●ずっと一緒に 


 見上げた空は晴れ渡り、眩しかった事を覚えている。
 空を目指すように高く高く、二本の杉の木が伸びていた。
 旅立ちの日、私達はその周りをぐるぐると三周し、鳥居を潜って出発する。神事で出会った相棒と一緒に根元で繋がった二本の大きな杉の周りを回るのだ。
 真っ先に男の子達が回り始める。けれど私は立ち往生した。不安だった。これから始まる旅、トレーナーとしての修行の旅、私一人でやっていけるだろうか。そんな不安でいっぱいだった。
 そんな時だった。彼女が私に声をかけたのは。
「一緒に行こう」
 そう言って、彼女は私に手を差し伸べた。



 夜が近づいていた。橙と赤の色が空に染み渡って、染め尽くしたかと思うと、沈む太陽の反対側からはもう夜の色が迫ってきていた。
 私はポケモンセンターへの道を急いだ。もうすぐ約束の時間だった。春になって日が長くなってきたとはいえ、じきに暗くなってしまう。この町に明かりは少ないし、私は夜があまり好きではなかった。だから完全に暗くなる前に約束の人物を案内してしまいたかったのだ。
 道すがら時折見える田んぼに鎮座する守り岩、それが長く影を伸ばしていた。田植えを終えたばかりの稲を飲み込むみたいに長く長く伸びていた。
 守り岩の上にはスバメがとまっていた。影となった岩に同化したそれはシルエットしか見えなかったが、二又の尾ですぐに分かった。シルエットが飛び立つ。赤く染まった空を映す水面を滑り、やがて見えなくなった。
 スバメ、こツバメポケモン。ホウエン地方では珍しくもなんともないよくいるポケモンだ。この町でもその姿は多く見られる。
 行く先を見る。数十メートル先にセンターの明かりが見えた。
 私を迎えるように、さあっと静かに自動扉が開く。ポケモンセンターは久しぶりだった。
 眩しい。さっきまで暗くなりかけていた道を歩いていたせいか、照明がいやに明るく感じられた。私はロビーを見渡す。目的の人物を探した。
 私達の町、エンビタウンは小さな町だ。都市と違ってセンターは町に一箇所しかないし、そんなに旅のトレーナーが来る訳でもない。だから目的の人物はすぐに見つかった。いや、正確にはロビーの椅子に座っていた男の人と目が合ったと言うのが正しい。
「あの、ツキミヤさんですか……?」
 私がそう尋ねると、彼は操作していた真新しいタブレットを置いて立ち上がり、軽く会釈をした。するとどこからか緑色の玉のような鳥ポケモンがぴょんぴょんと戻ってきて彼の肩に飛び乗ったのだった。
「スギナさんですね?」と、彼は言った。
 はい、と私は返事をする。
「ツキミヤです。この度はしばらくお世話になります」
 彼はにこりと笑みを浮かべるともう一度会釈する。そうして肩に乗った緑の鳥ポケモン、ネイティの頭を撫でた。白くて長い指が緑の羽毛に触れる。ネイティが目を細めた。
「……いえ、こちらこそ」
 少したどたどしく私は答えた。
 民俗学の研究で、カイナシティの大学から神事の取材に学生が来る。父からそう聞かされていた。だからどんな感じの人だろうと気にはなっていたのだ。しかし、これは裏切られたと思った。もちろんいいほうの意味でだ。
 ふわっとした淡い色の髪に色白の肌、それに整った顔立ちにしばし見惚れる。
 綺麗な人……。純粋にそう思った。
「ではご案内します。父もお待ちしています」私がそう言うと、
「ええ、よろしくお願いします」
 と、声が返ってきた。落ち着きのある優しい声だった。
 ポケモンセンターを出ると空は夜の色に覆われつつあった。私達は神社に向かって歩いていく。正確にはその隣にある私の家に。今頃、来客をもてなすべく食事の準備が進んでいるはずだ。道すがら私達はいくらかの会話を交わした。
「ここまでの道、長かったんじゃないですか?」
「そうですね。ちょっと長い道だった」
 私が尋ねると、ツキミヤさんはそう答えた。
「そうそう! そうなんですよ。隣町までとにかく遠くて。だから、旅立った子達はまず真っ先に隣町に着く事を目標にするんです。寄り道するとすぐに日が暮れちゃうから。だから初日はただただ次の町を目指しなさいって、みんな親から言い聞かされてました」
 昔を思い出しながら私は語った。初日の長い道の事を。それはこのエンビから旅立った人達だったらみんな話題にする事だった。みんなランニングシューズを土まみれにして同じ道を歩いたのだ。それは同じ時に旅立った子供達だけではない、世代を通した共通した話題だった。
 ツキミヤさんは話しやすい人だった。最初の緊張のようなものはいつの間にかほぐれてなくなってしまった。私は彼に大学の事なんかを聞いたし、彼もまた私の事を尋ねた。なのでセンターから神社までは結構な距離があったのだけれど、全然気にならなかった。
 カイナの話は特に盛り上がった。カイナシティには旅をしていた時に立ち寄った事があったからだ。博物館の事、キャモメ絵馬の神社の事、お互いに知っている事が多かったのだ。
 そしてツキミヤさんは、やはり神事の事を聞きたがった。
「じゃあ、スギナさんのところに回ってきたのはホーホーだったんだ?」
 話題がポケモンの事に移り、手持ちがヨルノズクであると語った時に彼はそう聞いてきた。
「ええ。鷽、つまりスバメ以外の鳥ポケモンが混ぜられるようになったのが、私の代の二年前くらいからで。それで私のところにはホーホーが」
「その時、鷽は一羽だけだったの?」
「そうです。あの時旅立ったのは八人で、回ってきたのはそれぞれ別の鳥ポケモンでした。別に半分鷽でもよかったんでしょうけど、父がなんとか手配をして。まあなんというか、手抜きに見られるのが嫌だったんじゃないでしょうか。周りの目もあるし。今になってそう思います」
 さすがに取材という名目だけあって勉強してきている。質問に答えながらそう思った。
 鷽。その名称を使う人はもうほとんどいないから尚更に。
 というのも、ある年を境に神事の内容が変わったからだった。その時に行事の名前も変質してしまっていたから。
 鷽、それはスバメの旧い呼び方の一つだ。鳥ポケモンの入ったモンスターボールを子供達の手から手へと回しあい、最初のポケモンを決定する神事、その行事で扱うポケモンがスバメのみでなくなった時、その名前は鷽替えから鳥替えに変化したのだ。
「なるほど。君のお父さんも大変だね」
 同調するようにツキミヤさんは言った。
 それは時代の変化とも言うべきものだった。ポケモンセンターで最初のポケモンをある程度選択できるようになって久しい。その波はこんな田舎のエンビタウンまで押し寄せてきた。
 もはやスバメだけでは――そんな声が旅立つトレーナーの親達から上がるようになったのだ。
 それで父は譲歩せざるを得なくなった。儀式の形を守りつつ、彼らの声を反映させざるを得なかった。トレーナーの親達からの支持をなくしては元も子もない。儀式そのものが無くなってしまう事を恐れた父が妥協点を探した結果が今の「鳥替え神事」だ。
「救いは行政の理解がある事です。だから町のセンターもこの領域には踏み込んでこないんです。最初のポケモンを選ぶ手続きは今のところ神社に一任してくれています」
 そう私が説明すると
「そういうのって大事だよね」と、彼は返してきた。
「幸い父は市の議員さんとも親しくて」
「そう。神主さんは努力しているんだね」
「ええ」
 私は声を弾ませて言った。ツキミヤさんがそう言ってくれたのが単純に嬉しかった。
 トレーナーとしての旅を終えて、家の手伝いを始めた。神事を手伝うようになって、年を重ね、旅に出る子供達を送り出すようになった。それでようやく私は分かってきたのだ。
 父がどんなにこのエンビを愛しているのか。この町の行事を大事に思っているのかを。
 だから、大学から民俗学の学生を受け入れるのだってそういう事なのだ。それに価値を見出しているからだ。父が鳥替え神事の取材がしたいという求めを拒否した事は私の知る限り、一度もない。それどころか、父は彼らを進んで家に泊め、もてなす事が多かった。
 それを証拠に、当初ツキミヤさんはセンターに泊まる予定だった。アポイントの段階ではそういう話だった。けれど父が言ったのだ。うちに泊まっていきなさい、と。
 それは父が彼らの存在を証と考えているからだ。神事の価値を示す証であると。
 歩いていく。いつの間にか空は暗くなっていて、木々の間から時折青い三日月が覗いていた。私達は雑木林の中を進んでいく。
「お待たせしました。着きましたよ」
 鳥居の前に辿り着いた時、私はそう言った。

   *

「やあやあ、遠い所をようこそいらっしゃいました」
 境内を横切って家に着くと、玄関で神主さんが出迎えてくれた。今日のお勤めはもう終わったのか、あるいは早めに切り上げたのか、眼鏡の神主さんはラフなポロシャツだった。なぜ神主さんと分かったかと言えばスギナさんがお父さんと呼んだからだ。
「ツキミヤです。この度はお世話になります。オリベ教授からも神主さんによろしく伝えるようにと」
 そう言うと、
「ああ、オリベ君、元気?」
 と、返事が返ってきた。
「ええ、相変わらずです」
 僕はそう答えるとスギナさんに勧められるままに靴を脱ぎ、下駄箱に入れた。
「そうかいそうかい。オリベ君のところからはね、時々学生が訪ねてきていたんだ。ここ数年はご無沙汰していたけどね」
 神主さんは弾んだ声で言う。さ、食事の準備ができていますよと言って案内してくれた。木の廊下をしばらく渡ると障子を開く。招かれた部屋は薄暗かった廊下と打って変わって明るく、まるで上質の旅館に泊ったのかと錯覚するくらいにたくさんの料理が並んでいた。山菜の天ぷらに、おひたし、具沢山の味噌汁、芋を煮転がしたものもあったし、湯葉や豆腐も目に入った。
 さあ、お座りになって下さい。神主さんが席を勧める。失礼します。促されるままに座布団に正座した。
「みんなこの辺で穫れたものばかりです。どうぞお召し上がり下さい」
 こうして神主さんにスギナさん、氏子さん達と共にたくさんの料理を囲みながら夕食が始まった。初めこそ皆静かに食べていたけれど、やがて気がほぐれたのかお腹が満たされてきたのか、ぽつぽつと会話が始まった。気が付けばスギナさんがお酒を持ってきて、神主さんや僕に勺をした。あまり飲むつもりはなかったから酔わない程度に頂いておく。氏子さん達も後々になってお酒を口にしたけれど、一番飲んでいるのは神主さんだった。酒が入る度に彼はどんどん饒舌になっていく。そのうちに語り出したのはオリベ教授の昔話だった。
「カイナ大から神事を見にきた初めての学生というのがオリベ君でね、取材をしたいと電話をかけてきたんだ。何かの雑誌だか本だったかで知って興味を持ったと言ってた。それ以来の付き合いでね」
 神主さんは顔を赤らめながら、陽気に語る。
「とにかく読書量が物凄かったね。昼間は町を歩き回っているんだけど、夜になると別人みたく本の虫になっちゃうんだ」
 神主さんによれば、まだカイナの一学生であった若き日のオリベ教授は、夕食が終わるやいなや町の図書館で借りた郷土史やら昔話やらの本を夜遅くまで舐めるように読んでいたという。そうして次の日に神主さんを質問攻めにして散々困らせたらしい。
「私は跡を継いだばかりでさ、駆け出しでろくに答えられないのが悔しくてね。だからそれからは勉強するようになったよ」
 今となっては感謝していると神主さんは言った。だから私が行事の保存に力を入れるのも、彼の影響あってこそかもしれないね、と。
 人は見かけによらないものだと思った。どうやらあの人はちゃんと民俗学者として学問に貢献しているらしい。どうも普段の感じを見ていると、熱心な学生だったというのが信じられないのだが、研究室に入り、実際に本人の論文を見た時に、その実力と仕事量は認めざるを得なかった。
 実際、教授の知識量には凄まじいものがある。特に彼は比較論に優れていて、他のどの地域の似たような行事ではこうだ、という事例をいくらでも挙げてくる事ができた。一体どこから調べてきたんだろう、何が情報源だろうと思っていたが、結局こういう事の積み重ねがものを言っているのだと思う。
 ――ツキミヤ、お前には足で稼いで貰いたい。
 オリベ研に入った時、教授はそう言って僕を大学から送り出した。自分に足りないのは実地だから指定する先に行って欲しいと。もちろん空き時間は好きな所へ行っていいという条件でだ。僕はそれを承諾した。いや、正確には入ったらそうさせて貰うつもりだったから好都合だった。その理由はいくつかある。
 口に山菜の天ぷらを運ぶ。ほのかな苦味がちょうどいい。数人が箸をつけているのもあり、あれだけ盛り付けてあった料理も減っていく。ふと、味噌汁の椀の横近くに目をやると、ネイティがタラの芽をつついていた。
「おいしい?」
 そう尋ねると小さな緑の鳥は肯定するように赤アンテナを揺らした。
「ツキミヤ君はずいぶんと優秀なんだってね。オリベ君から聞いてるよ」
 やがて話はオリベ教授の昔話から、僕自身へと移っていく。まあ、当然の流れだろう。神主さんの顔は先ほどより赤くなっていた。横にいるスギナさんがお父さん飲みすぎよと制止したが、気に留める様子はない。僕は僕で適当に答えるつもりだったから構わなかったが。
 ただ、次の質問には一瞬だけ箸の動きが止まってしまった。
「わざわざ君を別の専攻から引き抜いたそうじゃないか。よほど君が欲しかったんだね」
 神主さんがそう言ったからだった。
「ええ、今の研究室は教授の勧めで」
 僕は答えた。嘘ではなかった。傍らで緑の鳥が残ったタラの芽を上を向いてぐいぐいと飲み込み、本日の食事は終了とばかりにテーブルをひょいっと降りたのが見えた。
 あの人はまた余計な事を。そう思った。
「前の専攻は何だったの?」
 あくまで純粋な興味なのだと思う。神主さんは間髪を入れずに聞いてきた。
「考古学です」と、僕は答えた。
「じゃあ、なぜ民俗学に?」
「そうですね……あえて言うなら、一人でも研究できる事でしょうか。遺跡の発掘なら人の手もお金もいりますけど、民俗学なら僕一人で歩き回ってできますから」
 答えになっていない答えだと思った。ただやはり嘘でもなかった。一人で取り組むのなら民俗学は確かに都合がいいのだ。少なくとも考古学に比べれば。それは紛れもない事実だった。
「だからここが終着点だとは思っていません。けれど、僕が今取り組むにはいい分野だと思っています。こんな言い方をすると意欲がないみたいですけれど……」
 外向きの表情は崩さずに語り続ける。神主さんは少し面食らっているように見えた。
「そうかい……、私はてっきりオリベ君は君を後継にするのかと」
 僕は少し困った笑顔を作る。
「君は君で色々あるんだね」神主さんは言った。
「そうですね」と、僕は返す。教授と僕の思惑は少し違うと思います、と。
「もちろん結果は出します。教授に期待していただいている以上のものはお見せするつもりです」
 そこまで言うと箸を置いた。テーブルから降りたネイティは眠いのか羽毛を膨らませて、目をつぶってうずくまっていた。

   *

 残った料理をいくつかの皿にまとめると、台所に運ぶ。今日は人も料理も多かったから皿洗いの量が多い。この感覚は久しぶりだ。皿を盆に乗せ、私は廊下を渡る。台所に行くと氏子さんがすでに皿洗いを始めていた。ここは私がやっておきますよ。氏子さんがそう言うのでお礼を言うと廊下を引き返した。無駄に長い廊下だ。母が亡くなり、姉達もお嫁に行ってしまった今、この家は広すぎる。
 ふと、遠い記憶が蘇った。小さい頃に神社の境内で遊んでいた記憶だった。
 境内では何人かがダルマッカが転んだやかくれんぼをしていた。鬼は夫婦杉で振り返り、夫婦杉の下で声がかかるのを待った。男の子、女の子、後に共に旅立つメンバーも含まれていたし、今はいない姉達の姿もあった。やがて日が西に沈み始め、水田が赤く染まり始めると、一人、また一人と鳥居を潜って出て行った。
「私もそろそろ帰るね」
 最後に一人残っていた幼馴染みも名残惜しそうに言う。けれど、まさに彼女が鳥居を潜るその時、まだ生きていた母が言ったのだ。
「ねえ、よかったらお夕食食べていかない?」
 いいんですか? 振り返った彼女は少し大人びた言葉で返す。
「いいのよ。賑やかなほうが楽しいものね。お母さんには電話をしておくわ」
 母が言った。
「やったあ!」
 私は声を上げる。母が彼女にそう言う時はだいたい食事が豪華だった。
 それに何よりあの子と夜遅くまで一緒にいれる事、それが私には嬉しかったのだ。

   *

 エンビタウンに滞在する間、寝泊りをする部屋には、夕食が終わってから案内された。住み込みの氏子さんがいた時に使っていた離れだそうで、玄関を出て少しばかり歩いた所にある。今はごくたまに僕のような来客用に使われる事があるのみだという。
「ごめんなさいね。なんだか端っこに押し込めるみたいで」
 そんな事をスギナさんが言ったけれど、とんでもないと否定した。
 むしろこちらの好きな時間に使える訳だから好都合だ。神主さんの話から推察するならば、かつて泊まったというオリベ教授もここで思う存分本を読みふけったのだろう。ただ、読書をしている教授をなぜか僕は見た事がなかったから、その姿を想像した時に少し違和感があった。研究室に行く度に違う本が置いてあるので読んでいるには違いないのだが。
 スギナさんが鍵を開けて引き戸を開く。ぱちりと部屋の電気をつけた。そして、鍵を渡された。ネイティを抱えていた手を片方空けると受け取った。緑玉は羽毛を膨らませたり、しぼませたりしながら寝息を立てている。
「お風呂に入りたい時は声をかけて下さい。十時くらいまでに済ませて下さいね」
 そう言うとスギナさんは母屋のほうへ戻っていった。緩やかに結んだ長い髪がすっと引き戸の間を通り過ぎていくのが見えた。
 僕は当分の棲みかを見渡す。畳敷き六畳ほどの部屋には押入れと机、それに縁側が付いている。鍵を回して縁側の窓を開けた。目の前に広がっているのは暗い雑木林だった。ふと、足元の影がざわついた。
「いいよ。出てきても」
 僕はそう言って、壁のスイッチに手を伸ばす。部屋の電気をぱちりと消した。その代わりに机の上にあったスタンドライトの明かりをつける。作業をするならこれくらいのほうが落ち着くし十分だ。リュックからハンドタオルを取り出して机に敷き、ネイティはそっちに移してやった。そうしている間に薄暗い部屋にはてるてる坊主の影が躍り始めていた。足元から次々に宙に躍り出る彼らには一本の角が生えている。ある者は開けた窓から外に出ていったし、ある者は部屋の中をふらふらと漂った。今日も三十匹くらいだろうか。角付きてるてる坊主達の揺れる影を眺め、思った。
 カゲボウズ、僕の影に巣食った人形ポケモン達。影の中では窮屈だろうからと時々こうして外に出してやる。ある者はしばらく散歩して戻ってくるし、またある者はどこかでつまみ食いでもしているのか、しばらく帰ってこない。干渉はしない。自由にさせている。ただ、許可したらすべての個体が出てくるのかというとそうでもなく、なぜかいつも出てくる数は決まっている。彼らは全体から見ると氷山の一角に過ぎない。ある外出好きの個体だけが出てくるのか。あるいは彼らの間で交代制でもとっているのか。一匹一匹の区別をつけている訳ではないから分からない。
 リュックからノート程のタブレットを取り出す。大学を出発する時に教授から支給されたものだ。どんな手を使ったのか知らないが、今年は予算が多く出たらしい。
 立ち上げて光る画面をスライドする。送られてきた昔のレポートのスキャンデータを呼び出した。若き日の教授の字はお世辞にも綺麗ではない。
 ――エンビタウンの子供達が最初のポケモンを決める儀式、それは鷽(うそ)替え神事と呼ばれる。
 かつての学生のレポートにはそう綴られていた。この頃はまだ伝統が生きていたから、神事の名前も鷽替えだ。
 教授のレポートを閉じる。別の学生のレポートを開けた。指で画面を撫でる。内容を目で追いながら、下へ下へスライドさせていく。神事の概要はもう頭に入っていた。僕の関心は他にあった。
 不意にカゲボウズが寄ってきて、その衣が画面に触れる。顔を上げると何匹かが何か言いたげにじっと見つめていた。
「分かっているよ」
 闇に輝く三色の瞳を見つめ返し、言った。
 大学の外に出た理由、そのうちの一つがこれだった。

   *

 夜の闇の中に妙なものを見たのは、ツキミヤさんを離れに案内し、母屋に引き返している最中の事だった。雑木林の中に青白い光が見えた。
 こんな時間に誰か来たのかしら。私は怪しんだ。
 よくよく目を凝らすと青白い光は二、三あって、木々の間をゆっくりと進んでいく。最初は誰かが懐中電灯でも灯しているのかと思ったけれど、それにしては何かおかしい。気が付くと早足でそれを追いかけ始めていた。
 本来なら誰かを呼びに行くべきだったのかもしれない。けれど、私がつい追いかけてしまったのは、その光が明らかに神社を目指していたからだ。だから反射的に後を追ってしまったのだと思う。
 そうして光の正体は、神社の境内に出た時にはっきりとした。
 炎だった。青白く、冷たく燃える小さな炎が三つ、宙を上下しながら移動していた。石畳が照らされて、影がゆらゆらと揺れている。
 人魂。そんなキーワードが浮かんだけれど、すぐさまポケモンの仕業だと思い直した。姿は見えないけれど、これはゴーストポケモンの仕業だ。それが分かった時、あまり恐怖心はなくなっていた。こういうのは「あの子」が得意なのだ。何者かが灯す鬼火は夫婦杉の横を通り過ぎ、拝殿近くの絵馬の掛け所へと近づいていく。鬼火はまるで絵馬を物色するようにぐるぐると掛け所をニ、三周した。そうしてついにポケモンが姿を現した。
 最初に見えたのは影だった。炎に照らされた絵馬の上にそれが映ったかと思うと、もう姿を現していた。数は六匹ほど。宙に舞う衣、頭から伸びる一本の角、青や黄色に輝く瞳。カゲボウズだった。これでも昔はトレーナーだったから、見るのは初めてじゃない。けれど、この神社はあの子のテリトリーだ。ゴーストポケモンはほとんど入ってこないはずなのに。
 カゲボウズ達は奉納された絵馬の束をじいっと見つめたり、ひらひらの部分を器用に使って束の中から一枚を引っ張り出そうとしていたが、やがて私の視線に気が付いたらしい。びくっとして目を見開くと鬼火もろともぱっと消えてしまった。あるいはあの子の存在に気が付いたのかもしれないと私は思った。いずれにせよ、大した事はないと判断した私は母屋へ引き返す事にした。

   *

 縁側に突如現れた「それ」と僕達との間には、しばし無言の駆け引きが続いた。
 離れの六畳間、タブレットを持った僕は座布団に座っており、その視線はカゲボウズ達が出て行った縁側に注がれている。僕だけではない。部屋をふらふらと浮遊していたカゲボウズ達も視線を注ぐ先は同じだった。縁側には大きな影。それが二つの鋭い眼を光らせていた。
 羽音はしなかった。が、それが縁側に降り立ったその着地音で僕達はその存在を認識したのだ。
 しかもその訪問者の嘴の先にカゲボウズが一匹、ぶら下がっている。いや、正確にはふにゃりと曲がった角を嘴でがっちりとくわえられていた。その様子はなんとも情けない有様で、捕虜カゲボウズはとてもバツが悪そうな顔を向けた。この様子だとこの部屋を出てすぐに捕まったのだろう。
 ただならぬ雰囲気を察したのか、ネイティまでもが目を覚ました。
「……なるほど。君がスギナさんの最初の子か」
 と、僕は言った。どうやら夜のハンターというのはカゲボウズ捕獲もお手のものらしい。
 ふくろうポケモン、ヨルノズク。太い筆で山の字を描いたような冠羽の下で鋭い眼が光っている。小さなゴーストポケモンを震え上がらせるには十分だった。
「この神社は君のテリトリーって訳だ」
 続け様にそう言うと、ふくろうポケモンはくわえていたカゲボウズを放してくれた。やっと嘴から解放されたカゲボウズは一目散に僕の影の中に戻っていく。残ったカゲボウズ達がざわめいた。
「はじめまして。しばらくお世話になるのでよろしく」
 そんな事を言ってみたが、俺は了承した覚えはないとでも言いたげな視線を向けられる。さすが進化系のポケモンとでも言うべきか。吼えたり、噛み付いてきたりする未進化のポケモンに比べると、どっしりとした落ち着きがある。同じ夜の住人という点も大きいのだろう。
 だが、ここの神社の祭神ってオオスバメじゃなかったろうか。ヨルノズクのテリトリーっていうのも妙な話だ。そんな事を思っていたら、フシャッと低い鳴き声で抗議された。
「分かった分かった。勝手な事はしないよ。カゲボウズ達にもよく言っておく」
 そう言うと、ふくろうポケモンは一応納得したのか、とりあえず今日は帰ってやるとでも言うようにぷいっと身体を外に向けた。だが、
「あ、ちょっと待って」
 と、僕が呼び止めると首だけがぐるっとこちらを向いた。
「なあ君、このあたりで空気の重たい場所とか知らないかな?」
 ぐるん。一八○度回った首に今度は傾きがつく。
「知っているなら案内してくれないか」
 捻じ曲がった首は瞳をぱちぱちさせながらしばし静止していたが、やがてぐるんぐるんと二段階を経て元に戻った。そうして羽音を立てずに大きな影は飛び去っていった。境内の主が去った縁側を見つめながら、彼はゴーストがデフォルトで見えているタイプだな、と思った。
「……ありゃ手強いね」
 目を覚ましたネイティにそう言った。争う気はなさそうだが、神社の中でおかしな事はできない。さしずめ今日は牽制と言ったところか。

