14.

 ブロロ、とエンジン音が鳴り響き、船は波を切り裂き進んでいく。数日前まで現役だった船は、持ち主が世を去ったことによりよもや引退かと思われた。だから船自体も誰かの手でこうしてまた海を走ることになるとは思ってもいなかったかもしれない。
 天気がいい。波が日光を反射してあちこちでキラキラと輝いている。アカリが後方を見るともう島はかなり小さくなってしまっていた。来るときと逆だ、と彼女は思った。
「アカリちゃん、どう!? 何か見える!?」
 後方の操縦席からトシハルが声をかける。
「ううん、だめ! 海しか見えない」
 と、アカリは返した。見えるのは青い空、流れる雲。そして碧く広がり波を打つ海ばかりだった。
「ふうむ、もう少し進んでみよう」
 トシハルは応える。久しぶりに握る船の舵。それを掴む手の平に汗が滲んだ。心臓が高鳴っている。それをトシハルは感じていた。レバーをさらに前方に倒す。前方に注意しながら、彼は船を滑らせる。
 波を掻き分けしばらく南へ直進する。そして、トシハルは自分の視界の許す限りに注意を向ける。競争意識のようなものが働いた。船に乗って、海を見渡す少女はポケモンを扱うプロだ。だが、リーグで扱うほとんどは陸生のポケモン。彼女がホエルオーを持っているとは言え、水生ポケモン、それも野生ポケモンを見つけることに関する分はこちらにあるという気がしていた。負けない。負けるつもりは無い。そう思った。洋上にポケモンを探す訓練ならば、かつて飽きるほどにやっていたのだから。
 エンジンレバーを前倒しにしたまま船を進ませていく。バクバクと心臓が鳴り続けていた。まるで何かに目覚めるように。鳥にでもなったかのように見える視界が開いてゆく。それは劇的な感覚だった。ばたばたと身体に当たる風が血となり全身を駆け巡るように。
 十年の封印を破るように。
 波で船が揺れる、そのたびにトシハルの体が揺れる。船が揺れるその度に腹の底に沈めていた何かが浮かび上がってくるようだった。

「おい、ボウズ。何してる」
 かつて炎天下の港に佇む少年に初老の男が声をかけた。
「おじさん、誰?」
 島の少年はそう返した。彼は半分べそをかいている。今となっては友達と喧嘩をしたのか、はたまた母親に怒られたのかは定かではない。ただよく覚えているのは、逆光を背負うその男がえらく大きく見えたこと。それと声がなんだか怖いなぁと思ったことか。
 そうして「おじさん、誰?」という少年のその質問に男はこう答えたのだった。
「私か? 私はな、クジラ博士だ!」

「……」
 その男が近所に住んでいるカスタニという変人だと知ったのは家に帰ってからのことだ。なぜ変人なのかというと母親が変人だと言っていたからだ。「近所に住んでるカスタニって人、変わった人なのよ」と、言っていたからだ。だからトシハルの中でカスタニは変人だった。理由もなく変人だった。今は理由のある変人だと思う。
 それにしたってずいぶんな自己紹介だ。カスタニ博士は、カスタニとは名乗らず、クジラ博士と自ら言った。たぶん、島にやってきたときからそう言っていたんじゃないかと思う。カスタニ博士は決めていた。自らはクジラ博士である。そのように決めていたのではないか。今になってそう思う。

 大きな初老の男はしゃがみ、少年に目線を合わせると言った。
「ボウズ、お前名前は?」
「……トシハル」
「トシハルか。奇遇だな。私の下の名前にもなトシって文字がついているんだ。もしかしたら同じ漢字かもしれないな」
 そう言って博士は少年の頭を撫でた。
 そうしてクジラ博士は次に言ったのだ。
「トシハル、船に乗っていかないか。いいもの見せてやるよ」

