13.

 少年の家にあるテレビは旧式だった。音が悪いし、よくノイズが走った。
 尤も少年は幼い頃はそれが当たり前だと思っていたので、気にも留めなかったのだが。
 あの頃の日曜朝は楽しみな時間だった。時間になると少年はテレビの前に正座待機した。毎週楽しみにしている番組があったから。
 進化戦隊ブイレンジャー。
 五人の男女が五色の戦士に変身し戦う戦隊活劇、特撮モノだ。数ある戦隊モノの中でも爆発的な人気になったシリーズで今はリメイク版が放送されている。
 炎を操る熱きブイレッド、水を操る麗しきブイシャワー、雷の戦士高速のブイサンダー――中でも少年が特に好きなのは漆黒の戦士ブイブラックだった。イーブイの進化系、ブラッキーをモチーフにしたブイブラックのクールな戦いに彼は夢中になった。

 むしゃ。
 アカリは朝食に出されたナスの漬物にかじりついた。出された味噌汁をすすり、白いご飯にパクつく。海風の心地よい畳敷きの和室、突然の来客にあてがわれた民宿の一室で彼女は朝食を摂っていた。
 同時に彼女は朝のテレビ番組を見る。トレーナーになってからというもの、彼女の曜日感覚は薄れていった。だが、それはテレビ番組によって補正されるようになっていた。朝に戦隊モノといえば日曜日に決まっている。それは地方によって異なるのだろうが、少なくともアカリの中ではそうだった。
 進化戦隊ブイレンジャー エボリューション。
 バックの激しい爆発と共にテレビに踊った題字にはそう書かれていた。アカリ自身はよく知らないが、かつての人気シリーズ、そのリメイクらしい。新たな戦士を二人加えて臨む意欲作だ。テーマソングが流れ、各色の戦士が決めポーズをとる。今日も悪の組織が何かを企み、怪人を送り込む。戦士達は協力しながらそれをやっつけるのが毎回のパターンだ。
 今週の敵はフーディンモチーフの怪人、フーディーニだ。化学教師に化けたフーディーニは頭をよくしてあげよう、ポケモンバトルも勝てるようになるなどと言い、体液から作った怪しげな薬と自作マシンで少年少女とそのポケモン達を洗脳していく、というものだった。強力な念力に苦戦する戦士達。だがそこにブイブラックが切り込んでフーディーニを真っ二つにした。ブラッキーの力を宿すブラックにエスパータイプの技は通用しない。炸裂する必殺技。激しい爆発音。怪人は跡形もなく消し飛んだ。エンディングのクレジットが流れ、次回予告。今週の放送はここで終わった。
 彼女はチャンネルを変更する。局番の若いチャンネルでは国営放送が天気予報を流していた。
「ホウエン地方は本日は朝昼共に晴れ模様でしょう……」
 と、国営放送は告げていた。続きがあったようだが、アカリはそこでテレビを切った。
「ごちそうさまでした」
 彼女は台所に食器を下げると、一旦部屋に戻りトレードマークの赤いバンダナを締めた。黄色いポーチを腰につけ、古ぼけたタイルを敷き詰めた玄関で靴にかかとを入れていると
「あら、アカリちゃんお出かけ?」
 と、声がかかる。旅館の女将だった。
「ええ。ちょっとそこまで」
 アカリは返事をする。
 島では色々な意味ですっかり有名人になってしまったアカリは島民達の注目の的だった。
 足を靴に押し込んでかかとを入れる。コンコンと地面を靴で叩いた。女将がにこにこしながらその様子を見守っていた。
「私にもねぇ、娘がいるのよ」と、白髪交じりの女将は言った。
「今は結婚してカイナシティにいるの。元気にしているかしらねぇ」
 そう言って女将は少し寂しそうに笑った。

 トシハルとの集合場所は港の船着場だった。
 日光が降り注ぐ民家の石垣の塀に囲まれた道を歩きながら、アカリは海の方向を目指す。五分ほど歩くと申し訳程度に舗装された道路があり、すぐ下は急な斜面、そして海だった。浅瀬にマングローブが自生しており、気根(きこん)を天に向け、伸ばしていた。
 道路を下るように歩く。ほどなくして船着場が見えてくる。待ち合わせの人物は、降り注ぐ太陽の下、大きな鳥ポケモンと共に、海の向こうを眺めていた。
「何か見えるの」
 アカリは尋ねる。
「300メートルくらい先かな。ホエルオーが一匹。それと50メートルくらい先にホエルコが二匹」
 と、トシハルは答えた。
「あ、今潮を吹いた」と、続けざまに彼は言った。
「…………」
 アカリはじっとその表情を観察していた。