   *

 神事まで一週間を切っていた。
 次の日にツキミヤさんと顔を合わせたのは、朝にお父さんが神様に神饌を捧げる時だった。
 父は祭壇に神饌を置き、日供の祝詞を唱え始めた。碗に盛ったご飯を一杯、お酒を一瓶、それに旬の木の実をいくつか。朝の儀式にはこれが欠かせない。その様子をじっと彼は見つめている。あの夜に今のままでいる気はないような事を言っていた彼だったが、その眼差しはいたって真剣だった。
 朝の儀式が終わると、軽く掃除をして朝食になった。いたって静かな朝だった。夜に鬼火とカゲボウズが出た事は誰も知らないようで、それらしい話題になる事はついになかった。
「ツキミヤ君、今日はどこに」
 そんな事をお父さんが尋ねると、とりあえずは色々歩き回ってみるつもりです、と彼は答えた。図書館には郷土資料も揃っているからぜひ行ってみなさいと父が言い、そうしますと返事をしていた。やがて朝食を済ますと、肩に緑の鳥を乗せて出て行った。
 一方の私は氏子さんに皿洗いを任せ、神社の裏手に足を運んだ。両手には赤と白で彩られたモンスターボールが十個ある。中身は今年の鳥替え神事で選ばれるポケモン達だった。
 拝殿の横を通り奥へ進んでいくと、朝に儀式をした神様の住処、本殿が見えてくる。ちょうどその裏側に来た時に、私はボールを開放した。中から様々な形の鳥ポケモン達が現れる。北はシンオウから南はホウエン、それに海の向こうのイッシュ地方に生息する彼らが一堂に集う様はまさに色とりどりといった様子だった。申し訳程度に注連縄で囲った本殿の裏スペースで、フードやポロック、木の実を転がす。彼らはわっとそれらをついばみ始めた。なぜこんな所でこそこそと餌をやっているかと言えば、儀式の前にその姿を子供達に見せてはいけないからだ。その云われはよく分からないのだが、伝統的にそうなっている。もちろん、最初のポケモンが決まる前に特定の個体に愛着を持たせてはいけないとか、運営上の理由はいくらでも挙げる事ができるのだが。
 フードをついばむ鳥ポケモン達、私はその様子をしばし眺めていた。一番大きいのは二つ首のドードーで、長い足で立つと子供の背丈ほどの大きさがある。ついで大きいのはカモネギで、食事中もクキを手放そうとしない。最近仲間入りをしたイッシュのワシボン、コアルヒー、マメパトも元気そうだ。ムックルとオニスズメは落ち着きがなく、ぴょんぴょんと地面を蹴りながらあっちへこっちへと動き回っている。一番小さいのがスバメで、端っこで赤い色のポロックをおいしそうにつついていた。
「お前は誰が引くんだろうね」
 その様子を眺めながら、ふと呟く。こツバメポケモンはぱっちりとした目をこちらに向ける。私の意図を読む事はできず首を傾げた。
 私達の代が鳥替えをした日、スバメを引いたのは「彼女」だった。
「……一番かわいい末の子か」
 私は伝承の一部を引き合いに出した。
 この神社の祭神であるオオスバメ、二ツ尾命(ふたつおのみこと)は雌であるそうだ。稲作の伝来と共にこの土地に降り立った彼女は土地に災厄があれば翼で払い、人々と田畑を守ったという。この町で飛び回っているスバメ達は元を辿ればみんな彼女の子孫なのだそうだ。その二ツ尾命が一番かわいがっていたのが、彼女の子の中で一番小さかった末の子なのだという。鳥達の中で一番小さなこのスバメはまさに伝承にある末の子のように思われた。末の子でスバメならば二ツ尾命には一番愛されているに違いない。
 そっと手を伸ばしスバメに触れる。正直、神事においてスバメは最も人気がない。この町はもちろんの事、スバメはホウエンのあちこちにいるからだ。だから、わざわざ最初に貰わなくてもと子供達が思っている事も知っている。けれどスバメを抜いてしまったら、もはやそれはこの土地の神事ではないのだ。
 できるならばこの子に良縁を。そう願う。
 例えばそう、私達の代で「彼女」が引いたスバメのようにだ。旅立ってから何年かで、早ければ一年や二年で子供達は帰ってくる。プロのトレーナーとして生き残っていくのは厳しい。私達の代ではあの子だけが現役だ。
 いつか旅に終わりがやって来る。人によってその時期は違うけれど。旅トレーナーとしてのリタイアは普通の事で、それが不幸とは思わない。旅をするのは自分を知るためだから。旅を終えた彼らは自身の大きさを知り、そして新しい日々を生きていく。
 けれど戦う本能を持つポケモンにとって、主人が現役であり続ける事は幸せな事であるに違いないとも思う。
 あの子が引いたのは子供達にとってハズレのスバメだったけれど、彼女は、その出会いを素直に喜んでいた。
「嬉しい! ありがとうございます。大切にします」
 彼女が父にそう言っていたのを今でも鮮明に思い出す。
「スギナちゃん、私ね、旅に出れるのがすごく嬉しいんだ。楽しみだな」
 モンスターボールを愛しげに見つめて彼女は言った。
 思えばあの子は昔から違っていたのだ。私なんか旅立つのが不安でしょうがなかったのに。

   *

 田植えを終えたばかりの水田に青い空が映り込んでいる。時折、その空をスバメが風を切るようにひゅんひゅんと横切って行く。それはかつての教授の報告にあった通りのエンビの風景そのものだった。
 オリベ教授が神事前のエンビタウン入りを指示したのは、その土地の土壌を知る事こそが行事の考察に役立つと考えての事だ。僕もその意見に賛成だし、指示がなくともそのようにしただろう。
 正直なところ、過去に何度も学生が訪れている事もあって、鳥替えの主要な考察はされ尽くしている感があった。もしも違いが出せるとしたら、それは考察に今現在を上乗せする事だ。積み重なってきた報告書の山の上に今年の記録を一枚、乗せる事だ。神事に立ち会う事はもちろん重要だが、それは画家が何度も絵の具を塗りたくった絵画のその上にサインをするみたいな工程だと思っている。
 立つ場所によって見える風景は異なる。今現在という時間軸に立つ事ができるのは僕だけで、その視点をできるだけ増やすために僕は町を歩き回る。
 それに神事の他にも気になる事があった。例えば鳥替え神事以外の行事であるとか、眼前に広がっている特徴的な風景の事とかだ。
 そして今、僕の目の前には地面に刺さった大きな岩がある。僕の背丈より少し高いそれには注連縄が巻かれている。こんな岩が道に突き刺さっていたり、田んぼの真ん中に我が物顔で居座っているのだ。名前は石神様とか守り岩とか言うらしい。明らかに農作業の邪魔でしかないはずなのだが、それらはどけられる様子がない。過去の学生達のレポートでも何人かが言及しているが、豊作を願うものだと書いてあるくらいで由来がよく分からない。
 事前の下調べで唯一分かったのは、鳥替え神事と逆の季節、ちょうど田が収穫を迎える頃にこの岩に関わる行事があるらしい事だった。その情報源はインターネットで、旅のトレーナーのブログだった。たまたまその時にエンビに立ち寄ったトレーナーが行事に立ち会ったのだという。行事の名は「岩流し」と言うらしい。
 だが、守り岩にこびりついた苔を落として、注連縄を替えるくらいの事がさらりと書かれているだけで、写真も詳細も載っていなかった。
 いや、守り岩の写真自体は町のホームページで見れるのだ。だが、それが該当のものとは思えなかった。なぜなら風景写真のあちこちに同じような岩が刺さっていたからだ。
 そして何より、教授のレポートには行事の名前すら出ていない。僕にはそれが気になった。
 ポケモンジムがある訳でもなく、珍しいポケモンがいる訳でもないこの町の周辺にトレーナーはあまり寄り付かず。情報源は限りなく少ない。こうなると現地で調べるしか方法はない。
 あぜ道を歩いていく。やっぱり不思議で不可解な風景だと思う。ここから大きく見えるだけでも二、三の守り岩があり、これらは土地のあちこちに点在している。
 空を見る。スバメ達が舞っていた。肩のネイティは機嫌よさそうに赤アンテナを振る。
 そうだな、一通り町を回ったら図書館へ行こう。そんな事を考えながら、歩みを進めていくと、住人らしき年配の女性とすれ違った。
「おはようございます」
 僕は挨拶をした。だが、
「…………」
 返ってきたのは訝しげな視線だけだった。そしてその人は興味がないとばかりに目を逸らして、歩いていってしまった。なんだか生気の無い人だな、そんな印象を持った。
 余所者は嫌いなのかもしれない。

   *

 私が戻った時には既に氏子さんが夕食を用意してくれていた。姉達が嫁いでからというものこういう事は私の役割だった。けれど、進路を定めてからは少し事情が変わってきている。
 夜食になった時、お父さんはまたお酒を飲んだ。久々の来客が嬉しくて浮かれているのだろう。父の隣でツキミヤさんが与太話に付き合っている。図書館はどうだったとか、町の人の話は聞けたかとか、そんな事を延々と話している。泊めて貰う立場だからこそ付き合えるといったものだろうが、私なら参ってしまう。
 けれど、ツキミヤさんはそんな父をしたたかに利用しているように見えた。町の事をあれこれと話したがる父から、彼は巧みに情報を引き出している。あそこで見たあれは何だとか、図書館で読んだ資料はこうだが実際にはどうなんでしょうとか。この事を詳しく聞きたいのだけれど誰を訪ねたらいいですかとか、父というエンビの生き字引を使いこなそうと努めていた。彼は聞き上手だった。
 何年か前、ちょうど私がエンビに戻ってきた頃にやってきた学生は神事の形式を細かく記録する事に時間を割いている印象を受けた。けれど彼は違うタイプだ。興味を持っているのは鳥替え神事という行事そのものと言うより、神事に関わる人々のように思われた。彼は過去に神事で鳥ポケモンを引き、今はエンビに戻ってきている人達の話を聞く事を希望していた。特に神事が鷽替えから鳥替えになって以降の人達に。
「ああそれなら、スギナに紹介して貰ったらどうだろう。同じ時に旅立った子達もだいたい戻ってきているし。明日は土曜だからお前も勉強はしに行かないだろう?」
 思いついたように父が言い、私に振った。
「えっ」
 突然に会話の先がこっちに向いて、驚く。けれど、私が何を言う間もなく
「ぜひお願いします」
 と、ツキミヤさんが言ったものだから、明日の予定は否応なく決まってしまった。
 私の代は私を含め、八人。一人を除いては全員が旅を終えている。

   *

 神主さんから解放されて、少し夜風に当たろうと考えた。眠そうなネイティにはボールに入って貰い、境内を歩いていると、夫婦杉のあたりで大きな影が舞い降りた。楕円の頭に山の字を書いたような冠羽を戴いている、スギナさんのヨルノズクだった。
 だいたいのポケモンは僕を怖がって近づかないものだが、彼は肝が据わっていると思う。ホーホー、ヨルノズクはゴーストの正体を見破るのが得意な種族だから、それも関係しているのかもしれない。
「やあ、こんばんは」
 僕が言うとブフォウという低い鳴き声と共に不満げな視線を投げられた。どうやら俺のテリトリーを勝手に歩き回るなと、そう言いたいらしいが、散歩くらい自由にさせて欲しい。
「もしかして君さ、僕がスギナさんに何かすると思ってるの?」
 冗談半分にそう尋ねると、首を一二○度くらい傾けられ、疑いの視線を向けられた。どうやらまったく信用がないらしい。まあ、これだけカゲボウズを引き連れた男が境内に侵入してくれば、テリトリーの主として気にならないほうがおかしいのだが。
 昨日と違いカゲボウズは影にしまったままだった。このヨルノズクが一体どこまでその内容量を把握しているのかは謎だったが、とにかく僕達は監視対象になってしまったらしい。
 尤も彼と争う気は毛頭なかった。それより少しコミュニケーションを試みてみよう、そう考えた。
「君はこの杉を回ってスギナさんと出発したんだね」
 夜の色に染まった夫婦杉を見上げ、僕は言った。
 鳥替え神事の後の準備期間を終えると、根元で繋がったこの二本の杉を三周し、子供達は出発する。それはこの杉の縁起がこうだからだ。異性と共に三周すれば夫婦になる。同性となら親友になる。そしてそれがポケモンとならよき相棒(パートナー)になる。だから彼らは故郷の杉にそう願い、出発する。
「君は彼女が好き?」僕は問いかけた。
「君とスギナさんにご利益はあったと見ていいのかな」
 ふくろうポケモンは首を回さない。
「少し歩こうか」僕は言った。
 僕達は入口の鳥居を抜け、暗い雑木林の道に入る。僕は淡々と歩き、彼は音のない羽ばたきを繰り返しながらついてきた。夜目は利いたが、中のカゲボウズに命じて鬼火を一つ、灯した。一人と一羽はあぜ道に出て、暗い田の間を歩いていく。鬼火は時折、田に突き刺さった守り岩を浮かび上がらせた。昼間とは違う影をつくるそれには言いしれぬ威圧感があった。ヨルノズクが飛んでくる。その天辺に舞い降りる。
「君はこれの意味を知っているかい?」
 僕は尋ねる。ふくろうポケモンは答えない。
「神主さんさ、町の事は何でも教えてくれるんだけど、なぜかこれに関しては歯切れが悪いんだよね。信仰の対象ではあるようだし、大事なものには違いないようだけど……」
 田の守り神。豊穣をもたらすまじない。神事を取り仕切る燕尾神社の神主さんはそのように語った。その言葉自体が嘘だとは思わない。が、あれは何かを隠している。
「僕がここに来た目的はね、探しているものがあるからだ。本当にあるかはもっと調べてみる必要があるけれど」
 ヨルノズクは夜空を仰いでいた。獅子座、牛飼い座、乙女座、それらの星が作る春の大三角が輝いている。明かりの少ないエンビは星空がよく見えた。
 少し不思議な気分だった。ほんの少し前までカゲボウズ以外のポケモンとこういう時間を過ごすという想像がつかなかったから。たとえそれがお目付け役の同行であったとしても。
「明日、スギナさんの同期に会いに行くんだ。君も来るかい?」
 そんな事を気紛れに僕は聞いた。

   *

 いつも通りの朝のはずだった。けれど、神饌を捧げた後に本殿から出てきたら、境内にふくろうポケモンがいたものだから面食らった。エンビに里帰りしてからというもの、あまり顔を合わす事がなくなっていたからだ。ヨルノズクであるヨミちゃんは夜行性だ。私がトレーナーを引退してからは活動時間が本来に戻っていたのだ。
 同じく一緒に旅をしていたマッスグマのザクマは境内に放し飼いにしていたところ、いつの間にか恋人を作ってしまい、子供が生まれた。一度、生まれたジグザグマを三匹ほど背中に乗せて見せに来た事があったけれど、それ以降は子育てが忙しいのかめったに顔を出さない。
 三匹目の手持ちだったマリルリのマリーも似たようなものだ。雑木林近くの溜め池をテリトリーにしているはずなのだが、近頃はめったに見かけない。
 そんな訳だから、こんな朝に顔を出すなんて思っていなくてびっくりした。
「ヨミちゃん!? どうしたの?」
 そう尋ねたけどヨミちゃんはぐるぐると首を回すばかりで、何を考えているのかさっぱり分からなかった。
「あ、ツキミヤさん、紹介しますね。ヨルノズクのツクヨミです。愛称はヨミちゃん。鳥替え神事で私のところに来たのはこの子なの」
 ツキミヤさんにそう言って紹介したら、なぜか彼はバツの悪そうな顔をしていた。
「あの、ツキミヤさん、ヨルノズク苦手なんですか?」
 そう尋ねたら、いや実は……と切り出され、私は更に驚く事になる。どうやらヨミちゃんと彼は既に顔を合わせていたらしい。初日のあの日、ツキミヤさんの泊まる離れの縁側にヨミちゃんが現れたのだという。
「そう、彼はツクヨミって言うんだね」
 ツキミヤさんが言う。
「あ、いいえ、ヨミちゃんは女の子なんです……」
 私がそう訂正すると、「えっ」と言う顔をされた。まあ目つきが逞しいというかヨルノズクは区別が付きづらいので仕方ないとは思う。
「そうかい。彼女ってかなり言語能力が高いんだね。驚いたよ」
 続け様にツキミヤさんがそう言ったけれど、ちょっと意味が分からなかった。

「あれ、ツクヨミじゃん。こんな時間に起きてるなんて珍しいね」
 手始めに神社から一番近い家に訪問すると、ジュン君はそう言った。
 その昔、鳥替え神事でヤミカラスを引いた彼は今、通信制の講座で勉強している。来年はホウエン都市部の大学へ進学したいのだと言う。ツキミヤさんがカイナ市立大の院生だと紹介したら食いついて、大学生活について色々質問をしていた。彼の場合、スクール復帰ではないものの、いわゆる復学パターンに相当するのだろう。神事で引いたヤミカラスについて尋ねると、夜型なので今は寝ている。夕食時にでもなれば活動し出すと言っていた。
 彼はトレーナー時代にコンテストに興味を持ち、少しばかりかじったらしい。進学時に上京したら趣味で再開したいと話していた。

 二番目に訪問したのはミサトちゃんのところだ。彼女はついこの間、一児の母になった。今の旦那とは里帰りした際、鳥替え神事で引いたチルット――今のチルタリスが旦那の連れていたエアームドに一目惚れし、それがきっかけで付き合うようになったという。ちなみに旦那は私達の二年前に旅立ったメンバーで、今は家を継ぎ、農業をしている。今日は畑に出ているため家にはいなかった。
 私達は縁側でお茶をいただき、のんびりと会話した。
 目の前では大小のポケモンが鳥独特のボディランゲージで会話をしていた。ヨミちゃんとツキミヤさんのネイティはすっかり仲良くなったらしい。彼女がその大きな顔をネイティの目線まで下げると、ネイティは冠羽を振り、首を傾げる。ヨミちゃんはそのメッセージに耳を傾け、尾羽を振って応えた。子供の背丈くらいはあるふくろうポケモンと緑の小鳥の体格差はかなりのものだったけれど、それが障害になっている様子はない。やはり鳥ポケモン同士相通じるものがあるのだろうか。
「ヨミちゃん、大きくなったんじゃない?」ミサトちゃんが言って、
「やっぱりそう思う?」と、私は答えた。
 夜型生活が本来のヨミちゃんにとって今の環境は悪くないらしい。ヨミちゃんの体格はむしろ私が引退してからよくなった。それが彼女の成長期と一致したのかも分からないけれど。
 ふと、リビングから歌が聞こえてきた。見ればチルタリスが彼女の赤ん坊、それにチルットを何羽か、綿のようなふわふわの羽毛で抱き、子守唄を口ずさんでいた。
「あの子が見てくれるから大助かりなのよ」
 と、ミサトちゃんは言った。
 彼女の家で生まれたチルットは鳥替え神事の鳥ポケモンとして里子に出される事もあって、父は過去に何度かお世話になっている。そういう意味で神事は第二世代に突入したと言えるのかもしれない。
「ヨミちゃんもお婿さん貰えばいいのに」
 ミサトちゃんは言った。
「うーん、まあ縁があればそのうち……」
 私はただただ苦笑いをするばかりだった。
「……ところでさ、チルタリスってドラゴンじゃないの?」
 彼女の家を出た後に気まずそうにツキミヤさんがそう言ったけれど、
「まあ、鳥とも子供を作れるんだし、嘴があるんだからいいんじゃないかしら……」
 と、私は答え、とりあえずそういう事にしておいた。

 三番目に訪問したのはエミちゃんの家だった。
「あ、スギナちゃん! どうしたの?」
 ぐるぐる眼鏡の彼女はドアを開けて言った。
「いいところに来たねー。ちょうど昨日、ポポちゃんのタマゴ孵ったんだよー」
 そう言って腕を引っ張られ、小屋に案内された。中をそっと覗いてみるとピンクの冠羽のピジョンが二羽、そこにいた。彼女が神事で引いたのはポッポだった。母親となった彼女のピジョンは羽毛で生まれたばかりのポッポを暖め、口を開け、ピジョンミルクを与えている。
 また子供か、と私は思った。ミサトちゃんとはちょっと方向性が違うけど。
「もう一羽のピジョンはどうしたの?」
 私が尋ねると、エミちゃんはふふっと笑って、
「ピジョン牧場からお婿さんに貰ったの!」
 と、嬉しそうに言った。
「ピジョン、ぼく、……じょう?」
 聞き慣れない単語に動揺していると、「ああ、あれね……」と心当たりがある風にツキミヤさんが呟いた。
「えー! ピジョン牧場知ってるんですかぁ! 感激ですぅ!」
 エミちゃんは興奮気味に叫ぶ。それから彼女はピジョン牧場についてあれこれ説明してくれたのだが、いかんせん早口過ぎた。とりあえずカントーにあるピジョンがたくさんいる施設らしい事はかろうじて分かったのだった。
「私もエンビタウンからピジョンの魅力を広めようと思うの!」
 エミちゃんは今後の人生の抱負を熱く語った。
「ポッポが神事に必要だったら言ってね! 融通するから! 絶対だよ!」
 彼女は鼻息を荒くして言った。神事のポケモンを全部ポッポにしてしまいかねない勢いだった。
「神事のポケモンの種類が増えた一つの結果が彼女なのかもしれないね」
 ツキミヤさんが棒読みするように言った。彼は冷静に考察に努めようとしていた。たぶん。
 