 今トシハルは少女を乗せ、海を走っている。
 あの時に見た「いいもの」を少女と一緒に探している。

 クジラ博士に会って、船に乗せてもらった。
 そう夕食の席で告白したところ、母親は味噌汁を吹き出して、父親は喉に芋を詰まらせた。
 その場で「あの人おかしいのよ。近づいちゃダメよ!」などと言われた気がするのだが、少年は言うことを聞かなかった。博士のところに足茂く通うようになった。そうしているうちに母親は何も言わなくなった。
 何年か経って父が言うところによると「あの頃お前は友達いなかったからな。だから母さん、実は博士に感謝してんだよ」ということだった。
 そうだったろうか、と彼は首をかしげた。博士といる時間があまりに楽しかったから、そういうことはどうでもよくなった。忘れてしまったのかもしれなかった。

「ほう! もう見つけたか。お前は筋がいいぞ!」
 途端に博士の声が聞こえたような気がした。

 波影に混じって浮かんだ影をトシハルは見逃さなかった。
「アカリちゃん、いた! 南西方向! 350メートル! ホエルオー、ホエルコの混合群だ」
 とっさにトシハルは叫ぶ。東ばかりを向いていたアカリは反対の甲板に移った。トシハルがスピードを落とし、南西方向に船を傾ける。
 くじら達を脅かさないよう、ゆっくりと船は近寄っていき、50メートルほどまで距離が近づいた時点で、船を停めた。
「これ以上はね、こっちから近寄らないルールなんだ。向こうから近寄ってきた場合は別だけどね」
 操縦室にあった双眼鏡を手にとる。アカリに渡してやった。鶏頭が身を乗り出してその方向に目を凝らす。まるで成人女性のようなサーナイトもゆったりと構え、彼らのブローの様子を眺めていた。
「トシハルさん、あれは何番かしら」
 研究所の写真で見た個体識別のことをアカリが尋ねたので、トシハルは双眼鏡を受け取った。狭い視野から彼らの特徴を確認していく。
「ホエルオーは三匹、ホエルコは五匹いるね。たぶんだけど、一番小さいホエルオーがサンロック――369番じゃないかと思う。15年くらい前に進化したやつだ。一番大きいのは彼女の母親。中くらいのがその妹だよ。それぞれ260番、263番。ホエルコはちょっとわからない。やつら識別が付けづらいんだ。たぶんサンロックの子どもか何かじゃないかと思うんだけど……」
 すると369番が潮を吹き上げた。まるで正解だとでも言っているようだとアカリは思った。
「あ、こっちに来る」
 アカリが言った。バシャーモが髪を立て少しばかり身構える。ホエルオー達はゆったりと泳いで、30メートル程の地点まで近づくと、海に潜った。そうして船の下を潜り、50メートル離れたところでまた浮かび上がると去っていった。ピュイイッとピジョットが声を上げた。
「ダイズのカメラ、持ってくればよかったかな」
 トシハルは呟いた。そういえば、と彼は記録するものを持っていないことに気が付いた。かつて海に出るときはいつも持ち歩いていたのに。
 ポケットを探る。あったのは会社の携帯電話だけだった。これが今の習慣だった。いつかかってくるかもわからないから常に持ち歩いているのだ。無論、この場所は圏外だったのだが、習慣とはそういうものだった。
「…………」
 その瞬間に彼は現実に引き戻された気がした。
 強い海風が吹く。頭を冷やせというように。風に混じって自らの声がしたのを彼は聞いた。
 ――こんな所で何をやってる。お前はもう余所者なんだ。
 ――ここで一回記録をとったから何になる。
 ――さっさと気付け。お前はもうとっくの昔に愛想を尽かされた。見捨てられた。早く気づけ。
 ――お前が捨てたんだ。おまえ自身が選んだのだ。
 びゅうびゅうという音に混じるその声を確かに聞いた。
 あれだけ早くなった鼓動。それがいつの間にか元に戻っている。
「……戻ろうか」
 と、トシハルはアカリに言った。
「もう?」
 アカリは不満そうに声を上げた。せっかくいい感じなのに、と彼女は言いたげだった。
「いや別にもう少し走ってもいいけどさ。日暮れまでは時間があるし」
「じゃあ、もう少し。それに……」
「それに、何?」
「昔はよくこうしてたんでしょう。そうしたら何か思い出すかもしれないじゃない」
「思い出す?」
 トシハルは呆けた返事をする。
 もーう、鈍いわねーという感じで、アカリはつかつかと近寄って来て顔を近づけると言った。
「か・ぎ・よ。鍵穴のヒントよ。元々それを探しに来たんでしょ。何か忘れてることがあるのかも。こうしていれば思い出すかもしれないじゃない」