 集合した彼らは海沿いに歩いて目的の場所を目指す。場所は言わずもがな、研究所だ。博士が何かを隠すとしたらまず真っ先に疑ってかかるべき場所はそこだった。鍵の先にあるものの正体を確かめるべく、彼らはその場所で、鍵に合う鍵穴を探すことになっていた。
 フゲイ島水生携帯獣研究所。蔓性の植物が繁茂し、花を咲かせている研究所の石垣の壁にはそう彫り込んだ看板が埋め込まれていた。建物自体はそう大きく無い。島の平均的な家庭くらいの大きさの建物だ。その昔、人が住んでいた民家を改造して作ったのだとトシハルは説明した。
 じゃらり、とトシハルはポケットから研究所の鍵を取り出す。博士が亡くなって以来、研究所はフゲイタウンで管理をしていたが、町長に事情を話すと快く研究所の鍵を貸してくれた。
 がちゃりと鍵が回った。扉を開く。もう踏み入れることが無いだろうと思っていたそこに、トシハルは足を踏み入れた。
「――…………」
 何か言いかけてトシハルは口をつぐんだ。
 暗い、それに蒸し暑い。雨戸までも閉め切っていたから中は蒸し暑く、暗かった。だから彼らが始めにやったことは雨戸を開き、窓を開いて、風と光を通すことだった。
 アカリはデスクのある研究室の窓を開いたし、トシハルは博士の寝室の窓を開けた。
 暑かったのか、毛布は仕舞われ、枕だけが無造作に転がっていた。もう一週間前ならば博士はここで寝息を立てていたはずだった。
 中に風が通り、光が満ち溢れたころに彼らは研究室に集合した。部屋の中心には大きなテーブルがあった。周辺海域の海図が広げられている。かつては毎日のように海から戻っては、データを整理したその部屋だ。隅にパソコンを置いたデスクとプリンターが並んでいた。
 トシハルが最初に驚いたのは研究室、そして隣のデータ置き場の整然とした整理のされ具合だった。トシハルが出入りしていた頃にあれほどあっちこっちに積み上がっていた書類や本は日付やテーマごとに皆フォルダや箱に収まり、ラックにきれいに並んでいる。床には紙の一枚だって落ちていなかった。あの乱雑で整理されていないかつての部屋とは思えない整頓のされ具合だ。
 ――博士、これから部屋の掃除はご自分でやってください。
 ――データの整理もご自分でやってください。僕はもうやりません。書類や計測機器がなくなっても僕はもう探しません。
 十年前の言葉が今更に突き刺さった。だが、博士は立派にやってみせていた。
 ああ、やっぱり僕など必要は無かったのだ。博士は元来一人でなんだって出来るのだ。トシハルは整頓された研究室を見ながらそう思った。
 天井にホエルオーのミニチュアモデルがぶら下がっている点は昔と変わらなかった。壁には島周辺の海図、そして船で海に出、撮影した何十枚ものホエルオー、ホエルコの写真が貼られ、個体番号がついていた。お別れの時に海から現れた192(イチク)番(ニ)の写真もそこにはあった。歯型がついた特徴的な尾鰭がはっきりと写し出されていた。
「これ、全部博士が?」
 アカリが尋ねる。
「三分の二はダイズかな。残りを博士と僕と半々ってところだったと思う」
 と、トシハルは答えた。
 そうして部屋の中をきょろきょろ見回すと、紐のついたカメラを持ってきた。
「ほら、ここを引っ張るとさ、ダイズが嘴で引っ張ってシャッター切れるんだ。揺れに強いカメラでね、飛んでてもブレないようになってる。だからいい写真はみんなダイズだよ。こいつ空飛べるからさ、反則アングルだろ?」
 首を傾げるピジョットを見ながらトシハルは説明した。博士が特注のカメラを頼んで、ダイズを訓練したのだと。カメラが重かったものだからポッポのうちはかなり苦労した。ピジョンに進化してからは苦にもしなかったけど、などとも説明した。
「こっちは?」
 今度はどこから引っ張り出したのか。アカリが大量の細長い濃い緑色のノートの箱を出し、テーブルに置いた。
「それはフィールドノート。海に出て、記録をとったり気が付いたことを書き留めるんだ」
 トシハルは答える。一冊を手にとってぱらぱらとめくった。様々な記録が博士の字で書き連ねてあった。定点観察の記録が記され、日付が添えられていた。さらに何冊かを手に取りページをめくる。見事に日付順に並んでいた。本来のデータに加え、その日に受けた印象やアイディアなどが事細かに書かれている。気が付くと夢中になってそれを読んでいた。来る日も来る日も碧い海にホエルオーを探す博士の姿が浮かんだ。
「トシハルさんのもあるのかしら」
 不意にアカリが尋ねてきて、彼はドキリとした。