「おー、スギナじゃん。何、バトルしにきたの?」
 そんな台詞で私達を迎えたのはユウサク君だった。
「ところでその優男、誰? お前の男?」
 ツキミヤさんを指して、彼は尋ねる。
「違うわよ!」
 顔を真っ赤にして私は叫んだ。ヨミちゃんがやれやれと言いたげに口を開け、首を傾けた。
 彼が神事で引いたのはムックルだった。同期の中ではかなりの実力者で、ムクホークになった相棒を連れて帰ってきたのは去年になってからだ。つい最近まで現役だった彼の所持しているバッジは六つになり、今は町役場で働いている。小さな町だから、頼まれれば何でもやるらしい。
「結局リーグ出場資格ってとこまではいかなかったけどさ、バッジ六つあると結構就職いいんだぜ」
 と、彼は言った。里帰りし、公認バッジを見せたところすぐに採用が決まったという。
「六つっていうのは一つのボーダーなんだ。これくらい取っておくと、かなり選べる幅が広がるんだよ。まあ持ってるポケモンによりけりなところもあるんだけどな」
「よろしければいくつか質問させていただいてもいいですか」
 ツキミヤさんが尋ねる。ユウサク君は上機嫌に「いいよ」と言った。
 彼は神事の手順についてとか、その選択についてどう思うかとか、一通り前の三人と同じ質問をして答えを聞いた後、更にこう付け加えた。
「なるほど。ありがとうございます。ところで、これはもしかすると失礼になってしまうかもしれないのですが、よろしいですか?」
「ん、何?」
 ユウサク君は少し改まった態度に警戒するように返事をする。
 すると、そのものずばりな問いかけをツキミヤさんは投げたのだった。
「ユウサクさんが旅のトレーナーを引退しようと思ったきっかけは何だったんでしょう?」
 これにはドキリとした。ユウサク君がどう思ったのかまでは分からない。けれど私はドキリとした。
「おー、それを聞くか。聞いちゃうかぁ」
 参ったな。という感じでユウサク君は言った。
「すみません。あまり聞くべき事ではないかもしれないですけれど、どうしても興味がありまして。特にユウサクさんの場合、最近まで旅をしていましたし、実力のある方だとお見受けしたので」
 ツキミヤさんが少し遠慮気味に言うと、
「いや、いいよ。話すよ」
 ユウサク君は観念したように言った。そういえばちゃんと理由を聞いた事ってなかった。
「一言で言うなら実力の差を思い知らされたからだよ」
 と、彼は言った。
「実力の差?」
「そう。傍から見ると分からないかもしれないけどバッジ六つと七つの差って結構大きいんだ。それは七つと八つも同じだよ。八つはリーグ出場資格だしね。バッジ八つレベル、はっきり言って奴らは化け物だ」
「化け物、ですか」
「そう、化け物さ。次元が違うんだよ」
 私はザクリと胸を刺されたような気がした。現役時代の苦い思い出が蘇った。要するにそれなのだ。里帰りしてきた私達は大なり小なりそれを経験している。トレーナーとしての旅を始めた私達はとりあえず当面の目標として、ポケモンリーグ公認ジムバッジの獲得を目指す。けれど二個なり、三個なりを取ったあたりでやがて壁にぶちあたるのだ。まるでここからが本番だとでも言うように順調にいっていたバッジ集めが難しくなってくる。結果、この世界の厳しさ、自分の程度、それらを認識せざるを得ないのだ。
 だから今となってはむしろ、それこそが旅の目的だったのではと思うくらいだ。自分の程度というものを認識して、私達は初めて己が進むべき道に目を向け、考え始めるのではないだろうか。例えばそれは進学だったり、就職だったり、家業の跡継ぎだったり、結婚だったりする。バトルで魅せるプロのトレーナーとして残るのはほんの一握りに過ぎない。
 実際、多くのトレーナーの親達だって、我が子にそこまでは期待していない。むしろトレーナー修行はそこそこにして、落ち着くところに落ち着いて欲しいと思っているのだ。子供の頃にはそれが分からなかったけれど、今はよく分かる。分かってしまう。
「八つ目だけじゃない。リーグの予選落ちか本選行きか、あるいは予選の一次落ちか二次落ちかでもまったく違う。強くなればなるほどにそれが分かってしまってさ」
 ユウサク君が続けた。
 そうして驚いた事に、彼は私のよく知る名前を出したのだった。
「俺に引導を渡したのは、ツグミだった」
 と、彼は言った。
「え……」
 私は固まった。予想もしていなかった。
 まさかこんなタイミングでその名前を聞く事になるなんて。
「ユウサク君、ツグミに会ったの……?」
 私は思わず身を乗り出して聞いてしまった。
「あ、ああ……うん。そういえば話してなかったな」
 ユウサク君は歯切れ悪く言った。
「いやだってさ、俺だってプライドあるし。ツグミは同じ神事でポケモン貰ってスタートした訳で……」
「う、うん……。ごめん」
「いや、いいよ。いつかは話そうと思ってたんだよ」
 私達は少し静まり返った。そうして落ち着いた後で、状況が分からないと言った顔をしているツキミヤさんに説明した。
「ああ、ごめんなさい。ついていけてないですよね。ツグミって、私達の同期なんです」
 そう説明した。
 ちらり。ヨミちゃんの視線が私に向けられたのが分かった。

 フユキツグミ。
 私達の中では、彼女が唯一の現役トレーナー。
 あの日、彼女が神事で引いたのは、鷽替えの鷽。
 つまりスバメだった。

   *

 ユウサクさんとお別れして、僕らは夕暮れのあぜ道を歩いていた。歩く僕達の影は長く、田に突き刺さった守り岩の影も長く長く引き延ばされている。
「悪いね。図書館にまで付き合って貰っちゃって」
 閉館ぎりぎりの図書館で借りた資料を抱え、僕は言った。
「いいんです。久しぶりに色んな子達と会えて、私も頑張らなくちゃって思えたし」
 スギナさんは言った。
 ユウサクさんはあの後、転機となったエピソードを語ってくれた。
 彼はツグミさんとのバトルに敗れていた。それも一匹に手持ちを全滅させられるというひどい負けを喫していた。
 彼女が繰り出したのはオオスバメだったという。それは神事で引いたスバメが進化した姿だった。ユウサクさんだってオオスバメに有利なポケモンくらい持っていた。けれど負けてしまった。彼いわく、それはポケモンが強いのもあるが、トレーナーとしての力量差なのだと言う。彼が五歩先の戦局を読むとすれば、彼女は十歩先を読んでいる。彼の指示でポケモンが素早く動いても、彼女のポケモンはその倍の速さで動く。だから彼は彼女に勝てないのだという。
 追いつける気がしない。自分には決して届かない高みがある。そう悟ったユウサクさんは帰郷を決意した。引導を渡したのがオオスバメだった点も相当に効いたそうだ。
 オオスバメはこの町、エンビタウンの、燕尾神社の祭神でもある。神事でスバメを引いた彼女が同期の中で一番の活躍を見せているというその事実は、象徴的であり、なんとも神社の縁起らしいと思った。そんな事をぐるぐると考えていると、
「……私ね、ツグミと一緒に旅をしてたんだ」
 唐突にスギナさんは言った。
「え、そうだったの?」
 意外な告白に驚く。スギナさんはあまりトレーナー時代の話をしなかった。けれど今回の事でスイッチが入ったのかもしれない。
「うん。私がバッジ三つになるくらいまでは一緒に旅をしてた」
 スギナさんは神社のある雑木林のほうを見据えて言った。夕食の時間が近かった。赤く染まった空をスバメのシルエットが横切っていく。
「ツグミってさ、昔からしっかりした子だったのよね。あの歳からは考えられないくらい色々できて……あの子のうち、お父さんいなかったから、お母さんを手伝わなきゃいけないのもあったのかもしれない」
 雑木林まで続く長い一本道。そこを大きなヨルノズクの影が進んでいった。さすがに昼間の活動は疲れたに違いない。もしかしたら今夜の監視は免れるかもしれないと期待した。
 ふと、その道の先に一人、誰かが立っているのが目に入った。その人はゆっくりゆっくりとこちらへ向かって歩いてきた。夜が近づいた空の下では初めは誰だか分からなかったけれど、一泊した次の朝に出会ったあの女の人だとかなり近寄ってから気が付いた。
「こんばんは」
 僕はそう挨拶した。彼女はゆっくりと僕のほうを見る。
「………………」
 僕を見た彼女はやはり生気のない顔をしていた。
 だが、あの時とは違い、ぼそぼそと何かを言ったのだった。
「……た、……を、しりませんか」
「え?」
 が、そこまで聞いたところでスギナさんが僕の腕を強く掴んだ。驚いて振り向くと、彼女は首を振った。相手にしてはだめだと言う風だった。
「タエさん、ごめんなさい。ツキミヤさんは外から来た方だから、何も知らないと思います」
 そう言って僕の腕を掴んだまま、早足で歩き出した。ネイティが落ちないようにぎゅっと肩を掴んだのが分かった。雑木林の入り口まで彼女が手を離す事はなかった。
「驚かせてごめんなさい」スギナさんは言った。
「タエさんね、こういう言い方はどうかと思うけど……少しおかしいの。だから」
「……そう」
「私が生まれるちょっと前の話らしいんだけど、息子さんを亡くしてから、その……」
 彼女は申し訳なさそうに言った。
 それで僕は理解した。ぼそぼそとして聞き取り難かったけれど、おそらくあの人はこう言ったのだろうと。
 あなた、むすこを、しりませんか。

   *

 神社の赤い鳥居を潜る頃、私は気を取り直してツグミの話を再開した。
「旅立つ時、私、不安でしょうがなくて。杉を回る事を躊躇ってたの。その時に手を貸してくれたのがツグミだった」
 境内に入った。根元で繋がった二本の杉、通称、夫婦杉が私達を迎える。杉の葉がざわざわと鳴って石畳の影が揺れた。
 鳥替え神事はもう間近に迫っていた。あと数日もすれば、最初のポケモンを手にした子供達が杉を回って町を出発する。かつての私やツグミ、今日会ってきた彼らと同じように。
 この杉には縁起がある。異性と共に三周すれば夫婦になる。同性となら親友になる。そしてそれがポケモンとなら良き相棒になる。
 ツグミは神事でスバメを引いた。そして彼らは最良のパートナーになった。彼女は何匹もポケモンを捕まえていたけれど、最初に進化したのはもちろんスバメだ。後を追うように他のポケモン達が逞しい姿になっていっても、いつも先陣を切っていたのはオオスバメだった。
 けれど、私は。
「私達は一緒に旅をしたの。二人で新しい町を目指した。長い道のりも二人なら楽しかった」
 あの頃は何もかもが新鮮だった。野宿した時は一緒に火を起こし、料理を作った。隣に寝袋を並べて眠った。
 私達はずっと一緒。ずっと一緒に旅を続けていける。それを信じて疑いもしなかった。
「最初に公認バッジを取ったのはもちろん彼女。私はだいぶ苦戦して、ツグミに稽古をつけて貰ったりした。やっと一個目が取れた時は嬉しかった」
 その夜はケーキを買って、宿泊していたセンターの部屋でお祝いした。
「私、全然だめだったのよね。バトルも捕獲もへたくそで。思えばいつもツグミに助けて貰ってた」
 夫婦杉に懺悔するみたいに私は語り続けた。
 ずっと一緒に。それは杉に掛けた願い。その願いは半分叶って、もう半分は叶わなかった。神事のスバメは彼女の良きパートナーになったけれど、私は彼女の親友にはなれなかった。
 日々を追う毎に私達の差は開いていった。私のパートナーであるツクヨミの姿が変わったのは、彼女の連れているポケモンがみんな変わったそのずっと後だった。
「結局、ツグミとの旅は長くは続かなかった。私はついていけなかったの」
「ツグミさんとはいつ」
 ずっと黙っていたツキミヤさんが尋ねた。
「私が三つ目のバッジを取った後。その時にはもうツグミが四つ目を取ってて。それで私、気が付いたの」
「気が付いた?」
「うん。このままじゃだめだって。私が近くにいたら、彼女は彼女のペースで進んでいけなくなる。だから、もう一緒にいるのはやめようって、そう言ったの。私はツグミの足枷になっているって」
 それで私達の旅は終わった。ツグミは一人、先へ進んだ。私も私でしばらくは旅を続けたけれど、エンビに戻るまでにさほど時間はかからなかった。そうしている間にもツグミはどんどん先へ進んでいった。
 私達は杉に願を掛けた。一緒に進んでいけるように。手を繋いで三周した。
 けれど、私は真にその意味を理解していなかった。一回目と二回目じゃ、つく足跡は同じじゃない。三回目はもっと早く回るかもしれない。あるいはじっくりと時間をかけて回るかもしれない。杉の木の周りを回る事。それ一つをとったって不変ではない。
 杉の木を回る。それは旅路そのものだ。相手の歩幅に合わせる事ができなければ一緒には回れない。最初はツグミが合わせてくれた。けれど私は合わせられなかった。彼女の歩幅は一歩一歩が大き過ぎて、その速さについていけなかった。
 故郷に錦を飾る、という言葉がある。私はそういうトレーナーにはなれなかったのだ。
 成果は大して上げられないまま、私はエンビに戻ってきた。父は何も言わなかった。ただ、夜遅くに帰郷したあの日、ずっと私を待っていてくれた。
 その翌日から神社で父の手伝いを始めた。
「君は神社を継ぐの?」
 ツキミヤさんが尋ねた。
「そうしようと思ってる。私、鳥替え神事を続けたい。お父さんが形を変えてでも守ってきたこの行事を受け継いでいきたい」
 今はスクールに復学して、少しずつ進学の準備を始めている。父は神社を継ぐ条件として、神道専攻がある大学の卒業を提示した。手伝いもあるから、行ける時に行って自習するような形だけれど、この町では珍しくない。
 私は思う。今日みんなに会った事で、その意志は強まった、と。
「その……トレーナーとして大成しなかったからとかそういうんじゃなくて……」
「分かってるよ」
 ツキミヤさんは静かに言った。
 空は暗くなっていて、古い記憶を呼び起こした。
 思い出したのは、焚き火の残り火が僅かに燻っている光景だった。まだ旅立って間もない頃だ。慣れない寝袋で寝付きが悪く、寝返りを打った。その時に眩しい光が瞼に染みて、私は目を開けたのだ。見れば焚き火の傍でランプが光っていて、ツグミが本を読んでいた。
「何を読んでるの?」寝ぼけ眼で私が聞くと、
「タイプの相性、覚えたくて」と、彼女は言った。
 読んでいたそれは、引退した先輩トレーナーに貰ったというお古のバトル指南書だった。旅に出たばかりなのに、ツグミはもうそんな事を考えていた。
「だって、知ってたら有利じゃない。私、早く賞金を稼げるようになりたい。早く一人前になりたい」
 そう彼女は続けた。悔しそうに続けた。
 ツグミは昼間、バトルに負けていた。

   *

「スギナー! 遅かったじゃん! 心配したんだよー!」
 スギナさんと母屋に戻って、夕食をとる部屋の障子を開いた時、いやにテンションの高い声が響いた。部屋の奥のほうにいた女性が一人、席を立つ。まるでトレーナーにじゃれつくポケモンみたいにスギナさんに抱きついた。
「おねーちゃん!? いつ帰ってきたの?」
 スギナさんが目をぱちくりさせている。どうやら彼女がスギナさんのお姉さんであるらしい事までは理解した。
「今日の昼よ。それなのにスギナったら男と出掛けてるっていうじゃない」
「いや、それはね、」
「ふーん、アンタがスギナの男? うちの神社に婿で入るの?」
 まるでグラエナがふんふんと見知らぬ人の匂いを嗅ぐようにその人は探りを入れてきた。さすがにお姉さんというだけあって、顔が似ている。これで髪を伸ばして結わいたらそっくりだろう。
「だから違うって!」
 スギナさんが顔を真っ赤にして叫んだ。
 結局、民俗学の取材で来ていると説明するのに少しばかり時間を要した。
「あはは、ごめんごめん。いやだってさー、今まで来たカイナの学生ってみんな地味だったから。ツキミヤ君ってスギナ好みのイケメンじゃん」
 一升瓶を片手にお姉さんは言った。隣の席に座った彼女はほれほれ飲め飲めと、頻繁に勺をしてくる。テーブルを挟んだ向こう、スギナさんが申し訳なさそうにこっちを見ていた。
 スギナさんのお姉さんはトウカシティ近くの町に結婚して住んでいるという。彼女の頃はまだ神事のポケモンがスバメのみだった。なんでも神事で貰ったスバメ――今はオオスバメが、旦那の持っているクロバットに猛烈アタックを仕掛けたらしい。それで知り合って結婚したそうだ。今日どこかで似たような話を聞いたような気がするけれど、とりあえず置いておく。
「いっやー、トレーナーのほうはマニアっていうの? 部屋でポケモンのイラスト描いてるような奴でさ、あんまり好みじゃなかったんだけど、付き合ってみると結構いい奴でね」
 なぜか僕の肩をぽんぽん叩きながらお姉さんは言う。
「ほら、クロバットって懐かないと進化しないって言うじゃない。こう、愛情深いっていうか優しいんだよね。しかも料理がすっごい上手でさ。それで結婚しちゃった訳! アハハッ」
 そう言いながら今度はネイティをむんずと掴んで、くしゃくしゃと撫で回し始めた。緑の毛玉は顔を歪め、嫌そうにしていたが、お姉さんは離してくれない。
 彼女が言うにはスギナさんには他にも二人、お姉さんがいるらしい。ただ皆、結婚してエンビにはいないそうだ。皆旅立った先で好きな人ができた。それでお嫁に行ってしまったらしい。
「妹達も話を聞くとみんな似たり寄ったりでさ、旦那のポケモンにオオスバメが惚れちゃったとか、旦那のポケモンが押しかけ女房をしてきたとか、そんなのばっかりな訳よ」
 なんていうか血は争えないわよねー、とお姉さんは言ってお酒を飲み干した。なんだか飲み方が神主さんに似ている。やはり親子という事か。彼女は一番上らしい。お子さんがトレーナーの旅に出て、今年は余裕があるので神事に合わせて里帰りしたのだという。
「手伝ってあげようかなーと思ってね。たまには親孝行してあげなくちゃ」
 舌を見せて彼女は言った。そしてちらりと神主さんを見ると、教えてくれた。
「いっやー、特に三人目のチドリの時はひどかったわね。酔って電話掛けてきたと思ったらさ、また鷽が娘を連れていったとか言って、電話越しで泣き出しちゃってもう大変! だからね、残ったスギナの事、かわいくて仕方ないのよ」
「一番かわいい末の子、ですか」
 伝承の一節を引き合いに出して僕は言った。
「そうそう、それそれ! さすがイケメン、よく勉強してるわねー」
 お姉さんはやっとネイティから手を離すとくしゃくしゃと僕の頭を撫でた。もみくちゃにされた緑玉は不機嫌そうな面持ちでテーブルに戻り、タラの芽をついばんだ。
 久しぶりにお姉さんが戻ったというだけあって、部屋は僕が来た時以上の賑やかさだった。注がれる酒、聞きつけてやってくるお姉さんの友人達、持ち寄りで追加される料理。神主さんも上機嫌だ。
「おー、そうだサツキ、せっかくだから、あれやってよ。あれ」
 どこからか声が上がった。
「えー、やるのぉ? スギナでいいじゃん」
「だってサツキちゃんが一番うまいし」
「もお、しょうがないなー」
 障子が開いた。どこからか出してきたのか、手から手へ三味線が運ばれてきて、お姉さんの手に渡る。
「オホン、ではリクエストにお応えして……」
 顔を赤くしたお姉さんは三味線を構えると撥(ばち)を動かし歌い出した。
 それはエンビタウンの伝承を歌にしたものだった。

 燕尾の空舞う 二ツ尾は 赤の頭に藍の羽
 燕を返す 二ツ尾は 稲をくわえて舞い降りた
 田植えだ 田植えだ 水を引け
 稲を育てにゃ 実はつかぬ
 十の子 末の子 すきっ腹 満たせにゃ 母とは呼べはせぬ
 一番かわいい末の子の お腹を満たせにゃ 母にはあらず

 バツンバツンと撥が弦を叩く。図書館で見つけた本で歌詞だけは見ていたけれど、やはり伴奏とメロディがつくと味わい深い。よく通る歌声が歴史ある町の闇夜に吸い込まれていく。

   *

 お姉ちゃんの騒がしい帰郷から一日を挟んで、鳥替え神事は行われた。
 天気は晴れ。あの時と同じようにからっと空は晴れていた。
「替えましょ。替えましょ」
 夫婦杉の下、境内に子供達の声が響いている。今年旅立つ子供達、彼らは赤と白に二分されたモンスターボールを回していく。氏子さんに、それにお姉ちゃんも加わって神楽を演奏した。ツキミヤさんは懸命にメモを取ったり、写真を撮影したりしていた。神楽が鳴り止んで、子供達の手に残るのは一つのボール。すると、拝殿前に彼らは集められ、父が出てきて祝詞を奏上する。
 子供達は早く中身を見たくてそわそわとしていた。懐かしいなぁ。私達もこんな感じだった。そんな事を思い出して思わず笑みが零れた。あの頃は父の奏上が長く感じられたものだ。
 奏上が終わる。子供達はわっと駆け出して、拝殿と夫婦杉のある広場を結ぶ緩やかな階段を駆け下りた。
 モンスターボールから鳥ポケモン達が放たれる。最初に放たれたのはカントー地方を代表する鳥ポケモン、ポッポだった。ついでムックル、ドードー、マメパトが放たれる。私の世話してきたポケモン達をどの子が持つか、それが次々に明らかにされていく。そして、
「ショウタのも見せろよ」
 声が上がって男の子が一人、ボールを投げた。中身はスバメだった。
 今年の鷽はショウタ君か。そんな事を思っていると
「なあんだ、スバメかぁ」
 という台詞が耳に入る。まぁ予想はしていたのだけれど。
「こら! なんだはないでしょ!」
 私は言った。そして昔は鳥替えるポケモンがスバメばかりだった事を説明した。
「伝統から言えばスバメこそが正統なんです。行事的にはスバメこそが当たりなんですよ」
 と、力説した。何もこじつけて言っている訳ではない。お姉ちゃん達は鷽に導かれて幸せな結婚をしているし、私達の代にスバメを引いたツグミは唯一の現役だ。一番かわいい末の子――この小さなスバメとショウタ君だってきっと二ツ尾命に愛されるに違いない。
 けど子供達は私の話など聞いちゃいなかった。最後の子が繰り出したワシボンを見て、キャッキャと無邪気にはしゃいでいる。
「なあ、バトルしようぜ」
「俺も、俺も」
 早速そんな事を言い合っていた。
「いいですか。三日後は出発の儀がありますからね。十時には集合するように!」
 私はビシっと言ったけれど、誰も聞いちゃいない。みんな自分の相棒やら他の子が引いたポケモンは何やらに夢中だ。唯一、ショウタ君だけがしょんぼりとしている。
 スバメ、悪くないと思うけどな。ホウエンの気候に合っているし、人間の活動時間にもあっているし、よく懐くし、身体も丈夫だし、根性あるし。ツグミと旅をしていたから、その良さはよく知っている。彼女はとても負けず嫌いだったから、その性質にもよく合っていた。
 何より鷽、神事的には当たりなんだけどなぁ。やっぱ子供には分からないか。
 私は溜息をついた。
 鷽替えが鳥替えになってから変わった事と言えば、やっぱり子供達の一喜一憂なのだろう。

   *

 祭りの後。そんな寂寥感が境内を支配していた。スギナさんやお姉さん達は片付けがあると言って、祭壇を持って引っ込んでいき、神主さんは見に来た子供達の保護者を見送りに行っている。しばし僕とネイティが境内に取り残された形になった。
「あ、そうだ。電話」
 野暮用を思い出し、ポケットから携帯を取り出すと研究室にかける。進捗などいちいち報告しなくてもいいだろうが、初回という事もある。それに今回は頼みたい事があった。
 ちょうど空いている時間帯だったのだろう。オリベ教授はすぐに出た。
「あ、もしもし。教授ですか。ツキミヤです。はい、今しがた神事が終わりました」
 僕は簡易な報告をした。
「そうですね。とりあえず出発の儀まではお世話になろうかと思っています。少し調べたい事もありますし」
 夫婦杉を見上げながらそんなやりとりを交わす。一年前はこういう立場になるとは想像もしていなかった。
 研究者であり続ける。そのために僕は専攻を変えた。変えざるを得なかった。
「ところで教授、それに絡んでちょっとお願いがあるのですが」
 僕は本題を切り出し、内容を説明する。しばしの間があった。教授は渋っているようだった。
「え? 僕ですか。だめですよ。現地調査で忙しいです。現地にいる時は現地の事を記録すべきじゃありませんか? それに、」
 あれこれと屁理屈を並べ立てた。しかし、実際に例の事を調べるなら、教授の環境のほうが都合が良いのも確かだった。それで最終的には教授が折れた。学生に投げるつもりかもしれないが、僕としてはどちらでもいい。
「ありがとうございます。そう言ってくれると思いました。ではよろしくお願いします」
 了承をとりつけると、早々に電話を切った。
 ほどなくして、神主さんが戻ってきた。鳥居を潜って境内に戻ってきた彼は、なんだか気疲れしているように見受けられた。
「今年もお疲れ様でした。貴重な記録を録らせていただきました」
 そう僕が挨拶すると、
「いやぁ、ツキミヤ君こそお疲れ様。しっかしあれだね、やっぱ親御さんの前は気を遣うね」
 と、言って苦笑いした。そして、
「なんだかショウタ君、しょんぼりしてたなぁ。大丈夫かな」
 そう神主さんは付け加えた。
「大丈夫ですよ。ポケモンと仲良くなれば、自分のポケモンが一番みたいな感じになりますよ」
 僕は答える。
「そうだといいんだけど。ただ、昔のほうが平等ではあったよねえ」
 思い出すように夫婦杉を見上げて神主さんは言った。
「けど、今はポケモンセンターで選べますからね」
「そうなんだよね。もうスバメだけじゃ、子供達も親御さんも説得できなくてさ……。ただ今のやり方でいいのかどうか。まあ、町の人達はみんな鳥ポケモン大好きだから、それでなんとかなってる感じかな」
 伝統行事、鷽替え。それを鳥替えに変えたのは、他ならぬこの神主さんだ。けれど、葛藤があるのだろう。
 この人のお父さんも、おじいさんも、曾おじいさんも、ずっと鷽だけで神事を回してきて、この人の代でその流れは断絶した。いや、鷽そのものが消えた訳ではないから、断絶は言い過ぎかもしれない。だがとにかく、神事の中身は変わったのだ。
「なあツキミヤ君、君はどう思うかな。時代が変わってきたとはいえ、ちゃんと形を守るべきだったんじゃないかと今も時々悩むんだ」
「それは……」
「たまに夢に見るんだよ。夢に親父と祖父が出てきてね、他のポケモンを混ぜるなんて何事かって説教されるんだ」
「…………」
 沈黙が支配した。僕もまた杉を見上げた。木漏れ日が眩しかった。
 そうしてしばし、思案すると、
「変わらずにいるために、変わっていかなければならない時もあります」
 と、言った。
「スギナさんと彼女の同期の皆さんに会ってきました。みんな神事で引いたポケモンと楽しそうにやっていましたよ。生まれたポケモンの子を神事にって言っている人もいました。大丈夫ですよ」
 そこまで言うと、
「そうだよね。もう彼らには二世までできてるんだよね」
 と、神主さんは少し安心したように答えた。そして、
「本当はスギナに鷽を引いて欲しかったんだ」と、言った。
「ただ、今となっては彼女で……ツクヨミでよかったと思ってるんだよ。おかしな事があればすぐ報せてくれるし、何だかんだでスギナを心配してくれるからね」
「……そうですね」
 僕は返事をした。まったくだ、という同意をもって。彼女は頭が良く、何より根気がある。一昨日の夜にも、昼間散々出歩いたのについてきたし、昨晩、離れで図書館の資料をずっと調べていた時も縁側に居座って鋭い眼を光らせていた。あれには参った。
 そんな事を思い返していると、
「ツキミヤ君、見せたいものがあるんだ」
 と、神主さんが言った。
 そうして案内されたのは神社の本殿だった。いつも神饌を持っていっている場所であり、この神社の神様、二ツ尾命の住まいでもある。神主さんは鏡を置いてある祭壇の引き出しを開けると、中から木箱を取り出した。
「これは?」
「種籾だよ」
 そう言って、ぱかりと箱を開く。中には和紙に包まれた稲の種籾が入っていた。
「ずっと伝わってきたものでね。少なくとも、曾おじいさんの三代くらい前からずっとここに保管してあると記録にある」
「記録上、という事は下手をするともっと……」
「そう。さすがに稲作が始まった当初まで遡れるとは思ってないけど、ちょっとロマンだよね。どこだかの遺跡で出たエンドウみたいにさ」
「ああ、それはロマンですね」
 僕が答えると、ちゃんと芽吹くかどうかはやってみないとなんともだけどね、と神主さんは付け加えた。
「あの子が神社を継ぐ時になったら、やってみようと思うんだ。尤も本当に継ぐ気があれば、だけれど」
 自信がなさそうに神主さんは続ける。
 あの子はトレーナーとしてはあまり結果を残せずに帰ってきてしまった。私はその事に対して何も言わなかったし、スギナも黙って手伝ってくれた、と。連れがいなくなってからは、ずっと家事もして貰っていたとも付け加えた。
「何か利用してしまったみたいで心苦しくてね」
 僕は黙って話を聞いた。けれど、もう言う事は決まっていた。
「大丈夫です」
 そう一置きして僕は言った。
「スギナさん、神社を継ぎたいって言っていました。神主さんが形を変えてでも守ってきた行事をこれからも続けたい、鳥替えを継ぎたいって」
 すると神主さんは少し驚いたような顔で僕を見上げ、そしてまた目線を箱に戻した。
「そうかい、そうかい。それならよかった。それなら……」
 神主さんは頷いた。何度も何度も頷いた。木箱を持つ手が少し震えていた。