「……、…………」
 トシハルは一瞬黙りこくった。
 それでは何か。この少女は己の楽しみのためでなく、今、目の前で話している相手の為に、ツグミトシハルの為に船を出させたとでも言うのだろうか。
「……思い出せるわけないじゃないか」
 歯と歯の間から、言葉が漏れた。
「もう僕は昔の習慣も忘れちゃってるんだ。思い出せるわけない。だいたい鍵穴なんてはじめからなかったんじゃないのか。あのとき君だって言ったろ? 博士に担がれてんだよ。鍵穴なんて無いんだよ! 最初から無いんだよ!」
 風が吹きすさんでいた。寒い、とトシハルは思う。寒い。ここから去れと言っている様に海は寒かった。もう海は自分のフィールドじゃあない。自分は海から歓迎されてなどいない。
「諦めるの?」
「諦めるも何も、最初から……」
 船が揺れている。絶えず動き続ける海。揺れているのは波か、船か。それとも。
「……意気地なし」
 アカリが言った。
「貴方はそうやっていつも逃げてるのよ。本当は怖いんだわ。確かめるのが怖いんだわ。博士から絶縁状突きつけられるのが怖いんだわ。博士はもう海の底だっていうのに、いまだに博士の影に怯えてる」
「君に言われたくないよ」
 トシハルが返す。こうなるともう売り言葉に買い言葉だった。
「君に言われたくないよ! 君だって逃げてきたじゃないか! 君達の世界から。トレーナーの世界から! 君のパパがどれだけ有名かなんて僕は知らないがな、君だって逃げてきたじゃないか! 君に言われたくない……君に…………」
 そこまで言って、しまったと彼は思った。頭に血が上った、と。けれどたぶんそれはその言葉が的を得ていたからで。でも返してはいけなかった。同じ言葉を返してはいけなかった。
 目の前で少女がうつむいている。その後ろで、バシャーモとサーナイトが睨み付けていた。
「……ごめん」
 うつむいてトシハルが言う。
 最低な気分だった。あまつさえ年下の女の子に当り散らすなんて。だが、
「……いいわよ。本当のことだもの」
 と、アカリは言った。
「確かにあなたの言うようにしばらくあっちには戻りたくない。でもね、私、トレーナーであることはやめない。やめないわよ」
 自分の手持ちポケモンより小さな体から少女は声を張り上げた。
 まるで自分を奮い立たせるように少女は言った。
「たしかに私は逃げ出したわ。今立っている場所が嫌で嫌で、逃げてきたの。でも、それでも資格が無いとは思わない」
 ずっと考え続けていた。島までの航路の間、ずっと。島についてからもずっと。
 一人のトレーナーとしての、自分の行き先を。
 そうしてたどり着いたのはシンプルな答えだった。
「だって私、ポケモンが好きだもの。バトルだって好きだもの。ドキドキするもの! だから私はトレーナーでいられると思う。どこにいても、どこに行ってもトレーナーであることをやめないと思う」
 叫びが矢になって放たれた。それがトシハルに突き刺さる。
 ああ、この子はなんて瑞々しいのだろう――なんて強いのだろう。トシハルは思う。
「だからトシハルさん、一つだけ聞かせて」
「何だい」
「あなた本当に、島を出て行きたかったの? ホエルオーの研究も嫌々やっていたわけ?」
 ドキリとした。少女の放った無数の矢。その一本が的の中心を射た気がした。
 鈍い痛みが胸を刺した。深く深く突き刺した。
 それはたぶん向き合う恐怖に抗う痛みだ。本当の気持ちと向き合う恐怖。矢を放ち追ってきた狩人を目の前にして彼は寒気を覚えた。
 捕まる。捕まえられて、毛皮をはがれ、丸裸にされてしまう。
「どうしてそんなこと聞くんだい」
 トシハルは尋ねる。声は震えていたように思う。
 はぐらかそうとした。刺さった矢を抜かなくては。けれど矢を抜いたなら、きっと傷口からは血が吹き出すだろう。
「どうなの?」
「……そうだよ。僕はもう研究なんてしたくなかった。こんな島早く逃げ出したかった」
 そう言って矢を抜こうとした。
 けれど抜く前に矢がぼきりと折れ、矢は抜けなかった。矢じりは体に埋まったまま残された。
「嘘つき」
 アカリの声が聞こえた。言葉という水が堤防を破って溢れ出す。
「嘘つき。嘘つき……嘘つき!! 貴方って本当に嘘つきだわ。それが本当なら、待ち合わせ場所でホエルオーを探したりなんかしない。研究室でノートを読み返したりしない。私より早くホエルオーを見つけて、それが誰か見分けたりしない!」
 洋上に声が響き渡った。誰も見ていないなら耳を塞ぎたかった。痛い。胸に残った矢じりからじりじりと痛みがこみ上げてきた。
