●鳥替え神事 


 賑やかな都市部からはだいぶ離れた小さな田舎町に、その神社はありました。
 雑木林の道を行き、赤い鳥居を潜って境内に入ると、天を突き刺す様に高く高く伸びた二本の杉が目に入ります。その幹と幹の間には注連縄(しめなわ)が張ってありました。夫婦杉(めおとすぎ)と呼ばれるその二本の杉は鈴を鳴らす拝殿と向かい合うように立っていて、その間は開けています。
「替えましょ。替えましょ」
 その場所から子供達の声が聞こえました。
 見れば境内に集まった十人の子供達が何やら丸いものを渡し合っています。よくよく目を凝らすと、それは赤と白に彩られた機械球、モンスターボールでした。
「替えましょ。替えましょ」
 境内に響く笛と太鼓の音に合わせて、子供達はボールを手から手へと渡していきます。
 ここで行われているのは鳥替え神事。この町――エンビタウンでポケモントレーナーとして旅立つ子供達は、この行事を通じて自身のパートナーとなるポケモンと出会うのでした。
 子供達は神社に集まると巫女さんからボールを受け取ります。けれどすぐにボールの中のポケモンがその子のポケモンとなる訳ではありません。神事を経て、巡り巡って最後に手にあるボール、その中にいるポケモンこそがその子のパートナーとなるのでした。
 神楽が鳴っている間、子供達は動き回り、替えましょのタイミングで近くの子とボールを替えます。誰のモンスターボールにどのポケモンが入っているのか、ボールを開いてみるまで子供達にも渡した巫女さんにも分かりません。すべては巡り合わせなのでした。
 笛が鳴り響き、太鼓が拍子を数えます。そろそろ曲も終わりそうです。子供達はいよいよ胸が高鳴ってきました。ですが、
 めんどくさいなぁ。
 そんな事を思ったのは、神事に参加している一人の男の子でした。
 彼はボールを回しながらこんな事しなくたっていいのにと、ずっとそう思っていました。早く終わればいいのになぁと。
 男の子は知っていました。外の町ではポケモンセンターや研究所で、数種類の中から好きなポケモンを選ばせてくれるという事を。それに比べてこの町はなんなのだろう、と。選ぶ事もできなければ、どのポケモンかも開けるまで分からないのです。
 しかも、だ。
 目の前の女の子にボールを渡しながら男の子は思いました。
 しかも、入っているのはみんな鳥ポケモンなのだ、と。
 鳥替え神事。昔むかしから受け継がれてきたこの行事の名の由来が「鳥」が最初なのか「取り替え」が最初なのか、彼はよく知りません。けれどもこの町ではずっとこうやって最初のポケモンを選んできたのでした。
 やはり町の外から見ると変わっているのでしょう。男の子のお兄さんが旅立った二年前にはテレビ局が撮影に来ていましたし、去年は雑誌のライターが写真を撮りに来ていました。
 そうして今年も町の外から人が来ていました。時折、小さなカメラで写真を撮りながら、メモを取っている今年の来訪者は二十代と思われる青年でした。肩に緑色の玉のような鳥ポケモンを乗せたその青年は、神事を見守るお父さんやお母さんのその中に混じって、懸命にメモを取っているのでした。
 あれは何をしに来た人だろう。町の別の男の子にボールを渡して、女の子から受け取って、男の子はそんな事を思いました。
 やがて神楽の音が止み、最後の鳥替えが行われました。最後に男の子にボールを差し出したのは先ほど何度かボールを取り替えた女の子です。そして、この最後に巡ってきたモンスターボールの中には彼のパートナーとなるポケモンが入っているのでした。
「どの子が入っているのかなぁ」
 手に握ったボールを見つめ、どの子もポケモンを出すのを待ちきれないといった雰囲気です。その気持ちは男の子も同じでした。もちろんこの方法に色々言いたい事はあったのですが、十個のモンスターボールの中にはセンターではまず貰えないような他地方の珍しい鳥ポケモンも入っているのです。だから皆、中身が気になって仕方ないのでした。
「はいはい、神主さんが祝詞(のりと)をあげてからね」
 巫女さんは子供達をなだめました。はーい、と少し不満そうな声を上げて子供達が拝殿のほうへ歩いていきます。拝殿の前では神主さんが祭壇に、供物をせっせと並べていました。お米にお酒、それに木の実、大きなきのこもありました。だいたいはこの土地で採れたものでした。
 そうして神主さんは懐から一枚の紙を取り出すと、読み上げ始めたのでした。
「豊かなる縁を結ぶ地に神留り坐す――」
 歌うように時折語尾を延ばしながら神主さんは読み上げていきます。男の子が事前に巫女さんから聞いたところによると、たくさんの神様の名を呼んで、旅の安全をお願いしているという事らしいのですが、何を言ってるのかはさっぱり分かりませんでした。
 退屈だなぁ、早く終わらないかなぁと思ってちらりと脇に目をやると少し離れた所に先ほどの青年が立っていました。小さな機材を拝殿のほうへかざし、祝詞を録音しているようでした。やっぱりよく分からない人だなぁ。男の子は思いました。すると青年の肩に止まっていた緑の鳥ポケモンが振り向いて目が合いました。それで彼は慌てて祭壇のほうに向き直ったのでした。
 そうこうしているうちに祝詞の奏上も終わりになりました。神主さんが紙を畳んで、懐にしまったその瞬間、わっと子供達が歓声を上げ、再び広場に舞い戻りました。
 そうして先ほど鳥替えて巡ってきたボールを次々に宙に放ち、ポケモン達を繰り出したのでした。最初に現れたのはカントー地方の代表的な鳥ポケモン、ポッポでした。次に現れたのはシンオウ地方の鳥ポケモン、ムックルです。三番目の子が繰り出したのは地を走る二つ頭の鳥ポケモン、ドードーでしたし、四番目に女の子が出したのはイッシュ地方の鳥ポケモン、マメパトでした。殊にイッシュの鳥ポケモンは珍しかったので皆が歓声を上げました。
 男の子はいよいよわくわくしてきました。彼のお兄さんは二年前、ひなワシポケモン、ワシボンを引き当て旅に出ています。意気揚々と出かけていくお兄さんの背中を思い出し、いよいよ期待が膨らみました。
「ショウタのも見せろよ」
 そう言われて、男の子――ショウタもモンスターボールを投げました。
 けれどボールから放たれたその中身を見て、友達、そしてショウタ自身もがっかりしました。
 なぜなら出てきた鳥ポケモンはホウエンの子供達にしてみれば珍しくもなんともないポケモンだったからです。
「なあんだ、スバメかぁ」
 子供達は口々に言いました。
 藍色の翼に二又に分かれた尾、額と喉を彩る赤、そのカラーリングはホウエンの子供達には馴染みがありすぎるものでした。
 ショウタの所に巡り巡ってきたのは、何の変哲も無いスバメだったのでした。
「こら! なんだはないでしょ!」
 巫女さんが割って入って言いました。
「そもそも昔は、鳥替えるポケモンはスバメばかりだったんですよ。伝統からいえばスバメこそが正統なんです。行事的にはスバメこそが当たりなんですよ」
 けれどショウタはすっかり気を落としてしまいました。 
 スバメ、こツバメポケモン。この鳥ポケモンは森に探しに行けばたくさんいましたし、餌を摂りに近くの田んぼにも出てくるのです。つまり初めてのポケモンを貰った後に皆が捕獲に挑むのがスバメであって、誰だってその気になれば手に入れられるのでした。
 こんな結果ならセンターでポケモンを選びたかった。そのようにショウタは思いました。
 最後の男の子がボールを開けます。結果はワシボンでした。お兄さんと同じポケモンを引いたのは住む家が近いユウスケという男の子で、皆はわあっと歓声を上げました。
 ショウタは何も言わずにスバメをボールに戻しました。三日を過ごした後には出発の儀があって、いよいよトレーナー修行の旅が始まるのだと巫女さんから告げられましたけれど、あまり耳には入っていない様子でした。