   *

 盤目カレンダーの数字に大きな丸が描かれている。今日という日はその隣の欄で、神事の日はもう昨日になっていた。今日からの三日間、出発の儀までの間、子供達はそれぞれのパートナーに慣れるため、共に過ごす事になっている。男の子達はバトルに興じ、女の子達は鳥達を撫で回しながらニックネームをどうしようか悩むのだ。父の朝の奏上を聴きながら、私はそんな事を思い出していた。
 ポケモン名付け辞典、おおよそそんな名前だったと記憶している。あの時、町の図書館で私が開いたのは旅立ちの歳の女の子が読むには不相応な分厚さの本で、ポケモンのタイプや種類に応じて、お勧めのニックネームが列挙されていた。神事で引いたのはホーホーだったから、鳥ポケモンの欄とホーホーの欄を何度も往復した。どうもしっくり来なかった。それで全体をぱらぱらと見ていたら、夜行性のポケモンというページに行き着いた。
 月読(つくよみ)。そんな単語が目に留まったのはその項目での事だった。どこかの地方の旧い神話に出てくる夜を治める神様の名前だった。
 父の奏上が続いていた。本殿の部屋の隅には相変わらずツキミヤさんの姿がある。その眼差しはまっすぐ父へと向けられている。私は回想を続ける。
 ツクヨミ。神事で引いた相棒の名をそう決めて私は図書館の外に出る。外では男の子達が集まってポケモンバトルに興じていた。いいぞ。行け。そんな声が聞こえてきて、ひゅんひゅんと鳥の影が交差していた。ドードーを連れたケンスケ君、ヤミカラスを肩に乗せたジュン君の姿もある。彼らは声を上げながら前屈みになって、落ち着きのない様子で声援を送っている。
 風切羽が空を切る。彼らの視線が追いかけていたのはスバメだった。
「スバメッ! 翼で打つ!」
 晴れた空に澄んだ声が響いた。瞬間、スパンッという小気味よい音が響き、鳥影が一つ、地に落ちた。ユウサク君のムックルだった。
「あー! くっそ! またやられた!」男の子達が叫んだ。
「なんだよー。またツグミの勝ちかー」
 ユウサク君が悔しそうに叫ぶ。
「おつかれさま! よく頑張ったね」
 唯一男の子達の集団に混じっていたツグミはそう言ってスバメを褒めた。スバメは空中で大きく輪を描いた後、ツグミの腕に舞い戻る。満足げに胸を張るスバメ。その赤い頭を彼女は撫でる。
「あ、スギナちゃん」
 私に気が付いてツグミが言った。
 図書館行ってたの? と、近づいてくる。私は頷いた。
「名前、決まった?」
「うん……ツクヨミって言うの」
「素敵!」
 私が答えるとツグミは声を上げた。
「私も考えているんだけど、なかなかいいのが思いつかなくって……」
 腕のスバメを見下ろして彼女は言う。
「そうだスギナちゃん、この子にもいい名前考えてくれないかな?」
 突然にツグミは言った。
 意外なお願いをされ、私は驚く。彼女はとてもしっかり者で、頼るような事をしない子だったから。でも、一方で頼られたのが嬉しくもあった。
「うん、いいよ!」
 私は笑顔になってそう答えた。
 それで旅立ち前の三日間、私はろくにバトルをしなかった。自分のポケモンの名前に一日、ツグミのスバメの名前を考えるのに残りの二日間を費やした。何度か図書館にツグミをはじめ男の子達、それにチエちゃんやミサトちゃんまでもがバトルの誘いに来たけれど、忙しいからと断ってしまった。ニックネームを考える。それは友達と約束した任務であったのと同時に、ひきこもりの口実だった。
 けれど、バトルからは逃げられても期日からは逃げられない。私はいざ出発となると準備不足が怖くなってしまい、踏み出せなくなってしまった。夫婦杉を前にして立ち尽くしてしまったのだ。散々逃げ回っておきながら、バトルもしてないのに旅立てないと怖くなってしまった。今考えても情けない話だ。
 ふと気がつくと、父が締めの言葉を捧げ、幣を振り、朝の儀式を終わらせたところだった。

   *

 気配という風に人は言う。存在を感じる、察知するという事だが、そういう事に関して僕は人一倍敏感だ。いや、僕が敏感と言うにはやや語弊がある。正確には僕に憑いている彼らがそれを察知し、それが僕に伝わるという事だ。カゲボウズ達は目配せして報せてくる事もあるし、鬼火を飛ばして来る事もある。また影がざわつくから自然と分かる事もある。今回はざわつきで何となく分かった。彼が鳥居という異界の入り口を潜って、神域という結界の中に入ってきた時に何となくそれと分かったのだ。ここに来て幾日か経つから、馴染んできたのかもしれない。まるで、ここをテリトリーにしているお目付け役みたいじゃないかと僕は笑った。
「こんにちは」
 夫婦杉の下、僕がそう言うと、入ってきた男の子は少し驚いた顔をした。神木の裏側には誰もいないと思っていたのか、あるいはここに立っているのが僕である事が意外だったのか。
「僕はツキミヤ。ツキミヤコウスケ」
 そうして僕は続けて名乗った。上でも下でも好きなように呼んでくれたらいい、と。
 男の子は名乗らなかった。けれど僕は彼の名を知っていた。確か名前はショウタ君だ。右手を見ればモンスターボールが握られている。中にいる相棒は出していなかった。
 少し話そうか、と僕は言った。まだ緊張しているのか、今年の鷽を引いた少年は多くを語らなかった。だから僕自身の事を話した。院生である事、この町にはフィールドワークでやって来て、鳥替え神事を取材しに来た事を。すると彼は二、三質問をしてきたから、僕はそれに一つずつ答えを返した。ネイティは退屈なのか肩から飛び降りる。しばらく境内をちょこまか動き回って、そして時折戻ってきた。
 そのうちに僕ら二人は石段に座り、夫婦杉を見上げながら話すようになった。その時になってようやく僕は名前を尋ねる事になり、ようやく彼はショウタと名乗った。
「くじ引きの結果が平凡なポケモンでは不満かい?」
 僕がそう問うと、少年はぎくりとして固まった。
「なんで……」
「君の浮かない顔を見ていれば分かるさ」
 僕は答えた。

   *

「え、ショウタ君に会った?」
 ツキミヤさんから意外な人物の名前が出て、驚いた。
 午前中はスクールに行っていて、神社にはいなかった。でもそれで姿が見えなかった事に合点がいった。というのもスクールに行く道で神事に参加した何人かの男の子達を見かけたけれど、その中に彼の姿はなかったのだ。どこで何をしているのかと思えば神社の周辺をうろついていたのか。同時に少し心配になった。
「ショウタ君たらまだ落ち込んでるのかしら……」
 そう言うとツキミヤさんが
「うん、落ち込んでるみたいだね」
 なんて言ったものだからますます心配になってしまった。
「ショウタ君、スバメを出してなかったから」
「大丈夫かしら……」
「明日また会う約束をしたんだ。その時には出しておくように言っておいたから」
 さらりとツキミヤさんが言った。けど、私はなんだか申し訳なくなった。
「ごめんなさい。こういうのって本来は……」
 と、言いかける。するとツキミヤさんは気にしないで、と前置きして
「これも取材の一環みたいなものだよ。昔の代と今の代に話を聞けるんだもの」
 と、言った。お陰でいいレポートが書けると思うよ、とも付け加えた。
 私達は細い田の道を歩いていく。空は晴れ、水田には若い緑の苗と守り岩が映り込んでいた。時折、二又尾のスバメの影が横切った。
 水田、守り岩、そしてスバメ。これこそがエンビタウンの風景だ。
 私にとってこの風景は当たり前過ぎた。だから旅立つ前はどこの町でもこうなのかと思っていた。どこの町でも水田に守り岩があって豊作祈願をしているのだと。もちろん、旅立ってそれは大きな間違いだと知る事になったのだが。
「ツグミちゃん、この町の田んぼには守り岩が無いんだね」
「ね、びっくり」 
 そんな会話を旅先でした事を覚えている。岩の無い田んぼ、それは私にとっては不足のある、ひどく違和感のあるものだった。けれどそのうちに慣れてきて、いつのまにかそんな話題も出なくなった。ツグミが二匹目のポケモンを手にしたのはそんな頃だった。
 また大きな岩の一つに近づいた。スバメがすっと飛んできてとまり、足で頭の後ろを掻いた。
「ショウタ君はまだスバメの事を知らないだけさ」
 ツキミヤさんは続ける。
「知らないから価値が解らないだけ。知れば別の風景が見えてくる。それがいつになるかは分からないけどね」
 そうして彼はふと足を止めた。ちょうど守り岩の真横に来た時に。すると、さっきまで頭を掻き、羽繕いをしていたスバメがぱっと飛び立った。ツキミヤさんは何か考え込むように、守り岩を見つめている。こういう時は民俗学の学生らしい。
「ねえ、スギナさん」
 しばらくしてぼそりと彼は言った。少し嫌な予感がした。
「岩流しって行事を知らない?」
 そのキーワードにぎくりとした。単刀直入。思った以上にストレートに彼は聞いてきた。
「鳥替えとはちょうど逆の季節、収穫の頃にあるって聞いた。豊作に感謝する儀式だって」
「……ええ」
 少し汗が出た。私も父にそのように聞かされているし、実際に毎年立ち会っている。別になんて事のない儀式だ。供物を並べ、大守り岩にこびりついた苔を削ぎ落として、注連縄を新しくする。神様の名を呼んで祝詞を捧げる。それだけの儀式なのだ。鳥替え神事の時になると民俗学の学生や雑誌の取材が来るけれど、こっちは見向きもされない。けれど、
「神主さん、何か隠してるよね?」
 突き刺した短刀をえぐり込ませるようにツキミヤさんは言った。
 私は黙り込んでしまった。
 図星だった。どういう訳か父は岩流し神事を鳥替え神事以上に慎重に扱っている。ただそれは、親御さん達に気を遣う類のものとは別種の緊張を伴って、だ。
 私は父を割合現代的な人間だと思っている。必要あれば鷽替えを鳥替えに変える。そういう柔軟さを持っている人だと。ところがその父が頑なに形式や儀式の手順に拘る、それが岩流し神事なのだ。父は儀式の一週間も前になると明らかに表情が険しくなる。何度も何度も手順を確認し、使う品々を吟味する。
 ただ、詳しい事は私も知らない。神社を正式に継ぐ時になったら話す事になるだろう。そう父は言っていた。それまでは触れない、近づかせない、話題にしない。それが父の方針だった。
「……ごめん。父が何を隠しているのか、私も詳しく知らないの」
 もうこの人には何を隠しても無駄な気がして、正直にそう言った。
「正式に神社を継ぐ時には話すって言ってた。けれど今は知らない」
「……そうなんだ。ならもう一つ聞いてもいいかな?」
「何?」
 心臓がばくばくと鳴っている。
「この町に守り岩はたくさんある。なら、岩流し神事が行われるのはどの守り岩?」
「それは……」
 私はまた押し黙った。外から来た人にその場所を教える事は父から固く禁じられていた。
「それは一つだけ?」
 ツキミヤさんが尋ねた。
「岩は一つだけなのか、一番大きい岩なのか、あるいは町の中心がそうなのか……」
 ゆっくりと私の反応を確かめるようにして、ツキミヤさんは聞いた。短刀を抜いては刺し、抜いては刺す。手ごたえがないと隣を、またその隣を刺す。
 初めて彼を怖いと思った。彼は外の人間なのだと今更に思い知った。彼は侵入者なのだ。エンビという町に、燕尾神社の神域に、鳥居の外から入ってきた侵入者なのだ。
「それに……」
 含みを持たせて彼は言った。「それに?」と、一瞬返しそうになってしまったけど引きずられてはいけないと思った。
「不可解な点は他にもあるんだ」
 不可解な点?
「この行事はそう古いものじゃない。現に教授の昔のレポートには一言も出てこなかった。僕は教授がそれを見逃すとは思えないんだ。そして、初めて名前を目にしたのが教授の研究室から学生が行くようになってから。そして、町の出版物に名前が出る」
 本当にちょっとだけだけどね、と彼は言った。僕の知る限りそれが一番古い記録だと。
「これは図書館で調べた。だいたい二十年前くらいかな」
 知らなかった。とすると私が生まれたちょっと前くらいか。仮に記録の出現と行事の起こりがほぼ同時期とすればそういう事になる。友達への取材の間、この人はこんな事まで調べていたのか。にわかに興味という誘惑が芽を出したのが分かった。
 けれど、
「ごめん、教えられない。教えられないの」
 思い直し、門を閉ざすように、口を閉ざした。だめだ。やっぱり引きずられてはいけない。手を取ってしまったら行ってはいけない領域に引きずりこまれる。そんな気がした。
「……そう。それならしょうがないね」
 ちょっと溜息をついてツキミヤさんが言った。
「民俗学的にとても興味があったんだけど、部外者である以上無理強いはできないからね」
 瞬間、何か呪縛が解けたみたいに、緊張していた空気が氷解した。
「悪かったね。行こうか」
 くるりと向き直って、彼はあぜ道を歩き出した。
 友達への家の道すがら、何度も何度も岩の近くを通ったけれど、彼はもう何も言わなかった。

   *

 スギナさんと訪ねたのは、リエさんという女性の家だった。彼女が神事で引いたのはキャモメだった。今はぺリッパーになって、彼女と一緒に町の郵便局に勤めているそうだ。
「懐かしいねー。もうそんなに経っちゃったんだ」
 ここでも縁側でお茶とお菓子が出された。ミサトさんのところでも思ったけれど、女の子の家に行くとだいたいこんな感じだ。あれこれと思い出して女の子同士が盛り上がる。僕は聞きたい事を早めに済ますと、後は彼女達の流れに任せておいた。
 ぺリッパーは今、当番でいないらしい。彼女とはシフトが違うらしく、別の郵便局員とも組む事があるのだそうだ。当然に組める人、組めない人との相性はあるそうなのだが、意外と応用が利く事に純粋に驚いた。が、よく考えてみればスギナさんとツクヨミも似たようなものだった。一蓮托生だったポケモントレーナー時代とは違い、彼らは常に寄り添っている必要がなくなった。主人にくっつく事が絶対ではなくなってきているのだ。主人には主人の、ポケモンにはポケモンの人付き合いがそれぞれにある。
「ウミちゃんが最近太ったなーって思ったらユウサク君ちのお母さんがおやつあげていて」
「ああ、この前カワナさんちの縁側でお茶してたの見たよ」
「なんか人気なのよねー。わざわざウミちゃん指名で荷物取りに来てっていう人もいるし。人間にはない営業力よね。その代わりあんまり難しい事は指示できないけど」
 彼女達の話題はやがて少しずつ他へシフトしていく。ご近所の話題になり、また神事に戻ったりした。
「今年のスバメはショウタ君が引いたんだって?」
「そう。でもショウタ君はなんか不満そうで」
「仕方ないって。男の子ってそういうのあるよ」
「でも心配で」
「時間が経てばなんとかなるって」
 お茶のお代わりが運ばれ、お茶請けが追加された。ネイティちゃんにと、リエさんは手製のポロックをくれた。あまり好みの味ではなかったらしく、少ししかついばまなかったが。
 そんな折、キキッと家の前に自転車が停まり、僕達はそちらを向いた。
「あ、ユウサク君」
 スギナさんが声をかけると、ユウサクさんが「よお」と手を上げた。自転車の荷台にはリーゼント頭の同伴――ムクホークがとまっていた。
「どうしたの?」
 リエさんが尋ねる。
「さっき俺の家にお前のとこのぺリッパーが来て、葉書置いてった」
「葉書?」
「おう。誰だと思う?」
 ぴらりと葉書を取り出して彼は言った。自転車を停め、こちらへ歩いてくる。ムクホークもぴょこぴょこついてきた。少しだけ僕のほうを見て、そして目を逸らした。
「ツグミからだ。今度こっちに帰ってくるってさ」
 と、ユウサクさんは続けた。
「えっ?」
「ツグミが……?」
 彼らの間に驚きが波紋のように広がった。スギナさんは葉書を受け取ると食い入るように読み始める。葉書にはルネシティの全景写真がプリントされていた。
 海と絶壁に囲まれた町、ルネシティ。ホウエンの数ある町の中でも特に多くの伝説が残る町だ。いつか僕も訪問する事になるだろう。
「あいつ、やったぞ。やりやがった」
 そんな僕の思考を遮って、ユウサクさんが言った。
「やった?」
 リエさんが返す。
「あいつ、バッジの八つ目取ったって。だから今年の夏はポケモンリーグ出るって」
「リーグ!? すごいじゃない!」
「ああ、いつかはそうなると思っていたが……」
 確信していたという風にユウサクさんは続けた。
「だからその前に一回帰るって。挨拶したいからって」
「何年ぶりかしら」
 リエさんが二人に尋ねる。けれど、スギナさんは葉書を見つめたまま何も言わなかった。
「俺も最近まで出てたからなぁ。どうなんだ?」
「もしかすると初めてじゃない? 私は帰郷早いほうだけど一回も会った事ないよ?」
 思い出すようにリエさんは続ける。
「え、あいつ一度も帰ってないのかよ!」
「少なくとも年末年始はいなかったね」
 ユウサクさんが叫び、リエさんが補完するように答えた。
「だってさー、初詣になれば神社で会う事あるじゃない。実際、ユウサク君とは何度か顔合わせたじゃん? でも、ツグミちゃんには会った事ないよ」
 二人は確信を深めていく。一方で僕の視線はスギナさんに注がれていた。彼女は押し黙り、葉書を見つめたまま、何か考え込んでいる風だった。
「ねえスギナ、実際どうなの?」
「おまえんちにツグミが来た事はあったのか?」
 二人が尋ねる。だがスギナさんは葉書を見つめたまま固まっている。
「スギナ?」
「聞いてるのか?」
「えっ……?」
 ようやくスギナさんは葉書から目を離し、呆けた返事をする。
「だから、お前んちにツグミが来た事はあったのか?」
「年末年始とか戻ってきてた?」
「ううん……戻ってない」
 スギナさんは少し躊躇い気味に答える。
「……神社宛に、年賀状は届いてた。けど……来た事は、ない」
 途切れ途切れに彼女は言った。目線は宙を泳ぎ、また葉書に戻ってしまった。
 僕はそっと葉書の文面を覗く。そこにはおおよその日付が書いてあった。予定通りに戻れば今年の子供達が出発する日が彼女の帰郷日になるらしい。
 その後もリエさんとユウサクさんは色々と言葉を交わしていた。が、スギナさんがそれを聞いている様子はなかった。彼女の心はここになかったし、明らかに様子がおかしかった。
 ふと、背中に感触が走った。ネイティが背中から肩によじ登ってきたそれだった。定位置についた緑の鳥は「ほれ、あっちを見ろ」と言うように目配せし、ある方角をじっと見つめた。
 視線の先を見る。田んぼの中に小さな雑木林があった。
「……ああ彼女、今日も来てたのかい」
 ネイティが尾羽を振る。
「律儀な子だ」
 雑木林のほうを見つめ、僕は言った。

   *

 ドクンと何かが脈を打った。
 例えばそれは、種が水を吸い、芽を出すように、だと私は思う。雨季を察知して砂漠で眠る種が目を覚ますように。気温がある地点まで達する事で開く花があるように。
 ただし、これはものの例えだ。それらがいい事とは限らない。
 芽を出したそれは田畑を蝕む毒草の双葉かもしれない。咲いた花が実をつけても、口にできぬ毒林檎かもしれない。
 響いたのは声。彼女の澄んだ声だった。
「スピカ!」
 よく通る声が高く響き渡った。ツグミが相棒の名を呼ぶ声だった。
 スバメの名前はスピカになった。私の考えた名前だ。ツクヨミが月を司る名前だったから、スバメは星の名前にしようと思った。春の夜空には乙女座が昇る。乙女座の中でも一際大きく青白く輝く一等星、それがスピカだ。幸いにもツグミはそのニックネームをとても気に入ってくれた。
「つばめ返し!」
 私のつけたニックネーム、そして技。ツグミのその二言は魔法の言葉だと私は思う。彼女がその呪文を唱えると彼女の意図通りにスバメは飛び、流星になる。バシッと技が決まって、相手のポケモンが倒れる。その技のキレは何度見ても惚れ惚れとする。
 対する私とヨミちゃんはなかなか息が合わない。ヨミちゃんの反応がワンテンポ遅れたり、うまく技を出したとしても見当違いの方向だったりする。名前、技名。たった二つの事なのに出す人間、受け取るポケモンでそれはまったく違うものになる。
 タイミングがあるのだとツグミは言う。適切に指示を受け取れるタイミングがあると。それはポケモンの種類やトレーナーで違うらしい。何となく言いたい事は分かるけど、私にはそのタイミングがさっぱり分からない。
 旅を初めて一ヶ月になる。けれど、私の少ない対戦履歴には黒星が多く、白い星は数えるほどしかない。だいたいはヨミちゃんが有利な相手の時だ。相手が虫や草のポケモンの時、一回だけゴーストがあった。相手方のポケモンがヨマワルで、消えたり出たりを繰り返して翻弄しようとしてきたのだ。でも、その動きはホーホーのヨミちゃんには丸見えだったらしい。ヨミちゃんは小さな翼をばたつかせながら、私には見えないヨマワルを追いかけまわし、つつき回して勝利した。
「すっごーい。スピカにはできない芸当だわ」
 ツグミはそう言って感心したけれど、それは私の台詞だった。ツグミにはできて、私にはできない芸当、そんなものは山ほどあったし、旅をしていくその先も見せ付けられる事になった。
 既に彼女には新しい手持ちがいた。けど、私の捕獲数は未だゼロだった。
「大丈夫、焦る事ないって」
 ツグミは言う。
「あのね、センターのお姉さんにいい捕獲ポイントを教えて貰ったの。明日行ってみようよ」
 ツグミが手を取って引っ張った。
 こうと決めたら突き進んでいくのが彼女のやり方だった。
 ツグミが行き先を決め、私がついていく。あの頃の私は、この先もこんな日々が続くと思って疑いもしなかった。

