(九)灯火


 火炎ポケモン、リザード。
 ホウエンでは珍しいポケモンだが、進化前のヒトカゲは、カントー地方の初心者向けポケモンの一匹とされているらしい。
 とある図鑑の記述によれば、炎の灯るその尻尾は大人五人分を持ち上げられるという。
 彼らだって別に疑っていたわけではないのだが、やはり見ると見ないのでは実感が、納得の度合いが違う。知っているのとこの目で見るのには実際、天と地ほどの差があるのである。

 最初に攻撃に出たのはバクーダだった。
 色違いのリザードに体当たりを食らわせるべく、彼は突進する。
 が、その一撃はあっさりとかわされた。
 リザードは素早く噴火ポケモンとの距離をとり、溜めの体勢に入った。尻尾の炎が赤々と燃え大きさを増していく。カッと一瞬青白く燃え上がったように見えたその瞬間、大きく開けた口から大量の炎が迸った。
 炎ポケモンに対する火炎放射。大したダメージは望めない。だがそれは祭を楽しむ観客を沸かせるには十分なパフォーマンスだった。そして敵の関心を炎に逸らした上で再び近づくにも。どっと人々が沸く声共にガラ空きのバクーダの側面に大きな一撃が振り下ろされる。腹部への打撃を受けたバクーダは鼻息を荒くして、痛みの方向に目を向けたが、敵の姿はすでに消えうせていた。また違う方向から火炎放射。そして一撃。
 そんな攻撃が何度か繰り返されて、バクーダはいずれも当て逃げを喰らってしまう。
 何度返り討ちにあわせてやろうとトライしても軽くいなされるか、よくてもあと少しのところで交わされてしまう。受けているダメージ自体はたいしたことはなかったが、噴火ポケモンは次第にイライラした様子を見せ始めた。

 「地震はやめとけよ」

 試合前にそう言ったのは自身のトレーナーだった。
 イベントの事情というやつで、祭の最後の夜にこの舞台が使えなくなっては困るからと云うことだった。まったく面倒くさいバトルだとでもいうようにふんっとバクーダは鼻息を噴出した。普段ならとっくに一撃をお見舞いしているところなのに。
 だが幸いにも、彼は暑苦しい外見に似合わず割合冷静な性格であった。血気盛んな性格であれば、ヤケを起こしていたかもしれないが落ち着いて戦況を観察する。
 地震は使えない、無闇に突進をしてもかわされる。ならば……。
 バクーダは主の意思を確認するようにちらりと後方に目をやった。すると意図が伝わったらしく、主人が軽く頷いたのが見えた。背中の中がぐらぐらと煮え立ち始める。彼はリザードを挑発するように、鳴き声をあげた。来るなら来い。お前の攻撃など蚊にさされたようなものだ。
 機を待つ。相手だって今の攻撃を続けていてもラチがあかないのはわかっているはず。今に大きな一撃を見舞おうとするはずだ。そしてその時こそが機。
 リザードが距離をとる。雄たけびを上げると彼は再び溜めの体勢に入った。先程よりも時間が長い。尻尾の炎が大きく燃え上がった。身体の大きさほどに膨らんだかと思うと青白くなる。今度は一瞬ではなかった。言うなればギアをチャンジしたというところだろうか。火力を上げてきたのだ。来る。バクーダも試合を見守る聴衆も同じ認識を持った。

「大文字」

 リザードのトレーナーが静かに命じた。 
 牙の並ぶ大きく開かれた口から尻尾で燃え上がっているそれと同色の炎が迸る。
 それはすぐに相手には向かわず、色違いのリザードの前で渦を巻くと、五方向に脚を伸ばし「大」の字の形をとった。大きい。聴衆のどよめきが聞こえた。