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
 半ば投げやりな言葉を返すのがせいぜいだった。
 見えぬ傷口を押さえる。血が滲んでいる。
「僕は博士から、研究所も、船も譲られなかった。とどのつまりはそういうことだろ。それが答えだろ」
「それは違う。研究所が無いなら作ればいい。船だって手に入れればいいじゃない」
 少女は反論する。
「博士は僕を許さないだろう」
「許してくれなくたっていいじゃない」
「僕には資格なんて無い」
「そんなもの、初めからないじゃない!」
「…………」
 トシハルはそこでしばし押し黙った。
 痛む胸に去来したのは博士のことだった。
 ああ、そうだ。資格など初めから無かったのだ。そもそもカスタニ博士が島に来た時からそんなものは無かったのだと。別に博士は誰かに資格を与えられたわけではなかった。ただホエルオーが知りたい。それだけの為にこんな辺鄙なところにやってきて、自らをクジラ博士と名乗った。船を買い、研究所を建てた。変人と言われて、嘲笑と好奇の目を向けられても、クジラ博士であり続けた。
 強い人だ。本当に強い人だと、そう思う。
「……僕は強くない」
 トシハルは続けた。
「……僕は博士のようにはなれない」
 博士のようにはなれない。あの人のように立派には出来ない。僕には出来ない。
 かつて少年は博士のようになれると思っていた。このままこうしていれば博士になれる、と。そう信じて疑わなかった。けれど少年は知ってしまった。
「僕は博士には、なれない」
 繰り返すように。強調するように言った。アカリは言えない。博士になればいいじゃない、とは言えないはずだ。
「そんなの、当たり前じゃない」
「……え」
「だってあなたは博士じゃないもの」
 今更何を言ってるのよ、とアカリは言った。
「………………」
 トシハルは目を見開いて、まじまじとアカリの顔を見る。
 言葉の綾にひっかかったような、揚げ足をとられたような、ヴェニスの商人に出てくるという金貸しを演じているような気分になった。
「そう、か……」
 と、それだけトシハルは言って、そして黙った。
 海を見る。心を落ち着かせて、言葉を咀嚼した。
 悩みに悩んでいると突然に天から啓示があることがある。わからなかった数式の解法が突如降ってきたような感覚、あるいは絡まった糸がほどけたような感覚。解いてみればなんでもない。複雑なように見えたそれはただの一本の糸だった。
「…………うん、そうだな……」
 ぼそりと呟いた。君の言う通りかもしれない、と。
「いや、初めからだ。初めからそうだったんだ」
 そうだ、そうなのだ。と、トシハルは妙な感覚に捉われた。
 何をこだわっていたのだろう、と。そんなこと前からわかっていたことのはずだ。今更だ。本当に今更だった。
 いや、待っていたのかもしれない。
 もう船は出されていて。自分の気持ちはとうに向こう岸についていて。
 ずっとずっと、誰かがそう言ってくれるのを待っていたのかもしれない。
 貴方はもう立っているじゃない。望む場所に立っているじゃない、と。
「それに私ね、トシハルさんが弱い人だとは思わない」
「どうして?」
「誰かから離れるってことは、自由になるってことはさ、もうその誰かには助けてもらえないってことだから」
「…………」
「貴方にとって、博士がどれだけ大きいか、わかってるつもりよ。私にとってはたぶんパパがそうだから。だから、たぶん……だからこそ貴方は、博士から自由になろうとしたんだと思う。博士の名前のしがらみから。それで島を出ていった。私がそうしたように」
 一呼吸を置く。雲の流れる空をニ、三の大きな海鳥が通り過ぎてゆく。あの独特のフォルムはペリッパーだろうか。
「トシハルさん貴方、バカだわ」
 ばっさりと切り捨てるようにアカリは言った。
「極端とも言うわね。博士から逃れるために好きだったことまで何もかも全部仕舞い込んじゃった。そんな必要なかったのに」
 トシハルは十年を振り返る。
 思えばポケモンとは関わらぬ職業につき、コンテストにもリーグにも関心を向けなかった。否、向けないようにしていた。感情に蓋をした。
 触れる資格が無い。逃げ出した自分には資格が無い、そう思って。
 ……思い込んで?
「僕は……」
 トシハルは洋上の船の上でつたない声を発した。
 彼の視界いっぱいに水平線が広がっている。空と海。青と碧。
 それらに彼は問いかけた。

