルオーはただの隣人で、当たり前に存在している者で、ただの近所に生息している生物、すなわちそれはお前にとって単なる日常でしかないのかもしれないが、ホエルオーの大きさを知っているお前は、そうでない者達よりはるかに多くを知っているのだということを」
「博士、」
 と、トシハルは口に出した。

「博士、僕は――――」


 …………。

 ……。

 トシハルは再び目覚める。
 ああ、そうか夢だったのか、と彼は思った。いや、夢だとわかっていたのだがいつのまにか前提を忘れていたのだ、と。
 隣を見るとアカリとそのポケモン達、そしてピジョットのダイズが立っていた。
「おはよう。トシハルさん」
 と、赤バンダナの少女が言った。
「もう寝てるのは貴方だけよ」
「ああ、ああ。ごめん」
 と、トシハルは返事をした。まだほの暗い。朝焼けには遠い時間なのだろうか。
「ところで、ちょっと思い出せないんだけど」
 と、アカリは続けざまに言う。
「何がだい」
「私達、沖ノ島に来て、雨に降られたのよね」
「ああ、そうだよ」
 トシハルが答える。
「倉庫を見つけて、その中で眠った。島鯨の骨の下で」
「君の言う通りだ」
 トシハルは尚も答える。
「それなら私達、どうしちゃったのかしら」
 と、アカリは問いかけた。
「ここはどこかしら」
「え?」
 トシハルはアカリの問いに気が付いた。不意に周囲の音が、空気が変わったのがわかった。
 彼らの上に広がっていたのは一面の夜空だった。数え切れない数の星が瞬き、星座が見下ろしていた。それは雨雲に隠されていたはずの、星屑のちりばめられた夜空だった。
 そうしてトシハルは感触に気が付く。自分が今、腰を下ろし座っているものの感触に。
 ぶよんとした感触の青い身体。知っている。これはホエルオーだ。ホエルオーの背中の上に自分はいる。自分達はいる。
 トシハルは立ち上がった。視線の先で大きな尾鰭が揺れていた。
 おかしいのはホエルオーの浮いている場所だった。どうも海水の色が変だし、もやもやしているように見える。まるでドライアイスの煙のように掴めない、煙のような何かにそれは見えた。
「雲よ」
 と、アカリが言った。
「雲?」
「そうよ。今、私達の下で雨が降ってるの。雲の上だからここは晴れてるのよ。どうも私達は島鯨の背中にのって空の旅に出てしまったらしい」
 まるで何かの舞台の台詞みたいにアカリが言った。
「なんだよそれ。ムチャクチャな設定だな」
「そんなことは無いわよ。博士を乗せて海に出る前、神職さんが言っていたじゃない。海面を鏡に海に見立てた時、頭から海に沈むことは空に昇ることと同じだって」
「いや確かにそうは言ってたけれど」
 トシハルは混乱する。ホエルオーは海に浮かぶもので、雲に浮かぶものではないのだ。確かに彼らは死ねば海に沈んでいく。だから海面を鏡とするならば、ホエルオーは空を飛んでいるのかもしれないが。
「それにね、あの人も同じことを言ってるの」
 アカリが前方を指差した。
「あの人?」
 トシハルが問いかける。さっきからアカリの言葉によって、視界がだんだんと開けているように思われた。そうしてアカリが前方を指差した。トシハルは初めて前を向いた。ホエルオーの進行方向に顔と身体を向けた。
 そうして見つけた。
 巨大なホエルオーの背の、白い四つの模様のその先、うきくじらの頭の上に誰かが立っているのを。
 腕組みをしている人物の背は高い。
「何を今更驚いてんだトシハル。お前はこの風景を知っているだろう?」
 聞き覚えのある声だった。
 白い半袖のポロシャツを着たその人が、彼らの側に振り向いた。
「今私達を乗せてるこいつが――島鯨が教えてくれたぞ。昔雲の上でお前を乗せたってな」
 高身長の老人が装着しているのは愛用の眼鏡。
「トシハル、お前昔、沖ノ島に行こうとして遭難したな。死にかけて雲の上まで行ったはいいが、こいつに振り落とされた。そんなことまで忘れちまったのか?」
 それはかつてホエルオーを求め島にやってきた人。自らをクジラ博士と名乗った人。
 それは一昨日、海に沈んだその人。
「カスタニ博士……!」
 トシハルが声を上げた。