「放て」

 再びトレーナーの声。大の字の炎がバクーダに向かって襲い掛かる。
 だがバクーダは逃げなかった。太い蹄の生えた脚を踏ん張って受ける体勢を取る。彼が見据えたのは襲い掛かる大の字の青い炎ではなく、それを放ったポケモンそのものだ。
 高威力の技で火力が上がっている。とはいえ、それ一撃で自身を倒すだけの力は無い。これは、自分を倒すためでなく、ある程度動きを止め、視界を遮る為のものだ。いわば囮だった火炎放射の上級版。ならば相手はより大きい直接攻撃を狙っているはず。大文字をその身で受け止めながらバクーダは高く跳ね自身の上を取ったリザードの影を見た。
 ドラゴンクロー。加速度を付け、硬質化させた太い爪を振り下ろす。この一撃で勝負を決めるつもりだ。
 取った。その影がはっきりと現れたその瞬間、バクーダの背中にある火山が噴火した。
 炎を司るポケモンに炎は大したダメージを与えられない。だが、質量を伴ったマグマであればどうだ。岩や鉱物をふんだんに含んだ熱い土砂をぶつけるのであれば。それは高威力の打撃技を当てることと同等の意味を持つ。いくら炎ポケモンとはいえこいつの直撃を食らえば無事では済まない。バクーダは勝利を確信する。
 だが、次の瞬間に、

「カグツチ、地球投げ」

 という相手のトレーナーの声が聞こえたかと思うと彼の脚が地から離れた。
 そしてその巨体がぶんと放り投げられると石舞台の外へ投げ出されたのである。
 バクーダには何が起こったのかわからなかった。そして、リザードの二本の腕と尾に身体を持ち上げられ、投げ飛ばされたのだと気付いた時、すでに取組の結果は決していた。
 彼は相手の大技を誘っていたつもりだった。だが、誘い出されたのはむしろ彼自身だったのだ。大文字、そして彼の上空に見えた"影分身"という二重の囮。噴火を狙っていたのは彼だけではなかった。なまじ噴火で身体が軽くなっていたのが災いしてしまった。巨体は軽々と持ち上げられ、そして場外へと投げ飛ばされたのだ。

 このようにして準決勝一回戦の幕は大きな盛り上がりのうちに幕を閉じた。
 その盛り上がりと異様な熱気に比べると、準決勝の二回戦ははじめから盛り上がりに欠けていた。
 それもそのはずだ。観客の誰一人として、まともに取組を見ることが出来なかったのだから。

 二回戦は開始からそもそもムードに欠けていた。取組の前からポツポツと小雨が降り始めたのである。 そして西にカゲボウズとそのトレーナー、東にマグカルゴとそのトレーナーが並んで石舞台立ち、行司が「はじめぇ」と云ったあたりから本格的に降り出した。
 マグマで出来たマグカルゴの身体に雨粒が当たるとそれはたちまちに蒸気となった。強まる雨足は緩む気配もなく、ざあざあと音を立て始めシュウシュウと音がする。マグカルゴの身体に触れた雨は蒸気となり立ちこめる。たちまちにあたりは瞬く間深い霧に覆われてしまった。

「おい、どうしたんだ」
「ぜんぜん見えねーぞ!」

 などと苦情と罵声交じりの観客達の声が聞こえてくる。
 だが聞こえてくるばかりで彼らの姿はまったく見えない。ただ舞台を囲む炎がゆらゆら霧の中で揺れ、光っているのがわかる程度である。審判である行司の姿もまともに見えなかった。
 濃霧の中で、観客達や行司はさぞかし戸惑っていることだろう。その中でカゲボウズの主人だけが一人笑みを浮かべる。

「出ておいで」

 ツキミヤは、"彼ら"にしか聞こえないよう、ひっそりと呟いた。
 彼の足元から十、二十、三十といくつもの黒い影が芽吹いて顔を出す。
 霧の発生源のほうをすうっと指差してツキミヤが言った。

「シャドーボール。熱いほうに向かって打てるだけ打ち込んで」

 湧き出した影達が黒く禍々しいオーラの玉をいくつも発生させる。
 それが霧の発生源に向かって何十発も、何十発も打ち込まれた。
 濃い霧で対象ははっきりとは見えない。が、熱をもったそれはのだいたいの位置を掴むことはできた。これだけの数を打ち込めば無傷ということはあるまい。
 雨が止む。案の定、村人や参加トレーナーが風を起こせるポケモンを総動員して霧を払ったころには地面に倒れ動かなくなったマグカルゴが姿を現した。カゲボウズ一匹だけが元の位置でひらひらと浮いて微笑んでいる。行司が戸惑いながらもカゲボウズのほうに軍配団扇を上げる。何事が起こったのかわからぬうちに準決勝第二試合は決した。