 僕は。
 僕は、望んでもいいんだろうか。

 やり直してもいいのだろうか。
 それは許されることなのだろうか。
 無いものは手に入れていけばいいだろうか。
 それでいいのだろうか。

 青と碧は答えない。
 空はただ淡々と雲を流していく。海はただ波を起こして、船を揺らし、船体を叩いている。眠っている子どもを起こすように、太鼓のように叩いている。
 空と海は答えない。けれども決して否定もしない。
 胸に刺さった矢じりは抜けないままで、まだ痛みがあるけれど、いつの間にか風は穏やかになっていた。
「そういえば朝見たテレビでね、戦隊ヒーローが言ってたわ」
 しばし黙っていたアカリが口を開き、言った。
「何て?」
「望むものは与えられるものじゃない。自分の力で手に入れろって。黒いのがカッコつけて言ってた」
 子ども番組って意外と侮れないわよね、と続ける。
「もしかしてそれ、ブイブラック?」
 トシハルは咄嗟にピンときて、尋ねる。
「そう、それよ。トシハルさんも見てたの?」
 意外だわ、と言いたげにアカリは返した。
「いや、今朝は見てはいないけど、昔見てたから。君と会った日にリメイクされてるってたまたま知って。だからそれかな、と」
 そうだ、たしか昔の放送にそんなものがあった、とトシハルは思い出していた。
 いつもバトルに負けてばかりの男の子は、怪人フーディーニの薬で頭脳明晰なトレーナーになる。けれどかわりに洗脳され、悪さばかりするようになってしまった。町中に洗脳を広げる怪人をブラックがやっつける。そうして洗脳が解け、我に返った少年少女達にブラックは言ったのだ。
 望むものは自ら手に入れろ、と。
「ブイブラックかっこいいよな。クールでさ。僕はブイレンジャーの中じゃブラックが一番好きだったんだ。でもね……ごめんアカリちゃん」
 トシハルは申し訳なさそうに言った。
「へ?」
「そいつ、裏切り者。最終回の五回くらい前で敵のスパイだってわかるんだ」
「…………え。ええ!?」
「僕ァ、ショックだったな。一週間くらいは立ち直れなかったよ」
 そう、ブラックには秘密があった。ブラックは敵の送り込んだスパイだった。ブラックの暗躍によって、戦士達の組織は壊滅的な打撃を受けたのだ。
 懐かしい日のことをトシハルは笑いながら語った。今だからこそ笑って言えるけれど、当時は大真面目だった。最終回でブラックと仲のよかったブイパープルが彼を許すけれど、トシハルはどうしても納得がいかなかった。
 なんであんな奴を許すの? 裏切り者なんだよ。奴は裏切り者なんだ、悪い奴なんだ。
 許しちゃいけないんだ。絶対に許しちゃいけないんだ。
 そんなことを一生懸命に博士に訴えた気がする。思いの丈をぶつけた気がする。ブラックが好きだったからこそショックでショックで仕方なかった。
「博士に言われたよ。お前は変なところで真面目だよなぁって」