「……どうだろう。もしかしたらデータ置き場の奥にあるかもしれない。博士が捨てていなければ、だけれど」
 トシハルは目を合わさない。自信がなさそうにそう答えた。
「……」
 アカリはしばしトシハルの横顔を見つめていたが、やがて
「まあいいわ。鍵の穴、探しましょう」
 と、言った。
 トシハルとアカリ、それにダイズ。アカリがモンスターボールから出した人型の二匹も加えて、彼らは鍵穴を捜索した。鶏頭が指を指したのは庭に放置された納屋、サーナイトが持ってきたのは錆びた工具を詰めた箱、ダイズが真っ先に確認したのは壁に掛けられた船のキーボックスだった。けれど、そのどれにも鍵はあてはまらなかった。机の引き出しにも鍵はあったけれど、そもそも鍵がかかってはいなかった。
 探してみれば鍵穴は意外と少ない。箪笥やロッカーを開け、隠された秘密の引き出しは無いかと書類の詰まったフォルダを下ろし、壁を見る。もちろんそんなものなど存在しなかった。
 ベッドの布団をひっくりかえし、下に潜って裏を覗いたし、風呂場やトイレなども見てみたが、そんなものはやっぱり無かった。
 まるで火事場泥棒の二人組とその手下達だった。きっと事情を知らない人が見たら、どこかの組織の工作員だと思われるのではないかとトシハルは思った。
 暑い。太陽が南に昇って窓から照りつける。この建物にある穴という穴を確認したが、鍵に合う穴はどこにもない。
「おちょくられてるんじゃないかしら……」
 汗をぬぐってアカリが言う。
「僕もそんな気がしてきたよ」
 下ろしたフォルダをラックに戻しながら、トシハルは同意した。額に汗が滲んでいた。
 そういえば、とパソコンをつける。パスワードは変わっていなかった。デスクトップ壁紙は案の定、ホエルオーの写真でダイズが撮影したベストショットだった。博士が何かの拍子で生き返ったならすぐに研究を再開できるくらいにファイルはよく整理されていた。けれど鍵穴に繋がるヒントは見られない。
「お昼にしようか」
 電源を落とし、汗をぬぐう。眼鏡を拭きながらトシハルは提案した。
「おいしいとこ、知ってるよ」

 研究所から徒歩十分。
 「大衆食堂 海風」という看板がかかった島の小さな食堂に彼らの姿はあった。
 座敷に上がり、二人と三匹がテーブルを囲った。
「ゴーヤチャンプルセット三つ。あと豆腐チャンプルのセットを二つ。それとサイコソーダ五つください。食前に」
 かつて馴染みの客だったトシハルをオーナーはよく覚えていた。はいはいと気前良く返事をすると、すぐによく冷えたサイコソーダを運んできてくれた。
 我先にとアカリとそのポケモン達が手を伸ばす。トシハルは別に渡された銀色のボールにソーダを注ぐ。ダイズがそこに顔を突っ込みごくごくと飲み始めた。多くの鳥ポケモンは水をすくって、顔を上げて飲み込むのだが、なぜかピジョットの系統はそれをしない。頭を突っ込んだまま文字通りごくごくと飲んでいく。トシハルは昔からそれが不思議だった。けれどもトシハルが大人になった今でも、そのメカニズムはよくわかっていない。
 携帯獣研究において何かの成果がある。それが文字やニュースになった時、研究が進んだという表現がしばしば使われる。たしかに研究は進んだ。けれどそれは昔よりはある部分が分かったということに過ぎない。ポケモンはわからないことが多い。調べることは尽きず、無くならない。
 ほどなくして皿に盛り付けたゴーヤチャンプルと豆腐チャンプルが運ばれてきた。バシャーモは器用に箸を使った。サーナイトはスプーンでそれをすくった。ダイズはそのまま皿をつつき始めた。
 懐かしい記憶が蘇る。船を乗り回し、海から戻ってきて、博士とよくこの店に通った。ダイズとトシハル、それに博士。二人と一羽はここでよく食事を摂った。博士はゴーヤより豆腐が入っているほうが好みで、よく注文していた。
 あれから時は流れ、自分は今ここでアカリたちと食事をとっている。ここの匂いも、涼しげな店の雰囲気も変わらないのに。いつからこんなに違ってしまったのだろうと思う。
 ゴーヤを一口、口に運んだ。ほのかな苦味だけは昔と変わらなかった。その正面で、アカリが白いご飯の茶碗を片手にパクパクと口に運んでいる。初めて食事を共にした時もその食欲に驚いたが、本当によく食べる子だと彼は思う。ポケモンリーグチャンピオンというものはエネルギーがいるのかもしれない。
「ねえトシハルさん、食べた後はどうするの」