「何をやったんだよコウスケ」
「何をやったんじゃコースケ」

 石舞台から降りてきたツキミヤにナナクサとタイキが尋ねるが

「それなりの準備をしたまでさ」

 と、彼は意味深な笑みを浮かべただけだった。
 次が決勝戦か。気がつけば先程勝ったリザードのトレーナーを無意識に探していた。
 するとすぐに目的の人物が見つかった。ツキミヤが降りてきた舞台のほぼ反対側にあのリザードと座っている。
 ツキミヤの視線に気がついたのか、彼は黙って睨み返した。

「米に例えるならジャポニカ種って感じだね」

 ナナクサがそう評価する。
 エキゾチックとでもいうのだろうか。そのへんのトレーナーとは違う雰囲気を持った人物だった。肌の色はどちらかといえば褐色で、大学で出会ったあの人を思い出す。
 ツキミヤは彼と対照的にやわらかく微笑み返した。

「お二方とも、十五分後には始めるけどよろしいかな」

 舞台の上から行司がそう尋ねてきて、彼らは互いに「問題ない」「問題ありません」と答える。
 束の間の休憩をとろうと腰を下ろすと、何か飲むかとナナクサが尋ねてきたので彼は茶を一杯所望した。

「これはアナモリさんちの方々お揃いで」

 どこかで聞いたような声。茶を片手に視線を上げれば雨降大社で見た顔だった。ぺこりとタイキが頭を下げる。

「これは村長さん、その節はお世話になりました」

 と、ツキミヤも軽く会釈する。

「何をしにいらっしゃったんですか」

 あからさまに不機嫌な声で言ったのはナナクサだった。本当にこの人が嫌いらしい。

「お揃いとといっても、タマエさんはいませんよ」
「ああ、タマエさんならお家の裏のほうにいらっしゃいましたよ」

 思い返すようにツキミヤが言った。

「あれ、コウスケいつのまに家に戻ってたのさ?」
「ちょっと必要があってね」

 これも勝つための準備さ、とでも言いたげに答えた。

「で、祭で忙しい村の村長さんが僕達に何か用ですか。まさかまた人を妖怪よばわりしにきたわけじゃないでしょう?」
「いやなに、九十九の部でカゲボウズ一匹で快進撃を続けてる出場者がいるっていうからね。どんなトレーナーかと思って見に来んだよ。そうしたら、昨日会ったタマエさんのお客さんじゃないか。それは声もかけてみたくなるでしょう?」
「それはどうも」
「九十九と同じ色違いのリザード、色違いの妖狐と同じ青い炎のカゲボウズ。面白い取り合わせだ。どちらが選ばれても、いい演者になりそうですな」

 村長は短い髭をさすりながら、はっはっは、と笑った。

「村長さんは、どちらになるとお考えですか」

 突然、試すようにツキミヤが尋ねる。
 ほんの一時だが、老人が何やら意味ありげな目でツキミヤを見た。
 だが、すぐに

「何、勝ったほうが相応しいほうというだけのことです」

 と、答える。

「そうですか。それじゃあ是が非でも勝たないといけませんね」

 ツキミヤは挑戦的な台詞を吐く。だが、柔らかい笑みは崩さなかった。その顔はまるでどんな場面でも変わらない表情の能面のようでもあった。面の下の素顔がどんな表情をしているのかは誰も知らない。

「コウスケ君、と言ったかね……」

 静かに老人は問う。

「はい」
「……あんた一体何者だね?」

 あれ、結局聞きたいところはそこなんですか、とでも言いたげにくすりとツキミヤは笑う。

「村長さんッ!」

 声を荒げたのはやはりナナクサだった。

「結局それですか! そんなにコウスケを妖怪に仕立てたいのか、貴方は!」

 その様子は眉間にしわを寄せ、吠え立てる獣のポケモンのようにも見えた。

「だってねえナナクサ君、私だって最初はあのばあさんに付き合わされたたかわいそうな旅の人かと思ったけどさ、こう表舞台に立たれると怪しみたくもなるじゃないか。現に彼は九十九になる目前まできてるわけだし、これは案外ホンモ……」
「いい加減にしてください!」

 ナナクサが叫ぶ。

「僕はコウスケと風呂にだって入ったけど、耳の一対、尻尾の一本だって生えちゃいませんでしたよ! あったのは……古傷くらいです」
「古傷だって!? そりゃあ雨降様の矛の刺し傷じゃないのかね」