 トシハルは苦笑いを浮かべた。
「続き、行こうか」
 トシハルは再び操縦席に立つ。再びエンジンレバーを握り、前後左右を確認しようとした。
「ん?」
 そこでトシハルは声を上げた。アカリのバシャーモにサーナイト、そしてダイズまでもが皆同じ方向を向いて、視線を集中させていたからだった。そうして気が付いた。進行方向の右側。南西の方向に巨大な影が浮かんでいることに。
 どくん、と心臓が高鳴った。
 近い。しかも大きい。相当に大きい。
 それは、ざばぁと音を立て水面に姿を現した。横半身を見せて、頭から始まり上半身、下半身を見せて反ってみせる。最後に巨大な尾鰭が見えて飛沫を上げ、海に潜った。
「アカリちゃん!」
「わかってる」
 エンジンを前に倒すのをやめ、トシハルは急ぎ、船の先端へ走った。
 双眼鏡を受け取る。時間を経て再び浮かんできたうきくじら。その特徴をくまなく確認する。
「何番?」
 とアカリが尋ねた。
「……わからない」
「わからない?」
 トシハルの答えに彼女は訝しげな声を上げた。
「見たことが無い個体だよ。普段はもっと外洋にいるのかも……」
「大きいわね」
「ああ、大きい。何メートルくらいだろう」
 観察個体が去っていく様子は無い。うきくじらはまた、海面にわずかにその姿を見せた。頭から潮を吹く。今度はぷかりと浮かび上がり、その上半身が姿を現す。まるで島が姿を現したようだ。くじらの背中から水が落ちて引いてゆく。
「22、23…………いや……25メートルはあるんじゃないか?」
 トシハルは船から落ちそうなほどに身を乗り出して、その姿を目で追った。
「すごい! こいつは大物だよ。下手すれば記録上一ば…………」
 そう言い掛けて、彼は言葉を飲み込んだ。
 身体の中でカチリ、と音がした気がした。
「……いや……違う。こいつは二番目だ。だって一番は………」
 次いで、ドボンと海に何かが落ちるような鈍い音がした気がした。頑丈な南京錠がはずれて水の中に落ちたような音だった。
 双眼鏡を目から外す。アカリと目があった。トシハルは突如冷水をかけられたかのような顔をしていた。
「どうしたの?」
「……思い出した」
「何を」
「博士縁(ゆかり)の場所だよ。……もう一つ。もう一つだけある」
 トシハルの中に遠い日の、暑い日の記憶が蘇った。鮮やかに、鮮やかに蘇った。
 まるでタイミングを待っていたかのようだった。
 島を出たあの時に思いを封じてしまったからだろうか。だから、いつのまにか仕舞いこんで鍵をかけてしまったのかもしれなかった。
 馬鹿な話だとトシハルは思った。
 どうして忘れていたんだろう。あれほど強烈なことを、どうして忘れてたんだろう。
 不意にホエルオーと目があった。その巨大なホエルオーはもう一度体を反らすと海に入り、ゆっくりと去っていった。まるで用事は済んだ、と云わんばかりに尾鰭で海面を叩くと、悠々と泳ぎ去っていった。
 