 旅立ち前に町で過ごす最後の三日間、子供達は鳥ポケモン達と過ごす事になっていました。パートナーとなった鳥ポケモンと野を駆け回り、飛び回ってお互いの事を知るのです。だから、旅の準備は鳥替え神事までに済ませておくのが慣例でした。なので、準備はまだなの、なんてうるさく言う大人はいません。子供達は真新しいランニングシューズを履いて外に飛び出すと、さっそくバトルを始めたり、パートナーを連れて山へ遊びに行ったり、おおはしゃぎです。
 ですが、そんな風に元気に走り回る同級生達とは違い、ショウタの気持ちは塞ぎ込むばかりでした。皆が珍しい他地方のポケモンを貰う中、彼が貰ったのはただのスバメだったからです。
 ――なあんだ、スバメかぁ。
 子供達が言ったその言葉が胸に刺さったまま抜けませんでした。
 大人達の世界がそうであるように、子供達の中にだって序列があります。たとえば背の高さ、かけっこの速さ、あるいはテストの点の良さ、評価の軸は色々ありますが、今彼らにとって重要な事はどんなポケモンを持っているか。それに尽きたのです。
 そうしてショウタが貰ったのはどこにでもいるスバメだったのでした。
「ねえねえ、名前はもう決めた?」
「ううん、まだ」
 マメパトを肩に乗せた女の子、それにぺラップを抱き抱えた女の子が木の下で話しています。
 お母さんからはポケモンに慣れておきなさいと送り出され、家に閉じこもっている訳にもいかず、外に出たショウタでしたが、彼女達には見つからぬようそっと道を急ぎました。
「よー、ショウタ!」
 そう言って、あぜ道ですれ違い、あっと言う間に去っていったのはドードーに乗った男の子でした。後ろを振り向くと、しばらく行った所で振り落とされ、田んぼに落ちたのが見えました。けれどすぐに立ち上がると再び背中によじ登りました。その様子はとてもとても楽しそうに見えました。
「ポッポ、かぜおこし!」
「オニスズメ! 回り込んでつつくだ!」
 雑木林近くで男の子が二人、ポケモンバトルに興じています。二人の間で茶色と赤の羽の鳥ポケモンが乱れ飛んでいました。すぐ近くの溜め池には二人の男の子がいます。彼らは二匹のポケモンを泳がせて競争していました。池の水を三つに割るように泳いでいたのはカモネギとコアルヒーでした。
 ショウタはその様子を遠巻きに眺め、道を行きました。手にはボールが一つ、握られていました。けれどその中にいるスバメが出される事はありませんでした。
 開けたあぜ道から木の生い茂る雑木林の道へ、周りの景色が移り変わっていきます。気が付くと赤い鳥居の前に彼は立っていました。それは神事を行った神社でした。子供達を避けながらあても無く歩いているうちに、なんとなくやってきてしまったのでした。
 あたりは静かでした。誰もいないのかと思いながら鳥居を潜ると、夫婦杉が出迎えました。そうして杉を中心に円を描くように歩いていった時、ショウタはようやく人がいる事に気が付いたのでした。
「こんにちは」
 そう言って先に口を開いたのは太い幹の裏側にいた先客のほうでした。天を刺す様に伸びる夫婦杉、その人はそれを見上げていました。そうしてショウタに気が付くと、振り向いてそう言ったのでした。それは神事の時に見かけたあの青年でした。
 二十代と思われるその青年は、あの時と同じように丸い緑のポケモンを肩に乗せていました。
「あ、神事の時にいた……」
「そう。あの時は邪魔したね」
 にこりと微笑んで青年は言いました。
「僕はツキミヤ、ツキミヤコウスケ。上でも下でも好きに呼んでくれたらいい」
 ショウタが尋ねる前に青年はそう名乗りました。神事の時に遠巻きに見ていた青年はあの時より背が高く大きく見えました。
 青年は自身の事を院生なのだと言いました。エンビでは一律にスクールと言われている学校には、町によって小中高の区分けがあり、その上に大学があるらしい事まではショウタも知っていましたが、どうやら院というのは更にその上にあるという事でした。町によってはトレーナーを目指さない子供達も多くいます。彼らは高校や大学を出たら働く事が多いのですが、大学に残って研究をする人もいるのだと青年は語りました。
「じゃあ、ツキミヤさんはトレーナーじゃないの?」
 ショウタは尋ねました。
「そうとも言うし、そうじゃないとも言える。免許は去年の冬に取ったばかりでね。あえて言うなら両方かな。ただし、僕の場合はバッジを集めたり強くなったりするのが目的ではないけどね」
 肩の緑のポケモン、ネイティを撫でながら青年は言いました。
「じゃあどうして?」
「言ったろ、僕は院生だって。目的は研究だよ」
「研究?」
 ショウタは訝しく思いました。なぜならショウタの研究のイメージといえば秘密の地下室でフラスコやビーカーを片手に、中身を混ぜているようなイメージしか無かったからです。だからこんなスバメしか飛んでいないような町で研究と言われても、ちっともピンとこなかったのです。
「僕の研究はね、簡単に言えばホウエン地方の伝説や昔話なんだ」
「それって研究なの?」
「そうとも」
「でも研究ってさ、新しい薬を作ったりするんじゃないの?」
「もちろんそれも研究だ。でもポケモンにもいろんな種類があってタイプがいるだろう。研究にも色々種類があるんだよ」
 そう言って少し困ったように青年は笑います。つけ足すように、
「ほら、鳥ポケモンにも色々種類がいるだろう」と、言いました。
 ショウタは何か分かったような分からないような気分になりました。青年の肩からネイティが飛び降ります。境内をちょこまかと動き回り、時折戻ってきては首を傾げました。
 神社は静かでした。二人は石段に座ると夫婦杉を見上げながら話し始めました。
 外に出て研究をする事をフィールドワークと言うのだと青年は教えてくれました。だからフィールドワークを行う研究者というのは、多かれ少なかれポケモンを連れて旅しているのだと。それは道行きで危険なポケモンに出くわした時の備えであったり、研究を手伝って貰ったりするためであるのだと語りました。
 青年はカイナシティから旅立ったという事でした。教授の指示でホウエン各地にある伝説の発祥地を訪ね歩くつもりだと言いました。
 どうやらこの青年はフィールドワークとやらの一環として、この町に伝わる鳥替え神事を見に来たらしい。とりあえずそこまでショウタは理解したのでした。
「そういえば、まだ君の名前を聞いていなかったね」
 思い出したように青年が言います。
「……ショウタ」
 ぼそりとショウタは答えました。
「ショウタ君か。君が引いたのは確かスバメだったね」
「え……う、うん」
 手に握ったボールを見つめながら、ショウタは歯切れの悪い返事をします。チクリと胸を刺された気がしました。すると青年はおもむろに腰を上げ、杉のすぐ下まで歩いていきました。そして、そっと幹に触れ、見上げました。
「この夫婦杉の周りを三周回った二人組は、結ばれると言われてるそうだね。男女なら夫婦になるし、同性なら親友になるんだって。ポケモンと人ならパートナーという絆で結ばれる。出発の儀では鳥替え神事で出会ったポケモンとこの杉を三周回る……」
 楽しげに青年は言いました。
「こういった縁起を持ってる神社はホウエンの他の場所にも色々あってね、ここと同じ二本の杉の事もあるし、二つの岩だったり、柱だったりする。場所が変わっても人の考える事は案外変わらないってところかな」
 まるで青年に同意するかのようにさわさわと風が杉を鳴らしました。
「樹齢いくつかな」彼はそう呟くと、杉の周りを歩き始めます。
「ただね、あちこちに似たような話はあっても、最初のポケモン選びと結びついたセットの儀式というのは珍しいんだ。だから教授が見て来いって。もしかしたら昔はあちこちでやっていたのかもしれないけど、ここ三十年くらいでポケモンもセンターで貰うのが主流になった。こういう行事は廃れていく一方だ」
「…………」
 廃れるのも当然じゃないか。その様にショウタは思いました。誰だってくじ引きみたいにポケモンを渡されるより、選択肢は少なくとも選んだポケモンを貰いたいと考えるに決まっているじゃないか、と。
 すると、やがて一周して戻ってきた青年が言いました。
「くじ引きの結果が平凡なポケモンでは不満かい?」
 ショウタはかっと顔を赤くしました。この青年にすべて見透かされていた事が分かったからです。
「……なんで」
「君の浮かない顔見ていれば分かるさ」
 青年が答えます。青年の顔の隣に並んだネイティも、分かりやすいんだよ、とでも言いたげな視線を投げかけています。そして、
「スギナさんが心配していたよ?」
 巫女さんの名前を出して青年は言いました。
「スギナおねーちゃんが?」
「神事を預かる身としては、君達の反応は当然気になるよね。神主さんも結構気苦労が絶えないみたいだよ? 親御さんの中からもポケモンセンターで選ばせればいいじゃないかって声はあるようだから。最近になって他地方の鳥ポケモンを混ぜるようになったのもそういう経緯からみたいだね。伝統的な儀式をやるにも特典が必要になってしまった。スギナさんも言ってたと思うけど、昔はみんなスバメだったからね」
 レポートの文言を考えるようにして青年は語ります。
「……みんなスバメなのに鳥替える意味はあるの?」
 思わずショウタは尋ねました。
「いいところに気が付いたね」
 青年は嬉しそうに言いました。
「それに関しては、スバメの事をもう少し深く知る必要がある」
 けれどいかにも話に弾みがついたというところで、青年は何か思い付いたように口をつぐんでしまいました。少し考えたようにしてその先を言いませんでした。
「悪いけど今日はやる事があってね。知りたければ明日も同じ時間においでよ。今度はそのボールの中のスバメも出しておいで」
 青年はそう言うと、肩に緑の鳥を乗せたまま、鳥居を潜って消えていってしまいました。
 結局よく分からない人だったなあ。
 ショウタはボールを手に握ったまま、その背中を見送りました。
 そうして彼は、しばしボールを見つめると気紛れに放ってみました。ぱかりとボールが開いて中から赤い光がこぼれ、小さな鳥ポケモンの形を為します。
「ピルルッ」
 現れた二又尾の鳥ポケモンは元気な声を上げ、嬉しそうに尾羽を振りました。
「スバメ……か」
 ショウタはぼそりと呟きました。