 皿の上でわずかに残った卵のかかったゴーヤをつつきながら、アカリが言った。
「もうあそこに調べるところなんてなさそうだけれど」
「ううん、そうだなぁ」
 トシハルは手詰まり感たっぷりに口を濁した。
 調べていないといえば、船くらいか。ホエルオー程度の長さの博士所有の船。ミナモかカイナか、もう場所は忘れてしまったのだが、そこで売られていた中古のものを買い取ったと博士は言っていた。今のものは二代目だった。トシハルはもちろんその所在を確認している。朝に港で様子だけ見てきていたから。所有者はいなくなってしまったけれど、船そのものはまだしばらく現役で動きそうだった。
 だが……いいのだろうか、と思う。
「ねえ、博士は船持っていたのよね」
 ミズナギから聞いたのか。あるいはそう当たりをつけたのか、アカリが目ざとくそう言った。
「あ、ああ。持ってる」
 とっさにトシハルはそう返事をした。正直あまり気乗りしなかった。研究所もそうだったが、聖域を侵しているという気持ちがあった。自分は博士から研究所も、船も譲られなかった。それらの資産に関する言及は無く、それは自動的に町の管轄になった。譲られたのはよくわからない鍵、そして鍵で開けられるその中に入っているという本当にあるかどうかもわからないものだけだ。
 その自分が果たして、船にまで乗り込む資格があるのだろうか。トシハルは自問した。
「ね、トシハルさん、船は動かせるの」
 アカリはそんなトシハルの心持ちを察する様子も無く、無邪気に聞いてくる。本当に空気を読まない子だと彼は思った。
「……出来るけど。ここ十年以上触ってもいないよ」
「出来るのね?」
 アカリが追い討ちをかけるように言ってくる。
「まあ、」
 と、トシハルは苦々しく言った。
「じゃあ次は船ね。せっかくだからさ、クルージングしよ。私近くでホエルオー見たいな。島に来たときみたいに」
「…………」
 君はいつだって見れるじゃないか。持っているんだから。そう言いかけてトシハルはますます苦々しい雰囲気を醸し出した。
 けれど嫌だとは言えなかった。この少女にろくな説明もせずに島へ連れてきたことを思い出したからだった。本来の仕事とは関係の無いところに巻き込んでいる。たぶん少女は言ってるのだ。埋め合わせをしろ、と。
「そうだね……そうしようか」
 とトシハルは答えた。
 自分はこんなことをしてはいけないんだという気持ち。それを事情だからで誤魔化すことにした。いつだって流されている。自分で何一つ決断できやしない。するも、しないも、貫けない。
 研究所に戻る。町長から借りた研究所の鍵。それがかかる輪に引っ掛かっていたもう一つの鍵。それが研究所内にある船のキーボックスの鍵だった。かちりと開く。中には船のエンジンキーがかかっていた。
 研究所からエンジンキーを持ち出し、港に降りたったトシハルとダイズ、アカリとそのポケモン達は博士の船に乗り込んだ。
 まず彼らが行ったのは船内の捜索だった。鍵に見あう穴は無いかどうか。それを彼らは捜索した。甲板、デッキからは下に降りていき、寝室、シンク、配電盤……収納。けれども結局それは徒労に終わってしまった。狭い船内はさほど探す場所が見当たらなかった。
 ここもダメか。トシハルはますます訝しげに博士の遺した鍵を見つめた。
「トシハルさん」
 と、アカリが声を掛ける。
「何だい」
 と、不機嫌そうに返すトシハルにアカリは畳み掛ける。
「約束よ。クルージング」
 ふう、とため息をつくとトシハルは航海灯のスイッチを入れた。オイルの量を確認する。十分に入っているようだった。ギヤオイルも確認する。そうやっていくつかの航海前確認をすると、船をつないでいたロープを港から切り離した。エンジンキーを鍵穴に突っ込む。レバーを前に倒す。ブロロ……とエンジンが唸りを上げはじめた。
「アカリちゃん、危ないからきちんとつかまってて!」
 トシハルが叫んだ。
 揺れる水面を切り裂いて船が出発した。船が海水を跳ね上げる。操縦室の上に止まったダイズが目を細めた。船側面の手すりにつかまるアカリとバシャーモの髪が激しくなびき、サーナイトのスカートが風で大きくはためき、思わず彼女はそれを押さえた。
 船はみるみる速度を上げる。船着場から、島から遠ざかっていった。





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