11.

 太陽が南に高く昇っていた。
 立派な体格の男達が博士の棺を運び出す。多くの島民達は船付場に集まると、それぞれが小型の漁船に乗り込んだ。
 エンジンがかかる。最初に博士を乗せたボート大の船が出発すると、後から他の船達が波を切裂きながら走り出した。
 この島では誰かが死ぬと島からしばらく走った沖合いに行き、そこに死者を沈め、水葬を行ってきた。だから島には火葬場が無い。ホウエンの離島やサイユウ付近では珍しいことではなかった。旧い時代、海の信仰の影響下にあった彼らは母なる海に自らの身を還すことを良しとした。今ではだいぶ減ってしまったものの、海を信仰した民族の末裔である彼らの一部はその伝統を受け継いだ。それは資源の限りある島における彼らなりの工夫でもあった。
 今日、海に沈むカスタニは島の生まれではない。だが天涯孤独の身であった彼は、生前からフゲイ島式の葬儀を強く希望していたという。自分には生まれ故郷の縛りは無いから。私の終の棲家はここだから。彼はよくそう言っていたという。島民達もそれをよく知っていたから、手続きはいつもの島式に滞りなく行われた。
 人々は朝食を済ますと、海岸に繰り出した。そこで彼らは花を探した。橙色のユリであるハマカンゾウ、濃いピンクの可憐な花を咲かすハマナデシコ、上品な白のコマツヨイグサ――岸に咲く様々な海岸植物の花を摘み集め、去る者への手向けとした。出棺するその前に、島の住人達は一人、また一人、棺に花を入れていった。トシハルが入れ、ミズナギが入れ、アカリが入れた。ダイズも一輪入れた。棺の中が花で満たされると、彼らは棺に釘を打った。それが終わると、棺が男達によって運び出され、小さな船に乗せられた。
 博士を乗せた船が走っていく。同じ船にトシハル、それに昨日の通夜祭を行った宮司姿の神職など限られた数人が同乗していた。アカリとミズナギはその様子を別の船で追いかけながら見守った。
 島が見えるくらいの、ぎりぎりの沖合いで船は止まった。博士の船の上で神職が御霊の食事である餞を出し、故人に差し上げる儀式を行った。それが終わると祭詞奏上(さいしそうじよう)を行った。故人の略歴を神道作法の下に読み上げる行為だった。次に行ったのは誄歌奏楽(るいかそうがく)、故人を慰めるしのびうたの奏楽であった。神職が笛を取り出し吹くと、その見習いの出仕が太鼓を叩いた。笛が奏でるのは旧い旋律だ。それは古来より島に伝わる海の音楽だった。その音が鳴っている間、島民達が手を合わせた。
 神職が口から笛を離す。音が止む。男たちが棺を持ち上げる。棺を頭のほうから徐々に水に浸からせた。棺の横に開けられた海水の進入口から海水が入り込み、棺の中へ流れ込んでいく。
 トシハルは押し黙ってそれを見つめていた。
 そうしてかつて博士が言った言葉を思い出していた。

「ねぇ、博士はどこかに行ったりしないよね」
 島から若者が出て行ったあの日、少年は博士にそんなことを聞いたことがあった。
「なんだお前、そんなこと心配してたのか?」
 そう言って、博士と呼ばれた初老の男性はまだ幼いトシハルの頭を撫でた。
「私はどこにもいかない。ずっとここにいる」
 そう、博士は続けた。
「トシハル、私はどこにも行かない。この島に生きて、この海に身体を還すつもりだ。この島の人達が代々そうしてきたように」

 ああ、これは覚悟だったのだ、とトシハルは今更に理解した。
 あの頃からもう博士は自らの生き様を決めていた。死に方を決めていたのだ。
 頭から入れた棺が十分に重くなると、やがて足のほうまで海水に浸からせて、棺は完全に彼らの手から離れる。沈みやすいよう二重構造の下段に石を敷き詰めたその棺はほどなくして水底へ落ちていき、見えなくなった。
 神職は島を出る前に棺を沈める作法を説明していた。海面を鏡に見立てるのです、と彼は説いた。そう考えると海に沈むことは、天に昇ることと同義になります。ですから頭のほうから沈めるのもそういうことです。頭から天に昇っていくという発想がそこにあるのです、と。
 碧の海に沈んだ棺はもう見えない。もう手が届かない空へ昇っていったのかもしれない。そのようにトシハルは思った。
 再び島民達は手を合わした。神職が餞を海に撒く。次いで酒瓶を開ける。島で育ったサトウキビを黒砂糖へと加工し、それらを醸造した黒糖焼酎だった。神職は瓶を振るようにして中身を海へ流し込む。黒糖で出来たその酒は生前の博士が好んでよく飲んでいたものだった。
 シュゴッ!