 ショウタが再び鳥居を潜ったのは、次の日の朝でした。陽気は林を包み、石畳に木陰が模様を刻んでいます。
 前日と違ったのは、ショウタの傍らにスバメがいた事でした。あまり相手をしてあげなかったにも関わらず、いやむしろだからなのか、スバメはショウタに一生懸命ついてきました。ショウタがついてこいとも言っていないのに自然と後をついてきたのです。
 ボールから放たれたスバメはぴょこぴょこと地面を跳びながらショウタの後ろをついて歩き、それに飽きれば近くの木々を渡りながら後を追いかけてくるのです。それはお兄ちゃんを慕って追いかける弟のようにも見えました。ショウタが鳥居を潜るとこツバメポケモンもまた同じように鳥居を潜ったのでした。
 鳥居の向こうに目をやると先客の青年は本を読んでいました。拝殿に続く緩やかな石段の一段に腰をかけて、ページをめくっています。
「やあ」
 ショウタに気が付くとにこりと笑って青年は声をかけました。
「何を読んでるの」
 ショウタが尋ねると、
「町の図書館で借りたんだ」
 と、青年は答えました。相変わらず傍らにはネイティの姿がありました。時折本を覗き込むような仕草を見せながら少し離れて、また戻って。緑の玉の鳥はそんな動きを繰り返しました。
 ショウタは積まれた本の背に目をやりました。エンビタウンの昔話、エンビの歴史――そんなタイトルが飛び込んできます。本当は積んだ本の横に立て掛けてあった真新しいノートサイズのタブレットのほうが気になったのですが、なんとなく聞けませんでした。青年がさらりと本のページをめくりました。
「この町はいいね。ちゃんと記録を残そうとしてる。過去の誰かが必要を感じてやったんだろうね。僕のやっている学問は、町のおじいさんやおばあさんに話を聞いたりする事が多いんだよ。それは僕の知りたい事が文字に記録されていない事が多いからだ」
 縦に書かれた文字を目で追いながら青年は言います。
「律儀なんだね。尤もそれは鳥替え神事を今でもやっているところにも表れているけれど」
 ショウタは黙って聞いていましたが、青年が何を言わんとしているのか、半分も理解できませんでした。けれど、なんとなく神事の支持者なんだろうという事は分かりました。わざわざ見にくるくらいですからそうに決まっているのですが。
「ここは面白いよ。時期はだいぶずれるけれど、岩流しという行事もあるそうだね。田の収穫に感謝して守り岩を清めるとかって」
 青年はそう続けます。ですがその単語を聞いて、ショウタは少しぎくりとしました。
「あ……あそこは近づいちゃいけないんだ」
 気まずそうにショウタは言いました。岩流しの神事は鳥替え神事のおおよそ半年後、つまり一年を二分する時期に行われます。けれどその場所を外の人に教えてはいけない。そのように町の子供達はきつく言いつけられていたのです。
「スギナさんにも同じ事を言われたよ」青年は残念そうに言いました。
「本にも詳しい場所が書いてないんだ。岩というからにはそれなりに大きいのだろうけど、この町じゃ田んぼのあちこちにごろごろしてるし」
 そう語る青年の目は、ショウタの瞳の奥を覗き込むように探っていました。
「ごめんなさい、教えられない。そういう決まりなんだ」
 視線に抗うようにショウタが言うと、青年はにこりと笑みを浮かべました。
「分かってるよ。ごめんね、困らせて」
 と、安心させるような返事が返ってきました。事実、その後に青年がそれに触れる事はなかったのでした。彼はまたさらりとページをめくり、読書に舞い戻りました。そうして時折あたりをちょろちょろと動き回って戻ってくるネイティの頭を撫でるのでした。
 ショウタは少しだけ怖くなりました。なんだか青年が得体の知れない何かの気がしたのです。
 そうして彼はある事に気が付きました。ショウタの後を懸命に追ってきたこツバメポケモンが、彼らとの距離を数メートル置いたままでいる事に。スバメはショウタと視線が合うとピルル……と力なく鳴きました。その様子がまるで、これ以上近づいてはいけないのだと、訴えているように見えたのです。
「ああ、君のスバメ、今日は出してきたんだね」
 青年がスバメを見てそう言った時、こツバメの羽毛が締まって細身になりました。それは鳥ポケモンの緊張を示していました。
 どうしてだろう、ショウタは怪しみました。スバメは明らかに青年を怖がっていました。
 すると、にわかに緑の小鳥ポケモンがこツバメの前に、ぴょんぴょんと進み出ました。スバメは嫌そうにビイッと威嚇の声を上げましたが、ネイティは表情を変えず、意に介しません。スバメに向かい合うように立ち、じっと目を合わせると赤い冠羽や尾羽を上下に振ったりして、時々首を傾げました。ネイティは声こそ上げませんでしたが、しきりに何かを話しかけているようにショウタには見えました。スバメの周りをちょこちょこと跳び回りながら、緑の丸い鳥ポケモンはそんな動きを繰り返しました。やがて、こツバメがそれに慣れた様子を見せると、ぴょこぴょこと跳ねながら主人の所に戻っていきました。
 ショウタはこツバメポケモンが遠回りしながらも、じりじりとこちらに近づいてくるのを見ました。けれど近寄ってきたスバメの様子はやはり緊張気味でした。小さな身体はやっとの思いで立っている風なのです。なんだかショウタは可哀想になりました。そうして気が付くとスバメに手を伸ばしていました。両手で包み込むと安心させるように腕に抱いたのでした。
 暖い。そうショウタは思いました。
「スバメの事を旧い言葉でウソと言うんだ」
 唐突に青年が言いました。
「うそ?」
「そう、鷽(うそ)。スバメという呼び方はポケモンの研究が進んで、共通した呼び名を決めた結果の呼称に過ぎない。本来は地域ごとに赤頭(あかがしら)とか二ツ尾(ふたつお)とか色々な名前があるんだよ。スバメだけじゃない。すべてのポケモンがそういう旧い名前をいくつも持っている」
「すべてのポケモンが……」
 ショウタは少し不思議な感覚を覚えました。ホウエンのあちこちに生息している、スバメをはじめとした珍しくも何とも無いポケモン達、例えばジグザグマやポチエナ……。けれど彼らがどこにでもいると感じるのは、共通した名前を決めてしまったからではないか、そんな気がしたのです。
「名前を一つに決めるってさ、便利だけど寂しいと思わない? 豊かさの喪失だよ」
 青年が問いました。けれど、
「……でも、やっぱり違うんじゃ混乱するよ」
 思い直してショウタはそう答えました。
「君は合理的だね」青年が言いました。そうして話を続けました。
「スバメの旧い名前にはね、他に燕尾(えんび)というのがあるんだ。つまりエンビタウンとはスバメが由来だということになる」
「この町がスバメの町って事?」
 ショウタは尋ねました。
「スギナさんが言っていたよね。昔、鳥替え神事はスバメばかりでやっていたって。その頃は神事の名前も鷽(うそ)替え≠セったそうだよ。他の鳥ポケモンを混ぜてからは鳥替え≠ノなってしまったけれどね」
「でもスバメだけで鳥替える意味なんてあるの?」
 スバメを抱いたまま、本来の目的に立ち返ってショウタは問いました。すると青年はにこりと微笑みました。
「鷽という響きは、当然に偽りのほうの嘘も連想させるね。だから鷽を取り替える事で嘘替えとしたんだ。まず悪運や災いを嘘に変える、その嘘を土地の神様への信心に変える。物事を循環させて良い方向へ変える。そういう願いがこの行事には込められているんだ」
 そうして何か思い立ったという風に立ち上がりました。その足は夫婦杉へと向かいました。青年の肩からネイティが飛び降りて、ぴょんぴょんと杉の周りを回りました。
「出発の儀式で杉を三周回るのも、あるいはそういう事なのかもしれないね。回るという行為は旅路を表すと同時に循環を表現しているのかも」
 楽しげに青年は語りました。杉の木に手をあてると、昨日と同じようにしばし見上げました。そうしてしばらくの後、振り向いて言ったのでした。
「そしてスバメが鷽と呼ばれるのにも理由がある。ある故事によれば、その昔、ホウエンのさる山道に夜な夜な鬼が出て、通れなくなってしまった事があった。退治のために何人かの操り人が名乗りを上げたけれど、みんな負けて逃げ帰ってきたそうだ。なんでもその鬼の前では、力自慢の獣でも思うように力が出せなくなってしまうらしい」
 鬼は何かのポケモン、操り人は今で言うポケモントレーナーと考えて貰えばいい、と青年は付け加えました。
「すると、近くの村の若者が鬼退治に名乗りを上げた。けれども誰も彼を信じなかった。村人達はこう言ったんだ」
 ――そんな赤頭一羽で何ができる。力自慢が皆逃げ帰ってきたのに。
「若者の唯一の手持ちはスバメだった」
「勝ったの?」
「彼は次の日の朝に戻ってきた。それ以降山道に鬼は出なくなった。けれど誰もスバメの功績だとは信じなかったんだ。きっと強いポケモンを隠し持っていたのだと村の人達は噂し合った。以来、その地域ではスバメの事を鷽(うそ)と呼ぶようになったんだって」
 青年は語りました。スバメはホウエンを代表する鳥ポケモンだ。だから古今問わず様々な話が残されていると。
「そして、最近はこんな話がある」前置きして、青年はさらに続けました。
「エンビから旅立ったトレーナーの中で最も成功を収めるのは、神事で鷽を引いた子なんだって。なんでも神事で替えるスバメが減った分だけ、一羽にその幸運が集まるんだそうだよ」
「えっ?」
 ショウタは声を上げました。けれどすぐに訝しげな表情を浮かべました。
「そんな話、聞いた事ないけど……」
 確かに巫女さんはスバメこそが当たりで、本来のポケモンだと言いました。けれども一番成功するなんて事は言いませんでした。だからショウタは青年が巫女さんあたりに頼まれてそんな作り話をしたのだと思ったのでした。
「そりゃ同じ神事で貰ったポケモンなのに、そういう事を言うと不公平だからね。表立っては言わないさ。けれど町の人の話を聞いてると……」
 不公平。その言葉にショウタはカチンと来ました。
「不公平って! 不公平なのはこの神事そのものじゃないか。他の町の子は好きなポケモンを選べるんだよ? 僕達は選べない。伝統かなんだか知らないけれど、付き合わされるこっちは迷惑だよ。他の地方の鳥ポケモンならともかく、スバメなんて後でいくらだって捕まえられるのに」
 少し声を荒げて、ムキになってショウタは言い返しました。というのも、
 ――なあんだ、スバメかあ。
 という町の子供達の落胆した声が蘇ってきていたからでした。まだ町が世界のすべてであるショウタにとって、それは大きな問題だったのです。
 腕の中のスバメが不安そうにショウタを見上げ、青年は困った顔をしました。
 間違ってもパートナーのいる場所で言うような言葉じゃない! ある種の良識のある大人ならばそう言ってショウタを叱ったかもしれません。けれど、青年は軽く溜息をついただけで叱りつける事はしませんでした。
「スギナさんと同じ時に旅立ったトレーナーがいてね、彼女は神事でスバメを引いた。そして今でも現役で活躍しているそうだ。スギナさんを含め同じ時に旅立った子が家業を継いだり、スクールに戻ったりしてる中で、だよ」
 青年が言いました。けれどショウタは納得しませんでした。
「それはルールが不公平でいいって事の言い訳にはならないでしょ?」
「手厳しいね」
 こりゃ困ったなと、青年は肩をすくめてみせます。
「不公平か。確かにそうかもしれないね」
 そうして風がざわざわと杉を鳴らす音に耳を傾けながら、言いました。
「でも残念ながら、この世界は不公平だらけだよ。選べない事のほうが多いくらいだ。たまたま君がそれに出くわした最初が鳥替え神事だっただけ」
 青年は続けました。そして説きました。不公平。そんなものは旅先にもいくらでも転がっている、と。また杉が鳴りました。今度は少し冷たい風でした。
「だったら、ツキミヤさんの町はどうだったんです?」
 ムッとして、ショウタは尋ねます。
「ポケモンセンターで選択制だね。中庭にたくさん放されてて、その中から選ぶんだ」
「だったら、あなたにそんな事言われたくないよ!」
 青年の答えにショウタはますます腹を立てました。すると青年は少し悲しそうに
「それは違うよ」と、言ったのでした。
「確かに僕は選べるよ。好きなポケモンを選んでいい。でもね、同じように向こうも僕を選べるんだよ。彼らにも意思はある。嫌なら捕まらないように逃げ回るし、噛み付きもする」
 そういうのは無理やり手に入れたところで懐かないのだ、と青年は続けました。
「ショウタ君、この世にはね、選ばれもしない人間というのがいるんだよ。そんな人間にとっては、選択権なんてあっても無意味なんだ」
 彼は少し寂しそうに笑いました。すると、あたりをちょろちょろしていたネイティが戻ってきて、小さな翼をばたつかせ、肩に乗ろうと跳躍しました。けれどその試みはあまりうまくいきませんでした。短い足の爪は青年の肩には届かず、服の袖に掛かったのです。小鳥ポケモンは青年の服の長袖を登ってようやくいつもの特等席に辿り着いたのでした。
「まさに僕がそういう類の人間だった。この子は特別でね」
 青年は丸い緑の小鳥を撫でてやりました。そうして少年の腕の中にいるこツバメを見下ろして言ったのでした。
「君はその子に慕われている。それは才能なんだよ」
 すると視線に射られたスバメが腕の中でぶるっと震えたのが分かりました。ショウタはそんなスバメの様子から青年を訝しく思いましたが、彼は気にする様子もなく笑みを浮かべました。
「君は選ばれた子だ。だから自信を持っていい」
 そう青年は言ったのでした。