「よお、久しぶりだなあトシハル。その様子だとまぁまぁ元気みたいだな」
 取り乱す弟子を尻目に、老人はあくまで調子を崩さない。まるでかつての思い出の写真のようにうっすらと笑みを浮かべながら淡々と語った。
「お前の意識がぶっ飛んでる間、そこの赤い子からいろいろ聞いたぞ。お前、ホエルオーに乗って帰ってきたんだって?」
 博士は続ける。
 トシハルは何かを言おうとするがうまく声として出てこない。
「トレーナーサポートシステムだったか。あれは便利だよな。掘り出したこいつの骨をどうやって運び出そうかと思ってたんだが、試しに募集かけたらよ、バトルガールやらサイキッカーやらいろいろ集まってくれて助かった。あの時はバッジ五個くらいの奴らに集まってもらったが、まさかお前がリーグチャンピオン引っ張り出してくるたぁなぁ。大したヤツだよ、本当に。昔っから人に迷惑かけてばかりでさ……」
 ああ、言わなくては。
 とトシハルは焦る。けれど積もる話がたくさんありすぎて、つっかえてどれも出てこない。
 言わなくては。言わなくてはいけないのに。
 聞きたいことだってたくさんあるのに。
「知ってるかトシハル。島の誰かが死ぬとな。島の祖霊ってのがこっちに迎えをよこすそうだ」
 島の神職が言ってたんだがな、と付け加える。
「私は余所者だからな。正直、受け入れられるのか心配していたが、一日ばかり待ってたら、こいつが迎えにきてくれた。神職さんがちゃんと葬儀をやってくれたお陰かも知れないな。あとでお前から礼を言っといてくれ」
 弟子が何か言いたそうなのを博士は知ってか知らずか、一方的にしゃべり続けた。
 星が瞬く。星座が煌く。
 強く強く風が吹いて、雲が流されていく。
 隣に立つアカリの髪がばたばたとたなびいている。
 博士、博士。博士!
 声が出ない。少年は焦る。うきくじらの背の上で少年は焦る。
「あれだろ、お前さ、私にいろいろ聞きたいことがあるんだろ?」
 わかってるよ、とでも言いたげに、博士は笑った。
「島を出たことがどうとか、本当はどうして欲しかったんだとか、こいつのバカでかい骨を押し付けてどうするのか、とかさ。お前はそういうことが聞きたいんだろ? そういうくだらないことをさ」
 お見通しなんだよ、そう博士は続ける。
「すごかったろ? あれ。カイナの館長が未だに欲しがってるんだ。まあ、私はあいつ嫌いだからさ、頼まれたってやらないけどな?」
 そう言って博士は「がはは、」と笑った。
 トシハルは尚も何かを声に出そうとするけれど、風のようにひゅうひゅうと空気が漏れるだけで、博士には届かない。走り寄って行きたいのに足も動かない。
 全長約30メートル。島鯨の背中の距離は長く、遠い。
 ああ、きっとこれも夢。夢なんだと彼は思った。
 夢っていうのはいつだってそうだ。いつだって思い通りに運ばない。
「トシハル、」
 言い聞かせるように博士は言った。
「お前達の世界における私の役割は終わってしまったんだ。だからこれ以上は言わないし、言うことは出来ないんだ」
 博士は続けた。人は言葉で生きているから。言葉で世界を、自分を定義するから。だから去る者がむやみに言葉で縛ってはいけないのだ、と。
「本当はな、こうしてるのだってルール違反なんだ。ついしゃべり過ぎちまったがな」
 星が輝いている。夜空の雲の上をホエルオーは進んでゆく。
 腕にはめた時計を見て、そろそろタイムリミットだ、と博士は呟いた。
 瞬間、彼らの乗る島鯨の前方、後方、そして左右のあちこちから、無数の潮が吹き上がった。そうして、いくばくかもしないうちに潮吹きの主達はその巨体を雲から出し、島鯨と併走し始めた。
 ああ、迎えだ。彼らは迎えだ。
 トシハルにはそれが分かってしまった。
 知っている。昼と夜、空の色はあの時と違うけれど、この風景を知っている。
 吹きすさぶ風の中、博士を見た。博士もまたトシハルを見た。博士はふっと笑った。そうして再び進行方向に向き直った。前を向いたままもう二度と振り返らなかった。
「トシハル」
 風の中で博士は呟いた。
 耳の横でびゅうびゅうと風が鳴る。
 だからバカ弟子には聞こえまいと思った。
「トシハル。こいつの骨の行き先も、自らの行き先も、お前自身が決めるんだ。誰でもない、お前自身が」