   *

 神社への帰りの道、スギナさんはいつになく饒舌だった。ツグミさん帰郷の報、それを受けて押し黙っていた彼女は、まるでその空白を埋めるように、一生懸命にエンビタウンの話や友人達の思い出話をした。けれど、明らかに上滑り、空回っていた。
「それでね、ユウサク君がね……」
 懸命に何かを隠すような必死さ、不自然さがそこにはあった。
 僕は気付いていない振りをして、いつも通りの返事を返し続けた。
 そうして神社のある雑木林に続く一本道に差し掛かった時、子連れの男性が歩いてくるのが見えた。一緒の男の子はまだ小さかった。手を繋いで彼らはこちらに歩いてくる。
「あ、スギナさん、これはどうも」
 お互いの顔が分かる位置まで近づいた時、男性は親しげに挨拶をした。さすがに最初のポケモンを配る神社の巫女さんは顔が利く。きっとこの男性もスギナさんのお父さんからポケモンを受け取ったクチに違いない。将来的には連れの子を神事に参加させる事になるのだろう。
「あ、こんばんは」
 半分ほど赤くなった空を背に彼女は返す。先ほどより少しだけ落ち着きが見て取れた。
「神事のほうは今年も無事に終わったようですね」
「ええ、お陰様で……」
 男性が言い、スギナさんが答える。
 後は出発だけです。今年の鷽は……そんなやりとりが二、三往復した。男性の手を握った男の子が影からチラチラと僕を見た。そして目が合うと引っ込んだ。何度かそれを繰り返した。
「ところで母を見かけませんでしたか」
 男性が尋ねた。
「タエさんですか? 今日はお見かけしませんでしたけど」
 スギナさんが答える。おや、と僕は思った。その名前に聞き覚えがあった。
「そうですか。昼頃から姿が見えないので、どうしたものかと思って」
「あら、またいなくなったんです?」
 あくまでいつもの事といった感じでスギナさんは尋ねる。
「ええまあ。夜には戻ると思いますけど……」
 いつもの事だけれど、一応はね。そんなニュアンスで男性は続ける。やがてまた二、三の世間話を交わすと、男性は男の子を抱きかかえ、では、と会釈して去っていった。男の子が身を乗り出して手を振る。スギナさんがそれに応えて手を振った。
「今の、タエさんの?」
 手を振り終わった頃に僕は尋ねる。
「そう、息子さん。タツヤさんって言うの」
 スギナさんは答えた。
「あれ? でもあの人の息子さんって……」
 亡くなったんじゃなかっただろうか。僕は以前、スギナさんが教えてくれた話を思い出していた。
「ああ、それは一番下の息子さんで。あの人はタツヤさんと言って長男なんです。今はタツヤさんが家を継いでるの。一緒にいたのはお孫さん」
「なるほど」
 そういうことか。僕は納得して返事をする。
「ただタエさんって一番下の息子さんをすごくかわいがってらしたみたいで……。それで息子さんが亡くなってから、ああなってしまったんですって。遊びに行ったまま帰ってこなくて、おかしな死に方をして発見されたらしくて。確か名前はタツヒロさんって言ったかしら……。だから時々、家を抜け出してタツヒロさんを探しているんですって」
「そう……」
 タツヒロさん、か。僕はその名前を脳裏に刻み付ける。やはり今日のスギナさんは喋り過ぎだと思った。
 空が燃えていた。去っていく親子の姿を背に僕らもまた道を歩いていく。水田の水も赤く染まっていた。田に刺さった守り岩の影、それが存在を主張するように長く長く伸びていた。

   *

 ぱくぱくとよく動く口とは裏腹に私は別の事を考えていた。それは止まる事を知らず、次々と光景を蘇らせていく。はっきりとした音、鮮やかな色で加速していく。
 ツグミが案内してくれた捕獲ポイントは水辺近くだった。野生のポケモンがよく水を飲みに来るので出会うには絶好の場所だという。じっと待っていると確かにジグザグマ、ポチエナ……野生ポケモン達がやってきた。たいていは私とヨミちゃんの姿を見ると逃げてしまったが、たまに勝負に乗ってくる個体もいた。
 が、捕獲となるとまた話は別だ。相手の動きを止める必要があったし、何よりボールを当てる必要がある。これが難しい。たとえ勝負に乗っかってきてもだいたい体力のあるうちに逃げられる。むしろ勝負を挑んでくる個体というのは、そういうスリルを楽しんでいるようにも思われた。
 また、ポケモンが多いというのは、それを狙う人間も多いという事だ。ポケモン探しついでに勝負を挑んでくるトレーナーは多い。野生ポケモンにボールを投げては外す私からそう遠く無い場所で、ツグミはそんなトレーナーの相手をする事になった。
 スピカが宙を舞い飛んで、突進する。相手ポケモンに繰り返しぶつかっていく。相手が二匹目を出す。けれどよりスピードをつけた二又の影はそれを蹴散らしていく。大抵はツグミがストレート勝ちするけれど、たまに強い人が現れる。けれど、そんな時も彼女は勝負を諦めない。
 もうスピカがボロボロだという時こそ、その本領は発揮された。相手の攻撃をかわしながら、時には他の手持ちに交換しながら、彼女は反撃の機会を待つ。そして相手が見せた一瞬の隙を見逃さない。そこにスピカの渾身の一撃を叩き込むのだ。彼女とその相棒はがむしゃらに喰らいついていく。このコンビはいつだって勝利に貪欲だった。
 高く伸びた草と草の間を縫うように、地面すれすれをスバメは飛んでいく。
「電光石火からつばめ返し!」
 炸裂音。がむしゃらなその一撃が、相手ワカシャモの急所を捉えた。
「いやぁ、君の粘りには参ったよ」
 いかにも高級そうなスーツを身に纏った少年トレーナーはそう言うと、ツグミに賞金を渡してくれた。その日その時に得た金額は普段よりもずっと多かった。
「あの子、太っ腹だねえ」私が言うと、
「ほんと、ある所にはあるんだねえ」とツグミは同意した。
 そうして、手持ちのお金と今日の賞金を合算し、彼女は呟いた。
「これなら買えるかも……」
 フィールドから戻った彼女が街で買ったのは、ピカピカのランニングシューズだった。
「これ、前から欲しかったんだ」
 真新しいシューズに履き替え、嬉しそうに彼女は言った。旅立った時から賞金を貯めて買おうと思っていたのだそうだ。まずまっさきに欲しかったのがこれだったとツグミは語った。
 偉いなぁ、ツグミちゃんは。私は素直に感心した。
 だって、私にはランニングシューズを自分で買おうなんて発想は無かったのだ。旅立ちの前に父から買って貰ったから。街から旅立った子はだいたいそうだ。
 やっぱり彼女は違う。欲しいものは自分の力で手に入れると決めている。それこそが彼女を支える強さなのだと思った。
 ツグミは自ら道を切り開いていく。それが私には眩しかった。

   *

「おかえり。あなた宛に届いていたわよ」
 僕らを神社で待っていたのは、お姉さんであるサツキさんだった。帰宅早々にスギナさんがサツキさんから手渡されたのはユウサクさん宛に届いたのと同じ、ルネシティの全景写真がプリントされた葉書だった。
 宛先は神主さん、そしてスギナさんになっていた。差出人にはフユキツグミの名前。ついにホウエンリーグに出場となった事、そしてその前に一度帰郷する旨が記されていた。どうやら、帰郷の報せが届いたのはユウサクさんだけではなかったらしい。
 考えてみれば当たり前の話だ。燕尾神社は最初のポケモンを貰った場所、真っ先に報せを寄越すならまさにここだった。おそらくは神社と同期全員に対して葉書を送ったのだろう。ユウサクさんの所には一足早く届いたのだ。
「本当なんだ……ツグミ、本当に帰ってくるんだ」
 スギナさんはやっとその事実に言及する。けれどそれは、懐かしさとかそういう類のものではない。さっきから彼女は迷っている。ツグミさんの帰郷に関して、どう反応していいか迷っているように見えた。
 彼女は夕食をほとんど食べなかった。今日は疲れたから早く寝ると言って、早々に部屋を出ていってしまった。
 夕食を終え、寝泊りしている離れに戻る。僕はタブレットを起動し、ネットに繋ぐとメール受信を行った。昨日教授に依頼したその結果が知りたかった。けれど新着メールは0件だった。
「さすがにすぐには分からないか」
 新着の無い受信フォルダを見つめ、ぼやいた。
 そんな事をしていると縁側に着地音がした。音のほうへ振り向く。訪問者が誰なのかはもう分かっていた。
「こんばんは」
 僕は縁側に舞い降りたふくろうポケモンに夜の挨拶をした。
「尤も挨拶をするには遅いかもしれないね。君は昼間だって僕を監視していた訳なんだし」
 ゴーストを捉える鋭い眼を光らせる彼女を見据え、僕は言った。僕達がリエさん宅にいた夕方近く、ネイティの見る先にあった雑木林、そこから彼女は僕らを見ていたのだ。畳に映る僕の影がざわついている。
 ヨルノズクは目を逸らす事なく、睨み返してきた。僕は笑みを浮かべる。彼女は決して臆さないし、厄介な相手だ。何より僕の本性を見破っている。けれど一方で、そんな彼女に好感を持っている自分がいた。
「神主さんが言ってたよ。君がスギナさんのパートナーでよかったって。僕もそう思う」
 タブレットに映る受信フォルダを閉じる。僕の影はまだざわついていた。
「少し出る。君も来るかい」
 僕はそう言うと立ち上がる。今日は戻りが早かったから、いつもより時間が取れそうだと思った。町にある中でも特に大きな守り岩のいくつか。それを一つずつじっくり見て回るつもりだった。昼間では目立ち過ぎる。
 それに夜目には問題がない。僕もそうだし、彼女もそうだ。僕らはお互い夜の住人なのだから。
 
   *

「ほら、ぼさっとしないで」
 頭の中には、まだツグミの声が響いている。
 それはバトルフィールドに立っている昔の私に背後から聞こえてくる声だった。
 私の前にはまだホーホーだったヨミちゃんの姿があって、その先に居るのはツグミのスピカだった。
「スギナちゃん、ヨミちゃんの動きをよく見て。ヨミちゃんが目標を定めたら、技を指示するの。変なタイミングじゃあ出すものも出せないわ」
 真剣な表情で彼女は言う。
「ほら、今、ヨミちゃんの視線が定まったでしょう? こういう時が技を出すには一番いいの」
 彼女は続ける。
 負け続けの私によく彼女は稽古をつけてくれた。
 その甲斐あってか私とヨミちゃんの勝率は少しずつ上昇していった。
「ツグミちゃん、いつもごめんね」
 私がそう言うといいのよ、と彼女は言った。
「こうやってると、自分の考えが整理できるの。これは私のためでもあるんだから」
 私が謝ると彼女は決まってそう言うのだ。
「だからスギナちゃんが気に病む必要は無いの」
 そう彼女は続ける。
「さ、もう一回やってみて」
 ツグミが言った。私ができるようになるまで、何度も何度も繰り返した。
 彼女のポーチに一つ、金属製のバッジが輝いていた。色鮮やかなバッジだった。
 私は布団の上で寝返りを打つ。そこで目が覚めて夢だったのだと気が付いた。
 寝巻きはぐっしょりと汗をかいている。頭が少し痛かった。それにひどく喉が乾いていたので、洗面所に行くと水を飲んだ。
 
   *

 考えを整理するには文字に起こすか、口に出すかするとよい。歩きながらでは前者は叶わないので、後者を選んだ。聞き手にはかのお目付け役がいるし、反応を見るのも一つの目的だった。
 ポケモンは人の言葉を解す。それはポケモンバトルという複雑なやりとりが成立する事からも容易に想像ができる事だ。ただ、理解度は種類、個体によって違う。単純に技をそれと解するレベルから、人の心の機微が分かるレベルまである。ヨルノズクという種族に限って言えば、彼らの言語の理解レベルはかなり高位に属すのではないだろうか。あくまでツクヨミという、一個体と付き合っての感想だが。
「エンビでは年に二回、米を収穫するそうだね」
 と、僕は始めた。ゆっくりと歩みを進める。夜に染まったあぜ道にはかすかに虫の音が響いている。
 地域によって異なるが、温暖なホウエン地方では春先に田植えをし、夏に収穫を行う。そうして夏のうちにもう一度稲を植えて収穫するという二期作を行う事がある。
「鳥替え神事は、春先の田植えが終わるのを待って行われる。そう考えると季節感があるね」
 季節は行事を考える上で重要なポイントだ。
「そうして、エンビの神様である二ツ尾命は豊作を司る。伝承によればこの地に稲をくわえて二ツ尾命は舞い降りた。それがこの土地の稲作の興り、という事になっている。それはサツキさんの歌ったあの歌にもある通りだ」
 夜目を利かせ、僕は歩いていく。ふくろうポケモンは歩きながら、あるいは時々羽ばたいて短距離を飛びながらついてくる。羽音はしない。ただ着地音だけがする。岩と岩の間が近い時はその間を飛んで移動した。エンビに来てから、こんな夜の散歩を幾度となく繰り返した。

 燕尾の空舞う 二ツ尾は 赤の頭に藍の羽
 燕を返す 二ツ尾は 稲をくわえて舞い降りた

 僕はサツキさんの歌ったあのメロディを思い返し、口ずさむ。歌が終わった頃に足を止めた。眼前には田に突き刺さった岩、通称、守り岩がある。
「通る度にさ、不思議だと思うんだ」
 闇に染まる守り岩を見上げて僕は言った。
「二ツ尾命の伝承もこの守り岩の言われも田の収穫に関するものだ。けれど、その割りに両者に関係するような説話はほとんど見られない。守り岩単独のものならあったけれどね」
 手を伸ばして触れてみる。苔の僅かに生えた守り岩はひんやりと冷たい。が、それ以外は何も感じなかった。ツクヨミのほうを見たけれど、ポーカーフェイスなのか地なのか分からぬ無表情が返ってくるばかりだった。この守り岩ではないのだろうか? 夜の散歩の度に彼女の反応を伺うけれど、今のところ徒労に終わっている。僕は次を目指して再び歩き始める。
「二ツ尾命の伝承で顕著なのは、彼女が一番下の、末の子をかわいがっていた事だ。この記述は彼女を取り上げた文献にはたいてい載っている」
 歩みを進める。農道の両脇に広がる夜の風景がゆっくりと移動していく。
「僕が思うに、二ツ尾命が稲をくわえて舞い降りたのは十の子、とりわけ末の子を育てるためだった。歌にもあるように十の子、末の子を育て上げる事で彼女は母となり、神となった」
 星が綺麗だった。夜空には白い半月が浮かび、乙女座のスピカが青白く輝いている。春の大三角を形作っていた。
 僕はエンビ民謡の二番を口ずさむ。気になって、何度も何度も文字で追ったから、もう完璧にそらで歌えた。

 燕尾の空舞う 二ツ尾は 赤の頭に藍の羽
 雲を切り裂く 二ツ尾は 大きな翼で魔を祓う
 雨に耐えよ 晴れを呼べ
 実りが為に 草を刈れ
 十の子 末の子 巣立ちまで 大きく育てにゃ 母にはあらず
 一番かわいい 末の子を 大きく育てにゃ 母にはあらず

 ヨルノズクは黙って聴いていた。僕は言葉を噛み締める。
 二番にまで出張ってくる末の子に二ツ尾命の子煩悩さが見てとれる。だが、僕が注目しているのはそこではなかった。
「雲を切り裂く 二ツ尾は 大きな翼で魔を祓う」
 気になる箇所。僕はもう一度口ずさむ。
「つまり二ツ尾命は稲作を伝え、豊作を司ると同時にこの土地の守り神でもある。ストレートに解釈するのなら、エンビを侵略者や凶作の脅威から守っているという風に読めるだろう。けれど……」
 僕はにわかに立ち止まり、後ろをついてくるふくろうポケモンの顔を覗き込んだ。
「君はこの歌詞に何かを感じないか」
 ツクヨミは首を傾げた。
「彼女は末の子を育てるために収穫が必要だった。だから稲をくわえ、この地に舞い降りた。けれど僕が思うにそれは……」
 だが、ヨルノズクを相手にそこまで話したとき、途端に影がざわついた。
 僕とツクヨミは同じ方向を向く。視線の先、しばらく行った場所には今夜の散歩で何個目かの大きな守り岩があった。
「……誰かいるの?」
 そう静かに問いかけると、その後ろから、すっと誰かが顔を出した。
 その顔に見覚えがあった。この町に来てから何度か見ている顔だった。
「こ……が……ので」
 こえがしたので。
 年老いた女性は途切れ途切れに言った。
「……と、……たんです。でも……った」
 あのこかと、おもったんです。でもちがった。と、彼女は言った。
 彼女は少しずつこちらへ近づいてきた。そしてあの時と同じ質問を僕にした。
「あなた、むすこをしりませんか。あそびにいったまま、かえらないんです」
「いいえ」
 僕は答える。そうですか、と老婆は顔をうつむかせた。近くで見るとよりやつれて見える。相変わらず生気のない顔をしていた。
 僕はにわかに彼女に歩みよって、手を伸ばす。が、その瞬間、ツクヨミが唸り声に近い鳴き声を上げた。老婆はビクリと身体を震わせた。
「送っていくだけだよ」
 ヨルノズクのほうへ振り返り、僕は弁解する。
「それにこの人は僕の欲しいものを持っていないよ」
 なだめるように言った。
「だってこの人は何も認めていない。僕の欲しいものはね、認識して初めて生まれてくるんだ。けれどこの人はその前で止まったままなんだよ。二十年前からずっとね……」
 老婆はきょとんとしている。僕に言われている事が認識できていない様子だった。
 僕は夜空を見上げる。頭上では相変わらずスピカが青白く輝いている。道のあちこちから虫の鳴く声が聞こえた。
「タエさんの家まで案内してくれるかい」
 僕はツクヨミに依頼した。
 彼女は了承したらしい。翼を広げ、闇夜に飛ぶ。農道の少し先に降り立つとこっちだと言うように僕らを見た。いいか、おかしな事はするな。同時に彼女はそう言っていた。
 目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ。僕の動きを牽制するように、ふくろうポケモンの夜目は爛々と輝いている。闇夜に浮かぶ半月の形、彼女の目はそれによく似ていた。
 
   *

 再び目を閉じて浮かび上がったのは冬の光景だった。私が帰郷してから三年程が経った正月の風景だ。夜も明けぬうちに大きな嘴のぺリッパーが年賀状を運んできた。
 うちの神社に来る年賀状は多い。地元の議員さんや、信者さん、何より神事でポケモンを受け取って今は別の町にいる子達からも年賀状が届くのだ。がぱっと大きな口を開けたぺリッパー、その口の中にあるのはみんなうち宛だ。ペリカンポケモンは体を傾ける。掻き出すようにして年賀状を取り出した。
 外では父が前日から初詣の対応に追われていた。早い参拝客は明けてすぐに参拝をしようと大晦日の夜から並んでいるのだ。
「あけましておめでとう、ウミちゃん。おつかれさま」
 口の中からすっかり年賀状が無くなると、ウミと名付けられたぺリッパーはぶるぶると身体をゆする。すっかり身軽になった彼はすうっと玄関から飛び立って、白い身体はまだ暗いエンビの空に消えていった。
 年賀状を見ていく。この年は辰年だったから、レックウザの描かれたものが多かった。レックウザ、ホウエン地方の伝説に出てくるドラゴンポケモン。学会はその存在を疑問視しているけれど、私達ホウエン人にとってポピュラーなポケモンだ。空を往く緑の龍は教科書や絵本の物語にしばしば登場する。
「あ、ユウサク君から来てる」
 私は声を上げる。葉書を見れば写真付きの年賀状で、フエンの温泉街をバックにユウサク君がポケモン達と映っている。神事の時はムックルだった彼の相棒は、目つきの鋭いリーゼント頭になっていた。「バッジ5個目、ゲット!」そう書かれていた。
 私は手早く葉書の束に目を通していく。そのうちにフライゴンがプリントされた葉書が出てきた。ヤミカラスを引いて旅立ったジュン君からだった。定番のレックウザではなくフライゴンとは変わったもの好きの彼らしい。
 そうして葉書の中に見覚えのある字面を見つけたのは、ジュン君から五十枚目くらいに差し掛かった時だった。宛名には私の父、そして私の名前があった。
 差出人は字で分かった。裏面にはオーソドックスに謹賀新年が印字され、荒々しいタッチのレックウザが飛翔していた。今どうしているとか、どこにいるとか、そういう情報は一切無い。ただ、差出人欄に記載された見覚えのある字だけが彼女の存在証明だった。
 便りが無いのは良い便り。年一で寄越されるそれは、その存在だけを証明し、順調だという彼女なりのメッセージのように思われた。
 ふと、境内のほうから笛の音が聞こえた。新年を祝う神楽、父の演奏だった。手伝いに戻らねば。届いた大量の年賀状を居間へと運び、境内へと舞い戻った。
 年末年始が何度巡ってもツグミは帰って来なかった。年賀状だけが年に一度、やってきた。年の初めだけ。その時だけ。
 それでいいのだと思った。ホウエンのどこかで元気ならそれでいい。それだけでいい。それが私達の適切な距離だった。
 適切な距離だったのに。

   *

 朝。鳥居を潜ってショウタ君がやってきた。
「やあ」
 石段に座っていた僕は読んでいた本から顔を上げ、軽く挨拶をする。昨日と異なっていたのは彼がスバメを伴っていた事だった。こツバメポケモンは彼の後ろをちょこちょことついてきていた。
「何を読んでいるの」
 ショウタ君が尋ねてくる。
「町の図書館で借りたんだ」
 僕は答える。
「この町はいいね。ちゃんと記録を残そうとしてる。過去の誰かが必要を感じてやったんだろうね」
 この学問は、町のおじいさんやおばあさんに話を聞いたりする事が多いんだよ。と、僕は続けた。それは僕の知りたい事が文字に記録されていない事が多いからだ、と。
「律儀なんだね。尤もそれは鳥替え神事を今でもやっているところにも表れているけれど」
 ショウタ君は何か分からなさそうな顔をしていたけれど、構わずに続ける。せっかくだから彼にも鎌を掛けてみよう。そう考えていた。
「ここは面白いよ。時期はだいぶずれるけれど、岩流しという行事もあるそうだね。田の収穫に感謝して守り岩を清めるとかって」
 するとショウタ君がぎくりとしたのが分かった。
「あ……あそこは近づいちゃいけないんだ」
 一瞬の動揺。その後、少し強い調子で彼は言った。やっぱりだめか、僕は軽く溜息をついた。岩流しの件を口外するな。それは町の子供達にもしっかりと浸透しているようだった。ショウタ君の世代ならあるいはと期待していたけれど、考えが甘かったようだ。
「スギナさんにも同じ事を言われたよ」
 町の本にも詳しい場所の記載がない。肝心な情報を隠しているように思われた。
「岩と言うからにはそれなりに大きいのだろうけど、この町じゃ田んぼのあちこちにごろごろしてるし」
 彼の目を見る。ショウタ君はしばしこちらを見つめていたが、やがて目を逸らしてしまった。
「ごめんなさい、教えられない。そういう決まりなんだ」
 ショウタ君が言う。僕はにこりと笑みを浮かべる。
「分かってるよ。ごめんね、困らせて」
 芯の強い子だと思った。強情とも言うけれど。僕は諦めて、再び本に視線を戻した。ちょろちょろと辺りを見て回っていたネイティが戻ってくる。その頭を撫でてやった。
 ネイティはしばらくされるがままにしていたが、やがてちょこちょこと離れていった。向かった先はショウタ君が連れてきたスバメの所だった。こツバメポケモンはこちらと一定距離を保ったまま、近づくのを躊躇っていた。僕の事を警戒しているのだ。それが分かった。
 ネイティが尾羽を振る。スバメの周りを跳び回って、大丈夫だとサインを送る。最初スバメは嫌そうに声を上げたが、やがてそれも止んだ。ネイティがこちらに戻ってくる。同時に渋々スバメが近づいてきたのが見えた。頼りなさそうな足取りではあったけれど。
 すると不意に、ショウタ君が手を伸ばした。彼はスバメをそっと取り上げ、腕に抱いた。
 これなら大丈夫だと思った。彼らの問題は時間が解決するだろうと。瞬間、腕に緑の鳥が飛び乗った感触が伝わった。
 撫でろ。戻ってきた緑の小鳥はそう言いたげに僕をじっと見上げてきた。赤いアンテナのような冠羽を上下に揺らす。表情よりもよほど主張が強かった。
 