 明るかった空が赤みを増していました。
 二日目を終えたショウタは帰りのあぜ道を歩いています。結局、お昼を食べに家に戻った他は、人目を避けてずっと雑木林で遊んでいました。長く伸びたショウタの影を踏むようにして、スバメは相変わらず一生懸命についてきました。
 ショウタには分かりませんでした。ポケモンはトレーナーを慕う。そんな事当たり前ではないか。そのように彼には思われたのです。神事で鳥ポケモンを貰った町の子供達にだって彼らのパートナーは懐いていました。そんな事は当たり前でした。ショウタにとっては当たり前の事だったのです。
 水を張ったばかりの水田には大小二つの影が映って通り過ぎていきました。一つはショウタ、もう一つは時々羽ばたきながら映るこツバメの影。こツバメは時折ピルピルと声を上げました。ですが、ショウタは無言で進んでいきました。
 ですがふと、二つの影は立ち止まりました。進行方向からもう一人、そしてもう一羽の影が現れたからでした。
「よう、ショウタ」
 現れたのは背丈がショウタと同じくらいの男の子で、一緒に神事に参加したユウスケでした。
「よ、よう」
 自信が無さそうにショウタは答えました。というのも、目の前に立つユウスケはがっしりとした足のひなワシポケモンを連れていたからでした。
 ワシボン、派手なカラーリングでふわふわした頭。幼いながらも闘志を宿したその顔つき。イッシュ地方にいるという珍しいポケモンでした。そして神事が終わってボールの中身を開放した時、一番皆の注目を集めていたのがユウスケのワシボンだったのでした。
「探したぜ」
 ユウスケは言いました。
「探した? なんで?」
 少し嫌な予感をさせながらショウタは尋ねます。すると、
「なんでって! バトルに決まってるだろ! バトル!」
 当然だと言うようにユウスケは答えます。
 するとワシボンがピピイッとやる気たっぷりの鳴き声を上げて、トレーナーの前に進み出たのでした。
「他の全員とはもうバトルした。残りはショウタ、お前だけだ!」
 ショウタは後ずさりしました。人が乗れるほど大きいドードーを別にすれば、ワシボンは神事のポケモンの中でも大きいほうだったのです。首から頭にかけて生えた立派な羽毛は身体を一層大きく見せ、他の小さな鳥ポケモン達を威圧するだけの迫力がありました。
 バトルの成績は悪くなかったのでしょう。他の全員とバトルをしたその夕方だというのに、ワシボンにはあまり疲れた様子がありませんでした。
 勝ち目が無い。そうショウタは思いました。できればバトルしたくないと。ところが、
「ビルルッ!」
 スバメが声を上げました。さっきまでショウタの後ろにいたこツバメポケモンはいつの間にかショウタの前に立っていました。そうして羽毛を精一杯膨らますと身体を大きく見せ、威嚇をしたのです。それはバトルの合図として十分でした。
「ようし、ワッシー! つつくだ!」
 ユウスケが指示を出しました。既にニックネームまでつけているようでした。
 ワシボンが地面を蹴ります。スバメに向かって突っ込んできました。スバメはなんとかその一撃を飛んで避けましたが、追撃が続きます。既に他の鳥ポケモン達全員との戦闘を終えたワシボンはそんな動きなど折込済みとでも言うかのように、翼を鳴らしました。
 バシイッと音が響きます。ショウタの足元にスバメが吹っ飛んできました。それは翼で打つ攻撃が命中した事を示していました。
「おい!? 大丈夫か!?」
 思わず声を上げるショウタに大丈夫だと言うようにスバメはぱっと起き上がりました。そうして翼を広げるとワシボンに向かって突っ込んでいきました。しかし、
 バシイッ、と再び音が響きました。小さなスバメの身体はまた吹っ飛ばされたのです。
 スバメは再び負けじと起き上がりました。しかし、さっきよりもふらついているように思われました。
 どうしよう。どうしよう。
 気持ちばかりが焦りました。突如始まってしまったバトルに頭は混乱するばかり。技の指示すらままなりません。
 スバメが飛び立ちます。ワシボンを見下ろすように旋回を始めました。それは攻撃のタイミングを図っている風で、ショウタの指示を待っているように思われました。けれど、何をどんなタイミングで指示したらいいのか、ショウタにはさっぱり分かりません。適切な言葉が出てこないのです。
 そうしているうち、ついにスバメは攻撃に転じました。けれどトレーナーの指示が無いその動きには迷いがありました。その隙をワシボンとそのトレーナーは見逃しませんでした。
「ワッシー!」
 ユウスケが叫びました。もはや名前を呼ぶだけで十分、やる事は決まっていました。
 翼で打つ炸裂音が響きます。スバメは三度吹っ飛ばされたのでした。
「も、戻れ……!」
 慣れない手つきでボールをかざすと、赤い光がスバメを貫いて包みます。こツバメポケモンはボールの中に引き戻されていきました。
「やりい! 俺の勝ち! よくやったぞワッシー!」
 ユウスケが嬉しそうな声を上げました。ワシボンは得意げな表情を浮かべ、トレーナーの腕に飛び込みましたし、ユウスケもそれを受け止めました。
「じゃあな、ショウタ! 次会う時はもっと鍛えておけよな!」
 そう言ってワシボンを抱えたユウスケはあぜ道を走っていきました。
 水田には一つの影が残りました。スバメをボールに戻した今、もはや水面に映っているのはショウタの一人だけでした。
 水面に映ったショウタは手の中のモンスターボールを見つめていました。そこに映っていたのは平凡なポケモンを一羽だけ持った田舎町の少年トレーナーでした。
 やはりただのスバメでは……そんな事をショウタは思いました。けれど同時に、友人を避けずにバトルをしていれば、もっと慣れておけばとも思いました。バトルに慣れておけば、一撃くらいはなんとかなったのではないかと。完全に出遅れてしまった。不平等感と準備不足への後悔。それが交互に立ち現れました。初めてのポケモンバトル、付いたのは黒星でした。責任がどこにあるにせよ、それはとてもとても苦々しくて、情けない気持ちでした。
 出発までの三日間は残すところあと一日でした。この沈んでしまった気持ちを盛り返す事ができるだろうか、ショウタは思案しました。自分はトレーナーとしてうまくやっていけるのだろうかと。
 お腹が空いたとショウタは思いました。帰ったらスバメに傷薬をつけてやらなければいけないとも思いました。それ以上は頭が回りませんでした。
 赤い空が夜の青みを帯び始めました。ショウタの気持ちは暗く沈んでいました。