 突然近くで潮吹きの音がして彼らは振り返った。見ると大きな影が水面に浮かんでいた。
「ホエルオーだ!」と、誰かが叫んだ。
 近い。一匹のホエルオーが船団のすぐ近くまで寄ってきていた。
 海面に半分ほど身体を出し、ホエルオーがじっとこちらの様子を伺っている。
 トシハルはその個体を見る。Y字の尾鰭にサメハダーの仕業と思しき噛み傷がついていた。
 あっ、こいつは192番(イチク二)じゃないか。
 とっさにトシハルはそのホエルオーを個体レベルで判別した。この傷は間違い無い。博士は見つけたホエルオーに番号で名前をつけ、個体識別をしていた。そのうちの何頭かは分かりやすい目印があるから、ぱっと見て分かるのだ。船を走らせていると時々近づいてくる好奇心の強い個体だったから尚更だった。
 そんなイチクニだからしてきっと博士の顔だって覚えていたに違いない。だから気が付いていたのかもしれない。ここ数日博士が船に乗って海に出なかったことを。そして生物的な何かでもってこの状況を悟ったのかもしれなかった。
 トシハルはなんだか情けなくなった。自分にはイチクニに向き合う資格が無い。かける言葉がない。そう感じてずっと下を向いていた。
 ホエルオーはしばらくじっと船団を見ていたが、やがて方向を転換する。その余波で少しばかり漁船が揺れた。彼は沖合いへゆったりと泳いでいった。そうして何十メートルか離れたところまで行くと身体をひねり、巨体を中空に出すとブリーチングをした。海面が巨体に叩かれる。大きく高く水が上がって、おおっと人々が歓声を上げた。
 もしかしたらイチクニなりに博士を弔っているのかもしれない、とトシハルは思った。
「……さすがはクジラ博士の葬儀でございますなぁ」
 トシハルの隣で神職が感慨深そうに呟く。その上空でダイズが輪を描き、飛んでいた。
 船が再び島へ戻り、人々は散っていった。だが、それで終わりというわけではなかった。彼らは各家庭に戻ると仕込んでいた料理を温めたり、仕上げたりした。そうして日の落ちる頃になってまたぞろぞろと集まりだした。
 ある家庭は鍋物を持ち込んだし、ある家庭はご飯ものを持ち込んだ。また、ある家庭は魚料理だった。バイクに乗って、黒糖焼酎を持ち込んだのは島の酒造所の息子だった。彼らは通夜祭を行った集会場に御座を敷き、小さな低いテーブルをいくつも並べた。各家で用意してきた料理を持ち込んで、そこは直会(なおらい)の場となった。
「さあさあ、どうぞ一杯」
「これはどうも」
 島民達は酒を酌み交わす。そうして故人の思い出話に花を咲かせた。
「博士は結局いくづだったん」
「たしが九十だったと思ったがね」
「九十! そんりゃあ大したもんじゃ。大往生じゃなあ」
「学者ゆーんは好きなことさしとるけんの。長生きだって聞いたこどあるべ」
「そーいやあ、あん人がやってきた時も夏頃だったわ。えれー暑っちい日だったの」
「ああ、そうじゃった。あん頃ァ随分ウワサになっとったわ」
「アンタじゃなかったが? 一ヶ月もしたら帰るだろうっつったんは」
「そんなごとば言っとらん」
 思い出話は自然と進んでいく。酒も手伝って会話は大いに盛りあがった。
 元来博士は島の人間ではなかった。だが、島の人々に愛されていた。その光景を見てトシハルは少しだけ救われた気持ちになった。
 酒の勢いは止まらない。トシハルやアカリに飛び火するのにも時間はかからなかった。
「おい、トシい! ちょっとこっち来いや」
 と、いうような感じでトシハルは真っ先に巻き込まれたし、
「お嬢ちゃん、かわいいねぇ。いくづなん」
「どこから来たん?」
「トシとはいつ知りあったん?」
 などとアカリは質問攻めにあった。
 さらに人波を掻き分けてやってきたのは島の子ども達だった。
「あっ、いたいた! このおねえちゃんだ!」
 などと一人が叫び、それにつられて何人かが集まってきた。アカリは袖を引っ張られせがまれた。
「ねー、おねえちゃん、トレーナーなんでしょ!?」
「ポケモン見せて!」
「見せてー」
 島の噂の広がりは早かった。うきくじらに乗ってポケモントレーナーがやってきたという噂はすでに島中に伝わっていたらしい。子ども達にせがまれてポケモンを出したのがさらにまずかった。
「おうおうにいちゃん、いけるクチだねぇ」
 などと言われ鶏頭は絡まれて、酒を飲ませられた。
「お姉さん、美人じゃの。うちの息子とどうだね」
 などとサーナイトが縁談を迫られる始末だ。
 オオスバメのレイランはあっちこっちで翼を広げリボンを見せびらかしているし、ライボルトとグラエナの獣コンビが酒ですっかり出来上がってしまい気持ちよさそうにひっくり返った。失敗した、とアカリは思った。
 さらに、島の老女がアカリに追い討ちをかけた。
「トシが連れてきたっつー嫁さんはあんだか? んでー、式はいつかねェ」
 などと尋ねてきたものだからアカリは参ってしまった。