「おうい、ミズナギさん」
 海がオレンジ色に染まりかけていた。所用で港にやってきたミズナギに、体格のいい老人が声をかける。
「あ、これはどうも」
 振り向いてミズナギが挨拶をすると
「トシば見かけんがったか」
 と、町長は尋ねた。
「さあ、今日はお会いしていないですね。たぶんアカリさんと一緒なのかと思いますが」
「いやそれがな、研究所で探し物があるからっつうんで鍵貸してやったんだが、戻らんのだわ。研究所にもおらんしのー」
 ふーむ、困ったというように顎を指で挟み、町長は首をかしげる。
 そんな町長の様子をミズナギはしばらく見ていたがやがて思いついたように言った。
「ああもしかしたらその鍵、もう一つ別の鍵がついていませんでしたか」
「おう、ついてたぞ」
「じゃあきっとそれです」
 ミズナギは町長を連れ、小型船舶の並ぶ船着場を歩いていく。そうして一つだけ船の抜けた箇所を発見した。
「ほら。博士の船がなくなってる」
 ミズナギが言った。ぽっかりと空いたその場所で、海面がゆらゆらと揺れている。
「はーそういうことか」
 町長もやっと状況を把握したらしく、納得したように声を上げた。
「アカリさんも一緒かな。彼女も今日見ていませんし」
 ミズナギが付け加える。
「何。てーと、トシはあのめんこい子とクルージングか。やりおるの」
 ふむふむと町長は唸った。
「まあ別にそういうのではないと思いますけど」
 ミズナギはフォローを入れたが、町長が聞いているかどうかはわからなかった。
「しかしちょっと困ったことになりましたね」
「困る? 何がだ」
「町長、天気予報見なかったんですか。今日の天気、昼間は晴れですけれど、夜から降るって言ってましたよ。風も強いって言うし海が荒れないといいのですが」
「いぐらなんでもそれまでには戻るべ」
「まあ、それはそうですけれど。でもトシハル君って島育ちのわりに天気に疎いから。昔遭難したことあったじゃないですか。台風に巻き込まれて」
 それに運転だって久しぶりだろうに。
 ミズナギは心配そうに水平線に目をやった。

 エンジンが最大の唸りを上げる。波を切り裂き飛沫を上げながら船は一直線に走っていく。
 エンジンレバーを最大に傾けて、トシハルは南へ急いだ。
「どこに行くの!?」
 操縦席の横で船の揺れと格闘しながら、アカリが尋ねる。
「沖ノ島だよ」
「沖ノ島?」
「フゲイタウン管轄の離れ小島でね、南にあるんだ。無人島だから島の人間もめったに行かないけれど」
 興奮した様子でトシハルは言った。
「そこに何かあるの」
 アカリは続けざまに尋ねる。懸命に髪を抑えていた。船のスピードによる強風。両脇に伸ばした前髪が激しくたなびいている。
「そうだ。あそこにはヤツがいる」
「ヤツ?」
「ホエルオーだよ。フゲイ島周辺海域の観察史上最も巨大なホエルオーだ」
 トシハルは前方に目を凝らしながら、続けた。
 ホエルオーの名は、島(しま)鯨(くじら)。
 番号でない、特別な個体。
 浮鯨神社の神様の名にちなんで僕達はその個体をそう呼んでいる、と。
 波を裂きながら船は走り続ける。
 やがて、太陽が西に沈み始め、海が、空が、水平線がオレンジに染まり始めた。同時に海を漂う空気が湿気を帯びてくる。
 だが、船は引き返す様子が無い。ただ真っ直ぐ一直線に南へ向かい走っていった。





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