 旅立ち前の最後の日がやってきました。
 自分を呼んでいるらしい声が聞こえて、ショウタはうっすらと目を開けました。
 昨日、布団に入った時は憂鬱でした。敗北の悪い余韻を引きずったまま床に就いたからです。
 だから、そんな気分のまま母親に起こされるのかと想像していたのですが、意外にもショウタの目を覚まさせたのはスバメでした。いつの間にかボールから抜け出したスバメはショウタが被る毛布の上に飛び乗るとその上をちょこまかと動き回り、時折ピルピルと囀りました。
 その声がショウタの目を覚ましたのでした。
「…………」
 ショウタは何度か眉間に皺を寄せたのちに上半身を起き上がらせました。
 ピル、とスバメが鳴きました。
「…………」
 上半身を起こしたショウタはスバメを見つめました。合点がいかないといった顔つきでした。
 というのも、昨日あれだけこっぴどくやられたはずのスバメがいたって元気だったからでした。
 確かにあの後、傷薬はつけてやりました。けれど、一晩でこんなにけろりとするものなのだろうか、とショウタは思いました。
「……お前、もう大丈夫なのか?」
 そう尋ねるとピルルッと元気な返事が返ってきました。そうして、まるで「どうしたの?」と尋ねるように赤い模様の下にあるつぶらな瞳がじっとショウタを見つめてきたのでした。
「そ、そうか」
 ショウタがそのように返事をするとスバメは嬉しそうに二又の尾を振りました。
 ショウタは驚いていました。ポケモンという生き物の回復力に目を見張りました。
 ふとすぐ先で襖の開く音がして一人と一羽はそちらを振り返りました。やってきたのはショウタのお母さんでした。
「あら、ずいぶん仲良くなったのねえ」
 お母さんは言いました。
「ご飯できてるわよ。一緒にいらっしゃい」
 そう言うと、襖を開けたまま台所に戻っていきました。
 台所に行くと既にテーブルには暖かいご飯と味噌汁が並んでいました。テーブルの脇に目をやると、フーズや木の実を刻んだもの、そして少しのご飯がトレーに盛られていました。部屋からついてきたスバメはそれを見つけるや否やテーブルに飛び乗ります。勢いよくついばみ始めました。
 どうやら本当に大丈夫らしい、とショウタは安心しました。
「いただきます」
 ぼそりと呟くと箸をとって、味噌汁の椀を持ち上げました。
 幸いにしてお母さんはスバメの事やバトルの事をほとんど聞いてはきませんでした。ただ、明日の出発の際は何時起きだの、旅の荷物には何が入っているだの、旅立ってからの連絡だのそういう事を繰り返し繰り返し確認してきました。ショウタは「うん」「分かったよ」などと適当に返事をしながらご飯を口に入れ、味噌汁を啜りました。
 思っていたよりずっとスバメが元気だったせいでしょうか。それともゆっくりと眠ったせいでしょうか。昨日に比べれば落ち込んだ気分がずいぶんとよくなっている事にショウタは気付きました。そうして、今日はどうしようと思案する気になったのでした。
 けれど、誰かにバトルを申し込もうかと考えた時、やはり気後れしました。ユウスケのワシボンを相手にする事はもちろん考えられませんでしたし、他の男の子たちもきっとバトルを何度もしていて勝負にならないだろうと考えました。かといって女の子達に勝負を挑んで負けてしまったら。そう思うとショウタは不安になりました。
 それはちっぽけなプライドでした。けれど神事でスバメを引いた時の皆の反応、あるいはバトルに負けた時の情けなさ、それを思うとどうにも臆病になってしまうのです。
 どうしたものかと目線を移せば、スバメが残り僅かになったご飯をついばんでいるところでした。視線に気が付くとぱちぱち瞬きをして首を傾げました。
 反応に困ったショウタは思わず視線を外して、再びぱくぱくとご飯を口に入れ始めました。
 やがて朝食を終えた彼らは外に出かける事にしたのでした。
 エンビタウンがある場所には、元々広大な沼地が広がっており、遠い昔に人が入った時、それは水田になったのだと言います。水田がある土地などホウエンでは珍しくありませんでしたが、この町に特徴的なのは大きな岩があちこちに突き刺さっている事でした。明らかに田んぼの真ん中や、農道の真ん中にあったりするのですが、大人達がそれをどける様子はないのです。それらは守り岩と言われて大事にされてきました。
 特に大きなものには注連縄が巡らされ、信仰の対象になっているほどでした。明らかに田んぼの田植えの邪魔になりそうな大きなものほどありがたがられ、豊作をもたらすと信じられていました。それがショウタには昔から不思議でした。
 空は晴れ渡っていました。空を映した水田にスバメが三、四羽舞って、そして去っていきました。この町ではよく守り岩の上でスバメ達が羽を休めています。子供達が登ると怒られてしまうのですが、スバメは特別です。町のあちこちに鎮座する守り岩の上で休む事はスバメ達だけの特権でした。
 ショウタはスバメを連れ、神社とは反対へ向かいました。今日は少し考えがありました。
 彼らは水田に突き刺さった守り岩を数えながら田の道を行きました。時折、守り岩の上で羽休めし、日光浴をする野生のスバメに出会いました。ピルッとショウタのスバメが挨拶をすると、岩の上のスバメもそれに答えました。ショウタはこのスバメがどこから手に入れられてきたのかを知りませんでしたが、手持ちである事、野生である事に関わらず、その関係は悪くないようでした。
 そのうちに彼らは、ある小さな水田の脇にある大きな守り岩の前までやってきました。注連縄がかかったこの岩こそ、鳥替え神事の半年後に行われる岩流しの守り岩、それでした。大きさこそ一番ではありませんが、ある大きな特徴がありました。
 それはスバメがとまらない事でした。町のあちこちに突き刺さっている守り岩をスバメ達は我が物顔で占拠しているというのに、この岩には頑なにとまろうとしないのです。
 そうして町の大人達は外から来た者に決してこの岩の事を教えませんでした。それはこの町の禁忌(タブー)でもあったのです。また、下手に触ると呪われるとか、病気になるとか言われ、田んぼの所有者以外はあまり近寄ろうとしなかったのでした。ショウタも子供心にそんな話ばかり聞かされて育ったものですから、なんとなく怖いとかじめじめしているとかそんな印象を持っていましたし、事実、この守り岩の前に立つと得体の知れない異質さを感じるのです。しかし、
「あれ……?」
 なんだかショウタは違和感を覚えました。改めてこの岩を見ると、どうも以前に抱いていた印象とは異なる気がしたのです。じめじめした感じが無くなって、他の守り岩と変わりないように見えるのです。
 そうしてその違和感は一羽の野生スバメによって、確信に変わりました。
「えっ……うそ」
 頑なにとまろうとしなかったスバメがすうっと飛んできて岩にとまったのです。この町に生まれてこのかた見た事の無い光景でした。ショウタには意味が分かりませんでした。その直後、ショウタのスバメが
「ビルッ! ビルルッ」
 と、鋭い鳴き声を上げて、彼は来た道を振り返りました。
 見れば、ショウタの来た道をなぞるようにしてあの青年が歩いてくるのが見えました。
「あ、ツキミヤさん」
 ショウタがそう言うと、やあ、と青年は軽く手を上げました。
 青年が近付いてくるにしたがって、スバメは羽毛を逆立てて、より一層鋭い声を上げます。あまりに過剰な反応を示すので、ショウタは抱き上げて落ち着かせました。
「おはよう、ショウタ君」
 青年の肩には相変わらず緑の鳥ポケモンの姿がありました。ネイティが赤い冠羽を振ってスバメに挨拶すると、腕の中で呼吸を荒くしていたスバメが少し落ち着いたように見えました。
「ツキミヤさん、こんな所に何の用?」
 青年は岩流しの守り岩を知りたがっていました。今、目の前にある岩がそれであると悟られまいとして、ショウタはそんな質問をしました。青年の関心を逸らしたかったのです。
「本を返しに来たんだよ」
 青年が肩に背負ったリュックを指して答えます。
「あ、なんだ。僕が行く所と一緒だ」
 ショウタはほっとして言いました。

「あれ、ショウタ君じゃない。珍しいわねえ」
 そう言って出迎えたのは図書館の司書さんでした。
「うん、ちょっと」
 ショウタは少し緊張気味に答えました。こういうやりとりは苦手でした。あんまり詮索されるのは嫌だなぁと思っていると、後から入ってきた青年が返却カウンターに本を置きました。すると、
「あらツキミヤさん、もうこんなに読んだんです?」
 と、司書さんの関心はそちらに向いたようでした。
「ええ、色々と紹介していただいて参考になりました。ありがとうございます」
 青年がにっこりと笑って答えました。
「そう? お役に立てたのならいいんですけど……」
 そんなやりとりが二、三続いたのをいい事にショウタはずんずんと奥に入っていきました。ここに来たのはある事を調べるためでした。
 大人向けの本棚を抜けて、辿り着いたのは児童向けのコーナーでした。ショウタはポケモンについて書かれた本を探しました。ヒントになったのは神社で会った青年の行動でした。この町、エンビタウンの事を青年は本で調べていたのです。それに青年は言っていました。
 スバメの事をよく知る必要がある、と。
 考えてみれば身近とか珍しく無いとかそんな事ばかりが先行して、ショウタはスバメがどんな技を使うかもなんとなく知っている気になっていただけだったのです。こんな事なら、学校のポケモンの授業をもっと真面目に受けておけばと思いましたが、今更後悔しても仕方ありません。
 幸い、本棚の中からはすぐに手近な本が何冊か見つかりました。鳥ポケモン全般を扱ったものもありましたし、ホウエン地方に生息するポケモンを扱ったものもありました。ショウタは本を開き、藍色の、頭の赤いポケモンを、スバメの姿を探しました。かつてここまで一生懸命に何かを調べた事は無かったかもしれませんでした。
「ショウタ君、今まで図書館なんて来た事無かったのよ。明日の出発は雪が降るかもしれないわねえ」
 司書さんが青年に言いました。
 ショウタは次々とページをめくりました。特に役に立ったのは鳥ポケモン全般を扱った本でした。鳥ポケモンは種類によって当然個性がありますし、覚える技だって違います。けれどどうも皆、小さいうちは同じような技を使うらしい事が分かったのです。たとえばそれはつつくであるとか、翼で打つであるとかでした。スバメやポッポであれば電光石火も得意なようです。
 更に別の本には、このように書かれていました。
 ――ポケモンは、わざのだしかたはしっていますが、にんげんがつけたわざのなまえとじぶんのつかうわざがおなじであることがわかっていません。まずは「たいあたり」が、「でんこうせっか」でも「かみつく」でもなく、「たいあたり」であることをおしえてあげましょう。
 ああ、そうだったのか。ショウタは最初の三日間の意味をようやく理解しました。ようするに最初は皆同じような技なのだから、お互いにバトルして技の名前を覚えておくといい、そういう意味があったらしい事にショウタはようやく気が付いたのです。引いたポケモンに文句を言っている場合ではありませんでした。どんどんバトルをさせるべきだったのです。
「ごめん……。僕のせいだ。僕のせいで出遅れたんだ」
 ショウタは読書コーナーのテーブルでうたた寝を始めていたスバメに言いました。
 もう彼は気が付いていました。少しずつ変化してきた自身の気持ちに気が付いていました。
 自分は決して目の前にいるこのポケモンが嫌いな訳ではないのだと。スバメだって自身を慕ってくれているのだと。
 ショウタは本棚に本を戻しました。そうして別室の読書コーナーで本を読んでいる青年の所に行きました。
「ツキミヤさん、お願いがあるんだ」
 ショウタは言いました。