 動かぬ証拠を見つけたとばかりに村長は興奮気味に言った。

「違います! かなり深かったけどあれはひっかき傷でした。矛ではあの傷はつかない」

 ナナクサが負けじと反論する。

「と、とにかく! 僕が頼んだんですよ出演のことは。どこの骨ともわからないトレーナーにやらせるよりは客人である彼にやってもらうほうがタマエさんも喜ぶだろうと、そう思っただけです。とにかくこれ以上タマエさんの客人に無礼なことを言うのは、」

 ますます感情的になっていくナナクサ。だが、

「いいじゃないか、ナナクサ君」

 と、ツキミヤはなだめるように言った。

「コウスケ……?」
「祭とは日常と切り離された非日常。こんなにたくさん人もポケモンもいるんですから。その中に妖怪や魔物の一匹や二匹が混じっていてもおかしくない。泊めた客人が妖の類だったなんていうのは存分に有り得る話です」
「君まで何を言い出すんだよ」
「今年、舞台で九十九の役を演じているのが九十九そのものだと宣伝したなら、きっと話題になるでしょう。たとえ本当の中身が何であったとしてもね。さすがはこの村長さんだ。祭の盛り上げ方というのをよく心得ていらっしゃる」

 ね、あなたの狙いはそれなんでしょう? と、同意を求めるような目でツキミヤは村長を見つめた。村長はしばしキツネにつままれたような顔できょとんとしていたが、やがて、まぁそういうことにしてやってもいいというような顔をして、髭をいじった。

「村長さんはおっしゃいましたね。タマエさんは僕を人間として見ていない……と。だからご期待に応えてみようと思ったまでです。舞台の上なら人は何にでもなれる。雨を降らす神様にも村の田を火の海にしてしまう恐ろしい化け物にすらなれるんです」

 響く笛の音、胸に響いてくる太鼓の鼓動。
 赤や橙の色が灯る闇を背に、芝居がかった口調で青年は語った。

「ならば僕はなりきってみようと思う。滅びてもなお村人を恐怖させる炎の妖に」

 闇夜に灯る炎。

「もちろん僕はただの院生ですけれどね」

 青年は笑顔を崩さずに言った。

 


 小さな灯りが天井にぽつんと灯っただけの土間があった。そこに大きなダンボール一個程度の機会がガタガタと音を立てながら稼動している。機械の口からは細かな白い粒が吐き出され、機械の頭には黄金色の粒が老婆の手によって袋から注ぎ込まれていた。
 吐き出されているのは今年獲れたばかりの新米だった。籾殻が取り除かれ、研いで炊けばすぐに食べられる白い粒だ。
 タマエはもう昼間から同じ作業を繰り返していたが、ほとんど手を止めなかった。まるで珠を磨くように、精米する作業を繰り返す。
 だが、作業を繰り返しながらずっと頭から離れないことがあった。
 日が暮れてしばらく経った頃に現れた客人の言葉だ。



「ご精が出ますね、タマエさん」

 人影に気がついて、作業を繰り返すタマエの手がしばし止まる。
 つい先程から、ただ流れる米をじいっと見つめていただけのネイティが妙にそわそわし出したと思ったら、そういうことか。
 四角く切り取られた家の壁、裏口には、一昨日の晩に招いた客人が立っていた。
 傍らには一匹のカゲボウズ。ふよふよと宙に浮いている。

「なんじゃ、コースケか。シュージと一緒に祭の見物に行っとったんじゃないのか?」
「所用がありまして。しばらくネイティを貸していただきたいと思って戻ってきたんです」
「貸すも何もお主のポケモンじゃろうが。ほれ」

 戻っていいぞという風に、タマエが小鳥ポケモンに合図するとネイティはひょいっと、精米機から飛び降りた。そして、二、三回飛び跳ねながら主人の下へ戻っていった。主人の肩に跳び乗ると目を細めて頬に擦り寄る。ツキミヤが仕方ないなとでも言うように頭を撫でる。

「シュージはどうした」
「ナナクサ君でしたら、タイキ君と一緒に選考会の見物中ですよ」

 タマエの質問に青年はにこやかに答えた。

「選考会? あの大根役者を決める会のことか。くだらんものを見とるの」

 やや不機嫌そうにタマエが言うと、くくくっ、とツキミヤは笑った。

「大根とは手厳しい。それじゃあ僕はせめて人参くらいにはなるように努力することにします。タマエさんのお眼鏡に叶うかどうかはわかりませんが」
「……? どういうこっちゃ?」