   *

 お昼過ぎにツキミヤさんと合流したのは、ユウサク君の家近くの守り岩だった。エンビの人間はよく待ち合わせ場所にここを使う。どこどこ近くの守り岩、と言うとだいたい話が通じるようになっている。
 ここに鎮座する守り岩は町にある中でもかなり大きく、よくスバメ達が羽を休めている。ツキミヤさんの探している神事の岩はもう少し行った先にある。
 あそこにはなぜかスバメがとまらない。チエちゃんかミサトちゃんだったかもう定かではないけれど、誰かがまことしやかに言っていた事をぼんやりと思い出した。気のせいだと思うけど、と私は相手にしなかったけれど。あそこで父がものものしく岩流し神事なんてやるものだから、誰かがそういう事を言い出したのだろう。
 そんな事を考えていると待ち合わせの相手が農道の向こうに見えてきた。ツキミヤさんは相変わらず肩に緑色の小鳥を乗せていた。
「待った?」
 ツキミヤさんが聞いてきた。今さっき来たところだと答える。
「ここから十分くらい行った所に喫茶店があるの。ケンスケ君とはそこで会う事になってます」
 私は答え、歩き出した。
 案内したのは喫茶Taillowというお店だ。オーナーさんはかつての鷽替えでスバメを貰っている。旅の途中に立ち寄った喫茶店のコーヒーがあんまり美味しかったので故郷に帰ってから店を出したのだそうだ。家で誰かの姿が見えないと、ここが潜伏場所候補の一つになる。Taillowは英語でスバメという意味だ。
「そういえば昨日の夜、タエさんに会ったよ」
 アイスコーヒーが運ばれてきた頃にツキミヤさんが言って、びっくりした。タエさんはよくふらふらと家を出ていってしまう。しばらく放っておけば戻ってくるのだけど、最近は時間を選ばなくなってきているからタツヤさんも心配している。
「夕食が終わった後に散歩してたんだ。そうしたら会ってさ。だから、家に送っておいた」
「よく場所が分かりましたね」
 私がそう言うと
「ツクヨミが教えてくれたからね」
 と、彼は言った。
「え、ヨミちゃんも一緒だったんですか?」
「そう。ここのところずっと一緒」
 カラカラとグラスの中の氷を鳴らしながら、事もなげにツキミヤさんは言った。うーん、ヨミちゃんってツキミヤさんみたいな異性が好みなのかしら……。ミサトちゃんのそろそろお婿さん発言を思い出し、私は頭を悩ませた。
「彼女、とても頭がいいんだね」
 ツキミヤさんは感心しているとばかりに続け、
「そうですね。昔から道案内は得意でした」
 と、私は答えた。
 トレーナー時代、道に迷った時はヨミちゃんに任せるとだいたい目的の場所に連れていってくれた。対するスピカはバトルは強いけれど方向音痴で、私達の行きたい場所をいまいち理解していなかったように思う。道案内ならヨミちゃんよね、とツグミも太鼓判を押していた。
 同時に妙にそれが胸を刺した。
 スピカ。ツグミ。私はそれらの単語に過敏になっていた。
「それでタツヤさんがずいぶん恐縮してしまってね、夜遅かったんだけど上っていかないかって。だからツクヨミと一緒にお茶して帰ってきたんだ」
 話し相手が欲しかったのかもしれないと私は思った。タエさんの事もあって、タツヤさんの家は町じゃ少し浮いている。私は気にしていないけど、ある事ない事を言う人はいるものだ。
「エンビにはタツヤさんが小さい頃に引っ越してきたんだってね」
「そうなの。ちょっと珍しいですよね」
「でも、そういう外から来た人が文化を運んでくるのかもしれないよ」
「そうですね。トレーナーだった子が帰ってきて、それでエンビに情報が入ってくる感じ。そういうのはあるかもしれないですね」
「そうそう。エンビの産土神である二ツ尾命にしたって、最初は外からやってきて稲作をもたらした訳だからね」
 ツキミヤさんはやけに上機嫌になって、コーヒーに口をつけた。
「すごく濃いんだね。水出しかな」
 何か確信を得たような感じでそう言うと、ガムシロップとミルクを注ぎ、かき混ぜた。その隣でネイティがビスケットをつついていた。
 そうして私達のアイスコーヒーが三分のニほどになった頃、カランカランとベルの音が鳴った。誰かが喫茶店の扉を開いた音だった。
「待たせたすまーん」
 エンビにいる同期の最後の一人、ケンスケ君の声がして私達は振り向いた。
 そして、あれっと声を上げた。と言うのも入ってきたのがケンスケ君だけではなかったからだった。
「ミサトちゃん、チエちゃん! それにユウサク君も」
「おいおい、俺はおまけか?」
 ユウサク君が呆れて言う。
「どうしたの?」私が尋ねると、
「ちょっとね、悪巧み。ケン君とはさっきそこで会ったの」
 と、チエちゃんは言った。彼女はふふっと含ませ気味に笑った。
 
   *

「ふうん、アンタが噂のイケメンかあ」
 最後の一人はそう言って、僕の顔をまじまじと見つめた。
「なあなあ、大学ってどんな感じ? やっぱトレーナーにならずにずっとスクール通ってた奴らが多いの?」
 ケンスケさんはジュンさんに似て大学に興味があるようだった。キャラクターはだいぶ違うけれど。
「もちろん、トレーナー枠の入試もあるし、とる人数もそこそこ多いよ」
 僕は答える。
「ただし、学力差は歴然だからね。教養課程で必要な単位がスクール卒とは全然違う。留年も多い」
「うっわあ、やっぱりかー」
 ケンスケさんは頭を抱えた。
「でも、社会経験って意味では僕らより上だから」
 と、僕は返した。そういう経験から出てくる発想っていうのはあるし、だからどっちがいいとかは言えないと。そして僕は他のメンバーにした質問を同じように彼に投げかけた。
 ケンスケさんが貰ったのはドードーだったそうだ。他の鳥ポケモンとは違い、地を駆ける鳥。彼はドードーにまたがって誰よりも早く次の町に到着したそうだ。
「まー、早いのは他の奴らの鳥ポケモンが進化するまでだったけどな」
 と、彼は笑った。
「でも、空を飛ぶって結構つらいものがあるぜ。寒いから防寒いるし、風が強いと危険だし。皆が思ってるほど長距離は移動できない」
 ユウサクさんが加わって言う。
「そうそう。私、結局歩いてた! 歩くか、乗り物に乗るか。結局はそうなっちゃう」
「私も私も!」
 ミサトさんやチエさんが同意する。時には便利だけれど、絶対ではない。多くの場合、交通機関を利用するのがいいというのが彼らの意見だった。旅立ち前のイメージと実際にはギャップがある、と。
「そうだね。私もヨミちゃんに乗った事はあるけど、あんまり飛んではくれなかったかな。こう、近道とかしたい時にちょっと運んで貰う感じ」
「わかる!」
 女の子達が同意した。
「そりゃ、どっかのジムリーダーみたいに自在に乗りこなす人はいるけれど、あれは人間のほうにも鍛錬がいるよね」
「だな。あれはちょっと別物っていうか……」
 ユウサクさんを含む男性陣もうんうんと頷いていた。
 旅のあるある話、実際はなかなかうまくいかないギャップの話。彼らのそんな会話はしばらくの間、続いた。
「ところで今日はみんなどうしたの? こんなに集まるなんて珍しいじゃない」
 スギナさんがそう言うまでは、そういう会話だった。
「そうそう。それだよ。それ」
 我に返ったようにユウサクさんが言った。
「スギナちゃん、あのね……」
「明後日くらいにツグミちゃん帰ってくるじゃん。それでね……」
 ミサトさんが繋いで、チエさんが結んだ。
 するとスギナさんがビクリとして、凍りついた。あの時と同じだと僕は思った。
「え、ツグミ帰ってくんの!? いつ!?」
 話題についていけていないケンスケさんだけが驚きの声を上げる。
「おいケンスケ、お前、郵便受け見てないだろ」
「もうみんなの所に届いてるよ〜」
「バッジを八つ取ったから、ツグミちゃん帰ってくるそうよ。リーグに挑戦するんですって。その前に挨拶したいから帰ってくるって」
「えー、バッジ八つ!? まじかよ! すげえな!」
 三人が言って、ケンスケさんが叫んだ。
 そうしてその間、スギナさんは黙ったままだった。口をつぐんで、どう反応したらいいか悩んでいるように見えた。ネイティがちらりと目線を僕に向けた。
 すごいよな。リーグだって。エンビじゃ初めてなんじゃない? 彼らは口々に言って盛り上がる。だがスギナさんは乗らない。
「お、何々? ツグミちゃん帰ってくるの?」
 お店のオーナーさんも乗ってきたが、スギナさんは沈黙を守ったままだった。
「それでね、同期のみんなでお祝いしようって話してたの! 今日、集まったのは作戦会議をしようと思って!」
 チエさんは明るい声で言った。
「場所はそこそこ広い所がいいよね」
「せっかくだからバトルやるのも面白いんじゃない?」
「となると、やっぱ神社かな。境内も広いし」
 ミサトさんがちらりとスギナさんを見た。
「だよねー、なんと言っても。私達にとっては始まりの場所だし」
 チエさんも同意する。
「ね、スギナちゃん、どうかな?」
「神主さんに聞いて貰えない?」
 そこで、全員の視線がスギナさんに集中する事になった。
「私は……」
 スギナさんは何か言いかけて、黙ってうつむいてしまった。
 テーブルを見る。アイスコーヒーは三分のニから減っていなかった。
 どうしたのだろうと皆が顔を見合わせる。ユウサクさんは二回目なのか、何か異変に気付いたように見えた。
「……スギナちゃん?」
「どうしたの?」
 女の子達も何かがおかしいと気付いたらしく、言葉を変えた。ケンスケさんだけがきょとんとしている。あまり状況が分かっていない感じだった。
 それから、スギナさんは二、三分の間、うつむいたまま沈黙を保っていたけれど、やがてこう言ったのだった。
「……私は行かない」
 彼女は静かにそう言った。
「ごめん、お祝いはどこかでやって。でも、私は呼ばないで」
 先に帰るね。そう言ってお代をテーブルに置くと、静かに席を立った。カランカランと喫茶店のベルが鳴った。呆気にとられる四人を尻目に、僕もまた席を立つ。
 が、その時、鞄に入れていた携帯が振動した。こんな時に? 取り出して着信欄を見ると教授からだった。まったく、この人は間が悪い。今は出れないとボタンを押して黙らせた。
「ごめんね。また今度」
 僕がそう言うとネイティが肩に飛び乗った。僕もまた店を出る。再び店のベルが鳴った。

   *

 コップの水が溢れて、零れていく。
 それなのに蛇口から水は流れ続ける。もう、受け止めきれない。
 私は農道を足早に歩いていく。自分でもどこに向かっているのか、よく分からなかった。頭の中がぐちゃぐちゃと混乱している。最近は一気に色んな事が起こり過ぎなのだ、そう思った。
 空は馬鹿みたいに晴れている。今日ばかりはそれがムカついた。雨でも降ればいいんだって思った。ひどい風景だ。たとえ、うつむいても田んぼの水面に映った晴れの空が見えるのだ。スバメが一羽、空を通り過ぎて、目を逸らした。
 やめてよ。今くらい勘弁して欲しい。
 脳裏の光景が暗転する。遠い日の記憶がフラッシュバックした。

 旅を続けて一年が過ぎ、私はバッジの三つ目を目指していた。
 手持ちはヨルノズクになったヨミちゃん、お勧めフィールドで粘って捕まえたマッスグマのザクマ、それにマリルリのマリー。マリーは最近になって進化したばかりだった。
 予想はしていたけれど、ジム戦は負けが続いていた。リーダーは当然、私ばかりを相手にしてる訳じゃない。再戦まではだいたい一週間、長ければ十日なり二週間なり待たされる事もあった。その間に対策を立て、練習をする。これは一個目や二個目の時も同じだった。けれど、今回は決定的に違う点があった。
 それはツグミの存在だ。一個目や二個目の練習の時はいつもツグミがついていてくれた。けれど、今回はそれが無かった。ツグミは手を貸すと言ってくれたけど、私が断ったのだ。
 もちろん、彼女の助言があったほうが効率がいいに決まっている。そんな事は分かっている。けれど、私には危機感があったのだ。
 このままツグミに頼り切っていたら、いつか見放されてしまうんじゃないか。
 いつしか私の中に、そういう危機感が芽生え始めていたのだ。
 旅を続けて、それこそトレーナーの顔馴染みも増えてきた。その中にはバトルの強い子、ポロック作りが上手な子、色々な特技を持っている人がたくさんいた。みんな魅力的な人達だった。だから、ツグミがそんな子達と楽しそうにしているところを見る度、私の胸は痛んだ。私はツグミに相応しく無いんじゃないのか。そんな事を思うようになった。
 このままじゃいけない。私は助言の一切を断った。
 すべては一緒にいるため。ツグミと一緒に旅を続けていくためだった。
「ヨミちゃん、エアスラッシュ!」
 ツグミに教えて貰ったタイミングで技を放つ。ヨミちゃんが素早く翼を交差させると風の刃が相手に向かう。技が決まる。相手のチャーレムは力尽き、地面に伏した。赤い光が当てられて、ボールに吸い込まれていく。
「やった」私は思わず呟いた。
 以前、勝負は仕掛けられる事のほうが多かった。けれども今回は違った。私は道行くトレーナーと目が合う度、バトルを申し込んだ。ヨミちゃんもよく頑張ってくれた。ああ、気持ちって伝染するんだな、そう思った。
 いけるかもしれない。私は連日のバトルに手応えを感じていた。
 その週末、十度目に近い挑戦をした。

 涙が落ちる。私はぼろぼろと泣いていた。情けなさからか。ふがいなさからか。
 早足で歩いていく。でも、結局辿り着く場所なんて決まっていた。何も考えないで、歩いてきたらもう神社のある雑木林の前だ。行く所なんて一つしかない。自分はこの土地の人間なのだ。神社の子なのだ。それを思い知らされた気がした。
 光景が蘇る。今は昼だけれど、これはあの夜によく似ている。エンビに里帰りをした時、私はやはりこんな風に立ってはいなかったか。
 ああ、そうか。それで私は闇夜が嫌いになったのか。時々、あの時の気持ちを思い出してしまうから、私は闇夜が嫌いになったのだ。
 雑木林の道を行く途中、林の中に少年らしき影を見た。あれはショウタ君だろうか。けれど、それに構っている気分ではなかったし、彼は私に気付かなかった。それでよかった。
 鳥居を潜ったその時、少しだけほっとした気分になった。
 そうして、境内に入っていって気が付いた。夫婦杉の前に待ち構えるように誰かがいた。
「ヨミちゃん……」
 私は呟いた。夫婦杉の下には大きなふくろうポケモンが一羽、佇んでいた。
 気が付くとヨルノズクを抱きしめていた。彼女の羽毛は暖かかった。私はそれを涙でぐちゃぐちゃにしてしまったけれど、ヨミちゃんはなされるがままで嫌がらなかった。
 にわかに石畳を鳴らす音が、足音が近づいてきた。何となくツキミヤさんだと分かったのは、連日一緒に歩いていたからだろう。
「ごめん……私ね、ツキミヤさんに一個嘘をついた」
 ヨミちゃんを放してあげて、私は言った。
「嘘?」
 ツキミヤさんが問う。
「私、前に言ったよね。私が近くにいたら、ツグミは自分のペースで進んでいけなくなる。だから、もう一緒にいるのはやめようって言ったって」
「言ったね」
「あれ、嘘」
「嘘?」
 再びツキミヤさんは聞き返した。
「うん、違うの。言った事は言ったけど、そう言ったのは私じゃない」
 一呼吸置いて、言った。
「そう言ったのは、ツグミ。ツグミだったの……」
 振り返る事なく私は言った。ツキミヤさんに今の顔を見られたくなかった。
 私達は旅に出た。夫婦杉に願を掛けて。けれどそれは叶わなかった。

「ねえスギナ、私達これ以上一緒にいるべきじゃないんじゃないかな」

 あの日、三つ目のバッジを手に報告に行ったあの日、意を決したように彼女は言ったのだ。
 あの時、彼女のポーチには既に四つ目のバッジが光っていた。
 引導を渡したのは、ツグミ。
 ツグミだった。
「大丈夫よ。スギナはちゃんと一人でやれたじゃない」
 違う! 私が欲しかったのはそんな言葉じゃない! そんな言葉じゃなかったのに。

「私、わかんない。今更ツグミが帰ってくるって言ったって、どういう顔して会えばいいのかわかんないよ! 分かってるのよ。私の努力が足りなかったの。私が何もかも遅すぎたの。私が先に言うべきだったのよ。でも……」
 涙が溢れ、石畳に落ちた。私達の歩幅は違い過ぎた。
「……帰ってきてなんて欲しくなかった」
 種が芽を出した。私の中にあった種が。同時に私は吐き出した。今まで喉から出掛かって、抑え込んでいたものを、本音を全部、吐き出してしまった。
「だってツグミは私を棄てたの! どんな顔して会えって言うのよ。ツグミは私の事、棄てたのよ!」
 嘘吐き。一緒に行こうって言ったのに。

   *

 ヨルノズクが僕を睨みつけていた。傍らにはスギナさんがいて、ふくろうポケモンに縋り付いて泣いている。感情が溢れ出す。彼女の容れものはもういっぱいで、余分な感情が溢れ出てきている。その一方で僕の頭は冷静だった。スギナさんをどうなだめるかと思う一方で別の事を考えていた。というのも、さっき入った教授の着信の事があったからだ。
 喫茶を出て電話をかけると、オリベ教授はすぐに出た。
「ツキミヤです」不機嫌な声でそう言うと「おう」と、空気を読まずに返す。そして、
「お前の欲しいもの、送っておいたぞ」と、言ったのだ。
 神社のほうに去っていくスギナさんを目で追いかけながら、僕は鞄からタブレットを取り出す。電波が弱くてなかなか受信ができない。だが、ようやくすべてのデータを受信し終え、開いたそれは確かに僕が求めていたものだった。
 ファイルは何個かあった。地方新聞記事に、週刊誌の記事らしきもの。日付はいずれも二十年程前。ざっと目を通す。そのうちの一つに目が留まる。聞いた事のある名前が出ていた。
「ねえスギナさん、今日の夜、少し散歩に付き合ってくれないかな」
 落ち着いた頃を見計らって、僕は言った。
 ツクヨミが再びぎろりとこちらを見たが、無視をする。
 スギナさんは答えなかったが、聞いているだろう事は分かった。それでよかった。
「君も知らない岩流し神事の秘密を教えてあげるよ」
 僕は言った。スギナさんが少し肩を上げた。
「そうだな。みんな寝静まった頃がいい。午前零時に鳥居の下で」
 そう告げた。
「ツグミさんとの関係がどうあれ、君は神社を継ぐんだろう? だったら知っておいたほうがいい。神社を継ぐ者として、今夜起こる事を見ておくといい」
 スギナさんが目をこすり振り向いて、怪訝な表情で僕を見上げた。関心がこちらに向きつつあった。
「今夜零時に来て。待っているよ」
 ツクヨミがいよいよ僕を睨みつけたが、僕は笑みを浮かべた。
 それでいいのだ。まずは君に来て貰わなければ。
 踵を返すとその場を後にした。もう図書館通いは必要ないな。そう思った。
 
   *

 夕食の時になってツキミヤさんは何食わぬ顔をして戻ってきた。
 昼間あった事など何も知らない我が家の夕食は至って静かで、そして少し豪勢だった。お姉ちゃんが明日帰るというので、色々作ってくれたのだ。お姉ちゃんいわく、旦那に教えて貰ったのよ、という事だ。一応結婚式では会っているけれど、旦那さんって一体何者なんだろう。話を聞く度にそう思う。
「おいしいですね、これ」
 ツキミヤさんがそう言って、料理をつまむ。
「さすがイケメン、女心を掴む台詞を心得ているわね」
 お姉ちゃんはすっかり機嫌を良くして彼をつっついた。私は黙って箸を進めた。
 岩流し神事の秘密を教える。そう彼は言った。ただでさえツグミの事で頭がいっぱいだったのに、妙な事になってしまったものだ。けれど、相反するように興味が徐々に膨張していく。
 ツキミヤさんは一体何を知ったというのか。お父さんは何を隠しているのか。私はそれを知りたいと思った。
 それにツキミヤさんは挑発するように言ったのだ。君は神社を継ぐんだろう? と。だから私のある種のプライドを捉えたのかもしれなかった。
「ご馳走様でした」
 ツキミヤさんは箸を置くと、丁寧に言った。そして何食わぬ顔で離れに戻っていった。
 忘れないで。零時だよ。
 彼の横顔がそう語っていた。

   *

 離れに戻った時、そこには既に来客がいた。
 縁側には一羽の大きな鳥影、山の字のような冠羽を戴いたヨルノズクの姿がある。ヨルノズクは鋭い眼で僕を睨みつけていた。僕は笑みを浮かべる。
「来ると思っていたよ」
 そう彼女に言った。僕の足元では影がざわついていた。フウッとヨルノズクは息を荒げる。僕の影に潜む者達、それが外へ出たがっている。彼女はそれを感じとっていた。
「正直なところ、抑えるのが大変だったんだ」
 と、僕は言った。影達は本能に忠実だ。
 ああなる前から既に僕達は気が付いていた。スギナさんに起こった異変、変わってしまった彼女の匂いに。彼女はそれを必死に抑え込もうと努めているように見えたけれど、捕食者の嗅覚にそんな誤魔化しは通用しない。
 かつて二人は旅をし、別れた。僕はその断片を聞いていただけ。けれど、分かった。匂いでおおよそ分かってしまった。葉書の到着、そして喫茶店から続く一連の出来事、それは僕にとって予見できる事だった。
 そして彼女はついに吐き出した。偽らざる本音、恨みの感情を。長い間蓄積されてきたものが解放された。こうなってしまうと影を抑えるのが大変だ。
「もともとスギナさんの中にはそういう種があったんだよ。でも、今まではうまいこと眠らせてきたんだ。彼女はどうにか折り合いをつけて、心穏やかに過ごしてきた」
 トレーナーをやめて、彼女はエンビに戻ってきた。戻って新しい生活を始めた。いつか神社を継ぎたい。神社を継いで神事を継承していきたい。彼女はトレーナーとしては大成しなかったけれど、少しずつ、進みつつあった。
「でも、とうとう芽が出てしまった。原因はあの葉書だ。とどめを刺したのはお友達だけどね」
 彼女という果実は甘く甘く熟してしまった。
「別にツグミさんやお友達が悪いと言いたい訳じゃない。ただ、スギナさんには早かったんだ。タイミングが悪かっただけ。もっと時間が必要だっただけ……」
 果実の甘い匂いは影達を昂ぶらせる。
 欲しい。欲しい。あの子が欲しい。影がそう僕に囁いている。
 彼女からはとても甘い匂いがする。
 ずるりと影が腰まで登ってきた。僕はそれを撫でてやる。ヨルノズクを見据え、言った。
「彼女と旅をしていた君なら知っているだろう。人間って生き物はね、こっぴどく別れた相手を素直に祝福できるほど、まっすぐじゃないんだ」
 瞬間、ヨルノズクが怒りの声を上げた。
 普段の鳴き声とは別物の、腹の底から轟く唸り声だった。それは昨晩のそれとも別種だった。
「スギナさんも、君の想いを知ったら少しは違うかもしれないのにね」
 皮肉を込めて僕は言った。たぶん口元は笑みで歪んでいた。
 空気が震えたのが分かった。フーッと彼女は息を吐く。一触即発、下手な動きをすれば、血を見る事になる。ヨルノズクは羽毛を逆立てていた。前屈みになり、地を覆うように両翼を広げる。臨戦態勢、翼を広げた鳥ポケモンは普段よりずっとずっと大きく見えた。
「……やめておきなよ」
 鎮めるように僕は言った。座敷に蠢く影を見下ろし、言った。ふくろうポケモンの威嚇に呼応するように、それはざわつきを増している。
「君一羽じゃ僕には勝てない。そりゃ傷の一つくらいはいけるだろうさ。けど、それでどうなる?」
 彼女は夜の住人だ。見える側に立っている。ならば知っているはずだ。感じているはずだ。僕がどれだけの数をここに飼っているのかを。
 そんな事は分かっていると赤い瞳が語る。けれど、彼女は羽毛を逆立たせたまま、体勢を崩さない。それでも僕は笑みを浮かべる。
 だって、賢明な彼女は知っているのだ。神社の来客を傷つければどうなるかを。
 それは彼女の立場を危うくしても、スギナさんを守る事にはならないのだと。
 彼女は結果を考えずに戦うほど愚かじゃない。
「君は話の分かる子だ」
 ふくろうポケモンを見つめ返し、僕は言った。
「ツクヨミ、僕と取引しよう」
  