 お昼ご飯の後、ショウタとスバメの姿は神社にほど近い雑木林近くにありました。ショウタはスバメに向かって小石を投げたり、木の枝を投げたりしました。
 自身に向かって何かが投げられるその度に、スバメは何かしらの技でそれを打ち返しました。そうしてショウタはそれを注意深く観察しました。スバメが何をもって小石や枝を打ち返すのか、それを見極めて使える技を把握しようと考えたのです。
 スバメは小石や枝の多くを翼で打ち落としました。時に空中でキャッチするとくわえたり、つつくような仕草を見せました。
「とりあえず、つつくと翼で打つ……でいいのかな」
 ショウタは呟きました。使える技が分かったのなら、次に待っているのは技の名前と、繰り出す技を互いに一致させる作業でした。
「翼で打つ!」
「つつく!」
 技名が何度も何度も空に響いて、その度に小石や枝が宙を舞いました。
 初めこそ、混乱がありましたが、一度きっかけを掴んでしまえばスバメの飲み込みは早いものでした。
 あの時、図書館でショウタは青年にお願いをしました。
 ネイティと自分のスバメとでバトルをして欲しい。へたくそかもしれないけれど付き合って欲しい、と。
「いいよ」
 青年はあっさりそう答えました。ただ、ちょっと野暮用があってねとも付け加えました。
「そうだな……。午後の三時にもなれば終わっているだろうから、その時に神社に来て。三時の前はだめだよ。少し忙しくしているからね」
 そう青年は言いました。
 だからその時まで、言葉と技を一致させる訓練をショウタとスバメはしていたのです。
 翼で打つ。つつく。技の数こそ少ないですが、彼らにとっては大きな前進でした。少なくともバトルで指示を出せないなんて事にはならないでしょう。
「よし、次はもう少し大きく投げるよ」
 と、ショウタは言いました。
 ショウタは適当な木の枝を掴むと、空中に放り投げました。けれどもコントロールが狂いました。毎回スバメのいる方向へ飛んでいっていたそれはまったく見当違いの方向へ逸れたのです。ああ、これはやり直しだとショウタは思いました。ですが、
 スパンッ。
 スバメは見事に空中で方向を変えると、目にも止まらぬ速さで枝が地面に着地する前に弾き飛ばしました。ショウタはびっくりしました。
「すごいや! 今の電光石火!?」
 ショウタは興奮して声を上げました。そうして様々な方向に物を投げるようにしました。
 ショウタは出発祝いに買って貰ったポケナビを開きました。とうに一時は過ぎて二時を回り、あと四十分程で約束の時間でした。少し休もう。そうショウタが思ったその時でした。
「よー、ショウタ」
 聞き覚えのある声が聞こえてきました。
「あ、ユウスケ」
 ショウタは振り向き、声の主を確認しました。
 声の主は昨日のバトルの相手、ワシボンのトレーナーであるユウスケでした。
「何やってんだ? こんなとこで」
 ユウスケは問いました。
「……特訓」
 ショウタは少し歯切れ悪そうに答えました。
「特訓? お前のスバメ、ちょっとは強くなったの?」
 ユウスケはずけずけと聞いてきました。
「うん、たぶん、少しは……」
「……ふーん」
 どうだかねえ、と言った目線をユウスケはスバメに投げました。ショウタは少しムッとしました。
「だったらさ、バトルしようぜ。バトル。どれくらい強くなったか見てやるよ」
 ユウスケはそう言うとモンスターボールを構えました。どうやら彼は退屈しているようでした。町には他のトレーナーもいるはずですが、今日もまた大方バトルをしてしまったか、あるいは断られてしまったのでしょう。
「え……」
 ショウタは戸惑いました。今だったらユウスケのワシボンにも一撃くらい食らわせられるかもしれません。けれど三時には青年とバトルの約束がありました。今ここでバトルをしてへばってしまっては元も子もないと思ったのです。
「……ごめん、先約があるんだ」
 ショウタは正直に言いました。けれど、ユウスケの機嫌が明らかに悪くなったのが分かりました。
「先約? 誰だよ?」
「ツキミヤさん。三時に神社でバトルする事になってるんだ」
「ツキミヤって誰だ」
「ほら、鳥替えの時にいた……」
「ああ、あいつか。まだいたのか」
 ユウスケは邪魔な奴、とでも言いたげにその名前を口にしました。けれど、少し考えて、何かを思い付いた風でした。
「なあ、あいつが連れてたのは確かネイティだったよな?」
「そうだけど……」
「なるほど。そっちも面白そうだな」
 ユウスケはにやりと笑いました。
 ネイティ、そのポケモンは今回配られた中には入っていない種類でした。
「そっちって、まさか……」
「なあショウタ、そのバトル俺にやらせろよ」
「えっ」
「なんなら、俺が勝った後にバトルしてやるよ。それならいいだろ?」
「え、そんな。そんなのダメだよ!」
 ショウタは叫びました。けれどユウスケは聞いていませんでした。彼の心はとっくに決まっていて、神社のほうに走り出しました。
「待ってよユウスケ! ダメだって! 約束は三時からなんだ。その前は忙しいんだから行っちゃダメだって!」
 ショウタは叫びました。けれどユウスケは聞く耳を持ちませんでした。彼の姿は雑木林の向こうに消えていったのです。
「……どうしよう」
 ショウタはスバメに問いました。まさか青年がユウスケに負けたり、約束を破ったりするとは思えませんでしたが、やはり心配になりました。それに青年は言っていたのです。自分はトレーナーになったばかりなのだと。あのネイティと出会って、研究のために旅を始めたばかりなのだと。いくら年上とはいえ、トレーナーの経験としては大差が無いはずです。約束した対戦相手をみすみす取られたくはありませんでした。
「行こう!」
 ショウタはスバメに言いました。
 林の道に入ると既にユウスケの姿はありませんでした。ユウスケは町の子の中でも走るのが速い子でしたから予想はできた事ですが、ショウタの心は焦りました。そうしてショウタもまた走りました。その様子を見たスバメが飛び立ちました。そうして併走するように空中を滑り、ショウタの横を飛んだのでした。
 それはほんの短い時間でした。けれどその時、確かに彼らは一体になっていました。
 赤い鳥居が見えて、ショウタは減速しました。元来あまり体力のあるほうではありません。スバメも少し先で降り立ちます。はあはあと息を吐きながら、ショウタはスバメに言いました。
「ごめん。もしかするとツキミヤさんじゃなくてユウスケとバトルになっちゃうかも。それでもいいかな?」
「ピルル!」
 スバメは肯定の返事をしました。ショウタは笑みを浮かべました。
「おいで」
 ショウタは手を伸ばしました。スバメが尻尾を振り飛び乗りました。一人と一羽は鳥居に向かって歩き出しました。
「……ツキミヤさん?」
 鳥居の前に立ち、ショウタは軽くその名を呼びました。返事はありませんでした。
 あの騒がしいユウスケが乱入したはずの神社は静かでした。眼前に夫婦杉が伸び、杉の葉は風に揺れていました。
「あれ? 誰もいないのかな」
 ショウタが言いました。けれど、にわかに手に乗せたスバメが総毛立ったのを見て、何か異様な雰囲気を感じとったのでした。
「大丈夫。入るよ」
 スバメを抱きかかえてなだめると、ショウタは神域に足を踏み入れました。
 神社は静かでした。ショウタは夫婦杉を軸に半径十メートルの円を描くようにして、神社の境内を歩きました。そうして拝殿と杉の間の広場が見渡せるその位置に入った時、目的の人物を見つけたのです。
「ツキ……」
 ショウタは声を掛けました。けれどその瞬間、硬直したようにその足は動かなくなりました。
 ちょうど鳥居から見える太い幹とは反対側、青年は出会ったあの時と同じ場所に立っていました。けれどそこで繰り広げられていた光景は異様なものでした。
 青年の足元が闇色に染まっていました。黒い水がそこから湧き出したように黒く黒く染まっているのです。それは青年の影でした。膨れ上がった影は根を張るように伸びて、夫婦杉に絡みついています。
 どくん。膨れ上がった青年の影は脈を打っていました。
「やあ、ショウタ君」
 青年が微笑みました。けれど、少年を見るその瞳の色は人間のものではありませんでした。穏やかで優しい口調、それは初めて話をした時と変わりがないのに、ショウタは戦慄しました。
 だって、青年から伸びて蠢く影が、彼のよく知る二人を縛り付けていたからです。
「スギナおねーちゃん……ユウスケ」
 ショウタは震えながら声を搾り出しました。
 ずるりずるりと音を立てて、足元から伸びた影が獲物を引き寄せていきます。青年の足元で影に縛られ引きずられているのはユウスケでした。そのユウスケの足先でワシボンが倒れています。その身体はしゅうしゅうと煙を立たせていました。
 上に視線を移せば、夫婦杉に縛られたスギナの姿がありました。彼女の身体のあちこちに根を張るように影が絡みついて、食い込んでいきます。
 影が二人を食べようとしている――そういう風にショウタには見えました。
 一瞬、とろんとした目をしているスギナがショウタを見たように思われました。けれど、青年がすっとその顔を指で覆うと、新たに影が絡みついて視界を遮ってしまいました。
「だめだよショウタ君、時間は守らなくちゃ。三時にって言ったろう? それまでは少し忙しいからって言ったはずだよ」
 青年が幽かに笑みを浮かべました。
「昔話や伝説にもあるだろう。約束を破った主人公がどんな末路を辿ったか。君だって一個や二個は知っているはずだよね」
「あ……」
 声が震えました。言葉になりません。
 青年の長い指がスギナの髪に触れ、白い指は櫛を通すように黒い髪をすきました。どくん、と彼女を縛り付ける闇が脈を打ちました。繰り返し繰り返し脈を打ちました。応答するよう息をする間隔が短くなって、スギナは何度も身をよじりました。
「誤解しないでくれよ。これは彼女が望んだ事だ」
 青年は言いました。
 スギナを縛る影には無数の眼が開いていました。その瞳は三色でした。三色の瞳はぎょろぎょろとあちらこちらに振れました。獲物の血を吸い上げるように、再び影が脈を打ちました。
 いいよ。すごくいい。そう言うように青年はぺろりと唇を舐めました。
 その表情は満たされていました。この上なく満たされているように見えました。
 そうして、自身の足元に転がる一人と一羽を一瞥し、言いました。
「途中で妙な邪魔が入らなければ、もっとよかったのだけどね」
 ショウタの足はがくがくと震えました。
 同時に一生懸命に思い出そうとしていました。彼は青年の瞳に宿り、闇に蠢く眼を彩るその色を、どこかで見たような気がしたのです。
 そうして、ああ、と思い出しました。スバメの事を図書館で調べた時に、ホウエン地方のポケモンの中にこの配色を見た事を思い出したのです。今、目の前で蠢いているそれとは形が異なりますが、そのポケモンは角の生えたてるてる坊主の形をしていました。
「……カゲボウズ」
 搾り出すようにショウタは口にしました。
「正解だよ」
 青年が言いました。
「旧い言葉では飽咋(あきぐい)≠ニか吊り鬼≠ニか言われているね」
 そう言ってくすくすと笑いました。
 少し離れた場所でネイティがその様子を見守っています。緑の鳥はまるでそれが日常の光景とでも言うように涼しい顔を浮かべ、まったく取り乱した様子がありません。
 腕の中ではフウッと荒く息を吐いてスバメが羽毛を逆立てました。ショウタはまだ足が震えていました。なぜスバメが青年を怖がっていたのか、彼はもう理解していました。きっとポケモンという生き物はそういう感覚が鋭いに違いありません。見えていなくても何かを感じとっていたのでしょう。
 同時に青年の言葉が思い出されました。選ばれもしない人間がいる、という言葉を。もしポケモン一般の感覚というものが、この腕の中のスバメのそれならば、青年に懐くポケモンなどいないように思われたのです。……本当に特別な例外を除いては。
「ショウタ君、」
 青年が言って、びくっとショウタは身震いしました。背中に冷や水を掛けられたみたいに寒気が走りました。
「バトルをしよう」青年は言いました。
「約束していたよね」
 一人と一羽から発せられる恐怖、それを味見するみたいに青年は言いました。
「もし君が勝ったら、君には手を出さない。スギナさんもユウスケ君も解放するよ?」
「え……」
 青年はくすっと笑いました。ショウタの表情が少しの期待と困惑の入り混じった顔に変わるのを眺め、反応を楽しんでいるようでした。
「けど君は時間を破った。だから君達の相手はネイティじゃあない」
 パチン、と指が鳴らされました。すると青年の足元に転がっていたユウスケを縛る影がぐにゃりと動きました。まるで黒い大地から種が芽吹くように楕円の頭と細い胴が現れると、にょきりと角が生え、三色に輝く両目を開きました。脈動する闇の塊からぷつりと胴が離れます。空中に浮かび上がり、下向きの花を咲かすように胴の衣を開きました。
 それは紛れも無く図書館の本で見たカゲボウズの姿でした。それが今、ショウタの眼前に現れたのです。
 そうか。人を捕らえ喰らっているあの影はカゲボウズの塊なのだ。ショウタは理解しました。
「ルールは一対一。先に倒れたほうが負けで、残ったほうが勝ちだ。いいね?」
 青年が言いました。どくんと影が脈を打ちました。
 ショウタは返事に窮しました。あれが自分にも襲い掛かってくる事を考えて恐怖しました。本当は逃げたくて逃げたくて仕方ありませんでした。けれどちらりと鳥居の方向を見た時、それは無理だという事に気が付いてしまいました。
 なぜなら、鳥居の入り口で何匹かのカゲボウズが漂っているのが見えたからです。彼は悟りました。神社に足を踏み入れたその瞬間から、とうに捕らえられていたという事を。
 逃げられない。無理だ。逃げられない。ショウタは思いました。
 なら、勝負するしかない。勝負して勝つしかない。でも……。
 ショウタはカタカタと鳴る奥歯を必死に噛み殺しました。おさまれ。おさまれ。頭の中で何度となく唱えました。けれど自信がありませんでした。
 その時、
「ビイッ!」
 耳を劈(つんざ)くような鋭い声が響きました。にわかにショウタの手から、藍色と赤の鳥ポケモンが飛び降りて、カゲボウズに対峙しました。
「お前……」
 ショウタは妙な心地に襲われました。冷や水を浴びせられ、冷え切っていた身体の芯が急に熱くなったように思われました。
「……やってくれるのか?」
 ショウタは問いました。
「ビルルッ」
 カゲボウズを睨みつけ、スバメは二又の尾を立てました。いつの間にかショウタは拳を握っていました。そうして青年を見据えると答えたのでした。
「バトルを、受けます」