 タマエが怪訝な顔をする。

「僕ね、選考会に出場しているんですよ。準決勝まで行きました。九十九様の役をとるまであと少しです」
「…………なんじゃと」
「本当は役がとれたら報告するつもりだったんですけど」
「…………」
「タイキ君にもバレちゃったし、もういいですよね? しゃべっても」

 タマエの反応を楽しむようにツキミヤは言った。
 一方のタマエは丸い目をますます丸にしてしばしツキミヤを見つめていたが、やがて

「……シュージが無理強いしたんじゃないのかね、コースケ」

 と尋ねた。

「そんなことないですよ」
「嘘をつけ」

 ツキミヤの言葉は瞬く間に否定された。

「やっぱりバレましたか」

 青年はいたって素直に負けを認める。

「あの子の言いそうなこった」
「実は相当な勧誘を受けました」
「やっぱりか」

 タマエはふうっと溜息をつく。

「シュージは空気が読めないというか言い出したら聞かない子でねぇ、とんだ迷惑をかけてしまったね」

 彼女は申し訳なさそうに言った。だが、
「いいえ」 と、ツキミヤは言った。
 僕を役に就かせるどころか脚本の改変まで企んでいますよ。心の中で反芻する。

「まあ、それでこそナナクサ君ですよ」

 青年がフォローだかイヤミだかわからない言葉を返した。
 すると、

「コースケ、お前さんはシュージをどう思う」

 やや真剣な顔つきになって老婆は言った。

「シュージはね、ある日いきなりここで働かせて欲しいと言って押しかけてきたんよ。もう三年くらい前くらいになるのかな」

 唐突にそんなことを語り出す。

「正直なところあの子の素性は私もよく知らないんだ。何か込み入った事情があるのかもしれないが詮索する気も無いしね」
「そういえば、この村の出身ではないと伺いました」
「最初の三日間は出身なんかも聞いてみたが、はぐらかすばっかりなんで四日目には諦めた」
「三日坊主ですね」

 冗談交じりでツキミヤが言った。

「でもどうしてだろうねぇ。どうにもよそから来た他人の気はしないんだよ。まるで昔から一緒に暮らしているみたいな」
「わかるような気がします」

 きっと相当努力したのだろうとツキミヤは思う。
 ナナクサはやたらと村のことに詳しい。あれだけの知識を集積するのにどれほどの犠牲を払ったのか。

「シュージには感謝しているよ。主人に先立たれて、ドラ息子はタイキを置いたままちっとも帰ってきやしない……シュージが現れたのはそんな頃だった。あの子は何をやらせてもよくできるけど、田んぼから家に戻ったときに、おかえりなさいと言ってくれるのが一番ありがたかった」
 
 天井に掛かった灯かりが弱く照らすだけで、部屋はほの暗い。
 羽虫が二、三匹そのわずかな光の周りを舞っている。

「だからこそ心配だ。あの子はなんだってやってくれるし、仕事をするのを苦にもしないけれど、恋人も友達も作らないんだ。本当に興味が無いのかもしれないが……だからコースケ、シュージがお前さんに懐いてるのを見てわたしゃホッとしたんだ」
「懐いている? ナナクサ君が僕に?」
「気が付かなかったかい。あの子は、コースケ以外を呼び捨てでは呼ばないよ」
「……それは気が付かなかったな」
「シュージは米のことに詳しいから、村の人間にも頼られている。けれど、あの子自身はどこか村の人間とは距離をとっているんだ」

 そうタマエは付け加えた。

「そういう風には見えませんでしたけど」

 目の前の老婆に異様に入れ込んでいる以外は、軽くて空気が読めない奴くらいにしか思っていなかったツキミヤにとって、彼女の発言は少し意外であった。
 ナナクサが嫌っている村長は置いておいて、村巡りであった人々とナナクサのやりとりを見ていればとてもそういう風には見えなかったのだが。

「それはコースケの本質を見る目が甘いからじゃよ」
「本質……ですか」

 誰かさんがそんなことを言っていた気がする。

「老い先短くなると、目は悪くなるし、耳も聞こえづらくなるが、そういう感覚はむしろ鋭くなるんじゃ」

 けれども老婆にそう言われると、だんだんそんな気がしてこないでもなかった。
 彼はタマエを慕っているのであって、村自体が好きなわけではないのかもしれない。タマエの為という大義名分があれば平気で伝統行事をひっくり返そうとする奴だ。