 前を向いたまま博士は呟いた。
「お前はもう、少年ではないのだから」
 じゃあな。
 博士は手を軽く上げる。
 瞬間、島鯨が最大級の「潮噴き」をした。勢いよく吹き上げられたそれが濃い霧のようになって前方の視界を塞ぐ。博士が消えた。霧に隠されるようにその姿は見えなくなった。
「……はか、せ……はかせ! 博士!」
 トシハルは叫んだ。
「カスタニ博士ッ!!」
 だが声が戻った時にはもうすべてが遅かった。
 金縛りが解かれたように、急に身体が動くようになって、彼は島鯨の頭まで全速力で走ったけれど、博士の腕を掴むことも、その姿を捉えることも出来なかった。忽然と消えてしまったように、最初からいなかったように、そこにもう博士はいなかった。
 霧が晴れていく。すべてが風に流されて、また星空が覗いた時、トシハルはたくさんのホエルオー達がぐんぐん空へ昇ってゆく光景を目の当たりにした。
 ああ、同じだ。と、彼は思った。あの時と同じだと。
 きっと博士はあのくじら達のどれかの上にいて、手の届かない場所へ行ってしまったのだ。
 届かない。もう、届かない。博士には届かないのだ。
 ふと、誰かが手を掴んだのがわかった。振り返るとアカリだった。
「トシハルさん、戻ろう」
 と、彼女は言った。
「戻る?」
「そうよ。私達は、私達の世界に戻るの。見て」
 雲の向こうを指差す。小さな影が雲の海に見え隠れした。ホエルオーが一匹、蛇行しながら雲の中を泳いでくる。ある地点まで来ると雲の中に潜るように消えてしまった。
「シロナガちゃんが迎えに来てくれたのよ。乗り換えよう」
「乗り換えるって、どうやって」
「もちろん、飛び降りるのよ。あなた昔、そうやって戻ったんでしょ? 大丈夫よ。あとでシロナガちゃんが拾ってくれるって。じゃ、先に行ってるわよ」
 そう言ってアカリは島鯨の横幅ぎりぎりまで後ずさると、助走をつけてジャンプした。雲の中へのダイビング。彼女の身体は一瞬で雲の海に消え、見えなくなってしまった。その後を追うようにして、アカリのポケモン達が続いていった。
 まるで水泳選手のように真っ先に鶏頭が飛び込んで、続いて獣の二匹が一緒になって飛び込んだ。はためくスカートを押さえながらサーナイトも落ちていく。そして、不意に上空でトゥリリーィと声がしたのをトシハルは聞いた。いつの間にボールから出されたのだろうか。オオスバメのレイランが星空を旋回して飛んでおり、まるで水中の獲物を狙う海鳥のように雲の海に突っ込んでいった。
 びゅうびゅうと風の走る足元を、トシハルは呆然と見つめている。雲の中、アカリとそのポケモン達は既に見えない。まるで当たり前だというように落ちていったトレーナーとそのポケモン達の気が知れなかった。やつらには恐怖心が無いのかと彼は本気で疑った。ジョウト地方のなんとかって寺の舞台から飛び降りるとかそういうレベルではない。
 が、次の瞬間、ドン、とトシハルは背中を押され、島鯨から真っ逆さまに落っこちた。
 ダイズの体当たり、あるいは捨て身タックルだった。
「……」
 島鯨の背の上。風に冠羽をたなびかせたピジョットは下を見つめる。しっかりと主人が落ちたことを確認すると、翼を広げた。空中で体勢を変える。そうして彼は雲の海にダイビングし、消えていった。
 空に昇ってゆく島鯨。その姿を一瞬だけ目に焼き付けて。



 トシハルが気が付いた時にはもう朝だった。
 彼はうきくじらの骨の下で仰向けになっていた。
 倉庫のいくつかの窓からは眩しい朝日が差していて、中の埃が舞っているのがよくわかった。
 横になったまま、隣を見るとアカリとポケモン達はまだ眠っていた。おはよう、とでも言うように朝日の逆光を背負い島鯨の背骨にとまったピジョットがピュイと鳴いた。
 ああ、眩しい。とても眩しい。
 トシハルは腕で目を覆い光を遮る。
 つうっと一筋、涙が流れた。

 ただいま。
 僕は今、帰ったよ。

 そうだ。自分は今、初めて帰ってきたのだ。
 そのようにトシハルは思った。





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