   *

 零時の五分ほど前。境内は静かだった。いつか鬼火を見た掛け所には何もいないし、灯篭だけが僅かに光って石畳を照らしている。夫婦杉を通り過ぎたあたりで、鳥居の下に影を見た。
 そこにあったのは鳥影、ヨミちゃんだった。
「ヨミちゃん。あなたも呼ばれたの?」
 そう尋ねるとヨルノズクはちらりと私を見上げた。無言の返事だった。
 ほどなくして夫婦杉の向こうからツキミヤさんが姿を現した。夜だからなのかネイティは連れていなかった。ヨミちゃんが僅かに前に進み出る。フウッと唸って羽毛を逆立てた。
「や、揃ってるね」
 鳥居の下でツキミヤさんが言う。いつものように笑みを浮かべていた。
「どこに行くの」
 私は尋ねる。
「それは彼女が教えてくれるよ」
 ヨミちゃんをちらりと見て、彼は答えた。
「どういう事?」
「取引をしたのさ」
「取引?」
「そう、取引。詳しくは歩きながら話すよ。さ、案内して」
 ヨミちゃんはツキミヤさんを睨みつける。が、すぐに踵を返すと、ぴょんぴょんと踏み出した。そして時々立ち止まると、首だけをぐるんとこちらに向けた。
「約束は守るよ」
 ツキミヤさんが言った。ヨミちゃんがばさりと翼を広げる。彼女は暗い雑木林を低く滑空して、着地してを繰り返した。けれどもやっぱり何度も首だけでこちらを振り返った。私達はふくろうポケモンに導かれるままに歩いていく。
「ヒントを得たのは、大学のある地元神社でね」
 道すがらツキミヤさんはそう始めた。
「君は旅をしていた時カイナシティに来た事があったよね。あそこに白羽波っていう神社がある。それは僕が来た時に話したね?」
「……え、ええ」
 私は返事をする。海近くの高台に白羽波神社はあった。あそこはうちと違って、青の流れを汲む一派だ。だから鳥居が青かった。ただ祭神がキャモメだったから親近感を持ったのを覚えている。絵馬はキャモメ、ご利益は勝負事だったはずだ。
「あそこのキャモメ絵馬はね、呪いの絵馬なんだ」
「え?」
 私は彼の顔を見上げ、声を上げた。この人はいきなり何を言い出すのだろう。
「正確に言うなら呪いにも使える絵馬だ。絵馬のキャモメを黒く塗って、呪いたい相手がバトルで負けるように祈願するんだ。すると黒いキャモメが飛んでいって呪詛の相手に怪我を負わせる。例えば君がユウサクさんが負けますように、と書いて奉納したらユウサクさんが怪我を負う」
「まさか。そんな事……」
 私がそう言いかけると
「僕も信じてなかったさ。この目で見るまではね」
 と、遮られた。
「でもね、そういう世界は確実に存在するんだ。例えば僕みたいな人間がいるように、だ」
 そうツキミヤさんが言ったその瞬間、私達の前にぼうっと青白い灯りが灯った。
 私はびっくりして目をぱちくりさせる。青白い灯り、それは見覚えのある炎だった。あの日、ツキミヤさんを神社に迎えたあの日の夜、掛け所でカゲボウズ達が灯していたそれだ。
 同時に炎がシルエットを照らした。照らし出されたのは中空に浮かぶ一匹のカゲボウズだった。てるてる坊主のようなフォルムににょきりと生えた角、カゲボウズは三色の瞳で私を見つめるとクスクスと笑った。けど先頭にいたヨミちゃんが低く鳴くと、びくっと縮こまってツキミヤさんに寄り添った。
「大丈夫。今日はつつかないよ」
 ツキミヤさんは長い指をカゲボウズに絡め、安心させるように撫でる。
「灯りは必要だろう? スギナさんは僕らと違って夜目が利かないんだから」
 ツキミヤさんが言う。ヨルノズクは再び進行方向を見る。
「……ツキミヤさんが来た日にカゲボウズを見た。あれはあなたのポケモンだったの?」
 私は問う。
「そうだよ。初日で早々ツクヨミに捕まっちゃって、それから出さないようにしていたけどね」
 だから? と言うように軽い調子でツキミヤさんは答えた。
 私達は雑木林を抜ける。風景が開けて星空が見えた。春の大三角、空には乙女座があってスピカがより強い光を放っている。途端に胸が苦しくなった。かつて私は、ツグミのスバメにこの星と同じ名前のニックネームをつけたのだ。月を司るツクヨミ、一等星のスピカ。いいニックネームだって気に入っていた。一緒に旅をする私達のポケモン達にふさわしいニックネームだって。
「じゃあ、これから僕の仮説を話そう」
 農道の土を踏みしめてツキミヤさんは言った。暗い暗い道を進んでいく。鬼火が照らす。守り岩が闇に浮かび上がった。
「最初にこれを見たのは町のホームページだった。その時に思った事がある。それでエンビに来て、実際にこれを見て、やはり僕は同じ事を思った」
 ツキミヤさんが岩に触れる。白い手は岩の感触を確かめている。
「僕はね、これを見た時に杭みたいだなって思ったんだ。農作業の邪魔にしかならない大きな杭がこの町のあっちこっちに刺さっているって。だからこれは何かある。そう思った」
 手を離す。進行方向で目を光らすヨミちゃんを見て、ここじゃないらしいね、と呟いた。
「だから町の人達が守り岩、守り岩と言うのに違和感があったんだよ。僕はあれが地に打ち込まれた杭に見えた。まるで何か出てくるのを封じているみたいに見えたんだ」
「え……」
 考えた事もなかった。小さい頃からあれは豊作祈願だから大事にしなきゃいけない。だから決して上に登ったり、蹴飛ばしたりしちゃいけないよ、そういう風に教えられて育ってきた。
「いや封じている、という意味では守り岩でも合っているのかな。でもさ、封印と考えたら毎年注連縄を新しくしたり、神主さんが神事をやっているのも何となく意味が見えてくるんじゃない?」
 ツキミヤさんは続ける。
 確かに。その考えには一理あると私は思った。他の町に行って驚いたのは、田んぼに守り岩が無かった事だ。なんで無いのだろう。当時の私は疑問で仕方なかったけれど、いつか忘れてしまった。でも、それがこの町にしか必要のないものだったとしたら。この土地独自の理由によるものだったとしたら。
「君も神社の子なら知っているだろう。お祭りっていうのは荒ぶる神様を鎮める儀式でもあるって。二ツ尾命はそういう感じじゃないから、馴染みがないのかもしれないけどね」
 ツキミヤさんがクスクスと笑った。その笑いは先ほどのカゲボウズによく似ていた。
 鬼火が二つ目の守り岩を照らし、通り過ぎていく。その道すがら彼が口にしたのは私がよく知っている歌だった。

 燕尾の空舞う 二ツ尾は 赤の頭に藍の羽
 燕を返す 二ツ尾は 稲をくわえて舞い降りた

 エンビ民謡の一番、言葉を噛み締めるようにして彼は口ずさむ。そして、
「つまり、二ツ尾命は外から来た神様だったんだ」
 と、言った。
「昼間、喫茶店で話したよね。外の人が文化を運んでくるって。まさにその代表格が君の所の神様だ。二ツ尾命はこの土地に稲作をもたらして定住し、神になった。そこで気になるのは二番の歌詞だ」
 彼はまた口ずさむ。

 燕尾の空舞う 二ツ尾は 赤の頭に藍の羽
 雲を切り裂く 二ツ尾は 大きな翼で魔を祓う

「まさか……」
 私は思わず口に出し、ツキミヤさんの顔を見た。笑みを湛えたその顔は鬼火に冷たく照らされている。
「そう。二ツ尾命は魔を祓った。で、この土地の下に眠ってるのは誰だい?」
 靴でトントンと地面を叩き、彼は言った。私は口ごもった。
「まあ、君が知らないのも無理はない。町の文献も色々あたったけれど結局名前は出てこなかった。たぶん神主さんだってそれの名前までは知らないんだろう」
 なんだか妙な気分になった。一本の線が結ばれたような気もしたし、彼の口車に惑わされているような気もした。ただ、懸命に岩流し神事を執り行う父の姿が浮かんだ。すると、そんな私の心を読んだ風に
「神主さんはね、君の事が大事なんだよ」
 と、ツキミヤさんが言った。
「だから、君が本当の意味でこっちに来るまでは黙っておくつもりだったんだろう。サツキさんも言ってたよ。神主さんは君がかわいくて仕方ないんだってね」
 君が思ってる以上に君は想われてる。色んな人からね。彼は続けた。
 かっと頬が熱くなる。外から来た人、それもたかだか一週間程度一緒だった人にそんな事を言われるなんて。けれど、外から来た人だからこそ見えるものもあるのだと思った。
 星が瞬いている。ヨルノズクに導かれて、私達は歩いていく。
 そうしてふくろうポケモンが立ち止まったのは、図書館に続く道に座した大きな守り岩の前だった。心臓が鼓動を早めた。ヨミちゃんは嘘をつかなかった。彼女は確かに岩流し神事の大守り岩の前にツキミヤさんを案内した。
 そうしてヨミちゃんが音もなく飛んだ。私の前に舞い降りて、ツキミヤさんを睨みつける。けれど彼は笑みを浮かべていた。
 守り岩に視線を移す。長い指が岩肌に触れる。白い指は感触を確かめていた。
「ふうん、ここか。やっぱりそういう事か」
 何か確信めいた風に彼は言った。
「よくできた封印だよ。岩に触れただけじゃ何も感じない。でも、色んな状況証拠がここだろうって言ってるんだ。ツクヨミも取引の事があるからね、嘘は言わないだろう」
 ツキミヤさんがヨミちゃんを見る。彼女はフウッと息を荒げる。
 そして彼は決定的な一言を放った。
「ここさ、タエさんちの田んぼだろう?」
 彼はぴたりと言い当てた。
「どうして」
 確かに彼女の家はここから近い。けれど、どこどこの田んぼなんて話はツキミヤさんにはした事がなかったはずだ。
「ヒントはタエさんの一家が外から来た事。それに二十年前の死亡事件だ」
 ツキミヤさんが言った。
「大学に依頼してね、調べて貰ったんだ。エンビタウンでは二十年くらい前、旅立ちを控えた少年が一人、死んでいる。被害者の名前はウツミタツヒロ、だそうだよ」
 ドキリとした。ウツミという姓、それはタエさんの家の苗字だった。
 それにタツヒロ。それは間違いなくタエさんの末の息子さんの名前だったのだ。
 そして彼は続けた。タツヒロさんは干からびて怪死したのだと。専門家の意見によれば強力なポケモンの技をもろに受けたためらしいという事を。吸い取る、メガドレイン、ギガドレイン、そういう相手の体力を吸い取る技を強力にしたものを受けてしまったからではないか、と。
 ツキミヤさんが入手した記事の中には、ポケモン所持に反対する団体の記事もあったらしい。だからポケモンは危険なのだ。子供達に持たせてはいけない。そう記事は結んでいたそうだ。
「僕が思うに、動かしちゃったんじゃないかな、守り岩。ウツミさんちは外から来た人達だから、禁忌(タブー)に対する意識が希薄だった。だから動かしてしまったんだ。農作業には邪魔でしかないからね」
「…………」
 私は呆気にとられる。父が隠していた事、ツキミヤさんが調べていたのはこれだったのか。守り岩に登るな、蹴飛ばすな。それは動かすなという事か。封印が緩んでしまうから。いや緩んだからこそ父は神事を行っていたのか。
「町にある守り岩全体で封印なのか、それともここだけが本物で他がダミーなのか。それは僕にも分からないけどね」
 ツキミヤさんが続けた。けれど。
 ちょっと待って。冷静な部分がストップをかけた。守り岩を動かした事、タエさんの息子さんが亡くなった事、そこに因果関係を見出すのはあまりにも乱暴ではないだろうか。しかも、岩を動かした事に関してはツキミヤさんの想像でしかない。
「だから検証するんだよ。今ここでね」
 まただ。まるで私の考えが全部分かっているという風にツキミヤさんは言った。
「検証?」
「岩を動かすのさ」
 事もなげに彼は言った。
「動かすって……」
 訳が解らなかった。岩は大きい。それこそ私達の背を越える程度には。蹴飛ばすとか乗るならともかく、道具も無しにそんな事ができるはずもない。だが彼は笑みを浮かべる。
「できるさ。この子達の力を借りればね」
 そして、トン、と地面を蹴った。
 瞬間、ヨミちゃんが威嚇の声を上げた。羽毛を逆立てて、低く唸った。同時に私は彼の足元を見て愕然とした。
 夜の闇に染まる農道、ツキミヤさんの足元で何十もの眼がぱちりぱちりと開いたのだ。闇に光る眼、それは三色の光を放っていた。
「出ておいで」
 ツキミヤさんが言った。
 彼の言葉が蘇る。そういう世界は確実に存在するんだ、というその言葉が。
 地面からカゲボウズ達が次々に浮かび上がる。鬼火と共に数を増やし始めた。
 
   *

 久々の外に影達は色めき立っている。僕は道と田の間に刺さっている守り岩に対峙した。
 岩は動かせる。だが、大きいのも確かだった。総出でやって貰わなくてはなるまい。少し骨だなと僕は思った。
「さあ、全員出てきて。目標はこれだよ」
 僕は指示を下す。すべての影達を開放するのは久々だった。
 カゲボウズ達が次々と浮かび上がる。一匹また一匹と守り岩に取り憑いていく。人を喰らうのと同じ要領だ。鬼火に照らされ浮かび上がる封印の杭はカゲボウズの色に染まっていく。農道を通して僕もまた影を伸ばす。上から、下から、影達が目標に根を下ろしていく。
 僕はちらりと同行者を見た。カゲボウズ達の圧倒的なその数にヨルノズクはいよいよ羽毛を逆立て、そのトレーナーは絶句していた。
「僕もちゃんと数えた事はない。でもこれだけいたら、岩の一個くらい動かせそうだろう?」
 僕は笑みを浮かべる。
「おおよその数は三百ってところかな」と、続けた。
 カゲボウズ達の眼が一斉に光る。取り憑いた衣が岩の中に根のようになって食い付いていく。物理的な力に念動力、それらのタイミングを合わせて、影達は岩を引っ張った。
 一回目は手応えが無かった。だが、
「腹が減っているだろう? 喉が渇いているだろう?」
 影達をけしかけるように僕は言った。
 カゲボウズ達がざわついた。鬼火が一層激しく燃え上がる。闇色の衣がより深くに根を伸ばし、溶け合っていく。そう、人間と一緒だよ。僕は微笑む。守り岩と彼らは一体になっていく。ドクンドクンと脈動が伝わってきた。
 さあ、行け。僕は彼らに鼓動を返す。
 直後、ミシリという感触が地面から伝わってきた。続けて。僕は影達に信号(サイン)を送る。
 二回、三回、カゲボウズ達は力を込める。ミシリ。ミシリ。岩は僅かに少しずつ動いていく。
 いいよ。もう少しだ。もう少し。タイミングを逃さぬよう、感覚を研ぎ澄ます。そして、
「今だ」僕は声を発した。
 メリメリという今までにない音がした。そうして岩は地の束縛から放たれた。抜けてしまえばあっけないもので、いとも簡単にふわりと浮かぶ。さすがに三百匹分の力は伊達ではない。岩が抜けたその場所に田の水が流れ込んでいく。
「よくやった。さあ、戻して」
 僕は指示を下す。栓は一度、抜かれた。これで封印は壊れたはずだ。ならば見た目上は現状回復を図らなくてはなるまい。カゲボウズ達がそっと岩を戻していく。穴から濁った水が逆流して、田んぼを黒く染めていく。
 同時に僕は以前の事を思い出していた。カイナの呪い絵馬、あれも蓋で隠されていたと。
 そうして待った。きっと来る。ここには何かが現れる。僕にはそういう確信があった。
 それは直感。捕食者たる僕らの直感だった。
 直後、ぞくぞくとした感覚が僕らを襲った。寒いような熱いような感覚だった。
 それは土の中を伝って集まってきたように感じられた。エンビの土地中にばらまかれた何か。それがここに集まっている。そんな感覚だった。
「来る……来るよ」
 笑みを浮かべて僕は言った。ツクヨミやスギナさんも何かを感じているらしく、足元を注視している。カゲボウズ達が守り岩から離れる。「それ」を迎え撃つ準備をとった。
「ツクヨミ、スギナさんを守って」
 念のため、ふくろうポケモンに言っておいた。
 瞬間、濁った水田から飛沫を上げて何かが飛び出した。
 「それ」は一直線にスギナさんに向かっていった。ツクヨミが翼を翻す。バシッと音が鳴って水田に叩きこまれる。スギナさんが地面にへたり込んだ。逃げるだけの余裕はなさそうだった。そっちか、と舌打ちする。僕を狙って来れば楽だったのだが。
「もっと来る」僕は呟いた。
 そうして「それ」はまたすぐに現れた。今度は水田のあちらこちらから五本ほど出た。その姿は植物の根のように見えた。鬼火が襲いかかる。三本が焼かれて燃える。だが残りの二本がスギナさんに向かっていく。炸裂音が二回鳴った。またしてもツクヨミがそれをはらったのだ。
 だが「それ」は間髪を入れない。再び水田の中で体勢を立て直し、水音を立てる。数が増える。人間の腕ほどの太さの黒い根が九本、十本、数を増やしていく。
 ポケモンの技、自然の力に似ている――そう思った。
「鬼火」
 カゲボウズ達の眼が光る。一斉に炎が生まれ、田の水に眩しく映る。だがやはり全部は燃やし尽くせない。水の中に逃れ残った「それ」がツクヨミとスギナさんに向かっていく。
 が、まさに「それ」が彼女らに到達し、捕らえようとせんとした時、何かに縛られるように動きを止めた。ツクヨミの眼が青白く光っていた。神通力だった。
「やるじゃないか」僕は微笑む。フンッとツクヨミが息を荒くした。
「ヨミちゃん、そんな技使えたの……?」
 へたり込んだスギナさんがやっと一言、そう言った。
 カゲボウズ達が水田を包囲する。神通力に取り込まれたその根は鬼火に捕まって燃やされていく。僕はツクヨミを見ると、言った。
「田んぼの水、脇に避けられるかい?」
 ヨルノズクは再び眼を光らせた。
 彼女は前に進み出る。羽毛を逆立て足を踏ん張った。すると彼女の足元近くからまるで道を作るように水が引いていった。
「行け」僕は影達に命令する。水が裂けてできた道にカゲボウズ達が殺到した。新しい根が襲ってくる。何十匹かが弾かれる。だが物量で押し通した。残った者が根を受け止め、更に残った者が進んでいく。水が裂け、道を作っていく。神通力が到達し、湧き出る黒い根の根幹が姿を現した。
「喰え!」カゲボウズ達が喰いつくように「それ」を捕まえた。
 衣が根のように絡み、捕らえる。本体を水上に引きずり出した。
 瞬間、濁った水が戻ってきて道を塞いだ。何匹かがぐっしょり濡れたが、結果のほうが重要だった。横目にツクヨミを見ると肩で息をしていた。相当無理をしたらしかった。
「……やっぱり君は頭がいいね」
 少し申し訳なくなって僕は言った。彼女は僕のやりたい事をちゃんと理解していた。僕は水田に視線を戻す。
 水田の水面のその上では「それ」とカゲボウズ達が揉み合いになっていた。だが、勝負は明らかだった。捕まえてしまえばこちらのものだ。恨み、憤り、負の感情は彼らに勝てない。強ければ強いほど悦ばせるだけだ。
 影達は捕まえたその根に自分達の根を浸透させていく。昂ぶったカゲボウズ達は眼を光らせる。残ったものが集まって、次々に融合していった。彼らは人を喰う形態に近づいていく。その様子はさながら水田に一本の木が生えたようだった。
「土地に根付いた恨み、か」
 僕は神主さんが見せてくれた種籾を思い出していた。遠い昔から受け継がれてきた種、いつか芽吹きを待つ種の事を。いつからかぼんやりと抱き始めた仮説、それが今回この土地で確信に変わった。僕は自然と笑みを浮かべていた。
 そう、種は芽吹きを待っている。おそらくは様々な土地に様々な形で埋まっている。カイナ白羽波の絵馬、そしてこのエンビの土地に封じられていたもの。そういう世界は確実に存在する。あちこちに、確かに息づき存在するのだと。
 そうでなくてはわざわざ出向いてきた甲斐が無い。腹を空かせている者達、喰っても喰っても満たされない者達がたくさんいるのだ。それは歌にある十の子どころの話ではない。
 ずるりずるりと影達が根を水上に引ずり出していく。引きずり出した傍から取り憑き喰らってゆく。力なくうな垂れたそれは既に抵抗をやめ、ぼろぼろと崩れ始めていた。
 遺っていたのは技、エンビの土地に根を張っていた自然の力だった。けれど、恨みを遺した者の実体は既に消え失せているらしかった。
 できる事なら技の主が生きていた頃の姿を見たかった。不謹慎ながらそう思った。

   *

 百を越えるカゲボウズの群れ。そんなものには旅の間にだってお目にかかった事はなかったから、目の前の光景を理解するのにはしばらくの時間を要した。外の人間が新しい文化を連れてくる、そうツキミヤさんは言ったけれど、それはまさに彼に当てはまるのではないだろうか。
 尤もそれは文化というより、カルチャーショックの類だ。エンビという土地に踏み込んできた彼は禁忌を侵し、報いが形となって襲い掛かった。だがそれは食べられてしまった。彼が連れていた飢えたてるてる坊主達に。
 目の前では元凶が形を崩し、水の中に落ちていく。私は鬼火が照らすその光景を呆然と眺めている。同時に今更ながらに確信を持っていた。
 タエさんの息子さんを殺したのは、あの根だ。捕まったら吸い取られるのだと。もしあれに捕まっていたらツキミヤさんが説明したあの記事のような目に遭って私は死んだのだ。そう認識して背筋が寒くなった。
「危なかったね」
 ツキミヤさんがさらりと言って、ヨミちゃんが怒りの声を上げる。
 私はヨミちゃんを慌てて抱きとめた。彼と争うのは得策じゃない。何より彼女にこれ以上無理をさせたくなかった。
「まさか、君を狙ってまっすぐ行くとは思ってなかったんだ」ツキミヤさんが続けた。
「ごめん、君が末の子だって忘れていた」
「え?」
 私は呆けた声を上げる。
 食事を終えたカゲボウズ達がツキミヤさんの所に戻ってくる。彼らはツキミヤさんに身体を摺り寄せた。ツキミヤさんもまた、応えるように微笑んで、何匹かの頭を順番に撫でる。
「だってこの土地の末の子には特別な意味があるだろう?」
 カゲボウズ達の頭を撫で、足元の影に取り込みながら彼は言った。
「二ツ尾命は十の子、特に末の子をかわいがっていたそうじゃないか」
 腑に落ちたと同時に、再びぞくりと寒気が走った。黒い根が私に向かってきたその理由、それを理解したからだった。私は姉妹の一番下……末の子だった。
「これは末の子にかけられた呪いなんだ」
 そう彼は続けた。影はみるみるうちにカゲボウズ達を吸収していく。そうしてそのうちに、彼は納得したように頷きを繰り返した。
「そう。やっぱりそうなんだね」まるで誰かと会話でもするように独り言を言った。
「何を一人で納得してるの?」私が尋ねると、
「カゲボウズから情報を貰ったんだ」と、機嫌のいい返事が返ってきた。今回は水田を挟んでいたから、直接繋がってなかったんでね、と。
 貰った? 私は聞き返す。そうだよ、と即答された。
「さっき言っただろう。二ツ尾命は外から来た神様だって」
「う、うん」
 私は流されるままに返事をした。何が言いたいんだろう。
 すると、
「まず神様というのは実在する」
 唐突にツキミヤさんは言った。
「昔はポケモンの中でも特に力を持った特別な個体を神様として扱っていたんだよ。二ツ尾命もそういうポケモンのうちの一匹だったんじゃないかな」
 そう続けてまた白羽波を例に挙げた。「さっき呪い絵馬の話をしただろう?」と。
「呪いを広めていたのは神社の巫女さんだった。カゲボウズに喰わせた時に彼女が白状したのさ。呪詛の方法を神様に教えて貰ったってね」
 いわゆる神託ってやつなのかな、と彼は語った。けれど、最初はうわ言か妄想の類と思っていたとも言った。
「ただ、それでは呪いを思い付いた説明がつかなかった。だから考えを変えた。少なくとも彼女に呪詛を教えた何者かがいると。それはこの道に詳しい同業の可能性が高いけれど、もしかしたらそれ以外も有り得るかもしれないってね」
 もちろん確証は無かった。直感のようなものだったけど、と付け加える。
「けど、この土地でそれが確信に変わった。さっき喰ったあれの本体は、昔に何者かに滅ぼされた。だから恨んでいたんだ」
 そうしてこう結論付けた。
「だからいるよ。二ツ尾命は。すごく昔、確かに彼女はこの土地にあった」
 不思議な気分だった。外からやってきた人が神社の人間に神様の実在を説く。けれど、悪い気はしなかった。二ツ尾命は私の所の祭神で、豊穣の神様、エンビの守り神だ。そんなポケモンが本当にいたのだとしたら。そう思うと嬉しくなったし、見守られている気にもなったのだ。
 けれど私は次を聞いた時に後悔する事になった。だってツキミヤさんはこう言ったのだ。
「二ツ尾命はいた。そして外からここにやってきた時、罪を犯したんだ」
「罪……?」
「言っただろう。滅ぼされて封じられてるのがいるって。彼女はね、前に住んでいた土地の主を殺したんだよ。それでこの土地を奪い取った。それからだ。この土地の名前がエンビになったのは」
「そんな……」
「子供のためだよ」
 ツキミヤさんが言った。
「歌にもあるだろう。十の子を末の子を大きく育てにゃ母にはあらずってさ。彼女は子供を食わすために入植して、人に稲を育てさせた。けれど、排除された前の土地の主は死ぬ前に呪いをかけたんだ。お前のかわいい末の子を殺してやるってね……」
 私は黙りこくってしまった。二ツ尾命は豊穣の神様でエンビの守り神、偉大なる母。そう聞かされて育ってきた。その神様がそんな事をしていたなんて。
「歴史なんてそんなものだよ。それに彼女が君の町の守り神で、母である事は変わらない。そういうものなんだ。認められないならそれでもいい。都合の悪いところは無視していい。君は君の神様の好きな部分だけ愛せばいいんだよ」
 ツキミヤさんは冷めた調子でそう言った。渇いた言葉だと思った。私はまだそこまで割り切れない。
「もちろん君の神社の神様だけじゃない。ツグミさんの件もそうだ」
 追い打ちをかけるように彼は言った。ずしんと言葉がのしかかった。
「僕らは恨みを喰らう。君の中でぐちゃぐちゃしてるそれも、全部すっぱり取り除いてあげられる」
 けどね、と彼は付け加えた。
「それは楽しかった思い出も、何もかも全部棄てるって事だ。愛した時間があるから憎む。楽しい時間を共有したからこそ憎むんだよ」
 憎しみだけを切り離す事なんてできないんだと彼は続けた。
「それとも君は、楽しかった思い出まで全部棄てる覚悟があるのかい」
 ツキミヤさんがしゃがみ込む。ヨミちゃんにしがみついてへたり込んだままの私に、目線を合わせた。ヨミちゃんが息を荒げる。けれど無視をした。
「スギナさん、僕はね、ツクヨミと取引をしたんだ」
 言い聞かせるように彼は言った。
「神事の守り岩を教えて貰う代わりに君には手を出さない、カゲボウズには食べさせないってね。だから君の胸に燻っているそれはちゃんと君で処理してくれ」
「ヨミちゃんが……?」
 私はヨミちゃんを見る。けどヨミちゃんはぐるんと首を回し、顔を逸らしてしまった。
 夜はいつもの静けさを取り戻している。二、三灯残った鬼火が私達を照らしていた。