 石畳に玉砂利が一つ、落とされました。
 カツーンという音を立てて、玉砂利が跳ねたのと同時に両者の影は動きました。
 これが地面に落ちたら開始、そう提案したのは青年でした。
 青年は境内から玉砂利を一つ拾うと高く高く放ったのでした。夫婦杉の天辺を目指すように放られた玉砂利はやがて踵を返し落下、石畳を叩きました。
「スバメ! つつく!」
 先に声を上げたのはショウタでした。石畳の上を鳥影が滑って、てるてる角ぼうずに向かっていきます。けれどそれはかわされたようでした。影と影は交差した後に離れていきました。
「もう一度だ! つつく!」
 鳥影が方向転換してまた向かっていきます。けれどまた影は交差し、離れていきました。そんな動きが何度も何度も繰り返されました。
 カゲボウズがケケッと笑いました。ギリギリまでスバメをひきつけるとまるでダンスをするようにしてくるりとかわすのです。その動きには無駄がありませんでした。青年は静かにその様子を見つめていました。
「翼で打つ!」
 ショウタが叫びました。けれどそれも、ふわりと浮かび上がってかわされます。
 くそ、とショウタは舌打ちしました。技の指示はできるようになっても当たらないのでは意味がありません。彼は経験不足を呪いました。
「今度はこっちからいくよ」
 追い討ちをかけるように青年が言います。
「シャドーボール」
 黒い無数の玉が襲ってきました。驚いたのはその数が多い事です。とてもカゲボウズ一匹で作り出したとは思えぬ数がスバメに向かって突撃してきます。
「かわせ!」咄嗟にショウタは叫びますが、間に合いません。ですが、
「ビイッ!」
 スバメは避けもせずに、突撃していきます。バシバシッとはじける様な音がして炸裂しました。当たらなかった黒球がショウタの足元に落下して、弾けます。
「うわっ」ショウタは思わず、腕で顔を覆って目を伏せました。一方、
「バレちゃったか」と言ったのは青年でした。スバメは黒球がまともに直撃したにもかかわらず、まっすぐにカゲボウズに突っ込んでいきます。ゴーストの技はノーマルタイプを持つスバメには無効。また反対もしかりなのです。スバメは本能的に理解していたのでしょう。
「だが」
 スバメがカゲボウズに突っ込む直前、また黒球が立ちふさがりました。そうしてそれが炸裂した直後、カゲボウズの衣にスバメは捕らえられていたのです。
「はたきおとす」
 カゲボウズが衣を振りました。直後、スバメが石畳に叩きつけられました。
「たとえ効かない技でも、目暗ましくらいにはなる」
 フィールドに向かい直ったショウタに対し、青年は言いました。
「ポケモンだけじゃない。そのトレーナーに対しても、ね」
 青年がくすくすと笑いました。そうしてパチンと指を鳴らしました。
「じゃあ、今度は有効な技で」
 青年がそのように言うと青い炎があちこちに灯りました。
「さあ、今度はちゃんと避けなくちゃ。そうでないと火傷するよ」
 スバメが立ち上がり、カゲボウズを睨みつけました。境内に無数の鬼火が舞い始めました。追いかけっこが始まります。鬼火を避けながらスバメは懸命にカゲボウズを追いかけます。ですが鬼火を恐れてかダメージか、先ほどよりその動きは悪く見えました。そして、
「少し、この前の話の続きをしよう」
 カゲボウズとスバメの動きを目で追いながら、青年は突然そんな事を言いました。
「昔ホウエンのさる山道に夜な夜な鬼が出て、通れなくなってしまった」
 焦るショウタにはお構い無しに続けます。
 鬼を退治するために何人かの操り人が名乗りを上げた。けれどみんな負けて逃げ帰った。その鬼の前では、力自慢の獣でも力が出せなくなってしまうのだ、と。
「では鬼とは何者だったのだろう?」
 青年は問いました。
「僕は鬼とはゴーストポケモンの事を指しているのだと思う」
 鬼火が舞っています。それを避けながらスバメが翼を広げ、旋回します。
「鬼火の効果は火傷。火傷をしたポケモンはいつものような威力で技を出せない。つまり力を出せないとはそういう意味だ。鬼火を使うポケモンはゴーストが圧倒的に多い」
 カゲボウズがくすくすと笑います。スバメの後ろを鬼火が追跡し始めました。
「力自慢の獣達というのはおそらくノーマルや格闘だったんだろうね。彼らの技じゃあゴーストには届かない。だから鬼とはゴーストポケモンだ。カゲボウズだったのか、他のゴーストだったのかは分からないけれどね」
 スバメはまだ諦めていませんでした。懸命に技を当てようと試みを繰り返しました。そうして、カゲボウズが何十回目かの回避をしたその時、それを見計らったように体勢を変えました。ついにその翼がカゲボウズに触れたのです。ですが、
「捕まえた」
 青年が言いました。
 カゲボウズは確かにダメージを負った風でした。ですが同時にスバメは捕まってしまいました。先ほどのシャドーボールの時と同じように、衣がスバメを捕らえたのです。
 直後、スバメが悲鳴を上げました。青い炎が背後から襲い掛かったからでした。カゲボウズは再びスバメをはたきおとし、火だるまになった身体が石畳に投げ出されました。
「スバメッ!」ショウタは叫びました。
「これで火傷状態だ」
 青年が言いました。しゅうしゅうと煙が立ち上っています。
 ユウスケのワシボンもこれにやられたのだ。ショウタは理解しました。羽毛を焦がしたスバメがよろよろと立ち上がったのが目に入りました。
「もういい!」
 ショウタは叫びました。けれど、
「ビイイッ!!」
 スバメはいよいよ強く声を上げました。バトルを受けたあの時と同じように。そうして、ぶるぶると全身を振ると、カゲボウズを睨みつけました。羽毛は焼け焦げても、その目は死んでいませんでした。
 いや、むしろ前より輝いてすら見えました。
 まるで火を灯したように。
「どうする? まだやるかい?」
 青年が問います。スバメが再び羽ばたき、舞い上がりました。
「……いいだろう」
 青年が言うと、カゲボウズが身構え、バトルが再開されました。
 なんとかしなくては。相棒に応えなければ。ショウタはスバメの舞うバトルフィールドを見つめ、必死に必死に考えました。
「スバメ、電光石火だ!」
 気が付いた時、少年は技の名を叫んでいました。