 そのような関係ではないと説明したものの、島の老人にはそのあたりのニュアンスがちっとも伝わらない。酒が入っていた所為もあるのだろうが。
「むがし使った衣装もあるでなァ、貸してやってもええぞい」
 などと言われ、アカリはただただ苦い愛想笑いを浮かべた。
 アカリが島の老女に手を焼いているその向かい側にはトシハルが座っている。時々島民達が、話しかけるが、心ここにあらずといった感じで生返事をするばかりだった。皿に盛り付けた精進落としの料理にはほとんど箸がつけられていない。置かれたグラスにも注がれるだけ注がれたままの黒糖焼酎がそのままになっていた。島の者が注いでもトシハルが飲まないから、いつまで経っても変わらなかった。
 神道の考えでは死は「穢(けが)れ」だ。それは表面的な不潔、不浄を意味しない。生命力が損なわれた状態、すなわち「気枯れ」と同義だ。死は悲しみによって人を気枯(けが)す。だからそれは穢れと呼ばれる。
 明らかに気を枯らしているトシハルは空を空しく見つめ、語らない。向かいに座るアカリは、ときどきそれをちらちらと見ていたが、彼女もかける言葉が見つからなかった。トシハルの隣でピジョットのダイズが心配そうに主の顔を覗き込んでいる。
 するとそこへ割って入る者があった。白髪の、けれどしっかりとした体格の老人だった。老人がトシハルの横へすっと座った。
「よおトシ、久しぶりじゃの」
 赤い顔をした男はやはり焼酎のグラスを片手に持っていた。
「あ、町長さん」
 トシハルは我に返ると向き直り、少しかしこまって挨拶をした。
 どうやらフゲイ島の集落、フゲイタウンを取り仕切る人物であるらしかった。
「これはどうも……ご無沙汰しております。昨日はろくにご挨拶も致しませんで」
 彼は急に日常に戻されたように言葉を発した。
「気にすることはなか。みんなおめェは来れんだろと諦めてたとこだったからよ。ほんまに帰ってこれていがったわ。母ちゃんと父ちゃんもひさびさに会ったから安心したべ」
「ええ、博士に顔を見せてから……結局ちゃんと顔を合わせたのは通夜祭の終わった後でしたけれど」
 トシハルはうつむき気味に言った。
「ん……そうか、そうか」
 町長はうんうんと何度も頷いた。
「んで、本題だがなぁ。実はお前に博士からの預かりモンがあってよ」
「え……。僕にですか」
 トシハルはにわかに顔を上げた。向かいからその様子を伺っていたアカリは料理をつつきつつ、彼らから注意を逸らさぬようにする。
「ニ、三年か前に渡されてたねん。ま、博士もだいぶ歳だったからの。いろいろ考えてたんだと思うわ」
 町長が続ける。トシハルに差し出されたのは丈夫そうな厚い紙で出来た小さな封筒だった。
 封筒には博士の印鑑で封がしてあった。表面に手書きで「継海俊晴殿」と書かれている。見覚えのある字。間違いなく博士の字だった。
「博士は預かれとだけ言ってきたが……まぁ、いわゆる遺言ってぇヤツだな。中身は知らん。わしは預かっただけだけん」
「博士が、僕に……?」
「まあ、博士の研究つってえも、扱いがわかるんはおめーだけだしの」
「……」
 トシハルは封筒を見つめたまま再びうつむいた。
 そんなことは無い、という気持ちがあった。島の人間は知らないのだ。この広く大きな世界には優秀な人間などいくらでもいるのだ。自分は特別などではない。あそこに自分が立っていたのはたまたまだ。
 何より自分は逃げ出した。博士の下から逃げ出した人間なのだ、と。
「そらおめーが島出て何年かはカントーやらジョウトやらの大学生ば受け入れとったがの。数年前にそれもやめちまった。ま、だいぶ歳だったしの」
 町長は続ける。ここ何年かはミズナギに頼んで船を出していたらしい。博士はたった一人で船の甲板に立ち、うきくじらを追っていたらしかった。
「まあ、とにかく渡すもんは渡したからよ」
 と、町長は言った。近いうちに開けて確認してくれ。あとはお前に任せるから、と。
 そうしてしばらくの間、世話話をすると町長は去っていった。
 トシハルはずいぶんの間、封筒に書かれていた名前を無言で見つめていた。が、やがてふらりと立ち上がりそっと直会の場を後にした。次いでピジョットが集まった黒い服の人々の間を縫うようにし、とことことくっついていくのが見えた。
「バク、あんたは適当に飲んでていいわ」
 アカリはテーブルに突っ伏してぐったりとしている鶏頭に告げる。この夏、激戦のリーグを勝ち抜き、駿足の猛火と恐れられたバシャーモと同じポケモンとは思えぬ泥酔ぶりだった。元々顔が赤いのでどの段階で酔いが回ったかもよくわからない。ただあまり強くはなさそうだと「おや」であるアカリは思った。
「悪いけどお守りをよろしく」
 情けない姿の鶏頭とは反対に、一升瓶二本を空にしてケロリとしているサーナイトにそう告げるとアカリも直会の場を後にする。集会場を出てそっと彼らの後をつけることにした。






少年の帰郷(10) / 目次 / 少年の帰郷(12)