   *
 
 一夜が明けた。リュックに本をぎゅうぎゅうに詰め込むと、僕は図書館に返却に向かった。道の途中にはあの守り岩もあるし、様子を見ておきたかった。
 平和な朝だった。夜にあった事は僕達とスギナさん、ツクヨミしか知らない。いや、鬼火の光くらいは見られたかもしれないが、さしたる問題にはなるまい。守り岩の秘密を長い間隠蔽してきた町の人々はおいそれとそれを漏らさないはずだ。更に言えば、スギナさんの世代はちゃんとした理由だってよく知らなかった訳だから。
 空にはスバメが舞っている。天気は晴れが続いていた。肩のネイティが機嫌良さそうに尻尾を振っている。そして、問題の守り岩に近づいたその時に見た事のある男の子が立っている事に気が付いた。初めに僕に気が付いたのは本人ではなく、足元にいたスバメのほうだったけれど。スバメが鋭い声を上げ、ショウタ君がこちらに振り向いた。
「あ、ツキミヤさん」
 ショウタ君がそう言って、やあ、と僕は手を上げる。
 スバメがますます鋭い声を上げたけれど、気にはならなかった。スバメはショウタ君を守ろうとしている。むしろ信頼が増している証だと思った。そんなスバメをショウタ君は抱き上げて落ち着かせた。
「おはよう、ショウタ君」
 僕は挨拶をする。ネイティもまたスバメを見て、赤アンテナを振った。
「ツキミヤさん、こんな所に何の用?」
 何も知らないショウタ君は僕の気を逸らそうとしてか、そんな質問を投げかける。
「本を返しに来たんだよ」
 僕はリュックを指して言った。ショウタ君はほっとした様子だった。
 去り際にちらりと水田を見る。濁っていた水はだいぶ泥が沈殿してきているように思われた。少し稲が荒れている気がしたが、それは知らない顔をしておこう。過去に神社の世話になったであろう田の持ち主も下手には騒ぎたてられまい。
 僕達は図書館に到着し、僕は本を返した。ショウタ君は何か調べたい事があるらしく、子供向けのコーナーへ入っていった。スバメの事を調べるつもりだろうか。そう考えて少し嬉しくなった。昨日、図書館の話をしたからかもしれない。
 そろそろレポートの事を考えないといけなかった。僕は閲覧席に座って、あれこれと構成を考え始める。結論はこうして、残りは。考察は。おおよその概要を頭の中で組み立てる。組み立て終わって、ぱらぱらとそのあたりにある本を見始めた頃にショウタ君がやってきた。
 そうして彼は、意を決したように僕に面と向かった。
「ツキミヤさん、お願いがあるんだ」
 聞けばバトルの申し込みだった。
 ネイティとスバメとでバトルをさせて欲しい。彼はそう申し入れてきたのだった。
「いいよ」
 僕は快諾し、そして時間を考えた。少しレポートを進めておきたかった。
 検討の結果、三時頃になれば集中力も途切れるだろうから丁度良いように思われた。僕達はその時間に神社の境内で会う約束をした。
「分かった。三時だね!」
 ショウタ君はそう言うと、特訓だーなどと言って図書館を出ていった。

   *

 お姉ちゃんが帰る時が来た。お昼ご飯に蕎麦をすすって、荷造りを始める。私も手伝った。
「いいことスギナ、何かあったらすぐ呼ぶのよ」
 ぎゅうぎゅうとリュックに着替えを詰めながら、お姉ちゃんは言った。
「今はバカ息子も旅立っちゃったし、私はある程度余裕あるからさ」
「うん」
 私は答える。
「お母さん死んじゃってからさ、アンタには苦労かけてると思ってるんだ。だから何かあったらすぐに呼ぶのよ」
「うん」
 私達は何度も何度もそんなやりとりを往復させた。
 荷造りを終えると、お姉ちゃんは別室に移る。襖を開けると先祖代々の祖霊舎が目に入る。お姉ちゃんは瓶子と水玉の蓋を外し、神社に参る時と同じように柏手を打った。私も習った。
 母への挨拶を終えて外に出る。父が待っていた。
「お母さんに挨拶してきたかい」
「うん、さっき」
 お姉ちゃんが答えて、じゃあ行こうかと父が言う。私達は歩き出した。エンビタウンの入り口まで送っていくつもりだった。
「隣町まで遠いぞ。大丈夫か」
 父が尋ねる。するとお姉ちゃんは何言ってるのよ、と笑い、腰のベルトにつけたモンスターボールを指した。
「これでも昔はトレーナーだったんだから、歩くのは慣れてるよ。疲れたらポケモンに荷物だって持って貰うし、それに今回は乗れるポケモンだっているもんね」
 町の入り口まで歩く、それは家族で喋る貴重な時間だった。
 途中で郵便配達中のウミちゃんとすれ違い、三つほど田んぼを隔てた先に自転車を走らせるユウサク君の姿を見かけた。ムクホークは相変わらず荷台に乗っている。どうやらあそこがお気に入りらしい。
 お祝いの件、どうしよう。迷いながら私は歩いていく。
 今年旅立つ女の子二人ともすれ違った。
「こんにちは」
「こんにちは」
 彼女達は挨拶した。腕には神事で引いた鳥ポケモンを抱いていた。
 やがて入り口に到着すると、お姉ちゃんはモンスターボールからポケモンを繰り出した。
「じゃーん。旦那に貸して貰ったの! かっこいいでしょ!」
 出てきたのは、角に梅に似た花をつけたオドシシ風のポケモンだった。
「夏になるといっぱい葉っぱが茂るんだよ」
 お姉ちゃんはそう言うと、よいしょっと背中によじ登る。
「じゃあ、またね」
 パカパカと地を蹴って梅の角ポケモンが走り出す。お姉ちゃんがポケモンの背中から手を振って、私達もまた手を振った。そうしてお姉ちゃんとオドシシ風ポケモンの姿はあっと言う間に小さくなって、見えなくなってしまった。
 戻ろうか。私は父に言った。すると、
「その前に寄りたい所がある」
 と、父が言った。
 お前もちょっと付き合いなさい。そう父は続けた。

   *

 一時過ぎか。タブレットに表示された時間を見て呟いた。
 石段に腰を掛けた僕は、夫婦杉をぼうっと見上げている。程よく日光を遮る木漏れ日が優しかった。明日には杉を三周した子供達がエンビタウンを出発する。
 この木を一緒に三周した男女は夫婦となり、同性なら親友となり、ポケモンなら最良の相棒になる――その言い伝えを僕はぼんやりと思い出していた。
 三時にはショウタ君とのバトルがある。スバメの対戦相手はネイティだ。
「どうするかな」僕は思案する。
 できれば彼に花を持たせてやりたい。けれど、目の前でちょろちょろしている緑玉は意外と侮れないという事を僕は知っている。白羽波での鋼の翼チョップは記憶に新しい。
 痛い目を見たのがカゲボウズ達に共有されているのか、手持ちにネイティが入った後でもさしたる問題は起こっていなかった。カゲボウズ達はめったにネイティにちょっかいを出したりはしない。
 僕はタブレットを指で小突く。おもむろに「スバメ」で検索をかけた。
 ついさっきまで離れでレポートを進めていた。だが、書く事こそだいたい決まっていたものの、タブレットのキーボードがあまりにも打ちにくいのでやめてしまった。かさばるので置いてきてしまったノートパソコンを恋しく思った。次の町のセンターでパソコンでも借りるのがよかろう。僕はもうすっかりそんな気分になっていた。
 検索ワード、スバメ。その結果が画面に並ぶ。その項目を何気なしに見ていく。
「へえ、特性は根性……ね」
 僕はちょろちょろと動き回る緑玉を見て、しばし思案をする。すると何を考えているんだという風にネイティが見つめ返してきた。

   *

 神社へ帰る道とは外れ、私達は歩いていく。父が私をどこに連れていきたいのか、それはある道に差し掛かった時に明らかになった。父の背中を追って歩く細い道の横には休耕田。もう何年も水を引いていない田んぼがある。そこには草がぼうぼうと生えて、その中に小さな守り岩が一つ、佇んでいる。注連縄の紙垂が風で微かに揺れていた。
「ツグミちゃん、早ければ明日帰るそうだね」
 父が言った。
「……うん」
 私は小さく答えた。
 この先はツグミの家だった。町の外れのほうにあって、この道を使う家は一軒しか無い。
 胸が痛んだ。ツキミヤさんの言うように結局、彼女からは逃れられないのだと知った。会わなくちゃだめだよね……。どういう風に向き合うか、決めなくちゃいけないよね。私は少しずつそんな事を考え始めていた。ユウサク君達の案に乗っかれば、少しは祝福してあげる事もできるだろうか。会えばぐちゃぐちゃしたこの気持ちも何とかなるのだろうか。彼女の実家がすぐ目の前に見えてきた。
 ここを訪れるのは本当に久しぶりだった。ずっと昔に一、二回来た覚えがあるけれどこんなに小さかったっけ、古かったっけ。そんな事を思った。小さい頃はあまり意識していなかったように思う。
 到着すると父がインターホンを押した。ほどなくして中から人が顔を出す。ツグミのお母さんだった。思えば久々に見る顔だった。
「あらまあ神主さん、わざわざ来ていただいて……」
 恐縮してツグミのお母さんは言った。昔より老け込んだ顔がそこにあった。
 少し埃っぽい居間に上げられた私達にお茶が運ばれてくる。畳の上にある粗末なテーブルを挟んで、私達とツグミのお母さんは向かい合った。彼女は時々咳をした。顔色はあまりよくない。昔から身体がよくない事はなんとなく聞いていた。
「本当はこちらからお伺いするべきですのに、申し訳ありませんね」
 ツグミのお母さんは言った。
「いえ、どうかお気になさらず。ご自愛ください」
 父が返す。そして、
「この度はお祝いを伝えに参りました。ツグミさんのポケモンリーグ出場、おめでとうございます」
 と、言った。ズキンとまた胸が痛んだ。
「これはご丁寧にありがとうございます。あの子ったら、ろくに連絡して来ないんですよ。年賀状しか寄越さないから何してるのかと思ったら。まさかそんな事になっているなんて」
 ツグミのお母さんが返す。悪かった顔色が少しだけ明るくなった。そうして再び恐縮した様子で続けたのだった。
「思えば、出発の時はずいぶんとご迷惑をお掛けしました」
「いえ、どうかお気になさらないで下さい。全員がつつがなく出発できるようにするのも私の務めだと思っておりますから」
 父が返して、少し違和感を持った。
 どういう事だろう。こんな話は初めて聞く。ツグミの出発に関して何かあったのだろうか。
「あの時は私も迂闊でした。どこからかツグミさんの耳に入ってしまったんですよねえ。お陰で娘さんにはずいぶんと余計な気遣いをさせてしまった事と思います」
「いえ、当然の事です」
 と、ツグミのお母さんが言う。ますます訳が分からなくなった。
「お陰でツグミは一緒に旅立てましたから。不憫な思いをさせずに済みました。感謝してもしきれません」
「いえ、旅費が無くなってからは本当にツグミさん次第でしたから。ツグミさん自身が道を開かれたのです。しっかりした娘さんを持たれて羨ましい。以前にもお伝えした通り、あの時に援助した分もすでに返ってきておりますし……私はいいって言ったんですけどね」
 父が苦笑いした。
 私は思わず父の横顔を見た。そこまで来て、ようやく話が見えてきた。
「いえ、お借りしたものをお返しするのは当然の事です」
 ツグミのお母さんが言う。けれどもう会話はあまり私の耳には入っていなかった。
 …………そうだったのか。
 私はスバメを手に本当に嬉しそうにしていた彼女を思い出していた。
 ツグミは……あの時、本当は旅に出れるかも危うかったのだ。思えば、彼女の家には昔からお父さんがいなかった。お母さんも病気がちで、よくうちで夕食を。
 ツグミには……ツグミの家には……。
 お金が無かったのだ。それでも旅立てるようにと父は当面の旅費を用立てた。
 けれど、謎が解けたのとほぼ同時に、私の中に嫌な雲が立ち込めた。
 でも、それじゃあ。
 あの時、出発の時に立ち往生している私にツグミが声をかけたのは……。
 一緒に行こう。そうツグミは言った。
 けれど、あれはお父さんに気を遣ったから?
 私と一緒に旅していたのは、お父さんに気を遣っていたから?
 そう思った瞬間、怒涛のように濁流が走り抜け、考えが止まらなくなった。だからなの? その問いが止まらなくなった。
 だからなの?
 バトルを教えてくれたのも。
 捕獲に誘ってくれたのも。
 みんな?
 みんな、みんな……?
 私の中でぼろぼろと何かが剥がれ落ち始めていた。鼓動が激しく脈を打って、記憶がぐるぐると頭を駆け巡る。思い出せば思い出す程に当てはまる事がたくさんあった。だってツグミはよく言っていたのだ。
「早く賞金を稼げるようになりたい」
「早く一人前になりたい」
「スギナちゃんが気に病む必要は無いんだよ」
「これは私のためでもあるんだから」
 口癖のように何度も何度も言っていた。あれは全部、そういう事だったのか。
 それに……
 それに、ランニングシューズ。まっさきに買いたかったと言っていたランニングシューズ。
 彼女は自分で買いたかったんじゃない。買って貰えなかったのだ。

 けど、それなら私は。
 ツグミにとって私の存在は……。

「ねえ、スギナ。私達これ以上一緒にいるべきじゃないんじゃないかな」

 思い出す度に突き刺さるあの言葉。あれは用済みって意味だったの?
 もうお父さんに頼らなくていい、そういう算段が立ったから。だから、私を棄てたの?
 ねえ、そういう事なの? 
 私は何だったの? あなたにとって、私って何だったの?

「そりゃスギナはいいよ。帰って神社を継ぐ事だってできる。でも私は違うの」

 にわかにツグミの声が聞こえた気がした。
 崩れ落ちた。最後まで信じていたものすらも音を立てて崩れ落ちた。
 だって私は信じていたのだ。棄てられたと言いながらも、ずっと信じていたのだ。
 心のどこかで信じていた。ツグミは私の事を好いていてくれたんだって。
 だから一緒に行こうと言ってくれたんだって。
 でも私はツグミについていけなかった。だから私達は別れるしかなかったんだって。
 けど。これは。
 馬鹿みたい。どうして気が付かなかったの。何も見えていなかったのは、私だけ。
 私という存在は、最初から――

 お父さん達が和やかに話を続けている。けれど、頭がぐらぐらとした。光景が波打ってるみたいに見える。
 早くこの場を立たなくちゃ。そう思った。そうでないと喫茶店の時みたいな事になってしまう。早く……。
 けれど、私がものを言おうとしたその次の瞬間、父が決定的な言葉を吐いた。
「いやぁ、私も鼻が高いです。リーグでツグミさんが活躍してくれれば、子供達はみんなスバメを欲しがるはずですよ。そうしたら鳥替えも本来の形に戻せるかもしれない。本来の鷽替えにね」
 耳を疑った。
「……ごめんお父さん。私、急用思い出した。もう出るね」
 私はそう言って席を立った。動悸を悟られまいとただただ必死だった。けど、きっと声は震えていた。
 鳥替えを鷽替えに戻す。受け入れられない言葉だった。
 私は小さなその家を飛び出し、休耕田の細い道を駆けた。早く逃げたかった。
 それじゃない。違う。それじゃない。違う。それじゃない、それじゃない! 私は道すがらに何度も何度も唱えていた。
 私が欲しいのはそれじゃない。
 私が受け継ぎたかったのは。
 だって私にとっては、もう神事とは鳥替えなのだ。私のヨミちゃん、同期のみんなが貰ったポケモン達、みんなそれぞれとうまくやっていて、幸せそうにしていて。それなのに。どうして今更戻そうなんて、そんな事言うの? どうしてツグミに合わせなきゃいけないの? 私にはもうこれしかないのに。棄てられた私には、これしか残っていないのに。
 道を進んでいく。大守り岩の横を過ぎて、喫茶近くの守り岩をも通り過ぎる。後ろには誰もいない。父が追ってくる様子もない。それなのに追われているような感覚が抜けなかった。
 来ないで。そう思った。
 来ないで。お願いだから。私の領域に入って来ないで。私を利用して、棄てておいて、その上ですべて手に入れて、それでも私から奪おうって言うの?
 私にはこれしかない。もうこれしかないのに……。
 そのうちに雑木林の入口に辿りついた。少し離れた場所でショウタ君がスバメと遊んでいるのが見えた。挨拶をする事も無く早足に通り過ぎる。今は鷽なんか見たくも無かった。
 今、私が会いたいのは一人だけ。ただ一人だけだ。
 けれど私は一度、立ち止まらざるを得なかった。雑木林の道に大きな影が一つあったからだ。大きなふくろうポケモンが道を塞いでいた。月を司る名前を持つ、神事で引いた私のパートナーだった。
「ヨミちゃん……」私は歯切れ悪くその名を呼んだ。
「寝てればよかったのに。今は活動時間じゃないじゃない……」
 そう言うとヨミちゃんはじっと私を見上げた。赤い瞳が語っていた。今ならまだ引き返せると。長い間付き合っていればそれくらい分かる。けれど、
「……ごめんね、ヨミちゃん」
 私は言った。行かなくちゃいけないの、と。
「聞いて。もうツグミは傍にいないの。ううん、最初から私の知ってるツグミなんてどこにもいなかったのよ。やっとそれが分かったの。だから行かなきゃ。これからは一人で歩いていかなくちゃ……」
 たぶん私は、私自身に言ったのだと思う。ヨミちゃんではなく、私自身を納得させるために。
 そう、これは逃げじゃない。新しく始めるため。逃げなんかじゃない。
「私ね、きっとまだツグミと旅をしている気でいたのよ。終わった事にも気が付かなくて、まだ旅をしてるつもりだったの。ツグミの思い出と旅してた。でも時間が来たのよ……」
 ヨミちゃんの瞳をまっすぐ見て、私は言った。
「私、神社を継ぐ。鳥替えを継ぐ。だからもうあの子に影響されちゃいけないの。入ってこさせちゃいけないの。振り回されちゃいけないのよ」
 矛盾しているようにも思われた。けれどもやはりそう思った。そうするしか無いと思った。
「決別しなくちゃ。これからは私一人で行かなくちゃ……」
 これでいいんだよね、ツグミ。
 私達はもう一緒にいちゃいけない。
 もうあなたの思い出――幻影と一緒にいるべきじゃない。
「行くね」
 私はヨルノズクの横を通り過ぎた。

   *

 風が匂いを運んできて、足元がざわついた。
 来る。あの子が来る。それが僕らにははっきり分かった。
 あの子が来る。より甘い匂いを纏わせて、こっちへ来る。近づいてくる。
 鳥居を見た。ほどなくしてその人が現れる。彼女は黙って近づいてきた。
「助けて」
 杉の下、服の端を引っ張って彼女は言った。
 僕はこの子の友達との約束が気に掛かった。けれどその友達は鳥居の下に少しの間だけ姿を現して、そして飛び去ってしまったのだ。
 いいんだね? 僕はそっと尋ねたけれど、返事は風に紛れ、聞こえなかった。だから、
「いいよ」僕は彼女に囁きかける。
 だって渇いていたから。夜明け前にあれほど甘い蜜を吸ったのに、影達は彼女を欲していたから。何よりも僕自身が渇いていたから。
 ディナーの時に繋がり損ねて、獲物を味わえずじまいだったのだから。
 影が躍って彼女を捕まえる。神木に縛り上げた。白い肌に食い込む影が脈を打つ。
 僕は果実に口をつけた。
 約束の時刻は三時。それまで時間はたっぷりあった。

   *

 影が登ってくる。じわりじわりと登ってくる。私の中に侵入してくる。
 日の下で見た彼の影は夜なんかよりずっとずっと暗く見えた。
 ふと神木を見上げる。夫婦杉は程よく日を遮って、木漏れ日は優しかった。ああ、あの時もこんな天気だった。私はそう思い出していた。かつて私達はこの杉に願を掛けたのだと。
 今更に思う。杉の木に不変を願ってはいけなかったと。
 だって、回る事は移り変わっていく事だから。ひとたび杉を回るその度に同じではいられないのだから。
 いや、むしろ今、変わっていこうとしているのか。今がその時なのか。三周して始まりの場所に戻ってきて、新しく始めようとしているのか。
 そうだったらいい、そうだったらいいな。溢れ出る闇に抱かれながらそう思った。
「私ね、ツグミの事、好きだった。好きだったんだよ」
 私は言った。
「知ってるよ」
 ツキミヤさんが応える。
「ずっと好きでいたかった。ずっと一緒にいたかった」
 うわ言のように私は呟く。何度も何度も、そう呟く。
「分かってる」
 その度に彼は応える。
 そうして問う。私は問う。私は何を憎んだの? と。
 利用された事なのか、棄てられた事なのか、自身のふがいなさなのか、と。それとも本当に手の届かない所に行ってしまった事なのか、と。
 私達は道を違えた。たとえ一時的に物理的な距離が近づいても、その距離は遠いまま。近づく事でそれを思い知らされる事を恐れたのか、と。
 答えは出ない。きっとそれは一個じゃなくて。もっと複雑で、ぐちゃぐちゃしていて。どうしようもなくて。けれど、それでも。
 一緒にいたかった。
 結局、それに辿り着くんじゃないだろうかと、そう思うのだ。
 記憶が巡る。たぶん思い出すのは最後になる。
 視界が滲む。声は空に吸い込まれ、消えていく。


「一緒に行こう」
 それは遠い日の声、遠い日の約束。
 昔、二人が掛けた願い。
 脆く、儚い、繋ぐもの。