 昔むかし、豊縁のある山道に夜な夜な鬼が出るようになって、人々は通る事ができなくなってしまいました。
 そこで人々は鬼退治をしようと考えました。何人かの操り人が名乗りを上げ、山道に向かいました。彼らは力自慢の獣達を連れていました。
 けれどみんな逃げ帰ってきてしまいました。
 彼らは言いました。暗闇の中では鬼の姿を捉える事ができない。しかも妙な術を使われるのだと。そうすると力自慢の獣達も本来の力が出せなくなってしまうのだと。
 すると、近くの村に住んでいた若者が名乗りを上げました。
 若者が連れていたのは一羽の赤頭――今で言うスバメでした。

 今までとは比べ物にならないスピードで、二又の影が突っ込んでいきます。カゲボウズの回避は少し間に合わず、翼が衣を掠めました。
「もう一度、電光石火だ!」ショウタは叫びました。

 小さな身体のちっぽけな鳥を指差し、人々は若者を笑いました。
「そんな赤頭一羽で何ができる。力自慢が皆逃げ帰ってきたのに」
 皆口々にそう言いました。
 ですが――

 即座に方向を転換し、再びスバメが向かってきます。カゲボウズは反射的に鬼火を出しましたが、スバメは構わず突っ込みました。しなった翼がもろに当たりました。
「受け止めろ!」青年がそう言いましたが、炸裂音が鳴り響きました。翼の打撃を受け止め切れず、カゲボウズの身体が吹っ飛びました。

 ですが、翌日の朝の事です。若者は意気揚々と帰ってきたのでした。
 彼は言いました。赤頭一羽で鬼を退治した。山道は再び通れるようになった、と。
 けれど、人々は若者を信じませんでした。
「あいつは嘘を吐いている。赤頭一羽で勝てるはずがない。きっと強力な獣を隠し持っていたのだ」
 
 吹っ飛ばされたカゲボウズが石畳に落ちました。
 そうして再び浮かび上がる事はありませんでした。
 
 それからです。
 人々が赤頭の事を鷽≠ニ呼ぶようになったのは。

「……僕の負けだ」
 青年が言いました。ずるずると杉から影が引き始め、縛られていたスギナの身体が幹からずり落ちていきました。青年はそんな彼女を受け止めると、根元にそっと寝かせました。いつの間にか影は引いて、いつもの通りに戻っていました。
 そうして、青年は落ちたカゲボウズに歩み寄り、優しく拾い上げると、ねぎらいの言葉をかけたのでした。
「……勝った……?」
 現実感の無い様子で、ショウタは言葉を口にしました。
 目の前の事象は確かに自分の勝ちを示しているのに、すぐに信じる事ができませんでした。だって、鬼火の効果で攻撃は弱くなっているはずなのに、翼の一撃はカゲボウズをあっさり倒してしまったのです。
 すると突然、青年が何かを投げました。彼は反射的にそれを受け止めました。
「え? 何これ」
 あっけにとられるショウタに
「なんでもなおしだよ」と、青年は言いました。
「ついでだから、ユウスケ君のポケモンも治してあげるといい」
 そう言うと、青年は横を素通りしていきました。その後ろをネイティがちょこちょことついていきます。
「え、ちょ、ちょっと!」
 ショウタがまだ把握できていないという風に声を上げると
「まずはポケモンを褒めてやるのが先だろ」
 呆れたように青年が言いました。
 ビイ! とスバメが嬉しそうに鳴いて、ショウタはスバメを見、目をぱちくりさせました。
「ああ、それから……」
「そ、それから?」
 寄って来たスバメを抱きとめてショウタは聞き返します。
「電光石火とつばめ返しの区別はつけるように。タイプも違うし混乱の元だ」
「えっ」
 聞き慣れない技の名前。ショウタは混乱しましたが、青年は何も答えず、ネイティを肩に乗せてすたすたと歩いていってしまいました。そうして鳥居の向こうに姿を消してしまったのでした。
「……………………、……」
 ショウタはスバメを抱いたまましばしあっけにとられていましたが、ほどなくして、いつもの調子に戻るとスバメを撫でてやりました。
 明日は出発でした。このスバメと、相棒と旅に出るのです。
 ショウタにはそういう実感がありました。
 夫婦杉がその様子をそっと見守っていました。

 出発の日は晴れていました。
 子供達は神社の杉を三周すると次々に鳥居を潜り、振り返ると手を振りました。
「行ってきます!」
「町に着いたら連絡するね!」
 トレーナーの親達も応えて手を振りました。その中には巫女のスギナの姿もあります。昨日あんな事があったのに、いたって元気そうなのでショウタはほっとしました。先に歩いていくユウスケもなんともなさそうです。
 じゃあ一体あれはなんだったんだろう。彼は訝しみましたが、あれから起き上がったスギナもユウスケも何も言わないのでなんとなく聞けずじまいでした。もしかしたら覚えていないのかもしれません。そうこう考えているうちに、最後の一人が鳥居を潜りました。
 神社を出て、雑木林を抜けて、守り岩の刺さった田んぼの道を行き過ぎて、彼らは隣の町に向かって歩き続けました。皆、黙々と歩きました。隣の町は遠いのです。まずは日が暮れる前に次の町に着かなければなりません。それが彼らの最初の試練なのです。
 ショウタは歩くのがあまり速いほうでは無かったので、みるみる離されてしまいました。
 しばらくして追いつく事も諦めました。けれど焦ってはいませんでした。
「いいよね、野宿になっても。夜にお化けが出たってお前がいるしさ」
 ショウタは肩のスバメにそう言いました。
 そうして町の出口に行き着いた頃、スバメがビイッと鳴いて足を止めたのでした。
 町の境界に誰かが立っていました。
「ツキミヤさん」
 ショウタはリュックを背負った青年の名を呼びました。
 緑の玉を肩に乗せた青年は「やあ」と言うと、にこりと笑いました。
「……ツキミヤさんも、行くの?」
 羽毛を逆立てるスバメをなだめながらショウタは尋ねます。
「ああ。君が出発するのを見届けてから、出ようと思ってね」
 青年が言いました。
「そ、そう。ツキミヤさんも元気でね」
 ちょっと他人行儀にショウタは言いました。まさかここでカゲボウズをけしかけられるとも思えませんでしたが、さすがに警戒していました。
「ああ、君も元気で」
 気にする様子も無く青年は言いました。
 それじゃあとショウタは行く方向を定め、背を向けました。
 三日間ですっかり履き慣れたランニングシューズはしっかりと地を踏みしめます。少年は真っ直ぐに進んでいきます。その姿は徐々に小さくなっていきました。
「さようなら、ショウタ君。よい旅を」
 青年は呟きました。
 君が思っている以上に世界は君を祝福しているんだよ、と。
 歩いていく少年の背中を見守りながら青年はそう言うと、やがて反対の道を向きました。
 旅とは出会い、そして別れ。
 二人の距離は開いていきます。
 道すがら青年は持っていたノートサイズのタブレットを起動させます。道を調べようとブラウザを立ち上げた時、最後に見ていたウェブページが開き、こんな記述が飛び込んできました。

『スバメの特性は「根性」と呼ばれる。火事場の馬鹿力とでも言うのか、毒や火傷状態になると彼らの攻撃力は飛躍的に向上する。』

 こツバメポケモン、スバメ。
 旧い名前を鷽。
 その名は昔、鬼を倒した事を人々が嘘だと思った事からきていると言われています。
 ゴーストポケモンの鬼火にも負けないその特性、それをショウタが理解するのは、もう少し後になってからのお話です。