「ああ、そういえば彼、言っていました。僕のことは……ヒトメボレなんですって」
「ヒトメボレ?」
「米の品種ですよ。彼、人を米の品種に例えたがるでしょ」
「ああ、そんなクセもあった」
「メグミさんはアキタコマチで、村長さんは汚染米ですって」
「汚染米? はは、そりゃ品種じゃないだろう」

 タマエがそりゃいいわ、とでも言いたげにカッカと笑った。
 だが彼女はすぐ真剣な顔つきになって、

「コースケ、」

 と、一呼吸置いてから言った。
 
「コースケがシュージをどう思ってるかは知らん。だがこの村にいる間だけは仲良くしてやっておくれ。あの子のことだから、いろいろ変なことは言うだろうし、すでに言われてもいるだろうが……選考会の件はすまなかった」
「気にしていませんよ。それに選考会のことなら、決めたのは僕の意思ですから」

 弱々しい灯かりの周りを羽虫が舞う。
 人口の灯かりを月の輝きと勘違いした小さな命は、月を追おうとしてぶつかっては弾かれ、また弾かれて、けれど月を目指すことをやめようとしない。

「それに……それなりに楽しませてもらっていますしね」

 つうっと指を伸ばすと、青年は傍らに浮かぶカゲボウズの喉を愛撫した。
 エネコがゴロゴロと喉を鳴らすのと同じように、差し出すように、人形ポケモンが首をのけぞらせる。

「九十九の役は僕が貰います。他の大根役者共には渡しません。どんな手を使っても」
「物騒だね……どんな手を使っても、かい?」
「そうです。ナナクサ君たってのご指名ですから」

 それにこれは何より、当の九十九本人の望みでもある――。
 ほの暗い部屋の中、青年の眼はいやに光って見えた。
 闇夜に光る獣の眼のような。
 青年が瞳を伏せてふっと笑った。

「そろそろ会場に戻ります。お手を止めてすみませんでした」

 身を翻し背を向けた。

「タマエさんにいい報告ができるようがんばりますよ」

 四角く切り取られた裏口から、青年のシルエットが消える。
 外からりーりーと虫の鳴く声が聞こえた。
 遠くに笛や太鼓の音が混じっている。

「…………つかみどころの無い子じゃのう」

 タマエはしばしシルエットの消えた裏口をぼうっと眺めていたが、やがて止めていた手を再び動かし始めた。
 彼女ぱちんと電源を入れると、まるで餌をねだる雛鳥のように精米機が鳴り始めた。

「そんなに鳴らんでもすぐにくれてやるわい」

 タマエは後ろに積まれた収穫したばかりの米の袋に手をかけた。

「ねえタマエさん、」

 唐突に先ほど去ったはずの客人の声がして老婆は顔を上げる。

「なんじゃコースケ、行ったんじゃなかったんか」
「僕が選考会に出た理由、知りたくありません?」
「なんじゃ、よく聞こえんぞい」

 ガガガガ、と精米機がけたたましく鳴っている。
 袋を担ぎ上げ、開いた。今年収穫したばかりの黄金色の稲の粒が顔を覗かせる。

「やって欲しいと言われたんです」
「それは知っとる。お前さんはシュージに……」
「いいえ、本人から」
「あん? 本人?」

 音が変わる。精米機が粒を飲み始める。吐き出される白い粒。

「そう、本人です」

 青年は裏口の向こう。その姿は夜闇に紛れてよく見えない。
「ねえタマエさん、」と、再び語りかけるように青年が言った。
 機械の振動音が邪魔して、明瞭には聞こえなかった。
 だが、タマエの聞き間違い出なければ青年は確かにこう言っていた。

「ねえタマエさん、ツクモ様が夢枕に立って、僕に演じてほしいって云ったんだって言ったら信じてくれます?」
「…………、……なんじゃと?」

 青年が闇の中で笑ったように見えた。

「待て、コースケ」

 彼女は急いで袋の中身を精米機に飲み込ませると、その場を立つ。
 だが、持ち場を離れ、彼女が家の外に飛び出した時、すでに青年の姿は消え失せていた。
 置き去りにされた精米機だけがごうんごうんと物欲しそうに音を響かせていた。